オルフ / カルミナ・ブラーナ クラシックの入門曲 7
音の無国籍料理のような音楽です。1936年にドイツの作曲家、カール・オルフによって作られた作品ですが、ここでクラシックの入門曲の一つとして数え たのは聞いて難しい曲ではないからです。土俗的な舞踊だったりアリアだったりします。無調や十二音技法の作品が出て来た後ながら、そういうことには全く関 係なく作られたものです。「惑星」にしてもショスタコーヴィッチにしても、「浄夜」や「アランフェス協奏曲」にしても、結局後世に聞かれ、録 音も多く行われる作品というのはこのように正常進化から外れて作られた、それまでの聞きやすい音階とハーモニーを持ったものということになります。しかし このカルミナ・ブラーナではオルフは一応、無調の方向は取らなかったものの本人としては歴史的に新しい作品の形を模索した結果こうなった、ということのよ うです。その新しさの一つは編成が巨大だということ。混声合唱に少年合唱、編成の大きなオーケストラ、独唱陣、本格的にはバレエを伴って演奏されるという 念の入れようで、そんなに大勢使ったら経済的な意味で上演されなくなるじゃないかと心配になるものの、人気を誇ってちゃんと取り上げられる曲となりまし た。しかもこれだけ賑やかだと鳴り物好きにはこたえられないのであり、入門曲としても楽しめます。問題は演奏評をしようとすると管弦楽、合唱、独唱などと 着目点が多過ぎて困ることです。 聞いた感じ 音の傾向としては後述する歌詞の内容に従って大変世俗的なもので、ちょっとはちゃめちゃなお祭り騒ぎのような賑やかしさがあります。決してお上品なもの じゃありません。オルフ自身が付けた副題には 「魔法的印象を持った俗世的な歌(secular songs with magic images)」とあります。「春の祭典」とは違うものの原始的なリズムが強調され、人懐っこいというのか、決まった音型のくどいほどの繰り返し手法(オ スティナート [執拗反復] という専門語を使う人もいます)も出ます。美しいところも滑稽なところもありますが、元が中世の音楽だからといって五度音程などには固執せず、節回しは民 謡のようであり、どことなくロシアの地声の合唱団みたいに聞こえるところがあるかと思えば、「今こそ愉悦の季節」の「オ、オ、オー、トトゥス・フローレ オー、ヤマモレ・ヴィルギーナーリ、トトゥス=サルデオー」のところが日本の童謡に何かそっくりなのがあった気がして思い出せずに身を捩ったりもします。 まあそれは当然で、民謡の音階というのはどれも似ているのです。それよりもライオネル・リッチーの「田んぼ行って捨てて来いや」的な空耳仲間の宝庫だから 楽しい と言う意見もあります。合いの手が「あ、どした」を連発してるように聞こえるところもあります。 作曲の経緯 新しい試みであるもう一つの理由は、曲の成り立ちです。1803年に南ドイツの修道院の図書館から大量の歌が含まれた写本が発見されました。それがカル ミナ・ブラーナです。「知られざる歌曲集」の意味のラテン語ですが、修道院だからといって宗教的なものというわけではなく、むしろ内容的には大変世俗的 で、恋愛、酒、社会風刺を含む歌詞です。11〜13世紀頃に修道院を訪れた人々の作だろうとされており、その四分の一にはグレゴリオ聖歌で有名なネウマ 譜でメロディーも付いています。つまり古楽の分野で大変話題になるようなものであるわけで、カルミナ・ブラーナのタイトルでそうした昔風の音を聞かせてく れる面 白い CD もいくつか出ていますが、オルフはあえて当時を再現するという学問的なものとしてではなく、己がインスピレーションとして利用することで現代的な曲を作っ たわけです。したがって曲の雰囲気と歌詞内容も大変世俗的で聞きやすいものとなって人気を博しました。 歌詞の傾向と構成 歌詞の意味から見た構成としては、まず最初に運命の女神フォルトゥーナが人間に栄光や幸福を与えては奪い去るという残酷さを歌う部分で幕を開けます。そ して途中酒に酔って歌う、「白いやつが飲む、黒いやつが飲む、貧乏人が飲む、司祭が飲む、少年が、老婆が、千人が飲む」といった酔いどれの連呼を挟んだり しながら、でもほとんどが愛について語ります。春になって皆が求めるパートナー、そこには性愛の傾きがあり、特にオルフの場合はどうも少女の目覚めだった りします。マリアが関係するかどうかはともかく、処女を手に入れるといったポイントに中心が置かれているかのようだからです。もちろんその歌が書きつけら れた時代と社会的・宗教的背景を考える必要はあるわけで、もし修道僧が書いたなら抑圧や妄想もあるのかもしれません。そして力を手にするものはそれを謳歌 し、純粋な愛を手に入れる者はその幸せに酔うと語り、「今まさに乙女の愛と純真を手に入れる、来れ美しい人、新しい愛、あなたに全てを捧げる」と歌い上げ ます。最後に「美しい処女、薔薇、世界の光、気高いヴィーナス、ヘレナ!」と褒め称えて感動的なクライマックスを迎えると、その後はもう一度最初の残酷な 運命の女神の 楽章を繰り返して終わります(個々の歌詞の内容は詳しいサイトがありますのでそういうところをご覧になってください。国内盤の CD に付属することもあるようです)。 話の意味するところ ここで運命の女神フォルトゥーナ(フォーチュンのことです)と呼ばれているのは、ローマ神話に出て来る運命を司る女神です。有名なことわざとしては、曲 の歌詞 にもありますが、「幸運を掴みたければ彼女が向かって来るときにその前髪を掴め」というのがあります。通り過ぎてその後ろ髪にすがろうとしても、女神の後 頭部は禿げていて毛がないので掴みようがないからです。図像としては人生の色々な出来事で飾られた大きな車輪の中心にいて、それを回す姿で描かれます。ど んな世俗の成功も愛の成就も刹那的であり、女神に輪を回されることでいつかそこから転げ落ちてしまいます。これとよく似たものに仏教の六道輪廻の輪があり ます。チベット文化圏などでよく曼荼羅に描かれていますが、無常という点でこの二つの絵はそっくりです。人間の無意識の中でそのように見える共通した象徴 の形なのでしょうか。仏教ではその輪を外れて成仏する(悟りに至る)視点を強調するために描かれますが、カルミナ・ブラーナでは無常の無情なる側面のみが 強調され、救いの位相はありません。最後にもう一度最初の楽章であるフォルトゥーナに逆戻りしてしまい、広い意味で捉えれば輪廻、サンサーラの内側の世界 を彷徨い続けます。正統キリスト教に輪廻はないとしても、車輪の話をしているわけであり、オルフが楽曲を環の形に閉じて円運動を描かせているということ は、 終わりなく苦しみ続ける我々の日常の姿を強烈に描いているとは言えるでしょう。もしその苦しさの自覚がただ愚痴を言う喜びに堕するのではなく、それ自体が そこから出るための一 つの悟りであるならば、般若心経の有名な文言の前半、「色即是空」の感得を表しているのかもしれません。あるいは、イエスが「永遠の命」と呼んだもので しょうか。いずれにせよ、人間の様々な現世のあり方、愛欲や忘我、絶望を面白おかしく並べた上で、それらは一瞬のうちに過ぎ去る事象に過ぎないと語ってい る作品 なのです。 Orff Carmina Burana Eugen Jochum Orchester / Chor der Deutschen Oper Berlin ♥♥ Schöneberger Sängerknaben Gundula Janowitz (S) Gerhard Stolze (T) Dietrich Fischer-Dieskau (Br) オルフ / カルミナ・ブラーナ オイゲン・ヨッフム / ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・合唱団 / シェーネベルク少年合唱団 ♥♥ グンドラ・ヤノヴィッツ(ソプラノ)/ ゲルハルト・シュトルツェ(テノール) ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) 決定盤的扱いになっており、大抵はここで話が終わってしまうような一枚です。そして実際に素晴らしい演奏だと思います。一般に高く評価されるわけは、作 曲者自身が監修しているということと、ヨッフムはこの曲の初演者だという二点でしょう。それに加えて声楽界のキング、フィッシャー=ディースカウが出てい るという面もあると思います。その上手さは誰にも文句がつけられない完璧なものだと言われ続けてきました。好きずきだとは思いますが、ここでもその特徴は 出ているのではないでしょうか。 しかしこのページでこの盤を一番に挙げるわけは、グンドラ・ヤノヴィッツが歌う「イン・トゥルティナ」です。演奏は主観でしか語れないという企画なので 元々 が個人的見解なのはお許しいただきたいのですが、たった二分足らずの短い曲ながら、ここはカルミナ・ブラーナで唯一叙情的であり、最も美しい部分です。感 動 的という意味ではおしまいから二曲目の「白い花とヘレナ」などもあるものの、この曲集から独立して演奏されるのはこの曲だけであり、その事実からも人気の ほどが窺えます。ヘンデルのオペラの中のオンブラ・マイ・フ、バッハの管弦楽組曲の中の G線上のアリアみたいなものでしょうか。世に存在するきれいなメロディーならジャンルに関わらずに歌ってくれるというミュージカルの女王、サラ・ブライト マンも取り上げているし、in trutina でビデオ検索をすればルックスも麗しく歌う女性の姿がいっぱい出てきます。したがってこの歌がだめだと他の部分が素晴らしくても気力が萎えるわけです。 さて、そのイン・トゥルティナですが、タイトルを英語にすると(ハング)イン・ザ・バランスということになります。以下に原詞と訳を記します: In trutina mentis dubia わが心は天秤のよ う に fluctuant contraria 二つの極を揺れ動く lascivus amor et pudicitia. 扇情的な愛と慎みの間 を Sed eligo quod video, でもそこにあるものを認 め collum iugo prebeo: 屈して身に受けよ う ad iugum tamen suave transeo. その甘きくびき を ここで扇情的な愛と訳した lascivus amor は性愛を示唆しているのだろうし、慎みとした pudicitia には純潔の意味があります。そこにあるものを認め、の部分は目の前にあるもの、つまりは誘惑のことであり、屈して身に受けよう、は(くびき)に首を差し出 すという直訳になります。これは魅惑される相手がいて乙女が陥落しようとしている場面なのです。仮にも愛の誘惑か純潔かで揺れる乙女心なのですから、あら ゆる修羅場をくぐり抜け、甘い言葉の裏にどんな苦労が隠れているのか知り尽くしたような声でエラ・フィッツジェラルドが場末の酒場で歌うブルース(名人芸 だけど)のようにやってほしくありません。大仰なポルタメントと波打つビブラートで誘惑するのはどうでしょう。その点当時三十歳のグンドラ・ヤノヴィッツ は速めのテンポをとって少女のそっけなさでさっと流し、二回ある盛り上げの中の二度目の prebeo の部分、くびきを引き受けてわが首を「差し出そう」(offer)というところでこらえ切れずに高揚してハッと息を呑みます。その部分の見事なこと。他に もちょっとだけ近い歌い方の歌手がいなくはないですが、格別です。声質も音程によっては若干少女のように聞こえるところもあります。シュワルツコップの次 の世代のドイツを代表するソプラノです。 1967年のドイツ・グラモフォンの録音です。LP 時代、最初の CD と聞いてきた人にとっては、ちょっときつい音だという印象があるかと思います。中高域が張ったかっちりとした音で、その硬いところが全合奏で耳に痛くなっ たからです。まあ、混声合唱という大人数の録音が難しいものだからそうなるとも言えるのですが、昔のブラウンのスピーカーの音作りとも似て、ドイツ人の文 化はどうもこういう生真面目なカチッとした音を好むんだなと思ってきました。音だけに限らないかもしれませんが、少なくとも60年代の DG の音圧バランスではままあったことです。それで自分はイコライジングを施して焼き直したりしたわけですが、最近は何度もリマスターされてきているようであ り、ざっと比較してみると新しい録音と並べてもさほど見劣りしなくなってきました。自分のはもっとソフトに加工して重心を下げたものの、オリジナルの特性 を出さなくてはいけないメーカーとしてはここらが限界でしょう。元々歪んだりはしていないきれいな音なので、十分だと思います。もはや古いからと躊躇する 理 由はありません。 Orff Carmina Burana Michel Plasson Orchestre national du Capitole de Toulouse ♥♥ Orfeón Donostiarra Choeur D'Enfants Midi Pyrenees Natalie Dessay (S) Gérard Lesne (C-T) Thomas Hampson (Br) オルフ / カルミナ・ブラーナ ミシェル・プラッソン / トゥールーズ・キャピトル管弦楽団 / オルフェオン・ドノスティアラ ♥♥ ミディ・ピレネー児童合唱団 / ナタリー・デセイ(ソプラノ) ジェラール・レーヌ(カウンター・テノール)/トマス・ハンプソン(バリトン) もう少し新しいところでプラッソン盤のソプラノ、ナタリー・デセイのイン・トゥルティナもいいです。多分、この名前をご存知の方は予想がつくご紹介かと 思いますが、清楚な声と歌い方で一部で人気な1965年フランス生まれのソプラノです。ダンサーが夢だったけど女優から聖歌隊員となり、オペラで活躍する 声楽家になったという経歴の人です。テンポはこれも遅くはありません。静かでやさしく包み込むように歌って、品があります。例の prebeo の箇所ではビブラートを用いながらもふわっと舞い上がります。他のところでは最もダイナミックに感情を動かし、思わぬところで引っ張る箇所もあり、声量も 伸びも大変あります。 それ以外の部分ですが、この盤はフランスの人たちだというのがこのカルミナ・ブラーナでは珍しいのではないでしょうか。ではフランス的な演奏かどうか。 これは何をもってそう言うかで違ってくるでしょう。力と真面目一方ではなく、粋に揺らしたりしながら繊細に美しく歌うというのが一般的なイメージでしょう けれども、元来フランス系の指揮者がそういう風にフランス的かというと、それもどうかと思います。ミュンシュは剛毅で力一杯のところがあるし、クリュイタ ンスは抑揚のやわらかさは あるもののベートーヴェンなどでは案外構築的、マルティノンはきれいに歌うけど中庸とも言え、ブーレーズは冷静です。となると案外統一された色というもの は認め難い気がします。共通点があるとすればモントゥーやパイヤール、そしてこのプラッソンの幻想交響曲だとかサティーをはじめとしたフランスものなどで 聞かれる緩やかな丘陵のような歌の抑揚、でしょうか。ところがこのカルミナ・ブラーナでは必ずしもそういう風でもないのです。それは滑らかに動かす旋律線 を 持たせた部分が曲に少ないからだと思います。代わりに目につくのがテンポを部分的に一気に速めるような効果の付け方です。この駆け出しはプラッソンにして は 意外でした。曲のダイナミズムを最大限に引き出そうというわけなのでしょう。それでもやはり野卑にならないところ、特にゆったりしたパートで静 けさが引き立つところが魅力だと言えるでしょう。次のインマゼール盤と並んで美しさでは甲乙付け難いです。トータルではこの曲らしい元気で面白 い効果も十分に感じられる名演だと思います。ヨッフム盤の詰まった音ではなく、ちょっと息もつけます。テナーはなんと、あのレーヌです。カウンター・テ ナーとして酔っ払い声で面白い効果を出しています。 1994年のエラートです。潤いがあり、ここで取り上げる三枚のうちでもっともきれいな録音と言えるかもしれません。色々な意味でカルミナ・ブラーナの 新しい第一候補と言っていいでしょう。 Orff Carmina Burana Jos van Immerseel Anima Eterna Brugge Collegium Vocale Gent ♥♥ Cantate Domino Yeree suh (S) Yves Saelens (T) Thomas Bauer (Br) ヨス・ファン・インマゼール / アニマ・エテルナ /コレギウム・ヴォカーレ・ヘント ♥♥ カンターテ・ドミノ / イエリー・スー(ソプラノ) イヴ・サーレンス(テノール)/ トーマス・バウアー(バリトン) もっと新しくて2010年代。インマゼール盤でイン・トゥルティナを歌うのは韓国のイエリー・スーです。韓国ドラマの女優さんみたいなルックスですが、 初めソウルで学んだ後ドイツに渡り、バーゼル・スコラ・カントルムではゲルト・テュルクに師事したようです。太くない品の良い声質ながらことさら少女声と いうわけではなく、落ち着きがあって安らげます。声量で押すタイプではないのでしょうが、強弱の付け方にセンスがあり、感情に任せて声を張り上げる人がい る ところでも力を抜いて丁寧に歌い、転がすようなやわらかさがあってとても良いです。高い音も力みなく伸びて、澄んでいます。 インマゼールとアニマ・エテルナはベルギーの古楽器の団体です。いい演奏がいっぱいありますけど、ここではことさらにバロック・ヴァイオリンの弦の倍音 が細くしなっていい、とかいう感じには聞こえません。もちろん古楽器奏法のアクセントがどうというレベルでもありません。見つかった楽譜は古い時代のも のだったにせよ、作曲者は現代の人であり、上記プラッソンがフランスらしい歌の抑揚をあまり発揮できなかったのと同じ理由で、弦がキューンと鳴くようなと ころが少ないからです。でも音色はきれいです。やや軽い音で、楽器と楽器の間に空間を感じさせる暑苦しくない響きのせいでやかましく感じません。出だしと 最後の「おお、運命の女神よ」のように音が重なるところもよく分解され、シンバルも高域が伸びていて心地良いのです。表現の上ではプラッソンのように走っ たりはせず、丁寧にじっくり進めます。この曲らしい世俗的な感覚はよく出すものの、やはりどこか上品なところも感じさせます。遅いところは大変ゆったりし ています。スローに分解して行くので曲の構造がよく見えます。バリトンの独唱部分は「昼も夜も、何もかもが」などでもゆったりやわらかく進み、フランス近 代の歌曲のように、例えばラヴェルのドン・キホーテを聞いているかのように聞こえます。ここで取り上げる三人のうちでは最も好みでした。また、ベルギーの テノールは酒を飲んでもどこか品を失いません。トータルで言えることは、三枚のうちでは全体にゆったりした進行だという意味で曲の美しさを感じさせると いうことです。最もきれいとも言えるでしょうか。静かなところの良さがあり、やわらかい陰影を持っていて、音の美しいプラッソン盤とどちらを取るか悩むと ころです。 ジグザグ・テリトワール2014年の録音です。これも見事です。プラッソン盤のようにやわらかく艶やかで潤いがあるというよりも、繊細な音を聞かせま す。細部がよく見えます。 INDEX |