ベートーヴェンのピアノ・ソナタ 20人聞き比べ
取り上げるピアニスト:バックハウス/ ケンプ/グルダ/グールド/ルービンシュタイン/ホロヴィッツ/ポリーニ/アラウ /アシュケナージ/ゼルキン/ギレリス/リヒテル/ペ ラ イア/オコーナー/ブレンデル/ピリス/ルイス/バレンボイム /シフ/グリモー ベートーヴェンのピアノソナタは、ハンス・フォン・ビュー ローに「ピアノ音楽の新約聖書」と呼ばれ(*)、 クラシック愛好家の間ではよく山に喩えられます。ベートーヴェン自身の作 品としても交響曲・弦楽四重奏曲と並んだ大きな山ですし、ピアノソナタのジャンルとしても、他の作曲家の間に そびえた高峰ということになっています。リヒャルト・シュトラウスは山と讃えられるワーグナーを評して「ぼくは 登らず麓を回ってきたんだ」と言ったそうで すが、私も登山は苦手なので途中の見晴らし台で根が生えたり、ロープウェイで一気に上って頭痛になったりしているわけで、とてもソナタの大縦走なんて無理です。好きな人は古今の名演奏を繰り返し聞いているでしょうから、そんな人が百名山を論じるべきです。したがってここでは、美しいメロディーで始まるものの奏者によって弾き方が大変異なる「月光」(14番)と、簡潔な中に激しさと静けさの両面をそなえた後期の傑作、30番のソナタ を主な題材にとって、ちょっとだけ比較してみることにします。最初はこの作曲家の到達点とも言うべき32番の第二楽章で比較すべきかとも思い、やってはみたのですが、評価の高い人たちの中に疑問に思えるものがいくつかあり、昔この曲をあまり良く思えなかったのはそれしか知らなかったせいだと気づいたのでやめました。 *アルトゥール・ニキシュとならんで指揮者というものの地位が確立してきた頃の大指揮 者であり、「ドイツ3大B(バッハ/ベートーヴェン/ブラームス)」なる言葉も彼が言い出しました。「新約聖書」 というのは、バッハの平均率クラヴィア曲集を旧約聖書になぞらえたことに対してそう呼ばれます。 Wilhelm Backhaus ウィルヘルム・バックハウス まず、絶対に外せないオーソリティがあります。ベートーヴェンのソナタの場合、バックハウ スの演奏がそれに当たるのではないでしょうか。1884年ドイツはライプツィヒ生まれでケンプよりも十歳近く年上、バルトークと同じ世代の人で 1969年に85 歳で亡くなっています。ライプツィヒはドイツ一伝統のある音楽の 都であり、彼はそのピアニズムの継承者だという意味で、よく「鍵盤の獅子王(Lion of the keyboard)」と呼ばれます。ライプツィヒ市の紋章がライオンだからです。また、日本では評論家の吉田秀 和氏が高く評価したことで人気が定着したようです。 「賢者の音楽」というタイトルで、吉田氏は興味深いことを書 いています。たまたまフィシャー・ディースカウと同じタクシーに乗り合わせた、と格好良い始まりですが、そのと き件の世界的歌手がバックハウス を指して賢者だと言ったというのです。その意味するところを彼は、安易なテンポ・ルバートを避けることから来る格調の高さだと解釈することで自身の論を運 んでいます。テンポ・ルバートというのは、一続きの フレーズの中である音を早めたり遅くしたりしてずらし、感情の揺れを表現する方法です。普通はあるフレーズを強調したいためにその頭を遅めた結果、それ以降の部分がしわ寄せとし て自動的に速まります。ショパンなどでは多用されるわけですが、 ブラームスのコンチェルトでは、「それをやるとトリヴィアル(平凡) になる」とバックハウス自身が言ったのだそうです。格調高い表現を目指していたということでしょうか。そしてこう言ってしまえば単純化し過ぎかもしれませ んが、吉田氏によるとバックハウスの演奏の技術的側面は、美しい音色を紡ぎ出すという点を除けば、「アゴー ギク(テンポの伸び縮み)において アッチェレランド(次第に速くなる)はする一方で、ルバートはかけない」ということになりそうです。 では、実際に聞くとどうでしょう。吉田秀和も亡くなってしまい、あのドイツ語まじりののっそりした喋りを聞け な くなって寂しいですが、元気な頃は老いたホ ロヴィッツを「ひびの入った骨董品」と表現して話題になりました。彼は有名ではあってもコマーシャリズムに流されず、自分の耳で聞けと諭した人なので、私も自分なりに聞いてみようと思います。 バックハウスの演奏ですが、自分にはどうも彼の言うようには聞こえないところがあります。「月光」から行きますと、出だしの有名な葬送の部分では テンポが案外遅く、どうかするとシフが「日が暮れる」と揶揄していたような伝統的表現にも聞こえます。他の緩徐 楽章では全体に速い人のように感じるのに、粘った重い表現に振れる幅もあるようです。 そしてそういう例外を除いて、あえて否定的表現を辞さずに言うならば、(私には)全体に落ち着きのない傾向も 感じられます。リズムが不安定でなげやりに聞こえるところがあるのです。それは30番からの最後のソナタ群でも 同様ですが、確かにフランス人の弾くショパンのような大胆なルバートではないかもしれません。しかし隣り合った 音符のまとまりを均等に弾いているのとは違います。揺れているのです。しかもフレーズの頭を後ろに遅らす揺れは案外目立たず、小走りに速くなる方が耳につきま す。アッチェレランドというと、フォルテの部分や終結に向かって興奮して速くなる状態をイメージしますが、そう いうワーッとこみ上げてくるようなものではなく、バックハウスの場合はより短い単位で、小節の頭の拍が早まると いう種類です。瞬間的小走りというか、要するに速い方へとずらすルバートなのです。というよりもむしろ、頭が早まった分その後ろが延びるという補償的な規則性はなく、どんどん早める方へ短く詰め て行くと言った方がいいでしょうか。それとも、これが吉田秀 和の言いたかった「アッチェレランド」なのでしょうか。この傾向は50年代の頭に入れた前回の録音の方が顕著ですが、最後の全集でも洗練はされな がら残っています。 もちろん揺れ幅自体は微妙であり、同時に前拍で間を取って次に強く叩く一般的なルバートもありますが、結果として全体に甘さのない、情緒に流されない音に聞こえます。さらに言えば、終わりの音符を十分に延 ばさない結果、余韻を味わってないような印象もあります。31番のフーガなど、ポリーニとはまた違いますが、切れ目なしに続いて行く音に私はちょっ と気後れします。その耽溺しない様子は眠らない獅子のようです が、これは彼とほぼ同世代のヴァイオリニスト、シゲティがロマン派の大仰を嫌ったと言われるようなことと関係が あるのでしょうか。 ここで何かを思い出します。そう、バックハウスのリズムは古楽器演奏のフレージングにちょっと似ているのです。 古楽ならルバートではなくて、2音ずつ 伸び縮みさせるノート・イネガルと言わなければならないのかもしれませんが、例の話題になっ た「前のめり奏法」に味わいが似ています。もちろん古楽奏法が世に出てきたのは60年代で、その旋風が吹き荒れたのは70年代に入ってからなので、この バックハウスの61年の録音と古楽器の流行とは何のかかわりもありませんが。 権威であるばかりに辛口のことばかり書きましたが、安易にメロドラマティックにならないのは確かにバックハウ スの美点だと思います。ベートーヴェンのソナタを最初に全曲録音したシュナーベル、同時代の対照的な表現のケン プと並んで三大名演と言われるのもわかります。ケンプとは好き嫌いが二分されると言われますが、バックハウスの 音色が大変きれいなことは吉田秀和氏の指摘する通りです。バックハウスはベーゼンドルファーを使っているのです ね。同じくベーゼンドルファー弾きのグルダよりも力で叩く傾向は少なく、録音年代で想像するよりずっと美しい音 が楽しめます。問題は私がケンプ派の回し者かもしれないということでしょうか? Wilhelm Kempff ♥ ウィルヘルム・ケンプ ♥ 1895年生まれで1991年に95歳で亡くなったドイツのピアニスト、ウィルヘルム・ケンプは、ベートー ヴェンの演奏家としてはバックハウスと並ぶ大家とされています。また、二人が性質を異にしているので好みがどち らかに分かれるとも言われます。バックハウスは独特の駆け出すような崩しと区切りの音を 延ばさない扱いが「眠らぬ獅子」の覚醒を味わわせ、吉田秀和が「賢者」と呼んだことは上記バックハウスの部分で述べました。それに対してケンプとい う人はその振り子の反対として扱われるからか、ロマン主義の徒だと言われます。しかしバックハウスが賢者なら、 ケンプも世俗の騒ぎを離れた導師でしょう。抑揚のある歌はうたいますが、自分を慰めているのではないと思いま す。この人は信仰が厚かったのでしょうか。自分の身に 起こっていることが何であれじっと見ている信頼のようなものを感じます。はったりが抜け落ちて自分の感情に正直、そこに達成を追わない安寧と回想が混じっています。 ケンプのベートーヴェン全集は3セットほど出ているようです。モノラル時代のものと日本でのライブ、そしてこ の64〜65年のグラモフォンのスタジオ録音です。ケンプはライブで大変味わい深い音を出すことがあり、また晩年の録音には独特の 世界が展開しますが、この全集はそのどちらでもないながら、ケンプらしい味わいでは共通しています。弾き方の特 徴はバッハのゴールドベルクのところ(ゴールドベルク変奏曲 CD 聞き比べ) で書いたので重複しますが、少しだけ見てみましょう。 月光の出だしではやや速めのテンポでさらっと始めており、これだけでも彼の音楽が思い入れたっぷりという方向 でがないことがわかります。し かし陰影の濃さは印象的です。微妙な差が無限にあるようで、音の強さのステップが多いのです。そして静けさの中を漂ううちに、右手がやわらかい音からはっ きりとした音へと盛り上がってくるようなところに引きつけられます。バッハではないのでポリフォニーにこだわる必要は ないわけで、左手の伴奏に対し て右手が主題を奏でるとき、ケンプは常にくっきりと右手に語らせます。 伴奏の三つ続きの音符は三つ目を時おり遅 らすように表情が付き、ルバートも自在ですが、溺れる気配はありません。これが葬送行進だとして、心は大変揺れているのに、同時に 静観しているようなところがあります。 第二楽章は大抵の演奏では前の楽章とコントラストを付けるのですが、ケンプは意図的な変化をつけようとはしません。軽やかながら快活というほどではなく、やはりどこか静かです。彼の中での印象に従っているのでしょう。展開部の入りでは強さがあり、そこではコ ントラストがつきます。 第三楽章は速くダイナミックです。しかし音を味わいつつ 計っている彼の目を感じます。あの、遠い一点を見ているように見開かれた目です。そしてフレーズの途中から急に力が入って盛り上がる自在さがケン プらしいところです。 30番の出だしも非常にさらっとしています。どこか楽しげだとすら言えるほど、後期の作品という構えはありま せん。弾くこと自体が喜びなのでしょうか。でもこの曲は本来こういう曲なのかもしれません。右手の強い音が大変くっきりとしていま す。 第二楽章はスタッカート気味にリズミカルです。速いですが押すようなところはありません。 第三楽章もさらっとしながら味わいのある絶妙なバランスで、ロマン派のもやは降りていません。しかしバックハ ウスの眠らぬ情緒とは違う覚醒です。弾き手ケンプの感情を押し付けて来ないという意味で、ロマンティックではな いのです。ひとつ高い世界につれて行かれたようで、こういう弾き手は他にいないで しょう。最後はゆっくりと減速して、静かに終えます。 Friedrich Gulda フリードリヒ・グルダ グルダの全集は賞もとり、内外の大物評論家も絶賛するベートーヴェンのスタンダードということになっていま す。日本ではバックハウス、ケンプ、グルダ、という順で異口同音に推薦してもらえてるようです。ウィーン生まれ でありながらウィーンの伝統に背を向け、格好も行動もヒッピーの ようであり、ジャズだけでやって行くと言って周囲 を驚かせたりしたその奇行の数々は、グールドやスコット・ロス、アップルのスティーヴ・ジョブズのようなカリス マ的人気につながっていますが、ベートーヴェンのこの1967年の演奏は大変正統的というのか、決してふざけて もいなければ飾り気もなく、ジャズの即興めいた遊びに満ちているというわけでもない生真面目なものです。そして 大変力強い。きっと、真面目な人だからこその奇行だったのでしょう。 モーツァルトのピアノ協奏曲20番と21番の盤は録音こそ少しキツいところがあるものの、心地良い装飾音の遊 びが入り、21番など明るさもありながらひたむきで、未だにこ れを超えるものがないと思わせる素晴らしいものです。ジャズも弾くピアニストだからこその好演と言われた わけですが、一方でベートーヴェンの方はそうした奔放さはより少ないように感じます。演奏を聞いていて、グルダはベートーヴェンをすごく尊敬していたのかな、と思いました。自 伝を読んだわけではないのではっきりしたことは知らないのですが、モーツァルトの協奏曲でもベートーヴェン のカデンツァを使っていたし(出来がいいからでしょうが)、何よりも軽さと感覚的効果に訴える姿勢が少なく、テ ンポもゆっくりのところは大変じっくりと弾いています。後期の作品ではないながら月光など特に、どの瞬間も真剣勝負で す。 タッチが強いところはモーツァルトのときもそうでしたが、ここではさらに強く感じます。ベートーヴェンという 作曲家に対する一般のイメージを裏切らないものだと思います。ウィーンの伝統には背を向けたかったにせよ、彼は ウィーンの名器であるベーゼンドルファー・ピアノは愛用していました。しかしここでの音はその明るくて鋭利にな らない高音、よく弾んで響く中低音という印象とは大分異なって聞こえます。最大限に鳴らし切る強さのせいでしょ うか。 1930年生まれで2000年に亡くなっている大変個性的なピアニスト、グルダ。思い出もあり、好きな演奏家 の一人です。面白いトルコ帽のようなのを被り、コンサートの曲目紹介では英語のせいか、ちょっとおどけたような 風情でシニカルともとれる距離感を醸しつつ説明してくれていました。なつかしい人もあるでしょう。ただ、その代 表作であるベートーヴェンのピアノソナタは、迫力があって全く欠点がないながら、 個人的にはもっと遊びの部分を期待していたと言っておきましょうか。ベートーヴェンのソナタ群に対して崇拝するほどの愛が足りないせいでしょうか。でも一人ぐらいこんなことを言っても、この名演はビクともしないはずです。 Glenn Gould グレン・グールド 録音年代が前後しますが、グールドはそのキャリアの初めの頃である1956年、例のゴー ルドベルク変奏曲の直後にベートーヴェンの後期三大ソナタ集を出していま す。後期から先に出してくる姿勢はポリーニとも共通しますが、彼の場合は何を表しているでしょうか。速いところ でも遅いところでも極端な演奏をし、皆を驚かせる発言を連発して気をひいていた世紀の孤独な天才、ベートーヴェ ンでもカリスマ的人気があるので外せません。 月光は67年の録音ですが、どんな強烈なものが出て来るかと思えば、意外なことに速いテンポで非常にさらっと しています。ルバートはかからず、抑揚はちゃんとついています。そのポーカーフェイスぶりがグールドらしいのか もしれませんが、まっとうです。 第二楽章は響きの抑えられた乾いた運びです。軽妙で権威は一切振りかざさないぞ というところが面白いですが、これもあらかじめ構えていると普通に聞こえます。第三楽章の速さはグールドです。軽く、間を取らずにどんどんと 倒れかかるように猛スピードで行きます。 30番の方はなんだか、フランソワの演奏を早回しで聞いているかのような印象です。というのも、バッハや月光 などではあまり感じなかったルバートがかなり大きく、ゆっくりになったかと思うと前へなだれかかるように走った り、とても大胆なのです。フレーズの変わり目で間を開けず、次の主題が前の終わりにかぶるように続けられたり、 速い ところではいかにもグールドの超速が出たりします。第二楽章では風車が気ままな風に翻弄され、回っては止 まるよ うであり、天衣無縫というよりは傍若無人と言ったら叱られるでしょ うか。しかしこの無法地帯を駆け抜けるドリフト・スポーツカーのような運びも、慣れてくると乗れてくるから不思議です。一方で第三楽章のゆっくりのところ ではずいぶんと時間をとってたっぷり歌わせており、そこ に崩しが大胆に入ってきます。グールドはカナダ人ですが、まるで世紀末フランスのデカダンとでもいうのか、ジュ・トゥ・ヴのようなシャンソンを弾きなぐっている映画の酒場にでもいるような錯覚を覚えるから不思議です。 Arthur Rubinstein アルトゥール・ルービンシュタイン ショパン弾きで名高いルービンシュタインは1887年にショパンと同じポーランドに生まれたユダヤ系の人で、 二次大戦時にアメリカに移って活躍し、1982年に95歳で亡くなっています。視覚的記憶力が異常に高かったこ とは有名で、ベートーヴェンは暗譜してレパートリーとしては持っていたようですが、録音はあまり出していませ ん。ただ、その少ないものの評価が高いようですので、ここでは62年録音の月光のみで比較をします。同じくユダ ヤ系でアメリカで活躍し、ショパンを得意としていたホロヴィッツと比べられることも多いようです。 月光の始まりはゆったりしたテンポで、リズムに独特の重さと湿りがあって、大変荘重な印象です。これはショパ ンでも同じように感じましたが、ところどころで音を延ばして遅らすせいのようです。 第二楽章でもその傾向は同じです。ここはよく、霧が晴れたように前とのコントラストをつけることが多いのです が、粘るスタッカートが重さを感じさせます。ゆっくりしたテンポの中、確かめるように進みます。 第三楽章はテンポこそ速いですが、くっきりとする感じではなく、一塊の響きとして迫ってきます。 ルービンシュタインの演奏は、ひとことで言えば重みがあり、格調高いものだと言えるでしょう。枯れて力が抜け たホロヴィッツとは対照的で大変面白いと思いました。 Vladimir Horowitz ヴラディミール・ホロヴィッツ どんな難曲も水が流れるかのごとくサラサラと弾いてしまう超絶技巧ということで最初に有名に なった人であり、その音色も独特だったとして神がかり的 な名声を持つホロヴィッツですが、リストやショパンなどを得意とするレパートリーのせいか、個人的には あまり聞いてきませんでした。ベートーヴェンもまと まって録音が残っているわけではありませんが、月光は高く評価する人もいますので、番外編的にそれだけ取り上げます。 蛇足ですが、ヴラディミールというのは英語発音、ウラディーミルというのはロシア語発音のようで、表 記は一定しません。 第一楽章の出だしはさらっとした枯れた入りでしっかりダンパー・ペダルを使い、しかも音がきれいで す。シフのように常に三分の一踏みっ放しというのではなく、ところど ころで戻して過剰な音を吸収させていますが、まるで踏みっ放しのように聞こえるのはベートーヴェンの意図をわかってやっているのでしょうか。 全体としては力を抜くところが印象的で、かすかな抑揚が流れるように息づいており、これが葬送だとする ならば、故人への思いはもう嘆きを過ぎているようです。回想の中の葬送でしょうか。強くこみ上げてくる ものがたまにあったとしても、その次の音では諦めが勝るのか、やわらかく抜けま す。何だかピアニストの波乱に満ちた過去を上から眺 める作業につき合わされているような、なんともいえない滋味があります。これほど淡々として味わい深い 月光のアダージョは滅多にないと思います。確かに半端な人には弾けない境地かもしれません。 第二楽章の力の抜け具合はどうでしょうか。わざとたどたどしく弾いているかのような不思議 な味があります。弱い音は消え入るかのようです。 第三楽章も出だしから速いにもかかわらず、力が抜けています。最初にヘ音記号からト音記号にまた がって右手がバラバラバラバラ16部音符で駆け上 がって行き、2小節目の終わりでジャンジャン、とスタッカート付き八分音符二つが激しく打ち鳴らされるところで、ホロヴィッツは拍子抜けする弱い音で弾 いています。ここは強いアクセントで弾けというスフォルツァンド記号(sf)がついているはずなのです が、粋です。 1903年ウクライナ生まれでアメリカで活躍した ホロヴィッツですが、月光の録音は1972年です。一般には超絶技巧ということですが、印象は異なりま した。感情が乗らない豪快なテクニシャンなんかでは絶対あり得ません。むしろ正反対で、大変豊かな情緒 を持ち合わせた人です。ただ、すでにどこか突き抜けているようです。 Maurizio Pollini マウリツィオ・ポリーニ 1942年ミラノ生まれで1960年にショパンコンクールに優勝したポリーニは、誰も真似のできないその完璧 なテクニックで知られています。楽譜の完全な再現なので、迷ったら彼の演奏を聞くべきだという人もいます。30 番のソナタ(75年録音)で最初の美しい出だしを聞いてみると、そういった静かなところでは、やや抑え気味なが ら確かに完璧な抑揚がついています。情に流されず、そっけなくもならずに十分に歌っていて、リタルダンドもある し、リズムに音の強さの微妙な陰影もあります。しかしそれがひとたびゆっくりなところから走り出すようなパッ セージに来ると、途端に面白いことが起こります。気持ち良いくらいに音が揃うのです。何か待ち構えていて一気に 弾いているという感じです。速いパートに喜びを覚えているのでしょうか。ポリーニを評して「機械的」という人が いますが、それはこういうことを言うのでしょう。フォルテの速さと均質さ、それは並大抵のことではなく、どこまでも揃っています。しかも フォルテですからやわらかく揃うという感触ではなく、大変強靭な、乾いた音の連続になります。この曲の中ほどに は大変激情的なフォルテが続く部分がありますが、人によってはそういうところこそがこの演 奏家らしい小気味良さだと感じるだろうものの、言い難いのですが、個人的にはある種騒音のように感じてとてもつ いて行けないときがあります。打ち込みのようだとまでは言わないものの、完璧過ぎるのです。ただ、この音は他で も聞いたことがあります。それを説明するにはぜひ前置きをしておかなければなりません。 精神疾患の分類は分類のためにこそあるのだということ、つまりなんとかシンドロームとかディスオーダーと かいうレッテルを貼って病気を理解するのは医者には便利かもしれませんが、診断基準で言うそうした精神疾患の多くにはなんら生物学的な根拠はないという主 張があります。むしろ問題の理解を鋳型に閉じ込め、差別や支配など、 社会的に新たな困難を生み出す元にすらなるというのです。本来千の個性を持つものを、特徴ごとにいくつかのグループに勝手に束ねたものが病気かもし れません。束ね方を変えれば元の病気は消滅します。 ここでこんな話を持ち出すのは面倒なことかもしれません が、それは安易に精神疾患の名前を出して才 能ある人を分類することは十分に用心しなければならないからです。 その上であえてポリーニの芸術について評するなら、その均質で強靭なフォルテの部分は自閉症スペクトラム (ASD) と診断された有能なピアニストが休みなく弾く音に似ている感じがするということなのです。知っているのは一部の例ですし、これも主観的な比喩表現に過ぎま せんが。 ASD というのは自閉症関連の症状を分類するときに最近使われるようになった言い方で、軽度で高機能のアスペルガー症候群も発展解消的にそこに含まれます。とき に他人の感情を 感じることに困難を覚えることのある人たちですが、グレン・グールドがアスペルガーだとよく言われるにもかかわ らず、私は彼がそこに分類されるようなタイプではないと思うとグールドのところで書きました。グールドは人の感 情に過敏な人だと思います。むしろそういう意味ではポリーニの方が、音の上では、感情世界と少し距離を置くこ とのできる人のテイストを持っているような気がします。彼個人がアスペルガーだと言いたいわけではありませ ん。客観的な芸術表現という独自の分野を開拓できるのではないかということです。どんなものであれ人生と芸術には意味があります。完璧な演奏にはそれ自体 で高い 価値があります。しかし最近になってポリーニの指 は衰えてきたが、その方が味わい深くなっているという人もいま すので、どの録音がそれかわかりませんが、機会があったら聞いてみたいと思います。 Claudio Arrau クラウディオ・アラウ チリ出身でドイツで学んだアラウは、ドイツ文化を代表するベートーヴェン弾きの一人です。1903年生まれで 91年に88歳で亡くなっている20世紀の巨匠で、全集は二回出しており、62〜66年に録音されたデッカ、80年〜91年のフィリップスのものがあります。部分的にしか聞いていないのでしっかりし たことは言えませんが、新旧ともに表現の方向性は大きく変わってはいないのではないでしょうか。老齢ともなれば 指が若干衰えるのは仕方ないですし、音の重なるところが少しがやがやしたりもするものです。 アラウのベートーヴェンは、安心できる種類の大きな感情表現に彩られています。変な例えですが、校長先生に教 えられているような、とでも言いましょうか。ふざけたらきっと叱られます。アゴーギク、ディナーミク(揺れと強 弱)、ともに大変大きいです。 しかも意外さ、遊びや軽妙ということは全くなく、まっとうな表現で押しの強さがあります。叙情的とはこういう ことだと教えてくれるように。真面目な演奏とだけ言えばグルダもギレリスも他の多くの演奏家も含まれてしまうの でこういう言い方になったわけですが、では具体的にはどう弾いているかと言えば、力で叩く感はないものの、時おり確認するように決然と遅くなります。そしてそのように足取りがゆっくりになる ところでは大胆に遅さが続き、力がこもります。一つひとつ丁寧に確認して行くような几帳面さです。したがって30番の第三楽章など、非常にたっぷりと歌っています。音はペダルの扱い のせいか、いつも溶けて渾然一体となっています。 Vladimir Ashkenazy ウラディーミル・アシュケナージ 1937年ロシア(ソ連)生まれで父方がユダヤ系、後に西側に亡命したピアニストです。洗練とか中庸などと いう言葉でよく評され、端正で欠点がない美しい演奏は万人に好まれると言われます。デビュー当初は華麗な技巧について語られ、その一方でベートーヴェンの室内楽ではむしろ角のあるリズムで重々しく威厳のようなものを感じさせる一面もあるようで、この人らしさを語る言葉は相互に矛盾たりします。コンクールで良い成績を残さなければならないという一族の使命を帯び、大変苦労した人だという話も聞きます。ただ、乗せて欲しいところと別の部分に感情が乗るように感じたり、丁寧過ぎるように思えたりで、自分にはよく分からないピアニストの一人なので、ここで詳しく書くことはやめておいた方がいいのかもしれません。 1971年から80年にかけて録音されたベートーヴェンの全集はスタンダードとして大変評価が高いものです。その評価通り、リズムは一定に近く、大きくテンポを動かすようなところはありませんが、ゆっくりのところ での崩し方には特徴があり、ときどき遅めて粘るのはこの人の個性のようです。情緒の質自体はロシア的叙情とでも言えるような重く生真面目なものを感じさせる瞬間もありますが、それが表面に出過ぎたりはしません。それに対してピアノの音はフォルテで軽く明るいのが対照的です。これはデッカの録音のせいかもしれませんが、強い音に常に金属的な倍音が乗る派手なところがあります。速いパッセージは正確です。
個人的にはラフマニノフのラプソディー(パガニーニの主題による狂詩曲の一曲で映画 「ある日どこかで」のテーマ)など、他にあまりない佳曲を出してくれているので愛聴しています。同じくラフマニノフの協奏曲第2番の最初の録音に関してだけは、重さはあるけど絶品ではないかと思います。 Rudolf Serkin ルドルフ・ゼルキン 昔「皇帝」を聞いたときには強さ以外あまり印象になかったのですが、ゼルキンという人、月光も30番も、なん と情感のある演奏なのでしょうか。全体にどこも決して遅くない運びの中のこの表情の豊かさ、しかも感傷に陥らな い緊張感。どう弾いているのでしょう。 月光の第一楽章ではさらっと流れているようで拍が一瞬遅れたりして静寂を強調します。振れ幅の少ない中によ く聞くと強弱も複雑に息づいています。ときに鼓動が微妙に速くなるところなど、思い出したときめきが人を苦しめ るのか、何か胸騒ぎがするのか、瞬間的な興奮が揺れる心の動きを映し出します。この繊細さはゼルキンならではで しょう。そして第三楽章の驚くような速さはまさにパッションです。 87年録音の30番も出だしの崩し方がエレガントです。波のような大きな呼吸がありながら大仰とは全く異 なるデリケートな味わいがあります。フォルテのタッチは大変強いですが力で押し切る鈍さはありません。一音一 音がくっきりと濁らず、走り出すことなく端正で、湧き出してくるものに素直に従っているようです。第 二楽章は明晰です。第三楽章も強弱のアクセントがはっきりとして、訥々と区切った力強いフォルテがあります。そして音に独自の粘りがあるのに重すぎず溺れ ません。それがこみ上げてくるときに 速くならないところには本当に感銘を受けます。音色は独特で、強いタッチでは倍音にちょっとハーシュな鋭さが乗りま すが、そのときにはすでに心をしっかりとつかまれており、磨かれた艶とはまた違った魅力に感じます。この曲の終 わり方は唐突ですが、その後に時間差でやって来る興奮に圧倒されました。映像もありますので是非見てほしいと思 いま す。 ルドルフ・ゼルキン、チェコ生まれのロシア系ユダヤ人でウィーン育ち。1991年に88歳で亡くなっていま す。ピアノはスタインウェイです。全曲は揃いませんが、あるものだけでもベートーヴェンのソナタといえば外せな い名演だと思います。 Emil Gilels エミール・ギレリス 1916年生まれのユダヤ系ロシア人のピアニスト、ギレリスもベートーヴェン弾きとしては名高い人です。1985年、全集を完成する前に亡く なってしまったので全曲は揃いませんが、30番は最後の年に録音されたものです。骨太で雄渾な演奏とよく評され ましたが、ゆっくりしたパートではどこにも走るところがなく、やや拍を遅くずらすこともあり、重さとともに独特 の深い静けさがあります。一音ずつ大切に弾いて行くような音はしっとりとした艶を持ち、このピアニストの晩年の 境地が聞けます。フォルテは急ぐことなく、力強く決然としています。「鋼鉄」という表現が当たるかどうかはわか りませんが、どこをとっても大変正直な人であるような印象を与えます。大変素晴らしいです。月光の方も重く、ロ マンティックな趣はありますが、ちょっと霧の中にいるような、独特の風情があります。 30番の録音は新しいせいもあり、彼の飾らない演奏に相応し い太さと艶のあるきれいな音です。リヒテルの音にも似て録れていますが、スタジオという利点があるのか、こちら の方が幾分やさしさがあるでしょうか。 ギレリスの芸術を指して、これほど深い精神性をたたえる演 奏はないのだと言う人がいます。精神性という言葉が何を表すかはともかく、いわんとすることはよく理解できまし た。毎度旧ソ連だから言うわけでもないですが、もしこの人がこの音に現れているように正直な人だったら、コン クールのことなど色々言われますが、自分らしくあろうとして苦労したのではないかと思います。ベートーヴェンと いう人に力強さとまっすぐさをイメージする人にとって、ギレリスこそその人、最高の演奏家ではないでしょうか。 全曲が揃わない、とくに32番がないのは残念かもしれませんが、感動的です。 Sviatoslav Richiter スヴャトスラフ・リヒテル ロシアのピアニストでギレリスとよく比較されるのはリヒテルでしょう。年も一歳違いの1915年生まれ、母は ロシア人ながら父はドイツ人です。体制ゆえにその父がたどった運命と家族問題で、傷つきやすい年頃に彼が過酷な 日々を送ったことはよく語られるところですが、繊細である一方で厳格で直情的と言われる彼の性質がそうした体験 から出たものであることは想像に難くありません。一方、国籍や文化でその芸術を言い表すの幼稚ですが、残念なが ら我々は自律していない限り集団同一化する生き物ですし、個と集団とには不思議な並行的関係があります。したがって国民性というものも、幼い頃に周囲の価値を吸い込むことで、ある程 度その色が発現してきてしまう部分もあるのでしょう。独学の部分が強かったリヒテルは別だと しても、ピアノの語法といえども例外ではなく、教師たちがこのように弾くのだと全員で示していれば、それが出発 点になるのかもしれません。50 年代のモダン・ジャズが70年代になって変質してきた後、元のビ・バップが残っているのは北欧 だ、東欧だと言われたように、5、60年代までで19世紀的なロマン主義の継承者は代替わりし、その色を残しているのはロシア系の人たちだと言われたこと がありました。でもそれはいわゆるロマン主義とは別物であって、ロシア独自の何かなのかもしれません。旧西側からすると、リヒテル以外でも突然ラザール・ベルマンやミッシャマイスキーのような 巨人が出て来るのは不思議なわけです。 リヒテルとギレリス、この二人に共通しているのはあまり細かな細工をせず、足取りが大きく、重さがあって、やや没入した感じを与 えるところでしょう。タッチの強さも似ています。どちらもフォ ルテが大変力強いのです。リヒテルの方は好みでな い曲は取り上げないせいで月光が聞けず、30番での比較となりましたが、録音もドイツ・グラモフォンとフィリップスのライブという違いはあっても、音色の傾向が ちょっと似ています。 違いの方は、大きなルバートではないですがリヒテルの方がやや細かく揺れる傾向があり、部分的には走りかける場面も見えます。 全体に激情的な印象です。バッハの平均律などで思い入れの強い弱音を聞かせるリヒテル ですが、それもこの同じ激情のもう一つの顔だという気もします。リヒテルは91年の録音で 死の6年前、ギレリス同様晩年の枯れた境地と言われるながら、息の長い追い込みやリタルダンドではリヒテル、速いところもリヒテルの方が熱情的です。より淡々と した静けさがあるのはギレリスでしょうか。 Murray Perahia マレイ・ペ アイア バッハでは流れるように自在な抑揚のついた、いい味を出していたペライア、ベートーヴェンではどうでしょう か。全集は出しておらず、月光も30番も CD はないのでここでは番外編になりますが、コンサートの模様は ウェブ上で聞 けます。バッハのときの静けさとはまた少し違い、30番ではやや重い、タメのある遅めのテンポをとっています。力まないところは相変わらずです。第三楽章 など、やや耽溺気味かと思えるほどの沈潜を見せるのは作曲家に対する彼の感じ方なのでしょうか。元来もの思いに 沈むような傾向は見られる人だと思いますので、古典派ながらロマンティックなところのあるベートーヴェンとは相 性が良いようです。ブレンデルの感じやすさと感傷に似ている ようにも思いますが、同じ悲しさでももう少し距離感があるでしょうか。 ゴールドベルク変奏曲ではアンドラーシュ・シフと比べまし たが、ここでも相似的な傾向はあり、ペライアの方がシフよりも短いフレーズ内での揺れは少ないように思います。 一小節の中である部分だけ強調するというのではなく、もう少し大きなフレーズごとに抑揚を付けます。大きなと いってもアラウのように押してくる感じにはならず、全体にゆとりがあります。バッハのときと同じような静けさを 持っているとも言えます。といってもちろんフォルテがダイナミックでないというのではありません。むしろ大変表現の大きな演奏だと言わねばなり ません。煮えたぎるような感じではなく、燃焼します。 1947年生まれのアメリカのピアニスト、さすがに現代的で大仰さは見せず、洗練されています。しかし真剣で 真っすぐな、今を代表するベートーヴェンの一つでしょう。 John O'Conor ♥♥ ジョン・オコーナー ♥♥ この人については「月光」に関して別の章ですでにとりあげました(「静かなタッチ/ベートーヴェン月光ソナタ」 )。1947年アイルランドのダブリン生ま れでウィーンで学んだ人です。そのベートーヴェンには定評があり、ケンプがイタリアで教えていた講座を引き継 ぎ、アメリカでは知名度も高いようです。 演奏は癖が強いというわけではないながら大変独特で、これほどやわらかい表現が美しい人はい ないと言えます。決して走らず押し切らず、ベートーヴェンだからといってむやみな激情に駆られることはありません。フォルテは迷いなく力強いですが、節度 と余裕があって叩きつけるようには弾きません。常に穏やかな中 に繊細な表情があり、弱音の表情が千変万化します。 30番もあたたかくソフトな始まりから第三楽章の静 けさまで見事で、暗くならずに深みがあり、晩年の澄んだ 境地を余すところなく伝えてきます。色々な演奏をかけてみた後で思うのですが、この大人の魅力には抗することが できません。 ピアノはハンブルク・スタインウェイと書かれていますが、90年録音のその音は演奏に似合って 派手さがなく、美しい音色です。レーベルはテラークですが、スチューダーのコンソールにス レッショルドのアンプ、などと機材も細かく書いてあり、18ビット録音だったようです。ベートーヴェンのピアノ・ソナタとしては、個人的にはシフとルイス に並んで最も好きなものの一つです。 Alfred Brendel アルフレート・ブレンデル 1931年チェコ生まれのオーストリアのピアニスト、ブレンデルもベートーヴェンを得意とする人で、この全集をベストとするファンも多いと思います。ブ レンデルのピアノは強引なところや派手なところはないなが ら、常に陰影に富み、内省的な告白ともとれる独特の情緒を醸し出 すところがあると思います。ある種のドラマ性と言っても良いかもしれません。だいぶ昔にフィリップスから出た バッハの作品集など、大胆ともとれるほどロマン的でバッハとは思えないところがありましたが、ベートーヴェンについては、この大作曲家がとき どき見せる甘い叙情性をうまく表現してくれそうな気がして、大変期待しました。 月光はたっぷりし過ぎもさらっとし過ぎもせず、表情豊かに始まり、大変オーソドックスな印象です。ダンパーも 解放に聞こえるほどたっぷりと響かせつつ要 所で押さえて(ペダルを放して)おり、見事です。それで、予想したよりは思い入れたっぷりというわけではありませんでした。第二 楽章のコントラストも素晴らしく、軽すぎ ず、真面目な運びです。第三楽章は速いながら克明で力がこもっています。 30番は意外なほどさらっと始まり、駆け足になるところでは軽いです。ブレンデルはこういう具合に多くの奏者 が感情を込めそうなところで肩すかしを食わせてテンポ良く行く場合もありますが、そんな場合でもその音にはどこ かもの思いのような情緒が乗ります。第二楽章は力で押す感じはないながら歯切れ良く、緩めるところでは やわらかく沈み込みます。第三楽章は独白的ブレンデルの独壇場でしょうか。テンポこそ最大に遅いわけではありませんが、一つひとつの音に最大限の思いが込 められているようです。湿り気があり、ややうつむいていて、悲しげな目で浸っている彼の姿が浮かぶようです。感 傷とまでは言いませんが、このきれいさは 彼独特の世界です。チェコ人のメンタリティと関係があるのでしょうか。もの思いや寂しげな感じはときにペ ライアにも聞かれますが、ブレンデルのはよりやわらかく、小声でささやく内向きなものに感じます。 特筆すべきはピアノの音のきれいさです。やわらかくて芯があります。元フィリップスのブレンデルの録音はどれもそうです が、丸い艶と硬質な輝きのバランスが良く、モーツァルトの協奏曲など、緩徐楽章などたっぷりやり過ぎだと思いな がらもついこの音のきれいさに惹かれてかけていたことを思い出します。 3度目の全集は1992年から96年の録音ですが、ベートーヴェンのソナタも力づくでない方が疲れないと感じ る人、細やかなニュアンスが欲しくて、なおかつこのブレンデル独特の感情世界が好みに合う人にとっては、これは 最高に完成度の高いセットだと思います。悪く言うところがどこにも見当たりません。 Maria Joao Pires マリア・ジョアン・ピリス 1944年リスボン生まれのピリス(ピレシュ)はケンプの教えも受けたことのあるピアニストで、手の故障で休む以前は粒の揃った音色で端正 な演奏、復帰以降はやわらかな表情ながらじっくりと歌 う人というイメージがあります。一時期ヴァイオリンのデュメイとパートナーでしたので、そのときに一緒に来たコ ンサートで弾いた30番のソナタの美しさは印象に残っています。ピアノがヤマハだったので弱音のやわらかさは良 かったものの、そのときのセッティングでは強い音の輪郭はあまりくっきりしなかった覚えがあ ります。日本だからのチョイスなのか、ホールにはスタインウェイもベーゼンドルファーもあるのになと思っていた ら、この月光と30番の入った CD でも CF-Vを使っているので、本人が気に入ってヤマハを弾いているようです。ここでの録音ではその美点が出ていると言えるでしょう。 ジャケットは紙製で CD を留めるところがコルクになっており、大きな月が描かれたおしゃれなものです。月光とその関連曲である13番(*)、それに後期 の中でも太陽というよりは月であるような30番の組み合わせには、女性であるピリスの水瓶座的想いが込められて いるのかもしれません。ドイツ・グラモフォン2000年の録音です。 *第三楽章の出だしがピ アノ・コンチェルトの三番の第二楽章を思わせますが、Op.27 として月光と組で書かれています。四楽章構成で幻想曲風ソナタとされ、12番の「葬送」との類似を指摘されることもあるながら、月光ともども、本来は 月とは関係がありません。 月光の出だしでは ゆったりと繊細な表情がついています。安定した左手の伴奏の上で右手の音色が変化する様は 豊かな歌ですが、影 を感じさせるものではありません。ときおり 印象的に現れる右手の強い音はスタインウェイとは違った響きで、過度に艶が付かず、打鍵し た後で途中から硬めの倍音が延びる ような独特のものです。全体にやわらかい響きが良いところでありながら、ソリッドな表情も覗かせるのです。 第二楽章も印象的なレガートがあり、よく歌います。二拍目以降で 何気なく音を引っぱり持続させるリズムがエレガントです。第三楽章は速いですが、軽やかで深刻にはなりません。 30番は出だしからゆっくり歩くような、一つひとつの 音を慈しむようなテンポで進みます。途中速いところでやや平坦なつなぎ に感じる部分もありますが、全体には遅く、それでいて男性のピアニ ストにときどきあるような感傷的情緒には陥りません。夢見るようではあってもペシミスティックではなく、丁寧さ が愛情のように感じられます。それは第三楽章のスタッカートが続くところでも、ただ軽やかというのとはちょっと 違う端正な表情となって現れているようです。この人、感情の激してくる部分にはあまり力点がないのでしょうか、最後の楽章の速いパッ セージでも流れるようにこなして行きます。 安心できる美しい演奏でした。丁寧で繊細なのに、湿らず、あ る種さばさばしたところがある不思議な魅力です。ベートーヴェン晩年のふっきれた明るさという意味では、合って いるかもしれません。 Paul Lewis ♥♥ ポール・ルイス ♥♥ 現代イギリスを代表する希有な才能で、本国では話題のピアニスト。父が港湾労働者で家 族に音楽関係者が誰もいない中で育ち、ブレンデルが弟子に指名したというこの若手のピアニストに、結局すっかり 心を奪われてしまいました。12歳になってから本人が好きでピアノを始めたという経歴は、生まれる前から準備さ れた環境で3歳にして神童ぶりを発揮、というのでなければデビューできないようなコンサート・ピアニストの世界 にあって、一つの新しい神話なのかもしれません。インタビューでも飾らない人柄で、コンサートでは壇上で共演す るオーケストラの女性奏者が新しい恋人を見るような眼差しを投げます。でも外見だけではないようなのです。 ベートーヴェンのピアノソナタというと、いざ聞こうかと思って億劫になるというか、主張の強い演奏では特にそうですが、正直その気にならないと重い腰があ がらないことがあります。しかしこの人の演奏は透明で、何曲続けてかけてもいいなと思わせる至福の時を生み出し ます。曲集に対する印象が変わってしまうという意味では革命的な体験で、その点で頂点のベートーヴェンかもしれ ません。どこをどう弾いているととりたてて解説するよう なところはないのに、デリケートできわめて鮮烈です。 しかし協奏曲では、最初さらっと抜けてよくわからなかったと白状しておきます。「皇帝」など色々と変遷してき ました。ケンプの第二楽章が最高ながら録音が古くてオーケストラの音が情けないと思ってみたり、何度も出たブレ ンデルの群の中で迷って古い方のハイティンクとの録音を探したり、ペライアに感激したりしてきたものの、なぜか これという決め手に欠けました。そしてルイスのを手に入れたとき、なんとなく、ああ悪くないな、と思った。それ がどうやら今となっては、協奏曲となるとこの人ばかりかけています。 ネヴィル・マリナーのところでも同じことを書きましたが、英国の演奏家というと、中立と抑制が大変品のよい ジェントルマン(ウーマン)であって、ドイツ人のように厳格 でもロマンティックでもなく、フランス人のように崩し方が粋でもなく、悪く言うとどこに 特徴があるのかわからないという事 態が起き得ます。気が抜けたように聞こえた演奏を皆が格調高いと褒めるのを聞くと(マリナーのことではあり ません)、さては権威となれば知らないものも知ったふりをする、例のイギリス流スノビズムじゃないのかと勘繰りたくなります。もちろんそんなのはごく一部であり、素晴らしい演奏家はたくさんいるわけですが。 ではルイスはどうなのか、その演奏は確かにイギリス人と言え ばイギリス人であ り、アゴーギクも強弱も決して出過ぎたところがありません。さらっとしていて過剰なロマンティシズムとは一線を画します。どう表現しましょうか、オコーナーとは違います。オコーナーは気にいって別項(「静かなタッチ/ベートーヴェン月光ソナタ」 )で扱いました。決して大きな声を出さず、やわらかな弱音の中に無限の諧調がついているのが持ち味です。 かといって、師であるチェコ生まれのブレンデルとも性質は違います。ルイスに師のような うつむいた陶酔と思い込みの力は感じません。独り言も立ちこめる霧もありません。 ゆっくりした部分ではデリケートに大変よく歌い、穏やかで優しく、音楽の動きに聞き入って いるようです。ライブ映像などではときにゆっくり過ぎるほど減速して音に思いを込めているところもありますが、 それでも酔う感じと押しつけは感じられません。 そこをもう少し拡大して見てみると、非常に微細なのですが、思わぬところで少しだけ弱めたり、長くしたり、 間をとったりといった力の抜き加減に感心します。熱くなり過ぎず、ストレートに通り過ぎずに少しだけ待っている ようで、崩し方にセンスの良さを感じるのです。といってもほとんど気づかないほど控え目で、緩やかに呼吸する息 遣いにこちらも合わせると、豊かな感性が見えてくるという種類です。オコーナーよりさらに控えめかもしれませ ん。 そして彼は見た目の繊細さとは違って体格が良く、手も大きいのでしょうか。大変パワフルな人がおとなしかった という感じで、どんなに速いパートも楽々と弾いてしまいます。オクターブ以上に連なるところでは全ての音が小気味良く分離しており、スタインウェイ独特のきらっとした倍音を含ませつつ揃っています。この切れ味はただものではありません。速さの中にあらかじめ顕微鏡で覗い て整えておいたような抑揚も潜んでいます。技術において完璧という点ではポリーニに劣らないのではないでしょう か。全音が均質に揃って強靭なポリーニは息のつけないところもありましたが、ルイスは軽やかです。 子供が気に入った遊びを繰り返すやかましさや、強打の連続に無機質な熱意を見せることはありません。したがってフォルテは待ち遠しく、胸がすきます。そしてふっと訪れる弱音の息をのむ美しさ。 曲ごとに書くのを忘れてましたが、月光にしても30番にしても、特にどれかの曲が違う弾 き方というわけではありません。そんな中で特徴的なもの を挙げるとすれば、ワルトシュタインは驚くほど変化に富んでいたでしょうか。また、余計な細工をせず真っすぐ弾かれるせいもあり、32番の第二楽章も素晴らしいものでした。 オコーナーのようなやわらかな歌謡性とは違い、抑えて非常にゆっくり弾かれるためにかえって神秘性が引き立つ一面が あります。途中フォルテになる第三変奏の部分では力強く加速し、またゆっくりとした均整美に戻ります。シフほど エネルギーの張りつめた揺れはないですが、こちらから聞きに行くと この曲の孤高の美を示してくれます。 2005〜2007年(全集/月光は06年、30番は07年)のハルモニア・ムンディの録音も良く、彼は 1000人目に選ばれたスタインウェイ・ピアニストだそうですが、その音が大変美しいのもこの全集の魅力で す。バランス的に中低音はビーンと響いてやわらかく、高音も過度 にきらびやかにはならないながらエッジが効いており、低い方がかぶって透明感が損なわれることはありません。中 くらいのやわらかいタッチと鋭いタッチとの音色の差が大きい、次元の高い音です。こもった録音では彼の魅力は台無しになってしまうでしょう。 ポール・ルイス。個性を見せつけない個性。演奏者を聞くというよりも、作品に語らせる演奏です。そのようにして浮かび上がってくる作 曲家の個性が彼の意図するところであり、今までにない新しさです。うっかりしていると気づかずに通り過ぎてしまうように控え目ですが、洗練された非凡と言いましょうか。これは新しい世代のベートーヴェンなのか、ルイスらしくないことでルイスらしいベートーヴェンな のか。オコーナーにもシフにも別の魅力がありますが、目下のところベートーヴェンのピアノソナタ全集としては間違いなく一番の一つです。ただ ベートーヴェンを聞きたい人、そしてお墨付きも先入観もお払い箱にできる人が最初に買うべきもの、これがそれで す。そしてこれだけあれば十分でしょう。1972年生まれ。すご い人が出てきました。 Daniel Barenboim ダニエル・バレンボイム 全集が三つほど出ているようです。大手レーベルを渡り歩くように EMI、ドイツ・グラモフォンと来て、最新のは2006年のライブを収録したデッカ盤です。このバレンボイムという人は指揮者としても大量の録音を出して います。1942年アルゼンチン生まれのロシア-ユダヤ系ピアニストですが、よく理解できてないのであまり語る資格がないかもしれません。音楽には何の関係もありませんが、ジャクリーヌ・デュプレやギドン・クレーメルとの複雑な関係が世間的には話題になるようで、映画すら手中にする才能ある人のようです。その音楽ということになると、時期によっては強調点のあり方が自分にとっては分かり難いモーツァルトがあったり、反対にこれ以上はないと思える大きな表情を感じさせる別の作曲家の曲があったりするという印象です。ベートーヴェンの新しい全集の録音は、分かりやすい抑揚という意味では後者ではないかと思いますが、どちらの場合もそこから現れて来る何かにこちらがチューニングできてないようです。その人がいるということはそれを好む人もいるわけですから、詳しい評はファンの方に任せます。 Andras Schiff ♥♥ アンドラーシュ・シフ ♥♥ 自身のマスターク ラスで、シフは月光ソナタに関して「まったく革命的なソナタです。鑑賞するというよりもっと弾かれるべき曲で、 私はこれは大変重要な曲だと思います」と語った後、実際に出だしの数小節をダンパー・ペダルを踏んだまま弾いて みせてこんな解説をしています(途中略あ り): 大変奇妙だと思うかもしれませんね。だってこれはみなさんが 知ってる感じじゃないし、みなさんが弾くやり方 じゃないし、みなさんのおばあちゃんが弾くよう な仕方でもない... 誰もこんな風に弾かないわけです。で、ちょっと説明させてほしいんです。解釈の問題を論じなくちゃいけないなら好ましくないでしょうが、このケースは大変 重要で、というのもこの曲はとても有名なわけです。そして私はこれが間違った仕方で知られてしまっていると 確信 しているんです。この曲ほど誤った伝統の厚い 層に覆われた曲を他に知りません。まず最初に、月光という名前、これはナンセンスです。ベートーヴェンによって つけられたものではない。詩人で批評家で あったルートヴィヒ・レルシュタープによってそう呼ばれたんです。いい詩人でみなさんもシューベルトの白鳥の歌 の歌詞で知っていると思います(弾いて歌 う)。これがそうですが、その彼がこう言ったんです... ル ツェルン湖に浮かぶボートに座ってたとき、それは美しい 夕べで満月だったけども、その景色が自分に この C#マイナーのソナタの第一楽章を思い出させた、と。それでこのソナタのニックネームがムーンライト・ソナ タになった。ベートーヴェンとは何の関係もない わけです。でもその名前はこのソナタに糊みたいにへばりついてしまった。 この曲は非常に特別な、遅い楽章として始まります。それは大変遅くて息の長いアダージョ・ソステヌートで す が、しかし、またしても私たちはこのソナタの(ベートーヴェンの)手 稿譜を持ってるわけです。その手書きの譜に彼は、アラ・ブレーヴェと書いた、で、ここで二拍子で区切って行くこ とを見てみたいと思います。誰かがスロー・ アダージョだと言ったにしても、一小節に2つ数えられる。ワン、ツー、ワン、ツー(演奏する)... これでも十分に遅いわけですが、でも通常演奏されるようなテンポであなたが弾くとするとこんな感じ(遅く弾いてみせて 鼻歌を歌う)ワーラーリ、ワーラーリ... その間に朝食が食べられますよ。そしてお昼ご飯も、晩ご飯も。それでもかわいそうなピアニストはまだ第一楽章を 弾いてる。で、もうひとこと言わせてほしいんで すが、ベートーヴェンはこの楽章の始まりについてイタリア語の文を書いてる(イタリア語で暗唱してみせる)。これを 翻訳すると、この曲のす べてを大変デリカシーをもって弾かなければならない、そしてソルディーノはなしで、というのです。でもここで用 語の問題が出てくる。なぜかというと、ソルディーノはソフ ト・ペダルを意味しないんです。ベートーヴェンはウナ・コルダと書いた。それで彼はソフト・ペダルを意図してたわけ です。このソルディーノなしで、はダンパー なしでということになる。だからダンパーは上げたまま、つまりそれが意味するのは、この楽章全体でペダルを用い て演奏しなくてはいけない、といことにな るんです。そうなるともちろん、私の同僚たちの多くは「うん、そのことはよく知ってるよ、でも現代のピアノでは そんなことはできないよ」と言うのです。で、私は どうしてできないの? 試してみたの? と聞くんです。すると彼らは答える、「いいや、試しちゃいない。でもそれ はできないんだってば。」これは論議を呼ぶと ころですよ。こんなんじゃ十分じゃない。ベートーヴェンは、私が思うには十分に偉大な偉大な作曲家で、彼のこと はちゃんとまじめに扱わなくちゃいけないぐ らい偉大です。だからもし彼がそれについて何か特別に書いたというなら、彼にチャンスを与えてくださいよ。そこ には理由があったはずなんです。彼は非常に 特別な音を望んでたんです。それはハーモニーが一緒に滑るように動くこと、ひとつの波(流れ)の中でね。そして そこでは倍音がお互いに強調される。なぜな らここでは、低音が来る(低音を弾く)、そして三連符のオスティナート(高音の三連符を弾く)、それからそれらが一緒になって(弾く)... そしてアーティキュレイト(発音)について非常に注意深くあるなら、もちろん現代ピアノでは私はペダルを底までは踏まないわけで、三分の一で全く十分 なのです。それから、この「点」で描かれたリズムが来る(次の主題を弾く)。これはまた、葬送行進のリズム なんです。エドウィン・フィッシャーのベートーヴェン のソナタに関する素晴らしい本で、フィッシャーは偉大な発見をしたのですが、こう言っています... 私は月光ソナタ に関する記述についてはずっと嬉しくありませんでした。なぜならちっとも納得できないからです。で、あると きウィー ン・ムジークフェライン図書館の保存記録を見たんです。司書はベートーヴェンの手書きのスケッチを出してきました。紙一枚でしたが、それはベートーヴェン がモーツァルトのドン・ジョヴァンニから書き写 したものでした... と、こう彼は書いているのです。そのシーンはドン・ジョヴァンニがコマンダ トーレ(騎士団管区長)を殺す場面で、その音楽が(弾く)... こんな感じ。それを C#マイナーに転調するとこうなる(弾く:月光の出だしに似ている)。これは私には非常に明快なことですが、この音楽が表すのは、ノー、ノー、月の光じゃ なくて、葬送のテーマですよ。これはモーツァルトのドン・ジョヴァンニのことを考えたテーマなんです。 長くなりましたが、シフの月光の演奏はちょっと変わっているので、ペダルの扱いとこの曲の演奏表現に関わると ころを抜粋で掲載しました。では、実際の演奏はどうでしょうか。 第一楽章の始まりはテンポが速く、表情もいつものような細 かなルバートがなくてあっけにとられるほど淡々としていますが、ダンパー・ペダルを踏んだままなので音が反 響し続けて全く不思議な効果をもたらします。これがベートーヴェンが意図した通りだということなら革新的です。 今までの演奏で一番意外です。まるで離人的な夢の中の葬送行進のようで、シフはこういうことも敢行する人なので すね。ラストから少し前に右手が突如海の中からくっきりと隆起するように強くなるところなど印象的で、ドビュッ シーの沈める寺のようです。第二楽章はコントラストをつけるところだと言っていましたがその通りで、アクセントが大きく、スタッカートがおどけているようです。第三楽章はダイナミックで速いですが、特定の音の連 なりを取り出したように強調するシフ独特の揺れが、粒立ちの良いくっきりした音で表現されています。 一方で30番は静かに入りますが、磨かれた音色で鮮やかです。 バッハのときよりも強いタッチの部分でよりはっきり弾いているでしょうか。表情も大胆で、ためを作るやり方が思い 切っています。右手も左手も一音ずつくっきりし、まるで指を上 から叩いているかのようですが、パワーがあるので しょう。月光ではペダルを使ったものの、曖昧なもやの中に沈まないのが常にシフの特徴のように思います。 第二楽章の強い部分ではケンプより落ち着いたトーンで、こ こでもクリアで走りません。第三楽章はベートーヴェンで最も美しい音楽に仕上がったのではないでしょうか。途中スタッカート気味に区切って一瞬間を多く 取ったり、立ち止まるように歩を弛めたり、二度と同じことをしません。月光とは違ってダンパーで適切に響きを吸収しているので一音一音がはっきりします。 そして情に流されないのに情緒にあふれています。例の印象的な後半のスタッカート部分はゆっくりで、はじける雨 だれのような美しさがたまりません。 月光と30番で比較すると言っ たのですが、シフの32番、ベートーヴェン最後のソナタについても触れないわけには行きません。この曲 はこんなに変化に富んでいたでしょうか。息を呑む静けさの中での驚くほど多様な表情、それにこの抽象 性。ベートーヴェンは古典派という枠ではと てもとらえられない恐ろしい天才で す。後期ロマン派すら突き抜けているでしょう。第二楽章はピアノ音楽の黙示録です。シフの演奏では、他 のピアニストによってはつまらなく感じられたところにすべて意味を感じます。中ほど、32分の12拍子 に変わった第3変奏でフォルテの山を迎えた後、終わり四分の一あたり、第5変奏に入ってから最後のトリ ルに入る前の部分で二度目の波が来ますが、その大きな息でクレッシェンドして行く様には身震いしまし た。最後のフォルテの執拗なまでの連打にこれほど心を動かされたこともありません。演奏によってはとき どきやかましいと思ってたぐらいですから。そして左手のトリルの上で回想がきらめいたかと思ったらあっ という間に静まって終わり、呆然として、この曲の価値を今までよくわかっていなかったな、と思いまし た。 1953年、ハンガリー生まれのシフ(バッハの演奏については「シフという個性」の章で扱っています)の ピアノは、ピリスの端正さとはまた違った意味で感情に煽られるところのない知的な音を持っています。音の配置を 分解して見せるわけですが、それが有機的で、思考的にはならずに感覚的です。音がダマにならないようにしながら進めているのでしょうか、ピアノの楽曲がいかに美しく鳴 るかに最大限の注意を払っているかのようです。走り出したり立ち止まったり、誰にも真似のできない間合いとアクセントが自在です。それがベートーヴェンらしいのかどうかは見方に よるでしょうが、シフ独特の美の世界です。また、ハンガリー人はよく悲観的だと言われますが、シフに関してはそ ういうムードは感じられず、センチメンタルさとはむしろ反対な気がします。バッハでは愉悦の中にあり、ベートー ヴェンは音のない炎のような燃焼です。 ピアノの音のきれいさでもベストです。楽器はスタインウェ イをイタリアの調律師が一部改造したアンジェロ・ファブリーニだということです。月光の方は2005年、30番は2007年、チューリヒ・トー ンハレのライブ収録で、レーベルはジャズの ECM です。個人的にはベートーヴェンのソナタとしてこれがベストの演奏です。 Helene Grimaud エレーヌ・グリ モー 1969年生まれのフランス人でジャック・ルヴィエに師事したピアニストです。 ドイツ音楽にも積極的で、ブラームスの間奏曲が素晴らしかったことはすでに書きました (「ロマンスと憧れと/ブラームスの室内楽」)。ベートーヴェンのソナタはまとめては出てま せんが、協奏 曲とのカップリングで月光も30番も聞けます。 その協奏曲の方では、たとえば「皇帝」などでは崩し方に粋さがあった り、第二楽章のゆったりした部分をわざ と早足にするところがあまのじゃくのフランス人をちょっとだけ感じさせたりしますが、 だいたいにおいて力強く正攻法で、ソナタではとくにそう感 じます。 月光については、ウルフ・ムーンライトなどとして、狼の映像と鳴き声をオーバーダブしたものが YouTube に出ています。案外風情があったりしますが、どうしてそういうことになるかというと、エレーヌは野生の狼の研究に熱を上げているからなの です。ニューヨーク州に保護センターも設立しました。演奏の方はどちらかというとゆったりした テンポで表情があり、ロマンティックです。強くなるところで スケールの大きさを感じさせます。この人、きれいな女性ですが、力強さでも夢想的なとこ ろでも男っぽい魂を感じるときがあります。女優になる人に男 性ホルモンを感じるようなものでしょうか。 30番も静かなところは深い叙情性を感じさせる一方で、ダイナミックな部分は歯切れが良いで す。第三楽章はゆったりで表情も豊かであり、歩をゆるめるとこ ろと力を抜くところが大胆ですが、案外過度の情緒をかぶせているようには聞こえないのが不思議 なところです。おセンチにはならないのはやはり女性だからでしょうか。いずれにせよ、ジェン ダー差別など芸術においては何の意味もないことを教えてくれます。スタッカートの部分は ゆったり目ながら流れるようで、なかなか魅力的です。 ダイナミックで艶があり、透明な録音も秀逸です。協奏曲の4番とカップリングされた30番と 31番の方が1999年、そういう商売もどうかと思いますが、日本盤のみ月光がカップリングさ れた「皇帝」の方が2006年〜07年収録です。 ∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞ ベートーヴェンのピアノ ソナタ演奏について大変勝手なこと を言ってきましたが、他に歴史的名演に数えられるところでは、吉田秀和氏 が褒めた1902年生まれのイギリスのピアニスト、カットナー・ソロモンも聞いてみました。30番など第三楽章の弱音がとてもきれいで、非常に ゆっくりと、息をひそめるところの美しさが際だっていました。月光も遅いところは淡々と遅いですが、速いところは力まず に軽く走るように流しており、全体にやさしく静かな印象のピアニストです。 エドウィン・フィッシャーは 1886年生まれのスイスのピアニストで、コルトーやギーゼキングらと同じ頃に活躍し、指揮者のフルト ヴェングラーとも親交があったようです。シフも講義で言及していましたが、バッハやベートーヴェンの音 楽に大変造詣が深かったと言われます。月光などでは自在にテンポを速めたり遅めたり伸び縮みしつつ、過 熱し過ぎず大仰にもならない様子をその録音から聞くことができます。30番の後半でも深い抑揚のある歌 がうたわれ、歩をゆるめて静かに語る部分での味わいには温かさを感じます。しかし亡くなったのは 1960 年ながら録音は新しくても50年代前半ぐらいまでしかなく、この音源ですべてを語れというのもちょっと きびしいところがあると思います。彼こそがベートーヴェンの最高の演奏だと言う人もいるようですが。 初めてベートーヴェンのソナタ全集を完成させたアルトゥール・シュナーベルは1883年オーストリー生まれのユダヤ系ピアニストで、後の世代に大変大きな影響を与えた人です。この人の も録音が古 いので強いタッチの角の部分がよく聞こえないことがあり、正確な評価はできないのではないかという気が します。月光はさらっとして大変静かに聞こえ、30番の第三楽章など遅くなるところでは止まりそう なほどで特徴は感じられるのですが。テクニックに難があると言う人もいますが、確かにミスタッチはある も の の当時の録音事情もあるでしょう。いずれにしてもその演奏は時代がかった古い様式として片付けることのできない説得力があると思います。 往年のモノーラル録音は、じっくり耳を傾けると色々なことを教えてくれますが、音の問題はやはりあるわけで、好んで聞く方ではないのでこれぐらいにしておきます。 INDEX |