ショパンのピアノ曲
  〜フランソワのショパン

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 クラシックの作曲家の中でもショパンはちょっとロマンティックな印象が強いかもしれません。ピアノと言えばショパンでもあるので、楽器の紹介動画やイベントなどでちょっとだけ弾いてみせる場合もノクターンの2番だったりして、まずこの作曲家の恋するような甘いメロディーが響きます。もちろんショパンの曲が全て甘いロマンティックなメロディーというわけではなく、この作曲家のもう一つの顔として、ピアノの楽器としての発達と重なり、リストと同様に難しい技巧の追求者という一面もあります。音楽史と弾く側にとってはそうした技術的側面における意義が大切であることでしょう。でも聞いて楽しむ場合はあのきれいな曲たちということになるのだと思います。リストの方はもてもてで女性には不自由せずに気楽に遊んだようだけど、ショパンは一つひとつ真剣に思い悩んで行動し、夢みたり傷ついたりしていたようです。そういうことも音楽に反映されているかもしれません。それではそんなショパンのメロディアスな曲で有名なものには何があるのでしょうか。また、その背景にはどんな物語があったのでしょうか。少し見てみようと思います。


ショパンという人
 生まれたのは1810年。ポーランドのワルシャワから西へ50km ほどのところにあるジェラゾヴァ・ヴォラという村です。亡くなったのが1849年ですから、モーツァルトやベートーヴェンなどの古典派の次の時代、ロマン派の初期から最盛期にかけてということになります。この時代の後期には否定的なものも含めて生々しい主観的感情を大きな音でぶつけて来るような作品、少し退廃的な曲調のものも作られましたが、ショパンの場合はその区分には入らず、情緒的といっても切なさや憧れなどが主だったと言っていいかもしれません。長い曲も多くはなく、小品が集まったようなピアノの独奏曲がほとんどです。オーケストラ曲や歌曲もあるにはあるけれども、ピアノ協奏曲の伴奏部分を除いてはほとんど知られてません。そんなこともあり、ピアノの詩人とも呼ばれます。

 父親はポーランドで貴族の家庭教師をしたりしていた人ですが、元々はフランスの出身です。母はポーランド貴族の出です。ですからいつもポーランド人と言われているショパンも半分はフランス人であり、本人もパリで活躍しました。両親が楽器を演奏できるという環境もあり、小さい頃から才能を発揮し、チェコ人の先生にピアノを習って七歳のときには作曲もし、演奏会を開くほどピアニストとしても有能でした。その後はワルシャワ音楽院で学び、十九歳のときにウィーンでデビューしました。そしてその翌年には大きな活躍の場を求めてウィーンへ行きます。


グワドコフスカ
 しかしそうなると初恋の人とはお別れということになります。というか、深い関係のように言いたがる人はいるものの、本当は淡い片思いで付き合ってはいなかったとするのが一般的ではあります。それでも本人としては辛かったようで、このあたりの話はピアノ協奏曲第1番のページで書きますが、その1番も恐らくそうだろうし、先に書かれた2番の方は本人弁によっても間違いなく彼女を思って作ったということになっています。そのお相手は学校の同級生であり、後にオペラ歌手になるコンスタンツィヤ・グワドコフスカでした。


パリへ。そして婚約破棄
 しかしウィーンでの音楽生活は上手く行かず、二十一歳の九月には見切りをつけて再度引っ越しをし、パリへと活動の場を移しました。パリではコンサートを開くというよりも、好んで貴族と芸術家のサロンで演奏し、その頃からもう体調が悪くなり始めていたけど頑張って稼いでフランスの市民になりました。そして二十五歳のときに両親と会うためにいったんチェコのあたりまで出向いた帰り、ドレスデンに寄って、母国にいた頃に親しくしていてその頃はそこに移り住んでいた伯爵の一家と再会します。その伯爵の娘マリア・ヴォジンスキーは五年前にはピアノを教えたことがあった子供だったのですが、再会時には十六歳、きれいな女性に変貌しており、ショパンは二度目の恋に落ちます。近くを一緒に散歩したり、一度パリに戻った翌年には映画「去年マリエンバートで」で有名なチェコ(ボヘミア)の温泉地、マリエンバートで再会したりしますが、その後彼女の住むドレスデンまで一緒について行って求婚します。彼女も受け入れてくれ、またいったんパリに帰って皆に祝ってもらいました。そのときに作曲したのが「別れのワルツ」です。しかしその頃からショパンの病気は次第に悪化し始め、結局はマリアの母から婚約破棄の手紙をもらってしまいます。


年上の人
 次は有名なジョルジュ・サンドだけど、その話はもう聞き飽きてるでしょうか。元々が貴族の娘で作家です。結婚して男爵夫人となったものの別れて独り身となり、若い芸術家のパトロンとして多くの男性たちと浮名を流しました。その一人にはリストもいますから、そういう意味でもショパンとリストは近しい間柄です。パリでショパンに接近して来たこのやり手の女性は六つ年上。彼女の方からショパンを気に入って猛アタックしてきました。社交界に男装で現れたとも言われてますから、宝塚のオスカルみたいな感じでしょうか。この人の性質については大変支配的な人だったというのも含めて、良くも悪くも色々言われるようです。最初ショパンは嫌がってたけど、マリアとの婚約破棄でぼろぼろの状態。結局恋人同士になってマジョルカ島へと逃避行することになりました。そのとき作曲したのが「雨だれ」です。そしてその後パリのピガール地区、後に娼婦街ともなった通り近くのサンドの家で同棲します。

 それにしても結核って、どうしてたんでしょう。飛沫感染します。北欧人の見知らぬ同士ならパーソナル・ディスタンスということもあるだろうけど、恋人同士はそうも行きません。二人は芸術家として理想を共有する同志の間柄。同じ方を向く愛の形だったのでしょうか。移る病気だという認識は昔からあったようですが、感染しても一、二割しか発病せず、発病しない限りは他の人に感染させることもありません。そして結核菌が発見されたのはショパンの死の三十三年後だったわけですから、それと分からなくても無理のないことだったでしょう。もしショパンがこの病を患ってなかったとしたらどうなってたんだろう、などと思わなくもありません。マリアと結婚してたでしょうか。どんな曲が生まれたやらですが、ショパンとサンドはその後付き合って十年ほどで破局します。理由は色々に言われていて、主にサンドの連れ子のことに関係するようだけど、その場合も馬車を貸しただのショパンと怪しかっただのいくつもの話があり、サンドの小説のことも出て来るし、どちらから決めた別れかすら異説ありで紛糾します。興味が湧くのであれば書簡に当たって断片を組み立てたり、粉飾されてるかもしれない伝記と格闘する手もあるでしょう。リストほどではないにせよ、生前から女性を含めてすでに大変人気のあった人で、彼の身辺の出来事についてはあらゆることを疑ってかかった方が良いようですが。


その他の女性
 破局の後はうつ状態だったと言われています。その後は弟子で秘書役もこなしたジェーン・スターリングという、スコットランド貴族の出でサンドと同い年の女性が身辺と金銭両面で面倒を見、死の前年には彼女の故郷を回る旅にもショパンを連れ出しています。頭が良くて大変気の利くきれいな女性だったようだけど、ショパンと男女の関係だったかどうかは分かっていません。また、十歳年下のスウェーデンのソプラノ歌手であるジェニー・リンドについても、金銭援助と男女関係の噂が囁かれます。アンデルセンが一目惚れしたという、これもきれいな女性でした。

 そしてショパンの病気は悪化して行き、サンドとの破局から二年後の1849年の十月、ルーブル美術館に隣接するチュイルリー庭園近くのアパートで、彼に最初にピアノを教えた姉のルドヴィカ(来てほしいと呼び寄せてました)など、数人の近しい者に看取られて静かに息を引き取りました。


ショパンのロマンティックな曲
 それでは、具体的にショパンの有名な曲にはどんなものがあるのでしょうか。それらはクラシック・ファン以外でもいっぱい耳にしたことがあるはずで、名曲ベスト的なサイトですぐ探せます。ですのでここではちょっとだけ触れてみます。ゆったり系の有名なメロディーをまず知ろうということなら、以下の四つぐらいでしょう。   

 別れの曲:練習曲作品10の第3番:最も純愛映画やドラマの効果に登場する曲です。どうして「別れ」 かというと、ショパンの古い伝記映画のタイトルが 「別れの曲」だったからです。そしてこのどうやってもロマンスにしか聞こえない曲、実は「練習曲というジャンルだからそんな事情は関係ない」という意見がもっぱらです。でもいくら練習曲でもそれを作ってたショパン自身は恋心に震えてたかもしれません。そういう意味では1832年作なので時期としては最初に憧れたコンスタンツィヤ・グワトコフスカの頃です。

 夜想曲(ノクターン)第2番:1831年なので、これもコンスタンツィヤのとき。

 別れのワルツ:ワルツ第9番:1835年にドレスデンから去る頃で、一時婚約者にまでなったマリア・ ヴォジンスカの時代。

 雨だれ:24の前奏曲第15番:1839年にスペインの東に浮かぶマジョルカ島で作られたもので、ジョルジュ・サンドの時代。もうすでに一緒に住んでたので憧れという感覚ではなく、気分としてはハネムーン先でちょっと落ち着いて自然に目を向けたというところでしょうか。

 他にももうちょっとはありそうですけど、残りの有名作はロマンス的ではないものがほとんどになってきます。例えば「子犬のワルツ」とかは尻尾を追いかけてぐるぐる回るわけですからユーモラス系、別のページで触れる遺作の「幻想即興曲」は高速クルーズ系、他にも弾くのが難儀そうな「黒鍵」とか、「華麗」とか「軍隊」、「革命」、「英雄」、といったタイトルのもあるけど名は体を表します。しかしショパンという人、ただ煌びやかだったりきれいなメロディーだっりするだけではなく、マズルカやノクターンのいくつかや、舟歌といった後期の作品においては深い精神世界を覗かせてもくれます。逆に言えば、リストほどではないけれども、眩しい曲たちによって落ち着いた深みのある作品が逆光となり、見え難くなっている作曲家かもしれません。そのフランツ・リストも、イギリスの音楽霊媒によれば本当はもっと静かで愛らしい作品をいっぱい作りたかったと死後に語ったそうですが。



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       Chopin   Famous Piano Recital   Samson Francois (pf) ♥♥

ショパン名曲ピアノ・リサイタル / サンソン・フランソワ(pf) ♥♥
 昔、雑誌でだったか、評論家の誰かがパリでタクシーに乗ったときの話を読んだ記憶があります。サンソン・フランソワが病気だった頃で、乗客が日本からの音楽関係者だと知ったそのタクシーのドライバーが「フランソワももうだめだな、あれほどのピアニストは滅多に出るもんじゃないのに」というようなことを、さらりと言ったというのです。文化が高くて驚いた、というような内容でした。 

 サンソン・フランソワ(1924-1970)。当時よく知られていたのでしょう。一般には「鬼才」などと言われる人です。弾き方に大変癖があります。フランス人はことクラシックのピアノ演奏においては独特のルバート文化を持っていました。コルトーなんかが有名でしょう。テンポ通りに弾かずに少し遅らせたり早めたり、絶妙にずらす奏法です。そしてそのコルトーに見出されたフランソワは、二度あるフレーズの二度目は面倒だといわんばかりに省略気味に飛ばす場合すらあります。これは彼らの日常会話の一部であって、それがただ音楽のパフォーマンスに表れただけなのかもしれません。粋ということも色々だけど、イギリス人が高尚なことを知ってるのを粋とするなら、フランス人は何でも真面目に全部やるのは愚かだといわんばかりに省略し、規則に縛られないところをアピールするのが粋なのでしょう。それも幼稚にやればただの反抗だけど、大人は年季が入っています。

 工業製品の造りにおいてもフランス製は省略が目立ちます。 昔の車はヘッドライトが洗濯バサミ状の金具一摘みで外れてしまうし、新しい車であっても、エアコンの二本の配管チューブが、本来なら一本ずつナットでつないであるはずなのに一枚のプレートで二本のつなぎ目を一緒に引っ掛けただけで、ネジ一つで押さえる構造になってたりします。航空整備学校教官の友人によるとヘリコプターですらフランス製は同様であり、「こんなとこ、ワイヤーでつないで大丈夫なのか?」と驚く箇所が見つかるそうです。エアバスはどうか知らないけど、侮れません。

 そしてテンポ・ルバートといえばショパンです。お父さんはフランス人で本人もパリで活躍したので、フランス人と言っていいでしょう。ルビンシュタインの重い指遣いがいい人には勧められないけれども、フランソワの独特の崩し方には誰にも真似のできない粋なところがあります。このリズム感は天性でしょうか、それともフランス文化の中で恰好をつけることも名人級になって来た熟練の賜物なのでしょうか。ショパンのピアニストとなると、フランソワ一人いればいい気がするときがあります。こんなに詩情あふれる演奏は他にはありません。タクシー・ドライバーもうなる名人芸です。写真を掲げた CD は上で触れたショパンの有名なメロディーを網羅しています。1950年から70年にかけての録音です。



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