古典交響曲、なんのこと?
     プロコフィエフ / 交響曲第1番「古典交響曲」op.25


    prokofievclassical
      
Prokofiev   Symphony No.1 in D major, op.25 "Classical"
       No.5 in B-flat major, op.100
       André Previn    Los Angeles Philharmonic Orchestra ♥♥

プロコフィエフ / 交響曲第1番「古典交響曲」ニ長調 op.25
交響曲第5番 変ロ長調 op.100
アンドレ・プレヴィン / ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
♥♥

 プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、おそらくは一部の 曲でリストとワーグナー、ドビュッシーも。これらは皆、十二音技法の作曲家以外で、「現代音楽」へ の入り口に立っているとされる人たちです。そしてそんな要素のある曲たちは、聞いて情緒的に楽しむか、思考が先に立つかの境界に位置してもいます。 一方でシェーンベルクやウェーベルン、ベルクといった「新ウィーン学派」と呼ばれる人たちが持ち込んできた十二音技法の方は、あるいは「無調音楽」というものは、「現代音 楽」のいわば本線となったわけですが、それは1オクターブの中の12の音を、一つの音を使ったら残り全部を使い切るまで再び同じ音を使うことができない、という規則を設けるなどして、特 定の調性から自由にするというものです。これは規則であって理念、つまり思考なので、我々が情感と呼ぶものをそこに込めることは難しくなります。思考から感情が芽生えることもあるにせよ、一般的には両者は相反する機能を担うからです。結局「〜からの自由」を目指し て音楽は発展して来た結果、その自由をもたらすための別の規則に縛られることになったわけです。

 他方、現代音楽のもう一つの特徴とも言える「不協和音」はその無調からも結果的に引き出されますが、捉え方はちょっと違っており、複数の音の振動数比率が互いに整数比かど うかということになります。これも協和音からの自由という意味では、「〜からの自由」という理念が先に立ちます。同様にして現代音楽は「時間からの自由」 である偶然性の音楽、さらに進んで「音そのものからの自由」である、音を出さない音楽にまで進んで行きます。もちろんその傍系としてそういうことに不器用な作曲家たちは いたし、最近では十二音技法も過去の遺物になって来て、再び感性に訴える曲も作られているようです。しかし人間の精神活動において現代というものは、美術 界であっても同じような動きを生み出してきており、ただ便器を飾っただけの作品も出たりしました。それは 「目の前にある美しいもの」という美術の縛りからの自由であって、それを見た者の頭の中で完成させる作品に進化したのだと言われます。こうした全ての活動のキーワードは 「思考」、および「新しいもの」です。

 では誰が思考と新しいものを欲しているのでしょう。それは自我、あるいは理性、ということになるでしょう。 アダムとイヴが知恵の果実を食べて以来、自我と理性からの再度の超越が「神の国」(もしくは悟り)への道となりました。あるいはそこまで言わなくても、心 理学的にも極端な思考の優位は病理となります。音楽においても、その複雑化の歴史は自我肥大の歴史であり、規則を破って新しいもの になることの連続でした。「ソナタ形式を破ったベートーヴェン」というようにです。彼の偉大さがソナタ形式を破ったことではないとしても、学問としてはそういう方面からしか論じられません。進歩は前の人が作ったものと同じでは得られないので、何か新しい要素を加えなければ作曲家は評価されない わけです。人と違うという差別化、それこそが自我の求めるものです。

 大袈裟な話だけれど、どうも現代音楽にはついて行けないということが言いたいのです。そういう人はたくさんいるんじゃないでしょうか。ちょっと難しい音が出る時代の作品を挙げて「その辺りをよく聞くよ」と言ってるファンの人に接すると、下衆の勘ぐりだけれども、どうもそういうのを理解して聞いている自分を格好良く感じてるように毎度感じてしまいます。人は調性に馴染んでそこに情感を感じるし、協和音に安心して不協和音に不安要素を聞くものだからです。他の人のことは分からないので、もしかしたら複雑な音を楽しむ人の方がどこかが発達しているのかもしれないけど、個人的にはクラシック音楽で聞ける境界は、冒頭で述べたプロコフィエフ云々の人たちとなってしまいます。しかも、プロコフィエフも聞きやすい曲以外はだめです。「つかの間の幻影」ぐらいならきれいだと思う瞬間もありますが、不協和音が多いところは安らげません。そういう意味で、交響曲の中からここで第1番と呼ばれる「古典交響曲」を取り上げました。名声を得ようとすることに関係なく、昔の人の様式を踏襲しているからです。


 プロコフィエフの「古典交響曲」はハイドンの技法を用いた交響曲であり、もしハイドンが今生きていたら、という発想で作ったそうです。他の曲とは違って、短いけど優美な作品です。「時計」みたいなリズムの部分など、 ハイドンよりハイドンっぽいかもしれません。もちろんハイドンにはない現代的な要素も音としては聞かれます。そして、これだけ作っただけでは作曲家として評価されることはなかっただろう曲だけど、これだけあれば満足です。ハイドンの交響曲と言えば「朝、昼、晩」は優美ながら、円熟期の有名作ともなると楽しくはありながらも大袈裟にふざけたりするので、人のいいパパを遠巻きにしています。プロコフィエフのハイドンには軽さがあって楽しくもあり、同時に美しくもあります。緩徐楽章はさわやかで、至福を感じます。

 CD は第二次大戦にインスピレーションを得たという、人気の第5番とカップリングになったアンドレ・プレヴィンの盤を気に入って聞いています。5番の方は「祖国愛」などとも言われますが、不協和音はあるものの、どこか懐かしい、不安と安らぎが混じったようなすごくきれいなパートも聞けます。プレヴィンはテンポも遅くなり過ぎず、フレージングがごつごつせず、柔軟で機知にあふれていて優美です。こういう曲をやらせたら一番ではないでしょうか。録音がフィリップスなのもまた美点で、このレーベルらしい生っぽい音というのか、弦が輝かしく固まったりせず、自然な艶と倍音を聞かせながらやわらかく響きます。1986年のディジタルになってからのものながら、バランスの良い名録音だと思います。




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