ロマンスと憧れと / ブラームスの室内楽
ピアノ三重奏曲第1番 / 弦楽六重奏曲第1・2番
ヴァイオリン・ソナタ第1番 / クラリネット五重奏曲 

   brahms

 ウィッシュ(wish)というと、そういう名前の自動車もありますが、わが国ではこの言葉は歌詞などにも大変好まれて使われるようです。ただ、ホープや ドリームとは違って、ウィッシュというのは可能性のないことへの希望という意味合いもあるようです。決して手に入らないものへの情熱があるとしたら、何だ か胸の痛む話です。ブラームスの憧れがどういう種類のものだったかは分かりません。しかし彼の音楽は、ときに憧れのような切なさを感じさせます。それはどこかロマンスに関係があるかのような響きに聞こえるものです。
 もちろん音譜の側から見るならば、ブラームスの音は「渋い」と表現されることがあるのも事実です。その表現か らするとロマンスとは反対の方向性であるように聞こえます。しかしそれも、塗り重ねた油絵的な彼の技法の好みに よるのであって、弦楽四重奏にビオラとチェロを足した六重奏のような、その音のバランスに起因します。自らの心 情を切々と訴えるロマン派の中にあって、それと反対の保守性を指摘されるのも同じことではないでしょうか。それ は形式の問題に過ぎません。形式こそが音楽かもしれませんが、ブラームスにとって「新古典派」は仮面なのです。

 では、仮面はどこから来るのでしょう。腕組みをしている若いときの写真がありますが、晩年の悲しそうな目が本心からならば、ハンサムな彼が憂鬱そうに写っているその姿には、そう装っているんじゃないかと思えるところがあ ります。若いときは誰でもそうではありますが、彼にはどこか大きく、あるいは重厚に見せようとして背伸びをする 性質があるのではないでしょうか。ピアノ協奏曲第1番など、第二楽章は後年の彼らしいロマンティックで美しいメ ロディが聞かれるものの、最初の楽章は張り切ってる様子が見えると言ってもいいと思います。その後の作品での複 雑かつ重厚な和声を好む傾向も、やはり同じ心理から出てくるのでしょう。同時代のチャイコフスキーやヴォルフ、 マーラーなど、何人もの人が彼の作品を酷評しました。「深遠さを装ってみせる」、「偽善」、「 (本当は) 空っぽ」などと表現しています。悪口なんて相手にする必要ないですし、芸術に無理解はつきものですが、装うことについての 発言が目立つのは面白いと思います。もし幾分かでも当たっているなら、本当に才能があるのですから、堂々として いれば良かったのに。

 慎重さ、煮え切らなさは、どうやらブラームスの美徳のようです。素晴らしいメロディーのセンスを持っていなが ら、ベートーヴェンを意識してなかなか書けなかったのは第1交響曲に限らないようです。せっかく作曲しても恥じ て破棄してしまったという話はよく聞かれますし、女性に関してもいっぱい噂話がありながら躊躇する癖があったと 報告されています。
  ブラームスにとってクララ・シューマンが特別な人だったことはすでに別項で触れました。ここでは彼の作品群のうち、とくに魅力的な一角を成す室内楽の、そ れもメロディアスにして甘い郷愁のような音を聞かせるものを挙げてみます。そのため息が誰へのものなのかは大し て重要ではありません。しかし何だかんだいっても、そういう色調の曲こそが名曲として人気があるのではないで しょうか。これ以上のロマンティストはいないほどでありながら立派な紳士たろうとする努力は、はにかみ屋のブ ラームスの最も愛すべき点に違いありません。


ピアノ三重奏曲第1番 op.8
 改訂版を出しはしたものの、二十歳のブラームスが初めてクララに会った直後に書いた曲です。事実は知りま せんが、最初から熱き思いに舞い上がってるように聞こえませんか? ピアノが冒頭から印象的な低い音を叩 き、大きな波のように押し寄せて来たかと思うと、チェロが引き継いで熱っぽく胸の内を語ります。揺れ動く感 情を振り切れるままにし、どうしようもなく高まってきたところで、そうだ、と自らに断定的に言い切ってまた 突き進む。そういう感じです。地に足が着いていないと言えるほど幸せと息苦しさが合体していま す。「好き好きどうしよう」と小躍りしているようにしか聞こえません!



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       Brahms piano trios (no.1)
       Maria Joao Pires (pf)    Augusten Dumay (vn) ♥♥
       Jian Wang (vc)

ブラームス / ピアノ三重奏曲集(第1番 op.8)
オーギュスタン・デュメイ(ヴァイオリン)/ マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ) ♥♥
ジャン・ワン(チェロ)
 デュメイとピリスにジャン・ワンが加わったトリオがいい演奏をしています。デュメイとピリスはこの頃、プ ライヴェートでも熱い時期だったのではないでしょうか。デュメイは内に秘めた乱暴なほどの情熱を洗練させて 表現する演奏家だと思ってきました。だからCD録音よりもライブの方が圧倒的に良いのです。ピリスは攻撃的 に弾いてみせるようなこけおどしのない人ですが、丁寧な表現のなかに何か熱いものを持っているように感じま す。そして演奏会にしてもCDの選曲にしても、内向的でロマンティックな曲を選びたがる傾向があります。こ れら一連のブラームスのシリーズは、今は別れてしまったこの二人の、甘く懐かしいフォト・アルバムのような出来です。これを出した後に二人の生演奏を聞きましたが、お互いの紹介の仕方から何から、仲むつまじい雰囲 気でした。



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       Brahms piano trios no.1
       Viktoria Mullova (vn)    Andre Previn (pf) ♥♥
       Heinrich Schiff (vc)

ブラームス / ピアノ三重奏曲第1番 op.8
ヴィクトリア・ムローヴァ(ヴァイオリン)/ アンドレ・プレヴィン(ピアノ) ♥♥
ハインリヒ・シフ(チェロ)
 恋多きヴィクトリア・ムローヴァとアンドレ・プレヴィンのフィリップス盤も大変魅力的です。録音がこの レーベルらしくしっとりと滑らかなところもポイントが高いのです。チェロはハインリッヒ・シフです。デュメ イのヴァイオリンは生でも中高音のちょっときつい音を出しますが、ムローヴァのはストラディヴァリウス・ ジュールズ・フォークだろうと思われ、ここではよりほぐれた、やわらかい音に聞こえます。レーベル自体がなくなってしまいましたが、まだ中古が出回っているのではないでしょうか。カップリングのベートーヴェン、「大公トリオ」も瑞々しくていいです。


弦楽六重奏曲第1番 op.18
 この曲はアガーテを振ったというか、振られたというか、破綻した直後に書かれたものです。27歳のときで す。しかしこの甘酸っぱい響きはいったい何なのでしょうか。よく言われるのは第2番(32歳のときの作品 で、たいていのCDではカップリングされています)の方の副題が「アガーテ」であり、彼女への思いが切々と 歌われているのだということです。主題にA−G−A−H−Eという動きが見られることから、アガーテの名を 連発しているというのです。果してどうなのでしょう。私にはこの第1番からしてすでにロマンスに関わる響き のように聞こえます。関係が破綻した直後にそれを嘆いている人の作には聞こえません。それに第2番はアガー テとの話が終わってから五年後の作曲です。男は未練がましいとは言いますが、自ら別れるきっかけを作ってお いて、五年も経ってから名前を連呼するような曲を作るものでしょうか。
 いずれにしても、ヴィオラとチェロを増強した音の好みはブラームスらしく、この1番の六重奏曲はなかなか 魅力的です。2番にも1番の延長のようなウィッシュの音が聞けます。果して同じ心境から出たものか、そうで はないのか。



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       Brahms String Sextets
       Yehudi Menuhin,  Robert Masters (vn)    Cecil Aronowitz ♥♥
       Ernst Wallfisch (va)    Maurice Gendron,  Derek Simpson (vc)

ブラームス / 弦楽六重奏曲第1番 op.18 / 第2番 op.36「アガーテ」
ユーディ・メニューイン、ロ バート・マスターズ(ヴァイオリン) ♥♥
セシル・アロノ ウィッツ、アーネスト・ウォルフィッシュ(ヴィオラ)/ モーリス・ジャンドロン、デレク・シンプソン(チェロ)
 演奏は昔からメニューインたちのEMI盤を愛 聴してきました。他も買ってはみたのですが、結局これで満足しています。アメリカのヴァイオリニスト、ユー ディ・メニューインは粗削りで大胆に歌わせる一面もあるようですが、ここでは若きブラームスの心境をうまく表現 しているように思います。CDになってちょっと音が痩せましたが、録音は今の時点からみても悪くありません。昔 「Love−Classics」というタイトルのコンピレーション・アルバムが東 芝EMIから出ていて、ジャケットがまたピンクのハートというベタなものだったのですが、この手のものにしては選曲も曲順もよく練られていて、決して「トロイメライと月光」 のようなイージーなものでなかったのに感心しました。そしてそこにこのメニューインの六重奏も含まれていたのですが、誰が企画したのかリマスターもこっち で行ったのでしょう、バランスの良い滑らかな音に仕上げられていました。東芝の株式売却によってかよらずか、今 は廃盤になっ てしまいましたが、同じ録音があのようになるということは、いじり方次第でよみがえる名録音なのかもしれません。波形編集ソフトでイコライジングしてみる というのはどうでしょうか。


ヴァイオリン・ソナタ第1番「雨の歌」op.78     
 君が好きだと言ってくれた曲 を、君のためにソナタに編曲してみた よ、という曲です。ブラームスのメロディ の中でも最も美しいものの一つではないでしょうか。ブラームスの同名の歌曲をクララ・シューマンが好んで おり、ピアニストであるクララも弾けるように、かどうかは知りませんが、作曲家自らヴァイオリン・ソナ タに 編曲し、それが歴史に残る名曲になりました。その歌曲が使われているのは第三楽章ですが、色々なところでよ く取り上げられるのは第一楽章の方でしょうか。ヴァイオリンの鼻声で甘え訴えかけるような響きがなんと もロ マンティックです。途中から感情が激してきて、思わず叫んでしまうところがあります。フィジカルな自動運動 のようでもありますが、まるでわかってもらおうとして「ぼくだよ、ここだよ」と必死に訴えているみたい でも あり、その後脱力してまた上目遣いに独り言を装って囁き続けます。「ブラームス・フォー・トゥー」(恋人た ちのブラームス)という感じでしょうか。
 しかし作曲時期からすると交響曲第2番と3番の間であり、46歳のときなのです。前後に作られたのは ヴァ イオリン協奏曲、ピアノ協奏曲第2番、大学祝典序曲などで、どれも胸焦がされる情熱に身をよじっているよう な印象のうすい作品群であり、悲劇的序曲も作られているながら、あまり悲劇的でもありません。やはり作 曲時 期だけの問題ではなく、作品というものは個別に感情がこもるものなのでしょうか。それとも、昔作曲したもの をベースにしてクララを意識して作り直したからこうなったのでしょうか。



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      Brahms Violin Sonatas (No.1)
      Maria Joao Pires (pf)    Augusten Dumay (vn) ♥♥

ブラームス / ヴァイオリン・ソナタ集(第1番「雨の歌」op.78)
オーギュスタン・デュメイ(ヴァイオリン)/ マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ ♥♥
 ピアノ三重奏のところでとりあげたデュメイとピリスの演奏が深々として甘く、いい味を出して います。録音 によってはグラモフォンはときに中高域がきつく、フランクのソナタなど、デュメイの元々持っているきついと ころを強調するような場合がありますが、ここでの録音はバランスが取れていてやわらかく、心地 の良い音で す。演奏自体、ライブのようなエネルギッシュなところは少なめかもしれませんが、この曲ではかえって落ちついていて合っているのではないでしょうか。


クラリネット五重奏曲 op.115
 創作意欲の減退から作曲家としての引退を表明した後、クラリネット奏者リヒャルト・ミュール フェルトとの 出会いから再度筆を取った作品です。クラリネットの入った室内楽としてモーツァルトの五重奏と並んでクラ シックの名曲となりました。このときブラームスは58歳。室内楽としては同じくクラリネットの ソナタを除け ば最後になります。
 第4シンフォニーと並んで、晩年の境地というにはあまりにも感傷的だという意見はよく聞か れます。第一 楽章は最初の音から泣いているようですが、すぐに追憶に入ります(感じ方は個人差がありますので、あくまで も目安に過ぎません)。先に取り上げた三曲に比べて時代も後であり、悲しみと諦めの増量ボタン が押されていますが、やはり愛情問題にかかわる音であるように聞こえます。この頃クララはまだ 生きており、友人関係は続 いていたと思われます。それとも、エリザベート・フォン・シュトックハウゼン(ヘルツォーゲンベルク夫人)とか、シューマンの三女とか、ヘルミーネ・シュ ピースとか、何か別の件でしょうか。嫌ですね、やはり昇華された芸術作品を実人生に対応させる のは音楽療法かゴシップ記事にまかせておくべきなのでしょう。ただ、漫然と聞いていたときは心 の状態については考えず、よくできた名曲だと思って長らく過ごしてきたものが、こうして彼の作 品を通しでいくつか聞いてみると色々と見えてしまうように感じるのも事実です。
 第二楽章も日没後の空を感傷的な思いで眺めているような、そしてときどき抑えきれない感情の 高まりが繰り 返されるような動きが見られます。ピアノ三重奏や雨の歌のような現在進行形の憧れではありませんがWISH+仮定法過去完了の叶えられなかった夢のよ うで、やはり同様に胸塞がれます。



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       Brahms  Clarinet Quintet
       David Shifrin (cl)    Emerson String Quartet ♥♥

ブラームス / クラリネット五重奏曲 op.115
デヴィッド・シフリン(クラリネット)/ エマーソン弦楽四重奏団 ♥♥
 アメリカのクラリネット奏者、シフリンの演奏は叙情的でやわらかな抑揚が魅力的です。ドイツ・グラモフォンの録音はやや中域がキツいところもありますが、これは96年のデジタル録音です。また、シフリンはクラリネット・ ソナタの方も出しています。ブラームスのこの色の世界が 心地い 人は一聴の価値あり、かもしれませ ん。そちらの 方が胸締めつける感覚は少ないような気もします。     



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       Alessandro Carbonare
       Luc Hery, Florence Binder (vn)
       Nicolas Bone (va), Muriel Pouzenc (vc) ♥♥

ブラームス / クラリネット五重奏曲 op.115
アレッサンドロ・カルボナーレ(クラリネット)♥♥   
リュック・エリ、フローランス・バンデル(ヴァ イオリン)ニコラ・ボヌ(ヴィオラ)
ミュルエル・プーザン (チェロ)
 イタリアのクラリネット奏者、カルボナーレの演奏は高い技術をもってコントロールされた弱音が大変美しいものです。97年ハルモニア・ムンディ・フランスの録音も優れています。     



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