バッハのカンタータ、どれを聞く?
bachmanuscript


CD とともに取り上げる曲 35曲: 第4/8/12/21/35/36/42/54/55/57/61/80/82/94/105/106/115
/118/125/132/138/140/147/161/162/169/170/182/198/199/200/202/208/211
/212 番

コメントする曲 52曲: 第1/3/5/7/9/11/18/19/22/23/27/29/32/44/46/48/52/56/58/68/76
/78/84/97/103/109/110/116/120/122/127/128/130/131/146/149/150/152/156
/159/163/164/165/166/174/179/180/187/188/191/196/197番


CD 評はこちら(曲の解説を飛ばします)


 バッハのカンタータの中で美しいもの、心に響くものを演奏とともに見て行こうと思います。もちろん美しいかどうかは主観ですが、ここで取り上げる曲は珠玉の名作とされてきたものがほとんどです。ではそんな名作以外はどうかというと、それは見解の相違が現れるところです。200曲、あるいは教会カンタータだけで190はあるだろうとされるバッハの最も重要なレパートリーがすべてマスターピースだという主張も分かります。しかし大半の愛好家にとっては全部聞くのは大変なことに違いありません。バッハ自身ですら義務を負ったからこそ作れたのかもしれないのです。カンタータを作曲した主な時期であるワイマール時代とライプツィヒ時代の両方において、バッハは雇われた条件としてノルマを負っていました。月に一曲の新作を書く、あるいは毎週一曲演奏するという種類のものです。それは制約と言えるでしょう。芸術も人の成長の軌跡も制約というカンバスの上に描かれるのでしょうが、そうした日課のような量産の体勢があったことだけは知っておいて良いと思います。


 それならばどういう基準で曲を選んだかということですが、まず一般に評価が高く、よく演奏される曲は昔から決まっています。12、21、80、82、 106、 140、147、182番は誰しもが認めるナンバーで、4、61、78番を加える場合もあり、さらに57、今は世俗カンタータに分類される198、そして 199番も入れるべきかもしれません。51や56も人気があります。これに世俗カンタータの結婚(202)、狩(208)、コーヒーと農民(211と 212)を加えれば、ほとんどではないでしょうか。「たくさんある曲の中で、どれが名曲ですか?」というQ & A サイトの質問にはおそらく答えてしまったことになるでしょう。これ以外を挙げられる人は掘り出しもの自慢ができるかもしれません。長い間に評価が定まった曲はさすがに魅力的なものが多いので、ここでもほとんど全部を網羅しています。
 そしてそれ以外のものについては好みが反映されてくるわけです。例えばお店で売っているドーヴァー社のスコア選集のうち、「11曲の偉大なカンタータ 集」(邦名「有名なカンタータ」)に入っている曲はここでも触れているものの、もう一つある「7曲の偉大なカンタータ集」の曲については、後ろの方の覚え書きで三曲は触れたものの、残りは選んでいません。これらの曲はライプツィヒ時代のコラール・カンタータに属するもので、バッハ特有の形式として歴史上大変意義のある作品ながら、この種類にありがちなことで賛美歌と語りを行き来しているようにも聞こえ、アリアがあっても歌謡性のものが少なく感じられたからです。こういう具合に主観が入り込むのが常のことであり、選んだ者のフィルターの色を先に言っておかないとアンフェアなので、少しだけ述べます。


アリア重視の選曲
 まず、ほぼアリアに軸足があります。つまりソロできれいにうたわれる歌の部分ですが、それと前奏を含めた管弦楽のあり方も重視しています。美しいメロ ディ展開とハーモニーによって自然に口ずさみたくなるものを選んでいるからです。たまに耳にすることですが、入門者はアリアで選び、分かってくるとコラー ル(賛美歌)や合唱に目が行く、という意見があるようです。あるいはレチタティーヴォ(語り)の部分こそがバッハの神髄であると主張する方もおられるようですが、そういう意味で言えば、このページは素人の選んだカンタータ集です。
 もちろん合唱部分で感動的なものも多くあります。同じ音で声を合わせて歌えば皆が仲間であることを確認でき、教団の結束が促進されるでしょう。決まった パターンのものが多いことも事実で、国歌、社歌、校歌などと同じで、悲壮な短調の軍歌を除いてほとんどが長調であり、決意を表す上昇止まり型以外は全て最 後に下降してきてハ長調ならド、C のコードで終わります。下がってきて基調音で終わるのは肯定文の会話です。会衆が歌うコラールも同じことで、一定のパターンも賛美歌としては大切なことに 違いありません。ただ、バッハの作品にはそんな水準を超えた見事なものもいくつかあると思います。レチタティーヴォにしても、気づいたものをざっと拾っただけでも12−3/19−4/58−4/77−4/116−3/161−2&4/163−4
/165−4
(曲番楽章)など、単なる語りの次元を超越した構成のものや、音楽的に美しいと思えるものもありました。


選びがち/落としがちな曲

 バッハのカンタータの楽章を
ポップスに倣って四 種に分け、アップ・テンポとスロー・テンポを縦軸に、長調と短調を横軸に組み合わせるとします。スロー系がほとんどであるアリアはバッハの場合、メ ジャー・キーが少なく、マイナー・キーが多いので、アリアを中心に選ぶとまずスローの短調、スローの長調という順になります。数の多い前者についてです が、バッハのカンタータそのものが暗い曲集だと指摘する人もいます。でもそこが醍醐味でもあります。メランコリックな美しいメロディーを堪能できるからで す。ただ気づいたのは、大バッハといえどもこと宗教曲に関しては、神に許される人間の立ち位置から来るのか、自分への憐れみを訴えるものが案外多いという ことです。それは歌詞だけの問題でもなく、晩年の作にも見られます。自分を愛することは他者を愛す る基本として大切であり、自己中心主義とは違いますが、自己憐憫となるとどうなのでしょう。器楽作品では抽象的な芸術にまで昇華され、こうした面はヴァイ オリン・ソナタなどの幾つかを除いてあまり感じなかったことでした。無論それが全くないのはモーツァルトぐらいで、バロック・ポリフォニーといえども人間 臭く自己陶酔の波長を響かせるのは普通のことかもしれません。それに対して後者のメジャー・キー のバラード系には肯定的な波長の大変魅力的なものがあります。ここで取り上げる長調でスロー・テンポの主なものは36ー4/42−3
/61−6/105−3/118/147−10/161−1/170−1/200/202−1/208−9
(曲番
楽章)といったところです。
 一方でアップ・テンポのものは管弦楽部分
にもありますが、トランペットやティンパニが活躍するものはあまり選んでいません。輝きの刹那に移ろう影を見て喜びをかみしめるような美しい曲もあるものの多くは得意ではないからです。
 メリスマも同じです。これはカンテ・フラメンコや演歌のこぶしのようなものですが、たくさんの音符を同じ歌詞の一母音で歌うもので、音程を上下させなが らアアアア・アアアア・アーメン、のように行くものです。バッハらしい手法ということですが、コーランの詠唱に似たフラメンコは抵抗がないのに、バッハの ものは長く続くと得意ではありません。62番の四曲目や172番の二曲目のように同じフレーズを行ったり来たりすることも同様です。
また、音楽よりも劇の要素が前面に出ているものは落としがちです。


選びがちな演奏者/バロック唱法 
 CD を取り上げるなら演奏者に対するフィルターの色も事前報告させていただく必要があるでしょう。アリアに軸足を置いて選んでいるのですから、独唱者は大変気になるところです。
 まず一般的な情勢として、古楽の運動が盛んになる前と後とでは歌い方が違っています。
ここでの歌手の選択は運動後の方に傾いています。エ マ・カークビー、ジュディス・ネルソン、アニェス・メロンといった人たちの古楽/バロック唱法はそのままの形で主流にはならなかったものの、ビブラートを 抑え気味にして選択的に使うことは一般化しました。もちろん完全なノン・ビブラートというものは存在しませんし、教会や礼拝堂などの残響との調和の必要も あって今のような形に落ち着いてきたのかもしれません。また、個人差も大きいようです。しかしひとたびこうしたいわゆる「バロック唱法」寄りのものに慣れ て古い時代の録音を聞くと、全面的に大きく震わせていてオペラ的に聞こえます。エリー・アメリンク、エディット・マティスといった人たちは、その時代では 清楚な歌い方をする人でしたが、比べれば現代の古楽器楽団で歌う歌手とは違います。また、伝統的な歌唱法はより大きな会場で声を通すための、体全体を使っ た声量重視の歌い方に聞こえ、口腔/咽頭共鳴に関係するのか、体内の空洞を最大限に利用した響きに感じられます。ヘルムホルツの共鳴器の原理で、口が小さ くて容積が大き い容器は低い周波数で共鳴します。人間でも口の大きさが同じであれば、体の空洞が大きいほど低い共振周波数となります。歌は声帯で音の高さを決めるので基 音は変わりませんが、響きは違い、同じアの母音でも場合によってはウォに寄った音に聞こえたりします。これについては横隔膜と母音の使い方に特徴があるベルカントとドイツ唱法との違いも微妙に関わってくるかもしれません。発声法の基本は変わらないようですが、バロック唱法の歌手たちについて気になることがあるとすれば、ビブラートが少ないことで音程が不安定に聞こえる場合が あること、ここぞという強さが出ないこと、古楽らしい装飾を加える人が稀にいる点ぐらいでしょうか。今回のカンタータでソプラノの好みを言わせていただけ ば、キャサリン・フーグとキャロリン・サンプソンにはすっかり魅了されました。カウンター・テナーはまた技法が異なるでしょうが、アンドレアス・ショルと ロビン・ブレイズはお気に入りです。


選びがちな演奏者/ピリオド奏法
 一方、最初がシンフォニアで始まり、そこでイメージが決してしまうような曲もあったりして、指揮者の解釈と器楽の性質も大事だと感じます。この管弦楽に関しても古楽器
(ピリオド)奏 法というものがあって、歌と同様に昔と今とでは違います。伝統的な奏法はやはりビブラートをしっかりかけ、レガートでつないで行くような滑らかな奏し方に なります。テンポは遅いです。これに対して現代の古楽器楽団の演奏は、音符の途中で盛り上げて行くアクセントがあり、最初の世代ではレガートを嫌ってさっ ぱりとフレーズを切り、テンポも速くなりました。しかし同じ古楽でも第二世代ともいうべき人たちの演奏では、音符を盛り上げる強弱のアクセントはそのまま でも、以前より短いフレーズにこだわらなくなって滑らかな歌も許容するようになり、遅いテンポを選ぶケー スも出てきました。 これを伝統的な奏法から数えて三番目の世代というなら、ここではそこに属する CD を選びがちです。ヘレヴェッヘ、最近のガーディナー、鈴木雅明などです。尖ったアクセントの第一世代の古楽はだんだんと姿を消して行くのかもしれません。


一般的なこと/カンタータとは
 クラシック音楽で聞くことのあるキリスト教の教会音楽のうち、カトリック*で行われる儀式の音楽としてはミサやレクイエム(死者のためのミサ)が有名で す。一方でプロテスタント側の教会音楽の一つで、ルター派の礼拝用に書かれたのが、バッハのものとして取り上げられる場合のカンタータです。
 それに対して世俗カンタータというのもあります。元々はこちらが先に成立したものですが、神に仕えるのではなく、世俗の権力者やパトロンへのサービスと して作曲上演されたものです。バッハの作品では貴族の誕生日祝いや結婚祝いだったり、新領主の着任祝いだったりしますが、仲間内でオペラ的に楽しむものも ありました。

 編成と構成ですが、教会カンタータはオーケストラと合唱団、独唱者たちによって演奏される音楽で、元々は礼拝に集まった人たちによって歌われた「合 唱」、同じく声を合わせる「コラール」という賛美歌形式の部分、独唱者によって歌われる「アリア」、同じく独唱者のパートで状況説明やストーリー紹介を行 う語りの部分である「レチタティーヴォ」から成ります。バッハの形のカンタータの前身としては、シュッツの宗教曲やブクステフーデの作品などが指摘されま す。  

*カトリックというのはローマ市内にあるバチカン市国が本山で、ローマ=カトリッ クとも呼ばれ、イエスの使徒ペトロを初代とする教皇を頂点とします。バチカンのサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂はペトロの墓のあった場所だとされていま す。これとは別に、ローマ・カトリックと分裂したコンスタンティノープル(現イスタンブール)の東方教会 (正教 会)というものがあり、ギリシャ正教、ロシア正教などが含まれます。一方でプロテスタント(新教)は16世紀に起きた宗教改革でカトリックにプロテスト (抗議)した教派で、
罪の許しをお金で買えるという考えを堕落と考え、反対しました。 後 に新大陸にも広がりましたが、バッハのドイツはプロテスタントの中心人物であるマルティン・ルターの出た国で、バッハ本人もルター(ルーテル)派=プロテ スタント教徒です。この系統にはそれ以外にもたくさん派や呼び名があり、時代と場所はそれぞれでも、カルヴァン派/ユグノー教徒(フランス)、 プレスビテリアン(スコットランド)、ピュー リタン(清教徒/イギリス)や、シンプルな家具で有名なシェーカー教徒、馬車に乗って電気を使わないアーミッシュなどもプロテスタントの一つです。現代ア メリカには米国聖公会、長老派、メソジスト教会、バプテスト教会、福音派など、さらにたくさんの宗派があります。カトリックの勢力分布はヨーロッパでは南 側のラテン系の国々中心で、加えてオーストリアと東欧の西半分、中南米諸国になり、プロテスタントはヨーロッパでは北方の国々とアメリカ、オーストラリア という ことになります。そして正教会は東欧の東半分とロシア、ギリシャなどです。面白いのは贅沢な食べ物や ファッションといった、感覚を喜ばせるものに対しての官能に許容的なのはカトリックの文化で、気候や貧しさとも関係があったにせよプロテ スタントは禁欲的だったこと、その一方で現代では人工中絶や同性愛といった性に関わることに比較的寛容なのはプ ロテスタント系の派が多く、カトリックは原則禁止であることです。


バッハのカンタータと作品番号

 バッハのカンタータは、バッハの作品の中でも最も重要な分野の一つとされており、作品目録の番号でも最初に来ています。BWV で表すこのバッハ作品番号というものは、一般的な他の作曲家の作品番号であるオーパス(op.)というのとは違っていて、バッハに特有の整理番号です。こ れを整理したのは1901年生まれのドイツの音楽学者、ウォルフガング・シューミーダーで、フランクフルト大学の図書館で音楽部門長をやっていた人です。 BWV 番号は作曲年代順ではなく、作品ジャンル別になっています。そしてその最初のジャンルがカンタータなのです。ということは、バッハ作品の中でカンタータに だけ、第何番という曲番号と BWV 番号とが一致するという特典が与えられているわけです。BWV というのは Bach-Werke-Verzeichnis(バッハ・ヴェルケ・フェアツァイヒニス)の略で、英語では Bach Works Directory、バッハ作品要覧という意味です。通し番号だけでなく、作品目録全体をも表すからです。


いつ頃作曲されたのか
 バッハの主な作曲年代区分は、18歳〜22歳のアルンシュタット時代、22歳〜23歳のミュールハウゼン時代、 23歳〜32歳のワイマール時代、32歳〜38歳のケーテン時代、そして最後の38歳〜亡くなる65歳までの時期に当たるライプツィヒ時代に分けられます が、カンタータはミュールハウゼン時代に3曲、ワイマール時代に20数曲、そして六年ほど間を空けて残りのほとんどは最後の区分であるライプツィヒ時代に 作曲されました。1706年頃から 1749年の間ということになります。ワイマール時代では宮廷楽師長に就任した1714年(29歳)から1716年 (31歳)の三年の間にほとんどの曲を書いており、ライプツィヒ時代ではトーマス・カントルに就任した1723年 (38歳)から四年間ぐらいで大半のカンタータを作っています。管弦楽や室内楽作品の多くが作曲されたケーテン時代にはいくつかの世俗カンタータを除いて 作曲されませんでしたが、それはケーテン侯レオポルトが宗教音楽に自由を認めなかったカルヴァン派*の信者だったからです。侯というのは領土を支配する封 建君主のことです。その後レオポルトは音楽の好きでない奥さんをもらい、バッハはライプツィヒに移って聖トーマス教会のカントールに就任しました。カン トールというのは、同教会の合唱団の指導と教会音楽の監督を行い、付属の小学校の先生も兼任するという、ライプツィヒ市の音楽監督のような立場です。そし てこの時期にカンタータ以外にもヨハネ受難曲(1724)、マタイ受難曲 (1727)、ミサ曲ロ短調(1749)、などを含むバッハの重要な宗教作品が生み出されて行きました。

*ルターと同じ頃のスイス・チューリヒの宗教改革者、ツヴィングリの流れを汲むもので、ジュネーヴのフラ ンス人亡命者であったジャン・カルヴァンの一派であり、ルターとは少し考え方が違います。改革派、長老派などが ありますが、神は救済する者と滅ぶ者を予め決めており、どちらに属するかは本人の努力とは関係がないという「予定説」で有名です。西ヨーロッパ、アメリカに広がりました。当時のドイツにはルター派もカルヴァン派もいました。


カンタータは何曲あるのか? 
 BWV 番号では教会カンタータが200番まで、世俗カンタータが217番までありますが、派生作品で番号末尾に a や b が付いたり偽作があったりして数え方が厄介で、実際の数は教会カンタータは190曲前後、世俗カンタータは20曲弱ということになるようです。世俗カン タータには教会カンタータの歌詞を変えただけのものも存在します。宗教曲としては他にモテット、ミサ曲、マニフィカト、受難曲、オラトリオなどが数曲ずつ あります。


カンタータの全集(CD)
 まず、カンタータを全曲聞きたい、あるいは全集で欲しいという方もおられるでしょう。今までに全集録音を完成させた演奏者は以下の通りです。この中には 厳密な全曲録音とは言えないものもありますし、ルッツは現在進行中です。リリングを除いて古楽器による演奏です。

*ヘルムート・リリング
シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム / ヘンスラー / 71枚 / 1969〜1985年

ニコラウス・アーノンクール & グスタフ・レオンハルト
コンチェントゥス・ムジクス・ウィーン / レオンハルト・コンソート / テルデック / 60枚
/ 1971〜1989年

ピーター・ヤン・ルーシンク
ネザーランド・バッハ・コレギウム / ブリリアント・クラシクス / 50枚 / 1999〜2000年

トン・コープマン
アムステルダム・バロック・オーケストラ / エラート / 67枚 / 1994〜2003年

鈴木雅明
バッハ・コレギウム・ジャパン / BIS / 55枚(SACDハイブリッド)/ 1995〜2013年

ジョン・エリオット・ガーディナー
イングリッシュ・バロック・ソロイスツ / モンテヴェルディ合唱団 / ソリ・デオ・グロリア(含アルヒーフ)
/ 56枚 / 1999〜2000年(29/106/118/119/120/157/193/195/196/197番を除く)

ルドルフ・ルッツ
J.S. バッハ財団管弦楽団・合唱団 / ザンクト・ガレン J.S. バッハ・スティフトゥンク(自主レーベル)
/ 2007〜


全集の個性について
 全集演奏ごとのおおまかな印象としては、まずリリングは こうした企画の最初のものとして意義深い演奏です。ピリオド楽器を用いませんが、それだからこそとも言えるような丁寧さでよく歌い、しかもつながったス ラーで息苦しくなったりもしません。この時代の演奏流儀の良いところを感じさせてくれ、正統派という言葉を使いたくなるもので、曲の内容によく共感してい ると思います。独唱者たちも古楽唱法ではありません。

 古楽器による最初の企画であるアーノンクールレオンハルトの ものは、盤によって違いがあるのは当然ながら、 やや角ばったフレージングとはっきりとしたピリオド奏法のアクセントのものが含まれているように思います。やわらかく語尾を延ばしたりしない表現様式で す。特にアーノンクールにはそういう傾向があるように感じられ、レオンハルトはより自然体と言えるかもしれません。そこにバッハの格調の高さや厳しさを見 る方には最高の演奏だと思います。伝統に則ってボーイソプラノと少年合唱によるところにも特徴があります。また、レオンハルトの盤は器楽のソロイストが豪 華だっ たりします。
 
 ルーシンクも少年合唱ですが、ブリリアント・レーベルということもあって大変求めやすい価格で手に入ります。ソロイストにはルース・ホルトンなど、一流の女声のソプラノが起用されたりします。特に古楽的な癖のない歌わせ方に好感が持てます。

 コープマンはエラート・レーベルの問題で一時立ち消 えになりかかりましたが、新レーベルで持ちこたえ、全集として揃っています。優しさと共感に満ちてよく歌い、明るい叙情性があって洗練されています。穏や かであると同時に深い情感も感じさせる名演だと思います。面白いのは、管弦楽曲などでは同じ頃のガーディナー、ピノック、ホグウッド、アーノンクールその 他の古楽器演奏者たちよりもフレーズを短く切って素早くあっさりと行く感じが少ないように思え、きれいに歌うところがあるなという印象でしたが、このバッ ハのカンタータ全集でも演奏の方向は同じでありながら、他のものと比較するとあっさり切ったリズムやほどほど速めのテンポをとる演奏もありました。とくに ガーディナーが全集を出した頃にはゆったりと歌うマナーに変わってきたことや、全体に遅めのテンポを取ることが多い鈴木盤も出ているため、 余計にそう感じるのかもしれません。しかし生き生きとした立体感という点では鈴木盤をしのいでいると言えるかもしれません。歌手陣は好みの問題ですが、豪 華な顔ぶれです。後期の一部ながらサンドリーヌ・ピオーもいるし、テノールのゲルト・ テュルク、バスのクラウス・メルテンスなども歌っています。あの孤高のカウンター・テナー、アンドレアス・ショルの登場する盤もあります。CD の分割は作曲年代によっています。

 鈴木盤は素晴らしい独唱者たちが集まっているという 印象です。初期は日本の人たちが歌っており、鈴木美登利、柳沢亜紀らのソプラノは大変きれいな声でその曲の一番というものがありますし、カウンター・テ ナーにはやわらかく漂うような女声的な高音の米良美一がいます。そして録音が進んで行くにつれて評判が轟いたのか、はたまた企画者の手腕発揮か、その後世 界中から魅力的なソロイストたちを集めることができたようで、ソプラノはキャロリン・サンプソン、ジョアン・ラン、ミア・パーション、ハナ・ブラシコ ヴァ、レイチェル・ニコルズらがずらりと並んでいます。アルトとしてはカウンター・テナーのロビン・ブレイズがやさしく澄んだ声で安定した歌唱を聞かせて くれ、ショルを除いてこの人が歌うと他に目が行かなくなりがちです。透明で落ち着いたテノール のゲルト・テュルクもこのパートのベストの一人だし、初期から参加しているバスのペーター・コーイにも同じことが言え、上品な深みのある声で魅了します。 管弦楽の解釈では105番の終わりなど、他を圧倒するように思える曲もありました。ものによってはあっさりし過ぎるように感じたりやや平坦に聞こえる瞬間 もあったりしますが、それは他の演奏者にもばらつきがあるので同じことです。全体には日本的淡白とも言えるかもしれませんが、鈴木雅明の師がコープマンだ からかどうか、やわらかく抑揚をつけて歌わせる部分も聞こえます。以前平均率でやってみましたが、チェンバロ曲でコープマンと比較してみるのも面白いかも しれません。真っ直ぐで作為がなく、表現がスタティックなときがある分静かなところでの美しさに秀でていて心に響きますし、どの曲も安心して聞いていられ ます。自国のものだからと褒める気はさらさらないですが、今や世界水準で評価されており、反対に日本の団体だからと低く見る人がいたら偏見というもので す。テンポは他より若干ゆったりめのものが多く、たまにガーディナーと逆転するぐらいでしょうか。ロングトーンで盛り上げる抑揚以外にあまり一頃の古楽器 奏法の癖を感じさせません。収録場所の残響が豊かなのも美点です。一つどうかなと思うのは、全集では SACD ハイブリッドにしていることです。フォーマットとしてはワイドレンジでサンプリングが細かいので有利ですが、オーディオ装置一般に言えることとして色付け の少ないものを探すのは至難であり、数の多い CD プレーヤーの方が選択肢が広いのが現状です。もっと安い CD でも出してくれたらうれしい気がします。曲の分割は作曲年代によります。
 
 ガーディナー盤にはこれでないと、と思える美しい演奏がいくつもあります。意外だったのはこの人の変貌ぶりです。というか、色々な面を良く知らなかっただけかもしれませんが、学究的な人で、
昔はこ ざっぱりと端正だった印象であり、それが特徴の無さに聞こえたり救いだったりしながら、ときに微細な抑揚に感心することもあったりという感じでした。その 後殻を破るようにはじけて一度びっくりさせられ、そしてこのカンタータ集ではまた違った位相が見えました。大変真摯です。しかも深い感情的共感を示す歌が 聞かれるようになったのがうれしい驚きです。そういうところでは古楽器演奏の定番だった速めのテンポ設定にも縛られなくなり、じっくりと歌ってくれます。 ヘレヴェッへや鈴木盤に期待するような歌謡性が、どうかするとそれ以上に満足させられるのです。独唱者も良い人を揃え、特にソプラノのキャサリン・フーグ には圧倒的名歌唱があります。ジャケットは一枚ずつが主に非ヨーロッパ圏の人々の民族衣装姿のポートレートですが、99年のクリスマスから翌年の大晦日ま での一年間、ドイツ、イギリス、イタリアなどのヨーロッパ諸国とアメリカに限定して週末ごとに巡礼して録音したものです。いろんなところでセッティングし たにもかかわらず録音も安定して良く、弦の音も明るく繊細で大変美しいと思います。全曲入った全集でないのは上記の通りですが、これ以外に単独で106と 118番はすでに出していました。全集とその前に録音したものとが両方ある曲も存在します。CD の分割は教会暦の行事によるものです。

 ルッツ盤は新しい企画で、スイスのキーボード奏者で 研究者・指揮者のルドルフ・ルッツが全集を目指して録音進行中のものです。テンポは若干速めに統一された印象ながら、一頃の短くフレーズを切る古楽奏法で はなく、滑らかによく歌わせ、生き生きとした躍動感を感じさせるもので、人数の多くない透明度の高い演奏だと思います。


カンタータをたくさん録音している演奏者
 これ以外に、全集という規模ではないものの、何枚ものカンタータを録音している演奏者もいます。

 フィリップ・ヘレヴェッヘ/コレギウム・ヴォカーレ・ゲントは魅力的な曲をたくさんリリースしています。特徴は古楽器演奏の尖ったアクセントを用いず、自然な美しい抑揚で歌わせることを目指した最初の世代の古楽演奏 だと言って良いでしょう。響きの純粋な合唱団を活かし、マタイ受難曲などでは物語的ではなく、純粋に音響的な意味で洗練されていました。表現は飾らずにさ らっと行くところとたっぷり歌うところの両面がありますが、常に適度なニュートラルで、極端な感情移入に陥りません。バッハを崇める姿勢においてもあまり ひいき目にならないようなところがあると思います。バッハを敬愛してやまない感じがするコープマン、おそらく同じであろう鈴木、どこか宗教的な打ち込みよ うを感じさせる最近のガーディナーのなかにあっても独特のバランス感覚を保ち、大変美しいという印象です。アルバム内容も実力ナンバーワンのカウンター・ テナー、アンドレアス・ショルの歌うアルト集があったり、独自のカップリングでうならせるものがあったりして目が離せません。ショル以外でもソロイストは 豪華で、ソプラノにシビッラ・ルーベンス、ドロシー・ミールズ、鈴木盤で歌っているバスのペーター・コーイもいます。 CD はずっとハルモニア・ムンディ・フランスから出していましたが、最近は自身のレーベル、フィーからのリリースに切り替わっています。それにともなって歌手 陣にも変化がありました。
 ヘレヴェッへが今までに録音したものをざっと数えてみましたが、次の通りでした。現在も進行中であり、漏れがあるかもしれません:
第2/8/11/12/20/21/22/23/25/27/29/35/36/38/39/42/43
/44/46/48/54/56/57/61/62/63/66/73/75/78/80/82/84
/91/93/95/105/107/109/110/119/120/121/122/125/127
/131/133/138/158/159/161/170/176/198/207/214番

 ジキスワルト・クイケン/ラ・プティット・バンドは 教会暦の行事ごとの選曲で18枚分のセットを出していますが、 ジョシュア・リフキンが提唱した OVPP(One Voice Per Part)という各声部一人だけで演奏する少人数のやり方で録音しています。

 フランスのチェリストで指揮者のクリストフ・コワンは ナイーヴ・レーベルからリモージュ・バロック・アンサンブルと何枚かまとめて出しています。

 古いところではバッハがカントールを務めていたライプツィヒの聖トーマス教会合唱団によるものがあり、アルヒーフから80番と140番の LP が出ていたエルハルト・マウエルスベルガーの盤も含まれた10枚のボックス・セットを持っていますが、これも正統という考えを抜きにしても味わいがありました。

 そしてバッハの権威だったカール・リヒターのものも定番として大変な人気を誇ってきましたが、今でもこれが一番という方もおられるようです。トーマス教会合唱団とリヒターはともにピリオド楽器ではありません。

 選集が出ているヘレヴェッヘと何曲か欠けているガーディナーに、コープマン、鈴木のどれをとっても、歌手の好みで違いが出るぐらいで、録音も良く、甲乙 つけがたい名演揃いです。カンタータを一枚ごとに論評するなんて意味を失ってしまう時代なのかもしれません。全曲買うなんて経済的優先事項じゃないという 方のためにこの記事を書いたつもりですが、好みの全集をとりあえず買っておくというのも一つの手でしょう。私など、買って安心して棚の肥やしにすることもありますが、そういう場合は聞くより他に楽しいことがあるのですから、むしろいいことに違いありません。
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 さて、以上が概説です。ここからは、一枚丸ごと楽しめる上手にまとまった CD をまず六枚取り上げ、次にカップリングはともかくその曲は名曲だというものを一曲ずつ CD とともにご紹介し、最後に一つの楽章が素晴らしいというものをピックアップして、他に気づいたことも加えて触れることにします。
 まずは一枚にいい曲ばかりぎゅっと詰まって演奏も素晴らしいというレア・ケースです。



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      Bach Cantatas Vol.3
      Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen, BWV 12
      Widerstehe doch der Sünde, BWV 54
      Ach! ich sehe, itzt, da ich zur Hochzeit gehe, BWV 162
      Himmelskönig, sei willkommen, BWV182
      Yumiko Kurisu (S)   Yoshikazu Mera (C-T)   Makoto Sakurada (T)   Peter Kooy (B)
      Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.3
第12番「泣き、嘆き、悲しみ、おののき」BWV12
第54番「罪に抗せよ(ただ罪に抗しなさい)」BWV54
第162番「ああ、今やわれ婚礼の宴に行かんとして(ああ、そうだ、今結婚式に行くときだ)」BWV162
第182番「天の王よ、よくぞ来ませり(天の王よ、ようこそいらっしゃいました)」BWV182
栗栖由美子(ソプラノ)/ 米良美一(カウンター・テノール)
櫻田亮(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 まず最初は日本のエースからです。といっても五輪報道の熱も愛国心教育のアイディアもよく分かりませんが、良いものは良いので取り上げます。鈴木雅明の この盤、全集の Vol.3 は演奏も素晴らしいし、音響も良いし、何よりもきれいな曲揃いの選曲です。とはいえ、作曲時期によって選ばれたわけで、選曲というのは語弊があるかもしれ ません。ベスト盤でもないのにたまたま一枚にまとまった曲たちがぎゅっと凝縮されている珍しい例です。印象的なアリアが多く、まるで全部が一続きのようで す。この団体のバッハ全集の中では最初の方に入る古い録音で、それはバッハのカンタータの最初の頃であるワイマール時代の曲を集めたものです。バッハは若 いときにはきれいな曲を書く傾向があったと言えるかもしれません。きれいというのは印象的なメロディー・ラインがあって、ちょっとロマンティックな響きが 聞けるということです。後年のライプツィヒ時代の作品には意外なコードで終わったり、調性が変化して行くかのような複雑さなど、熟練の技術を思わせる傑作 が出てきます。ただ、必ずしもその方が優れているというわけではないと思います。有名な平均律クラヴィア曲集は1巻がケーテン時代の37歳頃に書かれ、2 巻はライプツィヒ時代の57歳頃の成立ですが、どちらが優れているということは言えないながら、巷で流れたり映像媒体の後ろで使われたりするのは圧倒的に 1巻の方です。その曲調の変化に相似して、ワイマール時代のカンタータも分りやすい旋律線を持ったものが多く、特に憂いを含んだ短調の曲は叙情的で、とき に情熱的です。

 演奏は文句なく美しいです。独唱者たちは初期の録音になるので、落ち着きと深みのある名バス、ペーター・コーイを除いて日本の人たちが中心ですが、発音 がどうこういうような聞き方はできませんので、どの人も上手だと思います。カウンター・テナーの米良はジブリのアニメ映画で歌い、その後公私ともに有名に なりました。女性的でやわらかく漂うような高音が美しいと思います。低音側でのつくり声的な響きにギャップを感じる場合もありますが、この人が一番だと感 じる曲はいくつかありました。熱心なファンが言うような意味では褒めようという感覚はむしろない方ですが、12番のアリアでは安定しており、他を聞いても 納得できるものはありませんでした。ただ、質が違うので比べるのも気の毒ながら、54番については後で紹介するアンドレアス・ショルの歌唱がやはり圧倒的 だと思いました。

 12番は人気のある短調の曲で、名曲を数えるときに 決して外されることがありません。出だしのシンフォニアの哀切なオーボエから心を捉えられ、続いて張り詰めた空気を感じる合唱があり、アルトのアリアも美 しいです。コラールもレチタティーヴォですら美しく、全編隙のない完成度の高さは一番人気の82番と比較して勝るとも劣りません。バッハ29歳のときの作 品で、四月の半ば過ぎ、復活祭後第三日曜日の礼拝のために書かれました。この日に読まれるヨハネの福音書などの聖句からとられた歌詞は、ワイマール宮の作 詞家でこの頃バッハに詩を提供していたザロモン・フランクの手になるものです。
 少し丁寧に内容を見てみましょう。澄んで張りつめた二曲目のコラールは:
「泣き、嘆き、悲しみ、おののき、不安と苦悩は、イエスの徴を帯びるキリスト者の涙のパンである」と力強く歌います。

 続く三曲目のアルトのレチタティーヴォは:
「われらは苦難を通って神の国へ到らねばならぬ」です。

 四曲目はオーボエに導かれる最も美しいアルトのアリアですが:
「十字架と王冠は一つに縛られている。苦闘と宝は一つに結ばれている。キリスト者は常に苦しみと敵を持つ。しかしキリストの傷は彼らの慰めである」と歌 い、心理学的な見方をすれば、霊的成長の錬金術において苦の果たす役割を示しているとも言えるでしょう。

 五曲目のアリアはバスで:
「私はキリストに従う。彼から離れたいとは思わない。繁栄にあっても逆境にあっても、生においても死においても、キリストの辱めに口づけし、彼の十字架を抱きしめたいと願う。私はキリストに従う。彼から離れたいとは思わない」です。

 六曲目はトランペットを伴う静かなテノールのアリアです:
「信仰深くあれ。すべての痛みはとるに足らぬこととなるだろう。雨上がりには祝福の花が咲き、すべての嵐は過ぎ去る。信仰深くあれ、信仰深くあれ!」

 そして終曲、晴れやかな七曲目のコラールは:
「神の御業、それは善き御業。そこに留まろう。荒れた道にあって、困難と死、そして逆境に弄ばれるかもしれない。それでも神はまさに父のように、私をその 腕に抱いてくださるだろう。だから私は彼を唯一の統治者とするのだ」と締め括ります。

 54番は短い三曲で、三位一体節後第七日曜日用。晴れやかで生き生きとした出だしのアリアが印象的です。歌詞は:
「罪にしっかりと立ち向かえ、さもなくばその毒はあなたを捉える。神の栄光を汚そうとするサタンに目をくらまされてはいけない。それは死に導く原因となろう」です。

 162番は三位一体節後第二十日曜日用で、超有名曲というわけではないかもしれませんが、やさしく懐かしさを覚えるような出だしで全体に牧歌的であり、きれいなメロディーが多く含まれる大変魅力的なものです。中でも三番目のソプラノのアリアはメロディアスです。歌詞は:
「イエス、恩寵の泉がこの貧しい客である私に施してくださる。あなたが私を招いてくださった! 私は疲れて弱く、重荷を負っている。ああ、わが魂に命を吹 き込んでください。ああ、どれほどあなたを切望していたことでしょう! 命のパン、それは私が選ぶもの。来て、あなた自身と私を結んでください」と歌われ ます。
 関連する聖句としてマタイによる福音書にある、神の国に関する解釈の難しいイエスの喩え話、王が王子の結婚披露宴に招待客を呼ぶ話が使われているから 「招かれた」とあるのです。したがって他の曲には「天国の王が人間を招集した偉大な結婚式の祝宴で、生と死、天国の輝きと地獄の炎が共にあるのが見えた、 イエスよ耐えさせたまえ」や、「キリストはこの取るに足らない人間性と結婚すべきなのか?」という文言も見られます。

 182番は12番同様29歳のとき、ワイマール時代 最初の作品で、よく演奏される曲です。棕櫚の日曜日用に作られた唯一の曲ですが、それは復活祭の一週前で、イエスが死の直前にエルサレムにやって来た「エ ルサレム入城」という出来事を思い出す日です。棕櫚の日曜というのはプロテスタントの呼び名ですが、カトリック、正教会でも同じように木の枝を手に持って 祝います。それはその日に群衆がナツメヤシの枝を持ってイエスを迎えたとされるからです。ピツィカートで始まる印象的な前奏からして一度聞いたら忘れない メロディーです。磔になる一週間前、イエスはロバに乗ってエルサレムに入りました。ヴァイオリンとフルートで奏でられるこの部分はその様子を描いています。
 その後イエスは「宮清め」といって神の神殿の中で商売をしている人たちを罵り、手荒に追い出します。覚者が他者批判や器物損壊の行動に出ることは、ペト ロが刀で人の耳を切り落としたのと同様に困惑する出来事ですが、本当にそういう事実があったとするなら、ユダヤ教徒に自分を殺させるためだったのかもしれ ません。購いの死に頼ることが他力に当たるのかどうかは分かりませんが、そうやって予言を成就させ、死をもって人類の罪の贖いを実現させるための愛の行為 なのでしょう。その歯車となったイスカリオテのユダの魂も、同じ愛によってパリサイ人とともに許されるのでしょうか。
 五曲目のアルト/カウンター・テナーのアリアはこの曲の白眉です。少しためらうような物悲しいリコーダーのオブリガート(独唱部を際立たさるために競っ て奏でられる器楽の伴奏)から印象的で、それに乗って静かでしみ通るような歌が続きます。歌詞は:
「キリスト者の心をもつあなたがた、救い主に従いなさい。その方にふさわしい信仰の汚れなき衣をまとい、あなたがたの身も命も持ち物も、今王に捧げるのです」というもので、その各フレーズが何度も繰り返しながら歌われて行きます。 54番ではショルのことに触れましたが、なんだかんだ言ってこの曲では米良美一が落ち着いて歌うこの鈴木盤がベストかもしれません。

 1996年録音で、全集録音企画が始まった翌年のものですが、使っている神戸松蔭女子学院大学チャペルの残響も良く、録音も良くて隅々まで美しい響きです。全集が出て SACD にリマスターされてからは旧来のものは廃盤になるのかもしれませんが、CD で十分美しい音です。



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       Cantatas pour alto
      
Vergnügte Ruh, beliebte Seelenlust, BWV 170
       Widerstehe doch der S
ünde, BWV 54
       Geist und Seele wired verwirret, BWV 35
       Andreas Scholl (C-T)  
       Philippe Herreweghe    Collegium Vocale Gent


バッハ / カンタータ・フォー・アルト
第170番「満ち足りた安らぎ、魂の喜び」BWV170
第54番「罪に抗せよ(ただ罪に抗しなさい)」BWV54
第35番「心も魂も驚き惑い」BWV35
アンドレアス・ショル(カウンター・テノール)/ マルセル・ポンセール(オーボエ)
フィリップ・ヘレヴェッヘ / コレギウム・ヴォカーレ・ゲント

 次に、上記の盤に入っていた第54番のカンタータを歌っているカウンター・テナーのベストな歌唱だと思うものを取り上げます。この人については独立して別のページを設けていますが(「ショルという天才」)、アンドレアス・ショルによるものです。中性的な声質ながらどの音域も安定して伸びがあり、他の人が下手とかいう問題ではなく、この人が上手なのです。しかもこの盤、なかなかいい曲揃いです。同じ時期に作曲された35、169、170ではなく、169の代わりにワイマール時代の54番が組み合わされています。54番と35番は単独で論議されるほどではない佳曲でしょうから名曲揃いとまでは言いませんが、アルバム全体を通しで聞いていて満足できます。そしてショルのためのアルバムのようなものですから、どの部分の演奏も申し分なく、バックのヘレヴェッヘもいつもながら完璧です。フォー・アルトとなっていることで分かるように、アル トの歌う音域ですが、男声のカウンター・テナーも同じ音域なので両方の歌唱があり得るわけです。どちらがいいかは好みの問題ですが、古楽演奏団体はカウンター・テナーを採用することが多いようです。歌手にもよることながら、太い声で半音にも届こうかというビブラートで迫って来るオペラ寄りの伝統的な女声は、ときに魔界からの誘惑とでもいうか、ユングの言う呑み込む母親のような怖さを感じさせるときがあって、私は宗教曲においては真っ直ぐなカウンター・テナーの方が好みです。といっても、これも男声を使う場合は当時の慣習を意識するからそうなるのであって、逆に震わせ方の派手なカウンター・テナーというのも稀には存在します。ではバロック唱法の女性アルト歌手がいるかというと、需要の問題で案外少ないかもしれません。もちろんきれいな女声のアルトは温かさがあって良いものです。 

 170番はライプツィヒ時代の割合最初の方、41歳頃の作曲で、単独でよく演奏される名曲です。録音もたくさん出ていて、このアルバムの中でも目玉でしょう。三位一体節後第六日曜日のためのものですが、歌 詞はドイツの詩人で小説家、ゲオルク・クリスティアン・レームスの作品からとられており、天国へと至るために道理にかなった生活をしたいと歌います。やさ しく包み込むように肯定的で、どこか懐かしさを覚える出だしの合奏から美しく、そこに伸びやかなカウンター・テナーが入ってきます。この部分の歌詞は:
「満ち足りた安らぎ、愛すべき魂の喜び、あなたは地獄の罪の中にではなく、天の調和の中にのみ見出される。あなたのみが弱き胸を強くしてくださる。それゆえその純粋な徳の贈り物が胸に宿りますように」というものです。
 二つあるレチタティーヴォではショルの張りと力のある声を聞けます。暗く不安な心を感じさせる三つ目のアリアも魅力的で、そこで歌われているのは:
「あなたの御心にそわないこの道を外れた心にどれほど苦しめられることか、わが神よ、身震いしてしまいます。そして無数の責めを感じます。それが復讐と憎 しみのみを喜びとするとき、おお、正義の神よ、それがその悪魔の悪巧みにひたるとき、あなたはどう考えるでしょう。それはあなたの審判における容赦のない 罰を嘲るのです。ああ、間違いなくあなたはこう考えるでしょう。道を外れた心よ、どれだけ私を悲しませるのか、と」という歌詞です。人間を試し、罰を与え る旧約聖書の神には馴染めませんが、仏教が動物への生まれ変わりや地獄を怖がらせるのと同様、自律できない人間を戒める方便なのでしょう。少なくとも、自分の迷いを自覚することは天との調和の始まりであるには違いありません。

 54番は前記の通りです。実はショル、この曲をコー プマンの全集でも歌っています。ヘレヴェッヘ盤の二年前の録音 で、三枚ずつ組になっている全集バラ売りの Vol.3 に入っています。全部で九枚になってしまいますが、コープマンの全集を頭から三つ買うというのも手かもしれません。初期のメロディアスな曲たちが揃ってい てワイマール時代のものは網羅したことになり、外れの曲が少ないのです。ヘレヴェッヘ盤と比較すると、オーケストラはピリオド楽器の弦の特徴的な演奏法で あるロングトーンの途中で持ち上げるようなボウイングが幾分はっきりし、テンポはよりゆったりしています。弦の音自体はヘレヴェッヘの方が細い倍音が良く 出ています。ショルの歌い方は、比べればヘレヴェッヘ盤での方がやや安定しているかな、という感じです。

 オルガン協奏曲で始まる35番も170番と同じ時期 に作られた曲です。合唱のないアルトのためのカンタータで、特別に叙情的なアリアが聞けるという種類ではないですが、途中にシンフォニアも挟み、オルガン が活躍します。三位一体節後第十二日曜日のために書かれ、その日の聖句に基づいています。タイトルにある「驚き惑い」というのはマルコによ る福音書に書かれている出来事のことです。デカポリス地方(ヨルダン川両岸)でのこと、連れて来られた聾唖者に 「エッファタ(開け)」とイエスが言うと、耳が聞こえ、口がきけるようになったという奇跡に皆が驚いたのです。最も印象的な二曲目のアリアで歌われている のも、その奇跡を目の当たりにして神の偉業を思い、魂が動揺したという内容です:
「わが神よ、あなたを思うとき、心(ガイスト)と魂(ゼーレ)が戸惑いの中へ投げ込まれます。彼らが知っている、そして大喜びで語るあの聾唖者に行われた奇跡によって」

 1997年のハルモニア・ムンディ・フランスの録音です。鈴木の盤も良いですが、ヘレヴェッヘの一連の録音も残響があり、大変音響が素晴らしいものです。演奏もクリアながらよくしない、歌わせています。



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       Cantatas for alto,  Bach Cantatas Vol.37
       Gott soll allein mein Herze haben, BWV 169
       Vergnügte Ruh, beliebte Seelenlust, BWV 170
       Geist und Seele wired verwirret, BWV 35      
       Bekennen will ich seinen Namen, BWV 200
       Robin Blaze (C-T)
      
Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan

バッハ / カンタータ集 Vol.37 ソロ・カンタータ〜アルト独唱のためのカンタータ集
第169番「わが心は神のみに捧げる」BWV169 
第170番「満ち足りた安らぎ、魂の喜び」BWV170
第35番「心も魂も驚き惑い」BWV35
第200番「われその名を認めん(私は彼の名を認めたい)」BWV200
ロビン・ブレイズ(カウンター・テノール)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 重複しますが、カンタータ・フォー・アルトと言えば、ショルに負けず劣らず魅力的なカウンター・テナーに鈴木盤で活躍するイギリスのロビン・ブレイズが いますが、そちらの歌唱も見事です。170番については私はショルの方が好きですが、優劣はつけませんので比べてみて欲しいと思います。透明な伸びと安定 感は負けず劣らずでありながら、透き通った強さが一番というよりも、よりやさしさとやわらかさに寄っているでしょうか。この盤は鈴木雅明の Vol.37 で、ショルの歌う上記のヘレヴェッヘ盤と同じ170盤、35番が入っており、54番がなくて、代わりに落ち着きと強さのある五曲目のアリアが魅力的な 169番、そして単独でも取り上げたい200番が聞け ます。170番が目玉なのは変わりませんが、ここでこの CD を取り上げたのは200番が あるからでもあります。曲想からそう言うのも変ですが、静かで愛らしい曲です。四分半ほどの短いアリアのみで他は失われてしまっていますが、この曲の演奏 はこの盤が好きです。マリア潔め(きよめ)の祝日用で、多くの作品が散逸してしまったもののバッハの時代にはバッハより有名だった作曲家、ゴットフリー ト・ハインリヒ・シュテルツェルの受難オラトリオ「十字架上の苦しみと死に臨む愛」の中のアリア、「あなたの十字架はわが魂の花婿」をバッハが編曲したも のということです。バッハのカンタータ、とは言えないかもしれませんが、歌詞は:
「私は彼の名を認めたい。彼は主、彼はキリスト、その名においてすべての国々の子孫が祝福され、罪を購われる。主はわが人生の光というこの確信は、死ですら奪えない」というものです。



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      Mit Fried und Freud
      Liebster Gott, wenn werd ich starben?  BWV 8   
      Mit Fried und Freud ich fahr dahin, BWV 125
      Warum betrübst du dich, mein Herz, BWV 138
      Deborah York (S)   Ingeborg Danz (A)   Mark Padmore (T)   Peter Kooy (B)
      Philippe Herreweghe    Collegium Vocale Gent

バッハ / カンタータ集「安らぎと喜びをもって」
第8番「最愛の神よ、われいつの日に死すか(最愛の神よ、私はいつ死ぬのですか)」BWV8
第125番「安らぎと歓喜もてわれは行く(安らぎと喜びをもって私は旅立つ)」BWV125
第138番「何ゆえに悲しむや、わが心(なぜ自らを苦しめるのか、わが心よ)」BWV138
デボラ・ヨーク(ソプラノ)/インゲボルク・ダンツ(アルト)
マーク・パドモア(テノール)/ペーター・コーイ(バス)
フィリップ・ヘレヴェッヘ / コレギウム・ヴォカーレ・ゲント
  引き続きヘレヴェッヘのカンタータ集の中から、通しで聞いてどの曲もいいなと思えるものを取り上げます。アルブレヒト・デューラーの名画、「祈りの手」を カバー写真にしている「安らぎと喜びをもって」というタイトルの一枚です。 この CD では死をテーマとして曲が集められていますが、三曲ともライプツィヒ時代の最初の頃のもので、バッハは38歳から40歳ぐらいでした。形式はコラール・カ ンタータと呼ばれる新しいもので、詳しい定義は専門家の方に譲りますが、ルター派の教会に集まる人々が皆で合唱する賛美歌であるコラールを一つ選び、全体 をそのコラールを元にして作るカンタータです。誰もが数える有名曲尽くしというわけではないですが、全て名曲と言っていいと思います。  

 8番は「神よ、私はいつ死ぬのですか」というタイト ルですが、三位一体節後第十六日曜日、九月の後半の教会行事に関連しています。その日に読まれる聖句にルカによる福音書の一部があります。そこには死にま つわるエピソードが書かれています。イエスが子供時代を過ごしたイスラエルのナザレの近くにナインという町がありました。そこにやって来たイエスが子を亡 くして悲しんでいる母親に会い、その亡くなった若者を生き返らせる奇跡を起こしたという話です。
 曲は出だしから魅了されますが、受容を促すかのような穏やかなオーボエ・ダモーレの旋律の後ろでフラウト・トラヴェルソが時を刻むかのような単一音のス タッカートを繰り返します。そして微かな不安とためらいが混じるようなハーモニーを経て、伸びやかな合唱が歌います:
「神よ、私はいつ死ぬのでしょうか、わが時はどんどん流れ去って行きます。アダムの末裔の一人として私はその死すべき運命を受け継いでいます。ほどなくして土に帰る哀れな運命を」
 同じくオーボエで始まり、それが伴奏としても寄り添う二曲目のバスによるアリアは切々と訴えます:
「何を怖れおののいているのだろうわが魂よ、最期の時がやってくることをか。日々肉体は土へと向かい、そして数え切れない者たちが運ばれた、そここそが安 らぎの地となるのだ。生死を超越した主よ、最後は良き終わりを与えてください。わが魂に平安のうちに手放すことを教えてください」という内容です。蘇りの ことではないですが、死をテーマとして、それを受け入れることが歌われています。そしてアリア、レチタティーヴォを繰り返して最後のコラールに至るまで特 に派手な旋律というのではないながら、ときに哀切に、ときに悩み、ラストでは安堵と確信に満たされた祈りで締め括られます。大変感動的な内容だと思いま す。

 この CD は選曲と演奏が素晴らしいので取り上げていますが、一枚にまとまっているという点を除けば死というテーマを扱いながらも軽やかで爽やかですらあり、それでいてしっとり歌うガーディナーの演奏も同じぐらい魅力的でした(Vol.8 : 138/99/51/100/161/27/8/95番)。鈴木盤もテンポはゆったりめなのにあっさりとしていて、そちらも独唱者を含めてクリーンな名演だと思います(Vol.24:8/33   /113/8異番)。
 
 125番はキャンドルマス、スペインなどのラテン語 系ではカンデラリアと呼ばれる二月二日の祝日用に作曲されました。立春の習慣とも関係があり、マリアの潔め(きよめ)の祝日とも言われます。それがどう死 に関係するかというと、聖書のルカによる福音書の物語に出てきます。イエスが生まれた後、母マリアとその夫ヨセフ(父と言わないのは、キリスト教ではイエ スの父は神様だとされるからです)は慣わしにしたがって赤子をエルサレムの神殿に連れて来て、潔めの儀式を行いました。そのとき、近くに住んでいたシメオ ンという老人がやって来て、イエスを将来の救世主と認めて賛美し、その赤子を見た今こそ、神は私を安らかに死なせてくれると歌いました。彼は予言によっ て、救い主に会うまでは死なないと言われていたからです。この死を受容するかのような歌を受けて、カンタータの方もやや悲痛ながらしめやかに短調の合唱で 始まり:
「神のご意志にしたがい、やすらぎと喜びをもって私はここより旅立つ。わが心と魂は穏やかに、静かに慰められ、神が約束してくださった通り、死が私の眠りとなる」と歌います。
 フラウト・トラヴェルソのハーモニーに乗って澄んだ声で始まる二曲目のアルトのアリアはこの曲の美しいところです:
「弱った目で私はあなたを見つめる、私の信じる救い主よ。わが肉体の骨組みが崩れてすら、心と望みは過たない。死に臨むとき、私のイエスはみとってくださる。そしてどんな痛みをも及ばないようにしてくださる」
 ビブラートはありますが力が抜けて静けさを感じさせるドイツのアルト、インゲボルク・ダンツが歌います。
 そして四曲目のテノールとバスのデュエットは楽しげながら、喜びという言葉で終わる最後のコラールも、バッハの選択は短調です。

 この曲だけを選ぶなら二曲目のアリアを優れたカウンター・テナーであるロビン・ブレイズが歌う鈴木盤もあります。 こちらは透明感のある真っ直ぐな歌唱が魅力です。Vol.32 で、組み合わせは111、123、124番です。

 138番は合唱と語りのレチタティーヴォを中心に構成されるコラール・カンタータと呼ばれるジャンルに入るものですが、美しいメロディ・ラインも聞ける作品です。すすり泣くような弦楽合奏に続いてオーボエが短調で荘重に吹き始め、合唱へとつながって行きます:
「なぜ自らに苦痛を与えるのか、わが心よ。この過ぎ行く世のために苦しみ、悲しみに耐えようというのか。朝から晩まで続くこの苦悩、神よ憐れみたまえ。し かし誰がこの邪悪な世界から私を解放してくれるのだろうか。なんとみじめな状況なのか。ああ、ただ死んでしまえたら! 主たる神を信ぜよ、この全てを創造 された神を」と歌われます。
 ライプツィヒ時代の初めに三位一体節後第十五日曜日用として作られましたが、その日の聖句から直接とったものではなく、作者不詳の詩によっています。そ の詩自体は元々は靴屋の親方だったという詩人、ハンス・ザックスの賛美歌によるということですが、他の多くの作品同様、苦悩から神への信頼へ至るという テーマを扱っています。死んでしまえたら、と歌うほどの苦悩という点で死に関連するということでしょう。
 五曲目のバスのアリアは人懐っこい出だしがすぐに耳に馴染み、メロディー・ラインがはっきりしています。軽やかな喜びに弾むように、そして力強く歌われます:
「信頼は神によって与えられる。信仰は神に統治させる。今やどんな心配も私を蝕まない。どんな困苦にあってさえ、いかなる欠乏も私を苦しめない。神はわが 父として、喜びとしてとどまり、驚くべき方法で私を支えてくださるだろう」という内容です。

 バッハは土に還るとも歌わせており、同時に解放だとも言っていますが、彼にとって死んだ後の世界とはどんなところだったのでしょうか。 よく臨死体験をした人の証言として聞かれるのは、死後の世界は一方から一方へのみ流れる時間の矢というあり方を超えていたというもので、過去も未来も同時 にあり、望めばレコードの針をなぞるようにしてどの時制にも行けるということです。どの時間にも行って来れるという言い方そのものが時間の中での移動を前 提にしているのですでに矛盾ですが、我々の知的想像力を超越した愛と許しの世界だとも聞きますから、考えても仕方のないことかもしれません。

  純化された透明感があり、繊細であると同時に力を感じさせる合唱が聞けるヘレヴェッヘのこの盤、演奏も選曲も驚くべき喜びとなるでしょう。1998年のハルモニア・ムンディ・フランスで、響きが溶け合う美しい録音です。



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     J.S. Bach  Christmas Cantatas
       Schwingt freudig euch empor, BWV 36
       Bereitet die Wege, bereitet die Bahn, BWV 132
       Nun komm, der Heiden Hailand, BWV 61
       Teri Dunn (S)  Matthew White (C-T)   John Tessier (T)   
       Steven Pitkanen (B)    Christpher Dawes (org)
       Kevin Mallon    Aradia Ensemble


バッハ / クリスマス・カンタータ集
第36番「喜び、舞い上がれ」BWV36
第132番「道を備えよ(道筋を開きなさい、道を準備しなさい)」BWV132
器楽組曲「来れ、異邦人の救い主(来てください、異邦人の救い主よ)」BWV699 & 659
第61番「来れ、異邦人の救い主(来てください、異邦人の救い主よ)」BWV61
テリ・ダン(ソプラノ)/ マシュー・ホワイト(カウンター・テノール)/ スティーヴン・ピッカネン(バス)
ジョン・テシェール(テノール)/ クリストファー・ドーズ(オルガン)
ケヴィン・マロン / アラディア・アンサンブル

 次はクリスマスに関連したものです。この CD についてはすでにクリスマスのアルバムを集めたページで取り上げたので重複しますが(「クリスマス協奏曲/コレッリとクリスマス・アルバム」)、正確に言えば クリスマスその日のためのカンタータではなく、クリスマスを待ち望む期間である待降節(アドヴェント)のためのものでした。ここでは少し細かく見て行きま しょう。
 待降節というのは教会の一年の行事を定めている教会暦による決まり事ですが、11月末に一番近い、その暦が始まる日曜日からの四週間、クリスマスまでが 待降節です。クリスマスからは降誕節になり、特にクリスマス当日の行事用のカンタータとしては別に63、91、110、191番などがあります。そしてこ の待降節の曲を集めた一枚がナクソスから出ている「クリスマス・カンタータ集」で、まるごと一枚、心が高揚する美しい曲ばかりであり、澄んだ声と小さな編 成で隅々までクリアな極上の演奏なのです。

 指揮者のケヴィン・マロンは北アイルランドのベルファスト出身で、ガーディナーに影響を受けたそうです。カナダのトロントで活躍中ですが、同地で 1999年に結成されたアラディア・アンサンブルはヴォーカルと器楽による古楽演奏団体です。彼らの演奏するカンタータは編成が小さく、各々ボーカルの パートがソロを除いて二人ずつクレジットされており、各声部一人だけで演奏する厳密な OVPP ではないようですが、ブックレットでは指揮者自身がジョシュア・リフキンやアンドリュー・パロット(OVPP派)の問題提起と、それに対立する室内楽団と 合唱団にソロという構成を主張するトン・コープマンの論議に触れており、マロンらは異なった視点から独自の スタイルにたどり着いたと述べています。それは合唱団ではなく、ソロイスト(コンチェルティスト)に他のシンガー (リピエニスト)が加わる方式がバッハの当時の慣習に近いだろうということで、曲によって工夫もあるようです。学術的にも間違いはないはずだし、その良さ は演奏を聞いてほしいと書く自信を見せていますが、いずれにせよ歌手、楽器ともに数が少なく、その音には少人数ならではの透明感があります。終わりの合唱 を静かに締めくくるところも味わいがあり、全体にそのような波長になるように配慮された演奏だと思います。
 ソロがまた皆上手で、特にソプラノのテリ・ダンという人は澄んだ声で、このアルバムを大変魅力的にしています。ビブラートは上手に使うながら少女のよう に響く声質はアンドレ・リュウの狩りのカンタータで「羊は安らかに草を食み」を歌ったイルムガルト・ジャコバイトや、コーヒー/農民カンタータに起用され た若いときのカークビーをちょっと思わせるところがあります。アルトはカウンター・テナー(バッハ・コレギウム・ジャパンでも歌ったマシュー・ホワイト) であり、テノールも真っすぐで清潔な歌い方をしていて、全体に油っこさのない独唱陣です。バロック・ヴァイオリンのソロが旋律をリードして行くところも大 変美しく響きます。 これらが相まって純化された音の世界を聞かせてくれるのです。 

 詳しい方はご存知かもしれませんが、この待降節のためのカンタータ集、実はこれ以外にも一枚にまとまったものは出ていました。ヘレヴェッヘのものとガー ディナーの盤ですが、後者は全集が出た後、92年録音の一枚ものは廃盤になっているのかもしれません。36番を2000年収録の二枚組(Vol.13/全 集と同一)の方で聞くと、このナクソス盤と比べて演奏はややリズミカルな印象で、編成から来る力強さを感じます。ソプラノはナンシー・アージェンタに代 わってこれもバッハ・コレギウム・ジャパンで歌っていたイギリス出身のジョアン・ランであり、ふわっとして澄んだ声が美しく、テリ・ダンのようにつながず に弾むような歌い方です。テンポ設定がゆったりなところもあるので間を感じさせ、区切って語るような感覚になる場合もありますが、大変きれいな歌唱です。 一方ヘレヴェッヘ盤の演奏はこちらもナクソス盤と比べると全体に元気がある印象で、場所によってはゆっくりのところもあります。ソプラノのシビッラ・ルー ベンスは低音で幾分不安定に感じる瞬間もある印象ながら高い方が澄んで伸び、時折可愛らしい声に聞こえます。男声も清潔です。両盤ともに選曲は同じで、 バッハが待降節第一日のために作った36、61、62番という組み合わせです。 ナクソス盤の方は62番の代わりに第四日用の132番と器楽曲を入れている違いがあるのですが、個人的にはそちらの組み合わせの方が好きなのでここでも取 り上げています。61番と62番は同じ日用で、テキストも同じなのでタイトルも同一ですが、作曲時期が十年違い、61番がワイマール時代、62番がその後 のライプツィヒ時代の作です。前述しましたが、ワイマール時代の作品にはメロディアスな曲が結構あり、この二曲もどちらが傑作かは主観によるでしょうが、 名曲として数えられる機会が多いのは61番のようです。

 36番はライプツィヒ時代の作で、大学の先生の誕生日祝いとして書かれた世俗カンタータで末尾に c が付いた BWV36c として分類される同名の曲に手を加えたものです。歌詞もよく似たものですが、語句は変えてあります。最初の合唱は:
「高き星まで喜び昇れ。今やあなたの言葉は喜びの波長でシオンまで響いている。しかし待て、その声をそこまで遠くに響かせる必要はない。なぜなら栄光の主 であるその方ご自身の方で、あなたのそばへと近づいて来てくださっているからである」と歌われ、イエスのエルサレム入城時に群衆がホザンナを高らかに唱和 したということでもあるのでしょうが、 近づくクリスマスを祝おうという気分が盛り上がります。教会暦の最初の日、待降節第一日曜日のための曲です。テノー ルのアリアは短調ながらやさしく:
「愛は彼の最愛の者たちにやさしく、そっと近づく。ちょうど花嫁が花婿を見て喜ぶように、心もイエスに従う」と歌います。
 また、ヴァイオリンの音の心地よい響きで始まるソプラノのアリアも高揚した美しいもので、歌詞は:
「抑えられた弱い声ですら神の尊厳は讃えられる。なぜなら、ただ魂に響くだけのものであってさえ、天国で聞く彼その人にとっては叫びとなるからである」と なっています。ここの真っ直ぐな歌い方がまたいいです。最後のコラールも感動的で、途中にアーメンの繰り返しを挟み、下降音型で肯定的に締めくくられるあ り方は140番を引き合いに出さずとも、バッハの数ある終曲コラールの傑作パターンと言っていいでしょう。
 しかし他の演奏で馴染んでいる人には不思議に聞こえるかもしれません。というのもこの曲の現存する楽譜は二種類あり、ここではバッハの弟子であるヨハ ン・フィリップ・キルンベルガーの手になる初期の版を用いているからです。したがって八曲で構成されるガーディナーらの一般的な版から見れば二、四、六番 目のコラールが抜けており、終曲のコラールは第1番「
明けの明星のなんと美しく輝くことか」 (BWV1)のものになっています。これは抜かした四番目のコラールと同じ曲ながら歌詞が異なるもので、後のバージョンでは終曲から中ほどへと差し替えら れ、歌詞も変えられたのです。ここで演奏されている初期の版はきれいなアリアばかり続くことになるので音楽的には私はこちらの方が好きです。こういう選択 をするところに、この指揮者の洗練された感覚も表れていると思います。 

 オーボエと弦楽による軽い出だしの132番は弾むよ うなソプラノのアリアで始まります。ワイマール時代の作で、待 降節の四週目に入った日曜日用です。待降節は字の通りクリスマスを待ち望む期間と書きましたが、クリスマスに向けて 心のあり方も含めて準備する期間、ということになります。したがってここでのタイトル、「道を備えよ」というのも心 を清めてクリスマスの準備をせよ、ということなのです。最初に歌われるのは:
「道を備えよ、救い主がやって来る。信仰と生き方によって準備し、いと高き方のためにその道の敷石を平らに滑らかに せよ」です。
 五曲目のアルトのアリアは最も美しいところで、真っ直ぐで深みと力のあるカウンター・テナーのマシュー・ホワイト の歌唱が光ります。バロック・ヴァイオリンの美しい響きに導かれ:
「キリスト者よ、バプティズム(洗礼)の清き水浴によって、救い主が何を授けてくださったかを考えよ。血と水の泉に より、罪で汚れたあなたがたの衣は輝く。キリストは新しい衣をくださった。深紅(紫)のローブ、白い絹、これらがキ リスト者の衣である」と歌われます。

 二曲目が終わると指揮者のケヴィン・マロンの編曲によるオルガン・コラール BWV699と659 の器楽版が、ルネサンス舞曲の静かな弦楽序奏のようにしっとりと始まります。ここは次の曲の導入になっていて、両オルガン曲とも同じ古いラテン語の聖歌 「来れ、異邦人の救い主」をモチーフにしたものです。最初は 699 の方で、それがオーボエに引き継がれ、それから 659 になります。この後ろの部分はテンポは速いながらも、出だしがバーバーの弦楽のためのアダージョにもちょっと雰囲気が似て聞こえる内省的な弦となって歌わ れます。上手な構成で編曲者のセンスの良さを感じます。 

 そしてその続きのようにワイマール時代の傑作、第61番が 来ます。これもアドヴェント初日用、クリスマスの準備の歌です。冒頭ではフランスの王宮で王が入場するとき用にリュリが作曲した序曲の形式が使われてい る、ということがよく言われますが、この部分では歌詞でキリストに「さあ、来てください」と呼びかけているので、王様来てください、の音楽が使われたので しょう。キリストは天の王と呼ばれるからです。因みにフランス王というのは太陽王ルイ14世のことで、リュリはそのお抱え音楽家であり、権力を手にして敵 が多かったと言われる人です。そしてそこから続く最初のコラールは前の器楽曲に使われたのと同じコラールのモチーフを土台にしています。その元を作ったと いう説があるのはグレゴリオ聖歌と並んで有名なアンブロジオ聖歌の作者とされるアンブロジウスです。ミラノの人ですが、その聖歌を宗教改革のルターがラテ ン語からドイツ語に翻訳してコラールにした、「来れ、異邦人の救い主」がベースとなっているのです。待降節の中心的な賛美歌で、このカンタータの歌詞はそ こからとられています。

 さて、タイトルの「異邦人(Heide/Heiden-)の救い主」とは何でしょうか。英語で heathen と訳されるとユダヤ教徒から見た異教徒のことです。gentile だとユダヤ人にとってのキリスト教徒、もしくは非ユダヤ人の意味になります。ドイツ語には原野と不信心者の意味があるようですが、ベツレヘム生まれのイエ スは母マリアがユダヤ教徒のユダヤ人でした。それでは救われる側が異邦人なのでしょうか。元々旧約聖書の神はユダヤ人の神でした。エジプトで奴隷だったユ ダヤ人が紅海を割って逃げて来た後、シナイ山に登って引率者のモーゼが神から啓示を受けたのが「十戒」で、「汝殺すなかれ、姦淫するなかれ」などの文言が ラピス・ラズリの石板に刻まれたとされます。その後そこに含まれなかった細則がローカルな「律法」(法律書)となり、ユダヤの人たちは厳格に守ってきまし た。余談ながら姦淫(かんいん)とは既婚者の婚外交渉のことで、淫行となるともっと広い意味になって婚前交渉も含まれますから、厳格に守ったら現代のキリ スト教社会は成り立たなくなってしまうことでしょう。しかしキリスト以降、新約聖書の時代になって事情が変わったのです。キリスト自身が人類の罪を背負っ て死ぬことで人々の罪が許され、その結果律法は厳格でなくなったというわけです。そして救済はユダヤ/イスラエル人以外の異邦人にも及ぶようになり、キリ スト教は世界に広がって行きました。

 ちょっと脱線しましたが、異邦人の語句が出てくる最初の歌詞は:
「さあ、来てください、異邦人の救い主よ。処女の子として知られ、世界を驚嘆させる方。神がそのように生まれると定められた方」というものです。序曲の合唱の部分です。
 五番目のソプラノのやさしいアリアがまた美しいです:
「開け、わが心のすべてを。私は塵と土でできた者に過ぎませんが、イエスは来て入ってくださいます。私を蔑まず、私のなかに喜びを見出してくださいます。 そのようにして私は彼の住処となるのです。おお、私はなんと幸せなことでしょう!」
 処女懐胎のことを言っているのなら、生々しいエクスタシー表現のようで夫ヨセフにすれば複雑な心持ちでしょうが、キリストを象徴的に罪(自我)を贖われ た覚醒意識の到来と捉えるなら、解放された境地ともとれます。テリ・ダンの透き通った声が魅せる、清らかな官能に浸る至福のときです。      

 録音は2000年、ほどよい残響に溶けるような音響で、空間に静けさが染みるようです。



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Legendary Recordings Thomanerchor Leipzig

      
Wachet auf, ruft uns die Stimme, BWV 140
       Ein feste Burg ist unser Gott, BWV 80
       Ich armer Mensch, ich Sündenknecht, BWV55
       Agnes Giebel (S)   Hertha Töpper (A)   Peter Schreier (T)   Theo Adam (B)
      
Erhard Mauersberger
       Thomanerchor Leipzig    Mitglieder des Gewandhausorchesters Leipzig

       Other 9 CDs
       Johannes Passion 245/59/51:   Günther Ramin
       Magnificat243/54/82/56/Motetten225-230 :  Kurt Thomas
       18/62/78 :   Erhard Mauersberger
       137/21/106/31/66/172/68/1:   Hans-Joachim Rotzsch
       Berlin Classics  10CD edel classics  0183942BC 2005


バッハ / カンタータ
第140番「目覚めよとわれに呼ぶ声あり(目覚めなさい、その声が私たちに告げる)」
第80番「われらが神は堅き砦(とりで)(無敵の砦は私たちの神である)」
第55番「われ哀れなる人間、罪に仕える者(私は情けない人間、罪の召使い)」
アグネス・ギーベル(ソプラノ)/ ヘルタ・テッパー(アルト)
ペーター・シュライアー(テノール)/ テオ・アダム(バス)
エルハルト・マウエルスベルガー

ラ イプツィヒ・トーマス教会聖歌隊 / ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団メンバー
レジェンダリー・レコーディングス・ボックス10CD 〜

 バッハのカンタータの中で間違いなく五本の指に入る名作と言われているものに、第
140番があります。前述コラール・カンタータの形式であり、アリアが 前面に出て独唱者がきれいなメロディーを歌うのが魅力という種類ではないながら、三曲目にはデュエットの美しいアリアもあります。奥の方からじわっとこみ 上げてくる感激というか、落ち着きと肯定的な波長を感じます。最も有名な旋律は四曲目のコラールで、独立してよく演奏されます。ここと最初の合唱が特に知られていますが、三曲目と締めくくりのコラールも大変魅力的です。
 1731年に初演されたということなのでバッハが46歳の頃、ライプツィヒ時代としても作品ラッシュの時期が終わった後、カンタータの中ではかなり後期の作品になります。  

 このカンタータの解説でよく触れられるのは、四年に一度の閏(うるう)年のように、珍しいときの行事用に作られたということです。どういうことかという と、教会の一年の行事を決めている教会暦は毎年変動します。初まりも一定しないのですが、復活祭(イースター)から後の日程が、復活祭がいつか次第で変 わってしまうことが問題なのです。復活祭は「春分の日の後の満月後の日曜日」と決まっています。イースターは元々春分に関係 するユダヤ教の過越祭(すぎこしのまつり)が起源で、満月は太陰暦によっていたからです。日曜日が特別なのは教会暦の他の日と同じで「神は天地を創造して七日目に休まれ た」と
創世記にあ るからですが、復活祭についてはキリストの復活が日曜だという説にも基づいています。そして教会暦の一番最後の日曜日には復活祭が一番前にずれた年だけに 出現する「三位一体節後第二十七日曜日」という日が存在します。他の年は27週目まではありません。この曲はその稀な日に演奏されるために作曲されたのです計算が厄介なのですが、れは四年に一度の閏年どころか、もっと珍しい割合で出現します。つまりこの140番のカンタータ、大変よく演奏される曲なのに、滅多に演奏される機会がない曲なのです。
 
 タイトルでは「目覚めよ」と呼びかける声が聞こえた、となっていますが、これはマタイによる福音書に出てくるイエスの語った喩え(たとえ)話によります。第二十七日曜日には聖書のその部分が読まれるわけです。天国に入るにはどうしたらいいかという話 なのですが、十人の花嫁たちが夜、花婿を出迎えに行くのです。これは当時のユダヤ人の婚礼の宴の習慣だったのですが、今でいう結婚披露宴が花婿の家で催さ れます。しかしその前に花婿は花嫁の家へ花嫁を迎えに行きます。夕方から夜の出来事ですが、花嫁は自分の家で待っていて、それから花婿に連れられて花婿の 家まで行き、結婚の宴会が始まるのです。この話では寓話なので花嫁の候補は十人です。夜のことですから花嫁たちは灯明を灯して門の前で待っています。十人 のうち五人は灯明用の予備の油(燃料)を用意していました。残り五人は持っていません。しかし花婿はなかなかやって来ません。こういうことはよくあったそ うですが、そのうち花嫁たちは眠くなってきます。すると「目覚めなさい、花婿が来た。迎えに出なさい」という見張り台からの声が聞こえてきます。ところが 油を用意していなかった五人の灯明はもう消えそうです。仕方なく彼女たちは油を買いに走ります。その間に花婿が到着し、油を用意していた花嫁は一緒に披露 宴の席に入ります。油を買って遅れて宴に行こうとした残りの五人は花婿の家の門が閉まっていることに気づき、「ご主人様、開けてください」と言いますが、 主人は「私はあなたたちを知らない」と答えます(マタイによる福音書25章1−13)。

 これは何を表しているのでしょうか。待つこととは何で、油とは何でしょうか。私たちは何に目覚めていなければならないのでしょうか。歌詞の内容に興味のない方には余分な話ですが、聖書はこういう寓話が多く見られます。喩え話はときに神話的な元型としても深い意味を持ちますが、あまり文字通りに受けとめてしまうと月を指差す指を見ることになってしまいます。天国というもの自体も喩え話なのでしょうか。「ここにある、あそこにある、と言えず、見える形で来ない」というイエスの言う神の国を、終末論的な観点以外で捉えることもできるようです。
 これに関して面白い話を読みました。キリスト教は原罪という考えがあります。アダムとイヴがエデンの園(楽園)にあった知恵の木の実を食べたため、楽園を追い出され (失楽園)、以後人類は生れながらに罪を背負っているというものです。人が置かれた否定的状況という意味では仏教苦諦(くたい)にも当たるでしょう。そして神の子キリストが死んでその罪が許されるですが、この原罪というものを知恵の実を食べて目覚めた自我(エゴ)と捉えると、自我にはその性質として、今の自分から逃れようとする力が働いています。例えば過去にひどいことをされたから傷ついた今の私は幸福でない、と考えたり、未来にあが手に入るまで今の自分は本当の自分ではない、と思って人生を保留にしたりします。そうして人は過去や未来の中に生きていて、常に今この瞬間にいないのです。自我と思考は一体なので、これは思考の性質でもあります。
 そうやって「いま」にいようとしないことが人間の罪深さなのですが、覚者だったイエスはその状況を乗り越えていました。常に自分の自我の働きを見張って いたのです。花婿を「待つ」ということは「今にある」ことで、意識を集中して思考に流されず、「ランプを燃やし続ける」=「今にあり続ける」のです。そし て「油」「意識」(注意力)、「花婿」「今」、「宴」「覚醒した状態」、と読み解けるといいます。ルカによる福音書ではイエスが「神の国はあなた方のただ中にある」と語っていますが、それこそがキリストの意識であり、人が目覚めて至る天国なのでしょう。また、イザヤ書には天国のことを語っていると考えられているビジョンがあり、そこでは狼が子羊と一緒に暮らしている様が描かれています。その天国の状態について、「その者には知恵と悟りの霊がとどまり、見たことによって裁かず、聞いたことによって決めない」ともあります。見聞=思考の罠から解放されることでリアリティそのものが変わり、その者の意識を反映した世界が出現するのかもしれません。

 
 最初のコラールの歌詞は以下の通りです:
「目覚めよ、その声がわれらを呼ぶ。塔の高みからの見張りたちの声。目覚めよ、あなたがたエルサレムの都よ。この時は真夜中と呼ばれる。確固とした声で彼 らは呼ぶ。賢い乙女たち、どこにいるのか。起きよ、花婿が来る。立て、灯りを持て、ハレルヤ! 婚礼の準備をせよ。あなたがたは彼に会うために行かねばな らぬ」

 三曲目のソプラノとバスによる美しいデュエットのアリアはこう歌います(擬人化した魂とイエスの会話):
「あなたはいつ来るのですか、わが救済よ /私は来る、あなたの一部として /私は燃える油を持って待ちます /さあ今、広間を開けよ /広間を開けます /(両者)天国の饗宴に向けて /来れ、イエスよ /来れ、愛おしい魂よ」

 有名な四曲目のコラールです:
「シオンは見張りたちが歌うのを聞く。彼女の心は喜びに踊る。彼女は目覚め、急いで起きる。輝かしき友が天より来 る。慈悲によって強く、真理において強大な方。彼女の灯りは輝き、星は昇る。今来る、偉大な王冠の主イエス、神の子。ホザンナ(救いあれ)! われらみな喜びの宴に入り、主の晩餐にあずかる」

 締めくくりのコラールも感動的です:
「人と天使の舌によって、ハープとシンバルをもって、あなたにグロリア(栄光の讃歌)が歌われますように。その門は 十二の真珠から成る。あなたの都市にてわれらは高き王座を取り巻く天使たちに付き添う。この喜びは今まで誰も見たことがない。誰も聞いたことがない。それゆえわれらは喜ぶ、永遠なる甘き歓喜にイオ、イオ(フレイ、フレイ)!」

 演奏ですが、ちょっと古くて手に入りやすくないものを敢えて引っ張り出してきてしまいました。古いといっても録音はステレオで良い音なのですが、バッハ がトーマスカントールを務めていたそのものずばり、ライプツィヒのトーマス教会聖歌隊(少年合唱団)の CD です。何も本家だからというわけでもないのですが、この曲を初めて聞いたのがアルヒーフから出ていたこの演奏の LP で、その後色々聞いてもここへ戻ってきてしまうとこがあります。 定評あるリヒターについては歴史的名演とだけ言って案外素通りしておきながらこっちはいいのか、という感じですが、同じトーマス教会のクルト・トーマス盤 も含めて違いは次で触れるとして、馴染んだものへの愛着というだけではない良さがこの演奏にはあると思います。それは素朴で自然、滋味豊かで温かみのある ところです。ピ リオド奏法運動後の今のものがほとんどそうなっているように、フレーズをあっさり短くは切らず、スラーでつなぎます。かといってこの時代の様式にありがち なテンポが遅過ぎるということがなく、リズム自体もほどよくくっきりしていて息苦しくなりません。すべて良い方へ倒れて、落ち着いた印象なのです。現代の ピリオド解釈にも良いところがあるのですが、こちらを古いマナーだといって切り捨てるのはもったいない気がします。
 最初の合唱から少年の声が独特に響いてくるところは正統好みの人でなくても魅力的に聞こえると思います。歌手陣もドイツ歌曲っぽくはあってもオペラっぽくない歌い方で、リヒター盤の豪華な顔ぶれにも負けないものです。テノールのペーター・シュライアーは同じで二曲目のレチタティーヴォでは伸びが良く神経質さもなく、大 げさにするところもありません。三曲目に入ると弦とチェンバロの音が繊細に響きます。特にヴァイオリンはモダンのはずですが、バロック・ヴァイオリンにも 近い響きにとれています。そしてデュエットのアリアでのソプラノはアグネス・ギーベル、ふわっと柔らかく、ビブラートはあるものの包み込むようにやさしく嫌みがありません。力で押さないところも良いです。バスはリヒター盤のディースカウに代わってテオ・アダムで、五曲目でも歌いますが、清潔さと軽さというよりも奥行きがあります。有名な四曲目は合唱側のテノールが複数で歌やや軽快なテンポながら特に弾ませないので落ち着きます。締め括りのコラールは中庸なテンポでじっくり歌いますが、語尾を引きずったりしない誠実な印象です。おしまいの方で徐々に緩まり、高い音で最後に盛り上がるところも感動的で、 終わりの音も今の演奏よりも伸ばすものの自然です。

 1966年の録音はオーケストラと合唱全体が響く際は派手さのない中音寄りのバランスで、残響も過多ではありません。一方個々の楽器や独唱には繊細さもあります。弦には立体感も感じられ、好録音だと思います。しかし現時点でこの CD がすんなり手に入るかどうかは微妙なようです。MP3 のダウンロードはあものの、ディスクとなると中古探しになってしまうようだからです。手元にあるのは Berlin Classics  10 CD edel classics  0183942BC 2005 となっています。また出るとは思うのですが

80番
 ここで取り上げた CD はトーマス教会聖歌隊のボックス・セットで十枚入りなので、一枚単位で楽しめる CD を紹介するという本来の趣旨からは外れてしまいました。というのも、元々のアルヒーフからはもう出してくれないようだからで、このセット以外になかったのです。アルヒーフの LP のときは裏表で80番と組でした。ここでも同じく140番と80番は同じ一枚の中に入っていて、そこに55番も追加されています。
 ということで、名曲とされているもう一方の雄、第80番です。こちらは十月三十一日のマルティン・ルターの宗教改革記念日のために書かれたもので、ワイマール時代に作ったものを原型にライプツィヒ時代に完成させた作品です。一続けて聞いて完成度の高さを実感できるものだと思います。ただ、好みで選ぶとしたらこの曲をリストに加えていたかどうかは微妙です。なぜなら、特にきれいだと思える楽章が四曲目のアリアと七曲目のデュエットの に対して、この作品の肝となるルター自身のコラールに基づく部分は一、二、五、八曲目ということで、見事にずれています。そしてそれはこの曲のテーマでも ある、カトリックに対して戦いを挑んだ宗教改革の力を表す箇所でも、サタンとの戦いを繰り広げる箇所でもなかったりするからです。しかし名曲であることに変わりはありません。

 四曲目のソプラノのアリアの歌詞は次の通りです:
「わが心の家に来てください、主イエス、わが望み! 俗なるものとサタン(悪魔)を追い出し、わが心のなかであなたを新たな栄光に輝かさせてください。去れ、忌まわしき高慢な罪の曇りよ!」
 サタンの意味には比喩的にカトリックがかかっているのでしょうか。

 七曲目のアルトとテナーのデュエットの歌詞は以下です:
「神の言葉を語る者はなんと祝福されているのだろう。しかし信仰において神を心に宿す者はより祝福されているのだ。 その心は難攻不落であり、敵を討つことができる。そしてついには死をも打ち負かし、栄冠を手にするだろう」
 敵というのは抽象的な性質のことでしょうか、あるいは特定の集団のことでしょうか。芸術作品は作者の意向を忖度せずに自由に解釈できるのがいいところです。

55番
 ライプツィヒ時代に作られたテノール用のカンタータです。単独で取り上げるべきかどうか迷う曲ですが、カップリングになっていて、これも通しで聞いてい て聞きごたえのある、短調の切実さに満ちた曲です。アリアの部分もソプラノではなく、テノールというのは力を感じさせます。行事としては十一月頃でしょう か、三位一体節後 第二十二日用で、ここで読まれる聖句はマタイによる福音書にある容赦のない使用人の喩え話です。大きな借金のある使用人が王のところに連れて来られ、それ を返せなかったので妻子と所有物を売って支払うように命じられます。使用人は慈悲を請い、全部返すので待ってほしいと言いました。王は哀れんで借金を免じ てやります。ところがその使用人はその後、彼に対して小額の借金をしている仲間に出会い、返せと言って首を締め、許しを請うその仲間を牢獄に入れてしまい ました。それを聞いた王はその使用人を呼び出し、彼を牢に入れたというものです。ここでは自我の犯す過ちと許しということがテーマになっています。最初の アリアでは神を何と読み解くにせよ、その裁きの前に自らを否定し恐れる人の姿が歌われるので、外側からの倫理規範を思わせるところもあるよう感じます。無条件の愛と許しは自己を受け入れるところからしか生まれない気もしますが、イエスはこの許さぬ者が許されない事態となるという喩え話でどう導こうとしたのでしょうか。本来の趣旨は制裁されることへの恐れを引き出すことではなかったかもしれません。こう歌います:
「私は惨めな人間、罪の奴隷。その判断に恐れ震えながら神の前へと進む。彼は正しく、私は正しくない。私は惨めな人間、罪の奴隷」
 私のことを正しくない、と言うのは神でしょうか、私でしょうか。イエスと同じ心の状態にあるとき、自分に 裁かれる目的格の自己はいないという話も聞いたことがあります。ああ、あのときの私はなんと愚かだったのか、と自分を責めているイエスの姿は確かに想像しにくい気がします。

 ボックス・セットの曲の組み合わせで55番も取り上げましたが、単独で聞くとテノールというもの自体に強さがあり、歌詞のテーマもきついものであること もあって、140番や80番とは違ってシュライアーの声に幾分威圧感を感じるときもありました。内容に合ってはいるのでしょう。それと曲自体の性質から いってピリオド奏法運動後のあっさりしたフレージングの方が個人的には聞きやすいと感じます。そうはいってもテノールは線が細くて鋭くなる場合もあるので 難しいのですが、鈴木雅明盤ではゲルト・テュルクが歌っており、これが威圧感がなく、ゆったりとした呼吸で内省的な波長の素晴らしい歌唱です。この曲に 限っては一頭地を抜いているように感じました。バックの演奏も力みがなく、急ぐ感じもないのにしっかりと歌わせています。そちらの盤は分売だと Vol.38 で、他に名曲82番も入っています。   

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 ここからは一枚の CD に名曲がずらりというのではなく、良いを一ずつ取り上げるスタイルにします。好みの演奏を求めるとカップリングまでは選べないということもあるからで す。



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       Bach Cantatas Vol.12
       Wachet auf, ruft uns die Stimme, BWV 140     
       Susan Hamilton (S)   Hilary Summers (A)   William Kendall (T)   Peter Harvey (B)
       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists
 

バッハ / カンタータ集 Vol.12
第140番「目覚めよとわれに呼ぶ声あり(目覚めなさい、その声が私たちに告げる)」
スーザン・ハミルトン(ソプラノ)/ ヒラリー・サマーズ(アルト)
ウィリアム・ケンダル(テノール)/ ピーター・ハーヴェイ(バス)

ジョン・エリオット・ガーディナー

モンテヴェルディ合唱団/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 140番の有名なカンタータは、マウエルスベルガーとトーマス教会聖歌隊というマイナーなものを取り上げてしまいました。名曲ですから、より一般的に手 に入りやすいものの中からも選んでみました。全集を出しているような演奏者のものは一通り聞いてみたのですが、私は新盤のガーディナーのものが好きでし た。ピリオド楽器を使って演奏する時代になって以降、その奏法解釈からスラーで伸ばさないであっさりと切ったリズムで行き、テンポもやや速い方へ傾きがちなものが主流になってきました。140番についてはほとんどがそうで、歴史的名演と呼ばれるものとははっきりと違った印象になります。しかしそれが悪いわけではありません。ガーディナーの演奏はそんな中にあって出だしから楽しげで弾む感じあ り、高揚感を感じる魅力的な演奏です。これは全体にわたってその波長です。ついでに各楽章を見て行くと、二曲目のレチタティーヴォのテノールはウィリア ム・ケンダルで透明感があり、三曲目のアリアでのソプラノ、スーザン・ ハミルトンはコープマンのピオーより真っすぐ伸ばす歌い方です。少女のようというよりも、ややボーイソプラノっぽく聞こえる瞬間もあります。そこに名バリ トン、ピーター・ハーヴェイが絡むデュエットはテンポも割合ゆったりしています。以前は端正一本だった印象のガーディナーはカンタータではゆったりとした テンポを取る場合もあり、表現の幅が広がっている印象です。90年の録音より全体に静けさがあり、滑らかになりながら要所で盛り上がるようになりました。 こういう情緒的な深まりを見せるガーディナー、いいです。四曲目は有名なところですが、テンポは軽快ながら速過ぎず、落ち着きを感じます。ここはマウエルスベルガー同様複数のテナーによる合唱の扱いになっていて、
よく歌って楽しそうなところが素晴らしいです。五 曲目は落ち着いたテンポで、バスが叙情的に歌います。六曲目は軽快な運びが曲に合っています。ソプラノがきれいですが、こここそボーイソプラノのように聞 こえます。最後の合唱はテンポが良く、それでいてフレーズを短く切るピリオド奏法の常套的表現に陥りません。滑らかによく伸ばすところが今となってはむし ろ新鮮です。速めの分だけ重厚な感じにはならないものの、爽やかで、最後は大変感動的です。 
 2000年の録音一気に収録したものでありながら、さすがに今 はノウハウがあるのでしょう、一点の曇りもありません。一瞬もう少し残響があっても、と思うときがありますが、実は残響時間はしっかりとあり、その分透明 感が感じられるバランスです。全集で持っている人はいいとして、問題は組み合わせでしょうか。140番が入っているのは Vol.12 の二枚組で、他には55、89、115、60、139、163、52となっています。55番は前述しましたが、115番も通しで聞いて心地良くいられまし た。特に四曲目のソプラノ・アリアは圧巻の美しさです。52番の出だしのシンフォニアはブランデンブルク協奏曲の1番です。

 ついでと言ってはなんですが、有名曲ということもあり、他の演奏も少しだけスケッチます。

 まずトン・コープマンですが、2001年の録音で Vol.21 に入っています(三枚組)。組み合わせは100、200、 177、195、34、143、158、197、97、118、191番です。鈴木雅明の全集と同じく作曲時期による分け方ですこ の中では200、158、118あたりが気になります。コープマンの演奏はトータルの印象ではロングトーンのボーイングで中ほどを盛り上げる手法は強いも のの、フレーズを短く切ったりテンポを速くし過ぎたりはしないものが多いという感じです。よく歌い、物腰のやわらかさがあるのですが、この140番ではそ の印象とはやや異なっていて、他の演奏者よりもむしろあっさり速い感じがしました。角張ったフレージングではありませんが、ガーディナーの新盤のようにス ラーが出たりはしません。さっぱりと切って行きます。これは四曲目のコラールでも最後のコラールでも同じです。軽さを感じさせる演奏が好きな人には良いでしょう。ソプラノがサンドリーヌ・ピオーなのは魅力的で、バスはクラウス・メルテンスです。

 鈴木雅明盤は2011年の録音で、Vol.52 です。組み合わせは112と29番。演奏はテンポが特に速いわけではありませんが、表現はあっさりしているように感じ、ありのままというのか、人によって はやや平坦に感じる場合もあるかもしれません。癖のなさが良いところだと思います。1曲目はおっとりとしており、軽快な方に寄り過ぎません。溶け合って良 く響く音響が心地良いです。その中で金管がわりと目立ちます。フレーズの語尾 は案外伸ばしています。二曲目ではチェンバロが目立ち、テンポは割合じっくりと歌わせる方向で、名テノールのゲルト・テュルクの声がよく響きますが、歌い 方は素直です。三曲目はロングトーンの中途で伸ばすヴァイオリンの古楽奏法がはっきりしており、ソプラノはハナ・ブラシコヴァ。よく響く力のある声で少 女っぽくはありません。歌い方は素直ですが、ヴァイオリン同様メッサ・ディ・ヴォーチェで音符の中間部分を強くします。四曲目は中庸のテンポで癖がなく、 安全運転的な伴奏に力の入ったテノールが歌います。ここはソロで歌う方式です。五曲目も同じような表現で、六曲目はやや軽快で弾みがあります。ソプラノは 声も良く、さらっとした展開です。七曲目は出だしで力があり、テンポは中庸やや速め、フレーズを切る癖はないですが、伸ばすこともなく、やはりあっさりと しています。

 ジョシュア・リフキン盤は彼が提唱した OVPP(One Voice Per Part)という各声部一人だけで演奏するスタイルです。オワゾリールの二枚組で、残響が少ないので余計に人数が少なく感じる面があります。好き嫌いはあ るでしょうが大きな問題提起となりました。出だしから編成の小ささが感じられ、透明で静かです。三曲目のアリアは二人だけの掛け合いに少人数の伴奏で、ソプラノはアメリカの歌手、ジュリアンヌ・ベアードです。真っ直ぐに あっさりと歌います。テンポはゆったりではありません。四曲目の有名なコラールでのテノールもアメリカ人のジェフリー・トーマスで、これもさらっとしたテ ンポで語尾を伸ばさずに歌います。最後のコラールも編成から力強いものとはならず、何か別の曲のようです。ああ、信者たちの賛美歌だな、という印象です。

 さて、ピリオド楽器ではない時代の演奏です。根強い人気があり、バッハでは定評のあるカール・リヒターの 盤ですが、独唱者がすごい顔ぶれです。ソプラノがエディット・マティス、ペーター・シュライアーのテノール、バスはあのフィッ シャー・ディースカウです。リヒターの演奏は角張ったフレージングで厳格な感じがするものからロマンティックによく歌っているものまで一様ではない気がし ますが、時期による違いでしょうか。そしてどちらの場合も高く評価されます。1978年録音のアルヒーフのこの盤は後者です。最初に取り上げたマウエルス ベルガー盤と、次でご紹介するクルト・トーマス盤との比較では、テンポの上で最も遅いのがリヒター盤です。出だしでは厳しいリヒターという先入観で 聞く人は驚くだろうと思いますが、大変やわらかく入ります。フレーズは流れるようなスラーで、一頃のドイツ語の発音を思わせるようなカチッとしたものとは 明らかに違います。現代のピリオド奏法に慣れた人の耳にはもったりと聞こえるかもしれません。伴奏が同じフレーズを二度繰り返すところでこだまのように二 回目がすっかり弱かったりするのがまたロマンティックです。二曲目のレチタティーヴォでのシュライアーのテノールは朗々と歌いますが派手ではなく、文句の つけようがありません。三曲目のデュエットによるアリアは出だしのヴァイオリンが古楽器ではないですが、美しく歌わせています。ソプラノはビブラートをか けて劇的なところがあり、硬質な艶でよく響く高音です。バスはバリトン音域のディースカウで軽めに響きますが、さすがに王者と言われるだけあって清潔で無 駄な動きがなく、これも文句のつけようがありません。テンポはやはり遅めです。ここの部分で大変速くする演奏者もまずいませんから、すごく遅いというわけ ではありません。四曲目の有名なテナーのコラールもゆっくりで滑らかです。上手で変な癖がなく、神経質でもありません。この運びに慣れた人が他ではだめだ と言うのも分かる気はします。五曲目はまたディースカウの上手さが光りま す。安定した声で、非常に遅いテンポでも滑らかさを保っています。六曲目ではソプラノが高揚して艶かしい感じがし、ここの部分は擬人化された魂の声なの で、これが魂ですか、とちょっと思いました。応えるイエス役のディースカウは理想的です。最後のコラールですが、ここだけテンポが遅くないのです。むしろ やや速めと言っていいでしょう。そしてこの運びも案外颯爽として良いと思いました。合唱の大きさが感じられ、最後は長く延ばします。
 録音は古いといってもこの年度、十分良い音です。弦には艶があり、声は朗々と響いて張りがあるように聞こえますが、きつい音にはならずに落ち着きがあります。

 1960年録音のクルト・トーマス盤は、最初に取り 上げたマウエルスベルガーと同じくライプツィヒ・トーマス教会聖歌隊の演奏です。オーケストラもライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で同じです。こち らはマウエルスベルガー盤より手に入れやすいかもしれません。両者を比較すると、トーマス盤の方が設定テンポが遅く、よりスラーでつないで歌わせている印 象です。しかしリヒターほど遅くはありません。演奏団体が同じなので全体の雰囲気は大変良く似ています。録音の性質上、残響がよく響くという違いが指摘で きるでしょうか。独唱者はソプラノがエリーザベト・グリュンマー、テノールがハンス=ヨアヒム・ロッチュ、バスは同じくテオ・アダムです。三曲目のアリア でのソプラノは力を感じさせるタイプではなく、軽く、高音はややハスキーです。歌い方はビブラートなど伝統的なものですが、派手ではありません。四曲目の コラールは複数のテナーによって歌われる様式です。オーケストラは弦が滑らかに歌い、テンポはゆったりしています。全体におっとりとした印象です。五曲目 も六曲目もやさしくゆったりしています。ラストのコラールは力強く、遅くスラーでつないで行きます。マウエルスベルガー盤に比べるとここの部分は主観的に はやや息苦しい感じもしましたが、堂々としたものです。

 もう一つ、レイモンド・レッパード盤もあります。こ ちらはソプラノがエリー・アメリングで、演奏はイギリス室内管弦楽団とロンドン・ヴォイセズです。合唱の人数が多く感じる伝統的なスタイルで、録音は 1981年のフィリップスです。80番とカップリングになっており、アルド・バルディンのテノール、サミュエル・ラメイのバスです。古楽器演奏ではないも のの、
出だしではア クセントが割とはっきりしています。テノールは歌い方が劇的で、ソプラノは清潔ですが、やはり古楽運動の前であり、発声は伝統的で抑揚がしっかりありま す。四曲目の有名なコラールではリズム運びが一歩一歩という感じで、昨今のようにスパッと切って行くわけではないですが、伴奏部分の低音のアクセントで区 切られたところがあります。ここの部分は鈴木盤同様にやや安全運転的に感じられます。別の言い方をすればしっかりとした足取りの演奏です。六曲目でのソプ ラノはビブラートが少し気になりましたが、それが当時の様式であって、その頃の平均よりは控え目です。最後のコラールはフレーズを切らないやや重たい足取 りで、合唱の人数が多いからかマッシブに感じます。クルト・トーマス盤同様にやや息苦しい気もしましたが、逆にどっしりとした好演とも言えるでしょう。



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       Bach Cantatas Vol.2
       Ich hatte viel Bekümmemis, BWV 21     
       Katharine Fuge (S)   Vernon Kirk (T)   Jonathan Brown (B)
       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists
 


バッハ / カンタータ集 Vol.2
第21番「わがうちに憂いは満ちぬ(私はたくさんの悲しみを感じた)」
キャサリン・フーグ(ソプラノ)/ ヴァーノン・カーク(テノール)/ ジョナサン・ブラウン(バス)
ジョン・エリオット・ガーディナー
モンテヴェルディ合唱団/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ




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       Bach Cantatas Vol.6
       Ich hatte viel Bekümmemis, BWV 21     
       Monika Frimmer (S)   Gerd Türk (T)   Peter Kooy (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.6
第21番「わがうちに憂いは満ちぬ(私はたくさんの悲しみを感じた)」
モニカ・フリンマー(
ソプラノゲルト・テュルク(テ ノール)ペー ター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン




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       Bach Cantatas Vol.1
       Ich hatte viel Bekümmemis, BWV 21     
       Barbara Schlick (S)   Kai Wessel (C-T)   Guy de Mey (T)   Klaus Mertens (B)
       Ton Koopman   Amsterdam Broque Orchestra and Choir


バッハ / カンタータ集 Vol.1
第21番「わがうちに憂いは満ちぬ(私はたくさんの悲しみを感じた)」
バルバラ・シュリック(ソプラノ)/ カイ・ヴェッセル(カウンター・テノール)
ギー・ド・メイ(テノール)/ クラウス・メルテンス(バス)
トン・コープマン / アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団

 さて、名曲140番が出たところで、大作21番です。二部構成で十一曲まであって最長であり、バッハご本人も何度も改訂していて鈴木雅明は全集で三種類 の版を録音するという力の入れようです。さすがに有名曲に数えられるだけあって大変美しい作品であり、絶対外せません。出だしのシンフォニアでの静かに 引っ張る憂いを含んだオーボエから惹きつけられる名旋律で、こういうところはワイマール時代の傑作の一つの典型だと思います。静かなオーボエがあって、切 実な短調でメロディアスなアリアがあるというパターンなわけですが、他にも最初の CD で取り上げた12番と182番、199番などに見られます。最も録音の多 い人気曲82番も同じ傾向に聞こえますが、そちらはライプツィヒ時代の作、つまりこれはこの作曲家の一つの魅力的な語法であることには違いなく、バッハ・ カンタータの醍醐味だとも言えるでしょう。もしケーテン時代にも宗教曲を作曲していたらもっと 増えていたのかもしれません。

ガーディナー盤
 CD はどれにするかで悩むところです。カップリングで一枚にいい曲ばかり集まったものが欲しいとなると特に難しくなります。代表的なところでコープマン、ヘレ ヴェッヘ、鈴木盤二種類、ガーディナーなどがあると思いますが、この中で最も気に入ったのはガーディナー盤かな、という感じです。始まりのシンフォニアで はやさしさと繊細さを感じさせ、力みがありません。SDG 2000年の録音は残響こそ鈴木盤より若干少なめですが、音は繊細にとれています。そしてこれを選ぶ何よりの理由は三曲目のアリアで歌うイギリスのソプラ ノ、キャサリン・フーグです。繊細さがあって清潔な歌い方ながら芯の強さが伸びに表れていて厳粛な気持ちになります。ここでの歌い方はやや劇的な方へ寄っ ていると言えるでしょうか。最終稿のライプツィヒ版を使っているので五曲目のアリアはテノールになっていますが、そのヴァーノン・カークも落ち着きとキレ を兼ね備えた理想的な歌唱です。この21番は全集の Vol.2 に入っていてバラで買えますが、二枚組となってしまいます。組み合わせは他に2、10、 76、135番です。この中で76番はオルガン・トリオの原曲になった馴染みのあるメロディーがあって美しい アリアも入っていますが、それには鈴木盤のロビン・ブレイズの名唱もあります。

鈴木盤
 鈴木盤は三種類あると書きましたが、CD では二枚で、Vol.6 とVol.12 です。何が三種類かというと、詳しいことは鈴木氏ご本人の解説に譲るとして、この曲、最初はソプラノ用に作られたと考えられており、その後バッハが仕えて いたワイマール宮の公子ヨハン・エルンストのためにテノールにされ、再度ソプラノに戻され、ライプツィヒ時代にはソプラノとテノール、バスに割り当てられ たということなのです。最初のは楽譜に残ってないようですから、合計三つ版があることになります。その中で元々がソプラノ用ということもあり、個人的にソ プラノが好きなこともあり、Vol.6 のソプラノ版もいいと思ってます。ドイツのオペラ歌手モニカ・フリンマーは出だしでは細く絞り出すような感じもありますが、きらっとした硬質の高音も出て ビブラートをあまり大きくかけないところが清潔で美しいです。そしてこの盤は31番との組み合わせながら、もう一つのテノール版も収録されています。それ がゲルト・ テュルクの歌唱であり、テノールで聞きたい場合はこの盤がベストな気がします。落ち着いた声で潤いを感じさせ、この曲の精神世界に入って行けそうです。こ こで鈴木盤を取り上げたのはこのためもあります。BIS 1997年の録音は響きが美しいです。一方、Vol.12 の方はカップリングがあのバッハ一番人気の「主よ、人の望みの喜びよ」が歌われる147番と抱き合わせです。という意味ではそれが一番かもしれません。し かも21番は最も一般的な最終稿のライプツィヒ版でソプラノ、テノール、バスがアリアを分担します。BCJ の中で売り上げナンバーワンというのも頷けます。

コープマン盤
 よくしなう歌わせ方、音響の美しさでは一番かなと思わせるコープマン盤も大変魅力があります。巧拙ではなく、ソプラノの純然たる好みでここでは上記二つ で歌っている歌手の方に傾きがちですが、この曲のバルバラ・シュリックは大変良かったです。金色に輝いて歌い方にも劇的な動きを感じさせるときがある人な のですが、上記二つの盤がテンポが遅めでたっぷりと歌わせるセッティングであり、コープマンの方が適度に流れるのでいつもとはちょっと印象が逆転気味にも 感じます。全体の運びから行くとむしろこれかもしれません。シリーズの Vol.1 で、他にも4番や106番などの名曲が揃っています。

 歌われている内容に移りますが、この曲は1713年(バッハ28歳)か、一部はそれ以前に作られたと考えられているようです。歌詞はワイマール宮で一緒 だった詩人ザロモン・フランク作だろうとされ、詩編とヨハネ黙示録から引用された部分があります。バッハはこれを三位一体節後第三日曜日に演奏したのです が、この日の行事では別の聖句が読まれます。それが仕事としてまとまったカンタータを作る計画の前に原型が存在していたに違いないと考えられる理由の一つ なのかもしれません。さてその内容ですが、類似が指摘される12番同様、苦難こそが神の国への道だと歌い、その道を進むことを鼓舞するものです。最初のシ ンフォニアの後、コラールでタイトルの「わが心は苦しみに満ちた、しかしあなたの慰めがわが魂を生き返らせる」が合唱されます。イタリア式とされるオーボ エを伴った美しい三曲目のアリアの歌詞では:
「ため息、涙、嘆き、苦悩。不安な切望、恐れと死が、虐げられた私の心を蝕む。私は痛みと不幸を感じる」と歌われ、テーゼが立てられます。苦しみというも のがなければ、人はパンのみに生き、日々の欲望を満たすことに専念して自らを解放へと向わせようとは思わないでしょう。苦は着火剤であり、また苦こそが人 を磨くのかもしれません。そこまではこの歌詞では意図してなかったかもしれませんし、地上に降りた以上は神の子も人間の成長過程をたどったと考えるのは異 端とされたアリウスと同じ考えかもしれませんが、人の子イエスを宝石へと磨き、優れた導き手にしたのはどんな苦しみだったのでしょう。外典福音書が今後い くつ発見されても真相は分からないでしょう。
 曲の構成は悲痛な短調に始まって解決を目指すスタイルです。七曲目では長調に転じ、九曲目のコラールでは:
「苦しみのただ中にあっても神に見放されたと考えるな。常に幸運を得ている者のみが神の膝にあると思うな。時の経過は物事を変え、各自の行く末を定める」 とやさしく慰め、十曲目のアリアでは軽やかになって「涙を純粋なワインに変えよ、痛みは祝福となる」と歌われます。最後のコラールでは勝利のファンファー レのような力強さがトランペットとティンパニで示され、苦しみを乗り越えてきたというように短調の和音も交えながら「屠られた子羊(キリスト)は栄光を受 けるに値する」と宣言されて、輝かしい言葉を並べてアーメン、ハレルヤで終わります。



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       Bach Cantatas
       
Ich habe genug, BWV 82a     
       Emma Kirkby (S)
      
Gottfried von deer Goltz    Freiburger Barockorchester
      
DeutschlandRadio  Craus-verlag 83.302

バッハ / カンタータ集
第82番「われは満ちたれり(私はもう十分です)」BWV82a ソプラノ版
エマ・カークビー(ソプラノ)
ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ / フライブルク・バロック・オーケストラ




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       Bach Cantatas Vol.41
       
Ich habe genug, BWV 82a     
       Carolyn Sampson (S)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.41
第82番「われは満ちたれり(私はもう十分です)」BWV82a ソプラノ版
キャロリン・サンプソン(ソプラノ)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン




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       Bach Cantatas Vol.38
       Ich habe genug, BWV 82     
       Ich armer Mensch, ich Sündenknecht, BWV55
      
Carolyn Sampson (S)   Gerd Türk (T)   Peter Kooy (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.38
第82番「われは満ちたれり(私はもう十分です)」BWV82 バス版
第55番「われ哀れなる人間、罪に仕える者(私は情けない人間、罪の召使い)」
キャロリン・サンプソン(ソプラノ)/ ゲルト・テュルク(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 今度はバッハの教会カンタータの中で一番人気とも言える曲、82番です。モノラル時代から多くの録音があり、最もたくさん演奏されてきた曲と言えるで しょう。これと同じぐらいポピュラーなものといえば、曲中の「主よ、人の望みの喜びよ」が独立して様々なスタイルで演奏される147番がその楽章では上を 行くのと、前述した140番ぐらいでしょうか。曲の感じは前出の大曲21番にも似たもので、短調でオーボエが活躍し、メロディ・ラインが美しく、アリアが 印象的なものです。その意味では12番や182番とも似ていると言えます。しかしこの82番はそうした印象の曲の多くが書かれたワイマール時代のものでは なく、もっと後の42歳頃、ライプツィヒ時代の作品です。そして有名曲となるだけあって聞き応えのある楽章が目白押しで、アリアに始まりアリアに終わる五 曲構成なので凝縮感があり、全曲を通して一部の隙もないという感じです。
 実はこの曲には二つのバージョンがあります。それぞれ82、82a となっているのですが、前者がバス用、後者がソプラノ用です。しかしただそれぞれの歌手用というだけではなく、バス用では重要な役割を果たす伴奏の管楽器 がオーボエ、ソプラノ用ではフルートに変更されています。これはちょっと個人的には悩むところで、私はソプラノの方が聞いていて心地良かったりするのです が、そうなるとフルートになってしまいます。フルートはやさしくていいものの、バロック時代の楽器は音が小さいので奏者によっては全体に飲み込まれがちで す。その点オーボエであれば輪郭がはっきりしており、この曲の強い憂いの曲調では力も込められるので適任な気がするのですが、フリー・オプションのサービ スはありません。

 何の日用かということになると、これは先に死をテーマにした曲を集めたヘレヴェッへの CD のところでご紹介した125番「安らぎと歓喜もてわれはいく」と同じ、二月二日のマリアの潔め(きよめ)の祝日用なのです。引用される聖句も同じで、シメ オンという老人が将来救世主となる赤子のイエスを腕に抱いて、自分はもういつ死んでも構わないと歌うところです。同じく死をテーマにした曲としてその目玉 のような存在でありながら先の CD から洩れているのは、有名曲だけに、ヘレヴェッヘとしては91年にすでにバス用の曲を集めた一枚として出していたからというわけです。

 内容に行きます。不安に打ち寄せるさざ波のようなストリグスの上にオーボエが訴えるように歌い始める開始の曲は、21番ではシンフォニアとして独立した インスツルメントでしたが、ここでは頭からアリアとして歌われます。最初から憂いを含んだ旋律が大変印象的です。歌詞は表題が要約しているものです:
「私は満ち足りた。私は救い主を、正しき者の望みを、待ち望んでいたこの腕に抱いたのだ。私は満ち足りた! 私は彼をこの目で見た。わが信仰がイエスをわ が心に刻んだのだ。今まさにこの日にでも、私は喜びをもってここから旅立ちたいと願う。私は満ち足りた!」

 三曲目はやさしく包み込むような弦のささやきで始まる眠りのアリアです:
「眠れ、疲れた目よ、喜びをもって静かに閉じよ! この世界よ、私はもはやここには留まらない。ここにはわが魂が恩恵を受けるところはないのだ。ここでは 惨めなだけだ。しかしそこでは、そこでは甘き平和を、安らかな休息を得られるだろう」

 最後のアリアは死を期待する喜びの舞曲で、最初の溌剌とした、しかし短調の前奏に続いて時折複雑に長調を織り込み、軽やかに歌われます。そして最後の和音はメジャー・コードです:
「わが死は喜び。ああ、そうなればいかに素晴らしいことか。そうなれば、未だ私をこの世界に縛りつけている全ての苦悩から解放されるだろう」
 こうしてバッハの作品における歌詞を個々に見て行くと、死にまつわるもの、死を望みすらするものが数多くあります。それは聖書の物語が教会の行事として 語られる場合の平均を上回っているような気もします。バッハ自身に目を向けると最初の妻の死という出来事がありますが、それ以前にも身内を亡くすことは多 かったようです。それにしてもバッハが死を扱うときの音楽に、哀しくも甘美なものが多いのは興味深いと思います。

 演奏ですが、まずソプラノ版の方は、結婚カンタータのところで触れるカークビーのものを良く聞いていました。といっても、結婚カンタータと組み合わされ ているアンドリュー・パロット/タヴナー・プレイヤーズの 1981年ハイペリオン盤は実は82番についてはバス版で、デヴィッド・トーマスが歌っています。エマ・カークビー自身が歌っているのは1999年録音の ドイツ・ラジオ/カルス・ヴェルラグ共同製作盤(レーベルはカルス)で、 ちょっと手に入りにくいかもしれませんが、ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツがヴァイオリンと指揮をとるフライブルク・バロック・オーケストラのもの です(Emma Kirkby  Gottfried von deer Goltz  Freiburger Barockorchester DeutschlandRadio   Craus-verlag 83.302 )。カップリングは199番で、カークビーはこのときすでに50歳。しかし彼女の魅力であるノン・ビブラートで伸びている高音は年齢を感じさせません。こ の歌い方がいい場合は他にありませんので、どうしてもカークビーということになるでしょう。ただこの盤での演奏は、古楽唱法の一部でしょうけどフレーズの 合間で切るところがあり、残響が少ないことも手伝ってやや途切れ感がないでもありません。語尾も長くは延ばしません。それと高い方は素晴らしいですが、例 によって低音は若干弱いかもしれませ ん。結婚カンタータのときには32歳でしたから、こういう物言いも失礼な気はしますが、あのとき歌ってくれてればな、とダウランドのラクリメと同じことを考えたりもします。 

 鈴木盤で歌う同じくイギリスのソプラノ、キャロリン・サンプソンはカークビー流の古楽唱法ではなく、固めて遠くへ飛ばすようにして音量を稼ぐところやビ ブラートの使い方は伝統的な声楽を感じさせるのですが、声質が良く、可憐に感じさせる箇所もあったりして大変気に入りました。声質というのは技術に関係な く肉体固有のものなので歌手の努力を評価しないかのようですが、この人は上手さでも文句がないと思います。専門家ではないので余計なことは言わないでおき ますが、カークビーよりも安定度はあるように聞こえるのではないでしょうか。オーケストラのバックもこちらの方が残響があり、フルートも音が小さいのは仕 方がないながら、語尾もしっかりとしていて、高い方でリコーダーのような輪郭のはっきりした音が出るところもあります。したがってトータルで82番のベス トは自分としてはこれではないかなと思っています。レーベルは BIS、2008年録音の Vol.41 です。カップリングは56、84番と158番です。ヘレヴェッヘ盤と似た選曲ですが、ソロ・カンタータ集ということでそうなるのでしょう。84番については後で触れています。

 一方、通常のバス版もということであれば、個人的にはペーター・コーイが良かったと思います。彼の CD にはヘレヴェッヘ盤と鈴木盤の二種類があります。両者出だしのテンポは同じぐらいに聞こえますが、鈴木盤の方が演奏時間はやや長いようです。バックの演奏 はヘレヴェッへの方が比べるなら滑らかにつないでボルテージが高い印象で、鈴木の方は落ち着いて繊細とでもいう感じですが、違うというほど違いません。肝 心のコーイの歌唱は先に録音された1991年のヘレヴェッへ盤ではオ、ウな どの母音で口を閉じ気味に硬く響かせるような発音に聞こえるところもあるのですが、肉体年齢のせいか発声を変えたか、あるいはホールの響きによるのか私に はよく分かりません。十五年経って再録音した2006年の鈴木盤での方が若干表現が大きい瞬間があったかな、というぐらいで、この人は安定していてほとん ど変わらないという印象です。両盤いかなる意味でも甲乙がつけられません。ただカップリングはハルモニア・ムンディのヘレヴェッへ盤の方が56/158 番で、BIS の鈴木盤は Vol.38 で52/55/58番との組み合わせになっており、140番の項でその演奏を褒めた55番が入っている分、鈴木盤の方が有り難いかなという気もします。 52番は一曲目がブランデンブルク協奏曲の1番と同じというのが面白く、56番はラストの合唱が低く分厚い和音であるところ、58番と158番はそれぞれ 最初の曲と二曲目が好きです。因みにコープマン盤のバスはクラウス・メルテンスで、ガーディナー盤はビブラートに特徴のあるピーター・ハーヴェイです。好 みの問題ですが、この曲で私がコーイが好きな理由はやわらかくて深みがあり、伸びもある一方であまり派手にしないところです。パロット盤のデヴィッド・ トーマスは同様に深みのある声で、表現の上で大きく揺さぶるようなところがあります。



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Bach Cantatas Vol.1
       Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit, BWV 106
       Barbara Schlick (S)   Kai Wessel (C-T)   Guy de Mey (T)   Klaus Mertens (B)
       Ton Koopman   Amsterdam Broque Orchestra and Choir


バッハ / カンタータ集 Vol.1
第106番「神の時こそいと良き時(神の時は最善の時)」 BWV106
バルバラ・シュリック(ソプラノ)/ カイ・ヴェッセル(カウンター・テノール)
ギー・ド・メイ(テノール)/ クラウス・メルテンス(バス)
トン・コープマン / アムステルダム・バロック管弦楽団&合唱団




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Bach Cantatas Vol.2
       Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit, BWV 106   
      
Aki Yanagisawa (S)   Yoshikazu Mera (C-T)   Gerd Türk (T)   Peter Kooy (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.2
第106番「神の時こそいと良き時(神の時は最善の時)」 BWV106
柳沢亜紀
(ソプラノ)/ 米良美一(カウンター・テノール)
ゲルト・テュルク
(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 次はワイマール時代より前の初期の作品の中で名曲に数えられ、人気のある第106番です。1707、8年頃というのですから、ミュールハウゼン時代、 バッハが22、3歳のときの作品ということになります。伯父さんの葬式用として作られたという説があったようで、教会暦には則らず、歌詞は自由に聖句やコ ラールを用いたものとなっています。作詞者は分かっていません。素朴で親しみやすい旋律に満ちた曲で、しっとりとした歌も愛らしい響きもあり、聞きづらい ところはありません。
 最初に懐かしくも回想的な響きのオルガンとヴィオラ・ダ・ガンバが受容的に、ゆったりと進む低音が示されます。そしてその上に二本のリコーダーがユニゾ ンと和音を交え、鳥たちが語らうような親しみのある歌を披露して幕を開けます。このソナティーナの部分は大変魅力的で、これだけで殿堂入りを決定づけられ たも同然です。楽章は大きく四つに分かれ、その内部で細かな部分に分割されつつ相互につながっている造りになっています。したがって CD ではものによってトラックの割り付けが異なっていたりします。そういう構造から長い詞はありませんので、簡単に要約しますと: 神の定めで死ぬときに人は 死ぬ/でもよく考えさせてください/財産を整理せよ、もうすぐ死ぬぞ/これは契約の定め(原罪と死)、主イエスよ来てください/主は購ってくれた(キリス トの死と購い)/平安のうちに私は死ぬ、死は私の眠りとなった/父と子と精霊に栄光あれ、勝利を与えてください、アーメン、という流れです。この中で歌と ともに歌詞をなぞってみたくなるような、いわゆるスロー・バラード的な曲はどれかというと、二曲目の b のテノールと、三曲目 a のアルトのアリアがそうでしょうか。最もアリアらしいというか、しっとりとしたメロディーラインを追える曲となっています。その部分の歌詞を記します。

2b(T):「ああ主よ、我々は賢くなるために死ぬ必要がある、そのことを考えるために教えを乞います」
3a(A):「あなたの手にわが魂を委ねます。あなたは私の負債を支払われました、主よ、信頼する神よ」

 さて、CD ですが、これは自分の中でベストを選ぶのが難しい作品でした。人数の少ない系では OVPP の提唱者ジョシュア・リフキン、カークビーの歌うパーセル・カルテットなどがあり、面白いと思います。カークビーたちの方は2002年頃の録音で、大変頑 張ってる印象です。歌手というのは演歌も同じなんだそうですが、年齢とともに表現を大きくして行く傾向があるようです。素材から技術へと軸足を移す必要が あるのかもしれません。解釈全体としてもフレーズの間をとって抑揚をよく付ける古楽奏法なので、滑らかとは違う方向になります。こういう少人数のアンサン ブルの場合は響きの豊かな教会などで残響を十分に加えて録音してほしい気もします。細かいことを言えば、若干音程のずれが聞こえる瞬間が何カ所かあると思 います。あるいは歌手同士の解釈でピッチを微妙にずらすテクニックが相互に合わずに重なりが干渉波のように聞こえるのかもしれませんが、これはリフキンの 方でも同じなので、少ない人数だと目立つのは致し方ないことでしょう。全体的には大変意義深い演奏で、弾んでいるせいか、モンテヴェルディのマドリガーレ でも聞いているような楽しさがあります。
 
 古楽器で人数が通常規模の録音ではコープマン盤と鈴木盤が甲乙つけがたいです。パートごとに比較しますと、最初のソナティーナの器楽演奏では鈴木盤はテ ンポがかなりゆったりです。それでも情緒纏綿という感じにならないのは表現が平坦なところからかもしれません。鈴木/BCJ の演奏ではこういうところが時折聞かれますが、それが落ち着きと静けさに貢献することも多いです。こういう表現傾向は合唱でも同じで、2a では少なくともそうです。全体では静けさと力強さがコープマン盤と逆転する場面もあります。一方でコープマンのソナティーナはもう少し速く、抑揚もやや付 きます。慣れと好みの問題でどちらも魅力的ですが、最初の器楽では私はコープマンの方が好きです。

 テノールはどちらもいいです。鈴木盤は落ち着いた声が好みのゲルト・テュルクで、語尾をやや伸ばし気味にしながら滑らかに歌い、要所で強めます。一方の コープマン盤のテナーはギー・ド・メイ、こちらも素晴らしく、声質は若干軽くて静かながら全体に抑揚があります。テュルクがアリアで一音外し気味に聞こえ る瞬間もありますが、それはほとんど気にならない些細なことで、トータルでは甲乙つけがたいです。

 バスは鈴木盤の方はいつものペーター・コーイ。常に安定しています。落ち着きがあり、深みのある低音の響きが魅力的です。コープマン盤の方はクラウス・メルテンス。同様に落ち着きがあり、さほど低く響くわけではないですが、2c では静けさを感じさせます。高い方にはやさしさもあって大変良いです。後ろの3a のバスのコラールでは逆転してメルテンスの方が力と伸びがあります。そこではコーイの方が静かです。どちらも素晴らしいと思います。声の質でコーイ、表現の幅でメルテンス、というところでしょうか。

 ソプラノは鈴木盤の方は柳沢亜紀。軽さがあって弾み、澄んでいて少年のような瞬間もあります。このソプラノはいいです。一方のコープマン盤はバーバラ・ シュリックで、コープマン全集では最初の方は彼女が受け持ちます。ここでは語尾を伸ばしてスラー気味で、嫌みはないですがビブラートがかかります。この曲 はいい歌唱です。ただ、単純に好みを言わせていただければ柳沢かな、と思います。

 アルトのパートはどちらもカウンター・テナーですが鈴木盤は米良美一で、ここでは低い方も自然で欠点がありません。力が抜けていてやわらかく、魅力的で す。コープマン盤はカイ・ヴェッセル。この106番では米良同様に力が抜けており、高い方は米良ほど女性的ではありませんが、安定して伸びていて力を感じ ます。そのときややこもった口の響きに聞こえるところもあります。これも甲乙つけがたいですが、米良の女性的な声はきれいで、好みではあります。

 コープマン盤は Vol.1 に入っており、これは三枚組です。しかし作曲年代順に入れているので頭から三つのセットはメロディアスな曲が多く、枚数が多いのが欠点とも言えません。 1994年エラートの録音で、音響的にも繊細でよく響き、優れています。組み合わせは 21/131/106/196/71/150/31/185
/4番です。このうち21/106/4は誰もが認める名曲です。
 鈴木盤は Vol.2 で、1995年 BIS の録音。カップリングは71/131/106で、131番の出だしのシンフォニアと合唱は印象的です。



    gardiner13.jpg
       Bach Cantatas Vol.13
       Herz und Mund und Tat und Leben, BWV 147     
       Brigitte Geller (S)   Michael Chance (C-T)   Jan kobow (T)   Dietrich Henschel (B)
       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists
 


バッハ / カンタータ集 Vol.13
第147番「心と口と行いと生き方」BWV147
ブリギット・ゲラー(ソプラノ)/ マイケル・チャンス(カウンター・テノール)
ヤン・コボウ(テノール)/ ディートリヒ・ヘンシェル(バス)
ジョン・エリオット・ガーディナー
モンテヴェルディ合唱団/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 喫茶店バッハというような曲があるなら、いや、バッハが入り浸ったというカフェ・ツィマーマン関連の話ではなくて、レストランでもどこでもかかるという 意味ですが、恐らく G 線上のアリアか「人の望みの喜びよ」でしょう。後者はカンタータ第147番「心と口と行いと生き方をもって」の中のナンバーですが、それぐらい有名な曲を 後回しにしてしまいました。というのは、一つの楽章はいいけど他はそこまでではないかもしれない種類の曲は後でまとめて触れようかと思ったからです。でも 他にいいところがないわけでもないし、最も親しまれているカンタータにそういう扱いをするわけにもやはり行かないでしょう。バッハで一番人気かもしれませ ん。

「心と口と行いと生き方」というのは、最初の合唱が「心と口と行いと生き方がキリストの証人でなければならない。恐れも偽善もなく、彼こそが神であり、救 い主であると」と歌うところから来ています。有名な「主よ、人の望みの喜びよ」の部分はこのカンタータの最後、十曲目のコラールで、合唱とオーケストラで 奏でられます。歌詞違いで同じ旋律が 六曲目にも出てきますが、このタイトル自体はドイツ語の歌詞で原題でもある「イエスは常にわが喜び」の意味が英語で 「イエス、人類の望む喜び」のように訳され、そこからの和訳でこのように定着したようです。神様にこれぞ人の望むことです、と言っているのでも、喜びをく ださいと頼んでるのでもありません。この有名なナンバーとそれ以外とに落差があるかのように言いましたが、実は作曲時期が違っていて、有名なコラールの部 分はライプツィヒ時代、38歳頃の作曲なのに、それ以外のアリアなどはその前のワイマール時代、30歳頃にすでに作られていました。ワイマール時代の作品 に見事なものが多いことは前述した通りですから落差の理由にはなりませんが、波長が異なっているように聞こえるとすればその説明にはなるでしょうか。
 何用の曲かというと、最初に作られたときは待降節第四日曜日用だったようですが、演奏の機会がなくて有名な部分をつけ加え、転用したときは「マリアのエ リザベト訪問記念日」のためでした。七月頭ぐらいに来る祝日ですが、エリザベトというのはイエスに洗礼を施した洗礼者ヨハネの母で、マリアの従姉妹です。 マリアが処女のままイエスを身ごもったことを天使に告げられたとき(受胎告知)、長年子供ができなかったエリザベトも一緒に妊娠してますよ、と言われたの で会いに出かけて行ったのです。キリスト教徒なら信ずべき大切な日です。

「主よ、人の望みの喜びよ」の部分の歌詞は:
「イエスは常にわが喜び。わが心の慰めと活力。イエスはすべての苦難から守ってくださる。彼はわが生の力、わが目の喜びにして太陽。わが魂の宝にして楽しみ。それゆえわが視界と心からイエスを去らせはしない」
 
 これ以外の部分にも美しい旋律はあります。切々と訴えかける五曲目のソプラノのアリアはいかがでしょうか:
「準備してください、イエスよ、今すぐにでも、あなたへの道を。わが救い主よ、この信仰厚き魂を選んでください。そして慈悲の目で私を見つめてください」

 CD 選びは、これも決定打がありません。楽曲全体で見るべきでしょうか。有名な
「人の望みの喜びよ」の旋律についてはどの演奏もきれいにやろうとしていますし、案外どれも良かった印象です。ここは独唱者が歌いません。人の声というものは目立って好き嫌いが出ますが、合唱とオーケストラだけですので指揮者の解釈と楽団、合唱団の個性がダイレクト に反映されるかたちです。誰しもがここを聞きたいのですから軸足はここに据え、他のパートも勘案してどれかを選ぶとすれば、新盤のガーディナーかな、というところです。アルヒーフから独立して出ている方ではなく、これも悪くないですが、 全集に入ってる方の演奏です。それからコープマンとアーノンクールも大変良かったと思います。

 ガーディナーの演奏はやや速めのテンポながら速過ぎず、140番もそうでしたが弾むような軽さがあり、それでいて盛り上がるところでは力強さと高揚感が あります。フレッシュネス、爽やかさ、立体感、など色々に表現できますが、ひとことで言えば生きている感じがするのです。静かに歌い始めてふわっと盛り上 げるのはコープマンと同じですが、比べるなら滑らかで穏やかさを感じさせるのがコープマン、繊細な表情で軽く、ヴェールの剥がれた感じがするガーディナー というところでしょうか。旧盤との比較では、新盤の方が軽さと敏感さがあるような気がします。他の楽章での話ですが、テナーも落ち着いており、ソプラノは ビブラートはいくらかあるものの明るく伸びるところが魅力的です。旧盤はテンポは同じで、スタッカートが多少目立つ瞬間があったりトランペットがよく聞こ えたりするという違いを除けば、クレッシェンドして行くボルテージがやや高い感じがします。全体にきびきびしていて力強い方向であり、比較するなら角も若 干くっきりとしています。録音が幾分ソリッドなのか、音量も大きめに感じます。
音像は近めで反響は少なめです。テノールは同じぐらい魅力的ですが、やさしいところもかなり力強く震わすところもあります。
 ガーディナーの新盤は Vol.13、2000年の巡礼時の録音です。繊細でバランスが良く、きれいな響きです。カップリングは61/62/36/70/132/147番です。 61番は有名曲、36番はなかなかきれいなクリスマスの曲です。

 簡単な演奏比較をしてみます。古楽器運動以前のものではリヒターとリリングが代表的だと思いますが、リヒター盤は大変ゆったりなテンポで、当時の様式と してフレーズを切れ目なくつなぐものであり、ずっとオンな感じです。編成の大きさを感じさせる合唱は滑らかに波のように寄せては引き、全体のボル テージが高い印象です。
 リリング盤の方はリヒターよりは速いテンポで、同じようにフレーズを滑らかにつなぎますが、静けさを感じさせます。合唱は同じように人数が多く感じます。
 ブリリアントから廉価版で出ているルーシンク盤はテンポは中庸、ややゆったりめでしょうか。昔の演奏ではないですがフレーズは滑らかな方で、抑揚は盛り 上げ過ぎずあっさりし過ぎずで目立つことはしていない印象であり、オーソドックスで良いと思います。新しい録音で少年合唱というのも一つの魅力でしょう。
 人数の少ないリフキン盤はやはり人数が少ないな、という感じは変わらずで、そこが魅力でもあるでしょう。こざっぱりとした速いテンポで、他にない個性です。

 コープマン盤は好きですが、決して速くはない中庸なテンポで滑らかです。人柄を感じさせる自然体でよく歌っており、古楽奏法らしく一音でぐっと盛り上げ るアクセントが心地よく感じられます。フレーズの切り方は清潔で、これも昔の奏法のようにはスラーで伸ばしませんが、自然な範囲なので音楽の流れに乗って 行けます。全集の中の Vol.7 で、カップリングは25/95/144/67/24/136/184/105/148/181
/173です。105番の三曲目はオーボエがからむ静かなメジャー・キーの美しいソプラノ・アリアです。他にフランス盤で173/181と組み合わせた一枚ものが出ていたこともあるようですが、今は廃盤のようです。
 これに対して鈴木盤ですが、こちらもコープマンとほとんど同じテンポ設定で、違いはよりあっさりとしていることです。クレッシェンドでぐっと盛り上げる 感じが少なく、淡々として聞こえます。無色で何も付け加えない静けさが好きな方にはこちらの方が良いでしょう。フレーズの切り方/つなげ方はコープマンと 同じ手法に聞こえます。鈴木盤は Vol.12 で、カップリングは有名な21番(ライプツィヒ標準版)です。

 格調あるものが好きな方からの評価が高いのはリヒターに次いでアーノンクール/レオンハルトのようで、近頃はガーディナーも加わるようになってきたのかもしれませんが、
アーノンクールについてはボーイソプラノと短いフレージングに速めのテンポということで、好きな指揮者ながらバッハは敬遠しがちなところがありました。しかしここでの「人の望みの喜びよ」は大変良かったです。フレーズがきっかりしているのがある意味新鮮です。決してスラーで伸ばしたりはしませんが、切れぎれという感じは全くなく、古楽器奏法がスパイスとなって活 気と立体感が出ている印象です。テンポも速くはありません。湧き上がるようなメッサ・ディ・ヴォーチェというか、例のロングトーンの途中でぐっと盛り上げ る手法が全体をくっきりとさせています。同じように活気を感じると書いたガーディナーと比べると、より繊細さを感じさせるのがガーディナーで、輝きが感じ られるのがアーノンクールでしょうか。そしてアリアでのボーイ・ソプラノですが、大変上手で安定しています。カップリングはあの140番とのものが一枚も ので出ています。



    bis4.jpg
       Bach Cantatas Vol.4
       Mein Herze schwimmt im Blut, BWV 199
      
Midori Suzuki (S)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ/カンタータ集 Vol.4
第199番「わが心は血の中を泳ぐ」BWV199
鈴木美登里(ソプラノ)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 カンタータ199番も名曲に数えられます。ワイマール時代、バッハ26歳から29歳ぐらいのときに書かれたと考えられているソプラノ独唱用の曲です。出 だしからソプラノが悲痛に叫びますが、短調の旋律が美しい曲で、中でもオーボエをともなった二曲目の静かで訴えるようなアリアは一度聞いたら忘れない旋律 であり、最も美しいパートです。四曲目もきれいだし、通しで満足できます。この曲は三位一体節後第十一日曜日用に作られました。第170番同様、歌詞はド イツの詩人で小説家、ゲオルク・クリスティアン・レームスのものであり、この日に朗読される聖句であるルカによる福音書のイエスの喩え話に基づいていま す。それはパリサイ人と取税人の話です。パリサイ人というのはモーセの律法、つまり法規則を厳格に守ることを信条としていたユダヤ人の一派で、当時は地位 のあった人たちであり、取税人というのは使徒マタイと同じで、ローマ帝国の税金を集める人、したがって民衆には嫌がられる地位の低い人です。この二人が神 に祈るのですが、パリサイ人は自分が正しい行いをしていることを強調する一方で、取税人の方は自分が罪を持った存在であることを自覚して祈りました。イエ スはこのうちの取税人の方が神の理にかなって自分の家に帰れたと語ります。「わが心は血の中を泳ぐ」というのは激しい表現ですが、この血にはアダムの血統 の意味があり、テーマは贖罪、罪を自覚した意識のことです。歌詞はこの取税人の立場に立って悔恨の情を歌っており、最後は許された喜びに到達します。

 140番の「目覚めよ」の意味でも触れたように、ここでイエスが言おうとしたことを文字通りの字句や解釈にとらわれず、人類が背負っているアダムの罪を 「自我」の問題として捉えると面白いことに気づきます。知恵の実を食べて目覚めたものを「理性」とする解釈は広く行われていますが、それは自我機能の一部 です。理性、悟性というと人間の理解力のことであり、人が人らしくあれる大切な機能の一つであって、精神分析学でも自我(エゴ)には重要な機能がありま す。 一方、自他を分割して自分の利益を高めようとするのも自我機能の一部です。仏教では我を超越するなどと言われますが、この「我(が)」に当たる自我の罠 に、自慢するという心があります。知らず知らずのうちに人は自慢をしてしまいます。自分がどれだけ知識や能力、センスがあるか、地位や美しい容姿、お金や 持ち物があるかを堂々と、あるいはそれと分からないように自慢します。それを語っている間は自我にとって大変心地が良いのです。他者を低めて相対的に自分 の地位を上げる手もあります。この聖句のパリサイ人がやったように、自分以外の者や他の集団を貶すのです。それは地位や能力のある相手のことも、そうでな いこともあり、陰口をきいて完膚なきまでに非難する場合も、評論と称して対象の地位をそれとなく引き下ろす場合もありますが、相対的に自分の立場が上がる ので自慢と同じ効果があります。そして陰口は甘い密の味と言うように、それは自我にとっての餌であり、充電になります。否定的な場合でも同様です。酷い目 に遭ったことを誰かにとうとうと喋るのも同じ自慢の働きで、恨みですらしがみつきの対象になりますし、病気になってもその苦しい自分に同一化して自慢して しまいます。それはただ針が交流電源のようにプラスだけではなくマイナスにも触れたもので、自我への充電のボル テージは同じなのです。私はイエスという人は目覚めた人だったと信じます。その人が規則の番人だったパリサイ人が自慢をしている状態を示して「自分の家に 帰れない者」と言っています。規則という外側の規範に判断を預けてしまうのではなく、自らに責任を持つべきだということをまず言っているのでしょう。そし て自慢をしてばかりいて自我を見張ること(目覚めよと呼ぶ物見らの声)を忘れてしまうと、ありのままの自分に目覚める(自分の家に帰る)ことから遠ざかっ てしまいますよ、と諭しているように聞こえます。その意味ではバッハの詩人が言っているようなこと、つまり過去の過ちを何度も思い出し、後悔するという心 のありよう(血の中を泳ぐ)自体も、ときには気持ち良く自我を充電するマイナスの電荷となり、苦しみという名の甘い蜜に溺れているだけの場合もあることで しょう。お酒を飲んで自慢をすることはよくありますが、アルコールを禁ずるイスラム教も、本来は酔って自我を見張ることを忘れないためなのかもしれませ ん。

 最初のレチタティーヴォの歌詞です:
「わが心は血の中を泳ぐ。なぜなら罪の血によって神の聖なる目に私は非道な者と映るからである。そして今わが良心は痛む。なぜならわが罪は地獄の死刑執行 人に他ならないからである。忌み嫌われた悪徳の夜よ! お前が、お前一人が私をこの苦悩へと運んだのだ。そしてお前、アダムの悪の種たるお前、お前がわが 内なる平和の本質を奪い、天国から閉め出したのだ。ああ! 法外な苦しみ! わが干からびた心よ、どんな慰めも決して潤すことはないだろう。そして私は彼 から、天使ですらその顔を隠す方から身を隠さねばならぬ」

 二曲目の美しいアリアは:
「無言のため息、声にならないうめき、お前がわが苦悩を語ってくれるかもしれない。わが口は閉ざされているから。そしてお前が、ぬれた涙の源泉が、わが罪 深い心がいかに悔やんでいるかの確かな証人となることができる。わが心は今、涙の源泉。わが目は熱き泉。ああ神よ! 誰があなたに安らぎを与えるのか!」

 そして最後の曲で軽やかに弾むように:
「喜ばしきかな、わが心。わが後悔と哀しみとによって神は許され、彼の心と祝福から私が閉め出されることはもはやないのである」と転換して締めくくられます。

 演奏ですが、全集を出しているような主立った演奏者のもので気づいたのは、アーノンクールはここではボーイソプラノではないということ、そしてガーディ ナー盤のメゾ・ソプラノ、サイモン・ラトルの奥さんでチェコ出身のマグダレーナ・コジェナーの歌唱は DVD で見ることもできるということです。映像で見ていると、豊かに震わす声で感情を込めて歌っているのがよく分かります。起伏があり、声楽テクニックのことは 分かりませんが、伝統的な歌唱法をよく身に付けたダイナミックなものだと思います。この歌い方が好きな方には一番ではないでしょうか。CD はアルヒーフから一枚ものでも出ていて、113と179番とのカップリングですが、これは90年代の録音ではなく、ソリ・デオ・グロリア全集盤の巡礼のと きのもので2000年録音です(全集では Vol.28)。

 ここで取り上げる鈴木盤のソプラノは鈴木美登里。透明できれいな声で歌います。小柄な日本人が腹筋を使うドイツ式歌唱法で歌っているのか、ベルカントな のかは分かりませんが、特段オペラ的には聞こえません。ビブラートは他の人よりは目立ちません。音程が上がった頂点の長音符の直前に入る装飾がはっきり聞 こえますが、ポピュラーでいうプリビートのグリスアップのようなその装飾は楽譜にあるようで、どの歌手もそう歌っているのでオペラ寄りというわけではあり ません。揺れる心というところでしょうか。テンポ設定はゆったりしており、コープマンやガーディナーなどに慣れていると立体感に乏しく感じる人もあるかも しれませんが、音色も声もとにかく美しいことに奉仕しているかのようです。1996年録音の Vol.4 収録で、組み合わせは165/185
/163番です。



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       Bach Secular Cantatas
       Was mir behagt, ist nur die muntre Jagd,
BWV 208 "Jagdkantate" (Hunting Cantata)
       Erna Spoorenberg (S1/Diana)   Irmgard Jacobeit (S2/Pales)
       Tom Brand (T/Endymion)   Jacques Villisech (B/Pan)
       Jürgen Jürgens (chorus master)   Monteverdi-Chor Hamburg
       Andre Rieu   Amsterdamer Kammerorchester


バッハ / カンタータ
第208番「楽しき狩こそわが喜び」(狩のカンタータ)BWV208
エルナ・スプーレンバーグ(ソプラノ/ディアナ)/ イルムガルト・ジャコバイト(ソプラノ/パラス)
サイモン・デイヴィス(テノール/エンデュミオン)/マイケル・ジョージ(バス/パン)
ユルゲン・ユルゲンス / ハンブルク・モンテヴェルディ合唱団
アンドレ・リュウ / アムステルダム室内管弦楽団




    kirkby208202.jpg
       Bach Cantatas
       Was mir behagt, ist nur die muntre Jagd,
BWV 208 "Jagdkantate" (Hunting Cantata)
       Jennifer Smith (S) (Diana)    Emma Kirkby (S) (Pales)
       Simon Davies (T) (Endymion)    Michael George (B) (Pan)
       Roy Goodman  The Parley of Instruments


バッハ / カンタータ
第208番「楽しき狩こそわが喜び」(狩のカンタータ)BWV208
ジェニファー・スミス(ソプラノ/ディアナ)/エマ・カークビー(ソプラノ/パラス)
トム・ブランド(テノール/エンデュミオン)/ジャック・ヴィリゼク(バス/パン)
ロイ・グッドマン / パーリー・オブ・インストルメンツ

「主よ、人の望みの喜びよ」と並んで喫茶店バッハと呼んでいい有名なメロディーがもう一つ、カンタータの中にあります。マリナーもオーケストラ用に編曲し たし、あのヨーヨー・マも弾いているし、誰しもどこかで一度は耳にしたことのある旋律です。「羊は安らかに草を食み」のことです。世俗カンタータの第 208番「楽しき狩こそわが喜び」、通称 「狩のカンタータ」の九曲目ですが、昔 FM の朝のバロックのテーマ曲だったこともあり、知っている人にはあの頃が蘇って懐かしいだろうと思います。皆川達夫、服部幸三といった解説者が案内し、夏休 みの朝のさわやかな空気を思い出すという方もいらっしゃるようです。また、一頃エール・フランスの機内でも使われていました。パイロットが着陸降下体勢に 入ったこと、現地の天候と気温などをアナウンスする直前にこの音楽が楽しげに流れ、それからフラップの下がるモーター音が聞こえてくるわけですが、やっと 着いた喜びとともに最も危険な着陸時に乗客がリラックスできる効果もあったのかもしれません。そんな何ともほのぼのとした、やさしいメロディーが牧歌的な リコーダーに導かれて歌われます。

 この曲も147番と並んで有名な楽章のみが突出した作品だと言え、個人的にもその部分が特に好きですが、他の楽章も通しで楽しく聞けますのでここで取り 上げます。作られたのはワイマール時代の1713年、バッハが仕えていたワイマール公の友だちで、ワイマールの北東、ヴァイセンフェルスの領主だったクリ スティアンの誕生日を祝うためでした。バッハ28歳のときです。クリスティアンは貴族のたしなみである狩が好きだったのでこういう形になりましたが、作詞 はザロモン・フランク、作曲はバッハに任せられたものです。楽しみで殺される動物たちは受難ですが、タイトルも 「狩の喜び」となりました。十五曲構成でリコーダー以外でも狩のホルンの音を交え、教会カンタータとは正反対の趣でいかにも世俗カンタータといった具象的 なところがあります。オペラの要素が強く、ローマ神話のディアナ、その恋人エンデュミオン、笛で有名な牧神パン、野の女神パラスが出て来て劇をやり、誕生 日を祝って領主を褒め讃えるもので、当時は仕方のなかったごま擦り的なものですが、クリスティアンはバッハが好きだったのか、終生高く評価していたようで す。

 劇の内容をおおまかに見てみます。まずローマ神話の狩の女神、ディアナが出て来て狩の喜びを歌い(1、2曲目)、次にその恋人であるエンデュミオンが登 場し、ディアナが一人で狩に出て行ってしまって自分は置いて行かれたと嘆きま す(3、4曲目)。するとディアナはエンデュミオンに、実は領主クリスティアンのために狩に出たのだと打ち明け、二人は和解して喜びの歌をうたいます(5 曲目)。その後牧神パンが登場し、羊を統率する役目をクリスティアンに任せる、と言います。さらに領主なき領民は不幸だ、クリスティアンこそが領主に適任 だと褒め、羊が領民を表していることが分かります(6、7曲目)。そこに野の女神パラスが現れ、領民だけでなく、領土もクリスチャンが主(あるじ)になっ て喜んでいるといって領主を褒め讃えます(8曲目)。そして「羊は安らかに草を食み」の部分に入り、そこではクリスチャンに統治されて喜ぶ領民を羊になぞ らえて、草を食む羊たちは安らかだと歌います(9曲目)。それからクリスチャンへの讃歌がディアナと合唱によって歌われ(10、11曲目)、さらにディア ナとエンデュミオンの組も同じように歌い(12曲目)、パラスも賛美し(13曲目)、パンは領地の自然を褒め讃え(14曲目)、最後にクリスチャンの永続 を願う合唱で締めくくられます(15曲目)。

「羊は安らかに草を食み」の歌詞です:
「良き羊飼いが目を配っているとき、羊は安全に草を食べることができる。統治者が良き統治をなすとき、私たちは安全と安らぎを感じることができる。そしてそれが国々を幸せにするのである」

 CD ですが、またちょっと古いものになってしまいました。ソプラノがオペラティックでなく、少女のようで 可憐だからです。有名な「羊は安らかに草を食み」の部分を歌うパラス役は1929年生 まれのドイツのソプラノ、イルムガルト・ジャコバイトで、ダス・アルテ・ヴェルク1962年録音盤です。指揮者はア ンドレ・リュウ。世界中でキャラバンを組み、派手なステージ演出と親しみやすい選曲でクラシックに縁遠い人も熱狂させるプロデューサーにして、そのコン サートではサーカスのような巨大テントに観光バスでツアーが組まれるあのオランダの指揮者、の同名のお父さんです。ジャコバイトは素直で本当に美しい声、 清潔で古さを感じさせない歌いまわしで LP 時代から聞いていましたが、代わるものがありません。ハンブルク・モンテヴェルディ合唱団とその指揮者のユルゲン・ユルゲンスはアルヒーフから出したレ コードでモンテヴェルディのマドリガーレを広めた初期の功労者(紹介していたのは「朝のバロック」でした)、加えてブリュッヘンやレオンハルトの名前もあ ります。CD は2008年にレーベルのリバイバル企画でテルデックとして出ました(写真上)。206番との組み合わせです。古めの録音とはいってもステレオで、ハイの 伸びやバランス面でも劣るところは何もありません。

 もう一つ挙げるなら、やはりカークビーでしょうか。鈴木雅明/BCJ が世俗カンタータ・シリーズ Vol.2 として出してきた盤のジョアン・ランも飾りが少ない好きなタイプの歌手で、この曲ではテンポが遅めで間がある運びなので羽のように軽い感じではないです し、高い響きに部分的に強いものが感じられるながら、真っすぐでオペラ的ではありませんでした。全体にオペラ色の強いものが苦手なのでこういう選択になる のですが、ノン・ビブラートで古楽ムーブメントの新しい歌唱法を編み出した一人、イギリスのエマ・カークビーも、ファンというわけではなくても気になる存 在です。その狩のカンタータは1985年の録音ですからカークビーは36歳、絶頂期と言える頃です。この人のベストはクープランのルソン・ド・テネブレか ダウランドの同年ライヴあたりだと思いますが、コーヒー/農民カンタータ、次で取り上げる結婚カンタータと並んでこの狩のカンタータもほぼ同じ時期です。 ここでは残響が少なめでテンポ設定が若干速めであり、滑らかに抑揚をつけて歌う感じにはなっていませんが、さらっとして真っすぐな歌い方はやはり独特で す。相方のディアナ役とコントラストが付くところも面白い一方で、カークビーもここでは技法的な装飾として低い音で声を震わせています。それでもスケール の上ではオペラ的な歌い方とは反対で、高い方は彼女らしく透明に伸びています。バロック唱法において主流がこの方向に行かなかったのはちょっと残念です。 ハイペリオンの録音は残響が控え目である以外は人数も少なく、見通しの良いきれいな音です。



    kirkby208202.jpg
       Bach Cantatas
       Weichet nur, betrübte Schatten, BWV 202
  The Wedding
       Emma Kirkby (S)
       Andrew Parrott The Taverner Players


バッハ / カンタータ
第202番「しりぞけ、悲しみの影」(結婚カンタータ)BWV202
エマ・カークビー(ソプラノ)
アンドリュー・パロット / タヴァナー・プレイヤーズ




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Bach Secular Cantatas
       Weichet nur, betrübte Schatten, BWV 202
  The Wedding
       Joanne Lunn (S)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan

バッハ / カンタータ
第202番「しりぞけ、悲しみの影」(結婚カンタータ)BWV202
ジョアン・ラン(ソプラノ)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 世俗カンタータが出たところで、同じ仲間を続 けます。今度はソプラノ独唱用の結婚カンタータです。狩のカンタータが一曲のみ突出してきれいな旋律で有名になったのに対し、こちらにはそんな超有名メロ ディーがあるわけではない反面、出だしから叙情的で全体に楽しめる曲だと言えるでしょう。メロディアスな楽章という意味では表題となるアリアであるその一 曲目が大変見事で、五曲目には軽い調子の短調のアリアがあるというところでしょうか。滑稽な感じながら耳に残る旋律では七曲目で、終曲は披露宴会場からの 退出の音楽と解釈されていたこともあるそうです。世俗カンタータの中では優美な作品で、狩のホルンがパッパカ鳴ったり、コーヒーおいしくてやめられない、 とはしゃいだりする方向ではありません。ちょっと教会カンタータにも似た敬虔な感じすらするのは結婚というものの神聖さを意識するからでしょうか。結婚式 用ということなのですが、誰の結婚式だったかは分かっておらず、いつ頃の作曲かも資料は残っていないようです。技法的にはワイマール時代か、その次の時代 でライプツィヒに行く前のケーテン時代かだろうということで、ケー テン時代には教会カンタータは演奏できなかったので他所でやるための数曲があるのみですが、世俗カンタータならあり得るということでしょう。そうすると 1708年から1723年の間になりますが、ワイマール時代で盛んに作曲された のは1713年ぐらいからになるので、バッハ28歳から38歳の間のどこかの時点ということだと思います。因みに結婚カンタータとされるものには他に 210番もあり、教会カンタータの120a、195、196、197番も結婚式用だということです。これらの中ではこの202番が最も有名です。 

 曲の目玉であり、「しりぞけ、悲しみの影」のタイトルとなった一曲目のアリアは、繰り返される弦の上昇音型の上にそっとオーボエが、懐かしげに後ろを振 り返りつつ昇って行く形で始まります。静けさの中に喜びが湧き出すような美しいメロディーです。そしてソプラノが肯定的に歌い始めますが、すぐに雲がかか るように半音上がった不協和な音を一瞬交え(音階をハ長調にするなら♯ソ)、その後も明るく静かな基本の歌と不協和音、短調を繰り返しながら複雑に進行 し、後半では雲が晴れて軽やかになるという意欲的な造りです。バッハの才能を見事に示していると思いますが、これによって冬の霧が晴れて行って春が到来す る様子を描いており、悲しみの(betrübte 憂鬱な)影が去ること、象徴的には北風と霜として考えられるものから幸福な結婚生活へと至ることを表しているようです。それにしても、悲しみの影とは具体 的に何でしょう。フィガロの結婚のように領主さまが立ちはだかってたわけでもないでしょうから、独身時代の孤独のことでしょうか。少なくとも、とうとう結 婚に結びつきそうな相手が見つかり、以前は人に言えないことも色々やってきたけどもう大丈夫、ということではないかもしれません。楽器の規模から貴族用で はないそうですが、こんな曲を献呈された夫婦は幸せな気もします。

 この曲一曲で満足かなという出来の最初のアリアの歌詞は:
「しりぞけ、悲しき影、霜と風、お前の眠りにつけ! フローラ(花の女神)の歓喜はわれらが心に喜ばしき幸運のみを授けるだろう。なぜなら彼女は花をまとって現れるからである」

 そしてその後、曲全体の進行は概ねこんな感じです: 寒さから解放された春の世界が讃えられ、太陽の神アポロン (フェーブス)が駿馬に乗って現れますが、彼は新しく生まれた春の大地の恋人に自らがなりたいと望んでいるのです。 そして愛の神アモールも自身の楽しみを求め始め、春風が牧草地を撫でるのに乗って彼の宝物を探しますが、それは誰かの心が誰かにキスをすることだと信じら れている、と歌われます。次に喜ばしきことに新郎新婦が幸運に恵まれ、その二つの魂が宝を手にしたと祝福が送られます。そこからは愛の試練について語る部 分となり、「愛の熟達者になるためには、花の女神の色褪せて行く楽しみよりも、ふざけ合ったり軽く抱擁したりする方が大事だ」とアドバイスされ、「それゆ えこの純粋な愛の絆が、信頼し合う二人が、浮気な変化から離れていられますように。突然の出来事や雷鳴があなた方の愛の欲望に挑むことがありませんよう に!」と警告し、最後に「幾多の輝く幸せな日々を満足をもって見守り、やがて 近く来るべきときに、あなた方の愛が花開きますように!」と祈られて終わります。

 演奏はやはりここでも、エマ・カークビーの盤を挙げておきます。真っすぐ透明に伸びた声です。低い方で装飾として揺らすこの曲固有のものを除いて、高い 方には基本ビブラートがかかりません。前述の狩のカンタータでご紹介したものと同じ CD で、デヴィッド・トーマスの歌う82番とカップリングになっており、狩のカンタータがもう一枚付いている二枚組のハイペリオン盤です。結婚カンタータの方 は1981年録音で、カークビーは32歳。他にも82番とだけ組になっ た一枚ものも1982年に出ていて、そちらの方がオリジナルです。その後にはホグウッド/アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージックのデッカ新盤も出 しています。聞いてみましたが、テンポも歌い方も大きくは変わっていませ ん。そちらは1996−97年録音です。

 これとは別に、鈴木盤で歌うジョアン・ランも良かったです。狩のカンタータのときのように野趣あふれる強い高音は感じられず、バランスも良いと思いま す。技法としてはカークビーと違って高い方にビブラートはかけるものの、こちらも同じぐらい透明で、繊細さもあって品の良い歌い方です。カークビーとは甲 乙つけがたいです。面白かったのはいつもと違う名古屋のしらかわホール収録ということで、チェンバロが目立つように録音されたの か、あらぬところで高周波の音が鳴るので携帯のチャイムかと確認してしまったことです。狩のカンタータでは機器の歪か食器棚のビビリかと色々探しましたの で、二度驚かされました。楽譜にそんなパートもあったのかという新しい発見でした。さほど大きくない木張りのホールです。ということはソプラノの声の強さ も案外会場の共鳴だったかもしれません。録音が悪いと言っているわけではないので、あらためてきれいな音だと付け加えておきま す。ホール自体も良いホールだと思います。残響の多い教会のようなところでは曲本来の響きにならないのでしょう。世俗カンタータ・シリーズの Vol.3 で2012年録音、173a、36cとカップングです。



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       Bach Secular Cantatas
       Schweigt stille, plaudert nicht, BWV 211 Coffee Cantata
       Mer hahn en neue Oberkeet, BWV 212
Peasant Cantata
       Emma Kirkby (S)   Rogers Covey-Crump (T)   David Thomas (B)
       Christopher Hogwood   The Academy Of Ancient Music


バッハ / カンタータ
第211番「おしゃべりはやめて、お静かに」BWV211(コーヒー・カンタータ)
第212番「わしらの新しいご領主に」BWV212(農民カンタータ)
エマ・カークビー(ソプラノ)
ロジャーズ・カヴィ=クランプ(テノール)/デイヴィッド・トーマス(バス)
クリストファー・ホグウッド / エンシェント室内管弦楽団
 



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       Bach Secular Cantatas
       Schweigt stille, plaudert nicht, BWV 211 Cofee Cantata

       Carolyn Sampson (S)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ/世俗カンタータ集〜
第211番「おしゃべりはやめて、お静かに」BWV211(コーヒーカンタータ)
キャロリン・サンプソン(ソプラノ)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 次は有名な作品であり、演奏に関して自分では これだ、と思っているものがあるので取り上げますが、正直しょっちゅう聞く曲ではありません。したがって詳しいことも書けませんので、ここではオマケと 思ってください。それは、よく二つ一緒にされるコーヒー・カンタータと農民カンタータです。バッハを大切に思っている方には言いにくいのですが、劇の要素 が加わり、語りの部分が多くなってくると注意力が途切れてしまうのです。特に農民カンタータがそうです。コーヒー・カンタータの方は当時の社会事情を反映 する面白い話ですし、コーヒー讃歌である四曲目のアリアなど、(そこだけが特に有名とも言えますが、)親しみやすいバッハらしいメロディーもあります。サービスエリアの自販機コーヒーは抽出音が ウーゴ・ブランコのコーヒールンバ(モリエンド・カフェ)だけど、こっちを使ってもいいぐらいです。両曲ともに「コーヒーおいしい、楽しい」ってときにどうして短調なのかというのは面白いテーマな気がしますが、短調でもなんとなくわくわくすると ころが不思議です。農民カンタータの方も歌詞はともかく音楽は頑張っているとウィキペディアにも書いてあったりします。オペラ的な要素が強く、楽しい作品 と評されます。全くその通りだと思います。

 コーヒー・カンタータはバッハが入り浸っていたライプツィヒのカフェ・ツィマーマンというコーヒーハウスで上演されました。というか、衣装を着けてやる のは最近の流行だという話ですから、演奏された、と言うべきでしょう。コレギウム・ムジクムという市民や学生から成るアマチュア音楽愛好家の集まりにバッ ハが加わっていたこともあり、その溜まり場であったカフェで彼らと演奏したのです。わいわいと楽しかったことでしょう。バッハ47歳から49歳頃という、 ライプツィヒ時代でも教会カンタータをたくさん作った時期より後の作品で、テーマはそのものずばり、コーヒーについてです。コーヒーはイスラム圏のオスマ ン・トルコで盛んだったもので、密かに愛好家だった教皇が公認してからはヨーロッパ全土に広がったようですが、本格的に入って来たのはベニスの商人経由で 1600年代前半、ドイツに伝わったのが1670年代ということです。1685年生まれのバッハが活躍する頃には各地でコーヒーハウスが開業し、それから 数十年後にコーヒー禁止令が出るまで流行の飲み物として中毒者が出るほどの人気だったといいます。トルコでは例の長い把手の先にちっちゃな金属のコップが 付いたような格好の鍋(イブリーク)に粉を入れて煮出してましたが、ヨーロッパではもう少し大型になって今のコーヒー・ポットのようなものに変わり、バッ ハの頃はまだネル・ドリップが発明されてなかったので麻袋に粉を入れて ティー・バッグのようにして煮出していたものと思われます。ストロングだったのでしょうか。ドイツで一般的に出されるコーヒーはフレンチほどは濃くないも のの、ブレンドの好みで独特の風味があるように感じます。アメリカや日本のブレンドとも平均値が違いますが、カフェ・ツィマーマンでバッハはどんなコー ヒーを飲んでいたのでしょうか。古楽器演奏のアクセントと同様、今となってはイマジネーションの中でしか味わえません。

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                                                                                         Café Zimmermann

 劇には前口上があります。パーティーではシャンペングラスをフォークで叩いてお喋りしてる人たちを注目させたりしますが、さあさあ皆さんお静かに、お待 ちかねのお話が始まりますよ、というのがここでのタイトル「おしゃべりはやめて、お静かに」です。進行役のテノールに紹介されて役者が登場しますが、歌う のはバスとソプラノ、これはお父さんと娘です。お父さんの名前はシュレンドリアン、ドイツ語で伝統とか伝統主義者のことで、頭の固いオヤジ、ぐらいの意味 でしょう。父と子のいつもの葛藤が描かれます。娘は年頃のリースヒェンで、この子がコーヒー中毒です。だいたいこんな調子です: まず父が、まったくうち の娘ときたら父親の言うことなんかまるで聞きゃしない、と愚痴り、娘にコーヒーをやめなさい、と言います。娘は、「無理。一日三回は飲むわよ、やめたらの たうち回ったあげく干からびちゃうわ。 私がヤギの焼き肉みたくなっちゃっていいわけ?」と反抗。そして、「ああ、なんて甘いコーヒーの味、マスカット・ワインよりおいしい。キスよりいいわ よ」。父は怒って、「じゃあパーティーはなしだ、散歩にも出るなよ」と脅します。「ぜーんぜん。コーヒーさえあればオッケー!」と娘。「生意気言うな、 ぴったりの流行の服も買ってやらんぞ」。「わかったわよ、買わんとけばー」。「じゃあ窓から外を見るのもだめにする!」「べつにー、すりゃいいじゃん。 コーヒーがいいわよ」。「帽子飾りの金や銀のリボンがもらえなくてもいいのか?」「コーヒーさえあれば何も要らない」。業を煮やした父親はとうとう、「結 婚はなしだ」と言います。すると娘は、「え、うっそ。まじ?」と困惑顔。父は断言して、「絶対許さん」。とうとう娘は、「やば。それはちょっと… じゃコーヒーやめる」とあっさり降参します。父は喜んで娘の婿探しに出かけるのですが、当時は結婚は親が決めるのが普通だったわけで、それでも女の子は花 嫁に憧れるのでしょう。ところが一枚上手なのは娘の方で、オチがつきます。父親より先に街中に言いふらすのです。まるで訴訟天国の現代アメリカみたいです が、婚前契約で私の婚約者は私がコーヒーをいつでも飲めるようにしないと結婚できない、家にも入れない、と。あとは三重唱で、「みんな大好き、コーヒー。 母ちゃんもばあちゃんも飲んでたよ、それじゃあ誰が娘を叱れるの!」と CM のように締めくくります。金銀のリボンに流行の服というので貴族の父娘かと思いきや、上の CD の写真なんかを見ると田舎娘みたいで、平民でしょうか。台本を書いたのはマタイ受難曲と同じ作者で、「かささぎ男」という意味のピカンダーというペンネー ムを持つクリスティアン・フリードリヒ・ヘンリーツィです。

 農民カンタータの方は新しい領主の着任祝いで演奏されたもので、バッハのいたライプツィヒを含むザクセン地方の方言で歌われます。内容は言葉遊びのよう なもので、今で言えばラップのように次から次へとスラングのパンチを繰り出して面白おかしく喋ってるのでしょう。しかし方言が分からないからか、この時代 のジョークのツボが理解できないのか、 私などは何を言ってるのかさっぱりな感じです。途中で何度も領主さまを褒めそやすのが目的のようで、どうやら作詞者のピカンダー自身がその領主から税金取 り立て人として雇われたためにご機嫌とりの曲が必要になったようです(それが元々の仕事で作詞は副業)。ラップとは違って権威への反抗とは真反対に走るわ けで、歌詞の中には税金取り(自分)を嫌な奴と言い、それに比べて領主さまは立派なお方、などと持ち上げる箇所が見られます。一瞬気の毒な時代に同情した くなりますが、ラッパーの現代も支配される力が匿名になっただけで、何も変わらないのかもしれません。24曲から成り、教会カンタータは短い歌詞とフレー ズを何度も繰り返すのが常だったのに、こちらは三十分近く、延々と続くように聞こえます。バッハ57歳。最後の世俗カンタータです。バスとソプラノのみで 歌われます。

 さて、結局説明を書いてしまいましたが、CD はカークビー盤です。1986年のオワゾリールで、カークビー36歳のときの録音です。いつも年齢を持ち出して失礼この上ないですが、このぐらいのときの カークビーは最高です。ただビブラートを抑えるからなのかもしれませんが、この人は微妙に音程が揺らいで聞こえる瞬間もあるように思います。そしてこれら二曲では
そういう箇所がほ とんど目立ちません。ほどよく快活なテンポ設定で弾むように躍動的に歌い、チャーミングです。コーヒー・カンタータの有名なアリアで重要な役割を果たすフ ルートのリザ・ベズノウシクも特筆に値します。この時代の楽器は音が弱々しくて輪郭がはっきりしないことになってしまいがちですが、この盤は理想的です。

 コーヒーカンタータでは鈴木盤のソプラノ、キャロリン・サンプソンも素晴らしいと思います。82番でも歌っていました。バッハ・コレギウム・ジャパンに 客演するソプラノとしてはこのキャロリン・サンプソンとジョアン・ランはよく起用されています。
この曲では比べられませんが、音が似た瞬間もあるジョアン・ランと比較すると、ランの方が張りの強さをより感じ、若干太さも持っているように感じますが、サンプソンはそれより少し少女っぽい声質でオペラ的でない反面、装飾は多少華やかなときもある印象です。他にもミア・ パーション、ハナ・ブラシコヴァもいいし、レイチェル・ニコルズも好きです。これだけ集められるということはすごいことだと思います。選んでいるのか、たまたまの縁か分かりませんが、上品で繊細という点で一定の傾向はあ るようです。ガーディナー盤ならキャサリン・フーグでしょうか。いずれにせよカークビーとの比較で言えることは結婚カンタータの場合と同じで、サンプソン は古楽寄りではあってもノン・ビブラート唱法ではありません。しかしコーヒーカンタータではその差はさほど意識しないかもしれません。カークビー盤よりややゆったりめのテンポで、弾む感じというよりもよりすっきりと延ばして、歌謡的にきれいに歌います。この盤でのカップリングは210盤で、もう一つの結婚カンタータとされる曲です。



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Bach Cantatas
       Herr, gehe nicht ins Gericht mit deinem Knecht, BWV 105

       Katharine Fuge (S)   Daniel Taylor (C-T)   James Gilchrist (T)   Peter Harvey (B)
       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists
 


バッハ / カンタータ集〜
第105番「主よ、あなたの信者を裁きにかけないでください」BWV105
キャサリン・フーグ (ソプラノ)/ ダニエル・テイラー(カウンター・テノール)
ジェームズ・ギルクリスト(テノール)/ ピーター・ハーヴェイ(バス)
ジョン・エリオット・ガーディナー
モンテヴェルディ合唱団 / イングリッシュ・バロック・ソロイスツ




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       Bach Cantatas Vol.10
       Herr, gehe nicht ins Gericht mit deinem Knecht, BWV 105

       Miah Persson (S)  
Robin Blaze (C-T)   Makoto Sakurada (T)   Peter Kooy (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.10
第105番「主よ、あなたの信者を裁きにかけないでください」BWV105
ミア・パーション(ソプラノ)/ ロビン・ブレイズ
(カウンター・テノール)
櫻田亮
(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 いわゆる名曲として誰しもが数え上げる曲の中 には通常入らないのに、バッハでなければ書けないだろうという傑作があります。105番です。これは私がそう言うのではなく、恐らくバッハやカンタータに 造詣の深い方の間では常識になっているのだろうと思います。バッハ・コレギウム・ジャパンの全集が完成したとき、あれを企画した BIS の目利きの社長さんがオーディオ雑誌のインタビューを受け、お決まりの質問をされたときの記事を思い出します。たくさんあるカンタータの中で一番好きな曲 はどれですか、と聞かれたのですが、答えは105番の三曲目のアリアでした。もちろん147番とか82番とかは言わないでしょうが、さすがです。105番 全体も褒めてた記憶ですが、それは本当に一番と言って良い、心に沁みる美しいアリアです。これほど複雑な進行をするのに有機的なものが他にあるでしょう か。バッハの研究者アルフレート・デュルもこの曲の最後のコラールについては「バロックとキリスト教芸術における最も素晴らしい魂の描写」と述べているそうです。ライプツィヒ時代、三位一体節後第九日曜日のために作られた、バッハ38歳頃の作品です。

 この曲はそのアリアが美しいだけでなく、曲全体としても緊密な造りであり、最初の合唱からうならせるものがあると思います。複雑な音の進行、当時として は先鋭的だっただろうコードの選択、典型的なメロディー進行にならない小刻みな変化は不安を煽る素晴らしい効果をあげていると思います。調性が定まらない ような感覚を覚えさせる前衛性がありながらも圧倒的な感情的要素を持っています。そして終曲のコラールもそれに呼応した構造で、シンプルな終わり方のアイ ディアは意外であり、モーツァルトの不協和音四重奏の序奏のような弦が最後の息を引き取るように曲を終えると、安らぎと驚きを同時に覚えます。ベートー ヴェンの32番のピアノ・ソナタのアダージョも時代を超えていたように、この曲にも何か時を超越したものを感じました。
自分への憐れみの波長が全くないとは言いませんが、やはりバッハ宗教曲の最高傑作かもしれません。

 複雑にしてこの上なく美しい三曲目のソプラノのアリアは高音の弦とオーボエに導かれてこう歌います:
「罪人たちの思いはなんと揺れ動くものだろう。お互いに非難し合う一方で、あえて言い訳し合おうとする。このようにして良心の呵責が、自らの責め苦によって苦しめるのである」
 非難し合い、言い訳し合うという部分はローマ人への手紙2−15にあるパウロの言葉で、ここではユダヤ律法の話をしており、外国人でその法律を知らない まま自然に法律を守って行動している人は内的法律を持っており、その判断によって訴え合ったり弁護し合ったりしているのだ、と言っているように読める箇所 です。このカンタータの作詞者は少し異なった否定的ニュアンスで引用しているように思えますが、非難と言い訳を武器とする自我によって自らの苦しみを自ら が作り出し、我々人間は常にその状況に揺さぶられ続けているのだという意味にとると、大意では納得できます。もし、内在的な倫理規範に従うことを良いこと だとこの聖句が述べているように解釈するなら、神の処罰を恐れるのは内在的な原理ではないと思います。この曲はバセットヒェンのアリアと言われること がありますが、それは通奏低音がないアリア、という意味です。高い音で静かに漂いつつ、澄み渡っています。

 曲のテーマは199番その他で数多く取り上げられてきたキリスト者の中心的な主題、罪と購いです。最初に「裁かないでください。私は自分の罪の大きさを 自覚しており、それを告白しますから」と許しを求め、次に「幸いなことに罪はキリストの死が購ってくれる」と語られ、最後の魅力的な楽章は「イエスが言わ れたように、この世で永遠の命を得られる」という希望で終えられます。人類の置かれた状況(罪)から解放され、生きている状態のままで時間を超えた平安 (永遠の命)を得られるとイエスは述べたということですから、曲と同様の深い感慨を覚えます。戦後間もなくの日本人を教導した考えとして、罪と恥の二軸に よって洋の東西を分割し、差異に目を向けさせようとする論議もありました。西洋キリスト教文化は自らを統べる内在的規範に従う文化であり、他者の評価に従 う日本とは根本的に違うというもので、その後コンプレクスを刺激して逆アイデンティティを形成させ、集団の和を重んじる心を喧伝する日本側の自己弁護にす らなったようですが、違いというよりもむしろ、罪とは人類に普遍的な問題なのだと思います。

 最後の感動的な楽章で歌われる合唱は、語句を変えずにこう訳すことができます:
「今私には分かる。あなた(イエス)の誠実な愛によって善悪の判断を悩ませることが静まり、あなた自身が語ったことが実現されるということが。あなたはこ うおっしゃったのだ: この広い地上にあって、誰も失われる者はなく、時を超えてあり続ける。ただその者が確信に生きるのであれば」 

 演奏ですが、三曲目のアリアとして素晴らしかったのはガーディナー盤のソプラノ、キャサリン・フーグです。落ち着きがあり、歌い方の表情としてただ伸び やかなだけでなく、一本調子ではない深いためがあります。声音も自然で、ゆったりしたテンポでやわらかく力を抜くところと、クレッシェンドして行く強さと の間にコントラストが出ます。それは最後にとっておいた力を使うかのようで、はっとします。声自体も大変美しく、まずこれを一番に挙げます。2000年の 録音で、カップリングは四曲目のアルトのアリアが美しい94番と168番です。

 鈴木盤はバックの演奏が良いです。BIS の社長さんが自慢するだけあって全体に出来が良く、もちろんソプラノも素晴らしい声です。三曲目で歌っているのはミア・パーション。スウェーデンのソプラ ノです。声質がいいです。包まれていたい軽さとやさしさがあり、常に澄んでいます。文句のつけようがないでしょう。そして演奏が良いと言ったのは、例えば 最後の合唱での管弦楽の扱いなどです。引きずる弦をゆっくりにして合唱に対抗させているかのように目立たせることで、この曲の持っている尋常でないインパ クトを味わわせてくれます。 ガーディナーも良いですが、洗練されているのでこの不協和な感覚がバランスされ、この部分では案外普通の曲に聞こえ てしまうかもしれません。鈴木の方は比べればテンポも全体にゆったりめです。Vol.10 で録音は1999年、カップリングはオーボエをともなって憂いを含んだソプラノのアリアを五曲目に持つ179番と、186番です。



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       Bach Secular Cantatas Vol.6
       Laß, Fürstin, laß noch einen Strahl, BWV 198
       Joanne Lunn (S)   Robin Blaze (C-T)   Gerd Türk (T)   Dominik Wörner (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan

バッハ / 世俗カンタータ集 Vol.6
第198番「侯妃よ、今一度その眼差しの輝きを」BWV198
ジョアン・ラン(ソプラノ)/ ロビン・ブレイズ(カウンター・テノール)
ゲルト・テュルク(テノール)/ ドミニク・ヴェルナー(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 これまで取り上げてきた曲で、バッハのカン タータとして一般に名曲として知られるもののほとんどを網羅してきたと思います。一部は好みだからという曲もありましたが、反対にあちこちで論議される曲 ながら洩れていたものがあるとすれば、4番と78番、198番ぐらいでしょうか。

 4番「キリストは死のくびき/縄目につながれたり」 BWV4 はミュールハウゼン時代、ワイマールに来る前の若いときの作品で、23歳以前に作られたのだろうとされています。悲しみにうち沈み、重く引きずるような出 だしのシンフォニアから最初の変奏に至るところが印象的ですが、曲はすべてルター(宗教改革者)のコラール(賛美歌)をアレンジしたという特殊性のあるも ので、音の響きがバッハの他のカンタータとは異なっています。用途は復活祭用で、テーマはバッハが最も好んで取り上げたものである、原罪の大きさ、キリス トの購いから救済へ、というものです。コラールの変奏曲ということでルネサンスのポリフォニー音楽のような響きを持っており、モノトーンの、人によっては 魅力的な渋い味わいに、あるいは単調に聞こえることでしょう。大きな展開がないので繰り返しに感じるかもしれませんが、逆に言えばマッシブな音の渦に浸さ れている感覚を味わえると思います。好んで聞くわけではないのでどの演奏が良いかという判断もできませんが、最初にこれを聞いたときはある種のインパクト を覚えた記憶があり、あらためて聞き直してみると、古楽ムーブメントの後の演奏ではテンポが速めで意外な感じのものもありました。こんなことを言うのは自 分らしくないのですが、最初に聞いたのがリヒター盤だったので、あの感情をかき乱すような遅くて切々と訴える始まりの印象が拭えなかったのかもしれませ ん。そんな中、新しい演奏ではガーディナー盤が説得力がありました。

 78番「イエスよ、わが魂を」BWV78 も高く評価され、また人気のある曲です。4番とはまた違った形で、出だしから大きく、物悲しく訴えるところのある短調ベースの曲です。頭の部分だけでも大 変印象に残ります。ライプツィヒ時代の最初の頃に、三位一体節後第十四日曜日のために作られたコラール・カンタータです。

 198番「侯妃よ、今一度その眼差しの輝きを」 BWV198 はライプツィヒ時代に作られた世俗カンタータに分類される曲で、葬儀のときに歌われたものです。ザクセン選帝侯妃のクリスティアーネ・エーベルハルディー ネという人が亡くなったときのセレモニー用で、「さあ、侯妃よ、神殿の丘(サレム=シオン)の星の世界からその輝ける眼差しをもう一度投げてください。そ してあなたの記念碑を取り巻き、どれだけ多くの涙が流されているかをご覧ください」という言葉で始まります。やはり悲しみをあらわにしたメロディアスな曲 調のもので、この中でも八曲目のテノールのアリアには人気があります。「永遠のサファイアの家がプリンセス、あなたの曇りなきまなざしを我々のこの低き境 涯から引き離し、地の卑しい姿をぬぐい去る」と歌われます。一方で五曲目のアルトのアリアは大変静かで美しく、出だしの二挺のヴィオラ・ダ・ガンバの落ち 着いた前奏からぐっと引きつけられます。「どれほど満足してヒロインは逝かれたのか。死の腕が彼女を打ち負かし、彼女の胸を征服する前に、どれほど勇敢に 彼女の魂は闘ったのか」と歌い ます。CD はたくさんあり、カンタータを多く出している人たちのものはほとんど出ています。どれを選ぶかは歌手の好みだと思いますが、ジョアン・ランやロビン・ブレ イズ、ゲルト・テュルクらの歌う2015年の鈴木盤も出ています(上画像)。カップリングはゲオルク・メルヒオル・ ホフマン作曲と考えられる偽作の BWV53、ペルゴレージのスターバト・マーテルが原曲のBWV1083です。

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 さて、これでたくさんあるカンタータの中で自分が聞きたいと思うほとんどの CD を挙げてしまいました。しかし一曲丸ごととは言わないものの、この楽章は絶対落とせないという見事なものもあるので、ここからはそんな曲を取り上げてみます。



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       Bach Cantatas Vol.36
       Am Abend aber desselbigen Sabbats, BWV 42
      
Yukari Nonoshita (S)   Robin Blaze (C-T)   James Gilchrist (T)   Dominik Wörner (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan

バッハ / カンタータ集 Vol.36
第42番「その同じ安息日の夕方に」BWV42
野々下由香里(ソプラノ)/ ロビン・ブレイズ(カウンター・テノール)
ジェイムズ・ギルクリスト(テノール)/ ドミニク・ヴェルナー(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 第42番は三曲目のアルトのアリアが素晴らしく、別に珍しいもの発見自慢とか、そういうことではありませんが、 BIS の社長さんが105番のアリアを挙げたのにならって一番好きな曲だと言ってもいいぐらい、この部分だけでも時々聞きたくなります。バッハ・ヒット チャート20ぐらいに顔を出してもおかしくない曲なので、ぜひ忘れずに聞いていただきたいと思うのです。一つの楽章 だけで12、3分もかかる大作ですが、牧歌的というのでしょうか、安堵感と懐かしさを覚える二本のオーボエが美しい 夕べの空気を運んでくるような始まりで、そこにカウンター・テナーが喜びを表すように加わります。メジャー・キーの静かな歌というのはバッハのアリアの中 で多くはないですが、しかしただ牧歌的というのでもなく、ところどころで伴奏の調性が変わって行くような複雑さが現れ、一瞬のマイナー・コードが挟まれた りして、一抹の不安と喜びとを行き来します。この複雑さは大変魅力的で、特に一通り歌のフレーズが終わった最後の音で、予定されるコードに重ねて別の高い 和音で慰めるようにオーボエが吹くところが印象的です。終わって行くフレーズを延長するようにして管に引き継がれるわけですが、輝きながらもう一度空に舞 うようです。こうした展開はこの曲に歌われている出来事に由来する感情の 動きなのですが、バッハのその見事な発想の元となった事件をちょっと見てみましょう。

 まずこの曲はキリストの復活に関係する曲です。復活祭後第一日曜日のために作られたもので、作詞者は不明ですが、この日に読まれる聖句とコラールなどを 元に構成されています。バッハは40歳ぐらいのライプツィヒ時代、タイトルにある 「その同じ日の安息日の夕方に」というのはヨハネによる福音書の20章19節に書かれていることで、マグダラのマリアがイエスの墓に行き、復活したイエス に会ったのと同じ日曜日(安息日)の夕方に、マリアはそのことを伝えようと思って弟子たちが集まっている所に行ったということなのです。イエスは自分と同 じユダヤ人たちに殺されましたが、弟子たちも同じユダヤ人でありながら、キリスト教徒となっている以上はイエスと同じように捕らえられ、殺される危険があ りました。そんなわけで彼らは一つの建物に集まって中から鍵をかけ、皆で怖がっていたのです。二曲目のレチタティーヴォの歌詞は:「その同じ日の安息日 (サバト)の夕方のこと、弟子たちは集まってユダヤ人たち(迫害)を恐れ、ドアに鍵をかけていたが、そこへイエスがやって来て彼らの間に歩いて入ってき た」というものです。その同じ聖句では続けてイエスが弟子たちに、「安心しなさい」(平安があなた方とともにあるように)と言います。その後のアリアは直 接復活の部分ではないですが、イエスと弟子たちがカペナウムに来たときのやりとりを綴ったマタイによる福音書18章19−20節が引用されており、そこで は復活のときと同様にイエスが弟子たちに向って、「まことにあなた方に言う。もしあなた方の二人が心を合わせて祈るなら、天の父はかなえてくださるだろ う。二人、三人と弟子たちが集まっているところでは、私もその中にいるのである」と勇気づけています。したがってバッハのこのアリアも、復活のときの出来 事を流れとして受け、捕らえられる不安とイエスとの再会の喜び、復活の驚きと安心とが入り交じっている複雑なものになっているのだと思います。第三曲の美 しいアリアは:
「二人、もしくは三人が最愛のイエスの名のもとに集うところでは、イエスが彼らのただ中に現れ、『まことにあなた方に言う』(アーメン:イエスが話し始め るときの言葉)と彼らに話されるのである。愛と必然において起きることは何であれ、天の理を破ることはないからである」
 締めくくりの楽章では、主よ、今の世では私たちのために闘ってくださるのはあなただけです。その下で静かな生活を送れるように統治者に平和と善き統治を お与えください、というように結んでいるので、当時のバッハたちがイエスの時代の迫害になぞらえて事態を見ている面があることも分かります。

 演奏はここでも鈴木盤を挙げておきます。上記のアリアを歌っているのがカウンター・テナーのロビン・ブレイズだからです。他にはジェラール・レーヌが 歌っているヘレヴェッヘ盤もあります。フランス人のレーヌはアルフレッド・デラーの後でカウンター・テナーを有名にした世代の一人で、元はロック・シン ガーという面白い経歴の人ですが、明るく張りのある声で起伏が大きく、ロビン・ブレイズよりもダイナミックです。テンポは速めですが震わせ方にも派手さが あり、生命力を感じさせる歌唱となっています。有名な21番とカップリングになっており、こういう方向の歌い方が好きな方には外せない一枚だと思います。 一方、ガーディナー盤で歌っているのはカナダのカウンター・テナーで人気のあるダニエル・テイラーです。揺れはあるものの、レーヌよりは女性的な細さのあ る声質のようで、それでいて硬質で伸びの良い高音を持ちます。やはりブレイズよりは起伏を付けてくる感じです。ロビン・ブレイズはダイナミックさでは一歩 譲るかもしれませんが、そのやさしくて上品なところ、透明で真っすぐなところが私は大変好みです。そちらは2006年 録音の Vol.36 で、カップリングは6、103、108番です。6番も復活を扱っている印象的な旋律を持つ名曲です。

 

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       Bach Cantatas Vol.43
      
Selig ist der Mann, BWV 57
       Hana Blažíková (s)  Peter Kooy (B)

       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.43
第57番「祝福されしはその者(祝福されたのはその人だ)」BWV57
ハナ・ブラシコヴァ(ソプラノ)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 クリスマスの翌日の12月26日、降誕節第二 日は殉教者ステファノの祝日です。この57番という曲はその日のために作られました。したがって「祝福されしその者」とはステファノのことです。ライプ ツィヒ時代、バッハ40歳頃の作品ですが、第三曲のソプラノのアリアが大変美しいので取り上げます。その部分のゲオルク・クリスティアン・レームスによる歌詞は:
「わがイエスよ、もしあなたが私を愛してくださらなかったら、私は死を、私自身の死を望むでしょう。本当に、もしあなたが私に苦悩を引き起こすというのな ら、私は地獄の責め苦よりも苦しむことでしょう」であり、これはステファノの気持ちを歌っているのでしょう。バスが歌う一曲目のアリアも印象的で:
「誘惑に耐える者は幸いである。自身の証を立てた後、その者は命の王冠を受けるからである」(ヤコブの手紙 1−12)です。キリスト者の証を立て、弾圧者の言うなりにならずに死ぬ行為を最初に讃えているように聞こえます。

 ステファノは紀元35、6年頃にエルサレムで殺されたキリスト教最初の殉教者とされ、聖人として扱われる人です。 信徒への食料等の配給トラブルがあり、その雑務に当たる役員に選ばれていましたが、歴史背景として考慮しなければならないのは彼がギリシャ語を話すユダヤ 人だったことだとされます。この人たちのグループとヘブライ語を話すユダヤ人、パリサイ人との間には長らくいさかいがあったようで、そのために石打ちの刑 に遭って死ぬこととなったからです。この構図はキリストの時と同じなのですが、平たく言えばモーセの律法を守る旧来のユダヤ教徒と勢力を増してきたキリス ト教徒の確執ということになるでしょう。聖書の記述によるとステファノは雑務の役員(七執事)の中でも目立って頭の良い人だったようで、目をつけられ、神 を冒涜したという言いがかりをつけられて裁判所に連れて来られました。そこで旧来の律法遵守のパリサイ人(ファリサイ派のユダヤ教徒)を相手に論戦とな り、切れ者だった彼は相手を論破してしまいます。ユダヤ教徒たちは先祖代々神の予言者を迫害して殺してきたのであり、イエスを殺したのもあなた方だ、とい う論点だったようです。怒ったパリサイ人たちは彼を外に引きずり出し、石打ちにします。当時の石打ちの刑は皆に取り囲まれて石で頭を割られる殺され方で、 レンブラント等多くの画家たちに描かれているように、握り拳大の石を投げられる場合も、もっと大きな石を振り下ろされる場合もあったようです。主にモーセ の十戒を守らなかった者、婚外交渉や同性愛行為を行った者、霊媒(キリスト教の予言者も同じ能力)などがユダヤ法に則ってこの方法で殺されてきました。

 キリスト教の歴史においてはこうした迫害と殉教というものが大変目立つような気がします。他宗教には少なかったからキリスト教に内在する問題だと言うつ もりはないですし、魔女裁判や異端審問、 信者の減少を目指す粛正が起きたように、殺される側に全く非のない状況もあったことと思います。ただ、虐待者と犠牲者が互いに相手を必要とする内的依存に よって結ばれていることを「共依存」と言うように、加害者と被害者の関係は見かけほど単純なものではなく、状況を無意識の合意のうちに作り出すこともある のかもしれません。殉教を作るのは殺す側だとする考えは、残虐な犯人に厳罰を望む態度と同様心情的には支持されやすいですが、殉教者たちの何人かは対立者 にある種の不寛容さをもって衝突してきたと言われます。弾圧する者に形だけの譲歩を見せれば殺すつもりがない場合も道義のために殺されてきたようですし、 殉教を神聖視する思考があったことも事実でしょう。闇そのものと戦うことはできないように、無意識に囚われている者を論破すれば、その対立は応酬を生み、 火に油を注ぐことになるでしょう。「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出しなさい」は今起きている状況への抵抗を手放しなさいということであり、あきら めなさいということではないので、実際の行動としては状況を変えようとしてもいいし、必要なら正しい言動によって死ぬことを選ぶ場合もあると思います。し かし心の中では明け渡している必要があるのでしょう。ただ「今あること」を 受容して次の行動に乗り出すわけです。粋な表現を聞きました。「汝の敵を愛せよ」(ラヴ・ユ ア・エネミー)はハヴ・ノー・エネミーだというのです。敵と味方という二極性を生じさせ、心の中でその片側に立った段階でイエスの助言は守られていないの です。これは誰にでもできることではありませんし、この事件の真相は分かりません。「この者たちを責めないでください」と加害者に祈りを捧げて死んだと聞 けば感銘を受けますし、イエスの教えのように聞こえます。
ステファノを受け入れたいと思いますが、大切なのは内的な平和を実現することであって、外に向って信仰の証を立てることではない気もします。

 CD ですが、これも古くからたくさん出ています。往年の名ソプラノもあり、アーノンクールのボーイ・ソプラノも上手ですし、ジョアン・ランが歌うガーディナー 盤も気になり、強くドラマティックな高音が印象的なヴァシリカ・イエゾフセクのヘレヴェッヘ盤も良かったですが、好みとしてはハナ・ブラシコヴァがソプラ ノ、ペーター・コーイがバスの、またしても鈴木盤でした。決め手はもちろん三曲目のソプラノです。テンポはガーディナー盤ほどではないですがややゆったり め、チェコのソプラノにしてハープも弾くという80年生まれのブラシコヴァの声は、輪郭はくっきりとしていて漂う感じではないながら透明であり、真っすぐ 一つひとつ歌い、飾らず伸びがあります。盤は Vol.43 で、カップリングは管弦楽組曲第4番の序曲に合唱が付く形の出だしを持つ110番(後ほど取り上げます)と、151番。110番のアルトのアリアは美しいですが、カウンター・テ ナーのロビン・ブレイズが歌っていて魅力的です。録音は2007年です。



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       Bach Cantatas Vol.12
       Mache dich, mein Geist, bereit, BWV 115

       Susan Hamilton (S)   Hilary Summers (A)   William Kendall (T)   Peter Harvey (B)
       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists
 

バッハ / カンタータ集 Vol.12
第115番「備えよ、わが魂」BWV115
ジョアン・ラン(ソプラノ)/ ロビン・タイソン(カウンター・テノール)
ジェームズ・ギルクリスト(テノール)/ ピーター・ハーヴェイ(バス)
ジョン・エリオット・ガーディナー
モンテヴェルディ合唱団 / イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 第115番「備えよ、わが魂」はフルートと ヴィオロンチェロ・ピッコロに導かれて歌われる四曲目のソプラノのアリアが静かに沁みる響きでいいです。二曲目には扇情的なイントロを持ち、受難曲から抜 け出してきたかのような荘重なアルトのアリアもあります。どちらも短調です。ライプツィヒ時代の作で、三位一体節後第二十二日曜日のためのものです。55 番と同じで、この日に読まれるのは借金を許さなかった使用人が許されなかったという喩え話です。歌詞は直接はその話を引用するものではないながら、賛美歌 を元に不明の台本作者が書いたそのテーマはそこと関係しており、目覚めていて罪を自覚せよという内容です。神の裁きと罰という文言も出てきますが、罪を見 張ってそれに気づくことは必要でも、裁定することは忍耐しておかないと、かえって囚われてしまうかもしれません。四曲目の美し いアリアの歌詞は短いもので、罪を犯す心からの解放までには忍耐が求められることは間違いないでしょう:
「しかしそれでもなお、寝ずの番をして祈らねばならない。あなたの大きな罪の意識が解放され、浄化されるためには、裁定しようとする者に忍耐を求めねばならないからである」

 演奏は四曲目でジョアン・ランがソプラノを歌うガーディナー盤を挙げます。ジョアン・ランは時にフォルテで固く飾り気のない音を感じさせるときもありま すが、ここでの彼女は囁くように弱く抑えるところが徹底していて印象的であり、強いところとのコントラストが鮮やかについて心をつかまれます。シリーズの Vol.12 でカップリングは55、89、115、60/139、163、52、140の二枚組です。55と140はすでに解説しましたが、140番は同曲のベスト演 奏とも言えるように思います。52番は出だしがブランデンブルク協奏曲の第1番です。ここには入っていないので余談ですが、次の116番の三曲目でも 115の三曲目のアリアで伴奏したのと似た音の弦楽器一挺(こちらはヴィオラで しょうか)が静かで心地良い響きを聞かせています。特にガーディナーの盤では顕著です。そこはテナーのレチタティーヴォですが、短いながらメロディアスに 響きます。また、115番の二曲目のアルトのアリアについては、アンドレアス・ショルが歌うクリストフ・コワン盤も出ています。やはり見事です。そちらの ソプラノはバルバラ・シュリックで、 49、180番との組み合わせです。



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       Bach Cantatas
       O Jesu Christ, meins Lebens Licht, BWV 118
       Nancy Argenta (S)   Michael Chance (C-T)   Anthony Rolfe Johnson (T)   Stephen Varcoe (B) 
       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists  

バッハ / モテット
第118番「おお、イエス・キリスト、わが人生の光」BWV118
ジョン・エリオット・ガーディナー
モンテヴェルディ合唱団 / イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 118番についてはここで取り上げて良いのか どうか迷います。というのはこの曲はカンタータともモテットとも、カンタータとモテットの中間とも言われてきたものの、最終的にはモテットで決着したもの のようだからです。そういう問題には関心と知識がないので学究的な解説を読んでいただきたいのですが、この曲、元はホーン・セクションのみだったそうで、 葬儀のためのものだったと考えられています。作曲のタイミングはライプツィヒ時代の中でも決して初期ではない時期、51歳前後で、現在演奏される楽器構成 にしたのは61歳頃ということであり、65では亡くなるわけですから大変遅い時期と言えるでしょう。バッハは若いときから死にまつわる曲、ときに死に憧れ る曲をたくさん作ってきましたが、これはルーテル派の人々の共通感覚であったと同時に、バッハ個人の人生に対する姿勢の一つだったのかもしれません。そし て変遷をたどってたどり着いたのがこのモテットの境地だったのでしょうか。以前からあったコラールを元にしており、葬儀のときに流し続けるという意図が あったにせよ、展開させずに厳かに進み、そして慰めを感じさせる光が差すような作品となっています。この曲はある種死者のためのミサ曲のようなものです。作曲家最後の宗教曲という意味ではロ短調ミサがその地位にあると思いますが、自作のレクイエムが自分のためになった作曲家が何人かいるように、バッハのこの作品も彼の辞世の句であり、自身を送る歌という見方もできるかもしれません。歌詞は:
「おお、イエス・キリスト、わが人生の光、わが避難所、わが慰め、わが安心の言葉。この地上にあって私はただ招かれた客であるに過ぎない。そして罪の重荷が重く私にのしかかるのである」

 静かで展開しないというところから、演奏では単調になりやすいところもあると思います。そういう意味では、CD 演奏においては深みと静けさがありながら平坦にならないガーディナー盤が良い気がします。1989年録音ということで、後の巡礼演奏のときのものではない ですが、初期にありがちだった例のあっさりしたものではなく、この時期からバッハに対してはこのしみじみと語る波長を出していたのかという新たな発見があ りました。アルヒーフ・レーベルで106、198番とのカップリングです。しかし合唱と管弦楽による曲なので独唱者がおらず、テンポと抑揚が主な問題とな るでしょうから、誰の演奏を聞いても案外好悪の違いが出にくいかもしれません。この盤で他曲を歌うソロイストはナンシー・アージェンタ(S)、マイケル・ チャンス(C-T)、アントニー・ロルフ・ジョンソン(T)、スティーヴン・ヴァーコー(B)です。




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       Bach Cantatas Vol.8
       Komm, du Süße Todesstunde, BWV 161
       Robin Tyson (C-T)   Mark Padmore (T)

       John Eliot Gardiner   Monteverdi Choir and The English Baroque Soloists  

バッハ/カンタータ集 Vol.8
第161番「来れ、甘き死の時(君よ来い、死の甘い時間よ)」BWV161
ロビン・タイソン(カウンター・テノール)/ マーク・パドモア(テノール)
ジョン・エリオット・ガーディナー
モンテヴェルディ合唱団 / イングリッシュ・バロック・ソロイスツ

 第161番は曲全体としても人気があるようで す。バッハ学者のリチャード・ダグラス・P・ジョーンズは「バッハのワイマール時代の全てのカンタータの中で最も豊かに霊感を受けたものの一つ」だと評し ています。確かに楽章ごとの波長が揃っていて通しで味わいがあります。二曲目のテノールのレチタティーヴォもアリアのように歌ってきれいで、四曲目のアル トも同じです。三曲目のテノールのアリアは大変印象的ですし、マタイ受難曲と共通のモチーフを持つ最後の六曲目ではリコーダーにしんみりと静かな合唱が絡 んで不思議な美しさが感じられ、締めくくりの曲としては最も魅力的なものの一つだと思います。ただ、ここで取り上げるのは第一曲のアルトのアリアが美しい からです。コラールを後ろに配し、そのアリアから始まる変則的な作りですが、曲はバッハが30歳頃、ワイマール時代の作品で、前にご紹介した8番と同じ三 位一体節後第十六日曜日用、関連する聖句もイエスがナインという町で死んだ若者を蘇らせたという逸話で同じです。タイトルからも分かるように、この作品は 全編にわたって死に憬れ、それを望む気持ちを歌っています。バッハの カンタータにはこういう傾向が少なからずありますが、それはバッハ自身の感覚なのか、それとも台本作者のフィーリングなのでしょうか。蘇りの喜びと死への 憬れを結びつけたのは作詞者のザロモン・フランクであり、彼は個人的にイエスによる死への切望を深く感じていたと告白しており、そうした切望は当時のル ター派の人々の共通感覚だったという説もあるようです。イエスによって蘇らされたナインの若者とその母の喜びの感情を、イエスによって死後の生を獲得でき るとする望みの感情になぞらえているというのです。

 美しい最初のアリアは二本のリコーダーによって穏やかに始まります。これはフューネラル・ベル、葬儀の鐘を表しているという話もありますが、あのゴー ン、ゴーンというやつだとしたら、ちょっと良く分かりません。そしてアルトの落ち着いた魅力的な歌となりますが、その部分の歌詞は:
「来れ、甘き死の時。わが魂が獅子の口から蜜を味わうとき、わが旅立ちを甘きものとしてほしい。遅らせないでほしい、最後の光よ、わが救い主に口づけでき るように」というものです。士師記14章5−9節にある、怪力のサムソンが倒した獅子の屍から甘い蜜が出た話に基づき、死を甘美なものとしています。この 曲では実はマタイ受難曲にも使われた ハンス・レオ・ハスラーのコラール「わが心千々に乱れ」が使われているのですが(終曲も同じ)、アルトが歌う旋律ではなく、その後ろで鳴っている伴奏に当 たるものがそのメロディーです。

 演奏ですが、特に印象的だったのはガーディナー盤でした。アルトの歌唱の部分はカウンター・テナーが受け持つことが多く、そちらの方が好みですが、ル ネ・ヤーコプスの歌うリンデ盤、ポール・エスウッドのアーノンクール盤、マシュー・ホワイトのヘレヴェッヘ盤、米良美一の鈴木盤、シトセ・ブヴァルダの ルーシンク盤、マイケル・チャンスの パーセル・カルテット盤、ダニエル・テイラーのシアター・オブ・アーリー・ミュージック盤、アレックス・ポッターのルッツ盤など、たくさん出ています。ど れもそれぞれの個性があって良いと思いますが、その中でロビン・タイソンの ガーディナー盤はテンポ設定がゆっくりで、まるで別物のような透明感と独特の静けさが美しいのです。これはガーディナーの意向も反映されているのではない かと想像します。近頃の、特にバッハでのガーディナーには何か深い精神的な味わいを感じさせるものがあり、この変化は熟成ということを考えさせます。タイ ソンの歌自体も低い音で弱くならずに輪郭がはっきりとしており、伸びの良さが魅力的です。残響がしっかりあるのも心地よく響く理由でしょう。ただ、不思議 なのはこの演奏だけ、背後でトランペットが流れるように聞こえるのです。クレジットにはオルガンとしかなかった記憶ですが、上記ハスラーのコラールのメロ ディの部分が、本来はオルガンですがトランペットに聞こえます。オルガンもいろんな音のパイプがあるので聞き違いかと思ったものの、強弱が付いています。 オーボエ・ダ カッチャでもないと思うのですが、これがまた大変魅力的なのです。静かな楽章でトランペットがアリアの伴奏をする曲は他にも19番の五曲目だとか、77番 の五曲目などがあるにはありますが、これはいったいどういうことでしょう。



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       Bach Cantatas Vol.34
      
Herr Jesu Christ, Wahr' Mensch und Gott, BWV 127
       Carolyn Sampson (S)   Robin Blaze (C-T)   Gerd Türk (T)   Peter Kooy (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ/カンタータ集 Vol.34
第127番「主、イエス・キリスト、真の人間にして神」BWV127
キャロリン・サンプソン(ソプラノ)/ ロビン・ブレイズ(カウンター・テノール)
ゲルト・テュルク(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 第127番は三曲目のソプラノのアリアが魅力 的でした。リコーダーが時計のようにリズムを刻む上でオーボエと掛け合いながらゆっくり静かに歌う短調のアリアです。前に触れた115番のアリア同様大き く二回繰り返されるパターンの造りで結構長く、途中リズムが変わって盛り上がりがあるものの、劇的に変化する構造ではないので人によっては単調さを感じる かもしれません。しかし大変美しいです。

 曲自体はライプツィヒ時代の作で、四旬節の日曜、復活祭前第七日曜、エストミヒ、レントもしくは灰の水曜日の前の日曜などと様々に呼ばれる日のために作 られました。宗派によって呼び方が違いますが、だいたい二月半ばに来る日曜日で、プロテスタントであるバッハのルター派では受難節ともされます。祈りと償 いが求められ、喜びを抑えて節制することが奨励されるのですが、元々はイエスの受難と死の苦しみにあずかろうとするものだったようです。この日読まれる聖 句にはイエスがエリコ近郊で盲人を癒した奇跡について述べるルカによる福音書が含まれていますが、その部分はイエスが受難を受ける直前の出来事であり、こ れからイエスの身に起きる暴力と死を事前に説明する箇所でもあります。歌詞の内容はルター派の神学者パウル・エベルによる同表題の葬儀用賛美歌に基づいて おり、その賛美歌全体の内容は盲人がイエスに癒しを求めたということと、イエスの受難についてです。カンタータの作詞者は分かっていませんが、美しい三曲 目のアリアの歌詞は一つ前で触れた161番のアリアともほとんど同じテーマです:
「地がこの体を覆おうとも、わが魂はイエスの手のなかで休む。ああ、すぐに呼んでください、葬儀の鐘よ、私は死を恐れません。わがイエスが再び目覚めさせてくれるのですから」

 演奏は全集ものを出している人たち中心に結構出ています。リリング盤で歌うアイリーン・オジェーは古楽器運動でバロック声楽が変わってくる前の世代の伝 統的な歌い方で、ビブラートを大きめにかけるところがオペラにも通じますが、 他では味わえない豊かで艶のあるやわらかい声が魅力的です。レオンハルト盤はボーイ・ソプラノで、大人の女声よりは安定しませんが、高い方は大変綺麗で上 手です。少年の声が好きな人、女性を入らせない伝統的なあり方に同意される方にとってはありがたいことだと思います。レオンハルトはマタイでの枯れた自然 体の演奏も感動的でしたし、アリア以外の部分でも良さが味わえるかもしれません。一方で古楽器系の女声はどれも水準が高くて甲乙つけがたいです。コープマ ン盤はシビッラ・ルーベンス、ヘレヴェッヘ盤はドロシー・ミールズ、鈴木盤はキャロリン・サンプソン、ガーディ ナー盤はルース・ホルトンで、歌い方としてはホルトンが他より滑らかにスラーでつなげて震わせ方が若干大きいかというぐらいで、真っすぐ延ばして後ろの方 でわずかにビブラートをかける手法はほぼ同じであり、細かいことを言えば低音側での安定度などの違いはあるかもしれませんが、些細なことであら探しをする までもありません。声の質や残響の具合などで好みのものを選べば良いと思います。ここで取り上げた鈴木盤のキャロリン・サンプソンは最も静謐さが感じら れ、無駄な力を入れずにすっと伸び、無垢な味わいがあると思いました。Vol.34 所収で録音は2005年、カップリングは1番と126番です。



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Bach Cantatas Vol.22
      
Was frag ich der Welt, BWV 94
       Yukari Nonoshita (S)   Robin Blaze (C-T)
  Jan kobow (T)   Peter Kooy (B)
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan


バッハ / カンタータ集 Vol.22
第94番「この世からいったい何を得られよう」BWV94
野々下由香里(ソプラノ)/ ロビン・ブレイズ(カウンター・テノール)
ヤン・コボウ(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン

 第94番もライプツィヒ時代の作 品で、三位一体節後第九日曜日用に作られたものです。この曲では四番目のアルトのアリアに深い味わいがあります。ためらうようなフルートの伴奏に乗って歌 われる静かな短調の、思い詰めたようでいて諦観も感じられる美しい調べです。不明の作者による歌詞はドイツの詩人、バルサザール・キンダーマンのコラール からほとんどそのまま取られていますが、この四曲目のアリアは書き換えられているようです。歌詞全体としてもルカによる福音書にあるイエスの喩え話 (16/1-9)に関係があるという以外はこの日に朗読される聖句を直接は引用していません。

 そしてその喩え話は大変分かりにくいもので、イエスの口から出た言葉を何世代も経ってから記したものであれば、欠けるか後世の解釈が加わるかしたことも あるのでしょう。それを認めないのであれば聖書の他の部分の記述から解釈の根拠を引き出してこなければならないことでしょう。聖典に疑義を差し挟むつもり はありませんが、イエスが語ったのは、不正を働いて主人にばれ、首にされそうになった執事の話です。困った執事は主人に借金をしている人たちに会い、負債 額を減額した偽の証文を作ってやることにしました。借りができた人々は彼が首になっても迎え入れてくれるはずだからです。イエスはこういう世事に長けた 「この世の子供たちは、この時代にあっては光の子供たちより利口だ」と言いました。光の子というのはイエスの教えを守る人々のことでしょう。そしてそのす ぐ後で、一方で執事を褒め、この世の富を扱える者が真の富をも扱えるのだと言い、他方で二人の主人に仕えることはできないので、神と富の両方には仕えられ ないと言っています。これは一般的には世事は神の原理ではないけれども、世事で人々を助ければ神にも助けられると解釈されるようです。素晴らしい解釈だと 思います。それに加えて、もし禅問答のように思考停止に陥らせることが目的でないのなら、こうも言えるかもしれません。よく求道者は神の摂理や悟りばかり 重視してこの世を軽んじるけれども、この世界にいる以上ここでしか実現できないことがあるのだから、安易に死を望んでこの世のものを見ようとしない態度で はなく、ここで学ぶ目的を達して(この世の子供たちのように利口になり)、その上でなおこの世の利害が全てだと見誤らないことだ、と。別の言い方をすれば こうなります:
 [人の原理である理性は罪の原因となり、一方で動物たちは本能による捕食者とはなっても利害のために自らの環境を破壊するがん細胞のようには行動しない。かといって(自我)理性を捨てて動物の段階へ「逆戻り」することは人の道ではなく、理性は十分に発達させ
(この世の子供たちのように利口になり)、しかしそれに囚われずに次の段階へと「超えて」行きなさい。]
 これは心理学でいう前個/超個の問題です。深い意図をもって喩え話を語るイエスのことです。施せば施されるというだけではないのかもしれません。ここで のバッハの作詞家は残念ながらこの世を否定して死に憧れており、イエスの教えを実践するよりもイエスその人にすがる方を選んでいるように読めます。バッハ の時代の信仰を解明することは大事かもしれませんが、聞き手がその通りに味わう必要はありません。作品は心を癒す力を持っています。作り手のアイデオロ ジーが何であれ、音楽にはそれを超える普遍性もあると思います。

 憂いを含んだ美しい四曲目のアリアはこう歌います:
「欺かれた世界よ、欺かれた世界よ! お前の財宝も、豊かさも金も、騙しであり偽りの見せかけに過ぎない。お前は空しいマモン(富)をあてにするかもしれ ない。私はその代わりにイエスを選ぶ。イエス、ただイエスのみがわが魂の豊かさなのだ。欺かれた世界よ、欺かれた世界よ!」

 CD はここでもロビン・ブレイズの歌う鈴木盤に魅了されました。声がやさしく透明感があるところはいつも通りで、加えて曲が求める芯の通った強さも感じられま した。そして大変ゆったり歌われるのが良いところで、それはテンポ設計をした人にも負うところがあるでしょう。この静けさがないと伝わらないものがあるよ うにも思えました。Vol.22、2002年録音です。カップリングは20番と7番です。


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 さて、一つの楽章が美しいという曲たちを概観してきました。偉大なバッハのことですからまだまだあるかと思いますが、ここから先は箇条書きのようにしてリストアップするにとどめます。たくさんの曲の中で迷子にならないための自分用の覚え書きのようなものです。グレイ・アウトした番号はすでに取り上げた曲です。

 1番「明けの明星のなんと美しく輝くことか」BWV1 は数ある中で1番に選ばれた曲ですが、コラール・カンタータの形式でライプツィヒ時代の作品です。明るいメジャー・キーの器楽で始まる合唱が印象的です。 短調のレチタティーヴォもありますが、どの楽章も明るい雰囲気で、アリアにしても静かな歌謡性のあるものというよ り、軽快な運びです。テーマは受胎告知です。また、最後のコラールは第36番と共通です。

 3番「あ あ神よ、なんと多くの心の痛み」BWV3 の一曲目の合唱は、やさしさと安堵に包まれたオーボエとヴァイオリンの始まりから合唱へと移行し、いつの間にか短調に変わったり力強い動きがあったりで変 化に富みます。42番の三曲目のアリアにちょっと印象の似たところのあるメジャー・キーのスローな展開です。ライプツィヒ時代の作品で、「ああ神よ、この 時代に私が遭遇するのはなんと多くの心の痛みでしょう! 天へと通らねばならない狭き門には苦悩が一杯です」と歌います。この部分は既存の賛美歌によるも ので、同じものが58番にも使われています。

 4番

 5番「どこに逃れたらよいのか」BWV5 は一、三、七曲目が親しみやすいメロディーです。

 6番
は 頭から訴える調子の短調の曲で、これも復活を扱っている印象的な旋律を持つ名曲だと思います。蘇ったイエスが弟子たちと歩いているのですが、弟子たちには それがイエスと分からず、歩み去ろうとするイエスを引き止めて、「私たちと一緒に泊まってください、もう夕暮れですから」(タイトル)と勧めるという話で す。一曲目と波長の合った終わりの五、六曲目にも魅力があります。CD にはショルが歌っているコワン盤もあります。

 7番「われらが主キリスト、ヨルダン川に来たり(私たちの主、キリストはヨルダン川まで来た)」BWV7 は一曲目のちょっとヴィヴァルディ的で勇壮な合唱の伴奏が特徴的です。七曲目のコラールも波長が合っています。

 8番

 9番「ここに来たるはわれらが救済(それは私たちの救い、私たちのところにやって来る)」BWV9 は三曲目のチェロに先導されるテノールのアリアが、ゆったりした歌というのとは違うながら魅力的でした。

 11番「神をその王国にて賛美せよ」BWV11 は昇天節オラトリオとも言われるもので、カンタータとオラトリオの違いについては専門の方に解説していただきたいと思います。四曲目はロ短調ミサに転用されました。六曲目は静かな合唱が厳かな雰囲気を漂わせます。

 12番

 18番「雨も雪も天から降るように」BWV18 は雨か雪が降ってくる様子を描いているのでしょうが、一曲目のシンフォニアがこれまたヴィヴァルディ風で、例えば出だしのユニゾンの使い方が RV576 の協奏曲ト短調などにちょっと似てる気がします。

 19番「か くて戦い起これり(そこに戦争が起こった)」BWV19 の五曲目はテノールのアリアですが、トランペットが賑やかで祝祭的な雰囲気を醸し出すのではなく、静かなメロディーとして歌に絡みます。「天使よ私ととも にいてください! 両側で支え、私の足が滑らないように! しかしここでまた、あなた方の偉大な神聖さを讃え、天に感謝を届ける歌を教えてください」と歌 います。
 こういうトランペットの造りの曲は他に77番「主た る神を愛せ」BWV77 の五曲目のアルトのアリアでも聞けます。こちらの方はしんみりとしてまるで葬送の音楽のようで大変印象的ですが、「神のおっしゃることを実現しようという 思いを何度も持つのですが、能力は及ばず、わが愛は不完全なままです」と歌っています。言うは易く行うは難しでしょうか、全く同じことではなくても身につ まされる思いがします。この曲は荘重なポリフォニーに始まり、人懐っこい短調のソプラノ・アリアを三曲目に持ち、四曲目のテナーのレチタティーヴォは語りという次元を超えて音楽 として心を沿わせることのできる出来映えです。締めくくりのコラールも感動的ですし、創意ある突然の体現止めのような終わり方には驚かされます。ライプ ツィヒ時代の意欲作として曲全体で取り上げるべきだったかもしれません。CD 選びは私には難しく、アルトのアリアを中心に考えてカウンター・テナーでということになるとルーシンク盤ですが、トランペットの静けさと録音の状態、全体 のたたずまいで選んでもいいし、女声のアルトもいいし、などと悩みます。

 21番

 22番「イ エスは十二使徒を呼び集めた」BWV22 はライプツィヒのトマス・カントールに就任する際の採用試験の課題曲だそうです。繰り返している感じがするパートもあるかもしれませんが、短調ながら出だ しから適度なテンポ感があり、全体に聞きやすいメロディーラインの曲が多いように思います。ラストの五曲目はどこかで聞き覚えがあるような旋律かもしれま せん。

 23番「真の神にしてダビデの子孫」BWV23 もカントール職のオーディション曲で、ラスト四曲目のコラールが短調で引きずるストリングスとオーボエという、ワイマール時代からの黄金のイントロで始まります。

 27番「誰 ぞ知らん、わが終りの近づけるを(私の終わりがどれほど近いか、誰が知り得よう)」BWV27 も23番の四曲目同様の弦+オーボエのイントロを持つ美しいコラール・レチタティーヴォで始まります。ライプツィヒ時代の作で、全曲通しで心地よく聞けま した。三曲目のオーボエの旋律は一瞬ヴィヴァルディの四季みたいかと思えば、140番のカンタータのようなフレーズも出たりで色々な要素の楽想が寄り集 まっている印象です。そのちょっとコミカルでもあるモチーフは七曲目でも繰り返されます。六曲目はルネサンスの合唱曲の締め括りのようです。

 29番「感謝します、神よ、感謝します」BWV29 は最初の曲が無伴奏ヴァイオリン・パルティータの第3番へと改作されることになったオリジナルで、器楽のみのシンフォニアです。パルティータの方は ヴァイオリン一本で奏でられますが、こちらはこうも変わるかという180度の変貌ぶりで、金管とティンパニの加わった勇壮な曲に仕上がっています。二曲目もミサ曲ロ短調に転用されましたので、この曲、ドナーとして大変有用だったよ うです。それなら有名なミサの方を聞けばと思われるかもしれませんが、こちらがオリジナルです。静かに始まりますが、繰り返しのうちに徐々に興奮を高めて行き、ラストでは夜明けの太陽が山際から輝きを射るようにトランペットが加わり、 荘厳さを感じさせます。五曲目のソプラノのアリアも美しく心に響き、ラストも壮大です。ライプツィヒ時代でバッハ46歳時の作品であり、曲全体で傑作と言ってよいと思います。ソプラノ・アリアの歌詞は以下の通りです:
「あなたの愛で私たちを見てください。あなたの慈悲で包んでください! 我々の統治者に加護を祈ります。我々の道案内をし、護り、指導される方。従順な者たちに祝福を与えてください」

 32番「愛 しいイエス、わが望み」BWV32 は、一曲目のソプラノのアリアがオーボエがリードする黄金のパターンで切々と歌われます。そのオーボエの高く裏返るフレーズには、瞬間的にこれもどこかで 聞いた覚えがある音型が現れます。意外というのか、CD がずいぶん沢山出ていて選ぶ楽しみもあるようです。個性的な人も揃っていて、鈴木盤で歌うイギリス人のレイチェル・ニコルズは女優さんにも同名の人がいる ようですが、なぜかここではてっきりボーイ・ソプラノかと思ってしまいました。かと思えばガーディナー盤のクラロン・マックファデンはアフリカン・アメリ カンの方でしょうか、特にあの特有の声帯の感じには気づきませんでしたが、少女かと思いました。本物のボーイ・ソプラノなら細い倍音のオーボエに乗せて歌 われるレオンハルト盤もあります。歌詞の内容は「愛するイエスよ、すぐに見失ってしまいます、どこで見つけられるのですか、そばに感じさせてください」というものです。

 35番

 36番

 42番


 44番「人々はあなた方を追放する」BWV44 はラストの七曲目がマタイ受難曲の十楽章目「私だ、私が購わねばならぬ」と同じメロディーです。

 46番「心して見よ、苦しみあるやを(よく見なさい、苦しみがあるかどうかを)」BWV46 はリコーダーをともなった一曲目の合唱が憂いを含んで訴え、後半で速くなって変調して行く特徴のあるもので、曲はエレミア哀歌が題材であり、神の裁きに関係します。

 48番「われは惨めなる者、誰かわれを救済せん(情けないこの私、誰が私を救済しようとするだろう)」 BWV48 は半音階にトランペットが絡む
一曲目の合 唱に特徴があります。悲壮で重い繰り返しが目立ちますが、二曲目は転調の多い不思議なアルトのレチタティーヴォで魅力的です。そこでの歌詞は「痛みと惨め さが私を打つ」と繰り返し嘆くものです。こういうのは、例えば同じプロテスタントであるアメリカ文化ではどうなのでしょう。ヒーロー好きで難しい課題もそ れと知られず無言でやってのけるのがクールな彼の国の男性たちは whine (めそめそ愚痴を言う)という言葉を充てられると怒りだしますが、バッハの「自分はだめな人間、哀れんでください」の歌詞は果たして大丈夫なのかと思ったりします。一方でドイツ ZDF のドラマは悲観的で泣きが多いという話も聞くのでメンタリティは違うのでしょう。親米派の日本はどちらかというとドイツと同盟国でしょうか。

 52番「偽りの世界よ、私は信じない!」BWV52 の一曲目は器楽のみのシンフォニアで、ブランデンブルク協奏曲の第1番と同じです。多くの楽団が演奏してきた聞き慣れた曲だけに、アンサンブルの状態がよく分かると思います。

 54番

 55番

 56番「われ喜びて十字架を負わん(私は喜んで十字架を担うだろう)」BWV56 は一曲目と最後との波長が一致して荘重ですが、特に最後の五曲目の合唱は分厚い低音の和音が心地良いものです。やや断定的な印象も持ちました。

 57番

 58番「ああ神よ、なんと多くの心の痛み」BWV58 は3番と同じタイトルで二年後に作曲されたもので、出だしの歌詞も同じですが、その部分以外の作詞者と曲、歌われる教会行事の日は別です。一曲目のコラールとアリアは基本は
3番と同 じ賛美歌を元にしていますが、アレンジは違い、印象も別の曲のようです。3番では合唱なのに対し、こちらではソプラノとバスが別々に歌うようになっていま す。晴ればれとしているようでいていくらかの影と諦観も感じさせる前奏が美しいです。3番の方は静けさが強調されているでしょうか。四曲目のソプラノのレ チタティーヴォは後半がアリアのようです。鈴木盤のソプラノはキャロリン・サンプソン、ガーディナー盤はルース・ホルトンです。

 61番

 68番「神は世を愛すればこそ」BWV68 の四曲目は狩のカンタータ(BWV208)から転用された軽快な曲です。 

 76番「天 は神の栄光を語る」BWV76 はライプツィヒ時代最初の作の一つで十四曲構成という大きなものですが、八曲目のシンフォニアはオルガンのトリオ・ソナタ BWV528 の原曲であり、オーボエ・ダモーレとヴィオラ・ダ・ガンバの掛け合いによる味わい深い楽章です。十二曲目はアルトの静かなアリアで、八曲目の続きのように オーボエ・ダモーレとヴィオラ・ダ・ガンバがゆったりと短調の歌をうたい、アルトが美しく続けます。第一部の終わり、七曲目と同一である最後のコラールで も波長は同じですが、トラッペットと弦がイントロを受け持ち、合唱になります。ここはメロディーラインが際立つ造りではなく、トランペットを伴って短いフ レーズが繰り返されますが、その音の塊の中に浸る感じが第4番にも似てルネサンスの音楽のようでもあります。ルターのコラールからとっているからでしょうが、重厚です。十二曲目のアリアの歌詞は:
「愛を示そう、キリスト者たち、あなたがたの行いを通して! イエスは彼の兄弟たちのために死に、今度は彼らがまたお互いのために死ぬ。彼が彼らを一つに 結び付けたから」というもので、鈴木盤でのアルトはカウンター・テナーのロビン・ブレイズです。

 77番は19番のところですでに触れました。

 78番

 80番

 82番

 84番「わ が幸運に満足しています」BWV84 は一曲目を除いて一度聞いたら忘れないようなメロディーにあふれているわけでもなく、器楽のオーボエと弦による伴奏の方が耳に残ったりもするのですが、ソ プラノの声にずっと浸っていたくなる曲です。ソプラノ独唱によるライプツィヒ期のカンタータであり、復活祭前第九日曜日(七旬節)のために作られました。
全曲続けて聞いて一曲も飛ばしたくなる楽章がない珍しいもので、レチタティーヴォですら耳に心地良く響きます(そういう意味では次の85番も似たところがあります)。特に鈴木盤のキャロリン・サンプソンの声は魅惑の美しさで、さして長くない時間ですが聞いている間中至福に包まれます。短調に始まり短調に終わるにもかかわらず、全体に曲調は軽やかな印象であり、穏やかな美に溢れているのです。そして全体の中では特に始まりのアリアが最も耳に入り込んで来る魅力的な旋律を持っていると言えるでしょう。その部分の歌詞は:
「私は自分の幸運に満足しています。それは最愛の神が私を祝福してくれたものです。豊かな富を手にするわけではなくても、ささやかな贈り物に感謝します。それですら身に余るものですから」
 鈴木盤ではすでに取り上げた82番の CD(Vol.41)の中に入っています。

 94番


 97番「わがすべての行いをもって」BWV97 の終わりの九曲目のコラールも、マタイ受難曲の十楽章目に使ったのと同じコラールをモチーフにしたものです。

 103番「あなた方は泣き、うめくだろう」は
始まりの楽章で甲 高く鋭いリコーダー(フラウト・ピッコロ)がアップ・テンポの短調で疾走するパッセージを縁取り、めまぐるしいほどの大活躍をします。鈴木盤ではスウェー デンの名リコーダー奏者ダン・ラウリンが吹き、三曲目のアルトのアリアでも弦の代わりに小鳥のように伴奏を受け持つのが聞きどころです。アルトはロビン・ ブレイズです。

 105番

 106番

 107番「なぜあなたは自ら嘆きたがるのか」BWV107 は長く静かに引っ張るオーボエと弦によって始まる最初の合唱が美しく、真っ直ぐ訴える短調の旋律の動きは耳に残りやすいものです。落としてはいけないでしょう。

 109番「信じます、敬愛する主よ、わが不信心を救ってください」BWV109 はトートロジーのようなタイトルですが、一曲目の
短調の合唱が繰り返し基調ながらも美しいものです。弦とオーボエに加えてトランペットが使われることもあるようです。順番にリードするソプラノ、アルト(カウンター・テナー)、テナーの独唱も際立ちます。

 110番「笑いがわれらの口を満たしますように」BWV110 の出だしは管弦楽組曲第4番の序曲に合唱が付いた格好のものですが、この曲では四曲目のアルトのアリアが特に魅力的です。オーボエ・ダモーレに導かれてやや スローながらリズム感のある歌が短調で訴えるように歌われます。その部分の歌詞は:
「ああ主よ、あなたがあれほどの痛みを伴った救済を試みた人の子とは何でしょう。地獄とサタンに取り巻かれ、あなたに忌み嫌われた虫でありながら、それで もその魂と霊が愛によって継承者と呼ばれる、あなたの子供なのです」というものですが、この曲は二本のフルートに導かれる二曲目のテノールのアリアと三曲 目のバスのレチタティーヴォも波長が揃っており、五曲目はソプラノとテナーの明るいデュエット、六、七曲目はトランペットが活躍するものの、全体を通して 聞きやすい曲だと思います。
 CD は鈴木盤のアルトがカウンター・テナーのロビン・ブレイズで、四曲目のアリアではいつも通り音程も安定しており、透明で伸びの良い声で魅了されます。57番のところでご紹介したのと同じ盤です。

 115番

 116番「あなたは平和の君、主イエス・キリスト」BWV116 の三曲目のレチタティーヴォについては115番の項ですでに触れました。

 118番

 120番「神よ、あなたは静寂の中で賛美されます」BWV120 と、同番「主なる神、すべてのものの支配者」BWV120a は共通した音楽で、それぞれの四曲目と三曲目にあたるソプラノ・アリアはヴァイオリン・ソナタ BWV1019a  にもなった初期の作品から派生したものです。BWV120 の歌詞は:
「繁栄と祝福は常に、望まれた豊かさを持ったわれらの統治者からやって来るべきものだろう。したがって正義と信頼は 愛によって互いに口づけをするのである」
 同じ曲で歌詞が別になっている結婚式用の BWV120a の歌詞は:
「おお、神よ、あなたの愛によって、この新たに婚約した二人を導いてください。あなたの言葉が我々に約束してくださったように、あなたを愛する者には常に 善をなされるということを、力強く彼らに向けて真実としてください」というものです。美しい曲ですが、二曲とも演奏しているコープマン盤のソプラノは弱い ところを弱め、オン・オフをつけて揺らすことで立体感を感じさせる サンドリーヌ・ピオー、ヘレヴェッヘ盤は BWV120 のみで、もう少し真っ直ぐなデボラ・ヨーク、やはり両曲演奏している鈴木盤はやや落ち着きを感じさせるハナ・ブラシコヴァです。どの歌唱も甲乙を付けるの は難しいです。

 
 122番「新たに生まれた幼子」BWV122 の一曲目は中程度のテンポでメロディアスな短調の、やはり弦とオーボエによる前奏を持つ合唱です。

 125番

 127番

 128番「ただキリストの昇天によってのみ」BWV128 はライプツィヒ時代の作で、四曲目のアルトとテナーによるアリアが見事です。鈴木盤のアルトはカウンター・テナーのロビン・ブレイズ。この部分の歌詞は:
「彼の全能を測ることは誰にもできない。わが口は鈍り沈黙する。星々を通して私は見る。すでにこの遠い距離にあって、彼は神の右手として自身を表している」というもので、全体を通して旋律に馴染める曲です。

 130番「主なる神よ、われらはみな褒め讃える」BWV130 は締めくくりの第六曲のコラールでトランペットが活躍し、それでいてうるさいものではなく、ティンパニとともに華やかに締めくくられるところが心地良い個 性的な曲です。

 131番「深き淵から私は叫ぶ、主よ、あなたに向かって」BWV131 はよく鳴くオーボエと弦で始まる最初の合唱付きシンフォニアが美しい曲です。短調で始まりますがすぐに長調へと変わり、合唱も上昇しつつ転調して行く短調基調で、中程で速まります。なかなか凝った造りだと思い ます。しかし作曲時期は初期のミュールハウゼン時代であるらしく、22歳頃かと考えられています。バッハはこの頃からこういう技法を身につけていたようです。CD は106番のところでコープマンと鈴木盤について触れています。

 132番

 138番

 140番


 146番「私 たちは多くの悲しみを通り抜けねばならない」BWV146 はチェンバロ(鍵盤)協奏曲の BWV1052 と同じ節で始まります。そのシンフォニアはオルガンで弾かれますが、器楽のみなので協奏曲と印象は変わりません。二曲目はその緩徐楽章がそのまま合唱に なっています。内容は使徒言行録の言葉で、「私たちは多くの苦難を通って神の国へ入らねばならない」と歌っています。しかしこの曲はチェンバロ協奏曲から とったとか、協奏曲へ転用したとかではなく、共通分母になる失われたヴァイオリン協奏曲があって、そこから持ってきたものだろうということです。五曲目の ソプラノのアリアはしっとりとしたきれいな曲です。始まりはフルートで静かなものですが、マイナー・キーからメジャーへと移ります。この部分の歌詞は:
「不安な心で私は涙の種を蒔く。しかし私の心の苦しみは、祝福された麦束の収穫の日に、私にとっての栄光となるでしょう」というものです。鈴木盤のソプラ ノは32番ではボーイ・ソプラノのように聞こえていたレイチェル・ニコルズ。上品で大変きれいな声であり、透明な伸びがあります。残響があってテンポがや やゆったりめなのもいい点だと思います。この盤の残りのソロイストはカウンター・テナーがロビン・ブレイズ、テナーがゲルト・テュルク、バスがペーター・ コーイという黄金の布陣です。かといってガーディナー盤のソプラノはブリギッテ・ゲラーで、これも同等以上に完璧な出来だし、コープマン盤はシビッラ・ ルーベンス、大変きれいです。


 147番

 149番「勝 利を喜ぶ歌声が響く」BWV149 は七曲目、終曲のコラールが静かな合唱で厳かに行くのですが、最後の最後で盛り上がってファンファーレで終わるところがびっくりで、感動的です。 これは勝利を意味しているのでしょうが、死におもむく者が安らかであることを願い、最後にイエスに祈ってから「あなたを褒め讃えたい、永遠に!」と宣言 し、その永遠のところにかぶせてファンファーレとティンパニが突如輝かしく現れて終わります。

 150番「あ なたを、おお主よ、私は切望します」BWV150 は現存するバッハのカンタータの中で最も初期のものと考えられています。21、あるいは恐らく22歳のアルンシュタット時代ということで、この頃からこう だったわけです。第一曲のシンフォニアが静かな弦をひきずってもの憂げに進み、それに続いて同じ波長のコーラスへと受け渡されます。ちょっと神秘的な音遣 いです。また、終楽章はブラームスがその第4交響曲の第四楽章のモデルとして発想のヒントを得たものです。面白いのはガーディナー盤で、全集に入っている 同じ時期の巡礼のもので二つ録音が出ています。四月と六月のものですが、歌手たちが異なり、四月の 方はソプラノが清楚で大変魅力的なギリアン・キース、六月の方はお馴染みのジョアン・ランです。カウンター・テナーのダニエル・テイラーは同じで、テナー とバスはまた違っています。聞き比べる楽しみがあると言えるでしょうか。それ以外にも意外というか、CD は大変多く出ています。憧れを感じさせるような美しい曲だからでしょうか。キリスト者にとってイエスは理想の恋人のような存在でもあり得るのでしょう。

 152番「信 仰の道に歩み出せ」BWV152 はワイマール時代の作で、一曲目のオーボエをともなって展開して行く短調のシンフォニアが耳に残って聞き覚えやすいメロディーです。幕開けを感じさせる造 りで、リコーダーも活躍するきれいな曲です。四曲目には美しいソプラノのアリアがあり、リコーダーをともなっていて懐かしくも穏やかな気持ちになります。 この部分の歌詞は:
「石よ、すべての宝石に勝るものよ、信仰を通してわが幸福の基礎をあなたに置けるように助けてください。そして私自身があなたにおいて傷を負うことがないように。石よ、すべての宝石に勝るものよ」です。
 鈴木盤のソプラノ、鈴木美登里はいつもながら静かに輝くような高音で大変美しく通る声です。ガーディナー盤のギリアン・キースもまた美しく、キャロリ ン・サンプソンが歌うフライブルク・バロック・オーケストラのものも魅力的です。こちらは残響はやや少なめです。結婚カンタータと組になっています。そし てルーシンク盤のルース・ホルトンがまた見事です。


 156番「わ が片足は墓にあって立つ」BWV156 はバッハの旋律の中でも一、二を争うあの美しいチェンバロ協奏曲第5番の第二楽章と同じものが一曲目になっていて、それだけでも聞く価値があります。バッ ハのアリオーソなどという異名もとる有名なものですが、こちらの方が先です。チェンバロではなくてオーボエがメロディーを 担当していて、協奏曲の方にはきれいなピアノ演奏版も存在するものの、案外こっちの方がいいかもしれません。器楽のみのシンフォニアです。ゆっくりなので アンサンブルの技術的な差はともかくとして、テンポ設定の違い、オーケストラの性質はよく現れます。次のテノールがリードするアリアとコラール(二曲目) も静かで美しく、全体を通して心地の良い曲です。その二曲目で片足が墓の中にあって立っていると歌われます。もうすぐ病んだ肉体はこの墓穴に落ちるでしょ う、準備はできています。 わが終わりを祝福してください、という内容です。

 159番「見 よ! われらはエルサレムに近づいている」BWV159 の四曲目のアリアは105番の三曲目にある美しいアリアに出だしから節回しが大変似ており、しかしソプラノではなく、バスによって歌われます。後半で展開 し、メリスマも出ますが、魅力的な曲ではあります。作られた時期は何年か開きがありますが、どちらもライプツィヒ時代です。鈴木盤のバスはペーター・コー イです。次の、最後になるコラールも途中でやや複雑な音階をはさみ、落ち着いた魅力があります。

 161番

 162番


 163番「そ れぞれの者に支払われるべきもののみを」BWV163 はワイマール時代の作で、ソプラノとアルトのデュエットが美しい作品です。タイトルは「カエサルのものはカエサルへ」と同じ意味で、この世の支配者に支払 うべき税金は支払うが、心は神のものだという意味です。四曲目のレチタティーヴォは珍しくデュエットによるもので見事です。そして最も心惹かれるのは五曲 目のアリアでしょうか。直前のレチタティーヴォと同じソプラノとアルトによるデュエットですが、天上界の響きとでもいいますか、高くはもる声がまさに天使 の声という感じで全身が震わされるようです。特にソプラノの高い音は純粋に響くと心を揺さぶります。歌詞は「私と私の意志を私から取り去り、あなたの意志 で私を満たしてください」と歌っており、それはすべてを投げ出して他者からの救済を待つようにも聞こえます。心貧しき者は幸いなりと言ったイエスの言葉 は、自分を捨てて依存しなさいという意味ではないでしょう。ラストのコラールも短いですが美しいです。
 鈴木盤のソプラノは柳沢亜紀で、鈴木美登里と並んでこの声も大変きれいで好きです。アルトはカウンター・テナーの太刀川昭です。96年の録音ということ なので、全集録音のわりと最初の頃です。ガーディナー盤はスーザン・ハミルトンとヒラリー・サマーズ、これもきれいです。ルーシンク盤はルース・ホルトン とシトセ・ブヴァルダで静かな印象、 コープマン盤はエルス・ボンヘルスとエリーザベト・フォン・マグヌスです。


 164番「あなた方、自らをキリストに因んで名づける者」BWV164 は三曲目のアルトのアリアに内省的な魅力を感じます。二本のフルートが絡んで行く静かで落ち着いた短調のイントロに導かれて、そっと確かめるように、思いを秘めたように歌われます。歌詞の内容は:
「ただ愛と慈悲によってのみ、私たちは神ご自身のようになれる。あのサマリヤ人のような心は他者の悲しみによって悲しみに動かされ、また憐れみに富んでい る」というものです。この定冠詞の付いたサマリヤ人というのはイエスがルカによる福音書の中で語った善きサマリヤ人のことです。強盗に襲われて身ぐるみ剥 がされ、半殺しで置き去りにされた旅人の前を祭司ら何人かが通りがかりましたが、皆見て見ぬふりをしました。ところが一人のサマリヤ人は手当をして宿まで 連れ帰り、介抱した上で宿の人にお金を渡して面倒をみてやってほしいと頼んだという話です。この曲も鈴木盤ではカウンター・テナーのロビン・ブレイズが歌 います。


 165番「お お、神聖な水と聖霊による洗礼」BWV165 は三曲目のアルトのアリアが、チェロとオルガンに導かれて逡巡するように歌い始められる短調の曲です。次のレチタティーヴォは音楽としてもゆったりとした メロディー・ラインがあります。鈴木盤のここでのカウンター・テナーは太刀川昭ですが、この人も安定したきれい な声です。

 166番「どこへ行くの?」BWV166 は軽妙に跳ねるように始まる器楽に導かれてバスが歌い始めますが、これはずっと「どこへ行くの?」とだけ言い続けているのです。なんだかコミカルですが、次の美しいアリアにつながります:
「私は天国のことを考えて、自分の心をこの世界には与えないでしょう。私が行こうが留まろうが、こんな疑問が心に浮かんでくるからです: 人間、ああ人間よ、お前はどこへ向っているのか?」
 例によってストリングスとオーボエで始まるこの二曲目のテナーのアリアはト短調のオルガン・トリオ BWV584 と同じ旋律です。これは以前はバッハの手によってオルガン曲へと編曲されたものと思われていましたが、今は別の人の仕事だと考えられています。
 終曲の六曲目のコラールでの合唱も特徴的で、まるでロシア民謡の合唱団が歌っているような重厚なものです。

 169番「わが心は神のみに捧げる」BWV169 はさわやかで軽快に始まる曲ですが、五曲目のアルトのアリアが美しいものです。この CD はすでに一枚、ロビン・ブレイズの歌うアルト独唱のためのカンタータ集のところで200番などとともに取り上げています。そのアリアの歌詞はプロテスタンティズムを表しているようなものです:
「私の中で死になさい、この世とそれへの愛よ。この地上にあってわが心が常に、絶えず愛による神の道を実践できるように。私の中で死になさい、傲慢、財産、貪欲、卑しい肉の要求よ」

 プロテスタンティズムの精神といえば、特にカルヴァン派の話ではありますが、その勤勉さが資本主義の発展をもたらしたとする理論もありました。だとする とこの歌詞にある富と俗世を否定する発言は一見正反対です。その逆転こそが肝にせよ、学問というものは見ようとするところに答えを探すものなのかもしれま せん。


 170番

 174番「至高なる存在を全霊をもって愛します」の出だしはブランデンブルク協奏曲第3番の第一楽章からとられたものです。


 179番「あなたの神への恐れが偽善でない か確かめよ」BWV179 では五曲目のソプラノのアリアが悲痛な叫びです。二本のオーボエとオーボエ・ダカッチャに導かれるある種典型的なパターンですが、曲がった形をした低い音 域のオーボエ・ダカッチャが使われているわけで、太めの音色でリード音がちょっとアルト・サックスに近く聞こえる楽器が歌をなぞるように吹かれるのが面白 いところでしょうか。イングリッシュ・ホルンの仲間で、ときに静かなトランペットかと思わせるような音も出すようです。歌詞は以下の通りです:
「敬愛する神よ、慈悲深くあってください! あなたの慰めと寛大さを私に向けてください。骨に感染したかのように、 わが罪が私を苦しませるのです。助けてくださいイエスよ、神の子羊よ、沼に沈んでしまいます」

 180番「自らを飾れ、おお、いとしい魂よ」BWV180 はいかにも賛美歌ですが、最後のコラールが落ち着いた美しさを見せます。

 182番

 187番「すべてのものはあなたを心待ちにする」BWV187 は五曲目のソプラノのアリアが珍しくメジャー・キーのスローなものです。ガーディナー盤のソプラノはキャサリン・フーグ、コープマン盤はサンドリーヌ・ピ オーです。歌詞は次の通りです:
「神はこの世界に息づくすべての命を顧みる。すべての者に約束されたものを私だけに与えてくれないなどということはないのではないか? 不安よ消え去れ。 その真心こそ唯一私が心に留めていること。それは父としての愛から出た数々の贈り物を通して日々新たにされているのである」


 188番「私は信頼を寄せた」BWV188 の一曲目のオルガンとオーケストラによるシンフォニアはチェンバロ(鍵盤)協奏曲ニ短調 BWV1052 の第三楽章から取られたものです。

 191番「天 高きところに神の栄光あれ」BWV191 はカンタータとされてきた経緯があるものの、最近はそう呼ばれなくなった作品で、カトリックの様式と同様にラテン語によるために、「ラテン語教会音楽」と 分類されるそうです。この曲はバッハ最後の大作である有名なロ短調ミサ曲 BWV232 の第一部と重なるものです。作曲時期もロ短調ミサと同じ頃です。既存の曲を素材として使って新たに曲を作ることをパロディと言いますが、この曲もロ短調ミ サ曲も、その前に存在していた小ミサ曲のパロディということになります。そしてそれに二部以降を付け加えてロ短調ミサが完成されました。

 196番「主は私たちのことを考え、祝福してくださる」BWV196 は結婚式用であり、最初のシンフォニアがヴァイオリンの活躍する親しみを覚えるメロディーで、二曲目以降も全体に幸せな波長の愛らしい曲たちと言えるでしょう。

 197番「神は私たちの信頼」についても196番と同じようなことが言えると思います。そちらも結婚式用です。

 198番

 199番

 200番についてはロビン・ブレイズによるソロ・カンタータ〜アルト独唱のためのカンタータ集のところです でに 触れました。


 202番

 208番

 211番

 212番


 


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