シェーンベルク /「浄夜(浄められた夜)」
作品の中では深刻なテーマが、現代の観点からすると拍子抜けするという例は昨今色々なところで見られる気がします。前述の トーマス・マンの描く世界も若干そんな風に感じたと申し上げました。昭和の演歌もサックスが泣けば「コルトレーンに憧れて流れ着いたバック バ ンド・ブルース」などと想像たくましくしますが(悟り顔でムチャクチャ巧いのでしょう)、女声スキャット、ときにメキシカンな葬送トランペットに彩られながら「私に構わずあなたの道を 行って。想いを殺して女が一 人、暮らして行ける町で」などと歌い出すと、今どきどこの町でも暮らせ るし、騙されてるだけ、とかわされてしまうかもしれません。 物語 シェーンベルクの「浄夜(浄められた夜)」(1899)の歌詞もちょっと似てるでしょうか。雲のない冬の 月夜の晩に男女が林の中を歩いています。アンリ・ルソーの「カーニバルの夜」のような光景です。女がそっと男に告白します。「私、できちゃった、でもあな た の子じゃない。男は必要ないけど子供が欲しかったから。誰でもよくて身を任せたの」と。なんか時々聞かれるセリフな気もしますが、さらにモダン・バー ジョンだと「欲望は解消したいけど縛られるのは嫌。本気で好きは重いよ」でしょうか。あるいは将来子供になる予定の魂と約 束して来たのかもしれませんが、男は動揺するものの、「自分の子として育てるから一緒にいよう」と答えます。幼児虐待はだめですよ、の世界です。お腹を見て 分からなかったのなら古くて四ヶ月前。タフな状況です。しかし話はお上品で厳格な ヴィクトリ ア朝の時代なのです。この架空の女性の名誉のために付け加えれば、彼女は当該アフェアの後でこの男性と出会っています。そして同じような体験からヒントを 得た作者リヒャルト・デーメルの歌詞は、意味深な言葉を交えてこの男性の赦しを「浄め」の出来事だと言っているのです。それまでは不浄だったのでしょう か。 ヨセフの苦しみ 浄めというと「ピュリフィケーション」の意味で聖母マリアの清めの儀式のことを思い浮かべるかもしれませ ん。 しかし単語で言うと "Verklärte"(ドイツ語)、英訳では「トランスフィギュアド」(変容した)、となります。これはいったい何のことを言っているのでしょうか。 デーメルもシェーンベルクもユダヤ系なので頭の片隅にあったかどうかいう程度ですが、話の筋からすると、イエスの義理の父となったヨセフの悩みに似ている ようです。ご存知の通り、イエス・キリストは神の精霊によってマリアが身籠り、この地上に登場して来られたことになっています。そしてその後マリアととも に清めの儀式に臨んでいます。わざわざサイキックな受胎を経なくても空中放電とかでぱっと転送されて来ても良さそうですが、それだと人間の肉体を持った者 が罪を背負って死ぬというストーリーが成り立ちません。ゼウスのように交わっても信用失墜です。ヨセフは妻となるマリアに妊娠していることを告げられて (そのときまだ体の関係はありません)悶え苦しみますが、最後は赦します。信仰をお持ちの方に不敬なことを言うつもりはありませんが、処女懐胎説自体がイ エスの死後70年、あるいは2世紀ぐらいまでに付け加えられた神話的尾ひれだと受け止める考えもあるようです。仏教でも脇の下ブッダ説というのがあって、 カースト差別に関係もあるけれど、お釈迦様は脇の下からお生まれになったと言います。どんな脇の下だったのでしょう。ひょっとして反対側もですか。 本当の意味? ふざけ過ぎたでしょうか。そんな具合でマリアの処女懐胎や清めというニュアンスは、タ イトルに清めの意味が元々ないこともあり、シェーンベルクはさほど考えてなかったかもしれません。デーメルが体験を膨らませて書いた、シェーンベルクが 使ってみた、でいいんじゃないでしょうか。この浄夜の告白は、一般的にはクリムトやエゴン・シーレの絵とともに世紀の変わり目のウィーンの頽廃に関連づけ て論じられます。頽廃というよりも、新しい自由な表現を求める芸術家たちと因習的な人々との争いが背景にあったと見るべきでしょう。その中で奔放な性のあ り方がラディカルな視点で問われているように言われるのですが、それも作詞者がわいせつ罪で告発された経緯があってのことです。窮屈な時代で、当時は大変 なことでした。ただ、貞操観念は男権社会の特徴であって昔からのことです。現代は女性の権利の拡充とともに少しだけ風穴が開いて来たとも言えますが、呪縛 は変わってないので、今となっては単にパートナーの独占と嫉妬というお馴染みの厄介な問題を描いていると捉えておけば 良いのかもしれません。 あるいはここで言う「変容」が支配と所有を手放して、差別のない愛による女性原理を受け入れることで救われている姿に見える(Du hast mich selbst zum Kind gemacht/あなたは私を子供にした)ことから、何らかのイニシエーションを象徴しているとも言えるのでしょうか。象徴を使う詩人、デーメルというこ とで、それをさらに現代の我々にも普遍性を持つ意味へとこじつけるとしたら、イエスの赦しというものが、本来は罪を赦すことではなく、全てのありのままを 受容することによって自らを「変容」させる教えだ、という意味で救いであるということなのかもしれません。 編成と技法 歌詞と書きました。しかしこの曲は歌ではなく、元々は弦楽六重奏、その後は弦楽合奏にも編曲された純粋な 器楽曲です。詞の内容を頭に入れて表題音楽的に聞くにせよ、その音楽自体は大変美しく、真に迫った感動的なものです。同じ年に生まれたホルストとは正反対 の波長を持っており、ここでクラシックの入門曲とするには少し重過ぎる音かもしれませんが、シェーンベルク(1874-1951)という人は十二音技法の 現代音楽の作曲家ですか ら、そう考えると大袈裟に言えばこの一曲だけが、彼の作品としては「感性」で聞ける美を持った唯一の作品だとも言え るのです(無調でない音楽は他にもあります)。ほとんどそれだけが親しまれているというのは「惑星」と似た状況でもあります。 他のところで言ったことの繰り返しになるのですが、十二音技法は調性を無くすために特定の音列の組み合わせを予め決め、それを繰り返して行く技法であり (正確には無調音楽の技法の一つ)、感覚と感情の要素を排して理念で作る音楽です(技法の隙間に情感を感じ取る人と、感じさせる作品はあります)。奥さん が駆け落ちした後その相手が自殺したのと、無調になった時期とが同じ1908年であるために、シェーンベルクが感情を封印した説すらあるぐらいです。しか しそれなら和音と感情の関係を理解していなくても作曲できるはずなのに、この「浄夜」という作品は豊かな音楽的感性によって出来上がっています。シェーン ベルクが元々持っている音の才 能を表していると言ってもよいでしょう。かなり複雑な和音を使っており、古典派時代なら禁じ手だったでしょうが、今や味わいの範疇です。多くの人が音楽で 苦い感情を疑似体験したいと願ってるわけではありません。確かにこの曲は、激しく演奏し過ぎると痛みや苦しさを感じさせますが、苦しみは人間の本質である と同時に、曲を通じての浄化の作用が期待できるとも言えます。一方で強い音の背後に隠れがちなやわらかい心の襞を掘り起こすような配慮が演奏にあると、広 がりのある豊かな世界が現れて来ます。技法としては主にブラームスとワーグナーの影響があるとも定型的に言われますが、そういう分析は手に余るのでやめて おきましょう。 CD などの曲名の後ろに(1943)と書いてあったりするのは弦楽合奏の方(最後の版)を意味します。 曲の進行 楽曲を経時的に眺めてみましょう。不安で重苦しい出だしがあり、ざわめく心に悲しみが混じるようなコード 進行があって、そこに時々挟まる形で甘い響きが聞かれます。そして嫉妬の苦しい心が昂まるような息の詰まる上 昇音型のクレッシェンドによって、中間部分の圧倒的なクライマックスを形成します。実際にこの詞のような立場になったら真に 迫るでしょう。シェーンベルク自身はこの感情をどんな体験から盛り込んだのか、それは分からないものの、友人の妹で奥さんとなるマチルダに当時熱を上げて いたことはよく指摘されます。後には他所の男と駆け落ちされてしまうとしても、このときはまだそんな焦燥を味わってはいなかったはずです。また、デーメル の詞の筋にはないものの、よく言われる官能の息遣いが音の中に聞こえる気もするし、めくるめく恋愛感情の様々な局面が動機の中に上手く表されてもいます。 そして最後は赦しの明るい光が差すのです。マーラーのアダージェットが描く甘い恋の世界を煮詰めた結果、同じものがこのように大人のビターテイストで表さ れたとも言えるでしょう。マーラーはこの「浄められた夜」を高く評価していました。さらにこれよりも喪失の後の受容プロセスを強調すると、バーバーの「弦 楽のためのアダージョ」に近づくでしょうか。この三つ、どこかに甘美さのある長い吐息が共通しています。多少取っ付き難くてもこんな曲からクラシック音楽 に面白さを見出す方もおられるのではないかと思います。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Isabelle Faust (vn) Anne Katharina Schreiber (vn) ♥♥ Antoine Tamestit (va) Danusha Waskiewicz (va) Cristian Poltéra (vc) Jean-Guihan Queyras (vc) シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)/ア ンネ・カタリーナ・シュライバー(ヴァイオリン)♥♥ アントワン・タメスティ(ヴィオラ)/ダヌーシャ・ヴァスキエヴィチ(ヴィオラ) クリスティアン・ポルテラ(チェロ)/ジャン=ギアン・ケラス(チェロ) 新しく出て来たものですが、この曲を目下のところ一番魅力的に聞かせてくれる録音だと思っています。オー ケス トラ版ではなく、オリジナルの弦楽六重奏です。室内楽の楽しみを最大限に味わわせてくれます。イザベル・ファウストがリーダー的な立場になっているので しょうか。ノン・ビブラートで弾くベートーヴェンの協奏曲ではひやっとした肌触りの透明純粋な、ときに鋭い刃のようなところも聞かせて抗いがたい美しさが あり、曲の新しい形を見せてくれるような思いでした。ここでもロマン派の艶を剥ぎ取った甘さのない浄夜です。 次で取り上げるケラス盤が温かくて繊細なやわらかさを感じさせるとすると、こちらはクリアー・クリスタル のような 美しさ、しかも他では感じられない種類です。皆が知っているこの曲でありながら、陰鬱さというよりも透明さと鋭さがあります。各フレーズの間は十分取るの で 前のめりに攻める演奏ではありません。ブーレーズのように構成を分解して見せる透明性がありながらも音の美しさを感じさせるもので、こう見せようという理 念 ではなく、奏者のダイレクトで自発的な息遣いが感じられます。 演奏しているメンバーですが、もう一人のヴァイオリンはフライブルク・バロック、ベルリン古楽アカデミーなど の古楽の多くの楽団でコンサート・マスターを務め、ソロ活動をしているアンネ・カタリーナ・シュライバー。チェロは次の盤でリーダーを務める名手ジャン= ギアン・ケラスと、ドヴォルザークの「森の静けさ」を中心にまとめた自身のアルバムで魅力的な歌を聞かせていたスイスのクリスティアン・ポルテラ。同じく トリ オ・ツィマーマンのメンバーであるアントワン・タメスティと、アバドに招かれてボローニャのモーツァルト管でキャリアをスタートさせたダヌーシャ・ヴァス キエヴィチがヴィオラという顔ぶれです。 2018年のハルモニア・ムンディで、極めて優秀な録音です。いつもビブラートを用いないファウストの ヴァイ オリンは線が細くてストレート、艶を抑えた寒色系で強く鋭いのですが、静かに伸ばす高い倍音が鈴を鳴らすような独特の美しさです。他の楽器も色が似て聞こ えますから、録音もそれを狙っていると思います。長調に転じる救いの部分も夢の中のようではなく、覚醒していて軽い羽のように爽やかです。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Jean-Guihan Queyras (vc) Ensemble Resonanz ♥♥ シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 ジャン=ギア ン・ケラス(チェロ)/ アンサンブル・レゾナンツ ♥♥ これも上記ファウスト盤と甲乙つけがたい魅力的な一枚です。こちらは六重奏ではなく、弦楽合奏版ですが、 その弦楽合奏のものとしては私的ベストに近いかなと感じています。室内楽的な味わいを持っているとも言えますが。 やさしさとやわらかさのある繊細な演奏で、鬼気迫るような迫力のみを求める人には向かないかもしれませ ん。 聞いていて曲の美しさが感じられ、何度かけても胃もたれして嫌になったりしません。ありのままの美をもって純粋に楽曲としての魅力を教えてくれるものと言 えるでしょう。弱音部ではささやくような繊細な息遣いがあり、軽やかで力まず、動機ごとに十分間を空けつつ割合平静に音を出して来ます。曲の持つ苦しさが 目 立たず、心理的には淡々としているとも言えます。力は十分だけど力づくでない情緒があり、音の間に隙き間があって余裕が感じられるので息が詰まらないので す。しかし歌は十分に歌っており、ピアニシモの静けさからの鮮やかな立ち上がりがると同時に鋭くならずに丸みを感じさせ、大変有機的で滑らかに流れま す。 これもハルモニア・ムンディで2013年の録音です。弦楽合奏だから当然と言えば当然ですが、低音の厚み があってやわらかく瑞々しい音です。ファウスト盤とは違った方向で生っぽい楽器を感じさせる、暖色系の優秀録音です。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Pierre Boulez New York Philharmonic シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニック 以前から定評があって人気の盤です。2016年に亡くなった現代の作曲家にして指揮者であるフランスのピ エー ル・ブーレーズはこの手の作品を得意としていましたが、浄夜ではニューヨーク・フィルをコントロールして作品の形を完璧に再現しているように言われます。 その表現は遅くて分解的、だまにならずに各パートがはっきり分かるもので、いかにも作曲家の演奏だと思わせます。冷静さ、客観性があり、かといって感情の こみ上げるようなパートもほどよく有機的です。熱い力は感じない割合あっさりした運びでちょっとだけ理念的かと思わせるものの、決して気の抜けた演奏では あ りません。形の完成度の高さという意味ではこれぐらいが丁度いいかもしれません。長らく定番の地位にあったことが納得の模範的な一枚だと思います。 1973年のアナログ録音ですが、音は滑らかで潤いがあり大変良いです。96年のデジタルの幻想交響曲な どよりむしろ良いのではないでしょうか。低音もよく響きます。人数はケラス盤などより多く聞こえるもので、オーケストラだなという感じです。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Dimitri Mitropoulos New York Philharmonic シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 ディミトリ・ミトロプーロス / ニューヨーク・フィルハーモニック 古くから定評があり、今なお、特に日本の一部のファンに熱く支持されている演奏です。この状況が何からも たら されたのか、恐らく音楽雑誌か何かで評論家の方が取り上げた経緯があったのだと思いますが、詳しくありません。しかしこれは筋の通った、ちょっと襟を正す ようなたたずまいの演奏であり、評価の高さが十分に頷けます。 ミトロプーロスという指揮者は、惑星のところで出てきたスタインバーグと同様、最近のファンにはあまり 馴染 みのない名前かもしれません。スタインバーグがボストンでの小沢の前任者であれば、このミトロプーロスはニューヨーク・フィルでバーンスタインの前任者で ありました。ショスタコーヴィッチの5番では、例の緩急の表情がたっぷりと付いたレニーの1959年の名演奏が、その直前のモスクワ公演においての作曲者 の激賞によって有名になりましたが、52年に録音されたミトロプーロスによる大人の本気を感じさせる演奏はそれまでの定番でした。ということをご存知の方 は大変ご年配のファンだと思います。この企画で同曲を取り上げたページでは録音が古いために除外したのですが、その演奏は今聞 いても人気が納得できるものです。 ギリシャの出身で、マーラーと新ウィーン学派などの現代音楽に強い人であり、その鋭敏な感覚と一度見たものは覚えてしま うという映像記憶能力でも有名だったようです。科挙や受験勉強を引き合いに出すまでもなく、記憶力は知能と並んで人の能力を問う際の最大の指標であり、ス ペリング・ビーやメモリースポーツなど、現代でも好んで競われています。音楽の世界も例外ではありません。コンピュータに例えれば知能がCPU の演算速度ならハードディスクの保持力に当たり、情報のあり方である演奏の質とは直接関係ないにせよ、楽譜の細部まで暗記する能力は演奏家たちからは畏怖 と尊敬を集め、コンテストでの正確な技術と並んでこの特殊な能力によって世に出た人も多いのです。ルビンシュタインやマリー=クレー ル・アラン、小沢征爾なども そんな才能を持っていたという話を聞きます。 さて、ここでの浄夜は、知っている人には彼らしい音だろうと思うのですが、ブーレーズよりは速いテンポを 取 り、直線的で切実に聞こえます。ブーレーズが楽曲構造を正確に解き明かすなら、ミトロプーロスは同じことを狙っていたにしてもより切迫した心の動きに忠実 であり、それでいてカラヤンのような甘い美しさは見せません。寒色系で真っ直ぐ突き刺さって来る気迫が人気の要因でしょう。厳しい音と表現する人もいるか もしれません。芯の通った強さ、引き締まったクリアさ、潔い鋭さという意味でちょっとだけトスカニーニにも似てるような雰囲気があるかもしれませんが、常 に速めのテンポを取るわけではありません。この盤はそんなミトロプーロスの魅力が十二分に表れたものだと思いますし、録音も彼のものとしては最上のコン ディションです。 1958年のステレオ録音です。音として十分ですが、もちろん最新のものと比べればやや箱こもり気味なと ころはあります。弦の強奏は多少潰れ気味で濁ります。しかしこの演奏を味わいたいのですから、全く問題にはならないでしょう。むしろよくこんなきれいな音 で 残っていてくれた、というところかもしれません。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Herbert von Karajan Berliner Philharmoniker (1973) シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1973セッション) この曲を多くの人に知らしめた功績のある演奏です。ブランド力ということもありますが、これで知った愛好 家は大変多いはずです。そして現在もなお独特の波長を放っていて魅力は衰えません。 カラヤンが70年代にどんな演奏をしていたかという話については前にも触れていて繰り返しになるので省き ます が、重く滑らかで甘い香りのする、時折むせ返るような感覚になるほどの名演です。ブーレーズがニュートラルな意味で完璧な形を追求し、ミトロプーロスがよ り直線的に切り込むことで切々とした感情を洗い出して見せたとするなら、カラヤンは感覚感情的な形をまとった独特の美で完璧を狙います。引っ張るレガート で力は入れ過ぎず、弱い音を駆使して美しさを追求して行くのです。そのデリケートな囁きは時々むせび泣くようにすら聞こえ、曲線的に山を作って上昇しては 消える音にため息が出ます。息苦しいような力強さもあります。恋愛感情で言えば初期の甘酸っぱい想いの方を向いているというのか、重苦しくはあるかもしれ ないけど、この詞で想定されているような鋭い痛みや苦さを見ようとしているわけではなさそうです。とにかく流麗で、この美に魅入られたら他はだめでしょ う。 73年ドイツ・グラモフォンの録音は同時期のベーム/ウィーン・フィルの何枚かと比べると独特の、少しだ け靄(もや)のかかったようなところがありますが、カラヤンのこの時期のものとしては最上の部類かもしれません。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Herbert von Karajan Berliner Philharmoniker (1988 Live) シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1988ライヴ) ブラームスの1番の来日公演が凄かったので、それより後のロンドン公演でカラヤン最後の同曲となるこの 盤を 期待してイギリスから取り寄せたのを思い出します。カップリングが浄夜でした。今は国内盤も販売されているらしいですが、その時もどうやら輸入盤に日本語 解説と帯を付けたものが出回っていたようです。レコード芸術誌で推薦になったからだそうで、知りませんでした。 帝王カラヤンという人は同時 代に体験しなかった世代にとっては神話化、偶像化されやすいのかもしれませんが、このブラームスも熱烈に言われます。確かにストレートに燃え上がる熱演で 圧倒されます。ライヴで聞いた人は凄かっただろうと思います。ただ、第三楽章までは同じような運びであるものの、終楽章では、若干だけど、来日公演の方が ぐっと心が掴まれるようなところがあった気もします。そして何よりもブラームスの方だけ、この盤はフォルテでクリップしてしまっているのです。同じ日の収 録なのに「浄夜」の方がそうなってないのは、単に弦楽合奏のみというレベルだけの問題でしょうか。ジャケットに大きくテスタメントと書いてある 通り、記録なので仕方ありません。 余分なことを書いてしまいましたが、この「浄められた夜」は大変素晴らしいと思います。録音も大丈夫で す。高 音弦がよりはっきり聞こえ、モヤっていません(その代わり咳が聞こえたりするのは仕方ありません)。解釈は73年のスタジオ録音盤と基本は変わってな いように聞こえるものの、ライヴのせいかもっとストレートです。最晩年のものの全てが燃焼しているとは思いませんが、これは熱のこもった演奏で鬼気迫る ものがあります。テンポは遅く、甘さよりも苦しさを感じさせるほどです。以前はやわらかい弱音を駆使したりむせび泣くようにやっていたところが、作為を感 じさせずにより直線的で素直な表現となっているのです。細かな細工を一切しないカラヤンに感銘を受けます。 録音は1988年10月5日で、9ヶ月後には亡くなるというタイミングです(最後のセッション録音は89 年4 月23日のブルックナー第7番で、同日に行われた同曲の演奏会もラスト公演でした)。ライヴゆえに全合奏で最高に分離しているとは言い難いし、音色が艶や かできれいというわけでもないですが、演奏を楽しむ分には全く邪魔をしません。残響はセッション録音盤のように多い方ではありません。 Schoenberg Transfitured Night (Verklärte Nacht) op.4 Hainz Holliger Orchestre de Chambre de Lausanne シェーンベルク / 浄められた夜 op.4 ハインツ・ホリガー / ローザンヌ室内管弦楽団 ゆったりで滑らかに磨かれた抑揚がしっかりとついている演奏であり、やや重いにしても息苦しいほどではあ りま せん。そういう意味ではカラヤン盤(セッション)と比べられるでしょうが、あそこまで抑えたところからレガートで盛り上がって行くような、やわらかい布団 で圧迫されるようなところがありません。また、ホリガーのオーボエ演奏における息遣いは誰にも真似ができないほどの名人芸でしたが、それをそのままこの人 の指揮に当てはめて期待するのもちょっと違うでしょう。録音されたのは比較的最近で2013年、ホリガー73歳のときでした。だから何ということはないに せよ、激しさや鋭さ、熱を求める演奏ではなく、最後は少し悠然とし過ぎて聞こえるかもしれません。感情的に突き詰めて来るような方向が苦手であれば、これ は清涼剤として大変素晴らしいものだと思います。 落ち着いていて決して前のめりにならず、間をよくとって弱音の表情に注意を払い、デリケートにきれいに歌 わせ ています。テンポ設定と冷静なところはブーレーズに似ているかもしれませんが、質は違います。ブーレーズが表情を抑えて構造を明るみに出そうとするせいで やや無機質なニュートラルを保つのに対して、より細かな歌の抑揚に注意を払っているからです。室内管弦楽団規模で、ノンビブラートに聞こえます。新しい録 音で音も大変良いですが、残響は少なめであり、艶やかで色彩豊かという方向ではないかもしれません。 ホリガーはこの曲が好きなのか、二十一年前の1992年にも録音していました。そちらはヨーロッパ室内管 弦楽団と であ り、現在は Apex レーベルから廉価版の体裁で出ています。原盤はテルデックです。基本解釈はその後のものと同じ傾向で、丁寧な抑揚が細部までしっかりと施されている、やや 遅めの磨かれた演奏です。表情が大きくついていますが感情的には大袈裟にならず、丁寧に一つひとつ完全さを狙って彫琢して行くという印象です。足取りの確 固としたところから人によってはやや生真面目さを感じ取る方もあろうかと思います。良識あるジェントルマンのセクシュアルな情熱という感じでしょうか。そ ういう意味ではやはり変幻自在だった彼のオーボエと同じ人だとは思わないかもしれません。前のめりにならないところ、苦しくなり過ぎないところは新録音と 大変よく似ています。アンサンブルはきれいに揃っていて完成度が高く、録音もふくよかさがあって優れたものであり、この曲を初めてじっくりと聞くには最適 だと思います。新盤より良いと言ってしまえるとは思いませんが、長調に転じてからラストまでの運びは決して間延びした感じに陥りません。どちらが良いかを 比べてみるというのも楽しいかもしれません。 INDEX |