ラスト・コンサート、カラヤンとベーム 
        ブラームス / 交響曲第1番ハ短調 op.68 

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       Brahms Symphony No.1 in C minor, op.68
       Herbert von Karajan   Berliner Philharmoniker  May 5, 1988  Suntory hall, Tokyo ♥♥

ブラームス / 交響曲第1番ハ短調 op.68
ヘルベルト・フォン・カラヤン
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 /1988年5月5日 東京・サントリーホール ♥♥
 これは有名な話だけど、1982年のこと、カラヤンは若い女性クラリネット奏者、ザビーネ・マイヤーをベルリン・フィルに入団させようとしました。それまでに彼は自分の人気に基づいて、オーケストラとしての存在価値は指揮者によって決まるのだという姿勢を貫き、映像メディアの扱いや著作権料の配分などを自ら決定するようになっていたと言われます。しかし新しい団員として誰を入れるかについてはオーケストラ側に昔から自治権があり、マイヤーの入団は多数決で否決されてしまいました。紆余曲折あって事態はその後一旦沈静化しますが、カラヤンとベルリン・フィルの間には感情的な溝が刻まれたようです。帝王カラヤンの凋落を決定的にしたとされる、いわゆるザビーネ・マイヤー事件です。そしてそれ以降、彼はウィーン・フィルに近づき、そこでの仕事を多く行 うようになって行きます。

 それでもベルリン・フィルとのCD録音は続けられました。その中にはストップ・ウォッチで計ってテンポを監理していたとされるベートーヴェンの三度目の交響曲全集も含まれます。あらためてどの演奏がどうだと言うつもりもないけれども、個人的な感想としても、80年代に入ってからのデジタル・セッション録音のうち少なくともいくつかは、上記のいざこざを反映するかのようにモラルの低い、機械的なものがあったように思います。そしていつしか一つの見方が世間に広まるようになりました。それは、ベルリン・フィルを手に入れた時点をカラヤン機長のテイクオフだとするなら、その後十数年はそこそこの巡航高度で安定飛行していたものの、事件後は操縦桿を前へ倒したように最速下降曲線で墜ちて行ったというものです。そしてどうかすると因果応報だ、それこそ帝王のわがままが引き寄せた結果だと囁かれもしした

 有名人はよくよく妬まれがちなものです。しかし彼らの役割は、自らがスクリーンなって我々自身を投影させてくれるものかもしれません。光を見るも影を見るも自分次第です。それを理解した上で誰かを見れば、その著名人は自分の心の内側を語ってくれるのです。
 CD録音という仕事は指揮者の解釈と楽団の技術ですべて決まるわけではないでしょう。オーケストラも生きた人々の営みである以上、沈滞ムードに覆われる日もあれば、音楽の神と突然つながることもあるはずです。そういうのを意図的に演じるのはだめだとしても、特にライブでは普段のあり方を大きく変える興奮に包まれることもあります。カラヤンのラストコンサートと銘打たれた来日公演のブラームスのCDは、自分の中のカラヤンのイメージを覆すような体験でした。生で聞いたわけではありません。配信などなかった頃、試聴した店でヘッドフォンを押さえながら居心地が悪くなったのです。作曲家の武満徹氏がこのときのコンサートのことを新書本に書いています。ネットにもたくさん引用されており、その一文だけでカラヤンのその演奏の空気感が伝わってくる巧みな言い方をしておられるので読んでみてほしいと思います。それによると、なんでもチケットをもらって期待せずに聞きに行ったのだそうです。それがあろうことかいたく感激してしまった。そして「良かったよ」と人に素直に感想を述べたところ、返ってきた反応は「ああ、武満も落ちぶれたな」というものでした。

 技術に信頼を置き、レコードや映像記録を生演奏よりも大切にしていたと陰口をたたかれたカラヤン。「エンペラー」への風当たりが強いのは当然だけど、そうした批判者と同じ捉え方を自分もまた長い間して来ました。「湧き上がるものよりも音響的な形にこだわる即物主義」、「世界を牛耳るマネジメント会社との蜜月」、「一代で大きくなった会社の社長のような躁鬱」といったようなことです。陰口は蜜の味。でもこの世界的指揮者は脳に障害を負った無感情な天才なんかではなかったのです。

 最後の来日となったコンサートでのこの熱気の渦の中で、カラヤンは何を感じていたのでしょう。五ヵ月後のロンドン公演で演奏された同じ曲のCDもBBCから出ているので取り寄せてみましたが、リミッターのかかった音源ということを除いても、日本でのこの鳥肌の立つ興奮には及びませんでした。生で聞けた人は幸運だったでしょう。オーボエについては武満氏の指摘で十分として、弦や金管が、途中から堪え切れずに音色を変えてクレッシェンドするのを聞くだけで熱くなって来ます。オーケストラだけが白熱していたとは思えません。大きなテンポのうねりやラスト手前の鬼気迫る拍動の遅さは指揮棒がもたらしたはずです。 75年のベームの来日公演でもブラームスの1番は圧倒的な迫力で、その頃のベームのまったりしたスタジオ演奏とは別物でした。しかしここで聞かれるのは日本びいきの実直な好々爺ではなく、またロマン派フルトヴェングラーでも、演奏の一回性を標榜するチェリビダッケでもなく、カラヤンなのです。
 たとえどんなエピソードがあったにせよ、人の一生に何らかの意図があるものなら、それは計り知れないものでしょう。カラヤンが最後の日々をどう生きたのか、そのとき何を感じていたのかは、やはり天国の本人にしか分かりません。



    bohm1975
      Brahms Symphony No.1
in C minor, op.68
      Karl Bohm   Wiener Philharmoniker  March 17, 1975  NHK hall, Tokyo ♥♥

ブラームス / 交響曲第1番ハ短調 op.68
カール・ベーム
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 /1975年3月17日 東京・NHK ホール ♥♥
 カラヤンと並び称されたカール・ベームの最後の方のライヴ演奏も、これまた驚くような気迫を見せることがありました。これは厳密には彼のラスト・コンサートではないものの、晩年の演奏ではあります。その頃に録音されたレコードはゆったりとした遅いテンポのものが多く、中には気が抜けていると評した人もいたほどです。そんな中、この来日公演では忘れられない燃焼を見せてくれました。もはや伝説的な名演と言ってもいいでしょう。テンポが大きく伸び縮みして圧倒的な熱をもってラストへなだれ込む様はライヴ収録特有です。カラヤンとベーム、並んで世界の巨匠と呼ばれた指揮者とオーケストラが、日本での公演においてこうも白熱した演奏を揃って聞かせてくれたのは興味深いことです。



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