クープランの墓                                           ENGLISH 
        / モーリス・ラヴェルの孤独
  ravel

ラヴェルの主な作品とCD
  
 十代の頃、前世はラヴェルだったか、ぐらいの勢いでラヴェルに取り憑かれました。何を馬鹿な、デューラーは浮気だったのか、と友人なら言うかもしれません。ドイツの画家にして工作の名人だったアルブレヒト・デューラーは、ペストが流行ると奥さんを放って自分だけイタリアへ逃げたので、顔が似てることもあってそういう臆病者は自分の過去世だろうと言っていたからです。マエストロも迷惑な話です。前世というアイディアを弄ぼうというのではありませんが、以前自分のことのように懐かしさを覚えた人について、少し書いてみようと思います。

 モーリス・ラヴェルは1875年生 まれのバスク系のフランスの 作曲家で、同じ印象派のドビュッシーと双子のようにいつも一緒に論じられます。この二人、確かにお互い好き合ってたかもしれませんが、透視してみると... いや、魂は別人のようです。しかしラヴェルの人生を思うと、伝記を読んだだけなのにちょっとさみしくなります。彼の最期を知ってるでしょうか。乗ったタクシーが起こした事故の後失語症になり(1)、思考と感情は明晰なまま何も表現できなくなったのです。脳に関する障害で、筆記もままならなかったといいます。肉体の牢獄に自らを閉じ込めるのは普段々がやってることですが、そこに他者から隔離する状況を加えるというのは何を学ぼうとする人の人生でしょう。
 晩年のラヴェルは頭の中に曲が出来上がっても書き留めることができず、何を見ても空しく、無関心になってしまったといいます。バルコニーで肘掛け椅子に座っているとき、「何をしているの?」と尋ねると、「待ってる」と答えたそうです。以前は控え目に感情を隠して生きてきた男に対して、痛 手を癒そうとそれはそれは多くの友情の手が差しのべられたようです。様々な試みが行われました。自分の別荘に迎えたり、字を書かせたり、和音を弾かせた り。彼を慰めるために訪問する者は後を絶たず、友人のジャック・ド・ゾゲップは毎日「雨が降ろうが、風が吹こうが、雪が降ろうが」夕方になるとラヴェルの 家へ行きました。ベルを鳴らすとラヴェルは門のところまで飛んで来て、不自由になった手でかんぬきを開けようとさんざん苦闘して、無事に迎え入れられると 目から大きな好意がこぼれ落ちたといいます。(2)

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 ラヴェルは生涯独身でした。音楽家は誰でもゲイだと考えられがちですが、ゲイも当たり前だと思うと同時に彼がそうだとは思いません。(3) まわりの証言によると、強度の不眠症だったラヴェルは夜な夜な遊んでいたようです。深夜に友人と会いたがり、断られると悲しそうに帰ったとか、まるでグレン・グールドが真夜中に電話してくるような話です。(4) 大勢のとりまきの中にあっても、こういう人は自分が作り上げた孤独に追い詰められているのです。作り上げる?  どうやって。モンフォール=ラモリーの彼の自宅には贋物ばかり山ほど蒐集した応接間があったそうです。細々とした日本の骨董品やルノワールの絵まで様々 だったようですが、今で言えば中国製のローレックスを集めるようなものでしょうか。それで誰かが素晴らしいと褒めると大喜び。
「ところがね、これ、にせ物なんですよ」
 それから、だらしない恰好は絶対に嫌で、一人のときでも家ではスーツを着て絹の胸ハンカチに合ったネクタイを締め、壁際に寄せたテーブルに壁に向かって 鼻をくっつけそうなほど近づいて食事をしていたのだそうです。いつも最新流行のモードに身を包み、自らの感情は決して口にしません。皮肉の名人であり、そ のいかにも彼らしい語録はあちこちで紹介されていますから割愛しますが、非常に紳士的に、慎重に言い回された、相手への配慮なのか攻撃なのかわからなくな るような巧妙な表現で、ウィットに富みながらも頑として拒否するのです。多くの人が真意を計りかね、近づけなかったといいます。彼を愛していたエレーヌ・ ジョルダン・モランジュならそういう態度ですらラヴェルの謙遜なのであって、彼一流のやさしさの現れだと言ったでしょうが、彼女は皮肉屋の奥底の輝きをあ りのままに見てあげていたと言える一方で、周囲の人たちは別の意見だったに違いありません。思うに、決して人を容れない、心のドアを開けない何かがあるの です。

 一般的に言えば怖れでしょう。つまり本当の自分は受け入れられないという観念をどこかに持っているのです。具体的にはどこに関係するのか。自分でそれに 気づくことが私たちにはときどき大変困難です。原理的には鍵を外せるはずですが、その怖れに多重ロックがかかっているように思えるのは、無意識という便利 な蓋付き箱に押し込んでいるからなのです。本人が押し込んでいる以上誰も蓋を開けてくれません。本人がそれを忘れている以上誰も思い出してくれません。自 分のことのように胸が痛みます。

 そんな孤独感が漂うのが彼が紡ぎ出すメロディーです。ラヴェルの音楽にはいくつもの彼らしい特徴があります。そのうちの技術的なものを解説しようすれ ば、彼ほど緻密な技法を身につけた「時計職人」の場合は作曲家なみの知識がないと無理でしょう。しかし心の表れに関することはすぐに思い浮かびます。情熱 の中断や逸ら
し、うっとりさせられた人を冷笑するフレーズ、期待される展開をあえて外す戯れといった、彼の生活態度とも一致する皮肉な一面は、ある程度音楽の構造が分 かればそれと認められるかもしれません。この一面は皮肉というものが心理的に何を目指しているかを考えればいっそう興味深いものです。ラヴェルの置かれた 状況には、一度ついた嘘がそれを本物に見せるためにさらなる嘘を必要とするような複雑な隠蔽構造が見え隠れします。しかし今はそれとも関連した、孤独感のことについて触れたいのです。

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 簡単にするために二点に絞ります。ラヴェルの楽曲に表れる心理的特徴、その中でも特に魅力な二つのうちの一つは、このうえなく美しい、感情に訴えて くる静かなメロディーです。暗い部屋の中から五月の窓の外を見るように、丘の上から輝く遠い街を眺めるように、それは美しいのに満たされていません。理解 されることと愛されることを遠い未来の手の届かないところに置き、いつも憧れていて「ここ」にいない人の歌です。そして、それが自我の過ちから来るものにせよ、また何という魅惑でしょう。
 ト長調のピアノ協奏曲の 第二楽章の、あのピアノの定型的な伴奏が霧のようなトレモロに変わり、突如としてフルートが哀しくも希望と諦めに彩られた風を呼び込むところ、それがオーボエに受け渡され、クラリネットに引き継がれるところのあの締めつけられるような美しさはどうでしょうか。「二 小節ずつ、それはもう死ぬような思いをして書いた」んですって? それはあなたの気の毒な脳の病気のことでしょうけど、中身の話をしているのですよ、とご 本人に言いたいです。クープランの墓のおどけたようなフォルラーヌに顔を出す正直な展開部と、あの澄んだ水の中のようなメヌエットに抵抗できるでしょう か。

 ラヴェルは音楽の中でだけ心情を吐露できたのでしょう。ドビュッシーにも「月の光」や「小組曲」、「夢」といった大変美しいメロディーがあります。しか しその双子の兄弟とは少し色合いが違います。哲学者のジャンケレヴィッチのよう に、長7度に対しての平行7度、平行9度、増5度の好みの違いだ、などと言うことはできませんが、こうした叙情的な旋律のなかで、ラヴェルは人恋しげに訴 えています。「絡まってしまった糸をほぐすのを手伝ってほしい」と。何もないふりをしてみせていた彼の日常の言葉に騙されてはいけません。マジックミラー のように音楽の側からは透けて見えるものを、それとも彼は隠したつもりなのでしょうか。たとえどんなに隠す人でも、どこかに救難サインは出すものです。

 二つあるラヴェルの心理的特徴の、これが一つだと言いました。しかし見かけの二面性は内部で一つに結ばれています。ラヴェルの心の声に関するもう一つの特徴は、そのように言われることがあるように、「カタストロフィー」ではないでしょうか。 怒りの爆発のような感情的激発のことです。辞書によるとカタストロフィーとは、突然の大変動とか破局、悲劇の大詰め、などとありますが、これについては ジャンケレヴィッチが「狼の怒り」と呼んで有名になりました。ゴダール映画の前口上のように、フランスの知識人らしい、抽象句の言い換えを多発する難解な本でしたが (5) 、そのカタストロフィとはこの論者によると「諧謔家の野性味のいかにも独特な奥底を剥き出しにすること」であり、「だしぬけの激しさ、狼のようにいきなり現れる怒り」なのです。

 有名な「ボレロ」で は、ずっと同じ旋律が繰り返し様々な楽器に引き継がれながら延々と続いて行き、最後に転調とともに下降旋律に変わって崩れ落ちます。この破局というか、大 詰めの狂気を聞いてラヴェルに取り憑かれる人はけっこういると思います。私もそうでした。それがラヴェルのカタストロフィーです。この爆発はいったい何を 語っているのでしょうか。同じような例は他にいくつもあるのです。「ラ・ヴァルス」と対比して反対のように描写する意見もありますが、たとえばピアノ曲で ある「優雅で感傷的なワルツ」(1911) にすらその小さな萌芽はみられないでしょうか。

 ボレロとよく比較されるオーケストラ曲の「ラ・ヴァルス」(ザ・ ワルツ)では、1855年頃の皇帝の宮廷の、華やかな舞踏会の会場が描かれています。「私はこの曲をウィンナ・ワル ツの大詰めのようなものとして頭に描いた。それは私の頭の中で、幻想的で宿命的な、渦巻く水流の印象と混じり合っている」とラヴェル自身が語っています。 着飾った男女が初め優雅にとりすまして踊っていますが、徐々にワルツのリズムがうねり、何度も旋回の興奮を繰り返しながら最後には狂ったような金管の咆哮 をともない、なんとも破壊的な結末を迎えます。

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「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」に も同じような破壊的な音が聞こえます。この曲には本来ヴァイオリン・ソナタが持っているべき二つの楽器のハーモニーという大前提をあえて崩すような計略が あります。「(ヴァイオリンとピアノという)二つは互いに相容れない楽器であるが、ここでは、その均衡をとるどころか、不両立性そのものを強調しているの である」と作曲者自身が語っています。いつものラヴェルの皮肉が顔を出しているともとれますが、第三楽章の始まりなど特に、ピアノとヴァイオリンが同時に 和音を奏でるのではなく、交互にお互いを模倣したまま追いかけっこをして混じり合いません。うろ覚えで言ってはいけません が、評論家の吉田秀和氏が昔、フォーレは優しいけどラヴェルはこういうところが冷たくて嫌いだ、というようなことをどこかに書いておられました。お金につ られて気に入らない演奏家を褒めたりはしない見識を持った人ですから、本当に不愉快だったに違いありません。誰しも好みというものはありますが、そのとき 私はこの音楽評論家がラヴェルの心を理解したくないのだなと思い、なんだか自分が嫌われたように感じたものです。しかし自分の中にないものには反発すらで きません。吉田氏は敏感な人だったがゆえに、案外ラヴェルの苦境が見え過ぎてつらかったのかもしれません。冷たい皮肉な態度は痛みを隠しています。そして この問題に向き合うには心の安定が必要です。安易に近づけばこちらが傷つくのです。このときの吉田秀和氏と同じで、今の自分もときにラヴェルを聞くことが ちょっとしんどいと感じるときがあります。

 そしてヴァイオリン・ソナタは皮肉な仮面をつけたままどんどんと緊張を強め、蜂の羽のようなせわしない音を立てながら興奮を高めて、やはり破裂するように終わります。さらに加えるならば、「左手のためのピアノ協奏曲」のフィナーレも全く同じカタストロフィの性質を持っています。

 狼の怒り、ラヴェル的カタストロフィ、呼び名は色々とあります。狂ったような興奮の高まりとその後の破壊 ----これは衝動が描く軌跡ではないでしょうか。緊張を解消しようとする無意識の試みなのであって、ガス抜きによって自らが狂わないようにする防衛装置 なのです。そしてカタストロフィはカタルシスでもあります。カタルシスというのはアリストテレスが言ったのだそうですが、悲劇による感情浄化のことです。 ラヴェルのこのカタトニック(緊張病的)な痙攣は、美しくも孤独なメロディーと根でつながっています。受け入れられないことへの怖れと悲しみは、ときに怒 りに姿を変えて蓄積され、狼となって解放されるチャンスを窺っていたのです。

 衝動の爆発と緊張の解放、このとらえ方は私の発明ではありません。しかし人を裁けば裁かれます。それは自分が裁く相手と同じ水準の現実を生きることにな るということでしょう。自分の感情を極端に隠したラヴェルの若き日々と晩年の苦しみとの間にさも関係があるかのように仄めかしている私は裁いているのかも しれません。ラヴェルの音楽に惹きつけられる人は多数派ではないにせよ、大勢います。私もその一人として、彼の音楽によって喚起された自 分の問題を次の段階へと進めたいと思います。しかし、このように音楽を心理分析へと還元することの不毛も分かります。人のありのままを表すのが芸術であ り、傷ついた様も普遍的な姿でしょう。では、傷のありのままを認められるでしょうか。できると思います。それが音楽の素晴らしいところで、苦しみの表現は 解放のためのツールでもあります。ただ、作曲者の心になって入り込むのはつらいときもあります。少し距離をとって自分のなかにある怖れを認めるとき、自由 がやって来るかもしれません。複雑な魅力のあるラヴェルの音楽、楽しみましょう。
 
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ラヴェルのピアノ曲
「クープランの墓」 (Le tombeau de Couperin) の「墓」は Le tombeau の直訳で、この表現は「偉大な個人の栄光に捧げた文学」という意味を持っているのだそうです。したがって意訳は「故クープランをたたえて」ともなります。 ラヴェルは第一次大戦が勃発したとき、友人たちが「芸術家はその才能を活かすことで国に奉仕すればいいのだ」と説 得するなか、自ら志願して兵役に就きました。しかし面白いことに航空隊からは拒否され、トラック運転手になったものの二度も体を壊して前線には赴かず、そ うこうしているうちに除隊になりました。そして死んで行った戦友たちの思い出としてこの曲を作曲することになったのです。各楽章は一人ずつ戦友に捧げられ ています。母の死の痛手から逃れるように曲作りに専念し始めた頃の作品ですから、「戦友たち」は口実に過ぎないだろうという発言も聞かれますが、作曲意図 がどうであれ、この曲集ではラヴェルの孤独に満ちた美しいメロディーを聞くことができます。

「クープランの墓」に限らず、ラヴェルのピアノ曲は彼の作品群のなかでも魅力のあるものです。「ソナティヌ」(ソナチネ)の 二曲目のメヌエットなどはゆっくり弾き過ぎてはいけない曲ですが、先日レストランで食事をした際、音大生をアルバイ トで雇っているのか、生演奏をしてくれている中に小田和正の曲と並んでこの曲も入っていて、なかなか抑制の効いたきれいな演奏で楽しめました。他にも、「亡き王女のためのパヴァーヌ」などはあちこちでBGMのように取りあげられる美しいメロディです。



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     Maurice Ravel   L'oevre de piano    Jacques Rouvier (pf)

ラヴェル・ピアノ曲集ジャック・ルヴィエ(ピアノ)
 カリオペから出ているジャック・ルヴィエ盤はラヴェル演奏のひとつの基準だろうと思います。この人は、その演奏だけでなく容姿と狼研究でも世間を騒がせ ているエレーヌ・グリモーの師でもあり、フランスのピアノ界で はすでに重鎮となっているようです。ラヴェルに直接習ったヴラド・ペルルミュテールにも教えを受けていますので、作曲家本人の弾き方への見解も踏まえてい ると思います。たとえばショパン演奏のように極端なテンポ・ルバートを用いたりしないところなどです。叙情的なパートでもセンチメンタルに弾かない節度を 持っているのも素晴らしいところで、それもロマンティック過ぎる表現を嫌がっていたラヴェルにふさわしいと思います。「おや、そんなところにフェルマータ がついていますか?」と言われなくて済みます。こういう部分は直弟子の演奏と比較してみるのもいいかもしれません(ペルルミュテールの演奏についてはここ では触れていませんので、確認してみてください)。また、分析的にならずに音譜の構成を分解的に見せてくれるような音のずらしとテンポ設定など、この人独 特のセンスが光ります。不自然だったりわざとらしく聞こえるような表現は感じられません。

 具体的な弾き方ですが、前述の通り、親しみやすいメロディーが聞かれる曲においてのテンポはさらっとした軽快なもので、次のポール・クロスリーが亡き王女のパヴァーヌなどで一部やや遅らせるような表 現を加えるところがあったりするのと違い、全体に速めに統一されています。それでもただ楽譜通り無表情にやっているのではなくて、この作曲家の複雑な心の 動きを感じさせるような微細な揺れがあります。クープランを讃えてなど、絶品 です。デモニッシュな曲でも力まかせにせず、効果を考えてよく練っており、十分に迫力もあります。この後ラヴェル弾きとして何人もの演奏者が出ましたが、共に魅力的なクロスリー盤を除いて、このルヴィエの感覚と見識を超えるのは難しかったように感じます。

 1975年に ADF ディスク大賞を取っています。カリオペの録音はしっとりとしていてあまりきらびやかさはないですが、潤いと深みを持った好録音だと思います。使用 しているピアノはおそらくスタインウェイなのでしょうが、ちょっとベヒシュタインか何かのように独特の艶を持った音にとれていて、水晶の玉を連ねたみたいな、他にはない味わいがあります。


    
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     Ravel Complete Works for Solo Piano   Paul Crossley (pf)

ラヴェル・ピアノ曲集 / ポー ル・クロスリー(ピアノ)
 同じくラヴェルのピアノ曲集です。ルヴィエと同様、この二枚組でラヴェルのほとんどのピアノ作品が聞けます。この人のコンサートに行きましたが、日本の 気候が合わなかったのか運悪く体調を崩しており、頭痛がひどいと言って三分の二ほどのメニューをこなしたところで休憩してしまい、そのまま打ち切りになっ てしまいました。後から主催者を通じて謝りの手紙のコピーが送られてきましたが、そんな調子の悪さにもかかわらず、スタインウェイの音色の変化は大きく、 途中までは素晴らしい演奏でした。イギリスの人ですがラヴェルは得意とするレパートリーらしく、この日は通好みな オール・ラヴェルのプログラムでした。CDも手に入れてみましたが、ルヴィエ以外のフランス勢があまり好みでなかった中、この人の演奏には惹かれるものが あります。ルヴィエ盤と甲乙つけ難い素晴らしい演奏です。経 歴を見ると現代ものを得意とする人のようで、ブックレットにはラヴェルの楽曲に対する大変学問的な解説が本人の言葉で述べられています。その中でこの作曲 家は二元性を持っており、陰と陽の楽曲を意図的に二つずつ組にして作曲してきたのではないかという説も披露しており、その是非はわかりませんが、ラヴェル の中にある二面性、人恋しいメロディーといわゆる「狼の怒り」について言い当てているようにも思います。

 クロスリーの表現上の特徴に触れるなら、この次に紹介するモニク・アースやラヴェル弾きの一人としても認められているサンソン・フランソワ同様、テンポ の揺らしがあります。ルヴィエよりそこはややはっきりとしています。それは拍を遅らせ、ときにそれを埋め合わせるようにフレーズを速めるものですが、同じ 小節内での狭義のテンポ・ルバートというよりも、もっと楽節全体に行き渡った伸び縮みの表現で、アースのように遅らせるところが目立つだけではなく、不安 定に駆けるような表現もあります。そしてそれは絶妙のセンスで、イギリス人のピアニストなのになんだかフランス人よりもフランス流儀のようでもあり、ぶっ きらぼうに弾いてほしいなどと言っていたラヴェルではあるものの、その揺れがいかにも壊れもののようなこの作曲家らしいと納得させられてしまいます。しか も全体としてはルヴィエ同様節度を保っており、一曲ずつ相応しい弾き方を調べている様子も窺えます。その上に左手の隠された旋律を突如として浮き上がらせたり、楽曲構造の新たな発見をさせてくれるような独特の運びも加わり、感覚の喜びに従いながらも大変知的なアプローチだと思います。

 録音は1996年ロンドン、アビーロード・スタジオとなっていますがレーベルは EMI ではなく、ソニーです。クロスリーは80年代にも別レーベルにラヴェルを録音していますから、二度目の全集ということになります。そしてこれは日本の企画 なのでしょうか、輸入盤というのはどうもなさそうで、海外のサイトでも国内盤と同じ番号のものが売られています。もしそうなら良い企画をしてくれたものだ と思います。プロデューサーはデビッド・モトレイ、エンジニアはジョナサン・ アレンとなっています。スタインウェイらしい冷たい輝きを見せる優れた録音です。



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       Maurice Ravel   L'oevre de piano    Monique Haas (pf)

ラヴェル・ピアノ曲集 / モニク・アース(ピアノ)
  1909年パリ生まれのモニク・アース。素晴らしいセンスを持った女性ピアニストです。ドビュッシーに関してはこの人がいいと思って以来、他の誰を聞いて も納得しないのです。微妙な揺れと崩しを加えながらもそこはパリジェンヌ、あざとくならない手前で踏みとどまって、とにかく美しい。それでもラヴェルに関 しては個人的な思い入れがあるせいか、長らく十分な評価をしてきませんでした。しかし今あらためて聞いてみると、これはこれで大変いいです。元々ラヴェル については作曲家本人も言っているとおり、ゆっくりで美しいメロディーの曲など、(例えば亡き王女のパヴァーヌとかピアノ協奏曲の第二楽章とかが分かりや すいですが、)思い入れたっぷりに弾いてほしくないわけです。誘惑があるのはわかるのですが、抑制気味にして知らん顔でさらっと行きながら、そこはかとな い叙情性がにじみ出てくる、そういう風にやってもらいたい。それでアースは綺麗過ぎると思ってたわけです。そうした歌うような楽節ではテンポはややゆった りめだし、全体に粋な崩しがあるけど拍を遅らせる方向が目立ち、落ち着いた印象です。人として付き合うならこういう人の方が成熟していて安心できそうです が、助けを求めていながらそれを隠しているラヴェル、という感じにはなりません。ただ、それもひとつのこだわりに過ぎないのであって、曲として魅力的に弾 けていれば認めてもいいような気が最近になって少ししてきました。作曲者がどう要求しようと、色々な表現があっていいでしょう。そうなると、このアースの 演奏、ドビュッシーで感じた美しさをそのままラヴェルにも発揮していることが分かります。いい演奏家です。

 1968年エラートの録音ですが、古いので音が心配ということはありません。昔ドビュッシーの LP を買ったとき、その録音の良さを生かすためにわざわざ真空管式のハイパワーのカッティングマシン(アンプ)でやったというようなことが書いてあった記憶が あります。アンペックスだったかノイマンだったか忘れましたが、ガルサンの時代のエラートなわけで、元がいい音だったのです。若干ヒスノイズが混じってい るなと感じるところもありましたが、最近になってのリマスターではそれもすっかり除かれ、最新録音と比べても不満がないぐらいになっています。芯は感じら れながらもふくよかで、やわらかい響きの中にわずかに艶の出る音です。
 ここで取り上げたジャケットはアースのドビュッシーとラヴェルが全部入ったもので、最近は安い価格でこうしてすべて揃ってしまうのですから、特にこだわりがなければこれだけ買っておけばよい気もします。



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       Maurice Ravel   L'oevre de piano    Alexandre Tharaud (pf)

ラヴェル・ピアノ曲集 / アレクサンドル・タロー(ピアノ)
  ジャック・ルヴィエ以降、巷では色々話題をさらったものもあったものの、フランス人のラヴェルでいいと思ったものはあまりありませんでした。でもルヴィエ は1975年の録音ですから、新しい才能がいっぱい花開いているなかで、ただ自分は面白い人を知らないだけなのかも、と思ってきました。そして今やっと、 これはちょっといいなと思うものに出会いました。1968年生まれのアレクサ ンドル・タローの演奏。この人はバッハでは静かでインティメートな歌を聞かせ、ショパンでは一転して驚くような 迫力と鮮烈さでその激情を見せてくれました。振り幅の大きい人は役ごとに人格を変える俳優と同様、天性のものがあるのだと思いま す。そしてラヴェルがまたそのどちらとも少し違っているようです。

 余分なものを削ぎ落としてすっきりとした、ダイナミズムと洗練の合わさった演奏です。バッハでは、ゴールドベルクにしても(「シフという個性/ゴールドベルク変奏曲 CD 聞き比べ」)イタリア協奏曲集にしても(「ア ンデルシェフスキとバッケッティ」)、スローなパートではささやき声で息を呑むような抑揚を見せて おり、テンポもゆったりで叙情的だと紹介しましたが、ラ ヴェルではそういう表現は控えているようです。作曲家自身が思い入れたっぷりの表現を嫌っていたことを知ってい るのか、その方が曲に相応しいと思ったのかはわかりませんが、見識だと思います。ソナティヌやクープランを讃え てのムニュエでも、亡き王女のパヴァーヌでもそうです。軽快なテンポに微妙な揺 れを加え、デリケートな味わいがあります。
  そして変な抑揚が付かないところもいいです。例えばサンソン・フランソワは フランス音楽という意味でラヴェルについても評価が高く、確かに個性的でいいと思いますが、私にとってはショパ ンでは最高でもラヴェルではやや違和感を覚えました。そしてあそこまでではなくても、多くのラヴェル弾きたちが その個性的な抑揚の付け方から敬遠したくなることがありました。フランソワは堂に入ったもので名人芸ですが、他 と違いを出そうというのか恣意的に感じられる人もいて、そこで突然その遅らせは何で? みたいなことはよくあっ たわけです。フランソワと同郷のタローでは省略と飾りの配分に少し だけ意外さが加わり、いかにもフランスらしくてセンスがありますが、大きくは崩さず抑制され ています。
 ただ、ラヴェルがときに表す切々とした孤独感のヴェールには包まれません。さらっとした クープランを讃えてのムニュエなどでそんな風に感じました。ラヴェルの曲 の中にそうした情感があるように感じるのは主観的な問題かもしれませんし、もとより孤独感といった否定的感情は 自我の構えから発するもので、高いスピリチュアリティではないので疲れるわけです。私もバッハやモーツァルトに それは望みません。その意味ではタローはより純粋だと言えるでしょう。

 ではボルテージの高いフォルテや速いパートではどうでしょうか。これはもう、ルヴィエに目の覚めるダイナミズ ムと切れ味が加わったと言ってもいいのかもしれません。揺らしについてもより早める方へとシフトしている気がし ます。タメの美ではなく、ちょっとストレートで、もつれることなく鮮やかに弾き切ります。ショパンで見せた切れ の良さのうち、深刻な部分が抜けたような味わいです。したがって、別の側から言うならば、デモニッシュな暗い情 念のような部分が表されない分、ジャンケレビッチの言う「狼の怒り」はやや鎮められた形になります。ラ・ヴァル スほどではないものの、優雅で感傷的なワルツにも抑えがたいクレッシェンドがありますが、どこか狂気じみたその危 うさは表現されません。好みも含めて言えば、私にはルヴィエの、あるいはクロスリーの方に、より私 の思うラヴェルの姿が表現されているような気もします。タローはもっとニュートラルで完成度が高い、現代のスタ ンダードという気がします。

 この全集には1904年の作、メヌエット嬰ハ短調が含まれています。この曲、知らなかったのですが、最近に なって図書館で自筆符が見つかってラヴェルのものだと認定されたものだそうで、出版は2000年代になってから のようです。短い曲ですが魅力的です。世界初録音という話もあるそうですが、本当でしょうか。ちょっと珍しい 「パレード」と「グロテスクなセレナード」も入っていますが、「その他」のところで後で触れるように、それらは すでに CD で出ていました。
 レーベルはハルモニア・ムンディ・フランスで、2002年の録音です。

 

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       Maurice Ravel   Complete Works for Solo Piano   Bertrand Chamayou (pf)

ラヴェル・ピアノ曲全集 / ベルトラン・シャマユ(ピアノ)
 ラヴェルのピアノ曲のピアニストとして最初にルヴィエをご紹介し、今でもその演奏がいいなと思っていると上で書きましたが、ペルルミュテールやカサド シュといった大御所ではなく、彼以降にもラヴェル弾きとしての評価を得たかに思われる人たちは出ました。代表的なのはパスカル・ロジェやルイ・ロルティか もしれませんが、彼らはそれぞれ個性豊かに自らの表現を模索していたかに思えます。崩し方、強弱をつける位置と強さなど、表現に色があるわけです。大変優 れた演奏家だと思いますが、こういう色は純粋に好みですから、ここでは取り上げ切れていませんでした。高く評価される方の言葉を待ちたいと思います。そし て今、また新たにラヴェル弾きの地位を獲得するかと思われる人が出てきました。1981年トゥールーズ生まれのベルトラン・シャマユです。自らもラヴェル が得意だという趣旨の発言をしているようです。

 ラヴェルと同時代の評論家、エミール・ヴュイエルモーズの「ドビュッシーを演奏するには多くの方法がある。ラヴェルのものにはただひとつの方法しかな い」の言葉に共感し、それを恣意的な表情を避け、過度な思い入れを排してさらっと流れるように正確に弾くことこそがラヴェルに相応しいのだと解釈してきま した。作曲家本人がそう発言してきたということもあり、楽譜の通りに真っ直ぐ弾いてほしいとすら思っていた時期もありました。そして今、このシャマユに よってその望みは叶えられました。ゆっくりのパートはややゆったり方向だったりもしますが、何の誇張もない。何の色も足さない。しかも欠けるところがあり ません。歌わせ過ぎず、そっけなさ過ぎず、崩し過ぎません。そつなく、意外なアクセントがなく、難しいところも楽々と進んで行きます。ロジェの崩しもロル ティの強いアタックも聞かれないのです。技術によってピアニストを見ることはしませんが、よほど技術がなければこういう風には弾けないでしょう。そしてい ざ、理念によって理想と思ってきた弾き方と現実に出会うと、現実と自我の関係とは常にそういうものながら、握手の手を引っ込められたようなちょっと意外な 感覚を味わいました。ルヴィエもクロスリーも色があったのです。そして案外、自分はそうした色を楽しんでいたようです。シャマユはパーフェクトです。蒸留 水という例えは飲んで美味しくないので良くないとしても、軟水に寄った山のおいしい湧き水のような演奏です。丁寧に、完全に楽譜を音にして行くという意味 で、ラヴェルの曲そのものの構成を知りたいときの資料にもなることでしょう。だめ押ししておきますが、素晴らしい演奏です。そして、こういうのを新しい世 代の演奏だと言うのは安易な気もしますが、次にご紹介するグッドイヤーにもちょっと似た印象を持ちました。グッドイヤーの方がもう少しダイナミックでキレ があるかもしれませんが。ヴァイオリンで言えば、ジェイムズ・エーネスにも同じ波長を感じました。ラヴェルを振って出て来たフレンチ・カナディアンの新 星、指揮者のヤニク・ネゼ=セガンにも少しそんなクリーンな指向性があるでしょうか。皆若いこともあるかもしれませんが、クラシックの演奏文化はどこに向 かっているのでしょう。それともフランス/カナダ文化の最近の傾向でしょうか。潮流というものよりも、個性のばらつきの方が大きいことを期待している自分 がいるのも事実です。
 ワーナー傘下で復活したエラート・レーベルで2015年の録音です。



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       Maurice Ravel   L'oevre de piano   Stewart Goodyear (pf)

ラヴェル・ピアノ曲集 / スチュワート・グッドイヤー(ピアノ)
  タイヤメーカーみたいですが、1978年生まれのア フリカン・カナディアンのピアニストで、米国で高い評価を受けている人のようです。アフリカ系というのは 珍しい気がします。アンドレ・ワッツのガーシュウィンのピアノ曲集が好きだったのを思い出すぐらいです。ただ、それまで活躍が認 められて来なかった分野でも、最近は有名になってくる人が多くなっているようで、F1のハミルトンが圧倒的な才能で登場してきたときも驚きました。いいこ とだと思います。でもジャズを除けば、アフリカ系のクラシカル・ピアニストが世に出難い差別的な環境は長らくあったわけです。60年代に活躍したドン・ シャーリーという人は正統派の演奏はあきらめ、モダン・ジャズとは違うけど、多少ジャジーでポップなオリジナル曲のパフォーマンスによって生き残る道を見 つけました。そういう性質の演奏になってしまう血の問題、ではありません。彼のラヴェルのピアノ協奏曲を聞くと、アレンジされたところ以外でのその洗練さ れた情感の表し方に、アフリカン・ビートなどと呼ばせるような傾向は全くありません。付き合ってみても分 かると思うのですが、人種に気質の違いなんてないわけです。 究極的には黒人も文化の檻もなく、ただ、無意識である度合いに応じて個々の帰属集団が傷として溜め込んで来た心の霧の影響を受けるに過ぎないのでしょう。 前置きとしてその点はまず押さえておきたいと思います。その上で、個々に見たときにアフリカンな演奏の要素があるかどうか、という話になります。

 グッドイヤー、この人はベートーヴェンの全集も出していて、伝統的なパトスがどうこうという線を超えたダイナミックな運動のような、ちょっと新しい感覚を見せてくれたように思います。現代的で切れ味のいいリズムが楽々という感じで印象的でした。一方で静かなパートで皆が情感を込めて来るようなところにさしかかる と、葛藤のような感覚がきれいに抜けて真っ直ぐなのが不思議でした。え、そうやっちゃうの、というあっけらかんとした感じだと言うと、ちょっと否定的に響くでしょ うか。そしてそういうところは必ずしも好みとは言えませんでしたが、このラヴェルはむしろ自分としては驚きながら、面白いと思いました。もちろんルヴィエ に感じるようなラヴェルらしさという意味では評価しずらいです。でも純粋なピアニズムというか、ピアニスティックなあり方としてこれもありかな、と。楽 譜のポテンシャルを発揮していると思います。

 選集であって全集ではありません。そしてそこで夜のガスパールや鏡といった曲を選んでいるところから、どちらかというと技巧派なのかなと思います。しか しその道で有名な人の夜のガスパールのように、消え入るピアニシモの後で、チャイコフスキーの有名なびっくり技のような突然の一撃でめまぐるし い全指の台風がやって来るようなことはありません。技術は高いのでしょうけど、テクニックを見せつけたり、劇物のようだったりという自我は感じないので す。 そんなに構えなくてもやすやすと弾けてしまうのか、技巧派という看板すら必要ないようです。感じたのは、やはりリズム に対する感覚が鋭敏だということです。ベートーヴェン同様速いパートではタメや揺らしはなく、間を詰めて畳みかけたり、さらさらっと弾き切ったりします。アフリカ系だから驚異の身体能力だとかリズムがいいとか言うつもりはないのですが。一 方で歌のある部分では、ラヴェルにおいてはあまり大きな崩しを入れないで繊細な抑揚を加えてほしいところですが、この人はもっと表現に意欲的です。テンポ も遅めにとって、遅らせることで強調するところもあるのです。そこにフランス流儀の揺らしはないものの、違和感もありません。それでい て、ソナティヌのムニュエでは節度のある歌が聞かれますし、パヴァーヌでも歌わせ過ぎません。
 レーベルはオーキッド・クラシクス、2016年の録音です。



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       Ravel The Orchestral Works
       Pierre Boulez   New York Philharmonic / Cleaveland Orchestra

ラヴェル / オーケストラ作品集
ピエール・ ブーレーズ / クリーヴランド管弦楽団 / ニューヨーク・フィルハーモニック
 こちらは「クープランの墓」が入ったオーケストラ作品集です。ラヴェルのオーケストラ作品の主だったところがこの 三枚で聞けます。クープランの墓はラヴェル自身がオーケストラ化しています。この曲の魅力を教えてくれた録音で、出だしのオーボエから引きつけられますが、メヌエットなど絶品です。ニューヨーク・フィルは管楽器のスター・プレイ ヤーが揃った楽団で、歌心のある演奏です。
 ラヴェルの管弦楽における作曲技法の見事さは「オーケストラの魔術師」と言われる通りで、細 部まで神経の行き届いたものです。そして現代音楽の作曲家でもあるブーレーズのこの演奏は均整のとれた素晴らしい仕上がりです。70年代のアナログ録音で すが、SACDも出るほど良い音です。ずっとこれで満足してきましたので、今のところ他に思いつくラヴェルの管弦楽曲のCDといえば、全集にはならないもののサイモン・ラトルの盤ぐらいでしょうか。


「クープランの墓」というタイトルでピアノ曲から始めたわけですが、以下にそれ以外のジャンルからラヴェルのCDで良かったものをいくつか取り上げてみたいと思います。


 
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       Ravel  Sheherazade   Ma Mere l'Oye   Simon Rattle  
       City of Birmingham Symphony Orchestra 

シェエラザード / マ・メール・ロア
サイモン・ラトル / バーミンガム市交響楽団
 91年にミシガン大学のあるアナーバーという町のCD屋さんで、たまたま店内に流れていたのでその場で買いました。この中でも「マ・メール・ロア」の 一番最後の曲である「妖精の庭」のヴァイオリン・ソロの、なんときれいなことでしょう。この曲にこんな部分があったなんて、それまで意識したことがありま せんでした。この管楽器に重なったマライア・キャリー(当時の流行でした)のソプラノのような張りのある最高音域のヴァイオリンの音を聞いたとき、店員さ んに思わず誰の演奏か尋ねずにはいられませんでした。ラヴェルの オーケストラ曲といえばブーレーズのものがお気に入りでしたが、そこに新たな定番が加わりました。それまで情報に疎い私はサイモン・ラトルという人を知り ませんでしたが、自分の好きなラヴェルでこんなに細部まで徹底して手の届いた演奏をされたのでは注目しないわけには行きません。「ラ・ヴァルス」も完ぺきな演奏です。ラトルはラヴェルの全集は出していませんが、この他には「ダフニスとクロエ」と 「ボレロ」の入ったものが出ています(下記)。その後あんな勢いで頂点まで昇りつめるとは、驚きました。


ボレロ
 ボレロという曲はご存知のとおり、最後の最後まで同じ旋律を何度も繰り返して行くという、極めて稀な曲です。最初 はバレリーナのイダ・ルビンシュテイン夫人がアルベニスの「イベリア」を編曲するようにラヴェルに頼んでいたのです が、すでにスペインの作曲家アルボスによって編曲がされていて出版社が版権を持っていることを知ったラヴェルが新た な曲として作ったものです。彼は「このテーマには強烈なものがあると思いませんか? 私はこれを全然展開せずに何度 も繰り返そうと思っています。オーケストラを精一杯大きくして行きながらね」とピアノで弾きながら言ったそうです。 出来上がった作品では実際に二小節のリズムを169 回繰り返しています。ラヴェルもさすがにこの繰り返しには聴衆もついてこれないだろうと考えたようで、これがバレエとして踊られるから舞台装置や照明の変 化も加わって我慢してもらえるだろうものの、「日曜コンサートではやらないだろう!」と言っていました。しかし実際 はバレエの方が不評で、コンサートが成功したのでした。地下鉄の中でもビアホールでも口笛で吹かれてそのメロディー は広まって行きました。しかし初演の日にはある老婦人が座席にかじりついて、「気違い! 気違い! 気違い!」とわ めき立てた場面もあったようで、それを聞いたラヴェルは、「その人だ、その人にはわかったんだ!」と言ったそうです。



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       Ravel 'Daphnis et Chloe'  Bolero   Simon Rattle   City of Birmingham Symphony Orchestra

ボレロラヴェル / 管弦楽曲集
サイモン・ラトル / バーミンガム市交響楽団


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       French & Russian Music CD3   Sergiu Celibidache   Munchner Philharmoniker

ボレロ 〜ラヴェル / 管弦楽曲集
セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

 同じ旋律を繰り返すといっても毎度楽器が変わり、その組合せが変わりで、音色には変化があります。太鼓と管楽器の 小さな音で始まった後、最初の大きな変化は弦楽器群の登場です。そして最後の転調後には全金管楽器が張り裂けるので すが、そこまでの間徐々に大きなクレッシェンドを形成して行きます。----曲全体がひとつのクレッシェンドだなん て、あり得るでしょうか!----そしてただひたすらにフィナーレを目指して進んで行くのですが、最後の崩落へ向け て興奮が徐々に高まって行くという曲の構成からか、ほとんどすべての演奏がテンポを途中から速くして行きます。人間 興奮すればアドレナリも分泌され、敵から走って逃げる準備をするわけですから動きも速くなるのです。それが自然とい うものですが、そこをあえてメトロノームのようにテンポを変えずにクレッシェンドして行くとどうなるでしょうか。そ う、不気味な迫力が出てきます。ちょっと自慢話調ですが、それこそがラヴェルの狙ったものではないかと思っていたと ころ、作曲者自身がいかなるアッチェレランド(だんだん速くするすること)も許さないと発言していたことを知りまし た。しかも遅いテンポを望んでいたようで、トスカニーニが速いテンポで演奏したときに慇懃に注意したというのも有名 な話です。もちろん指揮棒を折るほどの癇癪持ちのマエストロが素直に従ったわけはありません。ラヴェル自身は指揮をする際、普段はよくテンポがよろめいていたにもかかわらず、このときばかりはきっちりとやったようです。皮 肉で自分の心を隠す彼のことですから、遅く一定にすると心の叫びが表せるからだとは言わなかったのですが。

 しかし、終わりに向けてスピードアップしない演奏はと言えば、これがブーレーズの盤と、前記のサイモン・ラトルと、チェリビダッケぐらいなのです。厳密にはただインテンポで アッチェレランドしない(速くならない)というだけなら他にもあるはあるのですが。
 ブーレーズは現代音楽の作曲家ですから、明らかに作曲者の意図を忠実に守っているようです。指示はあくまで同じテンポで、と出したのでしょう。ストラ ヴィンスキーの春の祭典で曲の骨組みを冷静に見せてくれたことからも、そのことは容易に想像できます。しかしオーケストラは興奮してくると自然に速くなろ うとし、抑え切れずに駆けだそうとする動きを少しだけ見せているようです。
 その後ブーレーズは新しい録音を出していますが、そちらは全集ではなく、楽器にちょっと個性的な表情をつけて歌わせるところのある、以前のものとは違った演奏になっています。オーケストラはベルリン・フィルです。一方ラトル の方は現代音楽に詳しい指揮者で、やはりテンポを一定に抑えてやっています。こちらはより統率がとれているようです。ダフニスとクロエがカップリングになっていて、それも最高の演奏だと思います。
   セルジュ・チェリビダッケは遅いテンポで最後まで全くぶれずに押し通します。ラヴェルが オーケスラ用に編曲したムソルグスキーの「展覧会の絵」がカップリングされています。ラヴェルのではなくフランスとロシアの作曲家集ですが、ボックス・セットの方が大幅に割安です。

                  
ピアノ協奏曲ト長調 / 左手のためのピアノ協奏曲
 両方とも脳障害が出始めた晩年の作品です。ト長調は伝統的な三楽章構成による協奏曲で、第一楽章はラヴェルの故郷であるバスク地方の民謡やジャズの影響 が指摘されます。第二楽章のアダージョは美しい歌で、ラヴェルの作品のうちでも最高のメロディーであると言われることがあります。第三楽章は大変技巧的に 難しいもので、やはりバスクのモチーフが使われています。
 左手のための協奏曲は、第一次大戦で右手を失ったオーストリアのピアニスト、ウィトゲンシュタインがラヴェルに自分のための作品を書いてくれという依頼 をし、その話の風変わりさと創作としての面白さに惹かれたラヴェルが受諾して出来上がったものです。一本の手だけで二本で弾いているように見せるとんでも ない曲で、あまりに難し過ぎ、依頼したピアニスト本人には弾けなかったというオチもあるようです。これもジャズのモチーフを取り入れたとされる曲ですが、 ラヴェルの晩年の心境を物語る正直な曲だと思います。前述のエレーヌは「ラヴェルの全作品のうち、これ以上にロマンティックな告白を発見することはまれだ という唯一の曲で(中略)、疑う余地なきリリスムへの復帰である」と書いています。

 演奏は古くはフランソワとミケランジェリが有名でした。サンソン・フランソワはこの人にしかできない粋な崩し方をするフランス人らしい名ピアニストで、ショパンは彼だけでいいというほど気に入っているのですが、ラヴェルとなると ちょっと違う気もします。ヴュイエルモーズの「ドビュッシーを演奏するには多くの方法がある。ラヴェルのものにはただひとつの方法しかない」を思い出しま す。作品は作者の手を離れたら一人歩きをするものですし、フランソワには魔力がありますから、「個性的な名演」としておきます。

 アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリは フェラーリを高速道路で200キロで走らせたと言われるイタリアのピアニスト。契約したコンサートを気分によって途中で放り出すキャンセル魔でもあったそ うです。また、次のツィマーマンと同じように完璧主義で有名な人でもありました。このラヴェルの演奏は大変美しく、技巧も文句ないでしょう。しかし第二楽 章がちょっと遅く、個人的好みからするとセンチメンタル過ぎるかなという気もします。イタリア人の徹底的に磨かれた歌とフランス人の何気なさを好む趣味と は相容れないところもあるでしょう。技術的に言えば、ミケラジェリは音の純度を守るために、指が鍵盤に当たる雑音(上部雑音)を嫌って手がキーに吸い付く ように弾き、それにともなってテンポも遅くする癖があったようです。完成された演奏です。



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       Maurice Ravel  The Piano Concertos
       Krystian Zimerman (pf)
クリスティアン・ ツィマーマン(ピアノ)
ピエール・ブーレーズロンドン交響楽団
 そんなわけで、今のところ最も気に入っているのはクリスティアン・ツィマーマン(ツィメルマン)盤かもしれません。ルヴィエやクロスリーに録音して欲しいと思いながら、マイナーなレーベルのものまで色々買ってはみたのですが
 そのツィマーマン、毎度ながら完ぺきな仕上がりで す。ショパンコンクールで優勝したこのピアニストは気に入った演奏しか出さないというので録音枚数が少なく、レコード会社泣かせなのだそうです。それもな るほどと思わせます。そのショパンの協奏曲の演奏は自らが指揮して楽譜にまで改訂を加えた力作として話題になりましたが、極端に遅いテンポとたっぷりとし た叙情的な歌わせ方で驚きました。しかしここでのラヴェルにその傾向がないというのは作品に対するしっかりとした見解によるのでしょう。第二楽章はちょっ とだけ遅くてロマンティックな感じもありますが、ツィマーマンは大きく抑揚をつけるときでも楽譜から想像しないような形のゆらぎを加えるタイプではないと思います。ここでは静けさがあり、ベートーヴェンなどと比べてもあっさりしています。オーケストラはあのブーレーズが指揮しています。近年の録音では疑問に思うものもあったなかで、均整のとれた完ぺきな伴奏です。



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       Maurice Ravel   The Piano Concertos   Le tombeau de Couperin
       Hüseyin Sermet
フセイン・セルメット(ピアノ)
エマニュエル・クリヴィヌ / フランス国立リヨン管弦楽団
 この記事を書いてからだいぶ時間が経ち、その後見つけた盤があっても更新しないできました。そしてその中にラヴェルのピアノ協奏曲の 本命と言ってもよい演奏もありました。フセイン・セルメットです。1955年イスタンブール生まれのピアニストということで若手ではないですし、CD のリリースも99年で新しくないですが、知らないできました。素晴らしいです。こういうのを才能というのでしょう。指が速く動くという意味ではなく、音の 表情を感じて表現できる能力ということです。資質として本当に難しいのはこのように呼吸をつかむことでしょう。両端の速い楽章では楽々と軽妙自在な抑揚をつけ、リズム感が他で味わえない小気味良いもので乗れますし、その合間に一瞬にして歌が挟まります。ちょっと意外さを感じさせるように弱く抑揚をつけてゆっくり流すフレーズに別の曲を思わせる瞬間もあります。そして第二楽章では、鳴った瞬間から景色があります。ここは他のどの奏者も皆工夫して歌わせているものの、頭で作ってるようだったり当たり前過ぎたりして、なかなかこうは行きません。実際の進行は決して耽溺するような遅いテンポではなく、安っぽい感傷に陥りませんが、それでいてそこで歌われるべき情感を余すところなく表現しています。若干遅くするルバートに個性が出るものの、ラヴェルの音楽を崩すことはありません。現時点でのファースト・チョイスです。
 バックのオーケストラ演奏も申し分ありません。瑞々しくてデリケート、ピアノと波長が一致しています。そしてありがたいことにカップリングでオーケスト ラ版の方の「クープランの墓」も入っています。ト長調の協奏曲と並んで美しい作品です。管弦楽曲のところではブーレーズ盤を挙げましたが、この曲に関して はこのクリヴィヌの演奏がまた洗練された素晴らしいものです。遅すぎないテンポで生き生きとした表情があります。

 遅がけにご紹介して、もうすでに怪しい雰囲気になってる盤で申し訳ない感じです。レーベルがフランスのナイーヴなのです。元仏ヴァージン系の人によって 立ち上げられ、オーパス111などを傘下に収めていましたが、経営困難となり、今回調べてみると2016年以降はディジタル配信のみになっているようで す。中古はまだ手に入りますが、限られた状況です。



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    Maurice Ravel   The Piano Concertos
      Monique Haas (pf)
モニク・アース(ピアノ)
ポール・パレー / フランス国立放送管弦楽団
  モニク・アースについても、ピアノ独奏曲集同様に再度見直しました。ドビュッシーは最高でもラヴェルは印象が違うという考えだったのですが、それは基本的 には変わらないながら、以前はこの良さに十分気がつけていなかったのかもしれないと思うところがあるからです。速い楽章での技術に関心があるような聞き手 にはお勧めしませんし、十分な音ながら録音は世がステレオになって六、七年というところで、オーディオファイルにも興味を持たれないでしょう。アースはや さしいです。穏やかに洗練されて、嘘がない。これほど粋に崩せるセンスを持っているのに、正直さを感じさせるってどういうバラ ンスなんだろうと思います。さらっと運びながら味わいのある第二楽章が見事です。この感覚に気づいて大切にする人には何ものにも代 えがたい演奏だと思います。だから本当は宣伝する必要もないのでしょう。静かに抑えられて直線的にロマンティックなツィマーマンとも、音を捕まえてくるセ ンスによって洗練と迫真が鮮やかに共存しているセルメットとも違い、もっとおだやかに包み込んでくれます。バックのオーケストラも歌があって見事ですが、 ピアノはクリュイタンスとの盤でも同じ傾向でした。こんな風に物事を見る眼差しを持つ人と実際に会ってみたい気がします。同じフランスの女性ピアニストではアンヌ・ケフェレックもいい演奏家ですが、もう少し叙情的に盛り上がって大胆な抑揚が付き、哀しみが混じる気がします。
 1965年ドイツ・グラモフォンの録音ですが、リマスター盤が出ました。



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       Ravel   Piano Trios                           Sonata for Violin and Piano               Sonata Op. post. for Piano and Violin
       Jean-Jacques Kantorow (vn)   Jacques Rouvier (pf)   Philippe Muller (vc)

ラヴェル / ピアノ三重奏曲 / ヴァイオリン・ソナタ / ヴァイオリン・ソナタ(遺作)
ジャン・ジャック・カントロフ(ヴァイオリン) / ジャック・ルヴィエ(ピアノ)
フィリップ・ミュレ(チェロ)
 滑らかでゆったりした歌わせ方が心地良く、繊細な感覚を持っているフランスのヴァイオリニストであるジャン・ ジャック・カントロフと、ラヴェルのピアノ演奏では最高のピアニスト、ジャック・ルヴィエにチェロのフィリップ・ ミュレが加わった室内楽のシリーズです。これが日本のレーベルから出ているのですが、よく企画してくれたと思います。オランダで録音されたもので、全部で三枚あります。ピアノ三重奏集(写真左)と、ヴァイオリン・ソナタ集(写真中)、それにラヴェルがコンセルヴァトワールの学生だった頃のヴァイオリン・ソナタ(遺作)が入ったもの(写真右)です。

 ピアノ三重奏はトラック運転手として従軍していた戦争中に着手されたもので、室内楽の中でも弦楽四重奏曲とならんでロマンティックで親しみやすい曲です。ちょっともの悲しいような甘美な調べが心地よく響きます。
 ヴァイオリンとピアノのためのソナタは 前述の通り、不思議な緊張のなかで模倣とかけっこ遊びを繰り返す曲で、駒の近くを擦る艶のない音をわざと出させたり、難しそうなピツィカートが含まれてい たりでなんともラヴェルらしいですが、純粋な音楽としても興奮を覚え、魅力のある曲だと思います。前述したヴァイオリニストであるエレーヌ・ジョルダン・ モランジュがこの曲の成立に手を貸しているようで、彼女に献呈されています。「愛を弾く女」(1992) という恋愛映画ではエマニュエル・ベアールが上手に弾いてみせていたのが印象的でした。弓や指の動きと音とが合っていたので、彼女は少しヴァイオリンが弾けるのでしょうか。映像ではまるで本人が弾いているようでした。このとき裏で実際に弾いていたのがカントロフです。

 デンオンの盤は80年代半ばのデジタル録音で、7KHzあたりより上の高域にわずかに強調感があってややメタリックですが、きれいな録音ではあります。調整をかければベスト録音になる範囲です。
 他にエラートからも同じ顔合わせでパリで録音された別の盤が出ています。ヴァイオリン・ソナタ(遺作)は入っていませんが、逆にヴァイオリンとチェロのためのソナタとツィガーヌがカップリングされています。こちら は73年のアナログ録音ですが、音は80年代に CD 化されたオリジナル盤に限ってはデンオン盤よりさらに高域に強調感のある線の細いものです。演奏はデンン盤よりもテンポが遅めで表情も全体に大きいようです(写真下右は分売の一枚)。



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       Ravel   Ma Mere l'Oye   Sonate violon violoncelle
       Karlheinrich von Stumpff (vn)   Christoph Killian (vc)
       Jacques Rouvier, Theodore Paraskivesco (pf)             

ラヴェル / ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
カールハインリヒ・フォン・ストゥンプ(ヴァイオリン)/ クリストフ・キリアン(チェロ)


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       Ravel   Trio pour piano, violon & violoncelle   Sonate violon violoncelle
       Jean-Jacques Kantorow (vn)   Jacques Rouvier (pf)
       Philippe Muller (vc)

ラヴェル / ヴァイオリンとチェロのためのソナタ
ジャン・ジャック・カントロフ(ヴァイオリン)/ フィリップ・ミュレ(チェロ)

 カントロフたちのデンオンの盤にはヴァイオリンとチェロのためのソナタが欠けていました。ラヴェルの作品の中では珍しく現代音楽のような響きを聞かせる曲です。それは彼自身がウィーン学派の影響の下に作ったからです。シェーンベルクらの音楽が登場してきたとき、これからの音楽はこうなるよ、とラヴェルは面白がって高く評価しました。し かし感情的内容を排除するセリー(音列)による音楽を、彼自身は決して思いつかなかったことでしょう。言葉ではいくら否定してみせてもそれは彼の流儀では ないからです。しかしこの曲でラヴェルは、自分にはいくらでもこういう種類の音楽は作れることを示してみせたかったに違いありません。音の響きを自覚的に 選べる能力をもって作曲していた彼にとってはこの手のものを模倣してみせるのは簡単だったし、実際上手くやれていると思います。そしてその後、部分的に現 代曲風な響きを聞かせるマダガスカル島民の歌を除いて、同じような曲を作ることはありませんでした。ここで取り上げる盤はフランス音楽のエスプリ (9) のラヴェル作品集として CD 化もされました。他にマ・メール・ロアの連弾(ジャック・ルヴィエとテオドール・パラスキヴェスコ)が入っています(写真上)。しかし現在はむしろエラートから出ているカントロフ=ルヴィエ=ミュレの室内楽集の録音(写真下)の方が手に入るようです。写真は80年代のオリジナル盤でピアノ三重奏とヴァイオリンとチェロのためのソナタのみの分売ですが、現在出ている二枚組のもの(三重奏の項の最後に紹介したもの)はデザインが変わっているようです。



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     Ravel Tzigane
       Augustin Dumay (vn)   Maria Joao Pires (pf)
    
ラヴェル / ツィガーヌ / フォーレの名による子守歌 / ハバネラ形式の小品
オーギュスタン・デュメイ(ヴァイオリン)/ マリア・ジョアン・ピリス(ピアノ)
 ツィガーヌはサラサーテやパガニーニの難曲を超えようと意図して作られたもので、ここでもエ レーヌ・ジョルダン・モランジュが成立に手を貸しています。「こういうことがヴァイオリンでできますか?」という質問をラヴェルは彼女にしたそうで、技法 の相談のために自宅へ至急来るようにと電報を受け取ったこともあったそうです。そして出来たのがこのヴァイオリンの最高難度の曲です。
 演奏はデュメイとピリスのものをあげておきます。この二人のツィガーヌは生でも聞きましたが、この CD ともども素晴らしいものでした。二つの小品はツィガーヌとは違い、しっとりとした美しい旋律を持った作品です。
 ヴァイオリンとチェロのためのソナタ(上記)のカントロフ=ルヴィエ=ミュレの室内楽集の中にもツィガーヌがカップリングされています。


弦楽四重奏曲
 弦楽四重奏はドビュッシーもラヴェルも仲良く一曲ずつしか作曲しておらず、こういう風にお互いを意識し合って対応する曲を発表するから、二人はいつも一 緒にされるのでしょう。私はラヴェルの四重奏が大変好きです。彼がまだパリ音楽院(コンセルヴァトワール)に在学していたときの作品で、試験で発表された ときには審査員の受けが悪くて書き直しを命じられたものの、ドビュッシーは高く評価し、「どこにも変更するべきところはない」と激励したといいます。曲想 にドビュッシーの影響が見られると言われたこともあったようですが、ラヴェルは自信があったので、わざとドビュッシー風なくだりを強調するいたずらを楽し んだということです。曲の出だしでは忘れかけた記憶をたどるような懐かしさに満ちたメロディーに魅了されます。伴奏のパートにずいぶん大胆な不協和音も含 まれているのに、素直な感情の一部として心地よく受け入れられてしまうところが印象派ラヴェルの素晴らしいところでもあります。新ウィーン楽派 (シェーンベルクなど)以降の現代音楽ではこうは行きません。同じことをドビュッシーとの比較で言うならば、なにもこの四重奏に限った話ではないのです が、月の光や小組曲といったきれいなメロディーの曲が一方にあるかと思えば、ときに新奇な音の組み合わせを模索した試みなのではないかと思わせる曲がド ビュッシーにはあるように感じます。大胆な音の世界なのですが、思考的実験のように感じるのです。一方で同じく印象派の旗手を自任するラヴェルにも同じ実 験的な音の構成を追求する一面がありながら、ラヴェルの方は常に彼の心情を感じさせるようにそれらの新しい音の組み合わせが利用され、こなれています。自 らの曲について「感情的内容」を決して認めなかったはにかみ屋のラヴェル自身はこういうもの言いを最も嫌がったでしょうが。そしてこの弦楽四重奏について言えば、ラヴェルとしてはクラシックな作品とされてもいます。



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       Ravel Quatuor a Cordes   String Quartet in F
       Alban Berg Quartet 

ラヴェル / 弦楽四重奏曲
ウィーン・アルバンベルク四重奏団


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       Ravel Quatuor a Cordes   String Quartet in F
       Hagen Quartet

ラヴェル / 弦楽四重奏曲
ハーゲン四重奏団


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       Ravel Quatuor a Cordes   String Quartet in F
       Arcanto Quartett

ラヴェル / 弦楽四重奏曲
アルカント四重奏団


    ravelmodiliani
       Ravel Quatuor a Cordes   String Quartet in F
       Modigliani Quartett

ラヴェル / 弦楽四重奏曲
モディリアニ四重奏団

 演奏は母国人のものが良いとも限らず、実際に聞くまではイメージが合わないような気がしていたものの、 ウィーン・アルバンベルク四重奏団の演奏が深い彫琢があり、長い間最も気に入ってきました。この団体に関しては表現の幅についても技術についてもあちこちで多くのことが書かれていますので、今さらつけ加えることはないかもしれません。1984年の EMI の録音はリマスターもされ、音も大変良いです(デジタル・リマスターと高品質プラスチックのCD 。それから、東京クァルテットの音をよく味わっているような演奏も素晴らしいものでした。

 アルバンベルク四重奏団
と同じオーストリアのハーゲン四重奏団も見事な演奏です。後年は表現が大きくなってきましたが、彼らはいつも弾むような自発的抑揚があって良いです。ここではアルバンベルクよりもややゆったりと よく歌わせている印象です。エッジと表情は負けず劣らずしっかり付いていますが、これ見よがしな不自然さはありません。静かに流れる部分での音の扱いとリ ラックス度ではアルバンベルクより魅力的でしょうか。どちらも表情の濃い演奏で、技術も同じくしっかりしたクァルテットです。ドイツ・グラモフォンの録音 は1993年で、アルバンベルクの中域の前に出たエネルギーのある音と比べると幾分細く、重心が少し上にあるようです。ただ、ハイがうんと伸びた感じの音 ではありません。このレーベルらしさを持った好録音です。

 アルカント四重奏団は2002年結成で、2009年 録音のこの盤がレコード賞を取りました。男女二人ずつのメンバーはチェロがカナダ生まれのフランス人である他はドイツの人たちで、ソロとしても有名だった ということですが、私は知りませんでした。結成はヴィオラとチェロが中心なのだそうで、ヴィオラはヴェーグ四重奏団のシャーンドル・ヴェーグに教えを受 け、他のメンバーの中にはアルバン・ベルク四重奏団に学んだり、ジュリアードにいたりした人が含まれているようです。
 鋭くてスケールが大きいのに繊細さも感じられる演奏です。興奮するような熱さでないのは、感情がこみ上げてくるフォルテの部分で速くなったりしないからでしょうか。技術は完璧だと思います。
 緩徐楽章はよく歌うゆっくり目のテンポでテンションが保たれ、起伏が大きいながら張りつめた静けさのあるものです。
 録音はハルモニア・ムンディですが、演奏のシャープさを印象づける狙いがあるのかどうか、今までになく高域が鋭利で、中高域もやや張り気味に感じます。

 モディリアニ四重奏団
は2003年結成のフランスの 四重奏団です。長らくアルバン・ベルク四重奏団の演奏を定番として聞いてきたのですが、自分の中ではそれと入れ替わって今一番気に入っている盤となりまし た。同じくフランスの人たちによって1999年に結成されたエベーヌ四重奏団の方が人気があり、高く評価する声も聞きますが、エベーヌ四重奏団はいかにも 気鋭の若手の演奏という感じです。アルバン・ベルク四重奏団がデビュー当時に注目を集めた方向性というか、鋭く切れ込んでぐいぐい押して来るような元気の 良さがあるのに対して、このモディリアニ四重奏団はゆったりと一つひとつのフレーズを見せてくれるところがあります。個人的な嗜好でエベーヌ四重奏団に辛口なことを言いがちかもしれませんが、エベーヌの演奏自体はメリハリのある水準の高いものです。
 そしてこのモディリアニ四重奏団ですが、緩徐楽章を遅めのテンポで起伏をつけて 行く歌謡性がフランスの伝統と言えるかもしれないながら、通俗的な歌わせ方とは全く違い、エベーヌとは別の意味で現代的な知性を感じさせる演奏となってい ます。それが一番よく現れているのはカップリング曲のドビュッシーの緩 徐楽章でしょうか。個人的な好みでラヴェルにばかり傾いてあまりドビュッシーのこの曲は聞いてこなかったと言えますが、ゆっくり進行する中で個々の音が重 なる様を別の角度から見せてくれました。この曲にはなんと美しい響きが隠れていたのだろうかと再認識させられたわけです。あるときは無表情に音を分解して 見せてくれ、またあるときは深く表情 を刻む、こう言うとアルバン・ベルク四重奏団の 演奏評のようでもありますが、同じことをゆっくりと歩いて行く中で行われるとまた違った景色になります。このドビュッシーに限って言えば、テンポが速い 分だけアルバン・ベルクの方が無機的に感じられ、モディリアニの方が感情の乗った曲のように聞こえます。こうした演奏傾向は、縮尺は違うにせよラヴェルに ついても言えます。
 録音は2012年、レーベルはミラーレです。音はバランス上ではハイ上がりの傾向はなく滑らかで、しかも細かな音がしっかりとれた優秀録音です。


歌曲
 ラヴェルの歌曲集では、彼の最後の曲となる「ドゥルシネア姫に想いを寄せるドン・キホーテ」が聞けます。これを書くときには脳の病気も進んでいてかなり苦労したはずですが、「叙事的な歌」の静かな祈りだけでなく、「乾杯の歌」の酔っぱらったドン・キホーテの様子を聞いて いても、作曲者の状況を知っているからか心にしみます。反対に初期の作品である「クレマン・マロの二つのエピグラム」(1898) の「私に雪を投げたアンヌ」、「スピネットを弾くアンヌ」も美しい曲です。「夢」(1927) も不思議な魅力があります。



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     Ravel Melodies
       Jacques Herbillon (br)   Theodore Paraskivesco (pf)                                                          

ラヴェル / 歌曲集
ジャック・エルビヨン(バリトン)/ テオドール・パラスキヴェスコ(ピアノ)


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       Ravel Melodies
       Bernard Kruysen (br)   Noel Lee (pf)

ラヴェル / 歌曲集
ベルナール・クリュイセン(バリトン)/ノエル・リー(ピアノ)


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       Ravel Melodies Sheherazade
       Elly Ameling (s)   Rudolf Jansen (pf)

ラヴェル / 歌曲集
エリー・アメリンク(ソプラノ)/ ルドルフ・ヤンセン(ピアノ)

 ジャック・エルビヨンは同じフランス語圏でもカナダのバリトンです。カリオペ・レーベルから出ていて最も気に入っていたものでした(写真上)。LP としては国内盤で出たのですが、その後廃盤状態だったようで、ときどき探していたのですがなかなか再販はされず、レコードから CD-R に焼いて聞いていました。マダガスカル島民の歌が入っ た室内楽の CD はずっと出ていたのですが。そしてその後ようやくカ リオペとして出されたものの、限定プレスだったのか気づいたときにはすでに高値の状態で、現在良心的な値段なのは本国フランス・アマゾンぐらいです。イギリスは55ポンドほど、日本などは14000円とかの値が付いています。MP3なら安くダウンロードできるようですが。
 この人の声は大げさでなく、滑らかで陰影に富んでいます。伴奏はテオドール・パラスキヴェスコでした。他に はベルナール・クリュイセンノエル・リーのもの(写真中)がゆったりした声で素晴らしいと思います。二つのエピグラムは入っていません。EMI からは歌曲の全集も出ています。こちらは歌い手が色々ですが、全曲が網羅されているのが良いと思います。

 女性ではエリー・アメリンク盤がお勧めです(写真下)。この人は派手なところがなく、宗教曲などでも素晴らしい歌唱を見せるソプラノですが、ドイツ語圏の人なのにフランス語の発音が完璧なのだそ うです。しっとりとして、ラヴェルの歌曲でも大変魅力的です。伴奏はルドルフ・ヤンセンです。二つのエピグラムは入っていますが、男性が歌うべきドン・キ ホーテは入っていません。



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       Ravel   Trois chansons
       Choeur de Chambre Accentus   Laurence Equibery 

ラヴェル / 三つのシャンソン
ローレンス・エキルベイ / アクサンチュス室内合唱団

 その他ですが、「三つのシャンソン」という合唱曲があります(写真上)。その二曲目の「三羽の美しい極楽鳥」という曲はそれこそ大変美しい曲なのですが、合唱作品が他にないせいで CD も出難いものとなっています。ローレンス・エキルベイが指揮するアクサンチュス室内合唱団の盤がプーランクの合唱曲とのカップリングで出ました。ガーディナーの指揮するフォーレのレクイエムにも入っています。


 以下は普段あまり聞かないものなのでコメントは控えますが、ラヴェルが権威あるローマ賞に応募して三度落選した「ローマ賞カンタータ」は、ミシェル・プラッソンが EMI から出しています。この落選は大きな話題になったようで、選考で落とした側が逆に非難される珍事となりました。「アリッサ」、「アルシオヌ」、「ミルラ」の三曲が入っています。トュールーズ・カピトール国立管弦楽団の演奏です。
 ラヴェルの作品目録にもあまり載らない初期の珍曲「パレード」と、 最初の作品である「グロテスクなセレ ナード」はナクソスから出ているフランソワ=ジョエル・ティオリエの盤に入っています。ピアノ曲です。グロテスク〜の方はすでにご紹介したポール・クロスリー盤にも収録されています。パレードなどはよほどラヴェルが気になる人が手に入れるものかもしれません。他にはオペラの作品「子供と魔法」サイモン・ラトルの演奏で出ており、「スペインの時」アンドレ・プレヴィンなどいくつか出ましたが、国内盤ではなかなか手に入りにくいようです。古いところでは理性とリリシズムのバランスがいつも素晴らしかった数学者、アンセルメ が両方とも出してくれています。マゼールは一枚にオペラ両方が入って演奏も定番ですが現在廃盤で、国内ではプレミア価格だったりします。
 以上でモーリス・ラヴェルの主立った作品をほぼ取り上げたでしょうか。



(1) 脳障害は事故の前から兆候があり、事故には直接関係ないという説もあるようです。だとすると彼の中から出てきた症状なのでしょう。 事故であれ内側からであれ同じことかもしれません。現代医学では器質的な脳萎縮や痴呆と心理的原因は関連づけられません。

(2)「ラヴェルと私たち」エレーヌ・ジョルダン・モランジュ(音楽之友社)はラヴェルの細々とした日常を生きいきと回想していて、まるで彼が生きているようで変な気分になります。 恐らくエレーヌの彼を懐かしむ愛情が少し悲しい気持ちにさせるのでしょう。二人で行った「貝の家」をその後一人で再訪したときの寂しさなど、リアル過ぎて読んでいる方が自分のことのように思えてしまいます。

(3) 独身を通したことについては、ラヴェルは親しかったヴァイオリニストのエレーヌ・ジョルダン・モランジュに求婚して断られたことがあると友人のマニュエル・ロザンタールが言っていたり、 アメリカへの演奏旅行のために何十着ものスーツを持って行ったりしたそのダンディぶりはゲイ特有のものだという仮説を述べる 者がいたりと、様々な意見があります。エレーヌは1940年代になって出した 回想録(上記)でこの作曲家との旅行やドライブなど、数々の親密な行動を明かしていますが、セクシュアリティと愛情の問題については謎のままです。この問題が心の状態と密接な関係をもっていて、 人が生きて行く上で大切なものであることは間違いありませんが、ゲイであろうとなかろうと、それは全く同じことです。もしそのことで悩んでい たというのなら、この社会的に認められない時代にそのような 嗜好を選んで生まれついたことに敬服する以外にないでしょう。原因がどこにあれ、曲に表れた孤独の告白に私たちは心を痛めるのです。

(4) グレン・グールドの奇行については数々報告されており、折り畳み椅子を愛用してコンサートを開かなかったこのカナダの天才ピアニストは大変人気があります。ラヴェルの録音については長い間存在しない と思っていましたが、ラ・ヴァルスが出ています。

(5)「ラヴェル」ウラディミール・ジャンケレヴィッチ(白水社)。ここで言う「狼の怒り」はボレロやラ・ヴァルスのような大きな爆発についてもさることながら、 スタッカートによるような癇癪のように短いフレーズでの激発について多く引用されます。ジャンケレヴィッチの著作はラヴェルの破滅的な心の動きについて最初に知らしめた考察です。



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