脳のひらめき
      ショスタコーヴィッチ / 交響曲第5番

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 旧ソ連の抑圧下でいかに苦しんだかということは、作曲家ショスタコーヴィッチを語る上で避けて通れない問題でしょう。共産党からの批判と自己批判の強制、求めるものと求められるものとの板挟みという状況は、彼への評価の転変とともにあちこちで議論されています。我々がもし学びを選択して生きているなら、何とも大変な体験を選択したものです。

 しかし弾丸の破片が頭の中にあったという話はどうでしょうか。どうも第一次大戦時に受けた傷によって、金属の破片が左脳の側頭葉に残ったままになっていたらしいのです。脳の中でもこの部位は記憶と音の知覚に関わる ところで、ここへの血栓の圧迫で夜中に突如音楽が鳴り響き、どのラジオが鳴っているのかと探しまわった人もいたそうです。ペンフィールドという学者は実際に実験でこれを確かめています。手術のために頭蓋骨を開き、脳がむき出しになっていながら目覚めている状態の人に対して、その脳の各部に電極を当てて微弱な電流を流してみたところ、患者はあたかも今音楽を聞いているかのように感じることがあったというのです。そして音楽とともに懐かしい、もう完全に忘れてしまっていた記憶が感情をともなって蘇ってくることもあります。てんかんの患者においても、けいれん発作が起きる直前に同じ体験をする人がいるそうです。ショスタコーヴィッチの場合は、それが脳に残っている弾丸の金属片によって引き起こされていたのです。前述の血栓の女性は子供のときに聞いたアイルランド民謡をなつかしさとともに思い出したのですが、ショスタコーヴィッチは頭を片方に傾けると金属片が動き(レントゲンで確認できました)、それに刺激されて様々な、聞いた事のないメロディーが鳴り響きました。そしてそれを作曲のイマジネーションとして活用していたため、手術によって取り除くことを拒否したという話です。これはこの作曲家を診た中国系の神経科医師、デジュエ・ワンによって明かされた秘密で、オリバー・サックスという神経学者の本、「妻を帽子とまちがえた男」に書いてありました。オリバー・サックスはロバート・デ・ニーロとロビン・ウィリアムズが演じた映画「レナードの朝」の原作を書いた人ですが、これは本当の話でしょうか。

 すばらしい芸術作品が脳への単純な刺激で生まれる、こういう風にこの話を考えたがる人もいることだろうと思います。唯物的な科学者なら、芸術の着想も人生の意味も全て脳の中に刻まれた信号であり、脳から生じている物理現 象だと強硬に主張するでしょう。そういう人は「わからないこと」に対する恐れが大きいので、幽霊や UFO 体験に戦いを挑むテレビの反論者同様、細めた目と口で「私はすべての可能性を検証して、受け入れる準備があるのだ」と言いながら結論は初めから決めていま す。確かに、頭の中で子供時代のアイルランド民謡が鳴った女性は、何度も同じ歌が細部までよく聞こえ、家族への 同じ記憶が蘇ってきたそうです。脳への刺激実験でも、実に様々な記憶の中の音楽が、オーケストラから両親が歌うクリスマスキャロルにいたるまで再現され、どうやら細部まで、そのとき体験したままの正確さで聞こえるようで す。ということは、脳の中に記憶として体験の完全なセットが刻まれているようにも思えます。退行催眠でも同じこ とは起きます。これは針がハードディスクの円盤をなでるとき、松脂の粉を飛ばしつつ擦っているヴァイオリンの弓の音が正確に再生されることと同じかもしれま せん。そうやって脳神経細胞とシナプスの固有の結びつきの中に、全てが説明されるのでしょうか。

 反対に「実存」という言葉が好きな人、魂というものを認める人、スピリチュアルな体験を持つと言う人々は、脳 をレコーダーになぞらえるよりも、むしろ受信機に喩えたがります。仮に各々の具体的体験に呼応する神経繊維の束 が存在するにしても、それは「通り道」であって、起源ではないというのです。もっと大きなものの、単なる物理的 反映物が脳細胞だというわけです。オリバー・サックスも含めてこちらの側に立つ人々は、体験を「目的」という 観点から見ることを好みます。偶然の事故で脳がかき鳴らされるのではなく、そこには深い意味があるのです。
 サックスの患者だったその女性は孤児でした。生まれたときには父親はおらず、母親も5歳になる頃には死んで、 アイルランドからアメリカの里親に引き渡されました。5歳以前の記憶は全くなく、彼女は自分が見捨てられている という感情を抱いたまま老年になるまで生きてきたのです。血栓による刺激は、ただでたらめに記憶を呼び起こすの ではなく、彼女が必要としていた「自分は愛されていたことがある」という記憶をアイルランド民謡とともに思い出 させました。同様に、ショスタコーヴィッチの話がもし本当なら、記憶とは関わりなく毎度違う音楽が鳴ることでイ ンスピレーションを得ていたということは、天からのラジオ電波をひらめきとして受信できる天才音楽家と同じこと かもしれません。モーツァルトは天上の音楽を受信していたのだと信じる人たちがいるようですが、彼ら天才たちに とっては、その脳が物理世界に存在していたのと同じように、ショスタコーヴィッチの場合は弾丸 の破片が受信回路の一部を成していたということになります。しかも作曲という目的に向けて。モーツァルトはてんかんだったという説もあるそうですが。

 さて、ショスタコーヴィッチについてはあまり多くのことが書けませんので、最も有名な交響曲第5番を取り上げ るのみにしておきましょう。弦楽四重奏曲も聞いてみました。バルトークのそれと並んで大変深淵な音楽です。 バルトー クの方は現代音楽に近づいて、音がより要素で成り立っているような抽象性があるのに対し、ショスタコーヴィッチ はさらに現代音楽の時代にありながらも、クラシックな様式をとどめた作曲家です。ただ、どちらも私には何という か、しょっちゅう聞くには重た過ぎます。一方でこのシンフォニー は、たとえ時代逆行の技法だったにせよ、まったくもって美しい名曲です。



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      Leonard Bernstein   New York Philharmonic

レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニック
 有名なのは、まずバーンスタインの演奏なのだろうと思います。振りの大きな演奏をする人です。作曲者自 身が会場で聞き、大変感激してステージに上がってこの指揮者と握手をしたという逸話があります。大変な才能で、ウェス トサイド・ストーリーのあのメロディーは彼から紡がれてきました。ただ、個人的には少し、ショーの要素が聞こえ るように思えるときがあります。テンポの大きな揺れと強弱の激しさは、同じことを指摘されるドイツのフルトヴェ ングラーとは趣きが違い、あるいは他のいわゆる「熱血」な指揮者たちとも違うような気がします。興奮においても 前もっての計画性があると言ってしまうと、褒めていることにはならないでしょうか。1959年の録音です。



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      Evgeni Mravinsky   Leningrad Philharmonic Orchestra

エフゲニー・ムラヴィンスキー / レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
 それから名前が挙がるのは、特に日本ではムラヴィンスキーということになります。この人の録音は数々あり、こ の曲ではないながら私も生で聞いた経験があります。わが国には「本国もの」信仰というものがありますが、この第 5については彼が初演者であり、その威光は最大です。
 ムラヴィンスキーの演奏する姿は DVD や YouTube で見ることができます。厳しい空気を感じます。バーンスタインとは違った空気ですが、同じく事前に完璧な打ち合わせが済んでおり、「言われた通りにやるよ うに」と指示されているかのような雰囲気を感じます。当日指揮者は厳しく管理しているだけで、 「これは仕事であり国家の使命である。間違いは許されない」、そんな感じの映像です。体制に対するバイアスから そう見えるのでしょうか。しかし私にはちょっと怖く感じられる彼も、話によると私生活ではロシア人にときどき見 られる生真面目で悲しみに浸るようなナイーヴさを持っていたということで す。傷ついてない人などいませんが、彼もまた何かに耐えていたのでしょう。
 しかしその演奏は、ときに力強く感動的な盛り上がりを見せることがあります。非常に抑えら れた表情で推移している分だけ、そこへ至ると圧倒的な感情の激発となります。厳しさのあるこういう音はなかなか聞けるもので はありません。オーケストラ自体も、言われる通り確かに寒いロシアの、あるいは 厳しい体制の寒色系の音です。生でもそうでした。乾いた金管の音は短く荒々しく、寝てる人を起こすチャイコフス スキーの突然のフォルテでは度肝を抜かれます。このCDで も、第三楽章で針を落としても聞こえそ うなほど張りつめたピアニシモから暗い感情が煮詰まってくるところなど、他では味わえないものがあります。
 この盤は1973年の東京公演でのライブです。



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マリス・ヤンソンスの演奏について
 そのレニングラード・フィルのムラヴィンスキーの下で後継者と目されていたのがマリス・ヤ ンソンスです。ところがどういうわけか、あると き彼は西側へと出て行きます。 本当のところはわかりませんが、 世間は色々言うものです。レニングラード・フィルはムラヴィンスキーのカラーをまとって決してやり方を変えず、 ヤンソンスの指揮棒に応えなかった、彼はナンバー2にその座 を奪われた、と。
 ただ、近頃のヤンソンスの指揮ぶりを映像で見ていると、確かにムラヴィンスキーとそのオーケストラが醸し出す雰囲気の180度裏を行っているよ うに見えることも事実です。熱が入ってきたときにテンポが大きく揺れるという点など、少なくとも音楽表現の面で は 類似性があると言えなくもないとは思いますが、演奏しているときの様子は大変異なり、ヤンソンスのコンサートはきっ ちりしてはいても和気あいあいとしており、楽しげです。これは時代と体制の 違いでしょうか、それとも人柄の違いなのでしょうか。ヤンソンスはロシアから出た後、ヨーロッパの中では辺境と 言ってもよいかもしれないオスロ・フィルハーモニーを鍛えて有名にし、以後あちこちでその才能を発揮し、今の地位に至っています。
 そのオスロ・フィルハーモニーと演奏したショ スタコーヴィッチの第5番のライブ演奏の模様が FM で放送されたことがありました。ずい分前の話で、どこかの放送協会が録音したテープを流したのだと記憶していますが、それが圧倒的な名演でした。 もしCDで出たらベスト盤になるでしょ う。巧みな表 情が意外性を感じさせつつ見事に連続し、形の上ではバーンスタインの強弱とテンポの揺れに劣らない ほどの盛り上がりを見せており、それでいて真摯な感動を伝えてきます。あまり良かったので、その後に出た同楽団 との CDを 買いましたし、ウィーン・フィルとの再録音も聞きました。しかしそれら CDになったものはど うも違うようです。

 そのときの演奏ではありませんが、1986年にレニングラード・フィルが来日したときに、ムラヴィンスキーの 代役としてヤンソンスが演奏した同曲のコンサートもありました。これはインターネットに投稿している人もいて、 現時点では聞くことができるようです。日本のテレビが放映した番組が台湾でも流され、どうもそれをアップしたみ たいです。この演奏もなかなか素晴らしいと思います。当時話題にもなったようですが、今聞いてみて、記憶の中の オス ロ・フィルのライブと正確に比べることは困難ですが、記憶が美化されていなければオスロのときの方が熱が感じられたように思います。それ以外にもコンサー トの模様は2つほどアップロードされているようで、ガスタイク・ホールで行われたミュンヘン・フィルとの 2005年10月のものなど、来日のときの演奏より素晴らしく、もはやオスロ・ライブとどちらが名演だっか自分 でもわかりません。録音の音色バランスも悪くないですが、圧縮音源なのとリミッターがかかる箇所があるのが残念 です。音楽 DVD か CDで 出してほしいものです。それと、ダウンロードしたものを MPEG4 からCD形 式に変換するのは技術的には可能ながら、日本は著作権問題に関して業界団体側に有利な国ですので、ネット上 のコンテンツについて言及するのは躊躇します。しかし良い演奏をウェブで聞けると いうことはありがたいことです。各地に残っている数々の名ライブ音源を、有料ででも CD フォーマットでダ ウンロードできる時代が 来ればもっとありがたいのですが。

 レニングラード・フィルが初演したこの曲へのヤンソンス思いはいったいどのよう なものなのでしょう。最近の録音はブラームスの1番・4番をはじめ、素晴らしいものがありますので、この曲につ いても新しいライブ録音が出るのを楽しみにしています。



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      Bernard Haitink   Royal Concertgebouw Orchestra

ベルナルド・ハイティンク / ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 オーソドックスなスタイルの演奏で何かないか。そういう観点からすると、ハイティンクの指揮したロイヤ ル・コンセルトヘボウ管弦楽団のものが良かったように思います。この人らしく、大きなテンポの揺れがあるわけではないですが、瑞々しくて散漫にならず、肯 定的な緊張感を感じます。曲の持つしがらみから解放され、純粋 なオーケストラ楽曲として細部まで磨き上げられています。1981年のデジタル録音も大変優れており、やや細目の艶が乗った残響のき れいな音で、低音も包み込むようにやわらかく鳴りま す。息を殺すような第3楽章の緊張はない代わりに、音に安心して身を任せられます。



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      Shostacovich Symphony No.5
      Constantin Silvestri  Vienna Philharmonic Orchestra

コンスタンティン・シルヴェストリ / ウィーン・フィル
 コンスタンティン・シルヴェストリという指揮者、1969年に亡くなってい るルーマニア出身の人で、バーンス タイン同様に振りの大きな、個性的な演奏をする指揮者ということになっているようです。LP の時代、ウィーン・フィルと録音したこの人のショスタコーヴィッチの5番がセラフィムという廉価版シリーズで国内販売されていたことがありました。音源は EMI の62年の録音です。そして、まったくの先入観なしで安いから聞いていたその演奏が、今聞き直してみるといいのです。ややゆったりしたテンポで抑え気味ながら抑揚のついた第一楽章。しかもその 抑揚は皆が奇抜だと言うほど決して不自然 なものではありません。スタジオ録音の冷静な性質が彼の場合はうまく中和作用を起こしていたのでしょうか。ためのある静かな第三楽章は破綻なく、部分部分のリタルダンドが個性的です。北国の湖に立つさざ波のような風合いが良く出ていると思います。それでいて情緒の振幅があり、中間部は鮮烈です。終楽章の始まりは一転し て速めのテンポでぶつけてきます。
 SHINSEIDO SGR (The Great Recordign of Angel) という国内のレーベルから出ていますが、限定発売ものでしょうか。 音は LP よりも少し弦が痩せて高域が鋭い感じもあるため、自分で少々「リマスタリング」してみましたが、ステレオ初期としては今でも十分通用するものだと思いま す。iTunes などに入れるならイコライザーで高域をやや下げるとよいでしょう。



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      Shostacovich Symphony No.5
      Karel Ancerl  Czech Philharmonic Orchestra

カレル・アンチェル / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
 ドヴォルザークのページで書き ましたが、カレル・アンチェルは家族全員をナチに殺されたという過去を持っていた人です。そういう前知 識を持って聞くからというわけではないでしょうが、ここでのショスタコーヴィッチの音楽は大変厳しく、 ときに突き刺さるような、しかも透徹した感触があるように思います。この曲独自のアイデオロジーによる 表現だとは思いませんが、はったりのない表現ながら緊張した空気感と、ある種の超越が感じられることは 事実です。静かな燃焼といった感じでしょうか。チェコの民族色というよりは、もっと寒色系の、そうした マインドによる着せものには縁のない名演だと思います。

 第一楽章は遅めのテンポで深々と、確固たる足取りで進みます。落ち着いていますが、切々と訴えてきま す。感傷的というのとは違う感じですが。フレーズを丁寧に歌い上げ、静かなところでは内省的です。テン ポは揺らしませんが、遅いところとやや速めるところの違いがくっきりと分かれています。途中から乗って 来てワーっと走るということではなく、重さと真剣さがあり、ブロックごとに伸び縮みしている感じです。 したがって表情があるわけですが、強く主張する際には遅めるところに力点が来ます。ヴォルテージは高い が、決してアジらない演奏です。

 第二楽章でも確固とした足取りは変わらず、やや遅めでくっきりとしたフレージングが全体に貫かれてい ます。

 第三楽章はフレーズをつなげ、長い息のように波打たせて行きます。遅いテンポで派手な盛り上げはな く、厳しい緊張感があります。三分の一あたりから始まる中間部の盛り上がりにおいては、思わず背筋を延 ばす感じになります。中ほどのオーボエにはきっぱりとした鋭い音で吹かせていて良いです。

 第四楽章も同じく、遅めでしっかりとした足取りで始めますが、途中からアッチェレランドして走るとこ ろも出てきます。興奮度が高まるという感じですが、テンポの細かな揺れという方法論ではありません。 フォルテでの力強い盛り上がりは強烈です。そしてラストも大変堂々としています。

 1961年のスプラフォンの録音は、このステレオ初期特有の音の癖がありますが、全体のバランスとク オリティーは驚くほど高いと言ってよいでしょう。ノイマンより前の人だからと躊躇する必要は全くありま せん。癖というのは、ややドライな高音弦のテクスチュアがあり、管にもピーキーな倍音が強調されたとこ ろが出るということです。全体に高域のある部分のみハイ上がり傾向があるわけで、リマスターによって落 としてやれば落ち着くはずですが、逆にハイファイに感じられるように高い方を上げるというのがレコード 会社の一般的な施策なので、最初から期待すべきではないのかもしれません。自分で調節すればいいのです が、なかなかそこまではやらないことが多いでしょう。もちろんそんな手段を講じなくても、十分に楽しめ ます。こうして古い録音を再発してくれるだけでありがたいことです。



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      Shostacovich Symphony No.5
      Andris Nelsons  Boston Symphony Orchestra


アンドリス・ネルソンス / ボストン交響楽団
 ネルソンスはラトヴィア出身の1978年生れ、ラトルが有名にしたバーミンガム市交響楽団の後釜というのか、一人置いて常任に就任した人で、2014年からはボストン交響楽団の音楽監督の立場にあります。したがってこの CDは彼がボストンに来てから取り組ん だ最初のものの一つということになります。ブラームス の2番のところでも触れましたが、いやはや、大変な人が出てきました。ヤンソンス、ラトル、ヤルヴィと、才能あ る指揮者の登場は人々を驚かせましたが、思うに彼も、間違いなく次代を担う大物の一人になるんじゃないでしょう か。光るものがあります。そしてこのショスタコーヴィッチの5番、ヤンソンスの昔のライブが CD化 されない現在、 CD音源としては最も感動した一枚です。

 この人の資質をどう表現したらよいか、ひとことで言うのなら、真摯、と言ってよいのではないかと思います。自 然な揺れは大変感動的ながら、テンポを恣意的に動かすような細工はありません。チェロのヨーヨー・マが持ってい るような真っすぐさが性質として感じられます。ケレン味のない、技巧のみに頼らない方向性です。方向性というと すでに意識的過ぎるかもしれません。彼に比べると、あの自在で楽しげなヤンソンスですらもっと作為があると感じ るかもしれません。それがよく現れているのは曲の静かな部分での進行で、大変しっとりとして優しく、落ち着きが あります。丁寧に歌って行くところから現れる、曲本来の純粋さ。美しさがあぶり出されるというのか、にじみ出て きます。あえて言うなら、女性的な資質と表現してもいいかもしれません。受容的で、先走らず、今の瞬間を大切に して行くのです。そしてそういう性質があるのに、この人のエキサイティングな盛り上がり、例えばラストに向けて のクレシェンド、圧巻のフォルテ、そして呆然とさせられる締括りの熱は並大抵のものではありません。女性的で繊 細な感受性と忘我的なスケールの大きさが共存しています。

 第一楽章は遅めのテンポで、静かな演奏かと思わせる入りです。滑らかにゆったりと歌わせ、落ち着きがありま す。弱音部での美しさは際立っています。スラーでつなげる滑らかさはアンチェルの弱音部での扱いにも共通するか もしれませんが、ああいう寒色系の緊張感とはまた少し違います。より全体につなげて行きます。しかし中間部での 盛り上がりはしっかりと力強く、駆け出したりはしないものの、クレッシェンドには力とテンションがあります。全 体としてはまだ、落ち着いた演奏という印象かもしれませんんが。

 第二楽章もまた落ち着いた美しさに彩られています。遅めのテンポで、それが全編貫かれます。ラストに向けてあ えて抑えているのかと思わせるほどです。

 第三楽章はこの曲の大変美しい部分ですが、やはり滑らかな弱音で落ち着いた美を味わわせてくれます。ゆったり と息が入り、過度な深刻さや苛烈さはないながら、最弱音の静けさとやさしさにはこの人の素直なパーソナリティが 表れているのではないでしょうか。歴史的なドラマとかアイデオロジーとかではなく、絶対音楽としての純粋な美し さです。暴力とは縁のないやすらかさ、静かな歌の美しさ。オーボエにも刺さるような鋭利さでは吹かせていませ ん。この曲のこの楽章の、最も静寂な演奏だと言えるのではないでしょうか。ラストではテンポも大変遅くなりま す。

 第四楽章。圧巻です。最初から目が覚めるというほどではないと感じるかもしれませんが、一転して力強い音楽が 立ち現れてきます。テンポは早くはないですが、もはや遅いとは言えないものになっています。この楽章には全体の 三分の一あたりで一度大きく盛り上がる箇所があるのですが、そこでのクレッシェンドの力強さと迫力は真性なもの です。オーソドックスにして、ヤンソンスのようにテンポを揺らすわけではないですが、集中とテンションが保たれ ていて、まったく感動的です。そして最後の解決へと向かうクレッシェンドの何と圧倒的なこと! はったりと嘘の ない、本物の感動に我を忘れました。

 レーベルは大手ドイツ・グラモフォンですが、最近の例にもれずライブ音源であり、一頃このレーベルが持ってい た高音弦の固まる傾向と輝かしさはなく、自然な音が心地良いです。派手さはないですが、この曲の優秀録音だと言 えるでしょう。2015年の収録です。