再び、自動ピアノと録音音楽について  
グレン・グールドのゴールドベルク変奏曲「再演」


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      ZENPH  Re-peroformance   Glenn Gould   Bach  The Goldberg Variations 1955

 このCDレビューの最初の章(1. オルガン・ランドスケープ)で、自動ピアノが頼りない音だったことについて書きました。また、オルガンのように強弱と音色があらかじめ決められている楽器で演奏する場合、演奏者の「その瞬間」の役割は何だろうかという問いも投げてみました。CDなどの録音芸術とコンサートの臨場感とが違うことは誰しも認めることですが、何が違うのかということは、一度よく考えてみるに値する問題だと思うからです。
 そこでは、もしピアニストの打鍵を正確に記録する読み取りセンサーと、それをデリケートかつパワフルに再現できる装置とがあれば、生演奏を生楽器とホールで再現できることになり、その場合はライブであることの感動はどうなるのだろうかという思考実験めいたことにも触れました。

 しかし最近になって、なんとそんな試みがすでに行われていたことを知りました。それは現代の精巧な自動ピアノによ る実験で、グレン・グールドが最初に世間を騒がせた、あの有名な1955年のゴールドベルク変奏曲を自動再生したというものです(グールドの演奏の内容に関しては81年の再録音も含めて「シフという個性」の章で扱っています)。何でも自動化する日本人は電子ものと機械ものが大好きだと世界中に思われていますが、このとき もハー ドウェアを担ったのはヤマハ・ピアノで、同社のグランド・ピアノにハンマーを正確に動かす装置を組み込んだものが使われたようです(Disklavier Pro)。鍵盤をロボットが叩くシステムではないので、グールドが使ったピアノをそのまま用いることができないのが 残念ですが、正確なハンマー速度を出すためにはその方が簡単なのだろうと思います。ヤマハのこのシステムは MIDI 出力を持つピアノ(奏者のキー入力をそのまま音に出すだけでなく、電気的に出力してシンセサイザーにつなぎ、そこで音を作ることができる)として以前から 展開されており、その扱いやすく安定した音源はポップスなどではコンサートを含めて重宝されていると聞きます。 ここではその最高峰である、コンサート・グランドピアノに駆動メカを装備したものが使われました。調べてみるとその機構はソレノイド式とあるので、油圧で はなく電磁石の力で動くもののようです。
 一方、グールドの演奏は自動ピアノに対するキー入力の情報が残っているわけではないので、すでに音になった録音情 報を元にどのような力で彼が鍵盤を叩いていたのかを割り出さなければなりません。そのためのソフトウェアを開発した のはジョン・Q・ウォーカーという人がリーダーを務めるノースカロライナ州にあるゼ ンフ・スタジオというところです。ハリウッド映画でリアルな特殊効果を生み出したり、フォト・リアリズ ムという絵画技法を確立したアメリカ人は「リアルである」ことに一等こだわりがあるようで、ここでは面白い日米合作となりました。

 ピアノの演奏が「その演奏らしい」ということは、突きつめて言えば打鍵のスピードとタイミング、ダンパーのかかる タイミング(キーから指を離すときの一音ごとの動作と、ペダルを使う場合の全鍵盤の一斉動作の両方がある)というこ とに集約されるのだろうと思います。このうちタイミングというものは打鍵にせよダンパーにせよ正確に計れますし、鍵 盤を指が離す動作とペダルの踏み加減というものも、復元するにあたってさほど微妙なものではないでしょう。調律師が ダンパー等を調整する際には音に大きな違いが出るにしても、一度調整されたセッティングは、そのときの演奏中はずっ と同じだからです。すごく違うのは音の強さであって、これは無数の段階で区別しなければならない精妙なものです。結 局、名人芸再生の要は打弦の強さ=速さの違いなのです。「速さ」というのはどうしてでしょうか。弦を叩く強さは、ハ ンマーが弦に当たったときの衝撃力です。衝撃力は物体の運動量に比例しますが、運動量はハンマーの重さ(質量)× 速度なのです。ハンマーはいつも同じ重さなので、残るハンマー速度の違いが音の違いのすべてだということです。

 し かし野球でピッチャーの投げた球がバットに当たったときの衝撃は、ただ球の速度に比例するとは言えないそうです。 同じ速度でも「球質」といって、重いか軽いかの違いがあり、それはボールの回転と、どの高さに飛んで来るかによって 左右されるようなのです。それならばピアノの演奏だって指の形や角度、腕の位置、弾き方などについて大変込 み入っ た理屈がありますし、流派すら云々されます。それが音色に影響する度合いは野球のボールが重く感じるかどうかなんかよりよっぽど大きいのではないでしょう か。
 でもそれはキーに入力するま での奏者サイドの話であって、それがいかに重要であろうと、その後は機械動作に翻訳さ れ、違いはハンマーの動きだけに表れるのです。名人芸的な音色の違いといえども、結局は弦に当たる瞬間のハンマーの 速度の違いです。なぜならピアノのハンマーはボールのように回転しませんし、常に軸で固定されて叩かれるので、飛ん で 来る軌道も関係ありません(ソフトペダルの話はここでは省略します)。

 余分な話は小文字で書きますが、公式で反論したい向きもあるかもしれません。 そうなると、自分でもよくわかっていないややこしい話になって申し訳な いのですが、だいたいこんなことだろうと思います。物理で衝撃を現す「力積」と いう概念は、力が加わっている時間、もしくは変化分が考慮さ れた運動量です。つまり野球の場合だと飛んできた球がバットに当たる前と当たった後の速度の違いも考慮しなければいけないんじゃないか、と。うんざりしま すが、バットと球の衝撃を計算するには、その吸収と反発の度合いも関係してくる、つまり、よく弾むボールとビーズの 入った お手玉とでは違うということなのです。しかしピアノのハンマーは何度叩いても同じ フェルトで出来ていますし、叩かれる弦もいつも同じものなので、ピアノ演奏に限ってはやはり「音の強さ=音色の違い=ハン マースピード」という関係が成り立つと思います。どんなフェルト材質のハンマーか、どんな弦の張力とそれを支えるフ レーム弾性なのかということは極めて大切だけれども、それはどのピアノを使ってどう調律するかという問題です。演奏 の再現については、要するにハンマーの速ささえ割り出せればうまく行く可能性 がある、という気がします。

 理屈はともかく、それでは世紀の大実験、グールド再演の出来はどうでしょうか。

  ・・・結構リアルです。いいえ、これなら人間が弾いているか無人かの違いは、わかりません。音も最新録音だけに、ノイズはないしステレオだし(グールドの 1955年の録音はモノラルです)、大変きれいです。強弱はしっかりと、微妙な違いまで現しています。力のないロー ルピアノとはわけが違います。

 ただ、全体にまだ少しだけ眠い感じがするのですが、気のせいでしょうか。自動ピアノの電磁駆動メカの強弱精度がど れほどのものかということは、残念ながら今回はよくわかりません。ピアノの違いによる差の中に含まれてしまっている と考えられるからです。ピアノが異なるというのが多分、決定的だと思います。ヤマハのピアノは、グールドが弾いてい たスタインウェイに比べて、なんというか言いよどむのですが、ちょっと違います。どっちがいいとかいう問題ではあり ません。聞いていて個人的に好きなのはスタインウェイですが、最高の調律と調整をされたピアノならどちらも素晴らし いのだと思います。歯切れが悪いですね。でも実際のところ、スタインウェイとヤマハの音がどう違うかという質問に対 しては、それはそれは色々と相矛盾する発言が飛び交います。個人の感性は色々なわけですが、ヤマハの方がきらきらし ている、という人もいます。最近の安いアップライト・ピアノではそうなのかもしれないと思う一方、コンサート・グラ ンドビアノについてもヤマハの音を明るい、ブライトな音と表現する専門家もいます。三本の弦を一度にハンマーが叩く 構造から、その三本を同じ音にするのではなく、微妙にずらして仕上げることで音色の違いが生まれる、それは調律師の 仕事なので、調律次第でピアノはどうにでもなる、そういう意見も聞かれます。ただ、自分が今まで聞いてきたコンサー トでの印象だと、ヤマハの音はちょっと丸いように感じることが多かった気がします。CD録音でもその 印象は変わりません。褒めるならばやわらかく、しっとりとしていると言えるでしょうか。言葉を換えれば力の弱いピア ニストにかかるとオフな響きになりやすく、スタインウェイが他のピアノに比べてきらびやかで、ときにフォルテでメタ リックなまでの輝きを見せるのとは対照的です。この録音にあたって調律は、実際に当時グールドの調律師だったその人 に指導を仰いで行ったそうで す。でもフレームから響板、アクションに至るまですべてが異なるピアノでは、音色を似せるといっても限界があるのかもしれません。

 ピアノの違いというだけでなく、録音におけるマイクのセッティングや、機材、そして録音技師のセンスも大きな差と なります。DSD だろうとハイビットだろうと方式はあまり関係ないと思いますが、今回は少し、中域にもやのかかったような厚みのある音に録れており、全体にタッチがはっき りしない傾向があると思います。決してバランスの悪い録音ではありませんが、グールドのオリジナルの録音がどちらか というとハイ上がり傾向の、やや薄 くで乾いた音に聞こえるのと比べると反対の方向です。グールドのあの音がどこから来ているのか、録音のせいなのか、あるいはピアノのせいなのか、その境界 はなかなか見分けがたいことだと思います。グールド自身、どうやらああいうクラヴィコードみたいな音を好んでいたふ しがあり、色々注文を付けていただろうことも想像に難くありません。
 左利きだったせいだという人もいますが、彼は左手が右手と完全に同等に主張する弾き方をします。くっきりと左手が 目立つ、そのことは一方で、グールドのピアノ論が「ポリフォニー」を元に主張されていたこととも関係あると思いま す。左手が伴奏で右手が主旋律という「ホモフォニー」の考えを嫌い、右手も左手も同じだけの権利を持っている徹底し たポリフォニーであるべきだと考えていたようです。ケンプのピアノがときに左手に対する右手の鮮やかな表情に特徴が あるのと全く違います。そのせいで、グールドはくっきりとした音には特にこだわりがあるのでしょう。いつまでも音が 反響しているようなダンパー掛かりのセッティングは嫌っていたらしいという説も読んだ覚えがあります。

 録音の話がまたまたピアノの話に戻ってしまいましたが、ヤマハのピアノが必ずしもグールドの好みではなかったとは 言えないことも、グールド・ファンには知られた事実です。というのも、彼が死の直前に締めくくりのように再録音した ゴールドベルク変奏曲の1981年の盤はヤマハのピアノで録音されたからです。彼はスタインウェイとの専属契約を結 んでいたために、そのことはCDに 書いてありませんし、ジャケットの写真にもピアノのロゴは写っていません。しかし自分がそのピアノにかかわったの だ、それは CF#1983300だったのだと発言している人もおられるようで、音がヤマハだということは多くの人が検証しています。それまでの録音で彼が使ってきた ピアノはニューヨーク・スタインウェイのCD318、 1945年製のものだそうですが、それが運搬事故でのせいか、アクションが疲弊したせいかは諸説あるながら、直して も満足行かないほどダメージを受けてしまい、ヤマハが選ばれたということのようです。しかし聞けばわかるように非 常に良い音で、グールドの演奏の質を低下させるようなことは全くありません。中間の強さでは真珠の玉の連 なりのような滑らかさもありま す。倍音の構成から来るのでしょう、フォルテでは輝きが梨地にかすれて、ある意味強靭な感じがしま す。スタインウェイはもう少し金 属的な艶が所々に乗ったりするのではないかと思いますが、響きが抑えられて硬質な、やや乾いたところのある粒の立っ た音はグールドらしいもので、弾き方と楽器の調整によってこういう音もヤマハから出るのだと感心します。マイクが近いということもあ るかもしれません。それに対して、今回の「再演」の方のヤマハはちょっとソリッドさがなく、ソフトな印象です。

 そこで、オリジナル録音と自動ピアノによる録音の両者を近づける工作をしてみようと思い立ちました。オリジナルの 録音を市販のソフトウェアでリマスターして若干しっとりさせ、ヤマハ自動ピアノ「再演」 の方の高域バランスはきらびや かにします。その具体的作業は以下の通りです:

 まず、オリジナルのグールドの録音からノイズ を除きました。無音の部分に出ているサーっというヒスノイズを選択し、そのノイズフロアを計算させてその分のみ を全体から差し引くというソフトウェアがあります。音楽波形に合成され たノイズ波形を正確に取り除くのではなく、ノイズを構成している周波数分のフィルターをかけるというものなので、ノイズを取り除かれた音楽にも若干音の変 化がありますが、ノイズの有無は印象の変化をもたらしますので、今回に限ってはやっておいた方がいいでしょう。 次に疑似ステレオ化しました。これも本物のステレオとは違い、右チャンネルと左チャンネルを逆方向に、片方を遅 らせ、もう一方を早める残響をつけて分離しているに過ぎませんので、正確な定位ということは望むべくもありませ んが、新録音に近いような広がり感だけは出すことができます。まあ、おまけです。本当はレコード会社が出した疑 似ステレオ盤があるのですが、持っていなかったのでトライしました。次に周波数バランスをイコライザーで整え て、高域が強調されているかのような元々の音を整え、低音部も若干増強させて潤いを出します。そして最後にリ ヴァーブを少しだけかけ(グールドが怒るでしょうね)、自動ピアノの録音の方に似た響きを作り出しました。この エコー成分は細かく調整ができ、残響時間と量、どの周波数をどれぐらい響かせるかの音量とダンピング量、基音が 鳴ってからどれぐらい遅れて反響が付き始めるか、反響のピークが何秒後に来るかなどを設定します。
 一方で、自動ピアノの再録音の方は、その眠い音に対して大胆にイコライジングしました。2.5キロヘルツあた りから上の高域を5点ほどの周波数でつかんでかなり持ち上げたのです。各ポイントの山の形を決める Q 値が調整できるツマミもあり、コンピューターは大変便利で す。おかげでタッチがよりはっきりとする音になりました。

 この両者でオリジナル録音と自動ピアノ再演とを比べてみました。どんなにいじってもレベルだけの問題であって、同 じ音にすることは絶対に不可能ですが、周波数バランスと反響の具合は似たものにすることができます。

 しかしそれでも、やはり何かが違います。圧倒的に音がいいのは自動ピアノの方です。それは録音が新しいので仕方が ありません。タッチもしっかりしていますので、これをずっと聞いていたい気分にさせます。同じくオリジナルのグール ドの録音も、潤いが出ていい感じになりました。しかし音のきれいさという点ではやはり古い録音です。これを最新録音 並みにリマスターするには、市販のソフトウェア程度ではだめかもしれません。リマスターというよりも、リクリエイト に近いレベルになるでしょう。そうなると、自動ピアノとどちらが大きな「改変」にあたるのかは微妙です。 以上は自動ピアノに分がある点です。

 一 方で、オリジナル録音の方が良く思えるところもありました。それは強い音と弱い音とで、音色が変化して聞こえる度合 いが大きいということです。そのため強いタッチで弾くところがくっきりとします。自動ピアノの方も高音を持ち上げて いるのでくっきりしてはいますが、弱いところと強いところの相対差がオリジナルほどではなく、全体にくっきりするの です。何の違いでしょうか。
 これも大変言い難いのですが、多分ピアノの性質だと思います。スタインウェイは弱く弾いたときのやわらかい音と、 フォルテで強く叩いたときのきらびやかさとの違いが大変良く出るピアノだと思います。 実際に弾く人によるとスタインウェイのキーは軽く、微妙な弱音を出しやすい一方で、力を込めるとその軽いタッチゆえに敏感に反応し、連続させればジェット 機のタービンのような金属音まで出せてしまうと言います。つまり、タッチの強弱による音色の違いを思い通りにコント ロールする技が要求されるのだそうです。裏を返せば、指がいい加減だと揃った音が出せないということです。アクショ ンの構造から来ることのようで、これはピアニストやピアノ好きの間ではある程度常識的なことらしいです。ヤマハが悪 いわけで はないのですが、そういう性質なのでしょう。今回の比較でも、音圧で計れば強弱のレベルは両者等しく出ているのかもしれませんが、スタインウェイの方が音 色の違いとしてそれがくっきりします。グールドが生きていたら、こ の新録音の音に文句を言わなかったとは考えにくい気がします。

 そんなわけで、この自動ピアノの企画は大変興味深いものながら、オリジナルとはやはり別物だという結論になりまし た。まあ、最初からわかっていた結論かもしれませんが。教育目的に使えるかどうかはともかく()、こういう録音の存在意義はありますし、普段はこれをかけ てお いてもきれいでいいと思います。ただ、もしグールドがこのヤマハの自動ピアノそのものを自分で弾くことになったら、調整 はこうはさせなかっただろうと思いますし、それでも弾いたと仮定するなら、タッチを変えたかもしれませ ん。

*教育的利用について
 ソフトウェアを開発したゼンフ・スタジオでは、この自動ピアノに よる演奏の試みを教育目的でも利用 できると考えているようです。つまり、有名なあの演奏家はここをこう弾いた、というタッチの違いを生のピアノで聞いて勉強しようというのでしょう。確か に、ピアノを習う者にとってそれは興味をそそることに違いありません。何事も真似ることから始まる、その後 で自分の味が出てくるという、いわゆる形から入って心を学ぶというのも道理に違いありません。ただ、タッチ がそのように表れてきた心、表現のエロスは真似られるものではないと思いま す。例えばグールドの81年のゴールドベルクとシフの2001年のそれとを比べて、タッチとアーティキュ レーションを学ぶのは面白いかもしれません。ただ、片方に深い孤独と息の白くなる大気の冷たさを感じ、もう 一方に明るい喜びを感じるとしたら、それを技法の違いとして位置付けることは恐らくできないでしょう。そう した魂の声が特定のアーティキュレーションの中に閉じ込められ、CDなり自動演奏のデータの中に結晶化する ことで再現可能だとしても、そして聴く側がそれを了解できたとしても、その誰かになることを学ぶことはでき ないのです。特定の感情を表す強弱の組み合わせが音響心理学によって分析できたとしましょう。しかしそれは 学習して表現することではなく、内側から自発的に表れてきて刻印される種類のものなので、学ぶ必要すらない のだと思います。

 ということは、逆説的に言うなら、グールドにちょっと降りて来てもらってピアノ を選ばせ、調整も納得行くまで監督してもらって、そこに自動ピアノの駆動装置を取り付ければ、オリジナルと同じに聞 こえる自動ピアノの演奏も可能なのではないかとも感じました。そうなると、コンピューター・グラフィックで俳優の動 きを置き換える のは正しいことか、という種類の倫理問題も生じて来るでしょう。バットマンがビルから落ちるシーンは CG でいいにしても、着地した後はすぐに俳優がやらなくてはいけない、という話がありました。これは実際の人間の動きとモーションキャ プチャーによる CG の、違いの方に焦点を合わせた話ではなく、同じであることを仮定した話でした。
 まあ、精度の高い 自動ピアノのあり方は、究極的にはCD再 生と同じ問題になって行くわけで、それがオーディオ機器というフィルターを通さずに生の楽器で再現されると いうことに過ぎない・・・そんなことも最初からわかっていた結論でしょう。


 そして最後に残るのはやはり、自動ピアノによる再生演奏と、本人がライブで弾く演奏との間には違いがある のだろうか、音が完全に同じだった場合はどうだろうか、ということでしょう。同じホールで、同じピアノで、同じ調律で。
 人間のプレゼンスの意味というこのことは、大変スピリチュアルな問題です。グール ドはコンサートをせず、レコード録音で生きて行くことを選択し たアーティスト です。それは再生芸術を肯定した立場ですから、彼がこの自動ピアノの音をいくら気に入らないと言ったとしてもそれ自体技術的な側面であって、意に反してそ の究極の形は認めていたことになります。
 コンサートでは、聴衆が聴いているこ とで演奏が白熱してくるということがあります。それは演奏家と聴衆との素晴らしい交流であり、コンサートの存在意義ですが、演奏そのものがスタジオ録音の ときとは違って来るわけですから、ここでの問題からは逸れてきます。 そしてグールドはそれを拒否したわけです。それなのに、今、彼にもう一度会いたいと思っている人のなんと多いことで しょう。

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「気配がする」という言葉があります。そもそもどういう意味でしょう。第六感も含むのでしょうか。反対方向を 向いていて見てないにもかかわらず、誰かが自分の背後に立った気配がした・・・あるいはもっとオカルティズムにのっ とって言えば、幽霊を部屋で見かける直前、気配を感じた、とか。音が聞こえたり匂いがしたり気流が乱れたりしたので なければ、生体(幽体?)磁場かもしれません。それをオカルトだと言う人がいる一方で、人と人が相対して交流すると き、視覚や言葉を超えた何かのやりとりがあると感じる人もいます。コンサートでパフォーマーのプレゼンスをそこに感 じる。演奏者も聴衆の存在を感じる。
 プレゼンスは喜びです。仮にそのときの音楽表現がスタジオ録音のときの表現と同じだったとしても、聴衆の前で発せられる楽 音は、実はより本質的なコミュニケーションが行われていることを示す、一つの装飾記号に過ぎない のかもしれません。



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