暗闇にゆらめくキャンドル
クープラン & シャルパンティエ / ルソン・ド・テネブレ ルソン・ド・テネブ レというのは、ルネサンスからバロック時代にかけてフランスで作曲された声楽曲で、エレミア哀歌を歌詞としていま す。エレミア哀歌はカトリックで復活祭前の聖週間に行われる典礼の際に歌われるもの で、その典礼は日曜日の復活祭に先立つ聖木曜日、聖金曜日、聖土曜日の三日間あります。ルソン・ド・テネ ブレはこのエレミア哀歌のフランス版で、リュートなどで歌われるフランスの宮廷風歌曲(エール・ド・クー ル)に近いところもあるとされます。ルソン・ド・テネブレという言葉の意味は「暗闇の朝課」で、典礼の最 後に13本のロウソクを順に消して行って最後に暗闇になるところからそう呼ばれます。ただしこの音楽が流行した頃の フランスでは、朝課は前日の午後に繰り上げて行われるようになっていたそうです。
クープランのルソン・ド・テネブレ ルソン・ド・テネブレの名曲としてまず思い浮かぶのがクープランのものです。フランソワ・クープラン (1668−1733)といえば、華やかにして壊れやすい印象のクラヴサン曲やコンセールなどをイメージすることが多いでしょうが、その貴族的な趣は、複 雑で飾りが多く、メロディー・ラインを際立たせるのでない、ポリフォニックで反復的な楽曲構造から来ているのだと思 います。しかしひとたび歌曲ともなるとこういう魅力的な旋律を紡ぎだすのかと驚くのがルソン・ド・テネブレです。 エール・ド・クールのスタイルをとったことがそうさせていると言えるようですが、人懐っこい節回し、素直に降りてき て止まるフレーズ、鳥が鳴くようなトリル、どこをとってもわかりやすく、澄んだ美しさに満ちています。リピートして 何度でも聞きたくなるこの軽やかな高揚感と安らぎの組み合わせはクープランの作品 の中でも一、二を争う魅力的なものではないでしょうか。ただ、あまり宗教曲という印象はないのですが。 Francois Couperin Trois Lecons de Tenebres Judith Nelson, Emma Kirkby (s) ♥♥
Jane Ryan (viola da gamba) Christopher Hogwood (chamber organ) クープラン / ルソン・ド・テネブレ ジュディス・ネルソン、エマ・カークビー(ソプラノ)♥♥ ジェーン・ライアン(ヴィオラ・ダ・ガンバ)/ クリストファー・ホグ ウッド(チャンバー・オルガン) 演奏はジュディス・ネルソンとエマ・カークビーの盤以 外、ちょっと思い浮かびません。カウンター・テナーの名盤もいくつか出ていますが、イギリスと違って裏声の男声をた いしてひいきにしてこなかったフランスのことを考えると、クープランは果たしてどうでしょうか。それはそれとして魅 力がありますが、このネルソン=カーク ビー盤のあまりの素晴らしさに、ちょっとかすんでしまいます。 シカゴ生まれでつい最近アルツハイマーで亡くなったネルソンはほぼ同じ時期から活 躍したカークビーとともに 古楽の世界でのパイオニア的存在で、カークビーの十歳年上にあたり、二人はバロック音楽におけるソプラノの二大女王として古楽界に君臨してきました。 カークビーはお気に入りなのでこのフェイバリットCDsのページでも何回か取り上げました。ノン・ビブラートで 歌うその歌声は他に類をみないもので、通常のベルカントの声楽では決して教えられてこなかった種類であるために、こ の歌い方に到達するまでには師のいないところで何度も試行錯誤を繰り返してきたようです。元々オックスフォード大学 で古典語研究を行い、その後英語を教えていたものが趣味で合唱団に入り、この道に進んだ人です。声量という点では歌 手として決して優等生ではなかったと言われるものの、その後の活躍は皆の知るところです。 カークビーといえばそのかわいらしい声の質でも有名で、震わせずに真っ直ぐに歌うのに音程は外れず、清らかとされ るボーイ・ソプラノ以上に宗教曲ではもってこいの存在です。ちょうどオペラ出身のアルトよりもカウンター・テナーの 方が俗っぽくないながらセクシーなように、彼女も聖母元型を思わせつつ、コケティッシュな一面を感じさせます。宗教 曲の分野ではエリー・アメリンクが長らくアイコンであり続けましたが、古楽の隆盛とともにカークビーの時代がやって きたようです。私生活でも彼女はアンドリュー・パロット、アンソニー・ルーリーと二度結婚しており、コーヒー・カン タータのジャ ケットで舞台衣装姿で写っている若いときの写真などを見ると、その声とも似てなるほどと思わせる魅惑的な歌姫です。 さて、この二人のルソン・ド・テネブレですが、最初ネルソンのことをよく知らなかった私はカークビーこそがこのCDの主役なのだと 信じており、4つの読誦(どくじゅ)のうち最後の二つで二重唱になるところにのみネルソンが出てくるの だと思って聞いていました。つまり最初の二つの読誦 である第1と第2トラックの声をカークビーのものと思って「巧いなあ、きれいな声だ」と聞き惚れていたのです。二つの読誦ともに非の打ちどころがあ りません。ところが最初に歌っているのはネルソンで、二番目がカークビーでした。それほど良く似た声質で、歌い方も 調和がとれているのです。そう思ってよく聞けば二番目のカークビーの方がやや広がりのあるライブな声質で堂々として おり、少女のような甘さとコケティッシュな味があるような気がします。一方ネルソンは清らかで真っすぐであり、天使 のようだと評されるカークビーよりもむしろ天使的かもしれません。しかしほとんど双子のように揃っており、こんな完 ぺきな組み合わせは、今までも今後もないのではないかと思われます。 カークビーはその後、フランスのソプラノでカークビーより十年ほど遅れてキャリアを築いてきたアニェス・メロンと 再録音をしています。この人も大変きれいな声でフランスの古楽系ソプラノを代表する人ですが、録音された時点の年齢 もあるのか、カークビーとネルソンの旧盤にくらべて二人とも声質が若干太く聞こえ、トリルも大きく振わせているよう に感じます。旧盤同様に声質、技法ともに揃っていて名録音だと思い ますが、私は古い盤のどこから見ても一点の曇りもない美しさに参っており、これを超えるものは当分出てきそうもあり ません。 シャルパンティエのルソン・ド・テネブレ もうひとつ、クープランよりも少し前になりますが、シャルパンティエのものも大変魅力的 です。マルクアントワーヌ・シャルパンティエ (1643−1704)はクー プラン同様フランス・バロックの作曲家です。この人のルソン・ド・テネブレは、エール・ド・ クールからくる節回し自体はクープランのものに似てはいますが、より低いところで展開し、ゆったり落ち着いた味わいがあります。聖水曜日、聖木曜日 のものもあり、CDも出ていましたが、次に紹介するのは聖金曜日 の盤です。 Marc Antoine Charpantier Les Lecons de Tenebres du Vendredy Sainct Judith Nelson (s) Rene Jacobs (Ct / dir. ) Concerto Vocale ♥♥
シャルパンティエ / ルソン・ド・ テネブレ ジュディス・ネルソン(ソプラノ)/ ルネ・ヤーコプス コンチェルト・ヴォカーレ ♥♥ クープランの盤でも歌っていたアメリ カのソプ ラノ、ジュ ディス・ネルソンが歌い、ル ネ・ヤーコプスがカウ ンター・テナーと指揮、ヴィーラント・ クイケンがヴィオール、コンラート・ユングヘーネルがリュート(テオルボ)、ウィリアム・クリスティがチェンバ ロとオルガンを弾くコンチェルト・ヴォカーレの演奏です。ネルソンの歌は前述の通り、カークビーほど少女っぽい高音ではありません が、清楚なところが似ていて大変魅力的です。名カウンター・テナーのヤーコプスにファルセットゆえの不安定さが若干 あることと、若々しい声が華やいで聞こえるアンヌ・フェルキンデレンが第3朝課で登場するときに、音程にデリケート な ところがあるのがやや残念ですが、この音楽の魅力をスポイルするものではありません。79年の録音で、古 楽器とカウンター・テナーの入ったこの手のものとしてはもはや歴史的演奏と言える類かもしれませんが、今も大変魅力 的なやすらぎの一枚です。この盤は聖金曜日の朝課 で、曲は聖水曜日、聖木曜日のものもあり、この組み合わせで CDも出ていましたが、今はちょっと手に入 り難いかもしれません。 Marc Antoine Charpantier Les Lecons de Tenebres Agnes Mellon (s) Ian Honeyman (t) Gerard Lesne (Ct / direction) ♥♥
Peter Harvey, Jacques Bona (br) Il Seminario musicale シャルパンティエ / ルソン・ド・ テネブレ ジェラール・レーヌ(カウンター・テナーと指揮)♥♥ サンドリーヌ・ピオー、アニェス・メロン(ソプラノ)
イアン・ハニーマン(テ ノール)/ ピーター・ハーヴェイ、ジャック・ボナ(バリトン) イル・セミナリオ・ムジカーレ フランス古楽ソプラノ界の二大女王、サンド リーヌ・ピオーとアニェス・メロンに元ロッカーのカウンター・テナー、ジェラール・レーヌ、フォーレの レクイエムでコルボに毎度気に入られて登用されていたバリト ンのピーター・ハーヴェイという夢のような組み合わせのCDについて触れないわけにはいきません。93年の録音は録 り方も素晴らしく、ブロックフレーテやヴィ オラ・ダ・ガンバなどの楽器の音も大変生々しく響きます。二枚組で、一枚目 が聖木曜日、二枚目が聖金曜日の聖務日課となっています。 ピオーは残念ながらあま り目立つパートを歌っている感じではありませんが、二枚 目を担当するアニェス・メロンはやわら かく泳ぐ自在な抑揚を持ちつつ透 き通っていて見 事です。驚異の音程を 持つドイツの名カウン ター・テナー、アンドレアス・ショルは力強く真っ すぐな声で常に注目 してしまう わけですが、フランス人のレー ヌはよりやわらかく、雰囲気の ある声で魅せられます。ここで の歌唱は声域も合っているの か、こんなに上手なんだな、とあらため て感心してしまいました。メ ロンとも合っているのではない でしょうか。ピーター・ハー ヴェイは今やあちこちの録音で 大忙しですが、どっしりとした声質で音程も安 定しています。そんなわけで、このCDはいつも 手元にあって、ときどきかける 大事なものになっています。 パレストリーナ / 予言者エレミアの言葉 フランス流儀 のルソン・ド・テネブレではありませんが、同じくエレミア哀歌をひとつ。イタリア・ルネサンス期の作曲家、 ジョバンニ・ピエルルイジ・ダ・パレストリーナ(1525ー1594)の「予言者エレミアの 言葉」です。単旋律のグレゴリオ聖歌は中世より修道院などで歌いつがれてきましたが、それがルネサンス期には複 旋律になってハーモニーとなり、多くの作曲家によって静寂にして美しい音楽が生み出されてきました。パレストリーナも そうした曲を作った一 人ですが、このエレミア哀歌はまた大変魅惑的です。 Giovnni Pierluigi da Palestrina Incipit Oratio Jeremiae Prophetae Bruno Turner Pro Cantione Antiqua ♥♥
パレストリーナ / 予言者エレミアの言葉 ブルーノ・ターナー / プロカンティオーネ・アンティクァ ♥♥ 演奏は1968年にロンド ンで結成されたプロカンティオーネ・アンティクァです。74年の録音で、こうした曲を紹介した先駆け的なグルー プですが、いまだに魅力は衰えません。LPの時代にはパレストリーナの有名曲である「教皇マルチェルスのミサ」 と組み合わされてアルヒーフから出ていた記憶なのですが、今は「マルチェルス〜」はASVから、この「エレミア 哀歌」の方はアルヒーフからCD化されていま す。 INDEX |