スメタナ / モルダウ

moldau

この「モルダウ」のページは当初、「美しく青きドナウ」と「フィンランディア」を合わせて一つの記事でしたが、分けて整理しました。
ヨハン・シュトラウス「美しく青きドナウ」はこちら
シベリウス交響詩「フィンランディア」はこちら


 第二の国歌といわれた「青きドナウ」の次には、やはり国歌のような扱いを受けているもう一つの川の楽曲、それもドナウが流れるウィーンのハプスブルク家から支配された側の国であるチェコのモルダウ川をテーマにしたものを取り上げます。従属させられた分だけ「青きドナウ」よりも思いつめた悲壮な感じに聞こえる部分もあるかもしれませんが、12、3分の短調の美しい情景描写の曲で、それはベドジフ・スメタナの「モルダウ」です。私事ですが、クラシック音楽にさほど興味があるわけでもなかった母親の遺品を整理していたら、このモルダウの入った CD を見つけたこともありました。


 ドナウ川がヨーロッパ大陸を横断しているのに対して、英語やドイツ語でモルダウ川と呼ばれるヴルタヴァ川(Vltava)は縦断しています。首都プラハを南から北へ流れる川ですが、下流はエルベ川へと変わってドイツを流れ、ハンブルクを通って北海へ注いでいます。一方で南側ではドナウ川と接して黒海まで届くという記述を目にするのですが、地図上でそのルートを探そうとするのは結構骨が折れます。川というものは面白いもので、分水嶺近くで両水系がまるで開いた手をお互いに伸ばし合って、もう少しで届きそうで届かないということがあります。一方で一部には密かに小指を触れ合ってるところもあったりするのでしょう。しかしチェスケー・ブゾヨヴィツェの東の湖沼地帯、オーストリアに入る辺りではどうも見つけられません。どうやら水源地の少し下流にある人工のリ プノ貯水池から別の川を南下してボヘミアの森を抜け、一部運河を通ってグローセ・ミュールに注ぐ線がつながっているようです。同じようなことはドナウ川とライン川についても言え、両者の源流ではスイス/オーストリアの国境の峰を挟んでわずか600mというところまで近寄ってはいるものの、実際には90年代に完成した総延長171Km のライン・マイン・ドナウ運河で接しています。この二大河川を一つと数えるなら、ヨーロッパ最長のヴォルガ川(ロシアの西側もヨーロッパです)より長いことになるでしょう。


曲の構成
 曲の方はモルダウの流れを表していて、それぞれのセクションで具体的な場所が想定されているようです。スメタナ自身の説明によるとヴルタヴァ川は温かい流れと冷たい流れを表すテプラー・ヴルタヴァとストゥデナー・ヴルタヴァという二つの源流から流れ出していますが、最初が冷たい方なのでストゥデナー・ヴルタヴァでしょうか、一本に聞こえる二本のフルートが細かく行きつ戻りつしながら上昇と下降を繰り返す音階によってその流れが表されるところから始まります。ピツィカートは水の跳ねる音でしょう。次にクラリネットが加わって温かい方のテプラー・ヴルタヴァ川と合流します。この合流地点はスメタナの時代にはなかったリプノ湖の一番端から7、8Km ほど上流に行った辺り、蛇行した流れと泥炭湿原があって希少動植物・景観保護区となっているシュマヴァ国立公園内のヴルタヴァ草原(Vltavsk? luh)付近です。
 そして上昇下降の同じ音型が弦に引き渡されると少し川幅が広くなって渦巻く川面のようですが、すぐにこの曲の中心となる有名なテーマが出てきます。イ短調に直すと「ミ、ラーシドーレミーミーミ、ファーファーミー」という部分です。それは16世紀イタリアの歌手、ジョゼッペ・チェンチが作曲した「ラ・マントヴァーナ」という曲(ハープやリュートなどで弾かれたり歌われたりしたと思われます)のメロディが原型で、それがルネサンス期のヨーロッパで流行し、ボヘミアで民謡になったのをスメタナが自文化の象徴として採用しました。出だしの音とリズムが違うので同じ曲には聞こえないかもしれませんが、確かに主な音型は同じです。このラ・マントヴァーナのテーマは他にもイスラエル国歌に流用されましたので、何か愛国心に訴える要素があるのかもしれません。
 それから長調に変わり、元気に金管が鳴ってからホルンが登場すると、特定の場所は示されませんが森の中に入って狩りの情景になります。
 それが一段落して静かになるとスタッカートの跳ねるようなリズムが聞こえて来ますが、それは民族舞踊で人々がお祝いの踊りを踊っている「村の婚礼」を見ながら川が流れて行く場面です。これもどこの村だかは分からないものの、源流からプラハまでの間には S 字湾曲部に美しい町が広がるチェスキー・クルムロフなども存在しています。
 そしてそれが静まると今度は木管が長い音を吹き継ぎ、また静かに行きつ 戻りつする最初の川の流れの音型が長調になってフルートとクラリネットで表れて来ます。夜の流れに月の光が反射する「月光」であり、その音に乗ってストリングスが夢の中のように奏でるのが「水の精の舞」です。中間部の静かで美しい場面です。       
 そこからクレッシェンドして行ってパパパパとトランペットが夢を覚まし、再度最初の「ラ・マントヴァーナ」の中心主題に戻って来てしばらく歌われますが、もう一度金管のパパパパという鋭い音が、今度は激しく奏されると「聖ヤン(ヨハネ)の急流」です。ベートーヴェンの「田園」や R・シュトラウスの「アルプス交響曲」の嵐のような部分ですが、これには具体的な場所があります。すでにプラハの街に近づいたスラピー・ダムからシュテホ ヴィツェの町あたりです。当時はダムはありませんでした。因みにヤンというのは14世紀の殉教者、ネムポクの聖ヨハネのことであり、国王ヴァーツラフ4世と対立してプラハ中心部のカレル橋の上から川に投げ込まれた人です。
 激流を乗り切ると今度は長調に変じた「ラ・マントヴァーナ」の主題が高らかに合奏され、それに続けてこの曲集「わが祖国」の一曲目の冒頭にハープで出て来た「ヴィシェフラド(高い城)」の主題が繰り返されます。♯を四つ外すと「ソ・ドーシ・ソ/ドーシ・ソ/ラーソ・ミ/ソーファ・レ」という部分です。ここはプラハ中心部の市街地で川が大きく湾曲する少し手前(南)であり、以前国王が住んでいた廃墟の城が川を見下ろしている場所です。兄弟たちと紛争を繰り返した初代ボヘミア王、ヴラチスラフ2世が戦略的要衝として10世紀後半からあった城に11世紀に移り住んだ後、祖国の父と呼ばれる14世紀の王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の頃に栄え、15世紀のフス戦争で破壊されたままの姿を晒しているものです。そのテーマが勝ち誇ったように華々しく繰り返されるとプラハに入り、その後はドイツ国境を越えて川への眼差しはフェードアウトし、静かに流れ去って行きます。


民族楽派
 スメタナは民族楽派と呼ばれるうちの一人であり、実際に市民兵の蜂起にも参加しました。長く国を離れていて戻ると懐かしいのは誰しもがそうだとして、領土や民族への愛着というものは抑圧があるところで燃え上がって来ました。スメタナの時代はオーストリア帝国の支配下にあったのです。「ラ・マントヴァーナ」 が原型となった中心主題は強い愛国心に根ざしているとされます。
 むき出しの愛国的感情に接したとき、私たちはそれとどう向き合ったら良いのでしょうか。肉体を自分だと思うことに始まって大きな集団に帰属するという意識はその種火であって、アダムが楽園を追われて以来、他を敵に回してずっと続いてきた基本的な自我のあり方です。簡単には克服できないけれども 現代で覇権主義を掲げる指導者が出て来ると人類の存続が危ぶまれるまでになります。そうやって考えるとナショナリズム(≒ペイトリオティズム)を称揚する音楽は成熟した意識ではあり得ないという一面もあって複雑な気持ちになります。「モルダウ」の入っている曲集の名前も「わが祖国」なのです(輸入盤を検索する際には My Country または M? Vlast [アクサンテーギュはなくて大丈夫] )。「青きドナウ」も同様でしたが、故郷の川というのは愛国心を鼓舞する最大の象徴なのでしょう。地続きで戦乱に明け暮れた国で育たないとこの気持ちは本当には分からないのだということがあるでしょうか。チェコの長く暗い抑圧された過去の、あるいはその後の歴史を思えば心情的には共感しますが、それも国や民族という単位で見た場合であって、美しい川の流れは誰のものでもありません。

 わざわざ目を向けなくてもよい話を持ち出したのは、この曲の演奏においても、強く愛国心を鼓舞しているような抑揚が聞かれることがあるからです。有名なテーマの出だし、「ミ、ラーシドーレミーミーミ、ファーファーミー」のファの音(ホ短調だから本当はド)を力を入れて奏で、次の二音目のファにも強調を置いて、その後も小節の変わり目ごとに音を切って弾ませるアクセントを施して行く例があります。そうするとまるで酔っ払って泣きながら肘を振りつつ故郷の歌を大きな声で歌っているようにも聞こえてきます。でも実際に楽譜のファ(ド)にはスフォルツァンド記号(強く)、次のファ(ド)にはアクセントが付されていて、それは作曲者の意向です。民謡のリズムだからか歌詞を歌うような抑揚であり、それが実はこの曲における「民族調の表現」とよく言われるものの正体です。言葉、恐らくはヤナーチェクがやったようにチェコ語の音韻をなぞっているのでしょう。チェコの指揮者たちはこれを強調しがちです。じゃ、「モルダウ」 自体が元は歌だったのか、この節にドイツ語や日本語の歌詞が付いたのもあるじゃないか、というと、そこは違います。それらは後からの作業であってスメタナはやってません。一方でただそのメロディーだけが楽譜に記された場合は、滑らかに素直に歌わせるのが普通でしょう。そういうのを「インターナショナルな表現」と言います。実際にスコアの指示を無視してそうやる演奏者もいます。個人的にはあまりにもガツンガツンと力こぶを入れるのはきれいに感じないので、ここではそうでない演奏の方を重点的に取り上げることになります。


人物
 ベドジフ・スメタナ(1824-1884)がどんな性質の人だったのかということは、革命運動に加わったという話以外触れてないし知らないのですが、恋多く、感情が激しくて頑固な一面もあったとされます。音楽関係者で仇(かたき)になった人もいたようです。愛人には最後まで援助をしてもらえるほど愛された反面、再婚の奥さんとは激しくぶつかり、その後冷え切ってしまったようで、気の毒な病気のことも関係があるのかもしれません。ベートーヴェンやフォーレと同じく耳が聞こえなくなり、「モルダウ」はちょうど聴力が失われた頃に書かれました。晩年は限度を超えた躁状態のように暴力的になって精神を病み、最終的にはシューマンと同じように精神病院で亡くなっています。検死ではこれもシューマン同様に梅毒にかかっていた証拠が出たとされますが、それが心身の不調や性格に影響を与えていたのかどうかは分かりません。
 正直なところ「わが祖国」のモルダウ以外の部分は、一曲目の冒頭を除け ば自分の理解力を超えているところがあるようで、シューマンの4番以外のシンフォニーが楽しめる方なら恐らく大丈夫かなとも想像するのですが、何度か挑戦しても躁的傾向を感じて途中で意識が切れてしまいます。シベリウスでもよく同じことが 起きる上、国民楽派では民族音楽の音韻を分解したヤナーチェクも現代音楽と同じ方向の理知の音がして、スメタナの室内楽と合わせてトライしたものの結局奥の棚の方に移動してます。そんなこともあり、自分の音楽への理解の幅の狭さによってモルダウもこの「その他の入門曲」のページに含めてしまいました。こちらが入門者なのであり、モルダウは名曲だと思います。



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      Smetana   Moldau
      Rafael Kubelik   Czech Phiharmonic Orchestra ??

スメタナ / 連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」
ラファエル・クーベリック / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1990)??
 そもそも、このいかにもチェコもしくはボヘミア/モラヴィアらしさを必要とするかのような音楽については、どうしてもチェコの楽団にやってもらいたいと いう意向が出て来ると思います。そうなるとドヴォルザークも振ったというチェコ・フィルになりますが、ターリヒ、クーベリック、アンチェル、ノイマン、ビエロフラーヴェクという順に続いた歴代チェコ人指揮者のうち、録音が良くなるのはアンチェル以降と亡命後のクーベリックということになるでしょう。最新のビエロフラーヴェクはやや軽快なテンポで丁寧に歌のアクセントを施して行く演奏を聞かせます。チェコ人の指揮者ならチェコ・フィル以外でもいいというな ら、1981年生まれのヤクブ・フルシャがこの曲に熱心で、昔本拠地が占領下のチェコにあったというバンベルク交響楽団を振った2016年収録の新しいものもあります。良い音を求めているならそれはセッション録音であり、バランス的に最高とは言わないけれども候補に挙がるでしょう。民謡的なアクセントは施しながら重さはなく、若々しくストレートな演奏です。

 上記五人の中ではクーベリックが特に人気があります。チェコ・フィル以外を振ったものも入れれば録音数が多く、1952年のシカゴ響、58年ウィーン・フィル、71年ボストン響、84年バイエルン放響、そして90年と91年のチェコ・フィルという具合で、この曲への思い入れも感じられます。
 毒舌批評家に悩まされていた時代の52年盤は音質の面から外すとしても、ウィーン・フィルとの演奏はかなりドラマチックなアクセントを聞かせ、やはり音は古い感じです。ボストン交響楽団とバイエルン放送交響楽団のものが音楽の完成度という意味では最も良いのではないでしょうか。クーベリックはこの曲では歌のリズムで区切ってタン、タッタ、タンという具合に弾ませる表現を聞かせるのですが、それはボヘミア風ということもあると同時に楽譜に従った正統なものでしょう。バイエルン放響ではそんな風に拍を区切ってスタッカート様に運ぶところがより顕著であり、やや個性的です。ボストン響の方は同じ傾向はあるながら彼の録音の中では最も滑らかで、トータルで崩れが少なくて端正です。均整美では一番でしょうか。録音もこの二者が最も良いです。 

 さて、90年のチェコ・フィルとの演奏は、亡命して四十一年間帰れなかったけれども壁の崩壊によってついに祖国に戻れ、古巣のオーケストラと再会したという記録です。あのワルターばりの洗練された歌を聞かせるクーベリックがこうなるかという大きな振りの熱い運びで、強い歌のアクセントを施していて力みなぎる歓喜を感じます。これは次元の違う話で他に全くないものです。抑圧的な政権が倒れたときの渦巻く興奮の中に時代のうねりのようなものを感じさせ、音楽解釈がどうというよりも歴史的意味も含めて大変感動的な演奏だと思います。やはりクーベリックはこれでしょう。愛国心のことを書きましたが、社会的な状況には大変共感できます。この後で屋外の大観衆の前でやった映像も残されています。一年半後の91年の来日公演のは同じ流れの表現ですが、クーベリックの表情にも余裕が出てもう少し力が抜けており、日本での収録らしい音響になっています。そしてその五年後には波乱の人生に幕を下ろしました。



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     Smetana   Moldau
     Karel An?erl   Czech Phiharmonic Orchestra ??

スメタナ / 連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」
カレル・アンチェル / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 ??
 次に演奏面でベストかと思われるものを挙げます。録音はステレオ初期の 1963年スプラフォンということで、コンディションは悪くないですが、弦の響きに厚みや艶はあまり期待できないので音のきれいさに酔いたい人向きではないかもしれません。カレル・アンチェル/チェコ・フィルのものです。
 
 アンチェルは妻子をナチに殺され、68年のプラハの春後の軍事介入で亡命し、1973年に65歳で没した指揮者ですが、独特の格調高い音楽を聞かせる人です。クーベリックの歴史的なカムバック演奏では社会的状況と演奏者本人たちの中から湧き上がってくるような興奮が聞かれましたが、このアンチェルのセッション(スタ ジオ)録音では演奏そのものから染み出してくるような感激を覚えました。派手な演奏ではないので言葉にするのが難しいものの、表現としてはややゆったりで、一つひとつ丁寧に進めながら常にきりっとしています。もはやメロドラマティックなもので心を動かされる人ではないという感じです。情に流されず、底に力を感じさせる品格があります。民族主義的な傾向は表に出ず、民謡の歌のようなアクセントは施しません。無用な抑揚は抑えて行くので他のどんな演奏と比べても別物の曲のように聞こえます。そうした静けさ、冷静さがありながら、それでも後半では形を崩さない中に熱い興奮を覚えます。この後、68年のライヴ盤が同じ顔合わせで出ていてそちらの方が良いという声が多くあるようですが、自分が聞いた印象ではこのスタジオ録音の方により強い存在意義を感じました。確かにライヴも熱い演奏ながら、緻密にコントロールされた完成度では及ばない気がするからです。やはりあちらは熱を求める人向きなのではないかと思います。音質も完璧とは言えないながらこのセッション盤の方が客観的に見てずっと優れています。



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      Smetana   Moldau
      V?clav Neumann   Gewandhausorchester Leipzig ?

スメタナ / 連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」
ヴァーツラフ・ノイマン / ライプツィヒ・ゲバントハウス管弦楽団 ?
 次はアンチェルの後でチェコ・フィルの常任指揮者となったノイマンで す。来日公演とスプラフォン=DENON のレーベルも関係してか、チェコの指揮者として特に日本では人気が高いようです。1920年プラハ生まれで、クーベリックやアンチェルが亡命するたびに後任として留守を預かってきた人ですが、95年に亡くなっています。モルダウ(「わが祖国」全曲)の録音は日本企画盤を含めればいくつも出ています。1967 年ゲヴァントハウス管、74年チェコ・フィル東京ライヴ、75年チェコ・フィル(スプラフォン・スタジオ録音)、78年 N響ライヴ、82年チェコ・フィル東京ライヴといったものです。この中で実演ならではの迫力が感じられるという路線で熱く語られるのは74年の東京ライヴ、それと N響ライヴもそうかもしれません。そういう方向としては、ここでは1989年のベルリンの壁崩壊に端を発した共産主義独裁の終焉を記念するクーベリックの90年盤をすでに取り上げているので、そちらに代表させておきます。日本でのライヴは録音状況が万全ではありませんし、余計なことを言って熱いファンのご気分を悪くさせても申し訳ないからです。聞き方には色々な趣味があるわけで、それでも意見を言って構わないならノイマンという人は本来好戦的な人ではなく、熱演向きというよりも穏やかに運ぶ中に繊細な表情を表して行くことに長けている気はします。

 写真で挙げたのはゲヴァントハウス盤ですが、比較のためにまず75年チェコ・フィル(スプラフォン)盤を聞いてみますと、出だしはクーベリックのボストン響とバイエルン放響の中間のようなフルートとピツィカートの扱いであり、その後は全体にゆったりめのテンポで雄大だけど余分な力を込めません。のんびりしていて丁寧に一つひとつ進めて行きます。リズムは重めであり、滑らかなレガートで盛り上げるのではなく、大して誇張はないけれども民族色は感じさせるリズムと呼吸があります。途中のフォルテの部分だけやや段が付いたように激しくなり、最後の二音は歯切れ良く締め括ります。
 録音コンディションはセッションゆえに悪くないですが、残響が短めに聞 こえるのに音像が遠くてはっきりしないところもあり、弦の高い方の響きに若干の癖があります。艶消しでシャラっとして細いところと特定の音で固まる傾向があるのです。単なる喩えに過ぎませんがスピーカーのアルミキャップ鳴きのような音が若干混じってる感じだなどと言うと意味不明でしょうか。ライヴ録音にはよくあるバランスで、全合奏の透明度は最高とは言えません。低音は部分的に低く出ています。色々言いましたが、プラハでの録音で決して悪いものではありません。その後の82年東京ライヴの方は演奏の上ではもう少し熱が入り、間の取り方やリズムの誇張も大きくなるようです。音は残念ながら75年盤よりコンディションがよろしくなく、昔の録音のようなことはないので十分楽しめますが、「来日録音」という感じはやはりあります。

 これに対してゲヴァントハウス管の演奏は、出だしはチェコ・フィル75 年盤とほぼ同じですがよりスムーズで癖がなく、中心となる例のテーマの扱いでも重く区切る足取りがなくてより自然です。テンポ設定がゆったりめなのは同じで全体の設計も同じです。真面目で誇張のない素直な演奏だと言えるでしょう。しかし生きいきと弾むようなリズム感では若干チェコ・フィル盤より上回り、静かな部分ではしなうようなやさしい美しさに溢れています。何だかクーベリックのボストン響盤と若干似た印象もあります。弾む節回しをより素直にしたのがノイマンのゲヴァントハウス響盤というところでしょうか。

 そしてこの67年ゲヴァントハウスと75年チェコ・フィルはどちらもスタジオ録音ながら、バランスはゲヴァントハウス盤の方が良いと思います。弦は同様にやや響きが薄いながら、もう少し潤いがあり、癖が少ないです。低音が出ている感じは75年盤の方があるものの、その分67年盤は中低域のやわらかさがあるのでよりふくよかに感じます。残響成分もチェコ・フィルのより多く、共鳴する帯域が良いです。そのため木管がより色をもって響きます。 




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      Smetana   Moldau
      Nikolaus Harnoncourt   Wiener Philharmoniker ??

スメタナ / 連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」
ニコラウス・アーノンクー ル / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ??
 最も美しいと感じた演奏です。メロディーの部分はこんな風に歌ってほしいと思っていた願い通りの抑揚で進めてくれたのがこの奇才、アーノンクールでし た。バロック期の音楽でのピリオド奏法解釈を普及させるにあたっては理の部分を発揮し、その運動のリーダーとして攻撃的なアクセントや意表を突くアイディアで攻めた人という印象がありますが、チェコものでは驚くほど柔軟に歌うのです。自らにチェコの血が流れているとライナーノートに本人が書いていたドヴォルザークの「新世界」などでは雄弁さと同時に長い間を置く呼吸で堪能させてくれました。そうした相反する二つの面をバロックとロマン派という作品の時期、あるいは本人の演奏時期やその時々の狙いから使い分けた才能豊かな人で、モルダウに関してはバロック作品での過激さは出さず、やさしい演奏です。また 過度な民族色も出さずに、楽譜に書かれた音の建築物をその強度記号やアクセントは強調しない形でインターナショナルにやってみせてくれました。自然な美し さに溢れていると同時に、しかしまたその裏で大変巧者なところも覗かせている演奏だとも思います。オーケストラはヨーロッパ室内管やコンセルトヘボウではなく、ウィーン・フィルです。ウィーン・フィルはこの曲をほとんど取り上げて来なかったということで、どうしてもウィーン・フィルでやりたかったそうです。チェコを抑圧したハプスブルク家のウィーンにスメタナを認めさせたかったのでしょうか。 

 最初の源流の表現から穏やかで、スタッカートを目立たせるような癖がありません。ゆったり流れて声高に叫ばない演奏です。有名なテーマの歌い出しもスフォルツァンドを強くしないでアクセントも抑えています。途中リズムの強弱やフレーズの粘らせ方にこの人らしい細かな工夫は出ます。そこが巧者な印象を与えるところです。言葉を発するような歌のアクセントも若干は聞かれますが、中間の静かな部分(月光の反射と水の妖精)でのデリケートな歌わせ方を聞いていると神秘的な美しい流れが目に浮かぶようです。そしてそこからの盛り上がり(ヤンの急流)では走りません。このように他の人と違った解釈でも説得力があるのは曲の流れに沿っているからでしょう。最後も走らず、お終いの二音もゆっくりと締め括られます。愛国心のヴェールを被らない純音楽的な美しさだと言えま す。

 RCA 2001年の録音は新しい分だけノイマンやクーベリックよりずっと良いです。うるさいことを言えば大きな音での響きは必ずしも完全にくっきりとはしないところもあり、弦の音は艶があって色彩的という感じではなくシックなものです。やや奥まった定位でいかにもライヴを思わせるところもありますが、やわらかくて自然な感じが出ています。オーディオに特化しない一般の聞き手が音の良さを期待して選んでも間違いないと思います。低音には弾力があります。 



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     Smetana   Moldau
     Sergiu Celibidache   Munchner Philharmoniker ?

スメタナ / 連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」
セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー交響楽団 ?
 愛国的でも民族的でもないもう一つの演奏はチェリビダッケです。禅の修行を志した人だということで、ジャケット写真の右下に押された赤い印璽がそれを表しています。かどうかはともかく、彼の演奏に禅の要素を見る人もいるようです。スコアの全ての音に等しく注意を注ぎ、そこにあるがままの流れから味わいを引き出すような姿勢が感じられるからでしょう。では禅はそういうことを目指すのでしょうか。言葉にするのも憚られますが、少なくとも道を極めた人が愛国心を燃えたぎらせている姿は想像し難いものです。昔の中国でのこと、ある禅僧がたまたま街で肉屋とその客の会話を耳にしたという話があります。客が「この店で最も良い肉をくれ」と言うと、店主はそれに対して「うちの肉は全て良い肉だ」と答えたといいます。禅僧はそれを聞いてついに悟ったということです。これは単に存在の平等性を理解したり行動で表したりしろという道徳話ではないのでしょう。キリスト教で言う、人が善悪の木の実を食べて追い出された神の国が、実は善悪を超えた心のあり方だった、というのと同じでしょうか。存在の本源に戻った「閑さや岩にしみいる蝉の声」という瞬間なのかもしれません。時間が停まった蝉の声の中で後悔や期待のさざ波が止み、静寂の音を聞いたということならばですが。

 他人の心の状態を評定することは意味がありません。ただ、チェリビダッケの演奏にはやはり何かちょっと神秘的なところがあります。晩年は遅いテンポで一つひとつ描き出して行く表現に特徴がありました。禅が音楽に影響するかどうかはともかくとして、ありのままという言葉は浮かんできます。翻ってこういう曲でそんな姿勢を貫くと、ちょっと遅過ぎたり間が延びたりして感じられるかもしれません。ありのまま過ぎるのか、次元を超えているのか、受け止め方はそれぞれでしょう。
 一つの音もなおざりにしないにせよ、途中で伸び縮みのリズムはしっかりとあります。中間部の静かなところ(月光と水の妖精)ではアーノンクール盤よりもゆったりと、最も分解的に運びます。テーマの歌わせ方はアーノンクールと甲乙つけ難いですが、誇張がなく自然だという意味では一番かもしれません。テンポは最後まで悠然としています。自らは名前を知らない川の流れです。 


 1986年のライヴ録音はコンディションが良く、ふくよかさや艶が感じられて自然なバランスです。この CD は「わが祖国」全曲ではなくモルダウだけであり、タイトルは ‘Overtures’ となっていて他の作曲家の作品と組み合わされています。

 民族的解釈ではないニュートラルな演奏を二つ続けてご紹介しましたが、これらだけではなく、最近ではコリン・デイヴィスロンドン交響楽団の2004年ライヴ録音盤も出ており、いつもあっさりした歌をうたうイギリスの指揮者ですがそこでも力こぶを入れず、自然な抑揚で進めています(モルダウのみの感想)。穏やかでゆったりした弱音部が美しい演奏であり、アーノンクール盤同様最高の録音バランスだとは言わないものの、新しくて良い音です。




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     Smetana   Moldau
     Herbert von Karajan   Berliner Philharmoniker

スメタナ / 連作交響詩「わが祖国」〜「モルダウ」
ヘルベルト・フォン・カラ ヤン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 チェリビダッケと同じようにモルダウだけで良いというのなら、人気のカラヤンも大変良かったです。カラヤンは晩年にウィーン・フィルと録音した一連の録音があり、この指揮者に興味のある方なら皆知っていることかと思いますが、それまでの脂の部分が網の下に全部落ちてしまったように自己意識の強さを感じさせなくなりました。仮面を脱いだというのか、作為がなくなってオーケストラに任せた自然体の演奏を聞かせるようになったのです。ですのでここで取り上げるのもそのウィーン・フィルとの1985年盤にします。これは大変名演だと思うドヴォルザークの「新世界」の余白に入っているものであり、すでにそっちで買ってるならわざわざ「わが祖国」を別の演奏で買い直さなくてもこと足りてしまうかもしれません。これ一枚で十分価値があるでしょう。

 テンポ変化はあまり付けないので静かなところでぐっと遅く、とかはないし、フォルテで速まることもないのですが、正直で繊細な印象があります。滑らかだけど、カラヤン・レガートという表現がぴったりするような磨いたスムーズさとは違います。もちろんフォルテでの力強さは十分です。そして最後も走らずに終えます。カラヤンはこの曲を何度も録音して来ましたが、完成度の高さと音の美しさでこれが一番でしょう。ドイツ・グラモフォンの録音も80年代ながらバランスが 良く、自然な艶があってやわらかい弦の出方が大変きれいです。「新世界」はオリジナルはこのモルダウとの組み合わせでしたが、後に第8交響曲と合わせてモ ルダウを除いたものが同じデザインで出て、そちらの方が今は主流のようです。写真はモルダウについては自分はそれしか持っていないのでカラヤン・ゴールド の OIBP リマスター盤を載せました。「新世界」のページでは音のバランスにおいてオリジナルの方が良いと書きましたが、わずかな違いであって、聞き直してみたけどこちらのモ ルダウはきれいな音がしていました。



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