モーツァルト ミサ曲ハ短調 (大ミサ曲) K. 427    
Mozart :  Mass in C Minor (Great Mass) K. 427
 
greatmass

取り上げる CD19枚: フリッチャイ/カラヤン/アーノンクール/ガーディナー/レヴァイン/ホグウッド/バーンス タイン/アバド/リリング '91
/ヘレヴェッヘ/ マリナー/クリスティ/マクリーシュ/リリング '05/ダイクストラ/鈴木/ベルニウス/アーマン/ミンコフスキ

CD 評はこちら(モーツァルトの性格と曲の解説を飛ばします)
レクイエム K. 626 のページはこちら

 モーツァルトの宗教曲とい えば、最後の曲となったレクイエムのみがその謎めいたエピソードとともに大変知られているという状況ですが、それに劣らない出来とも言われる曲がもう一つあって、それが大ミサ曲です。別名は「ハ短調ミサ曲」で、ケッヘル番号は427。大変美しい音楽で、最近はレクイエムに迫るほど人気が上がって来ているようです。1783年、モーツァルト二十八歳のときの作品です。

 名前には「グレイト・マス」の意の「大」が付くわけだけど、編成も長さも例外的に大きなものです。耳にも ちょっとグレイトな楽章があるかもしれません。モーツァルトは他にもいくつものミサを作曲しているのですが、それらは ザルツブルクで雇われていた、何でも「大」が付くながら、コロレド大司教という人の命令で、反対に小さく作りな さいと言われて成立したものです。だから本人は大きいのに憧れていたかどうかは分かりません。そしてそれら小さ いものたちは二十四歳ぐらいまでの作品であり、本人も納得というわけではないのか、ほとんど有 名ではありませ ん。「戴冠式ミサ」、「ミサ・ブレヴィス(形式名ですが)」、「孤児院ミサ」といった名前が聞 かれることもあり ますが、専門に研究されている方の解説に詳しいところです。モーツァルトの宗教作品として他に重要と目されてい るのは、晩年の短い「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K. 618 と、純粋な宗教曲ではないけど曲想として似たところがある「フリーメイソンのための葬送音楽」 K. 477 (479a) ぐらいじゃないでしょうか。したがって、結局はレクイエムと大ミサ曲だけを作った、と言っ ていいぐらいでしょう。


ターニング・ ポイ ント

 前のページで は モーツァルトの円熟期が20番のピアノ協奏 曲、ケッヘル400番台後半ぐらいからではない かと 言いましたが、それよりもう少しだけ前のこの大ミサ曲もまた、同じ頃の弦楽四重奏の15番 と並 んで数少ない短調 の曲であり、この作曲家が初期の傾向から脱してより彼らしい作風を打ち出せるようになった ター ニング・ポイント だとしてもよいと思います。また、この頃にゴットフリート・ファン・スヴィーテンという貴 族に 招かれ、その人が 持っていたバッハやヘンデルなどの楽譜を研究する機会があったため、バロック時代の作曲家 の影響も 指摘されます。作 曲中のプライベートな出来事や意図とは関係なく、モーツァルトの才能が遺憾なく発揮された 傑作 となりました。


作曲のタイミングと理由

 誕生、就職、 結 婚、死、というのは人生の大きな節目です。こ の中で生物学的ではない就職を除くと、性 と死の問題に集約されます。ちょっとこじつけているように聞こえるかもしれませんが、この 関連し合い、元型 として共に響き合 う二つは、死が近づいて来たときに、人が性的な話題に触れようとする現象としても時折見ら れるようです。あ るい はそれも燃え尽きる前の蝋燭のようなもので、エンド・オブ・ライフ・ラリーと呼ばれる、細 胞が 生きようとする最 後のもがきの中での、脳内物質と関連づけられた性欲の高まりだと医学的には片付けられるの で しょうか。

 モーツァルト のこ の大変な傑作である二つのミ サ、大ミサ曲とレクイエムは、それぞれが自身の結婚 と死の時期に作られました。レクイエムの方は死者のためのミサ曲で、有名な逸話だけど、 コート を着た正体不明の 男に依頼され、結果的に自らの死のために作曲したみたいなところがあります。一方でこの大ミサ 曲は誰にも依頼さ なかったけれども、自分の結婚に関する誓いとして作ったのです。ミサ曲というのはカトリッ クの儀 式で使われる音楽 で、キリストの最後の晩餐(磔になる前夜にとった十二使徒たちとのディナーで、イエスは自 らの 死を予知してお り、パンとワインを自分の体として弟子たちに分け与えました)を再現するものです。した がって レクイエムではな いけれども、やはり死に関係があります。そして死は性と関わり、再生と隣り合わせです。二 大宗 教曲が二つとも、 彼の人生の重大な節目、変化を締め括る作品となりました。そして同時に、その両方共が完成 され ませんでした。レ クイエムの方は彼が追いつかなかったのです。大ミサについては自らが放置しました。奇しく も、 節目となるものが 未完のままにされたわけです。ここに象徴的な意味を読み取ろうとするのは恣意的に過ぎるで しょ うか。「同時性 synchronicity」という深い洞察も、偶然目の前に停まった車のナンバープレー トで 自分の未来を必死 に占おうとするようになると神経症に近寄りもします。でもモーツァルトの短くも賑やかなド ラマ に彩られた日々と 合わせて見ると、感じることがあるのも事実です。


結婚に至るまでと、それ自体の騒ぎ 〜第一章
 モーツァツト の女 性遍歴がどう始まったかについては、前の ヴァイオリン協奏曲のページで簡単に触れまし た。他 にも色々あったなかで、最初に結婚したいとまで熱を上げた人は、有名な作曲家ウェーバーが その いとこに当たる、 アロイジア・ウェーバーというソプラノ歌手でした。四人姉妹の次女で、父親はマンハイムの コン トラバス奏者かつ 写譜家であり、プロンプターという、オペラハウスでステージの前端に陣取って歌手に前もっ て歌 詞を教える仕事も やっていた人です。音楽一家です。このアロイジアにぞっこんになってしまったのは1777 年か ら翌年にかけて で、モーツァルトは二十一歳、アロイジアは十六、七歳です。

 このときアロ イジ アはモーツァルトの曲を聴衆を前にして歌った りしているし、モーツァルトは彼女を連れてイタリ アに行き、自分の曲を歌わせて有名にした上で結婚したいと考えていたものの、すぐさま父親 に反 対されてパリ行き を命じられています。パリからはアロイジアに「最愛の人」だとか「会って抱きしめたい」な どの 文言が入った手紙 を出してますが、このとき彼女がモーツァルトをどう受け入れていたかはよく分かりません。 少な くとも彼女の方からは返信がありませんでした。

 例えばこれは 一般論ながら、男性に多いある種の発達障害とさ れる偏りを持った若い人の場合、具体的には ASD(自閉症スペクトラム症)のことですが、初デートに漕ぎ着けても、そこで自分の興味 のあ ること、例えば電車の話などを延々とその女性にしてしまい、 相手がうんざりしていることに気がつかないことがあります。二回目はありません。そのタイ プの 人たちが皆女性を 口説くのが下手とは限らないけど、よくよく才能ある人はそういう独りよがりをやります。 モー ツァルトの場合は音 楽の専門家で、相手はソプラノ歌手ですからとんちんかんにはならなかったかもしれないです が、あ るいはそうした人 たちと同じように一人相撲だった可能性もあるのではないかと思います。彼は興味のある話題 とな ると、本筋と関係 のないことに脱線して延々と手紙に書き続けたりします。一度熱を上げると全てが良く思え、 自ら が誇張した見方に こだわって意見を聞き入れない一面もあったようです。手を焼いた母が内緒で父に報告してい る書 面も残っていま す。このようにおしゃべりが止まらなかったり、口を挟む余地がないというのはむしろ、時折 モー ツァルトがそれだとされることのある ADHD(注意欠如・多動症)の方に近い特徴でしょうか。そしてそれを裏付けるかどうかは 分か らないけれど、その頃のモーツァルトのことはどうしても好き になれなかったと後にアロイジアが発言したとする話もあります。もちろん真正の恋人説もあ り、 自分を置いてパリ に行ってしまったことでアロイジアは怒っていたと考える人もいます。これについては一方の 側の 手紙が残されているだけなので、結論を出すとゴシップ記事になってしまうでしょう。でも、 もっと後になってからも、モーツァルトはフィガロの結婚で歌わせたイギリスの美貌のソプラ ノ歌手、ナンシー・ストレースに熱を上げたように見える根拠が存在していて(ディーバにす ぐ夢中になります)、その場合もトレッドミルみたいに一人で浮かれ走ってた形跡はあります。この話については下世話ながら、「レクイエム」のページで触れてみました。


母の死とアロイジアとの再会、絶望
 その後モー ツァル トに一緒について来た母が七月にパリで病死 します。それを父に知らせる手紙では、時間的 にや わらげて伝えようとする相手への配慮が見られるのが興味深いところです。結局見抜かれ、ば れてはいたのだけれど、人の気持ちを考えない わけでは決してな いのです。また、「どんなに悪く思えることでも出来事は常に最善なのだから神の御手に任せま す」というような、 現代のニューエイジの人が言いそうなフレーズも書きつけています。プロテスタントのバッハ が自 分の罪深さを憐憫 に近い形で嘆いてみせる歌詞とはちょっと印象が違っています(モーツァルトのオーストリア は伝 統的にカトリックの国です)。

 そしてモー ツァル トは1778年の九月末にパリから帰国する ことになり、その途中でずっと忘れられなかっ たア ロイジアに会いに行きます。彼女は仕事を見つけてミュンヘンにいました。その年のクリスマ スの 頃です。ところが そのとき、ほとんど無視されるような形で振られてしまったようです。この話は同時代の伝記 作家 ゲオルク・ニコラ ウス・フォン・ニッセンの記述でしか具体的には確認できないことながら、その落胆の気持ち は細 かに父親に書き 送っています。特別な絆で結ばれた親子だったには違いないものの、成人した男子がそんな内 容を 書くというのはなかなかないことでしょう。


稼ぎが良くなかったから相 手にされなかった?
 ここで本意で はな いものの、ちょっとお金の話をします。アロ イジアがモーツァルトを振ったのは稼ぎが悪 かった からだと考える人が多いようだからです。あるいはそうかもしれません。三年前の十九歳のと き、 ザルツブルクのコ ロレド大司教に雇われたときの給料は安いもので、年に150フローリン(グルデン)。これ は今 のお金に換算する と30万円弱(1ドル114円として)です。その後1779年にパリからザルツブルクへ 戻った ときの再雇用の額 は450フローリンで88万円ぐらい。アロイジアの方はモーツァルトを振った78年にはも うソ プラノ歌手として ミュンヘンでオペラ・デビューを果たしており、その時点で彼女のお父さんの年収600フ ローリ ンを超える 1000フローリンを稼いでいました。200万円ほどです。そしてさらにオーストリア皇帝 のプ ロジェクトで歌う 契約も取り、ウィーンへ移り住むこととなります。


喧嘩と独立
 その後大司教 コロ レドは、マリア・テレジアの死と、それに よって色々なものがヨーゼフ二世に引き継がれる 式典 でウィーンにいたときに、モーツァルトをそこへ呼び寄せます。しかしコロレドは自分の音楽 の下 僕として彼を貴族 の前で演奏させ、それ以外で活動することを禁じたため、モーツァルトは一回で一年の給料の 半分 ほども稼げる行事 があったものの出られなくなって腹を立てます。この頃の手紙では他の音楽家の無能さや聴衆 の無 感覚を口汚くこき 下ろし、ここで引用するのもためらうほど尊大とも言える高いプライドを見せています。お父 さん だから気を許して 正直に書いたとも考えられるけど、意外と他所の人にも言っていた可能性もあるのではないで しょ うか。彼の能力か らすればどれも本当のことながら、そう思ったら抑えられず、正直にそのまま出てしまう傾向 が あったかもしれ ませ ん。そうしているうちに大司教とはどんどん険悪なムードとなり、最終的には口論に至って、 モー ツァルトの方でも う辞めさせてくれと言い出し、コロレドはその場では許さないと応じました(一方の側の証言 では真偽は分かり ませ ん)。しかしその直後に結局主人ではなく召使に叩き出されるという結果に終わります。 1781 年、モーツァルト 二十五歳のときの出来事です。本人としては自由になって良かったのかもしれないけど、些細 なこ とで我慢ができずに喧嘩に至るというのも、ADHD に特徴的な現象だと言われます。


またウェーバー家と
 行くところが なく なったモーツァルトは故郷には帰らず、 ウィーンで待望のフリーランスの生活をすることに し て、またもやウェーバー家(振られたアロイジアの家族)にお世話になることとなりました (実際 は喧嘩の最中から そうなってました)。というのも、アロイジアはすでに結婚して別居していましたが、家族は その アロイジアの仕事 のために少し前にウィーンに移り住んでいたのです。ところが引っ越しをしてすぐに父親が亡 く なったため、一家は お金に困ってレントを取れる下宿人を探していたのでした。アロイジアの結婚はお金のため だった というわけではな いようですが、相手は再婚で、後年別居することになる宮廷劇場の俳優、ヨーゼフ・ランゲと いう 人です。日曜画家 でもあったので、最も似ているとされるモーツァルトの肖像画の描き手としても有名です。ア ロイ ジアの父親が死ん だ一年後に結婚し、そのときの条件としてランゲは前金で900フローリン、今のお金で 184万 円ほどをアロイジ アの母親に先払いし、年間700フローリン(143万円ほど)を毎年支払うという契約をし てい ます。アロイジア はこの結婚で劇場歌手の地位も手に入れたと指摘する人もいます。


お金持ちのモーツァルト
 ついでに ちょっと 脱線しますが、一方でモーツァルトのフリー ランスの仕事は成功して行きます。こういうお 金の 儲け方は社会的に見て当時の最先端ながら、ピアニストとしても作曲家としても有名になって 行っ たのです。アロイ ジアに負けていた稼ぎは逆転し、年に1万フローリンと、一桁違って来ます。これは同じ換算 をす れば2042 万円 となります。一回のコンサートで200万ほど、当時はオペラがお金になったのでフリーラン スの 人は皆好んでオペ ラを書いていましたが、そのオペラでは諸経費もかかったものの500万ほど稼いだようで す。そ してこのときに求 婚していれば、モーツァルトもアロイジアに振られはしなかっただろうと言う人がいるので す。身 も蓋もなく即物的 です。いささか女性に失礼な感じもするながら、男が顔で相手を選び、女が年収と地位で決め る傾 向が本能に近い生 き残り作戦なら、そんな見方も致し方ないでしょうか。そういうことかどうかはともかく、 モー ツァルトを振ったア ロイジアもドヴォルザークを振ったヨゼフィーナも、後年彼らが有名な作曲家になる頃には、 気持 ちの上で再接近し たように見えたりします。ヨゼフィーナに至っては、相手が熱烈にアタックして来てた頃に想 いを歌 詞に込めた歌曲を 「私の一番好きな曲」などと手紙に書いて送り、ドヴォルザークを再度燃やしています。


実際の貨幣価値
 年収2000 万と いうと、そのまま日本の事情を想像するに、 大会社の幹部役員か小企業の社長、かなり儲 かってるところの商店主ぐらいに感じます。でもこれはそれほど単純ではありません。古い時 代の通貨を今の購買力に換算する場合、基準となる物価指数をどん な品目から取って来るかで大きく違うし、それぞれの物の価値のバランスは当時と今では全然 異なっていたわけで、そもそもが正確には算出できないのです。そ れが証拠にモー ツァルトの時代の労働者の年収は25フローリンで5万1000円、上流になると500フ ローリンで102万円です。食べ物が手に入ったのか、労働者は5万 円で一年なんとか食べられたわけで、今の派遣労働者が年間200万円の低賃金で結婚もでき ないと言われているのと比べても、その40分の1ですから、それ らが同じだと計算して単純に40倍掛けれ ば、当時の上流階級は4000万、これはそこそこ納得できる数字として、モーツァルトの年 収は8億円になってしまいます。もし当時の労働者がその半分の 100万円で、つまり月額8万3千円の豪華な年金生活ぐらいだったとしても、4億円は稼い でいました。十年間の平均で3〜4000フローリンを得ていたと し、それを人によっては5000万円と試算する場合もあるようですが、「だいたい数千万 円」だとする説が一般的です。いずれにしてもオーストリアの金持ち の中の上のクラス、ほとんど王族級でしょう。


遣い果たしたわけ
 それが十年も 経た ないうちに借金にまみれ、暖房用の薪も買え ずに踊って体を温めてたというのですから摩訶 不思 議。もちろん、天才的演技で有名なハリウッドスターでも高級ワインを山のように買って破産 する 人もいるわけです から、急に大きな収入があるとよく起こる現象なのかもしれません。お金の遣い途としては ギャン ブルだという説 と、贅沢な生活によるという説があるものの、どっちも性格の問題です。前者はそうかもしれ ない ものの、負けた記 録など、決定的な証拠はありません。生活の方は、サイドビジネスとして貴族の子弟を教える 仕事 もあり、家も着る ものもそれなりにしていなければ来てもらえないという事情があったという話も聞かれます。 住居 は金銭的に苦しい ときに一等地から少し郊外に移したりはしたようだけど、着るものと食事の質は落とさなかっ たと か。色々とグルメぶりを示すような記録もあるようです。


モーツァルトの性格と音楽 サヴァン
 でも、もし浪 費と 性格が関係しているという話が出るぐらいな ら、彼は元々どんな性質だったのでしょうか。 まず 天才であったことは誰の目にも疑いの余地がありません。そしてそれは音楽サヴァンとしての もの だったとする学者 もいます。サヴァンというのは発達障害のような何らかの困難を持ちながら、ある特定の分野 で天 才的な能力を発揮 する人のことです。「高機能」と言えば損なわれていない普通の能力を意味しますが、この場 合は 図抜けて人並み以 上なのです。以下で本当にそうだったのかどうか、ちょっとだけ考えてみたいと思います。な るべ く客観的に見て、 発達障害の側にもモーツァルトの側にも失礼にあたらないようにしたいと思ってますが。


絶対音感とフォトグラ フィック・メモリー、音への過敏さ
 色々なタイプ があ るけれども、音楽の分野でのサヴァンの特徴 としては、絶対音感があることがまず一つ。こ れは モーツァルトが小さい頃に楽器のピッチがわずかにずれているとヴァイオリン奏者に指摘し、 確か めるとその通りだったということからも分かります。

 それから映像 記憶 能力があるかのように、音楽を一度に理解し たり覚えたりします。門外不出のアレグリの宗 教 曲、ミゼレーレを一回だけ聞いて後で楽譜にしたという逸話は最も良くそれを証明しているで しょ う。また、楽譜を 書きながら次の別の曲を考えることもできました。

 そして、音に 対し て過敏だということも音楽サヴァンの特徴で す。モーツァルトは子供の頃トランペットの音 が苦 手で、無理やり聞かせたら青くなって失神しそうだったといいます。この辺のことはガーシュ ウィ ンも同じで、あっ という間にピアノをマスターしたし、汽車の雑音から一度に「ラプソディ・イン・ブルー」を 頭に 浮かべてしまいま した。フランスの車のホーンの音色やラテン音楽の楽器にも大きな関心を寄せ、それらを蒐集 した りしていた話は ガーシュウィンのページですでに述べました。こういう人たちはやっぱりサヴァンな のか もしれま せん。偉大なモー ツァルト先生を病人扱いしたといって怒る方もおられるかとは思いますが、天才が一般の人と 少し 違ったところがあっても不思議ではないと思います。


手紙に表れた気質
 モーツァルト を健常者から外したい気持ちは別にありません。 でも彼が残した書簡、手紙のやりとりを読む と、ど うもちょっとだけ奇異な感じも覚えます。これはあくまでも個人の感覚なので、もちろん主観 に過 ぎません。でも彼 はそれ以前のバッハだのヘンデルだのといった有名な作曲家、恐らくは以後のベートーヴェン など を含めても、類が ないほど膨大な手紙を残したわけで、色々と感じ取る材料は揃っています。

 具体的には、 この サイトもそうながら、その文面は全般に言葉 が多い気がします。説明がやたらと具体的であ る一 方で、トーンは幾分上滑りな感じがして都合の良い解釈に傾きがちに感じます。常に自分の 思った ことについて、そ の感情にまで及んで細々と書いています。本音をあからさまにぶつけて人を批判したりもしま す。 コロレド大司教と は実際に喧嘩になったのでした。また、他者との距離の保ち方が極端で陰影がなく、敵か身方 かの どちらかになりや すいみたいです。自分を受け入れなかったアロイジアについては、最初はあれほど褒めていな が ら、突然手の平を返 すように極悪人になってしまいました。それから、言い難いことですが、人を思い通りに取り なそ うとするときに、 幼稚とも言えるほどの計画に乗り出したりするようです。それは細かく論理的に計算している よう でいて、その場限 りの思いつきの判断であるようにも感じられます。そして何より、悪気はないのでしょうが、 後で 誰にでも分かるよ うな嘘を自分の都合に合わせて思いついているふしがあります。ウェーバー家が子供たちを苦 労し て育てている様を 強調するためか、その数を水増しして報告したりしているのです。こうして全体に子供っぽい 無邪 気さと向こう見ず さに溢れているところが、手紙を読んでみて少し不思議な感じがする原因なのです。繰り返し ます が、これは個人的な意見です。


サヴァンと発達障害
 彼はサヴァン 症候群ではなかったかという話の途中でした。サヴァンは怪我などの後天的な理由でなる場合 や、重度の精神/知的障害を併発しているケースもあるものの、そうでない場合は一般に、い くつかの中のある特定の発達障害を持っていることが多いのです。よく聞かれるのは前述の ASD です。自閉症スペクトラム(Autism Spectrum Disorder)のことで、その中でも昔はアスペルガーとも呼ばれていたものです。これ は健康とされる一般の人たちの中にも多く存在しています。以下の 話はあちこちで聞かれますが、優れた能力を発揮する人たちにも本当に多いです。エンターテ イメント映画の大御所監督や発明家、巨大 IT 企業の初代 CEO であったりする人物の中にも何人もいます。昔から天才と気違いは紙一重と言うけれど、犯罪 者に含まれる高知能者の割合も、障害を持つ人に含まれる高機能者 の割合も高くはない一方、創造的な人々が何らかの発達障害を背負っているケースは大変多い ようです。むしろ天才の中に定型発達者を探す方が難しいぐらいかもしれません。

 しかしこれら有名な人たちは実際に会ったら不愉快なやつに違いない、などという話ではあ りません。反対に平均値であることが望ましいわけでないのと同様、 何かを成し遂げたら人として優れるわけでもありません。そうした能あるオリジネーターたち は発達障害を持つ人の慰めにはなるにせよ、天才こそ価値が高いと するのは優性思想と同じく危ういことであり、もし人類の意識が進んだら、背負った困難をバ ネにするのとは違う方法で活躍できる時代が来ることでしょう。そして今の現実世界では、ご 本人がそうした発達障害的な要素を色濃く持っていてそうは診断されていない無名の精神科医 が、私生活では人の裏を見抜けず大変ユニークな個性を発散しながら、仕事ではクライアント さんに適切なアセスメントと薬の処方を行っている姿もあります。 ASD の D はディスオーダーなので、「障害」と訳されてネガティブな感じがしますが、これらの普通の 人たちのように、簡単にはそう呼べないケースもあるわけです。


 さらに付け加 えるならば、人間の経験領域はシームレスなので、誰もがストレス下 にあったりすれば同じ特徴を示すことがあります。 というか、全ての人に普段から診断基準に該当するようなところはどこかにあって、疑い出せ ばき りがないぐらいで す。偏りのない健常者などという存在が幻想に他ならないわけで、定型発達者か発達障害を持 つ人かは全て程度問題なのです。したがって差別を生まないよう に「障害」とは呼 ばない方がいいという考えには賛成である一方で、その困難な社会生活を援助するためには診断が 必要な場合もあ り、痛し痒しです。話が予防的に少しくどくなってしまいました。


ASD の特徴
 ただ、特徴と しては、前述のように一点集中で自分の興味のあ ることばかり喋って話題を共有しているとは思 えないように見え、よく相手に呆れられます。他人の感情を理解する際にフィルターがかかる ので、場合によっては友人のところに行ってコンピュータ技術を そっくり盗むなど、人が不愉快と思える行動が悪いことだと思わなかったりもします。負の側 に傾けば、みんな仲良くなれるよ、と言って集めた情報を仲違いの ために使ったり、選挙結果を覆したりする人もいるようだし(診断結果は公表されてませ ん)、ライバルを蹴落とすために相手のデバイスで動物を殺す実験をし てみせた例もあるみたいだけど、でも倫理にもとることがあるとしたらそれは発達障害が原因 ではなく、単に表れた結果が徹底してるということであって、知能が高ければ善いことも悪い ことも人一倍こなせるというのと同じです。反対 に誰も考えつかなかったこの世界のモデルを数式化でき、同時に人権に厚かった人もいます。 とにかく他人の反応など目に入らず物事をひたすら追求できる傾向がある わけです。モーツァルトは興味のある話題になると脱線して延々と手紙に書きましたし、恋は 盲目で誰にでもあるながら、一度熱を上げるとアロイジアの全てが 良く思え、誇張した見方に固執して意見を聞き入れない一面もあったようです。両親や周囲の 人たちは、それをお人好しですぐ騙される性質として認識していま した。だから父レオポルトも大人になってまで心配していたのでしょう。小さいときにわが子 の才能を目の当たりにし、自らの代理にする欲が生まれたのは親と してよくあることながら、その後は「この子はまともに世渡りができないに違いない」と気が 気ではなく、色々と心を砕いていたのかもしれません。モーツァル トの方も父親べったりで何でも打ち明ける側面がありました。

 こうした種類 の発達障害と呼ばれる人たち(モーツァルトがそ うかどうかはまだ分かりません)を家族、例え ば両 親の一方、もしくは配偶者として持った人たちがその対応に疲れてしまう状況を、正確な診断 名で はないけれども呼 び習わす名前があったりもします。親がそうだった場合など、生まれたときから一般的でない 行動 や感情の表し方を 普通として育つわけで、時には楽しいかもしれませんが、大変苦しむ場合もあります。


ADHD の特徴
 ASD 以外にもう一つ、モーツァルトが ADHD だとする説があることには上で触れました。注意欠如・多動症という発達障害 (Attention Deficit Hyperactivity Disorder)です。些細なことが我慢できずに喧嘩に至ったり、口を挟む余地がないほ どお しゃべりが止まらなかったりします。人によっては片付けがで きない場合もあります。子供の頃に喧嘩ばかりしていたガーシュウィンもこのタイプだと言わ れた りします(「ラプソディ・イン・ブルー」)。この ADHD と上記の ASD は、少し前までは別のものでしたが、最近の診断基準では併存することがあるとされていま す。そ してサヴァンとも重なり合うのです。

 これ以外に、 人に よっては双極性障害だったのではと疑う場合 もあるようながら、そちらは発達障害ではな く、か つては統合失調症と並ぶ精神障害で、躁うつ病と言われて来たものです。今でもマニックとデ プ レッションのエピ ソード、という形で診断基準でもその言葉は使いますが、最近は気分障害としてうつ病と同じ 扱い になりました。大 企業の創業者の話をしましたが、大が付かずとも、起業しようとする人たちの中には一定数含 まれ ているようで、気 分屋の社長の話はよく聞きます。大きいことを怖がらずにやる一方で、感情が揺れるので、や さし くてフレンドリー な人かと思っていたら、機嫌が悪いときに爆発的に当たられて恐ろしい思いをする社員もいる わけ です。その手の人 権侵害は小さな会社ではよく見られます。モーツァルトの向こう見ずさと浪費をこの障害と結 びつ ける考えもある し、そのスカトロジカルな言葉遣い(汚言)からトゥレット症候群を疑う人もありますが、病 跡学 的な証拠があるの かどうかなど、詳しいことは分かりません。その糞尿愛好の言葉遊びも当時の冗談の習慣だっ たと して弁護しようと する人も存在するようだけど、記録によると、あの時代のオーストリアの人々は出会うたびに ウン コが出たがってる ぞ、ウンコ、ウンコと言い合っていた、わけはありません。だったらたくさんの人がそこへ移 住し たがることでしょう。そんな域は飛び超えて喜びまくってたわけで、そもそも罪のない話です か ら、もういい加減になかったことにす るのはやめたらど うかと思います。ウォルフガングは楽しかったんだもの、ありのままを認めてあげましょう。


ASD のタイプと恋愛
 ここで後から の話を整理するために、それは主に恋愛の話だけれども、前述 ASD の方のタイプ分けについても少し見ましょう。そう言っておいてのっけからまた前置きをしま すが、タイプといっても識者が便宜的に分けただけで、そういう区 分が 実体的に存在しているわけではありません。同じ人に複数共存している場合も、時期によって 変化する場合もあります。つまり当人にある程度選択可能な姿勢、 あるいは学習された対応の違いに過ぎないかもしれないわけです。この種の発達障害の人たち の間では一人ひとりの個人差が非常に大きく、本当は単純に分類できるものではないのです。 そしてそれは何ができるかの違いであり、ある人には難しいことが、別の人にはたやすくでき てしまうこともあります。同時に複数のことができない人がいる一方で、むしろ上手な人もい ます。異性と関係を築くのが得意な人もいれば、できない人もおり、自己肯定感の強い人も弱 い人もいます。
 よく言われるタイプは以下の三つです。

 まず孤立型 (aloof)。このタイプは言葉少なで人とほと んど交わりません。恋愛においては恋愛感情が分か らないと言ったり、関心がないように見える場合もあります。
 次に受動型 (passive)。おとなしいタイプであまり意 見を言いません。でも我慢が限界に来ると爆発しま す。受動的なので来る者拒まず去る者追わずの感じがあり、恋愛をしなくはないけど積極的で はあ りません。このタ イプの人も恋愛感情がよく分からないと言う場合があるようです。異性に人気があるかどうか は別 として、コ ミュニ ケーション能力が高くないので、男性の場合は関係を始め難いです。
 以上二つのタ イプ は必ずではないけれども自己否定的な感覚に陥るケースも多いで す。

 そして三番目 は積 極奇異型(active-but- odd)。「奇異」という言葉が入るので、この診断名を告 げられて不愉快な思いをする方もおられるようです。英語の odd を訳してそうなっただけで、元の概念は ローナ・ウィングとジュディス・グールドという学者さんが1979年に書いた論文から来ます。 そこでは peculiar and inappropriate manners という表現をしていて、peculiar も奇異と訳せます。行動障害の分野に ODD (Oppositional Defiant Disorder) というものもあり、反抗挑発性とも訳され、それもこの発達障害、特に ADHD と併存する可能性があるので紛らわしいです。
 この積極奇異 型に 加えて、別に誇張型(stilted)など を分けて設けるときもあります。普通に行動できる ものの、尊大で話が長い傾向があり、自分の主張を押し通して癇癪を起こすことがある人たち で、 これも ADHD との境界が曖昧です。

 積極奇異型の 対人 関係としては、これは他者と旺盛に関わるの です。コミュニケーションも取ろうとします が、自 分のことばかり話して的外れが多くなります。恋愛においては惚れやすく、興味があれば突進 しま す。この特徴は、やはり ADHD との区別が付け難いです。


モーツァルトのタイプ?
 モーツァルト を ASD に分類するとするなら、恐らく、この積極奇異の型に入ることになるのでしょう。アロイジア に対 してはどうも一人で舞い上がっていたふしもあるので、恋愛下 手で奥手な人物(受動型など)の勘違いに近いとも解釈できる一方で、自分の能力に対して絶 対の 自信を持っていた 様は自己肯定の強さを窺わせますし、アロイジア以外の女性に関しては敷居が低くて打ち解け るの も早かったよう で、もし男女関係に発展していると仮定するなら行動も速いことになります。誰でもそういう こと はあるにせよ、彼 の中で気安く入り込める相手とそうでない対象がくっきりと分かれ、中州まで漕いで渡れない 相手 なのに、あるいは だからこそ夢中になったのがアロイジアであり、相手のニュアンスを感知せず勢い良く突撃し て一 人相撲となったのかもしれません。

 ASD 全般に言えることは、好き嫌いが両極端で、突進か退却かとなって中間がない、恋愛に至る準 備期 間や移行期間というものが存在しない傾向があることです。好 きになるととことん攻めて、ときにストーカーにも近くなり、そうでなくなると全く関心が失 せま す。だんだんに仲 が深まる、などということはありません。相手の隠れたサインが読み取れないことから来るの で しょう。よく勘違いもします。それと、嘘は誰にでも分かる傾向があります。
 一般的には他 者の気持ちを理解することに困難が伴い、感情が 豊かでないように思われていますが、逆に定型 発達 者より他者との境界が薄く、相手の苦痛に敏感であるがために防衛が働いて感情理解へのブ レーキ が効いているか、 反応速度を遅くしているのかもしれないという仮説もあります。こうしたことも恋愛に影を落 とす でしょう。もう一 つの特徴である、視覚的記憶に強い一方で状況の全体の意味や文脈を理解することが難しく、 丸暗 記ができてもレ ポートが書けないとされる性質も、感覚過敏と関係があることも考えられます。忘れてはなら ないのは、表現は違えども恋愛感情のあり方そのものは ASD も定型発達者も同じだということです。傷つくのも同じです。


ADHD の恋愛
 これに対して ADHD の方の恋愛特徴はと言えば、それは衝動的だということに尽きます。かっとしやすく、腹を立 てる と相手の欠点を強調し、言い過ぎて関係を壊しそうになって も、悪い点はその通りだとして譲りません。また飽きっぽいことも多くて途中で投げ出したり もす る一方で、自己否 定的ではありません。同時進行でたくさんの相手と関係を持ったりする場合もあるし、刺激を 求め る結果、性的なアクションまでの敷居が低く、行為に熱中する場合もあるようです。そしてこ の場合も ASD と同様、恋愛において喜んだり悲しんだりすることは定型発達者と同じです。 


コンスタンツェにターゲットを変更
 浪費の原因か ら発 達障害へと話が移って来ましたが、恋愛のあ り方についてもモーツァルトは少し変わったと ころ があったかもしれません。元々が熱病ですから皆同じ穴のムジナというか、誰も国の指導要領 みた いに正しいことは やってないので人の恋路をあれこれ言うのは気が引けますが、時は1781年、彼が二十五歳 の頃 のことです。 78 年の暮にアロイジアに振られてから二年ちょっとで、今度は同じウェーバー家の三女、コンス タン ツェに狙いを定め ます。そこに至る期間の長さ自体は別におかしなところはありません。再会ですが、ただ、五 月に ウィーンでその家 の同居人となってほとんどすぐに熱中したと言っていいでしょう。何があったのかは分かりま せん が、彼はこれまで も色々なところですぐ噂が立つのです。直前にも教え子に好かれた件で父親をやきもきさせて いま す。相手の容貌に 関して酷な表現を並べて関係は否定してますが、どうなんでしょう。その言い訳として、「冗 談を 言った相手と結婚 しなきゃならないなら、200人の妻を持つことになる」などとも語っています。この辺は ADHD らしいとされるところなのでしょう。

 多くの論者が 初め て性関係を持った相手だろうと想像している 従姉妹のベーズレともあっという間に親しく なった し(彼女が後々身持ちが悪かったとしてモーツァルト側だけ弁護するのはどうでしょう)、パ ン焼 き職人の娘の件も あります。こちらの話はいちいち説明しない方がいいかもしれないけど、ザルツブルクの父が パリ 行きの旅先にあっ た母に送った手紙によると、「息子が出発前に一緒に踊ったりしていて、相手もしょっちゅう 親密 な様子を見せてい た例の丸い目のパン職人の娘がその後修道院に入ってしまったけれども、あいつがザルツブル クを 発つと聞きつけて またそこから出て来てしまった。入るときの支度金をふいにしてしまって、うちの子は弁償す る気 があるのか」と 言っているのです。それに対してモーツァルトは、「何の弁解もない、自分が出発前に別れに 胸を 痛めていたのは彼 女のためだ、噂が広がらないようにしてほしい、費用は立て替えて払ってほしい、今度ザルツ ブル クに帰ったら怒る あの子をなだめて、何の魔法も使わずに死ぬまで修道院に入ってるようにぼくが必ず説得する か ら」と返事をしてい ます。何となく虫のいい考えのようです。何があったのかはそれぞれで判断することだけれど も、こういうところは失恋博士のシュー ベルトやベートーヴェンとは様子が違っています。

 さて、将来の 妻コ ンスタンツェに対して、再会後にすぐ狙いを 定めたという話でした。ただしアロイジアのと きほ ど夢中になるタイプでもなかったようです。「容姿は美人ではなく、機知に富んでもいないけ ど、 体つきと性格が良 く、妻の役目を果たせる」などと書いています。それでも例によってスイッチ・オンのべた褒 め状 態ではあります。 もしアロイジアの代打だっとするなら気の毒なのはコンスタンツェであり、後年彼に対してと きに 意地悪な態度も あったというのが本当なら(全然違うという解釈もあります)、それも当然かもしれません。 まし てや本人が情緒的 に少し変わった性質だったとすると、周囲の者の反応が美談で終わらないこともあり得ます。


父の反対と誰が悪者かの論議(結婚に関する騒ぎ 〜第二章)

 このコンスタ ン ツェとの結婚についても、父レオポルトは頑な に反対しました。息子のこれまでの経緯がある から かどうかは分かりませんが、結局最後は認めたわけで、やっぱり心配だったのだろうと思いま す。 なぜか日本で優勢 な見方としては、ウェーバー家のお母さんがお金に困り、その頃大金を稼ぐようになっていた モー ツァルトに娘を嫁 がせようと色々計略を練っていたとするのがあります。有名な論者が言ったせいとかなので しょう か。そしてレオポ ルトが結婚に反対したのはそんなウェーバー家を嫌っていたからだということです。確かに、 アロ イジアの結婚時に はそれでかなりの収入を得ていたのも本当なので何とも言えないながら、三年以内に結婚しな いな らお金を払えとい う誓約書をコンスタンツェの母がモーツァルトに書かせ、サインしないなら娘との付き合いは 認め ないと言ったなど と、本人が父宛の手紙で言っています。しかしその誓約書をコンスタンツェ自身が、「婚前契 約な んかなくても彼を 信じてる」と言って目の前で破ったというエピソードにまで及んでおり、この話自体が本当 だった のかちょっと疑わ しい気もします。破ったんだから証拠も残ってないわけです。調子の良い作り話は今までも やって るし、何だかコメディ・ドラマみたいじゃないでしょうか。


夢中だった モー ツァルト

 計略にかかっ たか どうかはともかく、モーツァルト自身がコン スタンツェに夢中になっていたのは確かです。 コロ レド大司教と険悪になり、最初一週間の滞在予定でウェーバー家にやって来たときも、その滞 在人 が娘のコンスタン ツェにアタックしているとすぐに見抜いたウェーバー家のお母さんは、それをやめて出て行く よう に促したとも言わ れます。これに関しても、モーツァルトの父親が出させたという見方もあります。実際はしば らく してから出て行き ました。いずれにしてもその後もモーツァルトの熱は続き、カップルによくあることとして、 いっ たん喧嘩別れをし たこともあったようです。室内ゲームに興じていたときに、別の若い男にコンスタンツェがふ くらは ぎを計測させたと いうのでモーツァルトが嫉妬したからというのです。しかし、しばらくして今度はコンスタン ツェ の方がモーツァル トのところに転がり込み、同棲状態となりました。レオポルトは反対し、それに対してモー ツァル トの方が、「お父 さんからもらったアドバイスはもはや意味を成さない、すでに女性とそれ以上のところまで来 てし まった男にとって は」と書いています。さらに「もはや(結婚の)延期は問題外」だとも言いました。当時こう した 形での同棲は社会 的に受け入れられませんでした。ウェーバーのお母さんは娘を連れ戻すために警察に連絡しそ うに なったそうです。


作曲の動機

 そしてとうと うこ の大ミサ曲へと話がもつれ込んで来ます。結局 二人はレオポルトの承認が得られないまま、状況に 追い込まれてというか、追い込んでというべきか、1782年の八月に教会で勝手に結婚式を 挙げ てしまいます。 モーツァルトは二十七歳、コンスタンツェは十九歳でした。式の後すぐに入れ違いで結婚を認 めるとい う父の手紙が届く のですが、これより前からモーツァルトは大ミサ曲を作曲しようと決めていたようです。その 後の 83年の一月の手紙 では、この曲を作り、妻コンスタンツェと一緒に故郷に持ち帰ると前から誓っていたんだと父 に説 明しています。最初の時点では妻の病気平癒と、何とか結婚を実現させたいというような気持 ちから取り掛かったのかもしれません。それにしても、誓願/奉納ミサという形式の例はあっ たにせよ、結婚誓願というのはどうなんでしょうか。父への手紙の時点では一応結婚自体 は承認されていたので、それでもまだ作るとなると目的はどうやら、コンスタンツェを父や姉 に心から認めてもらうこと だったようです。作曲はもう半分ほど出来ていたようだから、82年から始めていたのでしょ う。 83年の八月には 生まれて二ヶ月の赤ん坊を預け、ザルツブルクへ帰郷します(その旅行中に第一子は死んでし まい ます)。そして十 月になってザルツブルクの聖ペテロ教会で大ミサ曲は初演されました。完成はしていなかった わけ ですが、コンスタンツェにソプラノ・パートを歌わせています。

 それにして も、自分の妻を認めさせるためにミサの大作を作っ て故郷まで旅し、皆の前で披露して本人に歌わせさ えすれば大成功という考えは、どこかちょっと子供っぽくはないでしょうか。アロイジアのと きの発想とも似ています。その妻は子供を産んだばかりで す。それを聞いたお父さんが「息子よ、よくやった、すごい傑作じゃないか。全てを真剣に考 えてたんだな。コンス タンツェは素晴らしい才能を持った女性で見事な歌いぶりだった。お前が奥さんにしようとい うだ けのことはある。 心から100万回のキスと祝福を送るよ」などと言ってくれる場面を思い描いていたのでしょ う か。あるいは、意地悪な言い方過ぎるかもしれませんが、妻の姿、もしくはもはや過去の小規 模なミサではない形で発揮されている自分の天才ぶりを、故郷ザルツブルクの人々に見せつけ たかったのでしょうか。


未完に終わったわけ
 そして演奏が 無事 終わって現実世界へと戻って来ると、煌びや かな光は消え、依頼された曲ではないためにお 金に はならないし、家族の妻への態度は以前も以後も何も変わらずでそれなりだという現実が見え て来 ました。結婚も形 の上では既にクリアしていることもあり、目的がなくなってミサは放置されたのだと思いま す。誰 に対しても完成さ せる義務はありません。因みに飽きっぽくて興味の対象が移り、途中で放り出すこと自体も発 達障 害の人にありがち かもしれないけれども、モーツァルトは他の曲はちゃんと完成させているわけで、単に膨らん でい た期待が現実サイ ズに戻ったというだけでしょう。この作品が完成されずに放置されたことについては、実は多 くの 論者が様々な理由を挙げています。


モーツァルトの感情世界
 最後にもう一 度強調しておきたいのですが、モーツァルトにつ いてここで何らかの診断を下そうというわけで はありません。診断は裁定です。発達障害だと医者に言われる人も普通の人間であって、感情 を持って生きてい る点で定型発達者と何ら変わりがありません。援助を求めているとき以外は、表現の仕方が異 なる一つの個性に過ぎないのです。突き詰めれば、平均的存在とい う人間自体がいないとも言えます。モーツァルトの音楽を聞けば情感が豊かであることは誰に でも分かります。もし彼がサヴァンで、現在の基準で発達障害的だ とされる傾向をいくらかでも持っていたとするなら、逆に発達障害の人が豊かな内的世界を 持っていることの反証にもなることでしょう。そして、今とは制度が 違っていたとはいえ、モーツァルトは助けを求めずに普通に生活したのだから、 何の障害もなかった人です。その専門のクリニックの火災で多くの方が亡くなる事件がありま したが、院長に感謝の言葉を述べるクライアントの証言がたくさん 出て来る中で、障害に気づかせてくれて救われたと発言した人もいたようです。誰であっても 人間関係ではいっぱい傷つくわけで、こうした発達障害を抱えて生 きる人は、周囲からは騒々しい困った変わり 者などとも思われつつ、そうは見えずとも、本当は気づかない本人が一番苦しい思いをしてい ることが多いのです。

 もう一つ、変わり者の天才だと聞くと、そんなことはない、大変な努力を積み重ねていたが ゆえに素晴らしい曲を書けたのだと主張する方もあるでしょう。そ れは全くその通りなのです。書簡やスケジュールを見れば頭が下がる思いであって、貶めよう としているわけではありません。常人とは異なった才能があったこ とと、人一倍努力していたことはモーツァルトの中では一つのことであり、比べられるもので はないのです。そのように生きたし、それ以外にあり得ない必然 だったでしょう。才能か努力かという二項対立の問い自体、理性の側の区分に過ぎません。
 ましてや、ものが考えられない軽薄な人間などではありません。まれに聞く実演でしか曲に 接することができなかった時代に世間が理解できる音楽の水準と、 自らの理想との乖離を自覚する冷静な理解力を持ち、晩年には死の準備をしていたとしか思え ないほど、生と死のあり方を哲学的に眺めるような深みのある言葉 も残しています。


 そしてこの大 ミサを作った翌年の1784年にモーツァルトは ハイドンと知り合い、年齢差を気にせずお互いに敬意を持って長く続く友情を育みました。こ れはモーツァルトの数少ない美談なので何度も触れてしまいます が、死の一年前にはイギリスに旅立つハイドンを心配し、言葉も十分に喋れないのにと涙なが らに、以後二度と会うことのなかった別れを惜しんでいます。父、 母、姉の家族に対しても情愛は深かったようで、妻にも旅先から心のこもった気遣いの手紙を 書いていたりします。ちょっとオーバーな表現はこういう書簡の修 辞法だったにしても、父親にしていたのと同じように何でも細々と書くのは彼の性質のようで す。それすら裏を勘ぐればきりがありませんが、寂しがりやで人恋 しいところがあったのでしょう。漂泊的依存的ながら感情の薄い人間という感じは全くせず、 なんだかんだいっても愛すべき存在です。ずいぶん面白いことも やったようだけど、出来事の次元は魂においては大洋のさざ波であり、残してくれた曲こそが 本当のモーツァルトを語っているでしょう。


曲の構成と楽 譜の 種類

 ミサ曲はカト リッ クの式典に則った形で行われるものです。定 型文に従い、次第が決まっています。以下の通 りです:

 キリエ(主よ憐れみ給え)
 グローリア(天の神に栄光あれ)
 クレド(信仰宣言)
 サンクトゥス(感謝の讃歌)
 ベネディクトゥス(祝福あれ/サンクトゥスの一部)
 アニュス・デイ(神の小羊)

 このうち、 モー ツァルトが完成させずに終わっているのはクレ ドとアニュス・デイの二つで、クレドの方は全 部で 六つに分かれるうちの、最初の二曲は一部のパートが未完成ながら楽譜が存在しており、補筆 され て演奏されます。 残り四つは通常は演奏されません。アニュス・デイも普通はないままです。
 その未完の曲を作って演奏されるのは、次の二つです。

 シュミット版(ブライトコプフ旧全集版/1901)
   クレドの 残り 四つをモーツァルトの他のミサから取って来て(演奏 されない場合もあります)、ア
  ニュス・デイは レク イエムでもやられるように、同曲の冒頭のキリエを流用したものです。録音は古
  いものが多く、フランソワ・ロベー ル・ジロラミという人の1998年盤もありましたが、廃盤です。
  アニュス・デイのみ加える録音(ルドルフではなく、ベルンハルト、B ではなくて P で始まる方のパ
  ウムガルトナー1958年盤)もあり、それだと同じ曲から取って来たものなので違和感 は少 ない気
  がします。モノラルで大変ゆったりした演奏 です。


 レヴィン版(2006)
   2006 年の モーツァルト生誕250年を記念して制作され たもので、同曲の残された断片を用い
  て作った部分と、 モーツァルトの他の曲からの流用があります。リリングが新盤で演奏しています。


 その他にも 色々な版があるものの、すべて未完の曲の部分(ク レド四つとアニュス・デイ)は作らず、そのま まに しています。レクイエムのように曲の途中で書けなくなったので、どうしても作って付け足さ なく てはならなくなっ たということはなく、出来上がっている部分の音の形はほぼ完成しているからです。したがっ てカ トリックの信仰に よってミサとしての形を完成させたいという拘りがある人以外は、残りの楽章がなくても気に なら ないだろうという のが大方の見方で、作れば却って作品を損なう危険があると考える人もいます。実際レクイエ ムの 場合、付け足した パッセージがあるものではモーンダー版のアーメン・フーガの後半の処理が、パー フェクトじゃないに せよ納得できるかなと思ったぐらいで、勝手な意見ながらあとは記憶にあまり残っていませ ん。

 各版の違いとして は、多少不完全になっているパートを補筆し た仕方が少しずつ異なるのと、追加する楽器が 色々 だったりするような状況です。1977年にポーランドの図書館から自筆譜が発見されたの で、そ れ以降の版はそれ を参照しています(エーダー版以降)。そしてこれらはどれも全曲版のように聞いて耳慣れな い感 じがすることはな いですが、ここでは詳しく触れる力がないので、細かなことは専門の研究を参照してくださ い。レ クイエムのときは 個性的な魅力があった前述のモーンダー版も含めて、個人的には演奏のあり方ほどには版の違 いは あまり気になりません。主なものを下に掲げます:


 ランドン版(1956) 
   レクエム の ジュスマイヤー版のように多くの演奏者が採用 している版で、これ以外ではエーダー版
  とバ
イヤー版がメジャーです。フリッチャイ、カラヤ ン、ク リスティ、レッパード、レヴァ インなど

 エーダー版(ベーレンライター新全集版/1986)
  リリング旧、ヘレヴェッヘ、アバド、ミンコフスキなど

 シュミット/ガーディナー版(1986)
  ガーディナー

 モーンダー版(1988)
  マクリーシュ、ホグウッド

 バイヤー版(1989)
  バーンスタイン、アーノンクール、鈴木など

 ケンメ版(2010)
  ダイクストラ

 ベルニウス/ヴォルフ版(2016)
  ベルニウス

 曲の部分とし て特 に注目されるのは、全曲の中でもスローなア リア的存在である、クレドの二曲目に来る「聖 霊によりて (Et incarnatus est)」でしょう。長調で、明るく高揚感がありながら静かな名曲です。ソプラノが単独で 歌う もので、元々がソプラノであった妻コンスタンツェを家族に認 めさせる目的で作った経緯もあってのことです。曲の切り方によりますが、大抵は全曲の後ろ から 三つ目、ときに四 つ目のトラックに来ます。ただ、初演時には、この楽章が含まれているクレド自体を演奏しな かった という説もあります。

 ソプラノのソロ・ パートは全部で三つあり、これ以外でも最初 のキリエも美しく、最低音から一気に高く跳ね 上 げ、力強さを見せつける部分も存在します。妻が聴衆をうならせて堂々たる技を披露する場面 を夢 見たのでしょう。 そして三曲目に来る、グローリアの中の二番目、「主の賛美 (Laudamus te)」も親しみやすいメロディーです。



演奏について
 色々な演奏を 何度 も繰り返し聞き比べてはみましたが、全部は とても書けません。録音で聞くときには大曲だ けに 注目すべきところが多く、なかなか「これこそベスト」とまでは行かないところが難しいで す。 オーケストラの適切 なテンポや歌わせ方の良さ、合唱のクリアさ、この曲の目玉であるソプラノが好みかどうか、 そし て編成が大きいた めに大変気になる録音の良さ、といったところで、版の違いを気にせずとも、やはり良いと感 じた ものがポイントご とにいくつかに分かれてしまいました。特にソプラノと、それ以外の部分の完成度の高いもの とが必 ずしも一致しない 感じでしたので、♡のつけ方は全体の運びと響きの良いものを中心とし、ソプラノについては 本文 で別途触れることにしました。

 そしてそのソ プラ ノは通常二人でやることが多いですが、二人 ともよく似た高い声質の人にする場合と、2の 方を メゾ・ソプラノにしてコントラストを付け、低めで世俗のオペラのように響かせる場合とがあ りま す。ソプラノ2の パートは三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」に当たります。ただし元々の初演時はソプラノは一人だったのではないかという説もあり ます。手稿譜への書き込みから、二人に振り分けたのはこのミ サを流用して作ったカンタータ「悔悟するダヴィデ」K. 469 の頃からだと考えるのです。出版されている版では旧全集のシュミット版が「主の賛美」をメ ゾ・ ソプラノとする一方、ランドン版のフリッチャイの演奏では全 てのソロを一人のソプラノがこなしています。新全集でも格別二人に分ける表記にはなってい ませ んが、慣例として 演奏者の解釈で分けているものが多いです。

 それから、こ の辺 は好みだと思いますが、モーツァルトの他の 器楽やオーケストラの作品とは逆の傾向もある とい うのか、古楽演奏のものがアクセントも含めて案外素直に聞こえ、伝統的なアプローチより自 然で 良いようにも感じ ました。古いものはテンポが遅く、多少大仰に聞こえてしまいました。合唱部分も大人数で録 音も 濁るのでここでは多く取り上げていません。

 気に入った演 奏 と、必ずしもそうではなくても有名なものとに 絞って録音年代順に並べて行きます。古楽とモ ダン は分けず、その都度触れます。今回は二度録音している演奏者も続けて並べず、録音年順で す。




   fricsaygreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Ferenc Fricsay   Radio Symphonie Orchester Berlin ♥♥
     Chor Des St. Hedwigs Kathedrale
     Maria Stader (s)   Hertha Töpper (a)
     Ernst Haflinger (t)   Ivan Sardi (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
フェレンツ・フリッチャイ / ベルリン放送交響楽団 ♥♥
ベルリン聖ヘ ド ヴィヒ大聖堂聖歌隊
マリア・シュ ター ダー(ソプラノ)/ヘルタ・テッパー(アル ト)
エルンスト・ ヘフ リガー(テノール)/イヴァン・サル ディ(バス)

 古くから決定盤の よう に言われて来た名録音です。1959年 ということで、ステレオ最初期ながら音も驚く ほど良いので、今でも第一線という感じです。昔は廉価版の国内プレスの LP でも出ており、深緑のジャケットのを持ってたのですが、帯か何かにこんな凄い演奏がこんな値段 で、 などと書いてあったのを読んだ記憶があります。そしてこ れ以前の録音もあるはあったものの、当時はこれしかないぐらいに思われてました。目玉はなんと 言っ てもマリ ア・ シュターダーのソプラノです。でも指揮者のフリッチャイもベストの演奏をしていると思います。 伝統 ある合唱団もこの時代の 人数の多いものとしてはがやがや濁ったりせず、見事なものです。

 まずソプラノのマ リ ア・シュターダーですが、この曲はソプラ ノこそが活躍する曲なので、他の歌唱陣も豪華 なが ら、とにかくこのソプラノが大事です。シュターダーは1911年、オーストリア=ハンガリー帝 国生 まれでスイス 国籍。ドイツの名ソプラノ、シュワルツコップより四つほど上で、この録音時には四十七歳でし た。十 年後 には 引退することになるにもかかわらず、1メートル44センチという小柄な体格もあり、いつまでも 若々 しくてチャー ミング、やわらかくはないけれども所々で少女のような可愛らしさを発揮する声質に加え、甘える よう なポルタ メン トの表現もあり、高く伸びるフォルテの輝きは比類がありません。オペラの録音もあるものの、台 の上 に立 たなければならない身長のせいで舞台には上がれず、主に宗教曲の分野で評価されました。振幅の 大き なビブ ラート は使わず、このアルバムで組んでいるアルトのヘルタ・テッパーと共に、リヒターのレクイエムな どで 活躍していま す。大ミサでは一年前のパウムガルトナー盤でも歌っていたものの、そちらはテンポが遅い点で印 象が 少し異な るでしょうか。

 古楽奏法が出てき た現 代は歌い方そのものがまたちょっと変 わって来ています。その意味で最近の録音と比べ れば より目立ってるし、一時代前のスタイルのソプラノとしても、生まれながらの天使というか、子供 の体 型 から生まれて来る独特の音色もあって、同曲で無二の存在と言えるでしょう。したがってこれを超 える ものがな い とい う意見には半分同意せざるを得ません。天国的な「聖霊によりて (Et incarnatus est)」は絶品です。コンスタンツェがこんな風に歌ったら皆腰を抜かして賛美したに違いあり ませ ん。

 一つ気付いたの は、こ の大ミサ曲ではソロの三つのパートを全 て、このシュターダーが歌っているのではない かと いう点です。アルト、ものによってはメゾ・ソプラノとも表記されるヘルタ・テッパーが控えてお り、 それをソプラ ノ2としている資料もあったりするのですが、声を聞く限りでは三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」もシュターダーに聞こえます。多くの演奏でここは別の歌い手が担い、少し低めのメゾ・ ソプ ラノが充てられることが通例であるものの、どうも一人で こなしているようです。テッパーもメゾ・ソプラノとしてソプラノ・パートを歌うことのある人で あ り、高い声 も出ますが、低い方はかなりの音域があってシュターダーの少女的な響きとは違うように思いま す。

 そのシュターダー と親 しくしていた指揮者のフリッチャイです が、白血病で四十八歳で亡くなったこともあっ て熱 烈なファンがいる人です。演奏マナーは19世紀ロマン派の流れを汲んでいるように、ときにデ モー ニッシュになる ところがあります。どこか壮大な感じがするところはニキシュに習ったエードリアン・ボールト に、ま た、大き く揺 れて重くうねるような節回しがあり、厳粛な雰囲気を漂わせるという点では、走りはしないけれど もフ ルトヴェングラーとも幾分似た 雰囲気に聞こえる箇所があったりもします。こう説明するとモーツァルト的ではなさそうに聞こえ ます が、この ミサ ではそこまで起伏は大きくせず、絶妙にバランスが取れています。それでもやはり動きはあり、例 えば キリエでソロ が始まる前にふわっと緩めるようなテンポの変化があちこちで聞かれたり、大変ゆったりな区間が あっ たり、繰 り返 される音型で徐々に音量を下げて行くといった表情の膨らみもあります。この指揮者らしさが柔軟 な感 覚となって表 れているモーツァルトで、やはり独特の魅力があるのです。フリッチャイ自身の演奏としても、こ の大 ミサ曲こ そが 一番じゃないかと言ったらファンの方に叱られるでしょうか。

 ドイツ・グラモ フォン 1959年の録音は前述の通りの素晴ら しいもので、この時期のこのレーベルとしても ベ スト でしょう。多少の古さはあって最新録音と比べて不満を言う人がいるかもしれないけれども、弦も 艶や かに繊細に前 へ出る一方でシャリシャリせず、中域にこもり音がなく、低音も出ていて合唱もクリアです。この 時代 にここま で揃 うのはかなり珍しいと思います。録音プロデューサーはオットー・ゲルデス、バランス・エンジニ アは ヴェルナー・ ヴォルフです。スコアはランドン版です。


1971/コリン・ デイヴィス/ロンドン交響楽団&合唱団/ヘザー・ハーパー/フィリップス

1973/レイモンド・レッパード/ニュー・ フィ ルハーモニア管弦楽団/ジョン・オール ディス合唱団/キリ・テ・カナワ /EMI



   karajangreatmass
     Mozart Mass in C Minor K. 427
     Herbert von Karajan   Berliner Philharmoniker
     Wiener Singverein
     Barbara Hendricks (s1)   Janet Perry (s2)
     Peter Schreier (t)   Benjamin Luxon (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン楽友協会合唱団
バーバラ・ヘンドリックス(ソプラノ1)/ジャネット・ペリー(ソプラノ2)
ペーター・シュライアー(テノール)/ベンジャミン・ラクスン(バス)

 レクイエムではア ン ナ・トモワ=シントウの色っぽいポルタメ ントにびっくりさせられたカラヤンです が、こ の大 ミサ曲でも最初から弦が滑らかなレガートで独特です。強い拍でも敢えて強く打たずにやわらかく 弧を 描くように膨らませま す。楽友協会の合唱はやや遠めで人数が多く感じます。しかしありがたいことに音が重なって濁る よう な歪 みっぽさ はなく、弱音に抑えて行くところが多いからか全体にフォーカスの甘い感じでふわっと響きます。 歌い 方は荘重で、 摺り足で行くような運びです。テンポを緩めて弱くもって行く箇所も独特です。グローリアなどの 元気 の良い 部分では設定速度を少し上げ、力強くやりますが、リズムが軽いものではありません。

 ソプラノ1は難民 支援 や人権活動に力を入れるアフリカ系の バーバラ・ヘンドリックスを起用しているの が面 白い と思います。きれいな声で有名な人ですが、キリエでは静かに歌い出します。大変ゆっくりで、強 い音 はオペラ的に ダイナミックに盛り上げます。ビブラートは大振りです。後半の「聖霊によりて (Et incarnatus est)」では、出だしは中庸のテンポでややさらっと始まりますが、歌い出すとまた大変ゆった りに なります。や わらかくポルタメントをかけるようにつないで丸さがあり、高くはない声質自体も静かなところで はソ フト に感じさ せ、丁寧に歌って行きます。この甘くまろやかな声こそが良いと感じる方もおられるでしょう。強 い方 でも張り上げ るような効果は使いません。ふわっと盛り上げて包み込むように歌う独特のもので、この色っぽさ はレ クイ エムでこの指揮者がトモワ=シントウに求めたのとちょっと似た音かなという気もします。

 一方でソプラノ2 の ジャネット・ペリーが歌う三曲目、「主の 賛美 (Laudamus te)」の方はしっかりとソプラノ声で高めなので、ヘンドリックスと逆転して聞こえるぐらいで す (メゾ・ソプラノにやらせることが多いパートです)。やは り角を丸めてポルタメント気味に歌います。こうしたソプラノたちの妖艶な歌い方はカラヤン美学 に ぴった りはまるような気がしますが、指示があったのでしょうか。

 ドイツ・グラモ フォン 1981年の録音です。残響はあって合 唱が大きいのでゴーっと鳴る感じはあります が、輪 郭はしっかりとして弦も艶やかに張り出し、バランスの取れた録音だと思います。使用しているの はラ ンドン版で す。



   harnoncourtgreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Nikolaus Harnoncourt   Conceptus Musikus Wien
     Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
     Krisztina Laki (s1)   Zsuzanna Dénes (s2)
     Kurt Equiluz (t)   Robert Håll (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ニコラウス・アーノンクール / ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
ウィーン国立歌劇場合唱団
クリスティーナ・ラーキ(ソプラノ1)/ジュジャナ・デーネッシュ(ソプラノ2)
クルト・エクヴィル(テノール)/ロベルト・ホル(バス)

 古楽の旗手、アー ノン クールは拍ごとに頭を叩くようなリズム でごつごつとしたモーツァルトを聞か せた人で すが、この大ミサではどうでしょうか。そういう風に構えて聞けば案外普通かもしれないけど、や はり特徴 は出ている演奏かと思います。バロックから古典派までは、この人一流の学問的解釈と主張があっ たよ うで す。 それ でもレクイエムは1983年と2003年に二回出し、新盤の方では熟成した味わいがあって大変 魅力 的でした。

 キリエの出だしは 中庸 のテンポで、一つずつの拍に強調を置く ような運びではありますが、思ったより癖 は少 なく 感じました。合唱は人数が多いようで、音場的には引っ込んでおり、必ずしもクリアとは行かない と思 います。

 グローリアは角 張って 力強く、拍に強調を感じます。叩きなが ら進むような感覚です。他のところも、全員で 強く出るようなパートではとにかく迫力があります。

 ソプラノ1は歌い 出す と遅くなり、音が引っ込んでいる分、低 音域では消え気味になるところもあります。盛 り上がると今度は分厚く力強い合唱がついて来て、速度も速まります。しかし後半の「聖霊により て (Et incarnatus est)」では静けさが感じられます。声の質は高い響きもある一方で、オペラ的というのか、鼻 口腔 にこもるように
響 かせつつ(声 楽の基本である喉の奥を広げるという話ではなく、そこも含めて共鳴する空間全体を医学的に言っ てい るだけで、ある一定の音程より低いときに、顎は開いても口の面積を縦細にするか小さめにして ウォの 音に近づけるとヘルムホルツの原理で低く豊かに共鳴します。イタリアのベル・カントに共通した 母音 の響かせ方かもしれませんが、これは口を閉じているとも言え、また顎を開いているので大きく開 けて いるとも表現できます)震わせる声も出て、多少メ ゾ・ソプラノ寄りの印象もあります。歌い方としてはふわっとやわらかく山を作るように歌いま す。ビ ブ ラートは トータルでは大き過ぎず落ち着きがあり、テンポはゆっくりです。ポルタメントは使わないもの の、静 かに漂うよ うな弱音と包み込んで行くようなフレーズの運び方は、やわらかい音ではないものの上記カラヤン 盤の ヘンド リックスに多少似たところもあるかもしれません。

 三曲目、「主の賛美 (Laudamus te)」のソプラノ2の方は、メゾ・ソプラノというか、アルト寄りの低めに感じる声質で、やは り口 を閉じ気味にこもらせるところがあります。艶っぽく角を 丸める様はオペラティックと言えるでしょうか。

 テルデック 1984年 の録音は古楽器らしい弦の音は出ていて くっきりしており、所々輝かしさもあります が、古 楽の楽団としては倍音が細く繊細に伸びる方のバランスではありません。中低音に残響があり、人 数の 多い合唱と あいまって力強さを感じます。楽譜はバイヤー版です。



   gardinergreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     John Eliot Gardiner   English Baroque Soloists   Monteverdi Choir
     Sylvia McNair (s)   Diana Montague (ms)
     Anthony Rolfe-Johnson (t)   Cornelius Hauptmann (bs)

モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ジョン・エリオット・ガーディナー / イングリッシュ・バロック・ソロイスツ
モンテヴェル ディ 合唱団
シルヴィア・ マク ネアー(ソプラノ)/ダイアナ・モンテ ギュー(メゾ・ソプラノ)
アンソニー・ ロル フ=ジョンソン(テノール)/コルネリウ ス・ハウプトマン(バス)

 
合唱を含めて古楽の運動をイギリスで70 年代後半からリードして来たガーディナーですが、大きく形を崩さ ない 端正な演奏が中心かと思えばダイナミックな動きを見せることもあり、バッハの宗教曲では深く瞑 想的 な瞬間もあり ました。この大ミサは大変意欲的で、全体にくっきりとしたところとよく歌わせるところがあり、 美し いソ プラノも聞ける魅力的な一枚かと思います。この指揮者にはバーバラ・ボニーとアンネ・ゾ フィー・ フォン・オッターのソプラノによる1991年の DVD もありますが、ここで取り上げるのは86年の CD の方です。

 出だしのテンポは 中庸 ややゆったりというところです。透明感 があります。バランスは良く、弦や声の高い方 の響 きがよく聞こえ、被りません。合唱の強い音では中高音に反響が乗っているのが分かり、残響は結 構あ る方です。演奏は力強いところ もありますが、テヌートも聞かれ、古楽だからといって何でも拍を区切るわけではありません。

 ソプラノ1はシル ヴィ ア・マクネアーで、この人の声は大変魅 力的です。古楽から現代、オペラから宗教曲までの 幅広いレパートリーで活躍する1956年生まれのアメリカのソプラノ(演奏当時は三十歳)で、 声質 は低い音程で は太くない程度に落ち着きがあるのに対して、高音はマリア・シュターダーのような少女声ではな く、 ヘレ ヴェッへ 盤のクリスティアーネ・エルツェと比べてもオーバートーンはやや低めに感じるながら、全体とし ては 高い(軽い) 方の声です。雑味がなくクリアに伸びて大変きれいです。倍音の輪郭飾りのないニュートラルで素 直な 高音と言うべ きでしょうか。表現は最初のキリエでは静かな入りで、やわらかく歌います。トリルは少なくはな く標 準的で、強く 跳ね上げるクリステ、の部分もオペラ声とは違って清潔です。歌の部分のテンポは全体にゆったり で す。

 後半の「聖霊によりて (Et incarnatus est)」は数ある歌唱の中でも最も魅力的なものの一つだと思います。ややゆったりめのテンポ 設定 で、澄んでいてきれいなのです。一つひとつ丁寧にこなし、 ビブラートはバロック唱法に近くて基本的には長音でも多くかけません。ただ、トリルの表記があ る木 管 (フルート とオーボエ)と一緒になって細かくビブラートをかけるラストのロングトーンはもちろんのこと、 この 人の場合は途 中の区切りでも大変細かく震わせる箇所が出て来ます。コロラトゥーラ的な表現を狙ったのかもし れま せんが、 オー ディオで言うところのワウではなくフラッターという感じで、そこはどうも好みではありませんで し た。ピッチを大 きく取って速く揺するのは目が回るので、このトリルこそ違っていたら♡♡を付けたかもしれない ぐら いです。トー タルで大変優れた演奏なので、いくら好きかどうかを述べるページとは言いながらそんな微視的な こと を言っていて はいけないでしょうか。この楽章のテンポはヘレヴェッヘより少しゆったりで、リリング旧よりは 速い という感じです。

 ガーディナーをは じめ 古楽系はよくよくそうかもしれません が、CD に仕上げたときの曲間(頭)の無音が長いです。そしてグローリアの前にはグレゴリオ聖歌が歌われま す。これはクレドも同じです。それからダイナミック・レ ンジが大きいというのか、かなり溌剌とした音で(グローリアが)始まり、拍をよく切って元気に 進め ま す。ここ以 外も祝祭的な楽章ではスケール感のある響きながらちゃきちゃきとしています。また、ゆっくり壮 大に やるところもあって、このメリハリは全体にこぢんまりした印象もあ るガーディナーらしくない大作的表現に感じ、ちょっと意外でした。表現 の幅がダイナミックで良いと思うと同時に、この曲でのグレートな音響のパートは以前から得意な 方で はないので、少し離れて感心しました。

 三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」のソプラノ2はメゾ・ソプラノ表記ですが、案外ソプラノに近い声とも言え、やわらかく 端正 です。ここもオペラ的な表現ではありません。

 デッカの1986 年の 録音です。すでに説明してしまいました が、透明感があり、ハイもしっかりと伸びてお り、 反響が付いてやや細く強調される傾向もあるけれども大変優れた録音です。ダイナミック・レンジ が大 きい感じで す。スコアはシュミット/ガーディナー版です。



   levinegreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     James Levine   Wiener Philharmoniker
     Konzertvereinigung Wiener Staatsopernchor
     Kathleen Battle (s1)   Lella Cuberli (s2)
     Peter Seiffert (t)   Kurt Moll (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ジェイムズ・レヴァイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーン国立歌劇場合唱団
キャスリーン・バトル(ソプラノ1)/レッラ・クーベルリ(ソプラノ2)
ペーター・ザイフェルト(テノール)/クルト・モル(バス)

 レヴァイン盤で す。管 弦楽はウィーン・フィル、合唱はアーノ ンクール盤と同じウィーン国立歌劇場合唱団が務 め、ソプラノにキャスリーン・バトルが起用されています。レヴァインはカラヤン、バーンスタイ ンの 後で大舞台に 立てた何人かのうちの一人かと思いますが、メトロポリタン歌劇場で評価され、数々の疑惑を呼ん だ 後、 2021年に亡くなりました。豪華な顔ぶれで行く大手レーベル、モダンの80年代後半の録音で す。

 最初にこんなこと を言 うのもなんですが、フォルテでかなり耳 にきつく感じる録音でした。合唱の高音部 が少しがやつく感じがします。デジタルになってかなり音決めに慣れて来た頃のはずながら、これ はド イツ・グラモフォン の個性の一部でしょうか。しかしそういうことは演奏の本質とは関係がありません。再生装置に よって も聞こえ方は違うでしょう。

 テンポは中庸で、 遅く はないです。レヴァインは歌手を歌わせ ることに関しては名人とのことです。キリエで のソ プラノはわずかにフライング気味で、リズムが前へ来て、より速くなろうかという感じがします。 歌い 手としてはもう少し速い設定 の方が好みだったのでしょうか。あるいは自由にやれているのかもしれません。でも途中からは ゆっく りになります。 キャスリーン・バトルはカラヤン盤のバーバラ・ヘンドリックスと並んで有名なアフリカ系の名歌 手 で、派手なオペ ラ的歌い回しというよりは、クリーンな表現で美しい音色を聞かせる、オペラのソプラノ区分では スブ レットやリ リック・コロラトゥーラに入る王女様です。ドラマティコのジェシー・ノーマンとは違い、娘役的 な高 い(軽い)声というのでしょうか。コロラトゥーラという のは声質だけでなく表現の問題にもなりますが。ここではやわらかく大きめのビブラートをかけ、 同じ く歌い方もやわ らかく弧を描いて歌います。倍音による声質は中庸で高くはなく、口腔に反響させる音(
声 楽の基本である喉の奥を広げるという話ではなく、そこも含めて共 鳴する空間全体を医学的に言っているだけで、ある一定の音程 より 低いときに、顎は開いても口の面積を縦細にするか小さめにして ウォの音に近づけるとヘルムホルツの原理で低く豊かに共鳴し ま す。イタリアのベル・カントに共通した母音の響かせ方かもしれま せんが、これは口を閉じているとも言え、また顎を開いている ので 大きく開けているとも表現できますを 使います。古楽の楽団で起 用されるバロック唱法寄りの人と比べればよりオペラ的だと言えるでしょう。

 後半の「聖霊によりて (Et incarnatus est)」は、テンポは中庸やや軽快に始まり、包み込むような大きなビブラートをかけます。歌 にな ると速度を緩め、やや遅いぐらいまで持って行きます。声 を作ってやわらかくしたり固めたり、前へ出したりこもらせたりして変化を付けます。ポルタメン トも 時折使い、技 がある印象です。声の質では清楚さや可愛らしさもあるものの、滑らかで濃い味わいであり、高く 張り 上げるフォル テではコントラストを見せて強く行きます。そして最後のビブラート(トリル記号)だけはうんと 細か く震わせます。

 グローリアもやは りテ ンポは中庸で、少しだけゆったりめで しょうか。リズムが多少重く、古楽のアプローチ とは異なります。

「主の賛美 (Laudamus te)」はアルト寄りに聞こえる、口を閉じる反響を使った声(前述)で、ビブラートの振幅が大 きい です。

 1987年のドイ ツ・ グラモフォンの録音です。ランドン版で す。



   hogwoodgreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Christopher Hogwood   The Academy of Ancient Music ♥♥
     Choir of Winchester Cathedral
     Arleen Auger (s1)   Lynne Dawson (s2) 
     John Mark Ainsley (t)   David Thomas (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
クリストファー・ホグウッド / エンシェント室内管弦楽団 ♥♥
ウィンチェス ター 大聖堂聖歌隊
アーリーン・ オ ジェー(ソプラノ1)/リン・ドーソン(ソプ ラノ2)
ジョン・マーク・エインズリー(テノール)/ デイヴィッド・トーマス(バス)

 これは見事にバラ ンス の取れた、個人的にはマクリーシュ盤と 同等かと思うぐらい魅力的な一枚でした。 ピ ノッ ク、ガーディナーと並ぶイギリス古楽のパイオニア、ホグッドは常に品良く、ハイドン以降のレ パート リーでは特に 繊細によく歌っている魅力的な演奏が多いと思って来ました。ここでも期待を裏切りません。ソプ ラノ はベテランのアーリー ン・オジェーが務めます。ピリオド楽器の楽団を比較するならガーディナー、ヘレヴェッヘ、マク リー シュ、鈴木盤 などが代表かと思いますが、ガーディナー盤ほどエッジの効いたダイナミックな側に振幅が振れ ず、ヘ レヴェッヘ盤 のようにゆっくり柔らかいのではなく、鈴木盤ほど出だしで遅くスタティックな感じがしません。 テン ポは中庸で適 度に歯切れが良く、鮮度が高くてクリスプな印象があります。かといってフレーズのぶつ切れ感は 全く な く、繊細 によく歌わせてもいます。全編に渡って理想の運びとなっている気がするのです。録音も大変良い で す。

 出だしからバロッ ク・ ヴァイオリンの繊細な音が心地良く響き ます。合唱団の高音部は英国らしくボーイ・ソ プラ ノが担っており、独特の音でよく響いています。高く上げるところでわずかにピッチが届かないか な、 という瞬間もなく はないですが、全く気にならず、音程の乱れはありません。むしろ魅力的な音であり、これはこの 盤の 個性でしょ う。ただ、この合唱が前に出てよく耳につく感覚をうるさく感じる人と、そこを気に入る人とが出 て来 るかとは思い ます。マクリーシュ盤などと比べても録音上の一つの特徴となります。テンポは前述の通り中庸で す。 重く引き摺ら ず、すっきりはしてますが、古楽だからといって決して速い感じはしません。曲線美を感じさせて しな やかであり、拍もピリオド奏法の癖がありません。

 ソプラノ1は二年 後に バーンスタイン盤でも歌っているアー リーン・オジェーで、同じ年にはアバド盤でもソプラ ノ2のパートを務めています。1939年のアメリカ生まれで、このとき五十一歳でした。キリエ の歌 い 出しは清潔で、歌の部分に来ると少しだけ遅くする傾向も聞かれますが、適度なビブラートで真っ 直ぐ に感じます。 クリステ、の高音も間を区切って過度に張り上げたりはしないけれども、よく伸びています。バー ンス タイン盤とは歌い方 が大きく異なっており、個人的には断然こちらの方が好みです。モーツァルトのこの曲はオペラ的 な要 素もあるの で、宗教曲よりオペラが好きな方は反対にバーンスタイン盤の方になると思います。それだけ要求 に合 わせて変えられるバーサタイルな能力の持ち主なのでしょ う。ここではバロック唱法だとまでは言えないかもしれません。でもこのマナーの違いは古楽運動 が盛 んになって来て以来の時代の解釈によって生じたのであ り、指揮者の好みによる選択だと思います。
クリスティアー ネ・エルツェ(ヘレヴェッヘ盤)が明るい声でやわらかく歌っていて最も好きだし、カミラ・ティリン グ(マクリーシュ盤)の声もいいけ れども、バーンスタインと 同じく古い方(モダン楽器時代)の様式で飛び抜けて魅力的だったマリア・シュターダー (フリッチャイ盤)を除けば、抑揚が自然で包まれ感のあるソプラノとしてこの曲でベ ストだと思えま した。 

 順番を飛ばします が、 その性質がよく表れているのがハイライ トの「聖霊によりて (Et incarnatus est)」でしょう。オジェーは鈴木盤のキャロリン・サンプソンよりさらに少しアルト寄りの声 質で はありますが、真っ直ぐ歌い、選択的なビブラートであま り震える感じがしません。テンポはさらっとしていて、遅くたっぷりの方ではなく、高い音が必ず しも 楽々というわけではないとしても、飾らず清潔です。すご く華があったり色気があったりもしないながら、そこがまたいいところなのです。ラストの細かい ビブ ラートはトリル記号の付されたバックの楽器(フルートと オーボエ)に合わせて同じように細かく(速く)震わせる箇所で、十分細かくはやってますが、 ガー ディナー盤のシルヴィア・マクネアーほどの音程差は付けま せん。マクリーシュ盤ではもう少し目立たず、最も目立たないのはヘレヴェッヘ盤ながら、このオ ジェーも上品の内です。

 グローリアも中庸 のテ ンポです。バロック・ヴァイオリンの倍 音が繊細に聞こえます。相変わらず合唱の高音が ボーイソプラノです、という感じでよく響いています。

 三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」はやや軽快なテンポで、溌剌としています。リン・ドーソンの声は高くはなく、かといっ てあ まりアルト寄りにも感じません。歌い方も清潔で、オ ジェーと大きく変わらない感じで揃っています。 

 曲はずっと一貫し た調 子で、ラストも走らず、落ち着いていま す。

 1988年録音の オワ ゾリール原盤(写真上)で、後にデッカ から再販されました。録音は大変良いと書きま したが、ピリオド 楽器の弦の音がきれいに前へ出て響き、鋭過ぎずだぶつきもせずで理想的です。マクリーシュ盤の 弦の 音が最も好きで、それと比べるとこちらはもう少しだけ高 い方の倍音成分が細身かもしれないながら、それでもこの曲で一、二と言える気持ちの良い音で す。 ちょっとバランスが違うだけで、マクリーシュ盤に劣るとも言えないでしょう。少年合唱も揃って きれ いです。版 はリチャード・モーンダーで、ライナーノートも本人が書いています。



   bernsteingreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Leonard Bernstein   Symphonieorchester Des Bayerischen Rundfunks
     Chor Des Bayerischen Rundfunks
     Arleen Auger (s)   Frederica von Stade (ms)
     Frank Lopardo (t)   Cornelius Hauptmann (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
レナード・バーンスタイン / バイエルン放送交響楽団&合唱団
アーリーン・オジェー(ソプラノ)/フレデリカ・フォン・シュターデ(メゾ・ソプラノ)
フランク・ロパード(テノール)/コルネリウス・ハウプトマン(バス)

 トップ・ドッグ、 バー ンスタインの他を圧倒する演奏です。重 くて思わせぶりなところがあると言うのは否定的な 方へバイアスのかかった見方かと思います。全体に遅くて壮大なところが印象に残りました。それ でい て彼らしいと いうか、反対に走る部分も聞かれ、表現意欲に満ちています。

 出だしから荘厳な 雰囲 気です。助奏部分は弾力のあるやわらか い運びで、ややゆったりのテンポで後半で延ば し気 味に緩めます。合唱以降はそのまま遅い展開です。カラヤンのレガートとは違うものの粘りがあ り、長 音符の途中か ら、あるいはフレーズ全体を使って何か大きなもの、ジャンボ機などが離陸するように盛り上げた りし ま す。グラマ ラスで、編成も大きく合唱も大勢のようであり、圧倒されます。また、弱音に入るとテンポを大き く緩 めるなど、表情も大きいです。  

 最初のソロの歌唱 がま た大変ゆっくりで、フレーズ後半でス ローダウンしたりします。アメリカのソプラノ、 アー リーン・オジェーですが、この人は二年前のホグウッド盤でも起用されており、そちらはそういう 運び にはなってい ませんでした。ただオーケストラの速度に合わせているだけとも思えない品を作るような動きもあ り、 忖度というこ とはないと思いますので、そのように指示が及んでいるのだと想像します。歌い方はオペラティッ クと までは言わな いものの、遅い分だけ濃くなり、クリステ、の盛り上げも跳躍の際に一旦後退するように、テ、の 前で 間を空け気味にし て、力一杯行きます。そして歌が出て以降のテンポは客観的に大層遅くて間も長大です。重く盛り 上げ る合唱の伴奏がさ らにその仕上げをします。これはもう音響のシャワーであり、まさにグランド・マス。重厚なパ フォー マン スという意味では類がありません。録音はバランス的には良好ながら、人数の多い合唱部分の透明 度が 高い方ではな く、残響も手伝って折り重なった印象をより強めます。そして大きな音のパートでは中庸やや遅め ぐら いにまで少 し速度を上げるところもあって伸び縮みがあるのですが、ラストの弱音に入るとテンポを最大限に 緩め ます。

 かと思えばグロー リア に入ると驀進する重機関車のように大変 速くなり、途中からさらに加速するので、リズ ムが ついて行かないかと心配するところも出るぐらいです。こういうメリハリもバーンスタインらしい 設計 でしょうか。 この楽章の激しさも、音響的にうるさくはないですが、良い意味でマグニフィセント、壮大さを感 じさ せます。

 三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」はメトロポリタン歌劇場で活躍したドイツ系アメリカ人の有名なソプラノ、フレデリカ・ フォ ン・シュターデです。テンポはやや速めの中庸で始まり、 この人は控えめなビブラートと言われるけれども、割合大きな音程差の揺らしを全体に施していま す。 声の質 はメゾ・ソプラノとしてはソプラノ寄りの高く澄んだところがあります。口腔の反響(前述の通 り、
声楽 の基本である喉の奥を広げるという話ではなく、そこ も含めて共 鳴する空間全体を医学的に言っているだけで、ある一定の音程より低いときに、顎は 開いても口の面積を縦細にするか小さめにしてウォの音に近づけるとヘルムホル ツの 原理で低く豊かに共鳴します。イタリアのベル・カントに共通した母音の響かせ 方か もしれませんが、これは口を閉じているとも言え、また顎を開いているので大き く開 けているとも表現できます) がややあり、ビブラートのかけ方もあって濃いめの味わいです。

 十一曲目に来る「聖霊によりて (Et incarnatus est)」ですが、このソプラノ1の目玉である二つ目のソロに関しては、テンポはそれほど遅くはあ りません。ただ、やわらかくて少しポルタメントのように 撫でながらビブラートをきれいにかける点では、やはりホグウッドのときよりもオペラ的には聞こ えま す。バ ロック唱法寄りに素直に真っ直ぐ歌う狙いではなく、よりやわらかさを出したものだとも言えるで しょ う。

 最後まで聞き終え る と、満漢全席のような豪勢な料理を(見た こともないのに)いただいたぐらいの満足感で 一杯 になります。今だとそんなおもてなし、アルファベットもスキップするシー・ジンピン氏ぐらいで ない とやってもらえないと思いますが、
食べ残し禁止法も出される ほど時代は変わって来ました。

 1990年録音の ドイ ツ・グラモフォンで、音は前述の通り、 やわらかい響きもあり、低音の弾力もあって良 いバ ランスです。合唱が出て全部が重なるフォルテで透明度が下がるのは、ライヴですし、この編成で は仕 方がない でしょうか。拍手は入りません。そしてこの半年後には巨匠バーンスタインも亡くなってしまいま し た。その意味で もファンの方にとっては大切な一枚かと思います。ヘビー・スモーカーだったことと関係があるの で しょう、肺気腫 による心停止ということでした。論理的思考能力が高く、独自のアイディアと音楽への理解のあり 方が ヒューマニズ ムとも解され、作曲能力もあって人の心を掴む大変有能な人だったようです。スコアはバイヤー版 で す。



   abbadogreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Claudio Abbado   Berliner Philharmoniker
     Rundfunkchor Berlin
     Barbara Bonney (s)   Arleen Auger (s) 
     Hans Peter Blochwitz (t)   Robert Holl (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
クラウディオ・アバド / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルリン放送合唱団
バーバラ・ボニー(ソプラノ)/アーリーン・オジェー(ソプラノ)
ハンス・ペーター・プロホヴィッツ(テノール)/ロベルト・ホル(バス)

 カラヤン、バーン スタ イン亡き後、世界の楽壇の頂点に立った かのように言われたアバドの演奏はどうでしょ うか。後年熱心に行ったピリオド奏法のアプローチではありません。

 モダンのマナーと して は特に遅い方でも壮大でもなく、また古 楽のように軽快で切れるリズムでもなく、全体 に運 びは平均的な印象の、バランスの取れた演奏です。特別変わったところはない正攻法という感じで 良い のではないでしょ うか。始まりのキリエのテンポは中庸ややすっきりで助奏に入ります。弦は細い艶の成分も案外良 く浮 き出 て聞こえます。低音が豊かで反響は多めでしょうか。合唱はやわらかい響きです。

 ソプラノは評価の 高 い、1956年ニュージャージー生ま れのバーバラ・ボニーです。オペラで大変活躍して 来た人です。ここではバーンスタイン盤やホグウッド盤でソプラノ1を務めるアーリーン・オ ジェーが 2の地位へと 移動してるように見えます。ただ、ボニーはリリコ・レッジェーロ区分(声質がより軽め)とされ るリ リック・ ソプ ラノなのですが、キリエの低い音程ではほどほどに力を感じさせて太く揺らし、高音でもさほど細 く甲 高くなる声質 には感じません。どうもこの部分、オジェーの声のようにも聞こえるのですが、そんなことはある で しょう か。パートとしては1がキリエの部分とクレドの二曲目(「聖霊によりて」Et incarnatus est)で、2が三曲目に来るグローリアの第二部(「主の賛美」Laudamus te)となるのが一般的です。モーツァルトの初演ではクレドは演奏されず、キリエと「主の賛 美」を コンスタンツェが歌ったという解釈も存在するようではあ りますが。
 このキリエでの歌 唱に ついて続けると、跳ね上げる高い音では 力みを見せません。長音でのビブラートはしっ かり かけ、また震わせながら音程を移動したりはしますが、すごくオペラ的というほどでもなく、派手 過ぎ ず品良くまと めています。古楽系ではない演奏としてはぴったりだと思います。

 そして後半の「聖霊によりて (Et incarnatus est)」に来るとより高い(軽い)声質になったように聞こえます。バーバラ・ボニーらしい少し少 女的な可愛らしいトーンも混じるもので、間違いないで しょう。ビブラートはよく使いますが、テンポはやや軽快です。細めの高音がきれいに力強く伸びま す。必ずしも倍 音が目立つ輪郭の強い質ではないので、録音もあるのかややオフでほどほどにやわらかく聞こえます。 また、静かに力を抜くところも 印象に残ります。基本的に強い音で攻める歌い方ではなくやっているようで、ポルタメント気味な 音程 移動も聞かれます。

 グローリアは中庸 のテ ンポです。ちょっと弾むようなアクセン トを付けるものの、特にリズムを切るものでは な く、伝統的な運びのうちでしょう。合唱も良いですが、大変透明な音響とまでは言えないかもしれ ませ ん。

 三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」は、このパートの音域もあり、ソプラノながら案外声質はメゾ・ソプラノというか、アル ト側 に寄って聞こえます。オジェーは音域としては高い方も出 るけれども、ベテランなので当然ではありますが少女っぽい声質ではないからでしょう。ボニーの 「聖 霊によりて」 の歌唱共々落ち着いています。正確にリズムを取り、一音をはっきりと発音している様子で、特に 変 わった趣向やオ ペラ的な派手さはありません。でも古楽のホグウッドのときの歌い方とは、パートも異なるものの 大分 印象は違 う気がします。ビブラートもほどほどかけています。

 1990年のソ ニー で、音のコンディションは上述の通りで す。エーダー版です。



1990/ペー ター・ノイ マン/コレギウム・カルトゥジアヌ ム/ ケルン室内合唱団/バルバラ・シュリック/EMI

1990/アンドリュー・パロット/ボストン古 楽 音楽祭管弦楽団/ヘンデル&ハイドン・ ソサエティ合唱団
        /ナンシー・アームストロング/DENON



   rilling1greatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Hermit Rilling   Stuttgart Bach Collegium
     Stuttgart Gächinger Kantorei
     Christiane Oelze (s)   Ibolya Verebics (s) 
     Scot Weir (t)   Oliver Widmer (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ヘルムート・リリング / シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム
シュトゥット ガル ト・ゲッピンゲン聖歌隊
クリスティ アー ネ・エルツェ(ソプラノ1)/イボリャ・ヴェ レビチュ(ソプラノ2)
スコット・ ウィ アー(テノール)/オリヴァー・ヴィト マー(バス)

 古楽ムーヴメント の枠 外で早くからバッハのカンタータ全集を 出していたリリングですが、この大ミサにも熱 いよ うです。この録音の後でも全曲版(レヴィン版)での収録を敢行しています。ですのでこちらは旧 盤と いう扱いになるものであり、スコアはエーダー版です。

 バッハのときもそ うで したが、リリングの演奏は派手な演出を せず、大変真摯でひたむきな印象です。やや ゆった りのテンポで丁寧に進めて行きます。壮大というほどではないにせよ、古楽系にありがちなリズム に切 れのあるもの ではありません。また、ヘレヴェッヘのように美意識から滑らかに磨いたという感じでもなく、悪 く言 えば 少しもっ たりとしているとも言えるような方向で自然です。
 特にグローリアの始まりの楽章(Gloria in excelsis Deo)で速くやってみるなどという変化も付けず、全体に同じ波長で行きます。キリエの序盤で弱音 へ抜く表現が一瞬現れたりはしますが、ソロが出る直前の フレーズを、新盤の方では速くして変化を付けたりしているのに対し、この1991年の録音では そう いうこともほとん ど感じられません。また、拍の頭の扱いも新番より滑らかでしょうか。

 ソプラノ1のソロ はク リスティアーネ・エルツェで、これは大 変見事な歌唱で古楽系ではこの曲一番だと感じ たヘ レヴェッヘ盤の人と同じです。録音年度も同じで、ここでもきれいな声を響かせています。最初の キリ エの部分も良いですが、ハイライトの「聖霊によりて (Et incarnatus est)」でも素晴らしい歌が聞けます。ただ、その部分のテンポはヘレヴェッヘ盤のときより遅いの で、好きずきではありますが、個人的にはヘレヴェッヘの 方が好みでした。解釈は一定しているようです。声は若々しく高めに響くところがあり、上品で清 潔で す。歌い方は やわらかく漂わせるようにふわっと丸いのが大変心地良いです。切り方つなげ方のメリハリも良 く、高 い音に張り上 げるところも無理がなくてきれいです。ビブラートも目立たず、これも本当に良い悪いの問題では あり ません が、新 盤のソプラノより好みでした。それと付け加えた楽章がないことで、こちらの旧盤の方がリリング のも のとしては魅力的に感じました。

 グローリアもさほ どが つんとは来ない穏やかさのあるもので、 やはり真面目な印象です。テンポはこの楽章と して はゆったりめです。反響はあり、合唱はやや遠めでしょうか。

 三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」は比べれば軽快なテンポながら、他の演奏の中では標準的です。ここでのソプラノはイボ リャ・ヴェレビチュということですが、口を閉じて(あるいは顎は開いても幅を狭めて面積を小さ くし て)口腔全体の体積を大きく 取り、太く反響させる声(ウ〜オに寄った形)と、反対に口腔を狭める(アエイに寄った形)若や いだ 少女声で軽く 細くやるのとを交互に使い分けるという珍しい歌い方です。太くする方が若干目立つでしょうか。 ビブ ラートはしっ かり使って多少オペラ的なドラマティック寄りの歌唱なのかもしれませんが、声質は中庸で元々太 い方 ではないようです。

 ヘンスラー 1991年 です。録音は良いです。残響はあります が、比較してそれが多少短い可能性のあるヘレ ヴェッへ盤よりもむしろやや少なく聞こえところがあり、輪郭は明快で艶やかに、明るく聞こえる 瞬間 もありま す。 バランスの取れた音響です。



   herreweghegreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Philippe Herreweghe   Orchestre des Champs-Élysées ♥♥
     La Chapelle Royale
    
Christiane Oelze (s)   Jennifer Larmore (s) 
     Scot Weir (t)   Peter Kooij (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
フィリップ・ヘレヴェッヘ / シャンゼリゼ劇場管弦楽団 ♥♥
シャペル・ロ ワイ ヤル
クリスティアーネ・エルツェ(ソプラノ)/ ジェニファー・ラーモア(メゾ・ソプラノ)
スコット・ウィアー(テノール)/ ペーター・コーイ(バス)

 曲のハイライトで ある 「聖霊によりて (Et incarnatus est)」のソプラノ部分が最も美しいと思った演奏です。この曲で一番きれいなところが「聖霊によ りて」で、そこでベストなら、この大ミサ曲で最も魅力的 だということになります。
昔からの歌い方で 飛び抜けて個性的な声であるマリア・シュターダー(フリッ チャイ 盤)も独特の魅力がありますが、それは別枠扱いとしましょう。このヘレヴェッヘ盤でのクリスティ アー ネ・エルツェ、天 国的な歌声は声 も運びも完璧に近く、この歌唱だけで♡♡は譲れません。

 指揮者のヘレヴェッヘはベルギー古楽の重鎮で、緩徐楽章で速めのテンポを取ることもあるものの、 この 分野 の演 奏家の中では滑らかにつないでゆったり歌わせることが多く、強いアクセントで短くフレーズを切るよ うな 癖をほと んど出さない人です。ここでも基本的には大変滑らかに、ゆっくり静かにやっている印象があります。 出だ しのキリ エなどでは特にそうで、カラヤンのやり方とは違うものの、本来強く打つ拍で力を抜いてやわらかく、 滑ら かに流す 部分もあります。この曲に限ってはもう少し切れがあって目の覚めるような鮮烈さが欲しい気がしまし た が、最初に 出会ったときにそう思ったのは、古くからの定番であるフリッチャイ盤などと比較したからでしょう か。こ れはこれ で一つの様式であり、慣れて行けば良さが分かって来るリズムではあるので、この方がしっくりすると いう 方も多か ろうと思います。同じ古楽系でも器楽曲では反対にこちらのようなやわらか路線がずっと好みなので、 天の 邪鬼な話 です。でも他の楽章はゆっくりとは限らず、トータルで見事な演奏です。本当に出だしだけきりっとし てた らもう他 のは要らないぐらいであり、その点は鈴木盤も少し似た傾向がありました。

 さて、そのベストなソプラノ1ですが、歌っている
クリスティアーネ・エル ツェは 上記のリリング旧盤と同じ人で す。ドイツのリリック・コロラトゥーラで、1963年生まれなのでこのときは二十八歳。起用に は確 かな目があっ たのでしょう。モーツァルトのオペラで活躍して来た人のようで、CD も数多くリリースしましたが、日本ではあまり人気がないでしょうか。コメントが少ない気がしま す。
 最初のキリエでは 指揮 者のテンポ設定が遅く、本人も歌い出し で少し走り気味になる瞬間を抑えているかのよ うな ところが一瞬聞かれるものの、全く気になりません。大変魅力的で、やさしく滑らかに歌います。 クリ ステ、の高く持ち上げる強音も 品が良く、力もあります。

 そして絶品の「聖 霊に よりて」です。最も表情があり、ふわっ とやわらかくて陰影があります。ホールトーン が乗るのも良 いです。声の質は高い方がやわらかく透き通り、伸びがあります。年齢も年齢ですから当然です が、若 く瑞々しく て、シュターダーとは違う種類ながら同等にチャーミングな響きです。ビブラートは適切に使いま すが 選択的 で、細かいところの振れ幅も大きくなくて上品です。
 一方、歌い方にお いて 他と比べて素晴らしいところは、一言で いえば表情の機微ですが、毎回静かな音に戻っ て来 ては、デリケートな感情を乗せるかのように山を作って盛り上げる泳がせ方、そこに強さの階調が ある のです。それ は波のようにたゆたうもので、微妙に音色も変え、息の長い大きなクレッシェンドにつながること もあ ります。 声の質と表現両方において見事としか言いようがありません。

 グローリアの出だ しで は、ともすると勇ましくなりがちなこの 部分で、指揮者の解釈によって全く力づくでな く、 やかましくない数少ない例だと思います。ここはキリエと反対にありがたいとも思いました。やわ らか さをもって歌 わせ、残響が長過ぎないので濁りもしません。テンポはこの部分としてはゆったりです。落ち着い て進 めます。

 三曲目の「主の賛美 (Laudamus te)」はすっきり速めのテンポに変わります。メゾ・ソプラノ(表記によってはソプラノ)で、 低め に響く声です。全体に口を閉じ気味にこもらせるように共鳴させ、流麗で華やかです。ビブラート も全 体にわたってかけます。ジェニファー・ラーモアはイタリア・ベル・カント流の声を評価される、 専ら オペラの人です。ここではソプラノ1とはコントラストを付けるという選択です。

 滑らかにやわらか く運 ぶこの指揮者のやり方も、音の大きな楽 章では耳につかない静かな傾向の演奏とは言えないところも 出て来ます。粘りが独特の賑やかさにもつながるからで、反対に、軽快に切って弾ませて行くアプ ロー チを取る指揮者 の演奏の方が耳にやさしいと言えるかもしれません。でもトータルでは聞きやすいもので、ラスト もこ の人たち らしく、力で押さず、落ち着いてゆったりと終えます。

 1991年のハル モニ ア・ムンディ(フランス)です。残響が かなりあるように聞こえますが、実はさほど多 い方 ではなさそうです。そのためもあって、音と音の間をスラーでつなぐ傾向もあるのかもしれませ ん。聞 こえ方として はデッドには感じられませんし、やわらかさもあって大変美しい響きです。優秀録音と言えるで しょ う。 エー ダー版を使っています。カップリングは「フリーメイソンのための葬送音楽」K. 477 (479a) ですが、合唱が付いている珍しいバージョンです。



   marrinergreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Neville Marriner   Academy of St. Martin in the Fields
     Academy of St. Martin in the Fields Chorus
     Kiri Te Kanawa (s)   Anne Sofie von Otter (ms) 
     Anthony Rolfe-Johnson (t)   Robert Lloyd (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ネヴィル・マリナー / アカデミー室内管弦楽団
アカデミー室内合唱団
キリ・テ・カナワ(ソプラノ)/ アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾ・ソプラノ)
アンソニー・ロルフ=ジョンソン(テノール)/ ロバート・ロイド(バス)

 古楽ではない、室 内管 弦楽団によるマリナーの演奏です。モー ツァルトは管弦楽ものも協奏曲の伴奏も颯爽と して 繊細優美な運びで魅了されて来ました。ここでは語法としてはピリオド奏法に近づいたものではな く、 歌手陣も古楽唱法寄りではありません。

 テンポはモダン・ オー ケストラ演奏の中ではやや軽快な方とも 言えるのかもしれませんが、速過ぎず遅過ぎず で す。また、力み過ぎずやわらか過ぎず、しなやかにして端正な、あらゆる意味で中道の運びであ り、ど こをとっても 過不足なくレベルの高いモダンの模範のような演奏です。合唱人数は少なくはないと思いますが、 がや ついたりは しません。音的には弦はやや奥まりつつも艶やかに響きます。

 ソプラノはかのキ リ・ テ・カナワを登用しました。74年の レッパード盤でも歌っていましたが、そちらは ゆっく りで、比べればよりおとなしい感じでしょうか。鮮やかで甘く豊かな声と言われ、オペラの分野で 世界 的に活躍した リリック・ソプラノであり、説明の必要はないかと思いますが、1944年のニュージーランドで 生ま れで、マオリ 族とアイルランド系の両親を持ちつつ養子に出されたという珍しい出自の人です。たっぷりとした 歌い 方で、音程をずら しつなげて移行させながら、全体に大きめのビブラートをかけます。キリエのクリステ、の盛り上 げで は気張り過ぎませんが、張りがあります。

 後半の「聖霊によりて」はやわらかいところから強く盛り上げ て陰影が付きます。このとき四十九歳で、 声質 はリ リックといっても若く高めのレッジェーロ寄りではないと思われる大人声だけれども、低くもあり ませ ん。この区分 の中のリリコとリリコ・スピント(重い側)などの境界がどうなってるのかはよく分かりません。 テン ポは中庸やや ゆったりの設定で、歌の途中で歌手自らがスローダウンさせているようなところが聞かれます。伴 奏の 方がそれに付 いて行く感じでしょうか。したがって途中からはゆっくりになります。ダイナミックな音量変化で 技を 見せているの か、声の強弱で音色が変わり、スターの輝きという感じがします。高い方の輪郭の立った声も際 立って ます。さらっ とはしておらず、しっかり歌い込んでいて演技的だと言えるでしょう。オペラのソプラノ区分でい うド ラマティコに は入らず、むしろその反対だとも言われるようですが、オペラ慣れしていない者からすれば十分に ドラ マティックに感じます。


 グローリアはやや 速め のテンポで、正攻法です。壮大にはなら ずに滑らかではありますが、天の栄光も十分感 じます。

「主の賛美」(三曲 目) は中庸すっきりのテンポです。オペラだ けに限らないスウェーデンのアンネ・ゾ フィー・ フォン・オッターですが、メゾ・ソプラノ表記ながら特に太くはなく、ソプラノっぽいです。ここ では 十一歳上のキ リ・テ・カナワと違和感がありません。ビブラートの表現も、もう少しすっきりしてるかもしれま せん が、標準的に付けてよく調和していると思います。

 フィリップスの 1993年録音で、すでに触れた通りバランス の取れた音です。



1996/ ペーター・マー ク/パドヴァ・ヴェネト管弦楽団/ アテスティス合唱団/リンダ・ラッセル/ARTS

1998/ミヒャエル・ハラース/ニコラウ ス・ エステルハージ・シンフォニア/ハンガリー放送合唱団/ノリーン・ブルゲス
        /ナクソス



   christiegreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     William Christie   Les Arts Florissants
     Les Sacqueboutiers de Toulouse
     Patricia Petibon (s1)   Lynne Dawson (s2) 
     Joseph Cornwell (t)   Alan Ewing (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ウィリアム・クリスティ / レザール・フロリサン
レ・サックブーティエ・ド・トゥールーズ
パトリシア・プティボン(ソプラノ1)/ リン・ドーソン(ソプラノ2)
ジョーゼフ・コーンウェル(テノール)/アラン・ユーイング(バス)

 アメリカの指揮 者、 ウィリアム・クリスティが設立したフラン スの古楽演奏団体、レザール・フロリサンによ る大ミサ曲です。

 中庸なテンポで始 ま り、弦の音がバロック・ヴァイオリンらし くてきれいです。合唱には音の強弱がしっかり とあ ります。人数は結構多めに聞こえます。ストレートに歌うというよりも、小節ごとに山を盛り上げ て行 くような抑揚 があるのが古楽的解釈という感じでしょうか。残響が適度にあり、弦の倍音がかなりしっかり響い てい ま す。

 キリエにおけるソ プラ ノのソロはゆっくりと引き延ばすように して歌い、強弱の浮き沈みがあり、多少癖があ るよ うにも感じますが、指示によるのかもしれません。声の質は軽く高い方で、爽やかです。ビブラー トは しっかりか かっています。歌の部分からはテンポがゆっくりになります。一方、「聖霊によりて (Et incarnatus est)」は軽快な運びで、恐らく最も速い部類かと思います。そのため、語尾を長く延ばす傾向 にな いのは古楽グループによるものらしいところでしょう。こ こでも若々しく軽い方の声質が大変魅力的です。やや高めの音で少し口腔に反響する強い音(前 述)も 出します。そして、やはり浮 いたり沈んだりする抑揚が付くので、滑らかにたっぷり歌う感じではありません。この軽妙さ重視 の解 釈は好き嫌いが 分かれるところかもしれません。好きな方にとっては最も爽やかな運びに聞こえるでしょう。ビブ ラー トもときに しっかりありますが、上品であり、テンポのこともあって全体には強い方には感じません。

 グローリアの頭な どの オーケストラと合唱が重なる元気の良い 部分では、輝きがありつつ強くなり過ぎず、潰 れず クリアに聞こえます。リズムに弾みがあり、適度に歯切れの良い運びで活気があって気持ちが良い で す。テンポはやや軽快です。

「主の賛美」のソプ ラノ は高い方の声質ですが、1と比べれば少 しだけ低めです。強くするときに口を閉じ気味 にして反響させる音を混ぜます。こちらもやはり躍動的なアクセントはあるものの、歌い方にあま り癖は感じず、きれいです。 ビブラートはある方です。

 エラート(エラ トゥ ス)1999年の録音は繊細さがあって明 るい輝きも感じられ、残響もきれいです。 溌剌 としていて良いです。ランドン版です。 



2001/ニコル・マット/ヨーロッパ室内管弦楽団/ヴュルツブルク・カ メラータ・アカデミカ/ヴァレンティナ・ ファルカス
    /ブリリアント




   maccreeshgreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Paul McCreesh   Gabrielli Consort and Players ♥♥
     Camilla Tilling (s)   Sarah Connolly (ms) 
     Timothy Robinson (t)   Neal Davies (bs)

モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ポール・マクリーシュ / ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ ♥♥
カミラ・ティ リン グ(ソプラノ)/ サラ・コノリー(メゾ・ソプラノ)
ティモシー・ ロビ ンソン(テノール)/ニール・デイヴィス (バス)

 これはモーツァル トの 大ミサの数ある録音の中で、全体の運び が最も良いと思えたものです。録音も一番だと 思います。モダン楽器による伝統的な演奏に慣れている耳には多少速めに感じるパートもあるかも しれ ませんが、適切なテンポできりっとしており、全ての楽章 で音楽に入り込めた唯一と言って良い一枚でした。ヘレヴェッヘの ようにオブラートに包むようにやるわけでもないのに、うるさかったり重たかったりしがちなサン ク トゥスなどの楽章も胃もたれせず、気持ち良く乗れるので す。メロディー・ラインも素直で語尾も尻切れトンボにならず、古楽系ながらアクセントを追求す る方 へは行かずにきれいに歌わせています。透明で切れのあ る、鮮やかな演奏です。

 ポール・マクリー シュ はイギリス古楽の指揮者で、ルネサンス からバロックにかけての音楽を中心にやって来 た人 であり、このページでもモラーレスのミサ・ミル・ルグレやバッハの復活祭オラトリオを取り上げ まし た。最近は古 典派にも手を伸ばしているようです。この分野の同国でのパイオニア、ホグウッドやガーディ ナー、ピ ノックらが皆 1940年代の頭から中頃生まれなのに対し、マクリーシュは60年生まれですから二十近く下の 世代 になります。 合唱と管弦楽の自らの楽団、ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズを設立したのは82年で、ピ リオ ド奏法の流行 が定着した第二世代ぐらいのスタートになり、様々なアイディアを吸収消化し、エキセントリック なと ころのない感 度の高い演奏をします。この国の演奏者は一部バッハなどで少し尖った解釈も見られましたが、 元々さ ほど攻撃的で はない傾向で、ここでは柔軟さとクリアネスが同居する方向へと行ったようです。

 出だしの楽章のテ ンポ は重要で、ここで全体の印象が決まって しまうところもあるのですが、決して速くはあ りま せん。ホグウッド盤とほぼ同じタイムで、余白を抜いた実測で6分51秒。モダンの定番であるフ リッ チャイ盤は ガーディナー盤と2秒違いの7分17秒なのでそれより速いように見えますが、フリッチャイは伸 び縮 みしてソプラ ノ・ソロ部分などで極端にスローダウンさせますので、出だしではこのマクリーシュ盤の方がむし ろ少 し遅いです。 聴感的にはほぼ同じでしょうか。一方古楽系でもヘレヴェッヘ盤と鈴木盤は7分30秒台前半で大 変 ゆっくりに感 じ、最も遅く雄大なバーンスタインで7分38秒ほどであり、それらはここの部分の解釈自体が根 本的 に違うように 思えます。結局この盤は速過ぎも遅過ぎもしない中庸なテンポであり、私見ながら緊張感があっ て、こ のぐらいが理想的です。

 合唱は透明度があ りま す。倍音成分が潰れず埋もれず、高音部 と全体とのバランスが良いです。オーケストラ もバ ロック・ヴァイオリンの弦の音が特にきれいに感じました。ピリオド楽器の楽団では全体の中から 細め に浮き出すこ とが多く、ガーディナー盤もホグウッド盤もそうなっているところがありますが、この録音では同 じく 細身ではあり ながら出過ぎず艶があり、メタリックにもならずにきれいに減衰して行きます。弦も合唱も高音が うる さくならない のに、被りもしないのがこの録音の良さなのです。残響は特に多くはない方ながらほどほどあり、 木管 もブラスも消え方が自然です。
 
 ソプラノ1につい ては ヘレヴェッヘ盤のクリスティアーネ・エ ルツェが最も好みだと言ったのは変わりません が、 このカミラ・ティリングも軽く爽やかで大変魅力的な声です。特に高い方が少女役もこなせるよう に透 き通って明る く伸びるもので、オペラのソプラノ区分では何になるのでしょうか。「聖霊によりて」にはぴった りで す。 別段女性 は若くなければいけないという偏見ではありません。元々オペラはドラマですから伸るか反るかの 一大 事が起きるの であって、宗教曲で野太くドラマティックに取り乱されても困ります。この人はオペラも得意のよ うで すが、 1971年生まれのスウェーデンの歌手です。キリエのソプラノの出だしは清潔で、少し低くなっ たと きにこもらせ る音が華奢ではないものの、高い方の強い音は余裕があって自然な美しさです。歌の間はテンポは やや ゆったりにな ります。でもすっきりしていてアクがないので、ゴージャスな歌唱と比べてお腹いっぱいにはなり ませ ん。フレーズ の語尾をあまり延ばさないこともあります。このパートでは声質以外にこれといった特徴は感じさ せ ず、特に華のあ るものでもないので、案外聞いた、という感じにはならないかもしれません。ビブラートは全体に 多い とは言えませ んが、ロングトーンでくっきり響かせるところもあります。

 後半の「聖霊によりて (Et incarnatus est)」ですが、ここはきれいで大変満足行くものでした。曲のトータルの運びが良い盤なの で、わ ざわざ他のをかける必要もないでしょう。この部分のテン ポはホグウッド盤と同様で少しだけ速めです。でもトータルで2分も短いクリスティ盤ほど速くは あり ません。優美 さは十分味わえます。メゾ・ソプラノの側には寄らず、また最高に軽い方でもないけど、中性的で 媚び ない高めの声 がきれいです。歌い方もやわらかさは狙わず、飾らない真っ直ぐ素直な運びです。こういう風にさ らっ と流すのは、 明るく開放的な恋愛と性行動で有名な(?)スウェーデンの人らしいところでしょうか。全くしな を作 りません。そ してこれは古楽によくある解釈ながら、語尾もやはり基本的にはあまり長く延ばしません。ビブ ラート は部分的には 細かくよくかける人ではあります。しかしここでは割と抑制していて気になりませんでした。ラス トの トリルの部分もピッチ幅がさほど目立ちません。  

 グローリアの入り は、 サンクトゥスとそれに続くベネディク トゥスの最後、曲の締め括りの部分と並んで輝かしいというか、威勢のいい部分ですが、そこでもこの 演奏には軽く感じる切れがあり、力強いもののやかましく ならないので乗れます。運びは速いです。ヘレヴェッへ盤のようにやわらかい方へ逃がすのではな く、 テンポ感を持って行くので圧迫が少ないのです。

「主の賛美」も軽快 なテ ンポです。速いけど、ここはこれぐらい が適切でしょう。メゾ・ソプラノのサラ・ コノ リーの声はソプラノ1よりは低いです。口をすぼめてこもらせるところもあります。しかし飾りは 少なく、ビブラートもあるものの気にならない範囲です。フ レーズ はさっぱり切り気味で、語尾を延ばさないところもある一方、力を抜く表現も聞かれます。べた塗 りの 感じがしません。そしてソプラノ1との二重唱の楽章では 声の質を揃えていて違和感がありません。

 終わりの方に向け ての 楽章も爽やかで壮大になり過ぎず、気持 ちよく音楽に集中できます。

 アルヒーフ(ドイ ツ・ グラモフォン)の2004年の録音は、 前述した通りこの曲の中でも一番かと思えるも の で、四番目のパラグラフでその特徴はご説明しましたが、鮮烈かつうるおいのあるバランスで一段 上で す。アーマン 盤が弦の気持ち良さでこれと競るぐらいでしょうか。

 スコアはホグウッドと同様、モーンダー版です。上に挙げた写真はオリジナルの装丁で、カップ リン グはマク リー シュ自身が選んだハイドンの「ベレニーチェのシェーナ」と、ベートーヴェンのシェーナとアリア 「あ あ、不実な者よ」op.65 という珍しい二つのカンタータとなっています。シェーナというのはオペラのアリアの前に来る劇 的な 独唱部分であり、これらの曲は同じ作詞家の手になる、見 捨てられた女性が怒りをぶつけるドラマティックな歌です。聞けば完全にオペラという感じの作品 であ り、それぞれ サラ・コノリーとカミラ・ティリングがモーツァルトの時とは打って変わって劇的に歌っていま す。 ブックレットに はインタビューをまとめた形でこの選択に関するマクリーシュ自身のコメントが載っており、面白 い企 画だと思いますが、人気はなかったのか、後年 DG レーベルに変わった再販時にピノックの演奏によるモーツァルトのモテット「エクスルターテ・ユ ビラーテ」K. 165(ソプラノはバーバラ・ボニー) に差し替えられました。オリジナルの方では日本盤も出たぐらいなのに、このマクリーシュ盤の大 ミ サ、ネームバリューが低いからか日本ではあまり話題になっ てないようです。アマゾンの国内サイトでも新盤の方では日本語でのコメントはありませんでし た。一 部の 隙もない名演なので、もっと聞かれていいと思います。




   rilling2greatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Helmuth Rilling   Bach-Collegium Stuttgart
     Gächinger Kantorei Stuttgart
     Diana Damrau (s1)   Juliane Banse (s2) 
     Lothar Odinius (t)   Markus Marquardt (bs)

モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ヘルムート・リリング / シュトゥットガルト・バッハ・コレギウム
シュトゥットガルト・ゲヒンガー・カントライ
ディアナ・ダムラウ(ソプラノ1)/ ユリアーネ・バンゼ(ソプラノ2)
ローター・オディニウス(テノール)/ マルクス・マルクヴァルト(バス)

 リリングの新盤で す。 こちらは未完の部分を作って足した、珍 しい全曲版で、レヴィン補筆完成版を使ってい るのが最大の特徴です。

 旧盤と比べるとメ トロ ノーム的にはさほど違わないのだと思い ますが、拍の取り方で頭にアクセントが来ると いう か、少し力が入ってリズムが重めであるためか、若干遅いように感じます。ただ、旧盤より多少揺 れは あるようで、 キリエのソプラノが出る直前の伴奏リズムなど、途中で速くなる部分もあったりします。

「聖霊によりて」の ソプ ラノ・ソロはゆっくりです。声質は瞬間 的にマリア・シュターダーを思わせる チャーミ ング な響きが出て、基本はそれよりやわらかく豊満な感じがするものです。好みの方向とは違うけど、 美し い音色だと思 います。フォルテが強いのにまろやかさを失わないのが特徴でしょう。ビブラートも滑らかながら 大き く揺らす歌い 方です。オペラで最も活躍して来た人のようです。

 補筆部分について です が、ロバート・レヴィンは1947年生 まれの合衆国のピアニストで、音楽学者でもあ りま す。演奏者としてはモーツァルトのピアノ協奏曲の録音を聞くことができます。レクイエムの校訂 は、 それまでのス コアの良いところを集めた最終版のような見事な出来でした。この大ミサ曲の仕上がりはどうで しょう か。何であれ 非難から得るものはないし、大変有能な人だと思いますので否定的な論評は避けたいですが、感想 を正 直に書きま す。今回はモーツァルト自身の様々な作品からパーツを集めて来た手法ながら、レクイエムのとあ る版 のように、要 素がつぎはぎで次々出て来る感じはしませんでした。むしろ反対に、固有のメロディー・ラインが 記憶 に残らないと いうか、一度使ったフレーズやリズムが繰り返されて何度も鳴り続けているような印象を持ちまし た。 そんな具合に メリハリがないように聞こえるのは曲に慣れてないからでしょうか。クレドの三曲目以降は相当長 い分 量があり、全 体では1時間15分を超えます。完成版じゃなくても、こらえ性がないので壮大な演奏にはめげる 方で あり、出来不 出来は言わずとも、正直なところ付け足し部分はない方がありがたいと思いました。もっと長いの がい い方もいらっ しゃるでしょう。ただ、もし本当にモーツァルトらしい曲を作りたいなら、本人の作品の断片を寄 せ集 めるのではな く、逆に一から作曲する必要があるとは思いました。この天才作曲家は要素を書きためておいて接 合す るという技法 は取らなかったからです。しかし自分で新たに作ればモーツァルトではなく、補筆者の音楽だとさ れて しまうわけ で、やる側も気の毒な話です。例外的だと感じたのはアニュス・デイのソプラノ・ソロの部分で、 静か な短調できれ いでした。ここはオラトリオ「悔悟するダヴィデ」のアリアからそのまま取って来ているので、ま と まったモー ツァ ルト固有のメロディーが展開している感じがします。そして転調以降はカットしてラストのドナ・ ノー ビス・パー チェスにつなげて終わりますが、その部分は何からの流用なのでしょう。降下する三連続音が三回 連呼 されてからス キップする音型は陽気なゴジラのテーマのようで、そのままハッピーな感じで終わりとなります。 もう 一つの全曲版 であるシュミット版は、レクイエムでやられるように真ん中で二つ折りにして最初のキリエの部分 を最 後のアニュ ス・デイにもう一度持って来る方法を取り、違和感のない終わり方でしたが、それとは違うことに 挑戦 しているわけ です。モーツァルト生誕250年を記念した意欲的なレヴィン版、評価はお任せですので、是非そ の仕 上がりを確認してみていただきたいと思います。

 ヘンスラー 2005年 の録音です。コンディションは良好で す。



2005/エ マニュエル・ クリヴィヌ/ラ・シャンブル・フィ ラル モニク/アクサンチュス室内合唱団/サンドリーヌ・ピオー
    /ナイーヴ

2006/フォルカー・ヘンプフリング/ケル ナー・カントライ/ガブリエーレ・ヒールダ イス/AVI ミュージック



   dijkstragreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Peter Dijkstra   Munich Chamber Orchestra
     Bavarian Radio Chorus
     Elin Rombo (s)   Stella Doufexis (ms) 
     Tilman Lichdi (t)   Tareq Nazmi (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ペーター・ダイクストラ / ミュンヘン室内管弦楽団
バイエルン放送合唱団
エリン・ロンボ(ソプラノ)/ ステラ・ドゥフェクシス(メゾ・ソプラノ)
ティルマン・リヒディ(テノール)/ タレク・ナズミ(バス)

 バッハのモテット で透 明で純度の高い合唱を聞かせていたペー ター・ダイクストラは1978年生まれのオラ ンダ の合唱指揮者で、元々父親の設立した少年合唱団で歌っていましたが、レオンハルトやクイケンが 演奏 するバッハの カンタータで歌うようになり、指揮者となってからはこの分野で数々の賞を獲得しているという人 で す。合唱が専門 なわけで、ソロイストを立てたりオーケストラを調整したりする必要があるこの大ミサ曲ではどう で しょうか。

 引き締まった中庸 やや 速めのテンポで全曲を統一し、すっきり とした運びという印象です。一方ハイライトの 「聖 霊によりて」ではゆったり歌わせています。ソプラノ1にはオペラの人を起用しています。合唱部 分の 中域がやや反 響し、少しだけこもりがちなところがある気がしますが、録音バランスも良いです。モダン楽器の 楽団 でもあり、高い方の倍音が伸びる種類ではありません。

 キリエのソプラノ はエ リン・ロンボで、声は落ち着きがあり、 特に低くもないけど高い方の質ではありませ ん。ビ ブラートはたっぷりで、フレーズ後半と強い音で大きめにしています。

 グローリアは力強 く、 テンポはやや速めです。音響が少しクリ アでないところがあるような気がします。中域 に反響がついてこもる傾向だからでしょうか。

「主の賛美」はメ ゾ・ソ プラノのステラ・ドゥフェクシスで、こ の人は三年後に若くして亡くなってしまったよ うで す。声質は倍音の面でエリン・ロンボよりも落ち着いたもので、ビブラートも派手ではありませ ん。全 体に飾らない 感じで、テンポは速めです。少しオフな感じでさらっと歌います。

 後半のソプラノ1 のソ ロ、「聖霊によりて」ですが、やはりビ ブラートがしっかりかかり、揺らしが語尾だけ でな く全体に渡る傾向で、振幅も大きいです。高い方が楽々すっきり伸びるという声ではなく、滑らか とい うよりは力の ある歌い方です。その共鳴音の使い方と膨らませる振り方はオペラの人ならではでしょう。特定音 域で 反響 する録音もその印象を強めます。

 2012年録音の ソ ニーです。スコアはクレメンス・ケンメ版 ということです。



   suzukigreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Masaaki Suzuki   Bach Collegium Japan
     Carolyn Sampson (s)   Olivia Vermeulen (ms) 
     Makoto Sakurada (t)   Christian Immler (br)

モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン
キャロリン・ サン プソン(ソプラノ)/ オリヴィア・フェアミューレン(メゾ・ソプラノ)
櫻田亮(テノール)/ クリスティアン・イムラー(バリトン)

 鈴木盤ではキャロ リ ン・サンプソンが歌っていて、この人は バッハのカンタータで何曲も素晴らしい歌唱を聞 かせ てくれた好きな人なので、絶対見逃せません。聞いてみるとやはり大変魅力的な歌声です。そして これ 以前、バッ ハ・コレギウム・ジャパンは二年前にもレクイエムで同じ顔ぶれで録音していましたが、そちらは さ らっと 速いテン ポでお祭り囃子のようにティンパニが活躍し、前へ前へとはやる心で全体に鳴り響いているような 力の 入ったところのある演奏で、普段の平静さとは反対に込み上げた感情で一杯になっている感じもし まし た。新しい大ミサの運びはどうでしょうか。

 始まりの部分なの です が、結論から言うとここだけが好みから 外れたので♡を一つ減らしてしまいました。自 分の 感覚ではゆっくりなのです。ただ客観的に遅いということもあるけれども、レクイエムのときとは 違 い、覇気を感じ させる種類でもないような気がしました。この人たちの演奏ではたまにフラットでスタティックな 感じ がするときが あって、それが独特のきれいさにもつながるのですが、ここでもその性格が出ていると言えるで しょう か。ティンパ ニは相変わらず要所で力強い区切りを見せたりもするものの、丁寧に一歩ずつ歩くような運びとい う印 象です。 元々ここはきりっとさせる解釈が好きなので余計にそんなことを感じるのでしょう。テンポ自体は モダ ン楽器の時代 にはよくあったものです。ただ、同じぐらいの速度であるヘレヴェッヘ盤のように、滑らかにつな いで うねらせるよ うな歌い方の特徴はありません。古楽っぽく強調されたアクセントがないのはありがたいです。弦 の音 のみがバロックだなという感じです。

 キリエのソプラノ は落 ち着いていて清潔で、やはり好みの人で す。声質はもはや少女声ではないけれども、低 くも ないという感じです。キャロリン・サンプソンは1974年生まれのイギリスのソプラノで、コー ヒー・カンタータ のときはまだ二十代であり、父親の言うことをきかない可愛らしい娘役がぴったりでした。いくつ に なっても変わらないマリア・シュターダーのような例外もあるし、女性の年齢のことを言う のは失礼だけど、声楽家は体が楽器なので、ある程度は仕方がありません。このときは四十一歳で す。 ビブラートが 語尾に少し付くぐらいでストレートな音が多く、大変良いです。口を閉じる響きも少しだけ出しま す が、ほとんど感 じません。低音のパートでは苦しくならないようです。そこからのクリステ、も張り切り過ぎず、 理想 的でしょう。 テンポは全体の運びに合わせてゆったりです。でも歌の部分は間延びした感じはありませんでし た。

 注目の「聖霊によりて (Et incarnatus est)」ですが、テンポはヘレヴェッへ盤と同じか多少速いぐらいで、遅過ぎはしません。声自 体は その盤のクリスティアーネ・エルツェやガーディナー盤の シルヴィア・マクネアーよりは少し低く響き、口腔にも反響(前述)させますが、大変きれいで す。や わらかさよりも張りが あるように聞こえるのは録音も影響しているでしょう。声が前に出て来て、残響は多くありませ ん。ビ ブラートもや り過ぎずでオペラ的ではなく、バロックの宗教曲であるバッハのときと変わりません。やはり最も 魅力 的な 「聖霊によりて」の一つだと思います。この部分のサンプソンの歌唱に関しては♡♡です。

 グローリアでは弾 ませ ながら中庸と言えるぐらいにテンポを上 げます。中低音から中高音に残響があってよく 響く 音ながら、分解はさほど悪くありません。丁寧でやかましくならず、でも元気さはほどほどある方 で す。ティンパニが活躍します。

「主の賛美」ではテ ンポ が速めになります。メゾ・ソプラノで、 声は低過ぎず高過ぎずです。低い音はアルトっぽ いでしょうか。口の開口面積を減らしてのヘルムホルツ的な口腔反響(前述)をほとんど使わない の で、オペラティックではなく、清潔で さらっとしています。速いテンポも加わって嫌みがありません。ビブラートもバロック唱法的で、 強く ないものです。   

 ラストでは二人の 女声 が溶け合います。メゾ・ソプラノはソプ ラノ1よりは低いですが、質が大きく違わない せい か、コントラストを出す方向ではない感じです。音の響かせ方が近いのでしょう。ソプラノ1も低 い音 は案外低いの で同質に感じるのかもしれません。後ろ二つの楽章では適度なテンポ感があり、締め括りは理想的 で す。

 2015年の BIS の録音は、反響は十分あっても大変強いわけではなく、一部ではテンポの遅さが途切れ感につなが る気 もしましたが、トータルでは大変良い録音と言えます。ス コアはバイヤー版です。



   berniusgreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Frieda Bernies   Hofkapelle Stuttgart
     Kammerchor Stuttgart
     Sarah Wegener (s)   Sophie Harmsen (ms) 
     Colin Balzer (t)   Felix Rathgeber (bs)

モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
フリーダー・ベルニウス / シュトゥットガルト・ホフカペレ
シュトゥットガルト室内合唱団
サラ・ウェゲナー(ソプラノ)/ ソフィー・ハームセン(メゾ・ソプラノ)
コリン・バルザー(テノール)/ フェリックス・ラートゲーバー(バス)

 バッハのモテット 集で は自然でやわらかな抑揚が大変心地良 く、静けさの感じられる演奏で同曲一番かと思え たベ ルニウスとシュトゥットガルト室内合唱団です。古楽を中心に、それだけにとどまらない活動をす るド イツの合唱指 揮者、フリーダー・ベルニウスは1947年生まれ。この合唱団は彼自身が68年に設立したもの で す。

 ゆっくりめの入り で、 やはりやわらかい感じがします。
ヘレ ヴェッヘ盤と比べると、も う少 しリズムが区切れていてテンポも若干速く、ティン パニがドンと来たりしますが、静かで曲線的な部分では多少似たところもある気がします。遅過ぎ て間延びということはありません。録音は分解されていて響きが良いです。合唱も反響したりせ ず、少 し奥まってま すが、響きが透明でとてもきれいです。弦の倍音はやさしくよく響きます。

 キリエのソプラノ もや わらかく響きます。ソプラノのはずです が、少し低めで落ち着きのある品の良い声で、 こっ ちがメゾ・ソプラノじゃない、ぐらいに聞こえます。語尾を延ばさず、言葉ごとに少し間を置くよ うな 歌い方に感じ ます。ビブラートは途中でよくかけてますが、フレーズ後ろのロングトーンで延ばさないので案外 多い 感じ はしません。一つずつが丁寧な印象です。

 グローリアはよく よく 出だしで圧倒されますが、この指揮者ら しく決してうるさくなりません。合唱がやや奥 なの で少しもやっとする印象もあるものの、自然でバランスは悪くありません。テンポも速くはなくて 適切 です。

「主の賛美」(三曲 目) のテンポは軽快です。ここは通常ソプラ ノ2の担当です。でも表記はメゾ・ソプラノと あっても 声はソプラノ的に少し高い方にも寄ってるように感じ、ソプラノ1とどうもよく似ていて正直両者 の区 別がつき難 いです。サラ・ウェゲナーは古楽系で活躍してきたイギリス系ドイツ人のソプラノで、ベルニウス やヘ レ ヴェッヘと 活動してきており、メゾ・ソプラノのソフィー・ハームセンはカナダ生まれの南アフリカ育ちで、 古楽 とモーツァル トのオペラなどで活躍し、リリングとよく一緒にやって来た人のようです。この二人、同じ音を交 互に 繰り返す5トラック目の Domine Deus では倍音の輪郭の立ち方が少し異なるものの、両方とも口を閉じたウォの音で反響させる傾向(イ タリ ア式のベル・カントの母音)が強くなく、さらっとしていてビブラートも少ない方で、特にこの 部分での歌い方はより少ないでしょうか。声を張り上げる感じがせず、静けさもあります。弱音も うま く使って切り 方も音程も良いので、この「主の賛美」はここの楽章のベスト・パフォーマンスかと思うぐらいで す。

「聖霊によりて (Et incarnatus est)」ですが、テンポはゆったりめの運びです。大変遅いというわけではないながら、語尾を 次に つなげるように長く延ばさない傾向があるせいで、間を置いてポ ツポツと一歩ずつ進めるような印象があります。あるいはふわふわとしたちぎれ雲のようなと言い ます か。 声質は結 構高めにも感じる瞬間があり、ビブラートはさほど大きくありません。力を入れて張り上げないの で高 い方の音は丸 めであり、輪郭がシャープではないです。もちろん掠れてはいないですが、多少シックな音色で しょう か。 低い音が はっきりしないのか、あるいは表現なのかもしれませんが、硬い子音に寄せる音があります。  

 2016年のカー ル ス・レーベルです。ウーヴェ・ヴォルフ& ベルニウス版という新しいスコアを使っている そうです。



   armangreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Howard Arman   Akademie Für Alte Musik Berlin
     Chor Des Bayerischen Rundfunks
     Christina Landsharmer (s)   Anke Vondung (ms) 
     Steve Davislim (t)   Tobias Berndt (br)

モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
ハワード・アーマン / ベルリン古楽アカデミー
バイエルン放送合唱団
クリスティーナ・ランツハーマー(ソプラノ)/ アンケ・フォンドゥンク(メゾ・ソプラノ)
スティーヴ・ダヴィスリム(テノール)/ トビアス・ベルント(バリトン)

 ハワード・アーマ ンは 1957年生まれのイギリスの合唱指揮 者で、バイエルン放送合唱団の音楽監督を務め ています。管弦楽はベルリン古楽アカデミーを呼んで来ており、ピリオド楽器による演奏です。

 一年前のバッハの モ テットの録音はお風呂の中にいるようでベ ストとは言えませんでしたが、こちらは同じ ミュン ヘンでも会場が違うようで、残響も長過ぎず、マクリーシュ盤と並んで数ある大ミサの中でも大変 良い 録音となりました。合 唱もよく響いてクリアで、ソロも距離感が良くてくっきりしているし、弦の音がマクリーシュ盤同 様に よく前に出てい ながらも分解されており、細く神経質にならない艶を聞かせている点でベストなバランスです。 オーケ ストラ、合唱、録音が 三拍子揃って素晴らしいのです。女声はオペラティックで豪華な歌声を揃えています。

 テンポは最初多少 ゆっ たりに聞こえる間の取り方でもあります が、マクリーシュとほぼ同じであり、設定とし ては ベストだと思います。タイムは多少短いようです。遅過ぎて間延びしたりしません。拍は幾分重み があ る方で、力を感じさせます。低音は響きますが、被りません。合唱の人数も多過ぎずで良いです。 途中 弱音に緩めるところもきれいです。

 ソプラノは低過ぎ るわ けではないけれども落ち着いており、高 い(軽い)声質ではない大人の声です。高音は きれ いに伸び、ゆったり歌っていて清潔で嫌みがありません。跳ね上げるクリステ、もぶっつけず、上 品と 言えるでしょ う。後半はややゆったりでしょうか。ビブラートは振幅が大きく、しっかりかけます。このクリス ティーナ・ランツハー マーは1977年生まれのドイツ人のオペラ系ソプラノです。

 グローリアはテン ポが 速めで、歯切れ良くてほどほどに力強 く、拍が立って気持ちが良いです。大きな音では 反響 がほどほどあるのが分かり、最高分解能という感じでもないものの、長過ぎはしません。よく前に 出る 弦の部分があることでくっきりしています。

 三曲目の「主の賛 美」 のテンポは速めです。アンケ・フォン ドゥンクは1972年生まれのドイツのメゾ・ソ プラ ノで、こちらもオペラの人です。ビブラートはしっかり使います。アルト寄りの堂々とした声で、 体全 体が胴鳴りす るかのように、口も閉じ気味にしっかり反響させます。

「聖霊によりて」は 速過 ぎず遅過ぎずでちょうど良いテンポで す。やや低めのメゾ・ソプラノ寄りのやわらかい 声で、 落ち着いた印象です。録音バランス上あまり前に出過ぎないのもいいです。歌い出すと少し遅い方 へ寄 せる感じが し、ビブラートもはっきりとかけますが、ほどほどで派手過ぎはしません。声も煌びやかではな く、強 い音で主張しない歌い方が静かで良いです。
 
 2018年の
新 しいケ ンメ版を使っているということです。 レーベルは BR クラシックで、録音も2018年です。



   minkowskigreatmass
     Mozart   Mass in C Minor K. 427
     Marc Minkowski   Les Musiciens du Louvre
     Gächinger Kantorei Stuttgart
     Ana Maria Labin (s1)   Ambroisine Bré (s2) 
     Stanislas de Barbeyrac (t)   Norman Patzke (bs)


モーツァルト / ミサ曲ハ短調(大ミサ曲)K. 427
マルク・ミンコフスキ / レ・ミュジシャン・デュ・ルーブル
アナ・マリア・ラビン(ソプラノ1)/ アンブロワジーヌ・ブレ(ソプラノ2)
スタニスラフ・ドゥ・バルビラック(テノール)/ ノーマン・パツケ(バス)

 フランスのバロッ クも のを得意とする1962年パリ生まれの 指揮者、マルク・ミンコフスキが、82年に弱 冠二 十歳で自身が設立したルーブル宮廷音楽隊と演奏しています。ポーランド系フランス人とアメリカ 人の 間に生まれた 人で、祖母がヴァイオリニスト、父は名のある小児科の教授であり、本人はファゴット奏者から始 め、 最初クレマン シック・コンソートやリチェルカーレ・コンソートで演奏していました。現在はオペラにも興味が ある ようです。

 上記のアーマン盤 と同 様、ややゆったりめに聞こえる始まり で、フレーズ間を開けるのも似た運びながら、合 唱の 前でテンポを緩めて曲線的なやわらかさを追求するところ、また合唱のキリエのキに h が入って子音がはっきりするところは多少フレンチ・テイストと言えるのでしょうか。テンポはそ の アーマ ンやマクリーシュ盤と同じで丁度良く感じます。静か にやわらかく入る導入です。合唱がワンフレーズ終わった区切りの音もドンと強くは来ません。録音は 良いです。特 に弦が前に出る方ではないですが、やわらかく響きながらこもらないもので、バランスが取れていま す。合唱も高音 が前に出る方ではなく、派手な音ではありません。静けさと少人数な感じがあります。

 キリエのソプラノ 1、 アナ・マリア・ラビンは1981年の ルーマニア生まれで、スイスで育った人です。 モー ツァルトのオペラを得意としているようです。声は高くも低くもないけれどもややメゾ・ソプラノ 寄り に聞こえるで しょうか。ちょっとボーイ・ソプラノ的な響きがあるとも言える若い大人の女性の声で、そっとや わら かく 歌いま す。静けさのある歌唱ながら、高く強い音(跳ね上げるクリステ)はオペラで映えるマナーで、 くっき りとした輪郭 と伸びがあります。ビブラートも弱いところは控えめな一方、強い音ではたっぷり使います。鮮や かな コントラストと言えるでしょう。

 グローリアはテン ポを 上げ、やや速めです。輝かしい音響では なく、ティンパニが元気で反響もあり、多少中 音が こもり気味かもしれませんが、好録音ではあります。

「主の賛美」のテン ポも 速めです。声質はアルト寄りで、朗々と 響き、輪郭は割とはっきりと聞こえます。コン トラ ストとビブラートの付け方がソプラノ1と似てるでしょうか。メゾ・ソプラノのアンブロワジー ヌ・ブ レは主にフラ ンス国内でモーツァルトを中心にオペラで活躍して来た人のようです。

「聖霊によりて」は やや 軽快なテンポで、口腔の反響するベル・カントな音(前述)はバ ロック系とは少し違います。強く輪郭を出すところ と、少し鼻へ抜いてこもり気味の音を使い分けているかのように聞こえます。声音というか、音色 が豊 かな方でしょ う。ビブラートの揺らしも、使うとなると語尾だけではなく全体にかかって大きめです。

 2018年録音 で、 フィリップス系のオランダ・ペンタトー ン・レーベルですが、国内盤も出たようです。 スコアはエーダー版です。



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