マーラーの交響曲第5番〜「アダージェット」
この「アダージェット」のページは当初、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と合わせて一つの記事でしたが、分けて整理しました。 モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」はこちら そしてモーツァルトの次はいきなり飛んでマーラー、何の関連もありません。大昔は後期ロマン派のマーラー やブルックナーの長大な交響曲たちはあまり話題にならなかったと思いますが、70年代に、多分熱を帯び出したのはその中頃以降でしょうが、すっかり脚光を浴びるようになりました。学校の先生に「お前たちこんなに長い曲、我慢して聞くことすらできないだろ」とおどかされたりもしました。そのきっかけとなったのは現代音楽が不人気で「20世紀の新ロマン主義復興」機運が盛り上がったせいもあったのかもしれませんが、一番には1971年公開の映画「ベニスに死す」 のせいではないかと言われています。監督は76年に亡くなっているイタリアの名匠ルキノ・ヴィスコンティ。原作同様にスリリングだった「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1942)のデビュー作や、狂ってさまよい出た王を探す松明が湖面に映る様が幻想的だった「ルートヴィヒ」(1972)など、印象に残る作品を撮っています。「ベニスに死す」はノーベル賞作家トーマス・マンの小説を多少アレンジして映画化したもので、この中で全編にわたってマーラーのアダージェットという曲を使っているのです。 映画と原作、ドイツロマン主義 ストーリーはなかなか粘着性の感じられるもので、最近の世代では好きな人が持ってた文庫本のタイトル「ベニスに死す」を見て密かに読んでみた、などということはないと思いますが、そんな淡い憧れぐらいだと歯が立ちません。原作での作家からマーラーをモデルにした作曲家に変更された(原作でもグスタフという名前でその含意があります) 主人公がコレラの流行るヴェネチアで美少年を見つけ、目が離せなくなってストーカー行為に及び、そのままコレラに罹って死ぬという話なのです。ギリシャ・ローマ文化は別として、旧約聖書では同性愛は死罪に値したほどで、つい最近までキリスト教世界では悪でしたから、この話は十分衝撃的だったのでしょう。でも対象が異性でなくなっただけで人間の心は何も変わらないものであり、ゲイの人たちの社会的承認を得るにはありがたかったと言えるものの、現代では三島由紀夫の「仮面の告白」同様、それだけではもはや文学的ストーリーとしてのインパクトは持ち得ません。そもそもが原作がこうなのであって、文庫本では「トニオ・クレーゲル」と一緒になっているこの作品、代表作の難しい「魔の山」と合わせて、読み進めるのに抵抗を感じる面もあろうかと思います。トーマス・マン の感性自体がすでにどういうのでしょう、世紀末は過ぎてるけれども正に後期ロマン派のマーラーにも通底しそうなものに思えるのです。 そのマーラーの音楽には崇高さと通俗的諧謔が振り子のように交互に現れる傾向があるように感じますが、崇 高な精神というものは意図的に作り出せるものではなく、意識して崇高であろうとすれば、その反動で諧謔的な陳腐さが顔を覗かせることになってしまいます。 煙草をやめようとすると吸っている夢を見るようなものです。彼の音楽がよく言われるように統合失調的な分裂でないのなら、高尚なものでありたいと強く願う心が背景にあったのかもしれません。同じようにトーマス・マンの文体の難しさは哲学的に高邁であろうとしているかのようでありながら、物語は性の衝動に引き裂かれて破滅する姿を描きます。マンはマーラーをモデルに想定するぐらいですから、何か近しいものを感じていたのでしょうか。それは人間の普遍的な姿でありながら、どこかこの時代のドイツ文化独特の自意識のあり方を感じさせるものでもあります。 ただ、「ヴェニスに死す」の延々と続くストーカー話が不愉快に思えるのは必ずしもそういうことではなく て、二つの性に分かれた人間の本能が、いくつになろうが立場がどうであろうが止みがたく存在し続けていることに目を向けさせられるからかもしれません。政治家や聖職者、有名人などが起こすハラスメントやスキャンダルに我々は眉をしかめる一方で、それをどう処理するかの違いで衝動自体は自分の日常にも存在し ているわけです。何とも厄介なことです。 映画の方は大変ヒットしました。オーディションで探した美少年役のスウェーデンの俳優が美し過ぎて日本で も追っかけが出るほどであり、当人は当惑して隠れたこともあるとか。そしてテーマ音楽として使われたことによって「アダージェット」自体が有名になったわけですが、これはモーツァルトのピアノ協奏曲第21番の第二楽章が映画「エルヴィラ・マディガン」によって親しまれるようになったのと同じ構図です。そういえばあの映画で一躍人気者となった美少女役の女優さんもスウェーデンの人でした。 作曲時期と背景 「アダージェット」はマーラーの交響曲第5番の第四楽章です。これはマーラーが四十一歳 の1901年の夏に書き始め、翌年の夏に完成させた交響曲で、その作曲途中の11月に二十二歳だった画家の娘アルマと知り合い、12月に婚約するという出来事が挟まっています。3月には結婚して翌11月には娘が生まれるというフルスロットル状況ですが、このアルマという女性はマーラーと会う前も、結婚中と亡くなった後もクリムトやココシュカを含む有名人との華やかなアフェアで有名だった人で、その行為自体を描いた官能的な絵も残っています。マーラーは彼女が一晩中自分のそばにいるかどうか確認せずにはいられないという神経症状態に陥ったそうで、後に精神分析のフロイトのところへ行ってやっと少し軽快したとのことです。人が治るのはセラピストの意識的な力ではないにせよ、そんなこともあってアルマはファム・ファタル(仏ファム≒フィメール:女/ファタル≒ フェータル:致命的)ではないかという声もあります。クリムトによって有名になった概念で、聖書のサロメのように男を魅惑して破滅させる女という意味です (サロメがヨハネに恋して拒絶されたので首を切らせ、その首にキスをしたというのはオスカー・ワイルドの戯曲における創作)。そんな風にアルマばかりが悪いように言われるわけですが、でもどうなんでしょう。夫グスタフの方も妻の日常の行動を支配し、全ての芸術活動を禁止したりして縛り上げていたようですから、お互いが引き合った運命の出会いかもしれません。 そしてこの「アダージェット」は婚約中にマーラーがアルマを想って作った曲です。アダージェットというのは速度表記としてはアダージョより速いにもかかわらず、「非常に遅く」と指示されています。夢見るような息の長い音が続いて行く独特の運びで抗しがたい魅力がありますが、長く視線をそこに固定せずにはいられない恋愛感情そのものです。ストリングスとハープが奏でる静かで甘美な和音に乗って時折微かな不協和音が混じり、甘い希望に思い込みから来る苦さが交錯します。徐々に力がこもって行く長いクレッシェンドは息苦しく、狂おしい期待にむせびます。こういう具合に恋する感情を露にする曲は他の作曲家でも聞かれるものの、ブラームスはもっと逡巡する感じで、ドヴォルザークはより真っ直ぐで明るく聞こえます。マー ラーは一流の自意識の強さが印象的な作曲家であり、指揮者のアーノンクールはそこが嫌いと発言していましたが、それでもこの曲の叙情性には真に迫ったものがあると思うのです。他にもこの作曲家の緩徐楽章部分には美しいものが多いです。完成しなかった第10番のアダージョや、「死ぬように」という表記で有名 な第9番終楽章のアダージョも似た波長を持っています。因みに10番について言えば、それは妻アルマに建築家の恋人ができ、そのラブレターを読んでしまった頃の作曲であり、別荘に押し掛けて来られたりして悩んでいたのです。アルマの存在はこの作曲家にとって常に大きかったのでしょう。 そういう状況を知って聞くと興味深いかどうかはともかく、5番のアダージェットに加えてそのように静かな曲の部分を集めるなら、マーラーだけで旋律のきれいな 入門用 CD を作ることも可能です。冒頭ではこの作曲家は70年代中頃より前にはさほど聞かれなかったようだと申し上げましたが、今はたくさんいらっしゃるマーラー・ ファンの方たちが、5番の第四楽章だけを切り離して入門曲扱いするのはけしからんとおっしゃるかもしれません。それでも甘くロマンティックなこの「アダー ジェット」こそが、やはり広く楽しまれるものであることに違いはありません。 演奏とCD 「アダージェット」はゆったりした緩徐楽章なのであって、そこだけの話ですからどれかの演奏がすごく合わな いなどということは基本的にはないと思います。あまり細かな表情は付けず、抑えたレガートからダイナミックに立ち上がるカラヤン、全てのパートでよく歌い、ボルテージが高くてオーケストラの 技量が圧巻のアバド/ベルリン、同じ指揮者ながらそれより ゆっくりで平滑に分解して行きながら冷たく光る弦でデジタルに爆発させるシ カゴ響とのもの、ワーグナーのような物語性のある大きな振りのテンシュテット、ゆったりやわらかく行き、クレッシェンドの強め方に秘められた野趣を感じさせるゲルギエフ、一番情緒たっぷりの起伏を付けるチョン・ミュンフン、滑らかに真っ直ぐに磨かれ、マッシブで力強くもあるヴァンスカ、駆けたり止まったりの伸び縮みがあり、たっぷりした叙情性とはまた違った趣のノリントン、抑えていながらフレーズの途中で急激に強めたり弱めたりすることで可燃性を感じさせるロトなど、いくらか聞いてみました。どれもそれぞれの魅力があると思います。 そんな中では、やや速めながら細かく強弱の付いたラトルの演奏も大変良かったし、もう少しテンポの面であっさりに聞こえますが、マリス・ヤンソンスの明るい波長もまた大変魅力的でした。ハイティンクもヤンソンスも好きでよく取り上げていますので当たり前といえば当たり前なのですが、ヤンソンスの方は新しいところで二つ出ており、どちらも基本的な解釈は似たものに感じます。この人らしい演奏の喜びを感じさせるもので、恐らくはマーラーの魅力でもあるちょっと心を病んだような音、自己陶酔と固執、誇大とも取れる爆発的な激しさといった情動の暗い側面では弱いかもしれません。ただしそれは主に他の楽章でのことです。二つの録音のうち新しい方の2016年、バイエルン放響との BR クラシック盤は音響面の難しさがあるというガスタイク・ホールを借りてのライヴ収録ということもあり、良い音ですが若干弦の艶が控えめな、さらっとしたバ ランスに仕上がっています。新しい自前のホールがもうすぐできるそうなので期待です。そしてロイヤル・コンセルトヘボウ管との2007年録音盤の方がよりふくよかな響きと艶を感じさせるもので、そちらの方が好みでした。オーケストラの質の違いというものはあるかもしれませんが、どちらも素晴らしい楽団ですので演奏面での優劣は付けられません。 Mahler Symphony No.5 (〜4th mov. adagietto) Bernard Haitink Berliner Philharmoniker ♥♥ マーラー / 交響曲第5番(〜第四楽章:アダージェット) ベルナルド・ハイティンク / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1988)♥♥ ただ、この曲の演奏を探すとなると結局は好みの問題ながら、過度に起伏をつけて息苦しくなるようなもので はなく、小細工もせず、ロマンスということである程度はゆったりと進行させているものがいいと思います。録音も良い方がいいでしょう。たくさんある演奏の中で、やはりハイティンクの演奏は秀逸だったと思います。この人がいつもいいとは言いませんが、この5番はけれん味がなくて細部まで注意が行き届き、決して余分なことはしないけれども感情に従った表情を付け、やわらかくよく歌っているのです。フィリップスの録音も自然で魅力的です。 そのハイティンクについては、第1番「巨人」の演奏と録音が素晴らしかったことはすでにご紹介しました。 一方で5番の方は四つあります。全てフィリップス録音ですが、コンセルトヘボウ管との1970年のセッション録音、86年のクリスマス・ライヴ録音、88年のベルリン・フィルとのセッション録音、そして2004年のフランス国立管弦楽団シャンゼリゼ・ライヴです。 70年盤は四十一歳時で若さがあり、演奏の起伏の点でフレッシュな動きを感じさせる好演です。動きのある表情と均質さのバランスがとれたもので、 曲全体の演奏としては一番かもしれません。フィリップスのアナログ録音も大変良いものですが、オリジナル盤では些細なことながら若干ヒスノイズ感があり、 弦の艶が消され気味に聞こえます。その後ペンタトーンからリマスター盤が出ていてそちらは確認していないですが、改善されている可能性もあるでしょう。 86年のライヴ盤の方は、今度はライヴという環境から70年盤同様の起伏があり、テンポも同じぐらいで自 然な動きがあってよく歌っています。乗りの良さという点では一番かもしれません。音もライヴとしては大変良いものです。 2004年のフランス国立管との演奏はハイティンク七十五歳時の公演のもので、テンポが大変ゆったりになり、静かに抑えられていて立ち止まりそうなところもある演奏です。音はライヴらしい水準で悪くないですが、やや引っ込んでいて色鮮やかさはなく、残響と弦の艶は控えめです。 そしてここで写真を掲げたベルリン・フィルとの88年盤は、2004年盤ほどではないけれどもその前の二つと比べればテンポはゆったりであり、表情も細かくは付け過ぎてない方です。ブーレーズほどではないにせよスタティックであり、人によっては間延びしているように聞こえるかもしれませんが、アダージェットの部分ではその静けさが案外瞑想的で良く聞こえます。最も自然な抑揚だと言えるでしょう。かといって途中でぐっと盛り上がるクレッシェンドではしっかりと気持ちの方も盛り上がります。コンセルトヘボウの音の方がこの曲に合っているという考えの人もあるかもしれませんが、ベルリン・フィルも大変精度が高いです。どちらの楽団もマーラー本人が指揮したことがありま す。そして何よりも録音バランスが大変良いのがこの盤の魅力です。合奏での強いところの弦も潰れず、大変きれいな音です。この楽章の魅力はその包み込むような音響にもあると思うので、大切なポイントだと思うのです。 Mahler Symphony No.5 (〜4th mov. adagietto) Michael Tilson Thomas San Francisco Symphony Orchestra ♥♥ マーラー / 交響曲第5番(〜第四楽章:アダージェット) マイケル・ティルソン・トーマス / サンフランシスコ交響楽団 ♥♥ これはうれしい驚きでした。ハイティンクなどより後発の2005年の録音で、目下のところ私的には「アダージェット」(と5番全体で)のベストです。ティルソン・トーマスという人は以前からそのファッション・センスと同様に整った、大変綺麗な演奏をする人という印象でしたが、ここではただきれいという次元ではなく、迫真の美を感じさせる出来と感じました。今までの認識を変える名演ではないでしょうか。出だしからしばらくは抑えられた均整美をもって進みますが、力強いクレッシェンドを聞かせたあたりから味わいが濃くなり、テンポもぐっと落としたり繊細に弱めたりの表情が豊かになります。内側から湧いたような自然さがありながら波打つ鼓動を感じさせ、この指揮者独特のセンシティヴィティは残したままスケールが大きくなった印象です。夢見るような表情も素晴らしく、後半の追い込みからラストの大きな盛り上がりを経て消えて行く部分では残映の中に一瞬の真実を見せられたような気がして圧倒されました。真性のマーラー・ ファンがどう言うかは分かりませんが、この作曲家をもっと聞き込んでみようかという気にさせるほどで、この人のマーラーはファン以外をも虜にする魅力があると言えるのではないでしょうか。 録音がまた大変良いのです。この曲で一、二を争う優秀録音と言ってよいと思います。地元のホールで自前の レーベルですが、輝かし過ぎるということはなく、自然なバランスながらよく分離しています。こういう曲で音が良いことがいかにありがたいか痛感します。 |