糸杉の想い出

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 姉妹のうちの片方を好きになり、しかしもう片方と結婚するということが作曲家の中で流行していたようです。ハイドンはかつら屋ペーターの娘、テレーゼに恋しましたが、修道院に入ってしまったのでその姉のマリア・アンナ・ アロイジア・ケラーと結婚しました。この奥さんは、一般にはハイドンの書いた楽譜を野菜を包むために使ったかどで責められています。

 モーツァルトが最初に男女の仲になったのはハイドンの妻と同じファーストネームのアンナ・アロイジア・テーク ラ・モーツァルトだと言われたりします。彼女は当時モーツァルトが「ベーズレ」と呼んでいたいとこだったわけですが、現代なら電子メールで書いてすらどこかに記録が残ったら騒動になるようなぶっとんだ手紙を書いています。その後歌の上手い音楽家の娘で、これまたアロイジアという名前で混乱し ますが、アロイジア・ウェーバーという女性を好きになります。しかし本人に振られたとも、その両親が他所と金目当ての結婚を計画したとも言われ、恋は実らずにその妹のコンスタンツェ・ウェーバーと結婚します。

 このハイドンとモーツァルトの 二人の妻は、クラシック音楽愛好家の間でよく「悪妻」と呼ばれます。悪妻という言葉、悪夫とあまり言わないことからして性差別でしょう。奥さんにしてみれば気に入らない相手と結婚させられたという事情があるのかもしれないですし、片方だけが悪いなんてことはないわけで、有名人の配偶者と もなると何を言われるか分かりません。モーツァルトはその後も妻の姉となったアロイジアとは仲が良かったようで、 奥さんのコンスタンツェはモーツァルトの弟子の子供を宿したと噂されたり、夫の死に際して葬儀に行かず、墓参りもしな かったと非難されたりもし、アロイジアがその反対だったこともあり、水面下での不倫関係がささやかれます。不倫ってそもそも言葉自体があまりいい響きじゃないですけれども。



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      Josefina Cermakova                            Anna Cermakova


「糸杉」
 ゴシップねたから入りましたが、姉妹取り違え事件はこれで終わりではなく、九十一年後には「ドヴォルザークよ、おまえもか」という事態になります。お相手は彼が音楽の家庭教師をしていた金細工職人の家の姉妹の、姉の方のヨゼフィーナ・チェルマーコヴァで、女優だった彼女にドヴォルザークは恋心を抱きます。ところがうまく行かず、妹の方のアンナ・チェルマーコヴァと結婚します。しかしその人柄のせいか、ハイドンやモーツァルトのように別の一方と結婚したからといって結婚生活が大失敗だったというわけではなさそうです。知らないところでどんなことがあったかは知らないけど、後世からは幸福な結婚生活を送ったということになっています。
 それでも姉のヨゼフィーナのことは彼の中では大きいものだったようで、当時彼女を想って「糸杉」という曲を作っています。歌曲集で、今となってはあまり聞く機会も多くないけれども、それから二十二年後の四十六歳になってからもそれを弦楽四重奏曲に編曲しています。恋の思い出が大切だったのか、曲自体がよく書けていたと考えたのかは不明ですが、なかなかの思い入れぶりではないでしょうか。そちらはちょっと知られてます。

 その「糸杉」という曲、なんとも懐かしいような愛おしい感じがします。彼の四重奏の中でも、あるいは他の作品の中でも、独特の美しさを感じさせる愛らしい小品と言えるでしょう。「アメリカ」などで見せるいつもの楽しさよりも、回想的で静かな美しさが前面に出ています。この糸杉を聞くと、ああ、ドヴォルザークはいい人だったんだな、と感じます。人懐っこいメロディアスな音楽を作ることで有名な作曲家だけど、こうした恋の感情を描いてもこうなるのです。攻撃性がなく、思い悩んでも暗くなりません。ブラームスの息苦しい恋の情熱とも違い、ベルリオーズの狂気じみた思い込みとも違います。肯定的でやさしく、ちっとも後ろ向きではないのです。「糸杉」。ことさら有名な作品ではありませんが、ときどき聞きたくなります。短いので、終わるとまたかけたくなったりします。



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      Dvorak   Cypresses (Zypressen) for String Quartet
      Hagen Quartet ♥♥

弦楽四重奏のための「糸杉」
ハーゲン四重奏団 ♥♥
 ザルツブルク出身の兄弟たちで構成されているハーゲン四重奏団の演奏がいいです。この曲は弦楽四重奏といって も、いわゆるソナタ形式を備えた四楽章構成の作品ではなく、元は歌曲だった短い旋律を集めたもので、美しいメロ ディーが手をつないで横に並んでいるような造りです。やや速めの興奮を表すような部分もいくつかないではないで す が、ほとんどがゆったりした旋律です。ということは、どの曲もゆったり弾いてしまうと起伏がな くのっぺりとしてしまいがちです。ハーゲン四重奏団は決して力で押さないながらよく抑揚を付けて弾きます。それも大変細かく注意 が配られていて飽きさせません。そして何よりやさしく自然に流れます。それが糸杉にはぴったりな表現となってい ます。全体にはどちらかというとゆったりめのテンポが基本にあって、弱音では思い切って弱め、間を置き、フレー ズがよくしないます。強くするところでは胸の高鳴りのような濃厚な盛り上げも聞かれます。そう、この曲は元々ド ヴォルザークの恋の歌なのです。ハーゲン四重奏団にあって他にないものは、この恋するような感覚の再現でしょう か。静かな回想でありながら、ときに熱くこみ上げてきてときめき、憧れてきゅんとする、当時メンバーが若かった この団体はそんなところも上手く再現している気がします。

 余談ながらハーゲン四重奏団のその後についても一言。年齢とともに丸くなる人がいる一方で押しが強くなる人も 珍しくないですが、演奏家も後になるほど表現が強くな る場合があります。自信に満ちてきたと感じる場合と過剰に聞こえる場合とがあるでしょうが、良い悪いではなく、 ピリスやグラーフといった人のことは他のページでも触れました。このハーゲン四重奏団も時間とともに表現が変化 してきた団体だと思います。後の演奏では曲によってかなり大きな表情を付ける場合もあり、個人的には曲と合わな いように感じるケースもありました。しかしこの糸杉の演奏はハイドンのひばりと並んで最近の録音ではなく、大変 洗練されています。それで他の演奏にはない良さを感じるためにここで取り上げたのですが、残念ながら糸杉の全曲 ではないことを忘れていました。選曲もいいのでこればかり聞いているのですが。

 録音がまた艶やかにし て繊細です。ただ、カップリングの「アメリカ」は糸杉とは別の場所で収録した音が最高のコ ンディションとは言えないかもしれません。中域の反響が若干強めで、ちょっと壷の中で響いているような感じがし なくもありません。音にうるさい人でなければ気にならないかもしれませんが。演奏は素晴らしく、好みであるク リーヴランド四重奏団のものと比べると表情の付け方が違いますが、より 大胆なアップダウンがあり、ねばって流れるというよりは細かなステップで強くなったり弱まったりし、溌剌として います。民族色豊かという方向ではないですが、この曲の演奏としては魅力的なものです。
 1980年結成で、この演奏は1986年であり、前述の通りこの団体としてはキャリアの最初の頃のものです。



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     Prague String Quartet                         Panocha Quartet                            Vlach Quartet Prague

 やっぱり糸杉を全曲(12曲)聞きたいということであれば ハーゲン四重奏団以外にも CD は案外たくさん出ています。ハーゲンがカットした中にも静かで美しい曲が含まれていますから、ときどきは通しで聞きたくなります。
 新しくはないので全集かダウンロード版しか手に入りませんが、大きなビブラートとボウイング 途中で力のこもるヴァイオリンが懐かしいグラモフォンのプラハ四重奏団の演奏は全体にテンポが ゆっくりしており、フレージングもくっきりと丁寧で悪くないし、最もゆったりめの方のテンポを とってじっくりと弾くパノハ四重奏団 は軽妙な動きこそ少ないながら よく歌い上げ、ときに夕焼け空を見上げるように静かなパートが美しいです。これはいいですね。 フレーズの頭のアタックが強めで弾むようなナクソスのヴラフ四重奏団も真面目ながら楽しげなと ころに魅力があるでしょう。これらは皆 後で紹介するベネヴィッツも含めてドヴォルザークの同胞、チェコの楽団です。彼らにもし共通性があるとすれば真摯でちょっと生真面目なところでしょうか。 どれも個性があって良いと思います。ただ、結局好みの問題ですが、私は力のこもったものはこの 曲集についてはあまり望んでおらず、静けさがあってやわらかいことはもちろんながら、民族色と いうよりも動きに軽妙さと洗練も感じさせ、甘く懐かしくこみ上げてくるような抑揚のものを探し てしまいます。以下にハーゲンを除いてそんな自分の好みを反映した盤を取り上げてみます。


 
    viennacypresses
       Dvorak   Cypresses (Zypressen) for String Quartet
       The Vienna String Quartet

弦楽四重奏のための「糸杉」
ウィーン四重奏団
  日本のカメ ラータからリリースされている ウィーン四重奏団の演奏は手に入れやすいこともあるし、数ある中でも素晴らしいのではと思います。おっとりとし てリラックスできる方向の演奏です。テンポ自体はハーゲンと比べても必ずしも常にゆったりというわけで はな いし、楽章によっては力強いところもありますが、出だしなどを聞いてもわかる通り、やわらかくて落ち着 いています。ハーゲンでは回想の中で湧きあがる恋の情熱のようなものも感じましたが、このウィーン・ フィルの名人たちはもっと大人で落ち着いています。そして先入観かもしれませんが、チェコの演奏家の真 面目さが前面に出る感覚よりはもう少し優雅さ が感じられる気もします。ハーゲンも含めてオーストリーの楽団、ウィーン流儀というのはこの曲には案外 合うのかもしれません。ハーゲンはザルツブルクですが。カップリングは14番の四重奏です。

 1994年の録音は音もいいです。この曲は録音が良くないと魅力も半減かと思いますが、このウィーン 四重奏団と次のベネヴィッツ四重奏団は中でも音がきれいです。カメラータはパノハ四重奏団も出している ので、この曲には何かしら思い入れがあるのかもしれません。



    Bennewitzcypresses
       Dvorak   Cypresses (Zypressen) for String Quartet
       Bennewitz Quartet

弦楽四重奏のための「糸杉」
ベネヴィッツ四重奏団
 最近の録音で音も良く、原曲の歌曲も聞ける二枚組である上 に、ドヴォルザーク自身が四重奏に編曲しなかった残りの歌も四重奏でも聞けるというものがあり ます。いわば糸杉づくし。本場のチェコはプラハのベネヴィッツ四重奏団の演奏です。レーベルは ヘンスラーです。歌はマルクス・ウルマンがテノール、マルティン・ブルンスがバリトン、アンド レアス・フレーゼがピアノです。

 こちらの演奏は前述のウィーン四重奏団と比べるとやや活気が前面に出ていると言っていいで しょうか、ときにはつらつと良く歌います。短い中に大きめのクレッシェンドも聞かれ、曲によっ てはウィーン四重奏団の方が負けずと力強く駆け上がったりのパートもありますが、トータルでは ウィーンの方がややリラックスしておっとりし、こちらのベネヴィッツの方が生きいきしているで しょうか。伸び縮みのある抑揚が心地よい演奏です。チェコの四重奏団としては世代が新しいこと もあるのか、真面目でないとは言わないけれどもベタっと塗りつぶすように弾く傾向は全くなく、 立体的でテンポも遅過ぎません。2012年の録音は音も大変素晴らしいで す。



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