バッハ / 6つのパルティータ

   partita

6つのパルティータについて
 バッハのクラヴィーア曲(ピアノ曲)の中で6つの組曲の形をとっているものとしてフランス組曲、イギリス組曲とパルティータがあります(他に6曲ではなく1曲だけのフランス風序曲も組曲の形式であり、それで組曲は全部です)。そしてその中でもこのパルティータは最後に作られた集大成的なもので、三つの中でも最も弾き手に技術を要求すると言われている一方、フランス組曲と並んでバッハのこの手の鍵盤曲における入門用とさえ言っていいような聞きやすい一面も持っています。大変美しくて覚えやすい、聞き惚れるようなメロディー(ポリフォニーであっても)に溢れているのです。集大成と言われるのは技法・作風の観点であり、フランス由来の舞曲の形式を用いつつ、そこにドイツ的なポリフォニー(対位法)の要素を融合させて行くという意味のようです。

「パルティータ」というのはイタリア語であり、各舞曲の呼び方もイタリア式になっていてイタリア趣味を反映しているので「イタリア組曲」と呼んだ方がいいという意見もありますが、イタリア協奏曲のように完全にイタリア風の形式というわけではありません。むしろ過去のイギリス組曲、フランス組曲に対して「ドイツ組曲」などと呼ばれたこともありました。後世の人の呼称で、これも根拠はありません。

 構成は前奏曲(イギリス組曲のように「プレリュード」ではなく、「プレリューディウム」や「プレアンブルム」という呼び方になっています)などの導入楽章があり(他はシンフォニア、ファンタジア、序曲の意味のウーヴァチューレ、トッカータ)、2番のみ5曲、残りは6曲の舞曲から成っています。


作曲時期
 作曲されたのは1725年から31年頃とされ、少し離れて初期にあたると今は言われているワイマール期の「イギリス組曲」の後、世俗曲の傑作に溢れるケーテン時代の「フランス組曲」に続く時期です。脂の乗った四十歳から四十六歳頃ということで、時代区分で言えばすでに熟年期である最後のライプツィヒ時代に入ってはいるものの、再婚して四年、赴任して二年ぐらいであり、後年の平均律の第2巻などのように若干の渋みというか、シックさを感じさせるような作風ではありません。


出ている録音  
 個々の CD を取り上げる前に、これまでに出ている主なパルティータの録音をざっと見てみましょう。フランス組曲などよりもたくさんあるような印象です。現在販売サイト等ですぐに見つけられるものを中心にして、過去の定番的なものや人気がありそうなものを加えたリストですから、抜けがあるのはご了承下さい。まずピアノ演奏によるものです:  

 ロザリン・テューレック/1949-50 Doremi/1956-58 Odeon, His Masters Voice, Philips, EMI
 グレン・グールド/1956-63 Columbia
 アナトリー・ヴェデルニコフ/1968/72 Venezia
 アンドラーシュ・シフ/1983 Decca
 ロザリン・テューレック/1984-89 Vai
 アンドリュー・ランジェル/1989-2000
 アンジェラ・ヒューイット/1997 Hyperion
 シュ・シャオ・メイ/1999 Mandala
 ヴラディミール・フェルツマン/1999 Musical Heritage Society
 ピョートル・アンデルシェフスキ (Nos.1,3,6)/2001 Virgin
 アンドラーシュ・シフ/2007 ECM
 マレイ・ペライア/2007-09 Sony
 ウラディーミル・アシュケナージ/2009 Decca
 イルマ・イサカーゼ/2010 Oehms
 ピ=シェン・チェン/2011 phil harmonie
 イゴール・レヴィット/2014 Sony
 チャールズ・オーウェン/2015 Avie
 ロバート・レヴィン/2017 Le Palais Des Degust
 アンジェラ・ヒューイット/2018 Hyperion
 シャガイェグ・ノラスティ/2019 Avi Music

 ロザリン・テューレックは1914年生まれのトルコ/ユダヤ系アメリカ人の女性ピアニストで、グールドが影響を受けたという存在です。ヨーロッパの伝統からすればかなり自由なテンポ設定をし、遅いパートでの大胆な感情表現、速いところでの馳けっぷりなど、なるほどグールドに見られる資質はあるのかもしれません。グールド好きには外せないと思います。そのグレン・グールドのパルティータは奇抜なことを行なっておらず、端正で情緒の感じられるもので、この人のバッハの中でも名演と言われることがあります。アンドリュー・ランジェルはスタインウェイのレーベルが出しているアメリカのピアニストです。まどろむようにゆったりとくつろぐパートも聞かれます。ウラディミール・アシュケナージはテンポの揺れをあまり感じさせないという意味では真面目な印象ですが、スタッカートを自然に混ぜるなどし、力が抜けていて意外な軽やかさが感じられました。大変きれいな演奏で、ピアノの音も昔のデッカのように薄く華やかにはならず、しっとりとしていて美しいものです。イルマ・イサカーゼはジョージアの女性ピアニストで、装飾音が軽やかであっさりしていて心地良いです。テンポはさらっと自然に流すところと、反対にぐっとゆっくりに抑え、大胆なリタルダンドを聞かせる曲があります。ピ=シェン・チェンは台湾の世界的女性ピアニストで、ゆったりでかっちりとしており、真っ直ぐな安定感があります。チャールズ・オーウェンはイモージェン・クーパーに師事したイギリスのピアニストで、ゆったりしたテンポで正確なリズム運びでありながら、所々でスタッカートを効かせます。きれいな音のピアノです。アンジェラ・ヒューイットもスタッカートを効かせますが、その新しい方の録音はファツィオリのピアノを使っています。ドイツの女性ピアニスト、シャガイェグ・ノラスティは表現の大きなスローを聞かせ、やはり所々でスタッカートを取り入れています。高く強い音がピンと張ってきれいです。ピョートル・アンデルシェフスキ のバッハには期待していますが、パルティータに関しては今のところ全曲ではなく、1、3、6番のみのようです。1番(配列順としては最後)の出だしからしてゆったり落ち着いており、起伏を抑えながらわずかにリズムを揺らしますし、速いところでも力が抜け、弱音の軽やかさに寄せていてささやくような感触があります。思い切ったピアニシモも駆使します。恣意的になる手前まで表情をつけることを厭わず自由自在、それでいてセンスの良い絶妙なリズム感が遊びを感じさせる、この人独特の世界があります。

 チェンバロ(ピアノ以外)による演奏は以下の通りです:

 ワンダ・ランドフスカ/1935 (No.1), 1957 (No.2) RCA
 ヘルムート・ヴァルヒャ/ 1957-60 EMI
 グスタフ・レオンハルト/1964-70 Deutsche Harmonia Mundi
 ズザナ・ルージッチコヴァー/1969-74 Spraphon
 ブランディーヌ・ベルレ/1977-78 Philips
 トレヴァー・ピノック/1984 DG
 ケネス・ギルバート/1985 Harmonia Mundi
 グスタフ・レオンハルト/1986 Virgin
 スコット・ロス/1988 Erato
 ロバート・ウーリー/1998 Chandos
 トレヴァー・ピノック/1998-99 Hänsler
 鈴木雅明/2001 BIS
 ブランディーヌ・ベルレ/2001 Astree
 エレオノーレ・ビューラー=ケストラー/2008-09 Charade
 パスカル・デュブリュイユ/2009 Ramee
 バンジャマン・アラール/2010 Alpha
 オルハン・メメッド/2011 Omnia Artists Produc
 ハンスイェルク・アルブレヒト(オルガン)/2011 Oehms
 トン・コープマン/2012 Challange Classics
 ダヴィード・シェマー/2013 Querstand
 メンノ・ファン・デルフト(クラヴィコード)/2016 Resonus
 ロレンツォ・ギエルミ/2019 Passacaille
 コリン・ティルニー/2019 Music and Arts
 ウォルフガング・リュプザム/2020 Brilliant
 フランチェスカ・ランフランコ/2020 Da Vinci Classics
 マハン・エスファハニ/2020 Hyperion
 トレヴァー・ピノック/ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック・ソロイスツ・アンサンブル/2023 Linn

 ワンダ・ランドフスカは1879年生まれでチェンバロを世に復活させたポーランドの大御所ですが、全曲は出さなかったのでしょうか。ズザナ・ルージッチコヴァーは1927年生まれのチェコの女性チェンバロ奏者であり、戦後のチェンバロの復興者と言われる人です。60年代から70年代に多くの録音を出し、バッハのチェンバロ曲は網羅しています。
 ブランディーヌ・ベルレは時代もありますが、フランスの演奏者らしい粋なリズムの崩しが聞かれます。アストレからの新録音は弾き方自体は旧盤と同じ傾向ながら多少真っ直ぐで穏やかな感じがするでしょうか。新しい分コンディションも良いです。スコット・ロスも当時、クイーンのフレディ・マーキュリーと同じ亡くなり方を含めて話題になった人です。多少前のめりかと感じるぐらいに速めのテンポの曲があり、古楽のアクセントが出る方向ではなくてあっさりしています。素晴らしいカンタータの指揮でお馴染みの BCJ の鈴木雅明は案外はっきりとしたアクセントがあり、ためが効いています。
 フランスのバンジャマン・アラール は1985年生まれで、後で取り上げる70年生まれの同国のパスカル・デュブリュイユと色々比べられるかもしれません。どちらもゆったりとしており、音色も穏やかであり、聞き疲れしない心地の良い運びです。アラールの方は装飾を長く引っ張って付ける箇所(1−4サラバンド/レオンハルトも少し短いけど同じようにやっています)もあったりします。1966年アメリカ生まれでパリ在住のオルハン・メメッド も、もう少し年上ながらややゆったりであり、多少の間を空けつつ癖の少ないおとなしい印象があります。新しく出て来る録音はこのように以前のピリオド奏法ブームの頃とは異なった印象になっています。より飾らない素直な方向というのでしょうか。リュッカース=タスカンの古いモデルを元にジョン・フィリップが97年に製作した楽器を使用しているそうで、音もまろやかです。チェンバロは音の強弱が出ませんので、時代の演奏マナーへの学問的追求をすれば色々あるにせよ、格別アクセントに癖がなくて極端なテンポ設定でない演奏者同士の場合、違いを感じるのは繊細な作業になります。楽器の音色勝負みたいなところもあり、録音によっても大きく印象が変わります。
 ハンスイェルク・アルブレヒト盤はチェンバロではなく、オルガンによる重厚なものです。トン・コープマンは装飾はあって滑らかという種類ではないにせよ、拍のアクセントは鈴木雅明より少なく、思い切って遅く弾く曲もあります。
 メンノ・ファン・デルフト盤はチェンバロではなく、クラヴィコードによるものです。チェンバロよりさらに音が小さな楽器ですが、和音の重なる部分ではそれなりにがっしりした感触にはなっています。高音はピンとしてきれいです。1784年製のクリスティアン・ゴットヘルフ・ホフマンの楽器とのことです。
 コリン・ティルニーは1933年ロンドン生まれのチェンバロ奏者で、CD 録音時は八十五歳でした。拍を均等に区切らず少しためを設けながらも大変ゆったり、味わうように進めます。逆に時間的なアクセントをつけずに滑らかに引きずるかのように運ぶところもあって個性的です。



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     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Andras Schiff (pf) ♥♥

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
アンドラーシュ・シフ(ピアノ)
 この記事は当初シフの演奏を取り上げる目的で他曲と同じページにまとめ、パルティータに関しては彼の盤のみを扱って満足していましたが、今回独立させ、新たに最近のものまで聞き比べてみることにしました。したがってまずアンドラーシュ・シフから行きます。

 ゴールドベルク変奏曲や平均律のところで述べたのと同様、やはり最も魅力的なパルティータであることに変わりはありません。現代のバッハ弾きとして、種類は違えどグールドと同じぐらいに外せない人だと思います。細かなニュアンスと情緒に溢れており、それでいて形を崩すことなく洗練されています。大きくはないながら独特のリズムの揺らぎが加わるところは即興的な表現の王道という感じです。音楽を今味わって作っているという意味です。センチメンタルにはなりませんし、ピアノだからといって後のロマン派的に浸るところもありません。若く思い悩む人のロマンティックな雰囲気という意味では83年の旧盤の方が多少そうだったでしょうか(トータルでは耽溺する方向の演奏ではありません)。ピアノのバッハとして理想的なシフ。ただ、今回パルティータが素晴らしいと知ったシュ・シャオ・メイやイゴール・レヴィットなどと比べてみて気がついたのですが、同じく情感がありつつ大きく踏み外すことのない演奏ではあっても、この人には他の人にはない愉悦感、それとクリスピーな感触があると言えるでしょうか。よく言われる理知的という表現も当たっていると思います。

 2007年の ECM 録音です。大変良い音です。拍手雑音はありませんが、ライヴ収録です。



   xiaomeipartita
     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Zhu Xioa-Mei (pf) ♥♥

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
シュ・シャオ・メイ(ピアノ)
 遅まきながらその存在を知って驚いたピアニストです。最近は歴史あるレコード芸術も廃刊になったようですが、そこでもこの人の「フーガの技法」が特選に選ばれたとのことです。シフの新盤と並んで個人的にも一番に気に入ったパルティータの一つとなりました。

 シュ・シャオ・メイという人は1949年上海生まれの中国系フランス人女性ピアニストです。ヨーヨー・マのお父さんたちと同様に文革で迫害を受け、アメリカを経由(留学)してフランスに逃れて来たそうです。今でも香港の女神がカナダに逃げたりとか、色々大変です。詳しい経歴は英語版の Wiki などにも載っており、そこでは迫害については触れられていないけれども、本が出ていて(「永遠のピアノ」日本語訳あり)、それによると収容所送りになった時期もあったということです。プロの演奏家としてのデビューはやっと四十歳になってからとのことです。

「波乱に満ちた人生」など、苦労話からアーティストが評価されるのは違う気がするけれども、本当に内容が見事で、その上でその苦労が昇華されて表現に滲んでいるような場合はまた話が別です。このピアニストのバッハには大変心を打たれました。

 音楽言語としては拍にピリオド奏法のようなためが強く出るわけではなく、極端な間を空けたりせずに滑らかに次へとつないで行きます。もちろん単なる楽譜通りではなく伸び縮みは自己の感覚に従ってしっかりと加えつつ味わって行くし、軽やかで力が抜けている感触も随所に感じられます。ゴールドベルク変奏曲などではグールドと比べられるぐらいに素早く馳ける表現も見せます。スタッカートも自由に用います。でも形の上では恣意的に自分の歌を押し付けて来るタイプではありません。テンポ強弱を動かしつつ自然な範囲の中で、シフ同様に内側の感覚に従って自在に歌って行きます。アンデルシェフスキやバッケッティらの意外性のある大胆な工夫、面白さにまでは至らないと思います。彼らがそうだとは言わないけど、飾らないのです。グールドのように独自性を見せよう、という気持ちも感じられません。また、シフほどクリスピーに跳ねる楽しさの感覚には寄らず、専らしっとりしています。シフが理知的ならもう少し情感の襞が深い方だと言えるでしょうか。弱音がやさしいです。言葉にするのは難しいです。全体に聞いていて心地の良い静けさがあり、自然に感じます。そしてそこに、そこはかとなく漂う慈しみのようなものがあり、深い呼吸が入ります。一言でいうと、言いたくないけれども、苦難を超えて来た平静のようなものを感じさせてしまう音なのです。

 1999年録音のミラーレです。しっとりとしたピアノの音色は理想的で、この人に合っています。



   perahiapartita
     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Murray Perahia (pf)

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
マレイ・ペライア(ピアノ)
 1947年ニューヨーク生まれのユダヤ系アメリカ人ピアニストであるペライア。抑揚と呼吸が見事で他の曲のところでもたくさん触れています。このパルティータも例に漏れずです。

 しっとりとして静かという意味では前述のシュ・シャオ・メイと比べられるかもしれませんが、最初からもう少しスタッカートなどは使います。それでもシャオ・メイが慈しみと心の平静さから出た静けさなら、ペライアは物腰がやわらかいという感じでしょうか。軽やかに柔軟で、少し湿り気があって上品に洗練された流れが心地良いです。シフと形は違うながら同様にテンポの揺れも絶妙にあり、何気ないけれども自発性があります。ガラスのような透明感と跳ねる愉悦ではシフで、ペライアは軽いといっても湿り気の分だけわずかに重さが乗るような感触があります。

 2007〜09年録音のソニーです。これも演奏に相応しくしっとりして瑞々しい音です。



   levitpartita
     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Igor Levit (pf) ♥♥

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
イゴール・レヴィット(ピアノ)
 今回の見直しで個人的に発掘したピアニストです。寡聞にして本当に掘り出し物でした。イゴール・レヴィットは1987年、崩壊直前のソ連にオペラ歌手(ピアノの先生でもある母)の子として生まれたユダヤ系ロシア人ということですが、ユダヤ難民として八歳でドイツに渡り、現在はハノーファー在住のようです。政治的な発言が多くあり、人権意識の高い人のようです。

 リラックスした運びという点ではシュ・シャオ・メイやペライアなどと比べられると思います。シフとは少し雰囲気が異なる気もしますが、やはり比べてみるのも面白いでしょう。静けさと落ち着きの感じられる演奏です。ロシアに関係するピアニストのバッハと言えば、古くリヒテルの平均律などが思い浮かびます。でもたっぷりとした瞑想的な叙情を中心にして時々反転するように力強くて速いパートも聞かせたリヒテルとは波長が違って聞こえます。時代の空気もあるでしょうか。肩肘張ったところがなく、ことさらスケールが大きく聞こえるというものでもありません。

 基本はゆったりしている方だと言えるでしょう。表情は無闇に大きくせず、自然で自在な減速指向のものが美しく響きます。同時に弱める方向へのための表現と揺れもあります。何気ない自然さが表に出ており、シュ・シャオ・メイと同様に丁寧に扱うフレージングがあって深く呼吸が入り、うっとり聞き惚れてしまうものです。ふっと力を抜く表現も聞かれます。また、そこそこ速いところも流れるように自然であり、力を込める箇所でも常に声を張り上げない余裕が感じられます。特徴を一言で言えば、自在でたっぷりとした間が感じられ、全体に余韻が美しいという印象の演奏です。決して力みません。

 2014年録音のソニー・クラシカルです。リヒテルのベーゼンドルファーを甘いフォーカスで捉えた昔のメロディアの録音とは違い、ピアノの音もしっとりとした艶があって芯も捉えられ、美しいです。



チェンバロによる演奏
 ここからはチェンバロによる演奏を取り上げます。バッハの当時の楽器であるチェンバロで弾く場合、音の強弱が出せない楽器ゆえにどのように曲の情感を表現するかという問題があります。それは音符の時間的前後配置を変更するしかないのだけど、古楽器復興ブーム以降には特にそのマナーについて学問的な研究が多く成され、その分だけ理論が定める範囲が大きくなったのではないかと思います。ノート・イネガルだとか他の規則だとかといったことであり、つまり拍の打ち方、リズムの間隔を不均等にするのです。もっと後の一般的な言い方に直すと「ため」や拍の前打ちといったことになるでしょうか(ピアノでの演奏にも一部フィードバックされています)。もちろん上述のブランディーヌ・ベルレなどのフランスのクラヴサン奏者の場合だったりすると、それがバロックの規則を研究した成果なのかフランス人好みの崩しのリズムなのかの境界が分からなくなったりもするわけですが、いずれにしてもこの問題は避けて通れません。ただ、そうしたピリオド奏法の新奇さが際立った60年代終わりから80年代初めぐらいのエキセントリックなタッチは最近になるほど消化され、目立たなくなって来たし、個々には個人差もありました。



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     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Trevor Pinnock (hc) ♥♥

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
トレヴァー・ピノック(チェンバロ)
 イギリスの古楽演奏のパイオニアの一人、ピノックは端正で比較的素直なリズムをとることが多く、しかも2020年前後に発表した平均律クラヴィーア曲集などは特にそんな傾向が大きいものでした。このパルティータに関しては新録音が1998〜99年(旧は1984年)と、平均律ほど後発ではないけれども比較的古楽器ブームが落ち着いて来た時期で、チェンバロ演奏としてはゆったりとしていてリズムが素直なのが美点です(旧盤も拍を多少前に出すところが聞かれるぐらいでほとんど変わりはありませんが)。もちろん素直なのがいいかどうかは好みでもあり、ブランディーヌ・ベルレの演奏なども味わい深いとは思っています。

 使用楽器が穏やかな丸みと艶のある音を聞かせているのも美点だと思います。ルイ14世王朝期のアンリ・エムシュの楽器を1983年にデイヴィッド・ウェイが複製したものだということです。鋭い倍音成分が抑えられており、チェンバロの音として聞きやすいです。レーベルはヘンスラーで、録音バランスの上でも大変良いです。
 この後ピノック は2020年に全曲ではありませんが(1、2、5、6番)、オーケストラに編曲されたパルティータも録音しています。珍しい趣向で魅力的です。演奏はロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック・ソロイスツ・アンサンブルで、レーベルはリンです。



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     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Gustav Leonhardt (hc) ♥♥

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
グスタフ・レオンハルト(チェンバロ)
 オランダの重鎮、グスタフ・レオンハルトも古楽界を牽引して来た人で、ピノック同様に指揮でも活躍しました(2012年没)。この人のパルティータもピノックと並んでまろやかな音であり、車は飛ばしたらしいけどテンポも比較的ゆったりしていて落ち着いて聞けるものです。そのテンポ設定は曲によってピノックより速かったり遅かったりで、レオンハルトは学者なのでそれぞれのパートに専門的な見解があるのかもしれませんが、どういう根拠なのかは分かりません。長い装飾を施す部分もあったりします。そして拍の不均等さに関しては、この人はセオンなどから出していたブリュッヘンやクイケンらとのアンサンブル、あるいは指揮においてはピリオド奏法の特徴がよく出たものがあったと思いますが、チェンバロ独奏では比較的素直な運びも多いです。こちらが慣れたこともあるでしょうが、ここでも心地良いためや揺れはあるけれども、ピノック盤同様に抵抗なく聞けてきれいです。ピノックより多少遅らせるためが大きめでしょうか。結局チェンバロで聞くパルティータとしてはピノックか、これか、この後で取り上げるパスカル・デュブリュイユ盤あたりが好みでした。レオンハルトの演奏は、尖った理論が陰にあるのかもしれないけれども、大変リラックスして聞けます。

 音色のことを冒頭で述べました。ここで演奏されている楽器もこだわりのあるものです。バッハ自身が買ったことがあるという(記録があります)ベルリンのミヒャエル・ミートケのチェンバロをアメリカの製作家ウィリアム・ダウドのパリの工房が1984年に複製したものです。バッハが聞いていた音でしょうか。ピノックのものに劣らず丸みのある音色で、賑やかになり過ぎない美しい響きを持っています。

 レーベルはヴァージンで、1986年の録音です。チェンバロの録音としてはランドフスカ、ルージッチコヴァー、リヒターやヴァルヒャといった大御所たちの昔のものには耳にきついのもありました。それらとは大変異なり、マイクが近過ぎずにバランスが良く、大変良好なコンディションです。レオンハルトは1964〜70年にかけての収録でドイツ・ハルモニア・ムンディから旧盤も出していました。



   dubreiulepartita
     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Pascal Dubreuil (hc) ♥♥

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
パスカル・デュブリュイユ(チェンバロ)
 もう少し新しいところで良かったと感じたものを挙げます。パスカル・デュブリュイユは1970年生まれのフランスのクラヴサン(=チェンバロ/ハープシコード)奏者です。ケネス・ギルバートや上記レオンハルトに学びました。

 上記の概略で述べた通り、このデュブリュイユと同じくフランスの新しい世代の俊英バンジャマン・アラール、アメリカのオルハン・メメッドはどれも魅力的ながら、その中で一番ゆったりとした印象のデュブリュイユのみを取り上げました。ピノックやレオンハルトよりもさらに落ち着いた運びの曲が多いです。拍の揺らしはレオンハルト盤と同じぐらいでしょうか。同国の先輩にあたるブランディーヌ・ベルレの新盤よりさらにリズムが不均等ではない印象です。でもピノックよりはある方かもしれません。遅らせてためる方向への揺らしです。

 2008年録音でレーベルはラメー(Ramée)です。瑞々しくて棘がなく、詳しいことは分かりませんが音が大変良いです。



   rubsampartita
     Bach   Six Partitas BWV 825-830   Wolfgang Rübsam (lute-hc)

バッハ / 6つのパルティータ BWV 825-830
ウォルフガング・リュプザム(リュート・チェンバロ)
 これはドイツ語でラウテンヴェルクと呼ばれるリュート・チェンバロ/ハープシコードによる演奏です。バッハが好んでいた楽器だということながら、現存する個体がなかったため、現代になって復元されたものです。そのため構造にも曖昧なところがあります。チェンバロに金属製ではなく、リュートと同じガット弦を張ったものだというのは間違いないとしても、その形はチェンバロそのままだとか、リュートの形をしていたとか言われるのです。でもやわらかいリュートのような音色が大変魅力的です。

 弾いているのはウォルフガング・リュプザム。1946年生まれのドイツ系アメリカ人鍵盤奏者です。ヘルムート・ヴァルヒャとマリー=クレール・アランに学んだということで、オルガンも弾きます。演奏マナーとしてはテンポは大変ゆったりで、遅らせる拍の揺れが大きなものです。顕著なピリオド奏法と言っても良いでしょうか。その不均等に揺らぐリズムは独特で、リュートを爪弾いているときの分散和音のようでもあります。好みはあると思いますが、それが独特の優雅な雰囲気を醸し出しています。

 2020年録音のブリリアント・レーベルです。全く耳に痛くない音なのはありがたく、エリザベス朝時代のリュート音楽を聞いているみたいで魅力的です。