ホルツマイヤーの「詩人の恋」
シューマン / 歌曲集「詩人の恋」op.48  

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       Schumann  Dichterliebe (A Poet's Love)
       Wolfgang Holzmair (br)   baritone / Imogen Cooper (pf) ♥♥

シューマン / 詩人の恋 op.48
ウォルフガング・ホルツマイアー(バリトン)/ イモージェン・クーパー(ピアノ)♥♥
 ドイツ・リート(歌曲)が特に好きでよく聞くというわけではありません。この分野で最も有名なシューベルトの「冬の旅」と、このシューマンの「詩人の恋」、リヒャルト・シュトラウスの「四つの最後の歌」などがやはり最もよく分かるというぐらいでしょうか。新しい時代ではグールド人気につられて買ったロクソラーナ・ロスラックの歌うヒンデミットの「マリアの生涯」が独特の魅力を放っていて、ああこんな曲もあるのかと思ったりはしました。フランスものは性に合うので好きなラヴェル以外も歌曲は時々聞くものの、ドイツものとなるとヴォルフもマーラーもほぼ聞いていません。なので何か言うのもためらわれるのですが、このホルツマイヤーの歌唱には感歎のため息が出ます。

「詩人の恋」作品48はハイネの詩によるシューマン珠玉の歌曲集です。彼が三十歳頃の作品です。それはちょうど、花嫁の父との長い闘争に法的な手段で決着をつけ、クララと結婚できた年でもあります。高揚していたのでしょうか、それまでピアノ曲ばっかりであったのに、この前後からたくさんの歌曲を作曲し、その中にこの傑作も含まれています。他の音楽には手がつかず、実に120曲以上も作ったのだとか。夫婦関係も円満で、二人の間には八人の子供が生まれました。その後は少なくとも二年後ぐらいまでは幸せな様子でしたが、徐々に病気の兆候が現れ始め、有名なブラームスとの三角関係が噂される時期を経て四十三歳のときにライン川に飛び込んで自殺未遂をし、精神病院に収容されて四十六歳で亡くなるまで、体調は段々と悪化して行ったわけです。

 私ごとながら、最初の曲である「美しい五月には」を学校の音楽の時間にドイツ語を暗唱するようにして歌わされた覚えがあります。静かに入るピアノのイントロが魅惑的で、歌の部分もいいけど毎度先生の弾くピアノに聞き惚れていました。最初の音がピーンと鳴った途端に静寂に包まれるようです。そして続く何音かの響きで、すっかりどこかへ連れて行かれてしまいます。曲集全体としては春の日に出会って失恋するまでを歌う、いかにもドイツ・リートらしい痛い若者の歌なんだけれども、この最初の短い曲には不思議な魅力があるのです。歌詞からすると出会いの喜びを表現しているはずです。でも躊躇うような、諦めと嘆息の入り混じったようなセブンスの和音(減7度)で始まり、そのまま主題に入ることなく(専門的には「解決しない」で)終わってしまうのです。伴奏しながら教えてくれたその先生は音楽を鑑賞するのも好きだそうで、指揮者のワルターのファンでした。「美しい五月に」チョークまみれの手でレコードを扱っていた姿が印象に残っています。シューマンはピアノの作曲家でもあるので、伴奏の部分の出来の良さについてはよく言及されるところです。シューベルトの即興曲 D899 の三曲目に似たパッセージがあることにも気がつきましたが、自分がコメントできるのはそんなことぐらいです。

 というわけで本格的にCDの聞き比べはしません。もし行うなら外してはいけない歌手はディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウでしょう。ドイツ・リートというと「冬の旅」では古くゲルハルト・ヒッシュやハンス・ホッターも話題に上るけど、ディースカウはその完璧な歌唱でそれまでの基準を塗り替えてしまったと言われる人です。膨大なレパートリーを持ち、どの録音も欠点がなく、楽譜を見せられれば初見でどこまでも正確に抑揚をつけて歌えてしまう。リート好きの人はよくそんなことを言うので、「詩人の恋」も普通はディースカウを挙げておけば済むのでしょう。

 そのディースカウも聞きました。その上で敢えて、このイモージェン・クーパーが伴奏してオーストリアのウォルフガング・ホルツマイアーが歌う盤を挙げます。大仰にフレーズを強調したりしないという意味では元々好みのタイプなのですが、それだけではありません。他の歌唱では味わえない静謐さがあるのです。やわらかく穏やかな声で、力を抜いて何気なく歌って行くのだけれど、感情の高まりとともに、今まさに彼の中で詩の感情が湧き出したかのように一陣の風が巻き起こるところがあります。
 映画で言うならばオスカー賞の大御所もいいだろうけど、役になり切って作品ごとに別人になる役者もすごいと思うわけです。でもこれほど素晴らしい歌唱なのに、この人に関する情報はあまりないのです。どうしたことでしょう。ピアノのイモージェン・クーパーも同じ波長で息が合っており、ピアノのパートだけ注目して聞いてもうなってしまいます。彼女はイギリス人で、ブレンデルに教わったということです。そしてこの二人のCDが今ちょっと手に入り難い状況に陥っています。フィリップス・レーベルだったためもあるだろうし、またこういう芸であるがゆえに一般受けしないのかもしれません。映画賞の裏には取り引きがあるのかどうか分からないけど、一方でこういう才能が知られないのも不当な気がします。録音も最優秀賞ものでしょう。ピアノの音の深みといい、ビロードのようなバリトンといい、オーディオに関心のある者がこんな言い方もなんですが、まるで生で聞いているかのようです。あまりに美しい歌なので、シューベルトの有名曲集も手に入れてしまいました。いずれまた全ての録音が再販されることを望みます。サブスクライブのサイトでは、あるところとないところがあります。



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