バッハ / ヨハネ受難曲 BWV 245
バッハのヨハネ受難曲はマタイ受難曲ほど有名ではないため、これを好んで聴くという人はかなりのバッハ通に違いありません。しかし少数派ながらこのヨハネ受難曲こそバッハの代表作だと考える人もいるようで、音楽の教科書の中には、作曲家紹介のバッハの欄に「ヨハネ受難曲」と書き込まれているものもありました。また、わが国ではマタイばかり聞いてヨハネを軽んじる傾向があるという話も聞いたので興味が湧き、アマゾ ン.com で検索して発売中のCDの種類を頭から数えてみました。他の曲と組になっているものは除き、同内容の発売年度違いは含めて大雑把に数えて行くと、マタイ受難曲の方が52セットほど、ヨハネ受難曲は 36セットほどで検索外れのものになってきます。ほど、というのはもちろん、途中で何個か数え間違えてるに違い ないからです。結果、ヨハネはマタイの69パーセント。やはり結構出ているもので、どうやら名曲は間違いなさそうです。 さて、真面目な話、マタイ受難曲とヨハネ受難曲は何が同じでどこが違うのでしょうか。作曲動機や楽曲構成な ど、詳しいことはあちこちに出ていますので触れませんが、物語は両者ともにイエス・キリストが十字架にかけられ るまでの話を扱っています。その話の元は聖書で、聖書は旧約聖書と新約聖書という二つの部分に分かれ、ユダヤ教 徒は旧約の方だけを聖典と考え、キリスト教徒は両方を聖典としているのはご存知のことかと思います。旧約聖書は キリストの出現以前の時代を扱うのに対し、新約聖書はキリスト誕生の話から始まりますが、その新約の最初の四章 が福音書と呼ばれ、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという使徒たち(キリストの弟子たちで、12人の有名な使徒以 外にも多数いた)がそれぞれ書いたとされます(学問的には後世の別人とする説が有力です)。マタイは元は税金を 集める人で、ヨハネは漁師でしたので、それぞれが違った視点で同じイエスの物語を語っているわけです。バッハは これら四つの福音書それぞれに基づいて受難曲を書いただろうと言われ、実際マルコ受難曲は一部楽譜が残ってお り、コープマンなどはそれを元に失われた部分を作曲したりして復元CDも出しています。ルカ受難曲の方も楽譜が あったのですが、これはバッハ作ではないだろうと考えられています。 そして曲にはそれぞれ台本があるわけですが、マタイ受難曲の方は「カササギ男」という名の書き手が分かってお り、ヨハネ受難曲は分かっていません。演奏者の規模はマタイが大きく、ヨハネは小さいです。演奏時間もそれぞれ 3時間近くと2時間前後ということで、マタイ受難曲は大曲です。 マタイ受難曲の筋書き ストーリーは、マタイの方はイエスが自分が十字架にかけられることになると予言するところに始まり、ベタニア の女などのいくつかのエピソードが含まれます。ベタニアの女のエピソードは、高価な香油(インド原産の植物から 採ったスパイクナード)をイエスの頭から注いだ女がおり、そのとき注がれたのが当時の労働者一年分の給料に近い 量だったため、弟子たちが「その香油を売れば金になるじゃないか、乞食に 施してやれるのにもったいないことをするな」と咎めたところ、イエスは自分の埋葬の準備をしてくれているのだと 言ったという話です。 それから弟子のユダが裏切ってイエスを売り渡す算段をするという部分があり、最後の晩餐の場面でそれが暴かれ ると同時に、一番弟子のペテロ(カトリックでは初代教皇とされる)が夜明けまでに三回イエスを否認するだろうと イエス自身に予言されます。これはイエスが捕まったとき、お前も仲間かと聞かれて怖くなり、違うと答えるという 意味です。 そしてイエスは捕まり、審問を受け、ペテロは実際にイエスを知らないと言い、その後で泣き出します。一方裏切 り者のユダは後悔して首を吊って自殺し、ローマ帝国のユダヤ州の総督ピラトはイエスを罪人とは思わないものの群 衆に負けて有罪判決を許します。イエスと問答をし、彼を裁きたくないと思っていたピラトは、過越の祭りの習慣と して一人の罪人に恩赦を与えるということがあったため、イエスと一緒に捕まっていた大罪人のバラバとイエスのう ち一人を釈放すると言いました。人々がイエスの方を助けると期待したわけです。しかしどちらかを選べと言われた 群衆は「バラバを」と叫び、イエスの死刑が確定してしまいます。 キリストは十字架にかけられて死にます。死までの詳細が語られ、死の瞬間には神殿の垂れ幕が二つに裂け、大地 が揺れます。その場にいた者たちは「やはりこの者は神の子だった」と恐れます。それから埋葬の場面になり、祈り の合唱で曲が終わります。 ヨハネ受難曲の筋書き 一方でヨハネ受難曲の方は、裏切り者の使徒ユダが、ユダヤ教の祭司や兵士たちを引き連れてイエスのと ころへやって来るところから始まります。最初からイエスの身に危険が及ぶ場面です。そしてイエスが「誰を探して いるのか」と問い、捕まえる者たちが「ナザレのイエスだ」と言うと、イエスは「それは私だ」と答えます。それか ら使徒ペテロが剣を振り回して抵抗し、祭司の手下の耳を切り落としますが、イエスが諌めます。 イエスは捕まって縛られ、ユダヤ教の大祭司のところへ連れて行かれます。そしてその先で、同行していたペテロ が女中に「あなたもあの人の弟子の一人ですか」と聞かれ、違うと答えます。それからイエスは平手打ちを食らう一 方、ペテロは三回目のイエス否認の直後に鶏が鳴くのを聞いて、イエスの予言を思い出して激しく泣きます。 その後イエスはローマの総督ピラトのところに連れて行かれ、「おまえはユダヤ人の王か?」と聞かれます。神の 国について人々に教えを説いてきたからです。イエスは「この世の国の王ではない」と答えますが、ユダヤ教徒たち のある者はイエスを聖書が予言するキリスト(救世主=ユダヤの王)とは認めず、自分たちの権威を失墜させないた めに彼を抹殺したかったので、イエスがユダヤの王を自称していると主張していたのです。当時ユダヤ州はローマ帝 国の支配下にあり、王はローマ皇帝(ティベリウス)以外にあり得なかったため、ユダヤの王だと自称すれば罪にな るということなのです。やりとりが詳しく述べられ、ピラトは裁きたくないのに処刑へとなだれ込んで行きます。バ ラバのエピソードが語られ、そして十字架にかけられますが、このあたりの記述もヨハネ受難曲は詳しいです。 つまり、マタイ受難曲はイエスの色々なエピソードが盛り込まれていて物語として起伏があるのに対し、ヨハネ受 難曲は彼が捕まってから死ぬまでの間の出来事が凝縮して書かれた構成だと言えます。編成が小さく地味な一面もあ るかもしれませんが、ヨハネ受難曲は荘重でテンションのある美を体現しているのです。 音楽としては、両者はどう違うでしょうか。これは様々な要素があり、主観的な問題でもあるので一概に言えませ んが、ヨハネ受難曲もマタイ受難曲に劣らず大変美しい曲です。歌詞の内容が外国語に感じられる多くの人々にとっては、受難曲を聞く楽しみといってもただ 音として聞いているという場面も多いことかと思います。したがって音の構成と響きは最も大切なことの一つです。 きれいなメロディーがいくつも出てきます。ルター派の賛美 歌であるコラール部分のメロディはバッハの作曲ではないわけですが、26曲目の「わが心の奥底には」は、ペストが流行する中、牧師のヴァレリウス・ヘ ルベルガー(1562-1627)が音楽家のメルキオール・テシュナーと二人で作った賛美歌、「あなたにお別れを言いたい」を元にしています。それは次々と倒れる人々の葬儀を執り行 い、自らは病を恐れずに立ち向かい、悲嘆にくれる家族を相手にしながら死者の ために作った音楽であり、短いながら深みのある曲です。 また、事実上は最後の曲(最後から二番目)である39曲目 「やすらかに眠れ、聖なる骸」の合唱部分も印象的です。 そしてヨハネ受難曲で何より美しいのが二つのアリア、30曲目の「すべては果たされた」と、35曲目の「涙と なって融けて流れよ、わが心」でしょう。前者はアルトのパートで、カウンター・テナーが担う場合が多いですが、 イエスが息を引き取る場面で歌われる大変印象的なアリアです。キリストはその死をもって人々の罪を購う役目を果 たしたわけです。後者は死の直後、神殿の垂れ幕が裂け、大地が揺れ動いた後の場面でイエスを失ってしまった悲し みを歌うソプラノのアリアで、これも息を呑む美しさです。マタイ受難曲ほ ど有名でないからといってこれら珠玉の旋律を聞き逃すのは大変もったいないことです。 19曲目でバスの歌うアリオーソ(アリアとレチタティーヴォの中間的性質)「とくと見つめよ、わが魂」も低い 通奏低音に支えられたひっそりと静かな趣の素晴らしい曲です。現世の苦をキリストの味わったいばらの苦しみと並置し、苦と平安が別のものではなく、苦を 通してこそ果実を摘むことができると語っており、不安と喜びの間を振り子のように揺れ動く日常のさざ波を静め、魂の奥底に常にある平安に気 づけと歌う、大変深い内容の歌詞でもあります。 と、ここまで書いてくると、きれいなメロディーのアリアばかり追いかけて聴く人は受難曲の真髄を知らな い、という声がどこからともなく聞こえてくるような気がします。とうとう幻聴でしょうか。華やかな管弦楽の伴奏 が付き、美しいコラールの合唱があり、オペラ同然のアリアに酔うことができる。しかしそうしたことはバッハ以前 に極められたシュッツの受難曲(オーケストラ伴奏もアリアもありません)を知っていたら言えないだろう。レチタ ティーヴォでの福音史家の語りの部分にこそ注目すべきなのだ・・・確かにそれは奥の深い愉しみだと思います。そして 語りの部分の比重が大きいという点で、マタイ受難曲と比べて編成も構成も地味なヨハネ受難曲の方がより純粋な形に近いの だ・・・そうかもしれません。ただ、この線を延ばした先の消失点を、音楽 史とドイツ語の理解力ということに収束させたいという意図もあるかもしれません。マントラや声明は語の意味を理 解するために唱えるわけではありません。修道院での詠唱も同じこ とではないでしょうか。ラテン語の意味がわからなくても、しかるべき場所で声を合わせることには一定の働きがあ ると思います。それが飛躍し過ぎだというなら、英語の冗談が即座に理解できなくたってマイケル・ジャクソンで踊 れてる人もいるような気がします。 そうなると、問題は冒頭の合唱をどう聞くかということ、かもしれません。この長い曲において最初に耳にすると ころであり、 曲全体を印象づける部分でもあるからです。そしてヨハネ受難曲が特徴的なのは、この部分の伴奏が最後までほとん ど変化しないことです。楽譜上では95小節、通常冒頭の部分を繰り返しますので、合計153小節あって大変長い です。そこを16部音符4つずつ組で1小節に4個、第1ヴァイオリンの冒頭で言うとレドレミ♭・レドレミ♭とい う細かいさざ波のような音形がずっと続きます。最初の場面はイエスが処刑しようとする者たちの手に捕まるところ ですから、これは不安を表す音形なのでしょうか。そのさざ波に乗って最初に発せられる言葉は「主よ」と呼びかけ る短く切迫した一言であり、それ自体は大変印象的な音楽です。しかしその後に続くのは神への祈りであり、イエス が辱めのどん底においても栄光を体現していたことをお示しくださいという、短いものです。それが何度も繰り返さ れて行く様は、バッハの曲の中でもちょっと特異なものだと思います。歌のリズムで区切ると8つの音符で一拍ずつ に感じられますので、それが301回繰り返されることになります。音符の数にして2408個分です。クープラン のパッサカリアやラヴェルのボレロのように、執拗に繰り返すことで特殊な効果を狙う場合もありますが、ここでも 同じように画期的な手法だと考えてよいのでしょうか。ただ、バッハ愛好者には不敬な態度ながら、繰り返し部分で もう一度冒頭から始まる瞬間、個人的には「ああまたか」と感じるときもあるということを、そっと申告しておきま す。 以下にCDを取 り上げますが、ここでは気に 入った演奏のみにして、ピリオ ド楽器による演奏が出て来て以 降の主立った演奏者の比較につ いては「ミサ曲ロ短調」のページで行うことにします。曲目が違えばそのときの出来も違い、演奏者同士の 相対的な立ち位置がそのまま平 行移動するとも限りませんが、 おおよその目安にはなるかもし れません。 J.S. Bach St John Passion BWV 245 Masaaki Suzuki Bach Collegium Japan ♥♥
バッハ / ヨハネ受難曲 BWV 245 鈴木雅明 / バッハ・コレギウム・ジャパン ♥♥
イングリット・シュミット ヒューゼン (ソプラノ)/ 米良美一(カウンター・テノー ル) ゲルト・テュルク(テノール:福音史家)/桜田亮(テノール) ペーター・コーイ(バス)/ 浦野智行(バス:イエス) 鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏が 見事です。引きずるような重さがなく、音楽が塊になってくぐもるようなところもなく、すっきりと明澄ながら今回は要 所で熱が感じられます。この曲に対する思い入れがあるのでしょうか、時々さらっと流れるような淡白さが感じられる演 奏もある中で、1998年録音のこのヨハネ受難曲は間然とするところのない名演だと思います。使われている版は第4版(稿)で、バッハが生前に演奏するた めに三回改訂したうちの最後の楽譜です。通奏低音をチェンバロが担っています(他の版はオルガン)。 独唱者たちがまた素晴らしいです。 ソプラノのイングリット・シュミットヒューゼンはドイツの人で、レパートリーはルネサンスから20世紀までと広い ながら、豊富に古楽の経験を積んで来たようです。実はこの人が大変に魅力的なのです。のびのびとして真っすぐで、声 の質が明るくて大変きれいです。歌い方もビブラートが少なく軽さがあります。わずかについた語尾のビブラートは上品 で美しく、高音は空間に浸み込み、漂うように響きます。カークビーのきれいな声に劣らないのですが、高い方が伸びる ときによりやわらかさがあります。35曲目の「涙となって融けて流れよ、わが心」でイエスの死を悲しむところなど、絶品で す。 カウンター・テノールの米良美一は低くするところで硬く声音を変え、尖ったオの口でこもらせるように歌う癖が あるものの、高い方の音は大変きれいです。低いパートでは全体に力が ない感じがありますが、これはカウンター・テナーに共通した傾向でもあるので、ヘレヴェッへ盤で歌う驚異 的なショルと比べてしまっては気の毒というものでしょう。 福音史家のテノール、ゲルト・テュルクはマタイ受難曲のときと同じですが、この福音史家はまったく見事です。ヘレヴェッへ盤のマー ク・パドモアも良いですが、テュルクのやや若々しい印象もありながら 切々と訴える歌い方は真に迫っています。そして誰よりも全体に透明な印象があります。高い方で力の入る 部分に硬さがなく、しかも朗々と響いて伸びが美しく、声質が大変クリアなのです。エヴァンゲリストは進 行役の語りのパートであり、その情感が巧みなのはもちろんですが、音楽としてもずっと聞いていたい魅力 があります。 テノールの桜田亮はエヴァンゲリストのゲルト・テュルクよりも高い倍 音成分が若干硬く、輪郭が付いて細さを感じさせますが、苦しいところも力を見せようというきばりもな く、軽く自然です。 バスのペーター・コーイはいつものように、深々と余裕のある声でやわらかく、包容力のある印象です。19曲目で歌うアリオーソ「とくと見つめよ、わが魂」はチェンバ ロがリズムを刻み、ヴィオローネ(コントラバス)の低いうなりで支えられる中、しみじ みと感動的な歌を聞かせます(*第4版 では一部歌詞が変更されています)。 同じくバスでイエス役の浦野智行は、太くはないもののはっ きりした声で、やさしさも感じられます。 録音は神戸松蔭女子学院大学チャペルで行われ、編成が大きくない分透明感が あり、その透いた分をこの チャペル独特の残響が美しく埋めてくれています。 J.S. Bach St John Passion BWV 245 Philippe Herreweghe Collegium Vocale Gent ♥♥
Sybilla Rubens (S) Andreas Scholl (C-T) Mark Padmore (T) Sebastian Noack (B) Michael Volle (B) バッハ / ヨハネ受難曲 BWV 245 シビッラ・ルーベンス(ソプラノ)/ アンドレアス・ショル(カウンター・テナー)
マーク・パドモア(テノール: 福音史家)/ セバスティアン・ノアック(バス) ミヒャエル・フォッレ(バス:イエス) ヘレヴェッヘ盤は圧倒的です。彼 らは80年代 にも録音しており、これは二度目です。この盤で最も特徴的なのは、使われた楽譜が第2稿のものだということです。1725年のこの稿は他の三つと大きく異 なっており、出だしも最後も違う 曲、途中のアリアも差し替えがあり、もはや別の作品のようです。へレヴェッへがこの版で演奏した意図はどこ にあったのでしょうか。通常版の冒頭で「主よ」(Herr) と歌い出される緊迫感が好きな人にとってはがっかりでしょうが、その部分の合唱をちょっとくどく感じている人にはむしろありがたいかもしれません。差し替 えられた冒頭は、どこかで聞いたことのある音楽です。そう、マタイ受難曲の第一部の終わりの合唱部分を持っ てきているのです。そして締めくくりのコラールもカンタータの第23番から借用しています。この曲の事実上 の終結は、曲調からいっても埋葬の場面を締めくくる 39.「やすらかに眠れ、聖なる骸」の合唱なのでしょうが、 実際はその後に加えられた祈り(40.)によって曲は閉じられます。そこは通常版ではマルティン・シャリングのコラールが 用いられ、調性は長調であり、荘重ではあるもののどこか晴ればれとしています。一方でヘレヴェッへの第 2稿の終結部は引きずるような重々しい短調で木管がため 息をつくような嘆きに始まり、途中風の強い日に雲間から時折太陽が顔を覗かせるようにコードを変 え、長調の和音も交えつつ、最後に複雑に光が差したようになります。この終わり方は大変味わいがあ り、なんとも不思議な魅力のある曲だと思います。これが聞けるだけでも第2稿にした価値があると言えるのではないでしょうか。残念なのはアリオーソ「とく と見つめよ、わが魂」がなくなってしまっていることでしょうか。 演奏自体も圧倒されます。ゆったりとよく歌わせ、管弦楽にも合唱にも滑らかに波打つ呼吸があります。合唱は非 常にレベルが高く、大変よく感情がこもっていますが、過剰にはなりません。全体にやさしさを感じ るのですが、軽過ぎたりイージーだったりすることは全くなく、やさしさと厳しさが共存しています。これだけ様々な要素が高いところでまとまった高水準の演 奏は滅多にないのではないでしょうか。 ソロイストはこれ以上にない組み合わせです。 ソプラノのシビッラ・ルーベンスはドイツ人ですが、「涙となって融けて流 れよ、わが心」のアリアは鈴木の盤のイングリット・シュミットヒューゼンとはまた違った意味で大変魅力的で す。声 の美しさの種類が違います。シュミットヒューゼンがやわらかく浸透し、漂う ような味わいだったのに対し、この人は艶があって伸びのある高音なのですが、その艶の あり方が濡れて輝くヴァイオリンのような艶なのです。輪郭もはっき りしています。それは魅惑的で、歌い方が必ずしも自分の好みではないはずなのにただ聞き惚れてしま います。好みの話は余分ですが、私は音符の頭からビブラートをたっぷり付ける歌い方が苦手です。そ してルーベンスは清楚に真っすぐ歌うわけではなく、ビブラートはやや多めに全体にかけます。しかし よく揺らす声という印象ながら、その揺れる声が好ましい跳躍力として聞こえるの は、歌い方に押し付けがましさがないせいでしょう か。可愛らしさを表現するときに小鳥のような声という褒め言葉があるなら、この人は熱帯の小鳥で しょう。 アルトのパートを歌うカウンター・テナーのアンドレアス・ショルについては、もはや言葉を失います。文句なし に他を引き離し、アリア「すべては果たされた」の歌唱の頂点に立ちます。力があって伸びる高音は美しく透き通 り、弱くするところとのダ イナミックレンジが圧倒的です。危なっかしいところは微塵もなく、静かな低い音で非常に長く延ばすパートが あるのですが、驚異的に安定しています。速くなれば自在に跳躍して正確で・・・もうこれ以上は必要ないでしょう。 マーク・パドモアの福音史家もまた、鈴木の盤のゲルト・テュルクと並んでこれ以上は望み得ない 布陣 です。落ち着いて抑えて歌うところの冷静さと品の良さ、一方で強く訴えるときの鋭角的で力のある表現は まったく崩れがなく、真に迫っていてどきっとさせられます。自らが興奮するというよりも、こちらが 興奮 させられる説得力があるのです。イギリス人と聞くとなんとなくわかったような気になりますが、この個性 は良いと思います。エヴァンゲリストは物語を全体にわたって語り聞かせる役ですから、登場も最も多 く、ここが駄目だと全体が台無しになります。ショルも含めてこうした人を集めてくるということは、 ヘレ ヴェッへの力でもあるのでしょうか。声の質は硬さがなく透明に響くゲルト・テュルクの種類とはまたちょっと違い、もう少しかっちりとし た輪郭があるでしょうか。音で聞かせるよりも言葉の際立つところが若干強いかもしれませ ん。歌い方自体にはやわらかな抑揚もあります。ロンドン生まれで、オベラから現代曲までこ なす人です。もちろん、エヴァンゲリストとして最も有名なようです。 バスのセバスチャン・ノアックはフィッシャー・ディースカウに学んだベルリンの人で、硬 さがなくよく響く声質でダイナミックです。発音は鋭角的なフレーズで、よく振わせます。語 り口調の上手な人という印象です。 イエス役のミヒャエル・フォッレはオペラの分野で活躍してきたドイツのバリトンですが、 確固とした硬い輪郭を作ってよく響き、低い音も魅力的であると同時に抑揚のダイナミックな 印象の人です。 2001ハルモニア・ムンディの録音は瑞々しく、ホールトーンもきれいに入っていて文句 のない音響です。 (*)何らかの圧力で歌詞 を変える必要があったのか もしれませんが、理由はわかりません。作詞者もわかりません。英語では「信仰」を表す言葉として belief とfaith という二つがありますが、前者は与えられた宗教としての教義を信じる場合、後者は自分の中の声や感覚、あるいは存在そのものへの信頼を表す場合などに好ん で使われる傾向があるようです。自分を外から律するか、内側を見つめるかという違いです。 バッハのこの部分の詩を変 更する必要があったということは、faith ではなく、belief をもって生きよという、当時の社会からの圧力だったのかもしれません。原罪を強調するような方向に変わってしまったのは残念です。 通常版(第2稿と第4稿を除く 版)の歌詞は下記: 熟考せよ、わが魂よ、不安とひとつになった喜びをもって、苦をともなった歓喜と 部分に狭められた心とを もって、イエスの苦しみの中にあるあなた自身の至福を見つめよ、あなたにとってそれがどんなものであるかを 見つめよ、彼を貫いた刺によって、その小さな「天国の鍵」は開かれる! 彼の苦しみの中からあなたは多くの甘き果実を摘み取ることができる;ゆえに躊躇することなく彼を見つめよ。 第 4稿の歌詞は下記: 熟考せよ、わが魂よ、不安とひとつになった喜びをもって、無情な重荷によってうち ひしがれた、イエスの苦し みの中にあるあなた自身の至福を見つめよ。あなたを鞭打つ、ここにある鞭を見よ、あなたの罪によってヒソッ プは育つ、そしてイエスの血を注ぐことであなたは浄められる。それゆえ常に彼を見 つめ続けよ。 INDEX |