オルガン・ランドスケープ         ENGLISH
       / フロリアン・パギッチュ
                                     
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       Organ Landscape  Salzburg
     Florian Pagitsch, organ   MDG 319 0990-2

 演奏家が良い演奏をする、というのはどういうことでしょうか。そもそも言葉で表現した音楽と実際の音楽体験とは全く別のものなわけです。それを分かった上で演奏論から考えてみても、言葉への表し方にも二つほど軸があって、一つはたとえ話などの文学的表現、もう一つはスコア上のどこをどう弾いたかという技術論に分かれるように思います。文学的表現や曲の部分と遊離した形容詞だけで来られれば、結局気の合わない人の言うことはさっぱり理解できませんし、反対に音譜ごとに音楽記号で逐一説明されてもついて行けません。そしてもっと根本的なことは、良い演奏といったって結局好みの問題に過ぎないのか、それとも訓練された人間の間ではある程度意見が一致するものなのかということです(✳︎1)。

 まあ、結論は出ないでしょう。ただ、CDに録音されたものにでも演奏の性質は記録されるのだという立場をとるなら、実際の音の配列の中に「良い演奏」が表れていることになります。そして CD が縦軸に音の大きさを1か0かの16ビット記号にしたもの、横軸に(44.1KHz の細かさに分けられた)時間の経過をとった波の形として置き換えている理屈を知っていれば、すべての神々しいパフォーマンスも一秒当たり 5,780,275,200 通り(ステレオ)の音の強弱(振幅軸)、音色とテンポ(どちらも時間軸)に分解可能だということになります。

 さて、自動ピアノというものをご存知でしょうか。最近はコンピュータ化されたかもしれませんが、デビュー当時はトイレットペーパーのようなロール紙を回転させ、その流れる紙に演奏者の叩いたキーの通りにパンチング・カード同様穴を開けて行く機械でした。そうやってどのキーをどの強さで叩いたかが記録され、後からそのロール紙を再度回転させて、開いた穴に空気を送り込んでもう一度該当するピアノのキーを叩かせると、生のピアノを使った再生ができるのです。ガーシュウィンが生きている頃に記録されたラプソディー・イン・ブルーのロール紙が残っており、現代のマイケル・ティルソン・トーマスが指揮して実際のオーケストラと合わせて録音した、幽霊ジョージのレコードが昔出たことがありました。それこそ幽霊のようなガーシュウィンの絵が描かれた楽しいジャケットの企画ものでしたが、ピアノのパートはなんとも気の抜けた音がしたものです。魂が抜けたといえば観念論ですが、是非そう言いたくなるようなすかすかした音でした。むしろ本物を期待した自分が悪いわけで、「機械によってガーシュウィンの意図がここまで聞けて録音もいいじゃないか」というべきなのですが、まあ、勝手にがっがりしたのです。その後病院の受付に置かれた現代版の自動ピアノとも運命の出会いがありましたが、より精巧な造りになっているだろうに、これがまたそっくりな音を立てていました。ピアノのタッチというものは、叩かれるキーの加速度が正確に再現されるなら、人が叩いても機械で叩いても同じ音が出るはずです。ロール・ピアノも現代の自動ピアノも、そういう意味では音の強さを無限の段階で正確には記録できず、たかだか数段階の違いでしか表現できないから死んだ音がするのかもしれません(✳︎2)。16ビットの精度でハンマーの速度を測定し、それを再現できるだけのパワーと精妙なコントロールができる電磁式か油圧式かの駆動装置を付ければ、ピアニストが事前に演奏しておいた記録による無人コンサートも開けることでしょう。

 こうして聞かれる音はCDのように余計な録音装置も再生装置も通らないため、キーの駆動メカさえ正確であれば「原音再生」ができる理屈になります。さあ、本当にそうなるのか、聞いてみたいものです。演奏者がそこにいて感じ、考えるエネルギーを我々はコンサート会場で感じているのでしょうか。同じことをロボットはできるでしょうか。聴衆が熱狂して演奏者に送る賛美のエネルギーは? それに答えてまた演奏者が集中するエネルギーは? それらは心霊現象のように音以外の媒体を通って空気中に放たれ、お互いに喜びとして感じ合っているものなのでしょうか。

 オルガンという楽器があります。ピアノより精妙な楽器かどうか、意見は色々とあるでしょう。最初の鍵盤楽器であり、楽器の王様とも称されます。ヨーロッパの教会で聞く、足の裏から包んでくるような低音、恐ろしく高い天井までの大空間をゆるがす音に、異教徒の旅行者も神妙な気持ちになります。神の声を聞く信徒もいるでしょう。しかし、あの楽器は元来はふいごで風を送って、弁を開けたり閉じたりすることで笛を鳴らしているのです。現代のオルガンは電動ファンで送風していますが、風の速度はいくら奏者が熱くなってもキーを叩く力で変わったりはしません。したがって音の大きさはあらかじめ送風管に行く風の量で決まっていることになります。音量を変える装置もあるにはあるのですが、リコーダーでも強く吹けば音が割れ、弱ければ鳴らないわけですから、その仕組みは風の量配分を変えるのではなく、ペダル操作によってスウェル・シャッターという板を動かし、パイプ(笛)の口を塞ぐことで行うようになっています。塞ぐ量は板の角度で調節ができますが、言ってみれば、大きな声でしか歌えないオペラ歌手の口を手で塞いだり放したりしているのです。

 一方、音色はレバーのようなものを操作することでストップと呼ばれる機構を動かして変化させます。種類の違うどのパイプの列を使うかを切り換えたり混ぜ合わせたりするもので、その組合せは膨大ですが、基本的には事前のストップ操作とそれに応じた鍵盤の上下列の弾き分けによってしか変えられません。

 簡単に言えばパイプオルガンというもの、音量と音色は(半)固定、演奏者の「熱気」の揺れはもっぱらテンポ、つまり時間方向の揺れ具合でしか表せない楽器です。なにもオルガンの批判をしているのではありません。無限の表現の可能性を持った楽器の王者には違いがありません。しかしストップと鍵盤がどう操作されたかを正確にメモリに記憶させれば、自動オルガンは自動ピアノ以上に簡単に、少なくとも原理的には作れるはずだと言いたいのです。そういう楽器で、オルガン奏者が弾くことによって聴衆が驚かされ、熱い感動が交わされるということがあるとすれば、それはいったい何でしょうか。

 フロリアン・パギッチュというオルガン奏者をご存知でしょうか。知っている自分が偉いという話ではありません。単にこの人が来日したのが一回で、それも地方都市が作ったコンサートホール備え付けの新しいオルガンのお披露目に呼び集められた一人だったということなのです。自分にしても、たまたまどんなオルガンだか聞いてみようと思って行っただけなのです。これが良かった。あんまり良かったので、思わず主催者を通して感動したという手紙を出してしまいました。すると本人から直接返事があり、その後何度か手紙をやりとりしました。オーストリアの人です。当時はまだ若者を卒業して間もない年齢で、アジアの国々をバックパクを担いで何年も自分探しの放浪をしてきたというのが直近の主な経歴のようでした。チェロ奏者で大学で教えている奥さんに稼ぎで負ていると言ってみたりする気さくな人柄で、最近はクレモナに呼ばれて教会でオルガンを弾いたけど、ピアノでいいから日本に呼んでくれる話はないかな、と書いたりもして来ました。その後東京で演奏したという話は知りませんし、メジャーレーベルからCDを出しているわけでもありません。

 86年に国際アントン・ブルックナー・コンクールの即興部門で1位を受賞しており、この日のオルガン演奏のプログラムでは響きの美しい現代曲のような即興を披露しました。こういう世界に馴染みがないのでオルガン即興としてどういう位置にあるのか分かりませんが、大胆で鮮やかな曲だった印象があります。そして、バッハのパッサカリア(とフーガ ハ短調)がプログラムに入っていました。知っている曲が新しい曲のように聞こえることは優れた演奏においてときどき起こることです。実はそれまでこの曲が他の作品より特別好きだったという記憶はありません。この曲にせよトッカータとフーガにせよ、音が重なって劇的な効果を与える構築的な作品よりも、バッハのオルガンといえばトリオソナタのような平明なメロディを持つ曲の方を好んでかけていました。

 パッサカリアBWV582。でも具体的なことは忘れてしまいました。ストップ操作について語る知識は自分にはありません。この演奏では遠隔でステージから電気操作できる鍵盤をあえてこだわりから使わず、オルガンのすぐ下の席で直接弾いていました。テンポはどちらかというとゆっくり目だったと思います。オルガンの世界にピリオド奏法などという発想があるのかどうか知りませんが、奇抜な表現はありませんでした。伸ばしたり揺らしたりという変化はあっても、他の奏者と違うことをやって名をあげるような波長ではありません。内向的で自分に語りかけるような、見つめるような性質です。初めのうちは慎重さと自然なバランス感覚を受けとめていましたが、それがだんだん、だんだんと高まって行く。

 これはこちらの感じ方の癖かもしれませんが、ある種の素晴らしい演奏に接すると、死の時点から見て、その一回の生全体を振り返るときに味わうだろうような満たされた感動を覚えることがあります。まだ死んでいないわけですから本当のところは分からないのですが、そのような感覚を実際に味わえたらよいなと思っています。退行催眠によって過去の人生を見せられるとき、それがすでに燃焼して終えられた生であるがゆえに、一つひとつの出来事を上から見てその目的を知ることができる、そういう感じと言えばよいのでしょうか。大風の日にボートのもやい綱を点検に行って流された人生も、空腹で冬の街をさまよい、良くしてくれた神父のいる教会の階段にうずくまって時を迎えた少年の人生も、あるいは上陸用舟艇の前面ゲートが降り、砂浜に踏み出した直後に蠅のようにうなるものに体を刺し貫かれ、くずおれて戦友たちの軍靴の流れを目の横に見続けた人生も、その時点まで来れば残念ではなく、解放されてすべての意味を理解するのです。無限の可能性のなかではためいていた選択も死によって確定され、許されます。話が大袈裟になってきましたが、パギッチュの奏でるパッサカリアとフーガが終わりに近づいてきたところで、今までに味わったことのない感動に包まれました。ガイドたちが一人ひとり降りてきて、一つの仕事を終えた魂を迎えに来る。それは慰められるというよりは、荘厳ではあるのですが圧倒的な光と喜びな のです。そして最後の音はとてつもない力で鳴りました。もちろん音量も凄かったでしょうが、身体が吹き飛ぶような経験でした。弾いている彼の後ろ姿に大きな力が来ているようにも見えていました。演奏の精神的な意味での一回性とか聴衆との心のやりとりとかいったものを唯物論者は否定するでしょう。しかし自分としては演奏者との間で、確かに何かを共有した瞬間だと信じています。それは主観であり、同時にそれを超えた何かでもあったのでしょう。

 引っ張っておいて、個人的な思い出話への着地をお許しください。このCDがそれです、と示すわけには行きません。他の演奏者でこの曲のベストCDを紹介することもできません。家にあるいくつかの有名オルガニストの演奏も聞いてみましたが、同じ曲だとは思えませんでした。ただ、評論家がこぞって当てる光の輪から少し外れたところにも、訓練された技を通してビジョンの通り道となってくれる優れた演奏家は存在しているのだということ、そのことをなぜか大変うれしく感じました。文化の厚みといえばそれまでですが、このような思いがけない交流ができるということが音楽の最大の楽しみだと思います。

 そのパギッチュの録音、あります。バッハの大曲ではありませんが、個性的な曲と演奏を紹介しているドイツの小レーベルである MDG (MUSIKPRODUCTION DABRINGHAUS UND GRIMM)から、ヨーロッパ各地のオルガンを弾き分けながら、歴史に埋もれている作品を紹介する粋なCDが三枚ほど出ています。聞いたことのない曲が多いかもしれませんが、その中でも最初にジャケットを示した一枚は聞きごたえのある美しい小品集になっています。「オルガン・ランドスケープ(オルガン風景)/ザルツブルグ編」と題された2000年発売のものです(他に CARINTHIA編 と EBERLIN 9 TOCCATAS AND FUGUES が出ています)。

 最初の音から静寂のなかに語りかけてくる空気感に癒されます。敬虔な感覚を覚えるのはオルガンの音色のせいでしょうか、演奏のせいでしょうか。数曲ごとにオルガンを変えていますが、最初はルネサンス期ドイツのハインリヒ・フィンクの曲に始まり、同じ頃のオーストリアのオルガニストであるパウル・ホーフハイマーの曲が3曲続きます。自分で雑多な曲のコンピレーション・アルバムを作るときなど、 調性や曲調を前後の曲で合わせてつながりを良くしたりすると思いますが、ここでもまるで一つの曲の楽章のように自然に流れて行きます。

 それからバッハ時代のオーストリアの作曲家、ゴットリーブ・ムファットの曲がきて、7トラック目がまた素晴らしい曲です。バロックと古典派の橋渡しをした1702年生まれのヨハン・エルンスト・エバーリンの作品。モーツァルトの父レオポルドも激賞し、当時は有名だったものの、後にはオルガン曲を除いてほとんど忘れられてしまった人のようです。バッハの静かなオルガン・コラールには、あるがままを受け入れるような祈りの歌を聞くことがありますが、そんな感覚を抱かせるゆったりした曲から始まります。倍音の干渉からくるうなりが軽い目眩を感じさせるように身体を包みます。そして軽やかな展開、楽しげな変奏へと移って行く。

 他にはハイドン(有名なパパ・フランツ・ヨーゼフ)の弟であるミヒャエル・ハイドンの曲が聞けます。そして モーツァルトの晩年の作品二つも逃せないところです。自動オルガンのためのアンダンテ K.616は一番違いの617がグラス・ハーモニカのためのアダージョとロンドです。後者は作曲者晩年の境地を幻想的なガラスの響きで聞けることからCDも出ていて知っている人が多いかもしれませんが、時期的には同じころ、このK.616もモーツァルトの清澄な白鳥の歌のひとつです。彼はやはり!自動オルガンというものを嫌っていたようで、この曲を後に管楽器のために書き直しているようですが、ここではパギッチュの指で紡ぎ出されます。

 次のK.574は「小さなジーグ」です。これも1789年といいますから死の二年前、ライプチヒへ出向いたときに地元のオルガン奏者であるエンゲルに頼まれて作曲したもので、当地で眠るバッハに敬意を表して書かれた作品だとされています。

 美しい歴史的オルガンをコース料理のように味わえる珠玉のオルガン小品集。心ときめく思い出とともに紹介せずにはいられませんでした。唯物的に、エラーの少ない蒸着反射幕で作られたゴールドCDです。



✳︎1:この後の CD 聞き比べのページでは、演奏の善し悪しについての絶対評価はないという立場をとっています。演奏者がそれでいいとして弾いたものに対しては、それと感性を同じにする支持者が必ずいるものです。好きな演奏だけを高く持ち上げて名演扱いし、他を悪く言うことはしたくありません。☆のようなものを設けるにしても、結局は好き嫌いしかないので、♡の数によって三段階としました。

✳︎2:この最初のページを書いてから大分経ちます。その間に自動ピアノの精度も進んで来たようです。国内ヤマハのものもハンマー速度のセンサーとマグネティックな駆動が細かくなったそうだし、あのスタインウェイも作っています。それらの実物を聞いたことはないけど、電子ピアノでもパソコンの DTM ソフトウェアから動かせばビンテージ・スタインウェイをはじめベーゼンドルファーやベヒシュタイン、ファツィオリなどを細かくサンプリングした音源で再現できます。各鍵盤ごとに20段階も強さを録音するものもあるそうだし、その各ステップの間の音色の波長変化を無段階に設定したソフトウェアも存在するようです(サンプリング+モデリング)。あらゆるピアノ・ノイズや開放弦の倍音残り、調律の細かなはもりからマイク位置まで調整出来ます。ハード側の段階(ベロシティ)も128ステップあるし、将来的には512になるという話もあります。通常は電子ピアノのキーボード側の感知と出力がそこまで細かくないようだけど、高いものは本物のハンマー・アクションを備えるモデルもあったりするし、今後は分かりません。もちろん自動ピアノと違って電子ピアノは本物のピアノから音が出るわけではないので、比べるならピアニストによる録音音源とになるけれども、少なくともちょっと聞いただけだと各ピアノ・メーカーの音の特徴はすっかり分かるし、目隠しで CD 音源との違いが言える自信はありません。自動ピアノの方も、目の前で弾いてそれを再現したらすでに判別不能なのかもしれないし、少なくとも近い将来そうなるでしょう。したがって今の段階で「死んだ音」というのは問題があります。この記事自体が若気の至りで何やら感傷的な気もしますし、ここだけその後の CD 比較の企画とは異なってしまいました。とりあえず最初なのでそのまま残しておきます。

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