静かなタッチ / ベートーヴェン 月光ソナタ
Beethoven Piano Sonatas 'Moonlight' 'Pathetique' 'Appassionata'
John O'Conor, Hamburg Steinway piano ♥♥ 演 奏会で使われるコンサート・グランド・ピアノという楽器は、家庭でピアノのお稽古に使うアップライト・ピアノとは別の楽器です。「お家にグランド・ピアノ があるのよ」というお宅でも、ほとんどは通称「フルコン」と日本で呼ばれるこのコンサート・グランドではなく、「セミコン」の方だと思います。普通はプロ の演奏家以外買わないようなものです。ピアノの先生で「おばあちゃんに買ってもらった」という人を知っていますが、よほどのことでしょう、2000万円というのは。 メーカーはニューヨークとハンブルクに会社があるスタインウェイ、ウィーンのベーゼンドルファー、ドイツのベヒシュタイン、ショパンが愛したフランスの プレイエル、そして日本のヤマハやカワイなどたくさんありますし、イタリアはペスカーラの調律師がスタインウェイを改造したファブリーニを使う演奏家もい ます。最近ではシシリアの新進で超高額のファツィオリもジュリアード音楽院に納入されたという話を聞きますが、日本でコンサート・ホールに用意されている のは、最初の二つとヤマハというのがほとんどでしょう。そして演奏家がコン サートやCD録音で選ぶのは、九割方スタインウェイということになります。 「神々の楽器」と呼ばれるスタインウェイの音色といったって、モデルや年代で音は違いますし、調律でも大きく変わります(三本一組で一音を構成している弦 のそれぞれをわずかにずらしたりすることもあります)。 しかしスタインウェイの一つの特徴は、素人が恐れずに言うならば、強い音のきらっとしたきらびやかさからやわらかい弱音までの音色のコントラストが見事に つく、ということではないでしょうか。アクションが繊細でハンマーを固定するレールも細いということで、タッチが軽く、微妙な力の差が出しやすいようで す。力の弱いピアニストがフォルテで音を鳴らし切らず、上手ながらも何となく眠い音を響かせる場合は、タッチの感性が磨かれてない場合を除けば単に調律だ けの問題ではないのでしょう。 ベートーヴェン / ピアノ・ソナタ「月光」「悲愴」「熱情」 ジョン・オコーナー(ハンブルク・スタインウェイ・ピアノ)♥♥ さて、ピアノの音色の話をしたのは、見事な演奏の中にはもうひとつのカテゴリーがあるのだと気づいたからなのです。大袈裟にに出ましたが、こ とタッチに関してだけ言えば、強い音と弱い音との音色の差が自在に出せる人が優れた演奏家だと考える、普通はそういうことになるでしょう。反対の方から言 うならば、ある程度の強さに揃えて弾けることで一番艶やかに聞こえる音色に統一もできる人が上手な人だ、とも言えます。自分もそう思っていました。ベートーヴェンのソナタで言えば、前者で印象的なのは例えばポール・ルイスなどがそうで、後者の名人はアンドラーシュ・ シフかもしれません(「ベートーヴェンのピアノソナタ 20人聞き比べ」)。しかし力のない弾き手のタッチという意味ではなく、あえて強くは叩かず、弱いタッチの中に千変万化のグラデーションを表すという行き方もあるようです。 アイルランドのピアニスト、ジョン・オコーナーはウィーンで学び、ウィルヘルム・ケンプに師事した人です。1973年に国際ベートーヴェン・ピアノ・コ ンペティションで優勝しており、ベートーヴェンのスペシャリストとしてアメリカではかなり有名らしいですが、日本ではあまり知られていないようです。テ ラークからCDが出ています。 生ではなくCDでも違いは分かると思います。ビロードのような弱音が微妙に変化するのです。弱い音をここまでコントロールして弾けるというのは、すごい ことではないでしょうか。野球のグローブで針仕事はできませんし、豆腐を箸で持ち上げるのも力加減が難しいものです。細筆で字を書くときに、震えないよう に手首を固定するような秘策でも何かあれば納得するのですが。 ベートーヴェンの月光、大変美しい曲でいい演奏はいくつかありますが、ここまでデリケートな味わいの月光は聞いたことがありませんでした。このCD、三大名曲集と いう言い方もありますが、シリーズ第1巻ということもあって他に「悲愴」と「熱情」が入っており、お試しにも好都合です。月光以外の曲もため息が出ます。 最も大切なものを扱っているようなタッチ。それでいて奔放なニュアンス。キラキラした音ではないですが録音も優れています。使用ピアノはハンブルク・スタ インウェイです。 Beethoven Piano Sonatas op.57, 111 Carol Rosenberger, Bosendorfer piano ベートーヴェン ピアノ・ソナタ「熱情」/ Op.111 キャロル・ローゼンバーガー(ベーゼンドルファー・ピアノ) ウィーンのベーゼンドルファーはキーの数が多い(97鍵。普通は88鍵)ことでも有名ですが、側板にかえで材を使うスタインウェイと違い、響板だけでなく側板も含めてすべての材料に柔らかいスプルース材が使われています。そ の音色は独特で、やわらかい低音の上に、強く弾いてもピーンと丸く響く高音はスタインウェイのように金属的にならず、チェンバロの発展系だと言われるのが なるほどと思えるきれいな響きです。キャロル・ローゼンバーガーというアメリカのピアニストはタッチが豪快で、やや近接した録音ではありますが、特徴は出 ていると思います。他のCDでは、ウィーン生まれのフリードリヒ・グルダもベーゼンドルファーを弾いています。 Bach Piano Concertos Cyprien Katsaris, Bechstein piano バッハ ピアノ協奏曲集 シプリアン・カツァリス(ベヒシュタイン・ピアノ)/ フランツ・リスト室内管弦楽団 とうひ の響板とぶな材の側板を持ち、高音域に共鳴弦を備え、強固なフレーム構造から透明な音を出すと言われるドイツのベヒシュタインの音色は、かっちりしていな がらスタインウェイのように金属的ではなく、独特の磨かれた艶があるような気がします。「ピアノのストラディバリウス」とも言われます。上記はシプリア ン・ カツァリスの弾くバッハのピアノ協奏曲です。5番のラルゴが大変美しいです。カツァリスは大変な技巧の持ち主だそうですが、ベヒシュタイン弾きであり、他ではグリークのピアノ作品集もお勧めです。 Chopin Nocturnes Michele Boegner, Pleyel piano ショパン ノクターン集 ミシェル・ボーグナー(プレイエル・ピアノ) フランスのプレイエルを聞くことができます。1836年製のもので、弦もアクションもフェルトもハンマーも当時のままのものだということで、ちょっと フォルテ・ピアノに近い音です。シングル・アクションという構造から、一度音を鳴らした後はキーを完全に戻さないと同じ音は鳴らないそうで、ショパンも疲 れているときはダブル・アクションのエラールを弾き、調子の良いときはこのプレイエルを弾いたと言っているそうです。ショパンの愛した音が聞けます。 INDEX |