日本人だけが知らない名演奏   
        / ベートーヴェン 後期弦楽四重奏曲集

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 日本でだけ人気があるものと、日本でだけ人気がないものと。それがわかると何かが透けて見えるような気もしますが、前者は考えないことにするとして、後者は スパイシーな食べものと東京クァルテット、でしょうか。クミンとローズマリーに目がない者としては、この事態 は放っておけません。

 輪廻する魂というものがあるならそこに国籍はないで しょうから、同胞のよしみで日本の演奏家を持ち上げる気にはなれません。世界的に有名な演奏家でも好き になれない人はいます。減点法では高得点でも特徴がなかったり、模範から外れないようにと固まってるような音楽をわざわざ楽し みのために聞こうとは思いません。私が弾けるわけではありませんが、残念ながらご同郷の音楽家の中にはそういう 風に感じてしまう人たちもいます。単にスパイスが抜けてしまった料理ということではなく、音楽教育のあり方が問 題なのか、もっと大 きなことなのか。
 しかし 常に例外というものは存在します。東京クァルテット(カルテット)彼らの演奏をひいき目に見てあげる必要はまっ たくありません。自分 の声を失った演奏とは対極にあります。大声 では語らないものの、彼らにしかない特徴とバランスを持った圧倒的に美しい演奏です。力まず、何気ないフレーズを 弾いているときも自らと対話しながら進めて行く自発性があります。そして何よりもびっくりしたのは、深く集 中しているときに、 楽しんでいることです。

 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲は全 部で16曲あり、作品18の 6曲が初期の作品、7番から9番のラズモフスキー四重奏曲と、10番「ハープ」、11番「セリオーソ」まで が中期、そして12 番から16番までが後期の四重奏と分類され、レコードやCDも概ねその三つがそれぞれセットになって売られ てきました。今回とりあげる後期の作品は、第九交響曲作曲後のベートーヴェンが生涯で最後に取り組んだもので、スピリチュアル な意味で彼の到達点だとされます。演奏家にとっては最大に気合の入る作品群ということになるでしょう。



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       Barylli Quartet

 わが国で長い間定番とされてきたレ コード(CD)の演奏は二つあったようです。主に誰が推薦してきたのかは知りませんが、一部正反対のブダペストを推す人もある中、最初 はワル ター・バリリ率いるウィーンのバ リリ四重奏団の流れるような演奏が安定して高い評価を得ていました。ウィーンらしいおっ とりとした柔らかい音で、後年のアルバン・ベルク四重奏団の鋭さとは違った伝統の良さを味わわせてくれるものです。ウェストミ ンスター・レーベルから出た録音はモノラルながら音の良いものですので、特にハープや14番、16 番などは私もよく棚から引っぱり出していました。



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       Smetana Quartet   Supraphon

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       Smetana Quartet   Denon

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       Suske-Quartett Berlin

   その次にはスメタナ四重奏団が長い間定番の地位に着きました。最初に触れたテーマに戻りそう で すが、このチェコの四重奏団は実力があるながら、とくに日本でだけ非常に高く評価されてきたところがあります。ギャラが 安いこともあるのでしょうが、東側の演奏家に日本人は温かい目を向けてきたようで す。カール・ズスケ率いるベルリン弦楽四重奏団の 良さもよく取り上げられていまし た。日本先行発売だとか、日本独自市場だとかいわれるものにありがたみは感じないのですが、スメタナ四重 奏団についてはやはり優れた演奏だと思います。ただし録音時期によってその演奏スタイルにも変化があったようで、後年 日本企画で録音されたシリーズのいくつかには、角が取れて丸くなったものもあったように思います。チェコ・ スプラフォンのアナログ録音時代のものは良い意味で鋭さがあり、チェコ人らしいのかどうかわかりませんが、誠実さも加わってワ ン・アンド・オンリーの存在感があります。



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   Alban Berg Quartet

 その後新たな定番とされたのがウィーン・アルバンベルク四重奏団で しょう。デビュー後に人気が出てきた頃はその新しさが大変話題になっていた記憶があります。ピアニスト のグルダ同様それまでのウィーンの保守性に反旗を翻し、鋭く追い込んた表現が魅力的でした。アンサンブルは文句のつけようがありません



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   Takacs Quartet  

 それ以外では海外でですが、イギリ スのリンゼイ四重奏団が 賞をとって一部で話題になったようです。この四重奏団は生でも聞きましたが、乗らないうちはやや散漫な運 びだったりもするものの、白熱してくると感動的でした。
 最近ではハンガ リーのタカーチ四重奏団が 内外でまた新たな定番として扱われ、人気を博しているようです。独特の癖のあるフレージングとテンポの自在さが あり、ちょっと土くささのある表現です。



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     Beethoven    The Late Quartets    Tokyo Quartet  '90 / '91 ♥♥

ベートーヴェン / 後期弦楽四重奏曲集 / 東京クァルテット ♥♥
 さて、東京クァルテット に戻りましょう。ここでご紹介するのは最新の録音ではなく、ひとつ前のメンバーによる演奏です。81年からの第1ヴァイオリンはピーター・ウンジャン(2代目)。英国王立音楽大学で学んだ後ジュリアード音楽院へ進み、パールマンらに師事していますが、腱鞘炎から現在は指揮 者へと転向してしまったようです。第2ヴァイオリンは74年に参加した池田菊(2代目)。ヴィオラとチェロが69年の創設時からのメン バーでそれぞれ、磯村和英と原田禎夫で あり、録音は90/91年です。日本人の三人は桐朋学園卒業後ジュリーアド音学院で学んだ人たちです。この四重奏団 は東京クァルテットという名ではあっても主にアメリカを本拠地にして活動してきました。結成時のメンバーではミュン ヘン国際コンクールで優勝しています。このCDの 後でメンバーが変わってからもベートーヴェンの四重奏が再録音されましたが、新しい方の演奏はより抑揚が大きく情熱 的になり、アルバン・ベルクその他のダイナミックな表現に寄ってきているようで、国際標準的には進化したのかもしれ ません。それはそれで素晴らしいですが、個人的にはこのRCA時代の録音は他に代えがたい魅力があるように感じま す。

 第1ヴァイオリンのピーター・ウンジャンはカナダの人ですが、ライナーノートによると父親 がこのヴェートーヴェンの後期四重奏のレコードをほとんど毎日夕方になると家でかけていたそうで、6、7歳にして好 きな曲はというと「ピー ターと狼」ではなく、第12番の四重奏の第二楽章だったとか。そんな影響がこの演奏にも表れているのかどうか、誰が何を持ち込んで、どう啓発し合っている のかはわかりませんが、結果として他の演奏ではめったに聞けないような種類のベートーヴェンが味わえます。リーダー 主導型なのか、平等に啓発し合う最近のクァルテットのタイプなのかといったことは演奏家なら色々感じるところがある でしょう。ただ、全員が信頼し合って完全に息を合わせなければ、こういう優れた演奏は出てこないのも間違いないで しょう。彼らはベートーヴェンのこれらの四重奏曲でもあらゆる解釈の可能性を実際に弾いて試し、納得の上で採用して いるようです。

 どの曲の演奏も完成度が高いですが、個人的に好きな14番から16番の四重奏は素晴らしいです。それから、15番 (Op.132)の第三楽章はベートーヴェンの感謝の歌で、祈りとも回想ともとれる浄化された音楽です。第一楽章完 成後に腸炎にかかったらしく、生死をさまよった後に回復してこの部分を作曲しました。「病より癒えたる者の神への聖 なる感謝の歌」と題され ています。ここの部分はスメタナ弦楽四重奏団のスプラフォンの録音が気に入っていました。ややオン・マイクで第1 ヴァイオリンの弓の擦れる音がまるで自分が弾いているみたいに近く、松脂の粉が見えるような録音でした。音色は艶や かというよりはややかすれぎみの艶消しの音でしたが、きっぱりとして情感深く、これ以外の演奏は不要だと思うほど気 に入っ ていました。しかし東京クァルテットにはまた別の味わいがあります。スメタナほど決然として感情を高ぶらせるものではなく、すべての音があるべきところに ある穏やかさが美しいのです。
 
 14番(Op.131)はベートーヴェン の到達した最高点だと言われることがあります。この後不思議な軽い魅力のある小規模な16番が作られたのみで、事実 上最後の曲です。作曲家自ら依頼なしに作曲したもので、死の直前のシューベルトが「これ以上何が書けるのか」と激賞 したとも言われます。東京クァルテットはこの曲の最高の演奏です。ライブでもないのにライブ以上に乗っており、力ま ずに最大の集中力を見せ ます。この深み、他にあったでしょうか? 歴史的名演と比較するならば、昔のブッシュ四重奏団のように力を込め、圧してくるような熱演とは違います。どち らかというと滑らかなバリリ四重奏団の運びに近いと言えるのかもしれませんが、バリリがそうというわけではないもの の、調子の良い上滑り感はなく、何でも美しくなる釉薬はかかっていないようです。そして大変力がありながらやかまし くありません。こうした比 較はあまり意味を成しませんが、ともかくこの四重奏団、ベー トーヴェン晩年の重たくなる傾向をあまり感じさせず、それでいて独特の境地を澄みきった中に伝えてきます。

 16番(Op.135)はこ の作曲家の最後の作品であり、突き抜けた明るさが別れを感じさせる不思議な魅力のある曲です。ベートーヴェンは、終 楽章の 楽譜の導入部に「そうであらねばならぬか?」と、第1主題に「そうであらねばならぬ」と書き込んでいます。 また「やっとついた決心」という言葉もあり、この謎めいた書き込みを哲学 的に解釈する説や、家政婦とのお金の貸し借りに関することだと解釈する説があるようです。でも、わざわざお金のこと を楽譜に書くものでしょうか。
 演奏についてですが、モーツァルト最後のプロシア王セットの四重奏と同様、あま り力を込められるのはこの曲の性質上ふさわしくないと思います。そのせいか、これなど案外前述のバリリ四重奏団 の演 奏が気に入っていて、古いモノラ ルの音質をいじってお気に入り盤を作成していたぐらいなのですが、東京クァルテットの演奏に接して事態が変わりました。ベートーヴェン絶筆のこの曲こそ、 彼らの演奏の質に合っていると感じます。

 録音も優れています。スメ タナのも のはオンでやや乾いた音ながら響きがあり、アルバン・ベルクのものは柔らかいながら中域の張った圧力感のある音にと れていま したが、この東京クァルテットのRCAの録音は柔らかさと低域の豊かさがありながら、倍音の繊細さと艶も美しく収 録されて います。残響の乗りもたっぷりして心地よく、生っぽさがあって理想的な音響です。

 自国のものなら何でも良く 見える人 が多いなかで、日本でだけ人気がない、そんな事態はなぜ起きるのでしょう。甘ったるくもなく大仰な盛りつけでも なく、脂と塩辛さとアミノ酸でごまかしもしない料理は数々賞 も取ってきたのですが。食べ物ではスパイスがだめでも、音楽はス パイスでごまかさないとだめなのか な。


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