再発見のドイツ・レクイエム
ブラームス「ドイツ・レクイエム」op.45

   germanrequiem

全く別の曲に聞こえた」。良い演奏に接したとき、よくこんな表現を使います。魅力的だと思わなかった楽節が魅力的に聞こえ、本当はこんなにいい曲だったのかと再認識させられるのです。クラシックのCDは同じ曲を時代も国も異なる様々な演奏者が演奏しているわけですから、他のジャンルの音楽から見れば酔狂なことに思われるでしょう。しかしこの再認識体験こそがこの分野の愛好家の最大の喜びかもしれません。

 ブラームスの「ドイツ・レクイエム」は、個人的な話で申し訳ないのですが、ベートーヴェンのミサ・ソレムニスと並んで長い間、好きなようでそうでないような曲でした。何度も聞いているので進行は分かっているものの、 美しいと思うのはいつも最初の楽章だけであり、途中の盛り上がる部分など、この作曲家独特のぶ厚く重ねたような重さが感じられます。こちらの理解力を棚に上げて言うけれども、なかなか本来の美しさが味わい難い曲なのではないでしょうか。

「ドイツ・レクイエム」という名前は、ドイツ語で歌われるからそう呼ばれています。「死者のためのミサ曲」であるレクイエムという形式は、一般的なミサ曲と並んでカトリックの典礼音楽です。カトリックの本拠地はローマなので、それらはラテン語で歌われます。ド イツ人は宗教改革のマルティン・ルター以降、プロテスタントの徒ですから、バッハはドイツ語の受難曲を作り、ベートーヴェンはラテン語ではあってもカトリックの型を破ったミサ曲を作曲しました。そしてベートー ヴェンを崇拝してやまないブラームスは、ラテン語の教会音楽としてではなく、むしろコンサート向きのドイツ語のミサに挑んだのです。

 このドイツ・レクイエムは彼の出世作です。師であるシューマンの死をきっかけに若い頃に着手し、この人らしいことだけれども十年ほどかけて完成させました。通常は決まり文句のようになっている歌詞も、作曲家自身が聖書から選んで来るという変わった趣向であり、受難曲と同じく福音書に始まり、聖書の最後に来る予言の書であるヨハネ黙示録で終わっています。 途中、旧約(福音書と黙示録は新約)からも自由に詩編などが取り入れられています。中断されていた作曲を母の死の後再開させたことからも分かる通り、典礼音楽ではなく、避け難く 死を経験する人類への普遍的な祈りの音楽として構想されました。

 それならばこの曲の狙いはどう実現されたのでしょうか。ブラームスという人は、後年になるほどちょっと悲しみに酔うようなパッセージを聞かせることが多くなって行ったように 思います。しかし死者を念頭に置いた曲であるにもかかわらず、このレクイエムにはそうした音は聞かれません。こういうのは主観的な捉え方ですが、晩年よりも浄化された感覚であるというのは興味深いことです。



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       Brahms   A German Requiem, to Words of the Holy Scriptures op.45
       Nikolaus Harnoncourt    Arnold Schoenberg Chor   Vienna Philharmonic
       Genia Kuhmeier (S)   Thomas Hampson (Br)

ブラームス /「ドイツ・レクイエム」 op.45
ニコラウス・アーノンクール / アルノルト・シェーンベルク合唱団
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ゲーニア・キューマイヤー(ソプラノ)/ トーマス・ハンプソン(バリトン)
 CDですが、ここではアーノンクール盤を中心に取り上げることにしました。この人の新しい録音は宗教的感情とでも言うのか、どれも滲み出る波長が高くなって来ているかのように感じますので(この記事は彼の生前に書きました)、特に宗教曲では外すわけには行きません。中でも素晴らしいものの一つがこの「ドイツ・レクイエム」ではないでしょうか。他との違いを言うのは難しいですが、空気感からして独特のものがあると思います。以下に少し述べてみます。

 最初の楽章、「悲しんでいる者は幸いである」(伝統的解釈を離れてイエスのこの言葉が最初何を言おうとしたものかは難しい問題ですが、ブラームスは一般的な意味で死に接した者への慰めと捉えているのでしょう)、の出だしで、抑えた最弱音で緊張感をもって静かに入るところから違います。ここで歌っているアルノルト・シェーンベルク合唱団のクリアな良さをあらためて感じます。アーノンクールの設定したテンポも、最近になってロマン派の作品を手掛けるときに見られる大変ゆっくりとしたものであり、音の響きが重層的なこの曲の場合、透明感が出て最適だと思います。

「人は皆草のごとく」は曲自体が繰り返しの多い部分で、次の「主よ、わが命に限りあることとその終わりを知らしめたまえ」の盛り上がりでは、若いブラームスが曲を壮大にしようと努力している感じが伝わりますが、5曲目の「このように、あなたがたも今は悲しみ」は大変美しいです。ここはソプラノが歌うところで、アーノンクール盤ではゲニア・キューマイヤーが起用されています。ザルツブルク生まれでオペラを歌って来た人で、発声に関しては好みのタイプではないものの、すごくいいと思いました。比べるならばヘレヴェッへ盤で歌うクリスティアーネ・エルツェは可愛らしさの感じられる声質であっさりと上品ですし(モーツァルトの「大ミサ曲」の歌唱は絶品でした)、ヤルヴィ盤のナタリー・デセイも少女のような声で、力はないもののよく揺れるビブラートをかけ、軽くてひらひらしたイメージがあります。この人たちはオペラ的でないところは好みなのですが、「ドイツ・レクイエム」に関してはアーノンクール盤のキューマイヤーが案外一番しっくり来ました。というのも、この曲のオーケストレーションは分厚いので、やさしい声では負けてしまうからです。キューマイヤーは妖艶な伸びのある声で、ゆっくりしたビブラートで揺らす仕方がオペラ的ではあるものの、常にかけているわけではありません。元々ブラームスの時代はいわゆる古楽の時代ではないわけですし、違和感は全くありません。それどころか、メゾ・ソプラノに近い音色の彼女の声は力があって朗々と響き、高音では美しい艶が乗ります。それが重い伴奏を突き破って輝く様が得難いのです。このソプラノの絡んでくる場面、他の演奏では大して魅力的に思えなかったのですが、アーノンクール盤では聞き耳を立ててしまいました。

「この地上に永遠の都はない」は力が入って盛り上がる場面であり、ティンパニも活躍してものものしいところがあるので飛ばしますが、最後の第7曲、「これより先、主にあって死ぬ人は幸いである」の合唱は大変美しいです。昔のアーノンクールのように(あるいはバロックや古典派をやるときのように)癖のある抑揚ではないものの、細部まで彫琢が施され、表情が豊かです。テンポもゆったりしていて、静けさに圧倒されます。全く天国的な終わり方と言えます。


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「ドイツ・レクイエム」にはたくさんの録音がありますが、最近話題になったものでソプラノの話で触れた二つの盤について少しだけ触れます。

 1996年録音のフィリップ・ヘレヴェッへの演奏は、出だしを聞くとアーノンクールと変わらないテンポに聞こえますが、トータルでは 66'15" でアーノンクールの 72'06" より速いです。合唱はコレギウム・ヴォカーレで、大変上手な団体ながら、アーノンクール盤ほどにはピアニシモでのテンションがないような気もします。それも狙いかもしれません。出だしでも終わりでも感じられました。緊張感がなくて悪いということではなく、自然だと言えます。抑揚の付け方に関しては、滑らかな歌わせ方をすることが多いこの指揮者にあっては意外ながら、一続きのフレーズの後半をあっさりと切るところがあるようです。古楽的でしょうか。ロマンティックになり過ぎない、よく洗練された演奏だと思います。

 パーヴォ・ヤルヴィの盤はアーノンクールより後発の2009年の録音です。ベートーヴェンの交響曲などを聞くと、この指揮者は快適なテンポでメリハリを付ける人という印象を持ちますが、ここではトータルで 72'17"と、ゆったりしたアーノンクールよりさらに11秒ほど長くなっています。静かに入るところはアーノンクールに引けを取らないものの、途中からやや平板に聞こえるかもしれません。スウェーデン放送合唱団は大変美しい響きです。高音に静けさと安定がもう少し欲しい気もしますが、それはアーノンクール盤の合唱の特異さを聞いたせいかもしれません。

 ソプラノも美しいです。先に述べた通り、上品過ぎて分厚い持続的な伴奏にやや負けているような印象もあります。捉え方でしょう。一方、ヤルヴィらしいと思うのは、音の間に途切れがあったり、ヘレヴェッへとはまた違ったニュアンスながらフレーズがさっぱりと切れたりするところでしょうか。余分な飾りがなく、真っ直ぐで透明感のある良い演奏だと思います。

 以上のように、素晴らしいパフォーマンスは色々とあると思いますが、個人的にはアーノンクール盤の深遠にして耽美的ですらある演奏は揺るぎがないという気がします。細部にまで驚くほど注意が行き届いていて新鮮でもあります。知りませんでしたが、国内でレコード賞も取っているようで す。2007年の録音は音も大変美しく、オーケストラはウィーン・フィルです。場所もウィーン・フィルの本拠地、ムジークフェラインで収録されています。



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