バッハ / マタイ受難曲 BWV 244 

   sanfrancross

 バッハの最も有名な宗教曲ですが、ピリオド楽器による演奏が 広まって以降の CDのみを扱います。ビブラートを多用した伝統的なベルカント の歌い方が個人的に得意でないのと、あまりに多くの演奏があって私には荷が重いからです。マタイともなると、 バッハの頂点、つまりはクラシック音楽の頂点だという声もあり、その研究をライフワークのようにしている人の著 作もあります。したがって楽曲解説と演奏史には触れません。カール・リヒターについても、ここで取り上げる必要 もないと思います。

 長い作品で、CDもたいて い三枚にわたって安くはないので、誰しもどれを買うか迷うのではないでしょうか。でも大変美しくて楽しめる 曲ですので、構えないで聞きたいと思っています。宗教作品だからといってキリストの物語に精通していなけれ ばならないわけでもないでしょう。宗教感情というものは無神論の人の中にも備わっているはずです。
 展開は聖書の福音書の記述に従っていますが、とりたてて難解なところはありません。十字架に掛けられて死 ぬことを予言するイエスの言葉に始まり、実際に埋葬されるまでを描いています。ナレーターの役を演じるテ ノールのエヴァンゲリスト(福音史家)が物 語(聖句)を歌いながら読み聞かせる部分がレチタティーヴォと呼ばれ、きれいなメロディーを独唱者 が歌う部分がアリア、それに全員で合唱する部分のコラール、曲は大きくこの三つの部分から出来てい ます。聖句は福音史家以外も担当し、イ エスや使徒たち役がバリトンかバスで、ソプラノとアルトは様々な役割で出てきま す。ドイツ語を 勉強して一緒に歌うというのも一つの愉しみだと思いますが、そうしなければ味わえないわけではあり ません。安い輸入盤を買って歌詞翻訳がなくても、検索すれば全文読め る時代です。録音というものも便利なもので、深遠な感動に包まれることもあれば、ソファで聞いていて、いつ 終わったのかもわからずに気持ち良く眠れることもあります。

 マタイ受難曲、多数の独唱に合唱、オーケストラ、通奏低音の使い方、古楽器の奏法や唱法をどうするか など、規模も大きい分だけ吟味すべきファクターも多く、なかなか理想的な録音がないのではないかと思っ てしまいます。ところが、案外素晴らしい演奏が多いのです。以下に自分にとって良かったものだけ、主観 的な観点からいくつかご紹介します。主立った 演奏者の比較については「ミサ曲ロ短調」の ページで行っていますので、よ ろしければそちらをご参照くだ さい。曲目が違えばそのときの 出来も違い、演奏者同士の相対 的な立ち位置がそのまま平行移 動するとも限りませんが、おお よその目安にはなるかもしれま せん。



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       J.S. Bach   St Matthew Passion BVW 244
       Gustav Leonhardt   Tolzer Knabenchor   La Petite Bande
       Christian Fliegner (B-S)   Rene Jacobs (C-T)   Christoph Pregardien (T)   Max van Egmond (B)

バッハ / マタイ受難曲 BWV 244
グスタフ・レオンハルト / テルツ少年合唱団 / ラ・プティット・バンド
クリスティアン・フリークナー(ボーイ・ソプラノ)/ ルネ・ヤーコプス(カウンター・テノール)
クリストフ・プレガルディエン(テノール:福音史家)/ マックス・ファン・エグモント(バス:イエス)
 カール・リヒターが神格化される一方で、古楽の世界でまずスタンダードとなったのはレオンハルトの演奏 で しょう。1989年の録音なので、もはやクラシックと言ってもいいと思いま す。
 こ の演奏で最も特徴的なのは、 バッハの時代の教会の慣例に従 い、女声を用いていないことで す。ソプラノはボーイ・ソプラ ノ、アルトはカウンター・テ ナーが受け持ち、合唱も少年合 唱団です。歴史的に正しいこと を取るか、表現の可能性を取る かという点で様々な立場がある でしょうが、独唱も合唱もレベ ルが高く、ここであえて男性の 声に限った狙いはネガティブな 方へは外れていないと思いま す。

 演奏面での特 徴としては、温かみがあり、 ゆったりとしている点が挙げら れると思います。 フレーズごとに間を十分取り、 管弦楽は古楽器系の抑揚で演奏 させながらも鋭くもエキセント リックにもならず、ほのぼのと した情感があります。一音の中 で強めて弱める膨らみのある語 法が印象的で、一続きのフレー ズも波のような盛り上がりが あって、心に真っすぐに訴えて きます。登場したときは新奇な ものに感じたかもしれません が、今聞くと大変自然な演奏と いう印象です。余計なことを考 えずバッハの音楽の中に浸れる 素晴らしい演奏ではないでしょ うか。他の様々な演奏が出て来 た現在の時点でも、その魅力が 衰えることはありません。細い 艶のバロッ ク・ヴァイオリンとフラウト・トラヴェルソの温 かい響きなど、古楽器が大変美 しいのも魅力です。

 ソプラ ノのクリスティアン・フリーク ナーはテルツ少年合唱団に所属 していたドイツのボーイソプラノ ですが息継ぎの 不安定さがわずかに見られる箇 所がある程度でほとんど欠点が なく、ボーイソ プラノとしては驚異的に音程も 安定しています。表現力も少年 とは思えません。これ以上は望 み得ない理想的なキャスティン グでしょう。
 後に自身の指揮でマタイに挑 むことになるカウンター・テ ナーのヤーコプスは、少年合唱 団からキャリアを築いてきた歌 手です。裏返るところで女性か と思う声音になりますが、音程 が安定しています。フォルテで は力強く伸ばすというよりも躍 動感があり、全体にウィットと 温かみを感じます。時期として も歌手として一番良い頃ではな かったでしょうか。6.の 「悔いの悲しみは」など、見事です。
 福音史家のテノールはクリストフ・プレガル ディエン。広範なレパートリーを持つドイツのテナーですが、変に声音を変えたりせず、軽妙でやわらかい響きを持 ち、リズム感があって透明によく伸びます。理想的なエヴァンゲリストです。
 イエス役のマックス・ファン・エグモントはオランダのバス・バリトンで、バッハの歌唱では定評があります。 深々としてやわらかいながら、あまり男らしい力を見せつけるようなところがなく、やさしい印象なのがいいと思い ます。テノールとも歌い方の方向性が揃っており、調和がとれています。

 録音も優れています。新しいものが出てくる中で、それらと比較して音があまり良くないのではないかという声も あるようですが、全くそうは思いません。バランスの良い、いい録音です。日本版のみリマスターするという動きも あり、SACD で聞きたい人はそれで良いでしょうが、わざわざバランスをいじらなくても、オリジナルのままで美しい音です。買い直す必要はないのではないでしょうか。


 
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      J.S. Bach   St Matthew Passion BVW 244
      Philippe Herreweghe   Collegium Vocale Gent ♥♥
      Sybilla Rubens (S)   Andreas Scholl (C-T)   Ian Bostridge (T)   Franz-Josef Selig  (B)

バッハ / マタイ受難曲 BWV 244
フィリップ・ヘレヴェッヘ / コレギウム・ヴォカーレ・ゲント ♥♥
シビッラ・ルーベンス(ソプラノ)/ アンドレアス・ショル(カウンター・テノール)
イアン・ボストリッジ(テノール:福音史家)/ フランツ・ヨーゼフ=ゼーリッヒ(バス:イエ ス)
 ヘレヴェッヘの1998年録音のこの盤は、過不足がなく真っすぐで、数あるマタイ受難曲の中でもおそ らく最も完成度の高い演奏だ と思います。出だしなど少し速めの テンポで緊張感をもって進みますが、そっけないわけではなく、大変よく歌っています。ま た、古楽の演奏ながらピリ オド奏法の癖が少なく、膨らみのある独特の抑揚はあるものの、ストレートな感じがするところもよい点で す。レオンハルトやヤーコプスの演奏が、時折立ち止まりながら味わいつつ進んで行くのに対し、ヘレ ヴェッへは余計な間は開けず、音楽として流暢につなげて行きます。そして劇としてよりも音楽として純粋 なこの演奏は、ストレートとはいえ盛り上がりに欠けるわけではなく、要所では力がこもっていて感動的で す。54. の「血潮したたる」のコラールなどでは他の演奏よりむしろゆっくりと静かに歌われ、表現の幅も感じます。大変バランスが良いというのが、このヘレヴェッへ 盤の特徴かと思います。余計な飾りのない直截さで定評のあったプレ古楽器時代のリヒターの演奏に対し、 レオンハルトは古楽らしい定番となりましたが、ヘレヴェッへはリヒターと比べられる完成度を別の方向性 ながら持っていると言えるかもしれません。ポスト古楽器時代の新たなスタンダードとしてもよいのではな いで しょうか。

 そしてアルトのパートにカウンター・テナーのアンドレアス・ショルが起用されている、これが何より大 きな魅力です。この曲自体アルトが主体になる曲ではありませんが、ビブラートを盛大にかけてオペラのよ うに歌う歌手だったりする場合もあり、大変目立つパートです。個人的な意見かもしれませんが、良質のカ ウンター・テナーに歌わせるというのが一番良いと思います。そしてショルは、この分野でダントツに上手 な歌手です。 ここでも伸びのある、全く見事な歌唱を聞かせてくれます。
 エディット・マティスに学んだドイツのソプラノ、シビッラ・ルーベンスは最小限のビブラートを選択的 にかけ、上品で力もあります。 
 福音史家のイアン・ボストリッジはイタリア・オペラはあまり歌わないイギリスのテナーで、知的で鋭さ がありながら苦しげなところがないのは役にぴったりです。
 イエス役のフランツ・ヨーゼフ=ゼーリヒはドイツ生まれながらイタリア人について学び、オペラの経験 も豊富なバスです。たっぷりとして声量があり、低音が硬くよく響き、よく振るわせて、ここ ぞというところで劇的な盛り上げを見せるところはオペラ的です。  

 ハルモニア・ムンディの録音も、いつもながら優れています。どちらかというと中域寄りであり、残響も あってあまり前に出てくる音ではないですが、自然なバランスです。
 また、最近は白い装丁に統一された宗教曲のシリーズも廉価盤で出ていますが、同じ内容です。



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       J.S. Bach   St Matthew Passion BVW 244
       Masaaki Suzuki    Bach Collegium Japan
       Nancy Argenta (S)   Robin Blaze (C-T)   Gerd Turk (T)   Peter Kooy (B)

バッハ / マタイ受難曲 BWV 244
鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン
ナンシー・アージェンタ(ソプラノ)/ ロビン・ブレイズ(カウンター・テノール)
ゲルト・テュルク(テノール:福音史家)/ ペーター・コーイ(バス:イエス)
 2014年にスウェーデンのレーベル、BIS でカンタータの全集を完成させたバッハ・コレギウム・ ジャパンの演奏です。彼らのバッハは世界的にも評判が良く、カンタータの方は18年にわたって録音されましたが、大手レーベルからでないにもかかわらず、 商業的にも成功してきたようです。

 この盤の魅力は独唱陣が最高なことでしょう。ソプラノのナンシー・アージェンタはカナダの人で、透き通った明 るい声で、カークビー以降のビブラートを多くかけない古楽の歌い方であり、それだけでも他の盤を引き離して魅力 的です。
 そしてアルトの声域を受け持つのはイギリスのカウンター・テナー、ロビン・ブ レイズ。カウンター・テナーではヘレヴェッへ盤で歌っているショル以上の人は出て来ないだろうと思っていたら、彼に勝るとも劣らない上手さで驚かされまし た。声質はのびやかでパワフルなショルに対し、軽く明るい女性的な声で大変美しいです。  福音史家のゲルト・ テュルクもいいです。テノールは人によってときに神経質な尖り方をする場合がありますが、この人は伸びやかで透 明であり、理想的です。
 宗教曲のベテランであるペーター・コーイのイエスは低過ぎず威圧的でなく、やさしさと温かみがあります。

 演奏は古楽器によるものですが、いわゆる古楽器奏法のアクセントや癖のあるイントネーションがほとんどないも のです。そういう意味ではイギリスの古楽の指揮者、ガーディナーともちょっと重なるところもありますが、さらっ と真っすぐで、テンポはやや速めに統一されていて一定です。ピリオド奏法らしくないと言えば、ヘ レヴェッヘの演奏も弦に若干ふくらみを持たせる呼吸があるもののストレートな方ですが、ここではさらに癖のない 印象です。この演奏者のカンタータの中には、過剰でない絶妙な抑揚がついたことで深い静けさが強 調されたような名演奏もありますが、このマタイについてはややあっさりしているでしょうか。日本人の演奏家の良いところはこうした素直なところ、あまり 脂っこい強弱を付けず、きれいにそろってスタティックなところだと思いますが、その意味では鈴木雅明の演奏も例 外ではないという感じです。日本酒で言えば大吟醸でしょう。私は無濾過の地酒のようなはっきりした味が好きです が、長所と欠点は背中合わせです。ガーディナーやヘレヴェッヘとは少し違う、静けさこそがこの演奏の特徴だと言 えるでしょ う。

 録音はこの団体がいつも収録している神戸松蔭女子学院大学チャペルで、中域に独特の厚い反響が乗ったライブな ものですが、それでも編成は割合小さく聞こえます。1999年収録で、音は大変良いです。
 また、CDはヨハネ受難曲とセットになったもの、ミサまで 含めた宗教曲集のボックス・セットなど色々出ており、組み物の方が割安になるようです。どこまで欲しい かによって選べば良いでしょう。



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      J.S. Bach   St Matthew Passion BVW 244
      Rene Jacobs   RIAS Kammerchor   Akademie fur Alte Musik Berlin ♥♥
      Sunhae Im (S)   Bernard Fink (A)   Werner Gura (T)  Johannes Weisser (B)

バッハ / マタイ受難曲 BWV 244
ルネ・ヤーコプス / RIAS 室内合唱団 / ベルリン古楽アカデミー ♥♥
イム・スンヘ(ソプラノ)/ ベルナルダ・フィンク(アルト)
ヴェルナー・ギューラー(テノール:福音史家)/ ヨハネス・ヴァイサー(バス:イエス)
 ヤーコプスはベルギーのカウンター・ テナーの歌い手で、マタイ受難曲ではレオンハルト盤でも、ヘレヴェッヘ盤でも歌っています。ここでは曲の隅々ま でよく知っているその彼が指揮をしているわけです。1948年に西ベルリンで米軍占領地区放送局のために設立された RIAS 室内合唱団は現在世界有数の合唱団であり、旧東ベルリンのベルリン古楽 アカテミーはその驚くべきセンスと技術で演奏されたブランデンブルク協奏曲などでご存知の方も多いかと思いま す。そしてこのヤーコプス盤、古楽器によ るマタイの演奏としては有名盤の中にあっても後発の2012年の録音であり、録音自体の質と収録方法でもアド バンテージのあるものだと思います。

 レオンハルト盤にも似た傾向が聞かれましたが、この演奏で最も特徴的なのは、温かさと充足を感じるということ です。キリストの死を扱った受難曲であるのに、どうしたことでしょう、なんだか楽しい感じがします。誤解を招く といけないので付け加えますと、ふざけているとか深遠さがないという意味ではありません。真面目で美しく、感動 的な演奏です。テレビでやっていましたが、キリストという人に対してアメリカ人と韓国人とでは印象が逆転し、韓国人がアンケートに対して苦しみを思い浮かべると答えるのに対し、アメリカ人は肯定的なイメージを持っていると答え るそうです。東洋の我々は受難曲の物語をともすると深刻に受けとめる傾きを持っているようですが、ここで感じる のは、兄弟たちと信仰を分かち合う充実感のようなものです。受難の悲しみはそれとしてあるのでしょうが、演奏家 たちは信じ合う者たちの会衆なのでしょうか。そういえば、このCDの宣伝トレー ラーの映像で、ミュージシャンたちが録音会場のテルデック・スタジオの外で休憩している場面があり ました。めいめいにラフな格好をして芝生の上に寝転んだり談笑したりしている姿はリラックスしてお り、このときの演奏の波長を感じさせるものでした。

 具体的には、例えば第15曲のコラールで「私を認めてください、私の守り手よ」と歌うところがあ ります。ここは「血潮したたる」という、ハンス・レオ・ハスラーの作った賛美歌の旋律を用いた部分 で、全曲を通じて何度も繰り返される感動的な節のコラールなのですが、ヤーコプスは一続きの短いフ レーズごとに長く延ばし、間を置いて区切って行きます。「私の守り手よ」で切り、「受け入れてくだ さい」で間を置くという具合です。それがまた噛みしめるような荘重さをもたらして感動的です。これ は賛美歌の歌い方なのか、レオンハルトの演奏でも若干そういう傾向が聞かれましたから、ヤー コプスはそこで歌った体験からそういうリズムを体得したのでしょうか。レオンハルトよりもよりはっ きり区切り、自信に満ちています。終わり近くの54曲目ではまさに血のしたたるキリストの頭を見て 嘆く場面がありますが、これほど真に迫った歌唱もないと思います。他では、独唱の間の手の伴奏とし て合唱が応える場面で、それが大変静かだったりしてはっとさせられる場面もあります。とにか くこの演奏、抑揚が心から湧き出しているようで、特に合唱の表現力の大きさは特筆に値します。
 
 また、そうした間の扱いにも関連してか、ヤーコプスのこの盤は物語的な感じがします。もちろんマ タイ受難曲は物語ですが、純粋に音楽的な要素が強い演奏と、劇の要素が強いものとがあるように思う のです。ここでは進行役のエヴァンゲリストの語りが、本当にお話のようです。モンテヴェルディは劇 的、オペラ的要素の強い作曲家ですが、ときに「これはモンテヴェルディだったか」と思うような、別 の曲のように感じるときがあります。何もヤーコプスの盤が奇抜だと言っているわけではないのですが、今までのマタイとはちょっ と違った面白さ、美しさが他にも色々と出てきます。
 例えば、通奏低音ではヴィオラ・ダ・ガンバを使っています が、それがよく響いていてまるでヴィヴァルディのようです。リュートとオルガンの伴奏でバスが歌うアリアの部分 (57. 来れ甘き十字架)では、一瞬彼のリュート協奏曲の一部分を聞いているかのようでもあります。他の演奏ではヴィオ ラ・ダ・ガンバが引きず るような音でリード し ているので、不思議な優雅さを感じるのです。そのリュー トが単独で目立つ他のアリアの部分では、ルネサンス吟遊詩人の歌曲の伴奏のようなところもあります。
 ベートーヴェンの第九の歓喜の歌には、「おお友よ、このような音ではない」と否定するところが出てきますが、 バッハの音楽は演奏において様々な違いを受け入れるところがあり、おお友よ、それも良い、になる懐の深さがある のではないでしょうか。

 独唱者はソプラノが韓国のイム・スンヘで、1997年に自国で賞を取って登場してきたのだそうです。特に古楽 系の人ではなさそうですが、多くの古楽のレパートリーを歌ってきているようです。少女のように清楚ながら平面的 に歌うのではなく、適度に選択的なビブラートがかかり、オフなところがはっきり沈み、鋭いところもありで、震え るような表現の幅を感じます。特に強い音での伸びは透き通っています。魅力的なソプラノです。
 アルトのベルナルダ・フィンクはアルゼンチンのメゾ・ソプラノですが、多くの古楽系指揮者の下で歌ってきたと 同時に、オペラも得意としているようです。低音部で太く声音を変え、劇的な抑揚を得意としており、たっぷ りとビブラートをかけます。
 福音史家のヴェルナー・ギューラーは神経質なところはないながら鋭さはあり、声に力があって劇的です。声音も よく変わります。
 イエスのヨハネス・ヴァイサーは硬めの倍音で抑揚が付き、やはり劇的な表現が得意です。テノールとよくマッチ ングがとれているように思います。
 
 録音も大変素晴らしくて、分厚い低音が心地よく、やわらかく繊細で、人々と楽器の自然な定位が聞かれます。合 唱を大きく離して二つのグループに分け、遠近感を出す試みもしていますが、それが功を奏して立体的に聞こえま す。遠い声はかなり遠く収録されて いるのですが、音像が小さいだけでかすむこともなく、物語が現場で進行して行く臨場感があります。マタイ受難曲の録音としては最高のものだと思いま す。

 ヤーコプスの演奏、独唱者が雑多な個性のぶつかり合いのようで、古楽のノン・ビブラートの歌い手を揃えている という方向ではないですが、それはそれで味わいがあります。鈴木の盤のように独唱者たちが好みに合っていると もっと良いかなとも考えましたが、そんな風に要素を切り貼りするものでもないでしょう。この場の味わいこそが大 切だと思います。また、リヒター盤のようにサンセリフで厳しい表現も良いかもしれませんが、独特の間と余裕があり、真摯で温かみのあるこの演奏は大変感動的です。個人的には最も好きな演奏です。



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