ハスキル / クラウス / ヘブラー
 そしてカサドシュとカーゾン、ギーゼキング...
 モーツァルトのピアノ協奏曲(2


clarahaskil   lilikraus   ingridhaebler

取り上げる CD 9枚:(第20番:ハスキル/クラウス/ヘブラー/ギーゼキング
/ 第27番:カサドシュ/カーゾン '64/'70/ギーゼキング/ハスキル/クラウス)


その他の演奏家によるモーツァルトのピアノ協奏曲はこちら (「モーツァルトのピアノ協奏曲」)
その他の第27番 K.595 の CD はこちら

   

クララ・ハスキル、リリー・クラウス、イングリット・ヘブラーの演奏

 別々の個性であるこの三人を20世紀中頃の女性モーツァルト弾きとしていっしょくたにするのもどうかと思うのですが、慣例としてずっとそういう扱いだったことは事実です。協奏曲に関してはそこそこきれいなバランスのステレオ録音であるケースもあるながら、その他はいかにもステレオ初期の音だったりモノラルだったりして個人的にはあまり聞かない方なので、CD 比較の本編では扱いませんでした。しかしこの分野としては歴史的に大きな位置を占める演奏なので、ここでまとめてちょっとだけ触れることにします。そうすることで三人の個性の違いが比べられると良いなと思います。ピアノ・ソナタで比較すべきだという考えもあるかもしれませんが(その後「モーツァルトのピアノ・ソナタ」で行いました)、代表として取り上げるのは20番 K.466 の協奏曲です。



クララ・ハスキル
 魂の窓である目は生まれ変わっても変わらないなどと言いますし、三つ子の魂百までと言う方がいいかもしれませ んが、クララ・ハスキルの写真を見るとその目は若いときから老年まで、雰囲気を変えない人の代表のようです。 ルーマニア生まれということで、彼の地を舞台にした人気映画の女優さんみたいな、ちょっと神秘的なポートレート もあります。三人の中では最も影がありそうに見え、そして最も硬派だと思われているのがこのハスキルかもしれま せん。1895年ブカレストでユダヤ系の家庭に生まれ、第一次大戦のときに19歳。ステレオのレコードが本格的 に出てくる頃である1960年に亡くなっています。多くの温かい援助が差しのべられたので不幸とは言えないと思 いますが、わが国では「壮絶」とされて喜ばれる人生のエピソードもあるようで、ブレースを必要とするほどの側湾 症、社会不安障害、貧困、そして例のナチの問題と階段転落による急死などが語られるようです。三大天才の一人と 呼んだ有名人もおり、その後も「世界三大」のタイトルを冠する試みが続くほど人々の心を捉えて離さない神話性が あります。希代のモーツァルト弾きとして名を馳せましたが、果たしてその演奏はどういうものでしょうか。



   haskilmozart20.jpg
     Mozart Piano Concerto no.20 K.466
     Clara Haskil   Igor Markevitch   Orchestre des concerts Lamoureux


ピアノ協奏曲第20番 K.466
クララ・ハスキル / イーゴル・マルケヴィッチ / コンセール・ラムルー管弦楽団

 最初に全体の印象から始めようと思います。さっき三人の中では最も硬派だと思われてるだろうと言いました。彼 女が得意だったこの20番については確かに強さが出ますが、それは力で押す強硬の意味ではなく、禁欲して抑揚を つけないということでもありません。下世話に言えば、三人の中でハスキルを褒める人は最もよく「分かってる」人 に見られる、というニュアンスが少々あります。でもそれではジャズ・ピアニ ストでピーターソンを評価したら素人と言われ、モンクを褒めとけば通だと思われるというのと同じ議論で実がありません 。世界的な評価が最も高そうなのはハスキルですが、クラウス好きは軽くてヘブラー・ファンは平凡なロマンチスト だと言われて気にしていたのではいい演奏に出会うチャンスが減ります。
 安易に硬派云々と言いだしたのは自分ですが、私はハスキルには何か感情の揺れのようなものを感じます。リ リー・クラウスには楽し気 なときがあり、ヘブラーには穏やかさがありますが、ハスキルは気安い雰囲気ではありません。どこか魔力があるのです。

 モノトーンのように見える平静が支配しているようでいて、行間から滲み出す情緒があります。さらっとしている ようでほの暗く、深刻とまでは行かないけど真剣です。達観に見えてそうじゃない。一筋縄では行かない人です。こ の時代の弾き方の特徴の一つでもありますが、テンポ・ルバートというのか、でも小節内で帳尻が合っているとも一 音の強めのためとも言えないような独特のテンポの変動があり、そのせいか子供が弾いているようでいて、あどけな さはありません。決して否定的な評価ではありませんが、言うなれば、はかなさでしょうか。これは写真を見て言っ ているのではなく、ライフヒストリーから想像してるのでもありません。あくまでも音を聞いての印象です。実際最 近まで彼女の身辺のことは知りませんでした。
 A のように見えて B という二律背反がキーワードになる人の場合、その心には解けないものを解こうとするダイナミズムが生じているのかもしれません。これは他者を巻き込 みます。知らん顔で「大したことじゃない」と流しつつ、助けは求めず、無意識に何かを訴えている。放っておけず 惹きつけられます。何を言おうとしているか相手に聞こうとさせる力が働くのです。それはある種の人が夢中になる 資質 で、可哀想と思う人もいるでしょう。その意味でハスキルが好きな人は三人姉妹の残り二人には興味がない可能性も あります。そしてこうした資質が技術と相まって高い次元で昇華され、天才と呼ばれる魅力的な芸術を生み出してい るのかもしれません。

 ハスキルの20番の協奏曲には珍しいことにステレオがあります。亡くなる年に録音されたもので、一般にはこれ がよく聞かれるのでここでもそれを取り上げます。クラウス、ヘブラーとも同じ土俵で比較できます。他にも 1957年のヒンデミット/フランス国立放送(協会)管弦楽団、56年のミュンシュ/ボストン交響楽団、同年の カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団、54年のフリッチャイ/ベルリン RIAS 交響楽団のセッションとライヴ、50年のスヴォボダ/ヴィンタートゥール交響楽団とのものなど、たくさん出ています。これらはモノラルですが、ピアノの音 は必ずしもステレオに劣るとは言えないものもあります。全部は聞いてないですし、どれがいいかはファンの人が詳 しいと思いますのであえて深入りしませんが、ハスキル自身の性質を述べたところは他の盤の印象も混じっているか もしれません。

 第一楽章はオーソドックスなテンポで入ります。滑らかさはありますが、要所で力強い管弦楽です。ピアノはくっ きりとしたタッチで入ってきます。鮮やかで強く響くので、この曲の意志を感じさせます。音を連ねて速く弾く場面 では同曲でのクラウスのようには走らず、テンポ方向の揺れも少なく感じます。ヘブラーのもやのかかったような静 けさもなくクリアで、三人の中では最もストレートです。ここのところはすごく特徴が出る弾き方ではないなが ら、内的なボルテージは高い印象を受けます。テンポの緩めと強弱の陰影は繊細につけており、弱め方にはセンスを感じます。ストレートと言いましたが、グル ダのように熱く前へ前へと行くストレート さという意味ではありません。全体にテンポの揺れは他のハスキルの演奏よりは少ない方でしょうか。カデンツァは ベートーヴェンを使わず、オリジナルです。さざなみのようなところは瞬間ショパンかという気もします。

 第二楽章は滑らかでも静かでもなく、ピアノがやや訥々と、あどけない子供のように始めます。即興性があるので しょうか、流れの中で一音だけのスタッカートを使ったりもしますが、表情過多にはなりません。強い音はきっぱり と叩きます。拍のずらし方については早めると遅らすの両方向あり、弱音で瞬間駆けるようにタタッと二、三音早ま る場合もあるながら、粘るように遅くする方がより目立ちます。拍を微かに遅らし続けることで気分を高める手法な のでしょう。聞き手の注意が集まると思います。要所で間(一拍目の大きな遅らせ)も上手に使います。こういうア ゴーギクは現代ではあまり聞かれない気がする一方で、装飾音は少ないです。慌てずゆったりと進んで行き、短調 に変わるところでは速めつつ粘るルバートも見せます。そしてしめくくりはゆったり静かにリタルタンドして 行くのが印象的です。

 第三楽章はやはり速くはないテンポながらきっぱりとしたピアノで入り、大胆にスタッカートを使い分けます。 オーケストラに引き渡されると同じ調子でスタッカートで区切って行き、走らずくっきりとフレーズを処 理して行きます。ピアノも終始走りません。カデンツァはモーツァルトのフレーズを短く使って最後の音につなげて しまうもので、ほとんど展開させていません。

 フィリップス1960年のステレオです。ピアノの音自体はクラウスほど艶はないし、ヘブラーほどやわらかくも なく、芯があってあまり光らないものであり、ややオフながらシルキーというか、きれいな録音では あります。強く叩くと軽い金属的な倍音が加わって静まって行きます。オーケストラの弦にも同じようにメタリックな細い音が加わるので、録音全体の傾向かも しれません。フォルテで若干濁りがある気はします。難を言えば音圧 バランスとして高域の弦が多少薄っぺらく響き、低音はボンつき気味なので、モノラル録音のように聞こえる瞬間も あるということですが、この人の録音としては大変良い状態でステレオであること自体がありがたく、全く気にする 必要はないと思います。残響はさほど大きくありません。カップリングは24番です。

 
  
リリー・クラウス
 日本でだけかもしれませんが、もしモーツァルト弾き三人姉妹と呼ぶならば、二番目のリリー・クラウスは 1903年生まれ、クララ・ハスキルの8歳下の妹ということになります。1986年に亡くなっていますが、ハス キルのお隣の国、ハンガリーはブダペストに生まれたやはりユダヤ系のピアニストということで、少なくともこの二 人は色々と比べられるかもしれません。クラウスのような「壮絶」なエピソードはあまり聞かれないものの、戦時中 に日本軍につかまったことはあり、ナチを避けて出国したのは同じですから語り口の問題でしょうか。それでも戦後 来日し、イギリス国籍を持ってアジア(オーストラリア/ニュージーランド)やアメリカでも演奏活動を行いまし た。国際的に活躍した後、最後はアメリカに住んで亡くなっています。ハスキルとは対照的に好奇心というか、 ちょっと茶目っ気のある笑顔が印象的な写真がたくさん残ってますが、モーツァルトについては一家言あり、有能な先生でもあったのでしょう、詩的な比喩も交 えて核心を突いた論評もしています。このリリー・クラウスについてはソナタだけでなく協奏曲 に関しても比較的録音状態が良く、きれいな音を楽しむこともできます。つい最近もリマスターで大きく変わっ たようです。具体的にはどんな演奏なのか、ちょっと見てみようと思います。



   krausmozartpianoconcertos.jpg
     Mozart Piano Concerto no.20 K.466
     Lili Kraus    Stephen Simon   The Vienna Festival Orchestra

ピアノ協奏曲第20番 K.466
リリー・クラウス / スティーヴン・サイモン / ウィーン音楽祭管弦楽団

 ハスキル盤の五年後の1965年、ヘブラー盤とこのクラウス盤が出ました。クララ・ハスキルはちょっと神秘的なところがあり、燃え立つ炎と言ったのはクラウスながら、静かに燃える炎の魅惑があってファンには熱烈な方が多いようです。しかしリリー・クラウスの演奏にもまた昔から根強い愛好者がおられるようで、またちょっと違った、別の個性があるのです。ファン心理というものは持ち合わせませんが、私もこの個性は好きです。愉悦を感じさせ、 女性とい うことを意識するなら可憐と表現しますか、チャーミングさがあって、ある種モーツァルトに最も似つかわしいと言 えるかもしれません。20番は短調でひたむきな感じのする曲なのでハスキルの方が人気があるかもしれませんが、 クラウスには機知に富んだ自由な精神が感じられます。ちょっと遊んでいるような軽さがあって、苦しみや悲しみは 味わいつつ、その横をすり抜けてしまうような明るさがあります。そしてあっけらかんとしているようでいて十分に 繊細でもあるのです。ブレンデルやペライアのように緩徐楽章で湿り気のある弱音で浸ることがなく、24番では ゆったり歌ってるけど明るいし、23番の第二楽章などはあっさりし過ぎるほどで、ハスキル派はこういうのは好み で はないでしょうか。最後の白鳥の歌である27番など、かなり理想的なバランスで美しく歌い上げていると思います(後 述します)。ヘブラーのように弱音にデリケートさを求めるのではなく、モダン・ピアノを使っても一定の強さを 保って粒立 ちの良い音で弾くのはモーツァルト時代の楽器を知っているのか、この作曲家の精神をそう受けとめているのか分か りませんが、見識だと思います。これはハスキルにも同じことが言えるでしょう。

 具体的な弾き方としては、強くなったり弱くなったりの脈動があって生き生きしています。ホタルの明滅か、羽を 休めな がら弧を描いて飛ぶ鳥のリズムか、呼吸があって心地良いです。それに呼応するようにテンポの揺らしも自在に発揮 します。これについてはハスキルのところで述べましたが、この時代の演奏法として、ピリオド楽器の意図的なもの を除いてはその後30年ぐらいの間聞かれないような伸び縮みがあります。現代は演奏者の個性を発揮させるために 随分大胆に表情を付ける傾向がありますが、クラウスの場合はそれが時代の空気を感じさせつつ、彼女の個性となっ て自由のために使われているようです。

 第一楽章はヘブラー盤よりは若干速いかなというオーソドックスなテンポでオーケストラが開始します。残響は たっぷりありますが、オーケストラが大きさを感じさせないのはクラウス自身が大きな編成を望まなかったからのよ うです。見通しが良く、音自体もきれいです。
 ピアノの入りは最初静かですが、すぐにキラキラと輝き出します。一音ずつ強さを変えるかのようなメリハリをつ けてきて、短く盛り上げるクレッシェンドも聞かれます。バックハウスやギーゼキング、グードらの拍の前倒しとは 違いますが、ここでは全体に前へ駆け出すような印象があります。そして駆けているときはかなりの快速ですが、自 在に弱め の音を挟んだりしてセンシティブです。アゴーギクにも特徴があり、静かに弾くところはゆっくりで、瞬間的に強め るとさっと速くなります。これらが短い周期で繰り返されると揺れとなり、小節単位でルバートをかけているかのよ うな効果に聞こえますが、実際はハスキル同様パッセージ単位で微妙にテンポが変動する独特の表情がついていま す。盛り上がるフレーズの前でタメをきかせて間をとり、そこから走って強めることもあります。ベートーヴェンの カデンツァは快速ながら力で押す感じはなく、舞うような動きがあって鮮烈です。

 第二楽章はあっさりした心地よいテンポでピアノが入ってきます。明るく跳ね弾む感じです。ハスキルとは反対で 遅らせて粘るところが少なく、トリルは速いです。一音単位で弱くしたり強くしたりの変化に富んだ表情をつけ、ル バート様の揺らしもいくらかあります。全体としては静かでやさしいのですが、やわらかいもやのようなヘブラーと は違ってくっきりした印象です。ピアノが明るくあっさりしているのでテンポが速いのかと思っていると、途中オー ケストラのみのパートでゆったり歌っていることに気づきます。ピアノのタッチは粒のそろった音で歯切れ良いもの です。二音を組で鳴らして行く音符は素早くつなげて叩き、思い切りが良さを感じさせます。こう いうところはヘブラーとは反対のようです。短調に変わっても調子は変わらず、メリハリは大きいですが特に劇的に走るわけではありません。

 第三楽章は程よい速さながら走らずにピアノが入り、例の脈動するような抑揚がつきます。軽やかで自在、深刻と いうよりはちょっと遊んでいるような感じがします。もちろんこの楽章の迫力は十分ありますが。

 1965年エピックの録音で、後にコロンビアからソニーに移りました。ハスキル、ヘブラーの盤と比べてもやや 録音がきれいです。ピアノの音は金属的にならず、透明で艶があります。強い音も割れず濁らず、十分魅力的です。 オーケストラも60年代としては悪くなく、トゥッティで弦が痩せてき つ くなり、やや分解が悪くなるのが残念という程度でしょうか。

*その後最新のリマスター盤全集を手に入れてみたところ、20番はさほど違いがないようではあったものの、曲に よって音の印象が若干異なりました。その件についてはこの記事の一番最後、クラウスの27番の項で触れます。



イングリット・ヘブラー
 ポリティカル・コレクトの観点ではあり得ない言葉、「女流」ピアニスト姉妹という括りもクラウスより23歳年 下、ハスキルより31歳下のイングリット・ヘブラーともなると弛まってきて、もはや姉妹ではなく子供の世代とい うことになります。しかしこの人は特にかもしれませんが、他の作曲家も演奏するながら、モーツァルトに入れた力 の度合いは相当なものです。その意味でも残り二人と比較できるし、60年代に主な録音を残している(ソナタは 80年代に二度目の全集を出しています)点でもいっしょくたにされてきた理由があるのかもしれません。こう言っ ておいてなんですが、彼女のバッハのフランス組曲は変わったことをしようとする流行に乗らず、穏やかで深い情緒 を味わえる素晴らしい演奏でした。1926年ウィーン生まれのポーランド人で、ナチの時代にオーストリーで過ご しているのでユダヤ系の人ではないようです。ウィーンで学んでいるのは三人とも同じですが、ヘブラーはザルツブルク、ウィーン、ジュネーヴの三つの音楽院に入っていますし、50年代には数々のコンクールで賞を取るという輝かしい経歴の持ち主です。モーツァルト本家本元のピアニストといっても、残り二人とはまたちょっと違った趣きの演奏をします。それを見て行こうと思います。

✳︎ モーツァルトの女王、イングリット・ヘブラーは2023年5月14日に亡くなられました。九十三歳でした。



   haeblermozartconcertos.jpg
      Mozart Piano Concerto no.20 K.466
      Ingrid Haebler   Alceo Galleria   London Symphony Orchestra


ピアノ協奏曲第20番 K.466
イングリット・ヘブラー / アルチェオ・ガリエラ / ロンドン交響楽団

 今話題にしている20世紀中頃に活躍したピアニストたちには、この時代の空気というか、よく行われていた慣例 的な技法があると思います。新即物主義に関係あるのかどうか分かりませんが、バックハウス、ギーゼキング、カサ ドシュらに聞かれるアッチェレランド様というか、拍を前倒しに詰めて駆ける手法と、コルトーの系譜になるのかど うか、ハスキル、クラウスその他多くに聞かれる広義のルバート手法が代表的かと思います。しかし一次大戦後に生 まれたヘブラーになると、こうしたアゴーギクはあまり聞かれなくなり、そこが一つ、ハスキルやクラウスと違う点 であるように感じます。そしてヘブラーがこの二人と違うもう一つの点は、モダン・ピアノが出せるピアノ(小さい 音)をかなり小さいところまで使うということでしょうか。60年代以降にはモーツァルトでも一般的になってきて 現代の弾き手たちは皆こういう音を出しますが、フォルテピアノを弾いていた時代を想定するのか、ハスキルもクラ ウスも極端な弱音は使いません。それがあまり情動に流されないように聞こえるモーツァルトの楽曲には曲調の 点でも相応しいものでした。粒立ちの良い音で第二楽章もピーンと叩き、消え入るロマンティストにはならないので す。しかしヘブラーは繊細な弱音を武器にします。そしてそれでもセンチメンタルにはなりません。この人には何か 良識のようなものを感じますし、ゆったり味わいつつ進める繊細な味があるように思います。キラキラしたモーツァ ルトというよりも、やさしいモーツァルトです。

 第一楽章はゆったりしたテンポでオーケストラがやわらかく入り、編成の大きさを感じさせつつ悠然として力もあ ります。ピアノはゆったり静かで、決して走らず、やわらかい音色で終始丁寧に歌います。音の強弱においてデリ ケートな抑揚をつけるものの、過度な感情表現には向かいません。1958年の録音では大胆に弱める音も聞かれま したが、三人の中では最も穏やかであり、女性ピアニストとして好まれる資質も一番かもしれません。中途で駈け出 す表現はないものの、変化をつけ、前にのめらない程度に小気味好く弾くパッセージは出ます。そしてペダル加減な のか夢 の中にいるような、ちょっともやのかかった感じです。他の奏者なら鮮やかに強くクレッシェンドするところも品よ く平静さを失わないように弾き、弱い音のタッチは大変デリケートです。激情に巻き込まれない様は天から見下ろし ている距離感と言ってもいいかもしれません。ベートーヴェンのカデンツァですら同じことが言えます。切迫したグ ルダとは反対に、ユニゾンで駆け上がるクライマックスもやわらかく抑えておいて盛り上げ、落ち着いた美しさに満 ちています。

 第二楽章もやはり静かにゆったりと入って弱音で漂うように進みます。耳元で小声でささやかれているような甘さ と心地良さを感じますが、湿った感情移入はなく、ロマンティックというには静か過ぎます。目立とうという自我か ら発する脂臭さがないからでしょうか。まるで水の中から泡が浮かんで来る音か水琴窟かのようなタッチもあり、ど こか遠くで鳴っている音楽のようです。短調へと変わる部分では速くなりますが、力でねじ伏せるところが全くあり ません。軽さがあって最も肌触りのよいアンビエント・ミュージックとも言えましょう。装飾はほとんど感じませ ん。

 第三楽章はオーケストラにも繊細な表情があります。58年の録音では鮮やかに速かったですが、区切るような ゆったりめなテンポで弱める抑揚が付き、やはり静かで落ち着いています。弱音は第二楽章と同じく繊細です。

 1965年フィリップスの録音は残響が少なめで、ボンつきはないですがバランスが低音寄りであり、幾分オフな 感じがあります。大きな音になると、中高域に張り出しがあって高域が伸びていないせいでオーケストラは若干詰 まっ た感じとなり、ディストーションのせいか透明度が下がるのでハスキル盤同様、ステレオですがモノラル時代の名残 りがある印象です。一方でピアノはやわらかく響きます。適度な艶とまろやかさがあるものの、輝きはありません。 アナログ時代のフィリップスには優れた録音が多いですが、この時期はブレンデル盤のような瑞々しさを期待すると ちょっと届かないようです。今はなきフィリップスということでリマスターをかけてどんどん出してくるという状況 にないのが残念です。



カサドシュとカーゾン

 上記女性スペシャリスト三人と同じ頃に活躍したモーツァルト弾きに、男性ですがロベール・カサドシュとクリ フォード・カーゾンがいます。三人を取り上げたのならこの人たちにも言及すべきでしょう。別の文化圏出身です が、ある理由でちょっと混同する場合があるかもしれないと思い、一緒に取り上げることにしました。本当は混同な んて誰もしないのかもしれませんが、果たしてこの両者、どう違うのでしょう。今度は両者が評判の良い最後の協奏 曲、27番で見てみます。



ロベール・カサドシュ
 カサドシュについては、ジノ・フランチェスカッティとのベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ「春」が好き で、古いものだからイコライザーまでかけてよく聞きました。イザベル・ファウストに驚いたのは最近のことですか ら、伝統的なドイツ系やユダヤ系の正統な演奏にあまりピンと来なかったところもあった私には、フランス文化はあ りがたかったです。でも聞いていた比重が高かったのはヴァイオリンの方だったし、フランスを感じる度合いでもフ ランチェスカッティの方かなと思います。ピアニストとしてのカサドシュの印象は彼のモーツァルトの演奏から自分 の中に取り込まれました。この人のモーツァルトは昔からよく褒められてました。これは私だけの感想かもしれませ んが、この後で触れるクリフォード・カーゾンの褒められ方とちょっと似ていたような気もします。洒脱で、枯れ た、透明な、自然さ、慎ましく、抑制の効いた、飾らない、大人で、シック、清潔、真珠またはモノトーン、といっ た感じだったと思います。共通するのは過剰なことをしない、洗練という印象で、モーツァルトに相応しく聞こえま す。ロココ趣味と言われても私にはよく分からないのですが、新即物主義に近いと言う人もいるようです。これにつ いてはギーゼキングのところで述べますが、楽譜に忠実に余分な抑揚を加えない弾き方だと考えられています。先ほ どの形容詞を見ていると、ああそういうことか、と納得できそうな気もするのですが、カサドシュは緩徐楽章ではや り過ぎかと思えるほど大変弱い音も出すし、テンポも遅いので、単純なカテゴライズは受け付けません。そして特に 27番を激賞する例が多かったので聞かずにはいらません。
 ロベール・カサドシュは19世紀の終わり、1899年生まれ、ギーゼキングやハスキルとクラウスの間ぐらい で、世代としては大体同じです。パリ生まれのフランス人で、教え子にはあのやわらかい歌が洗練されたモニク・ アースがいます。



   casadesusmozart27.jpg
     Mozart Piano Concerto no.27 K.595
     Robert Casadesus George Szell   Columbia
(Cleveland) Symphony Orchestra

モーツァルト / ピアノ協奏曲第27番 K.595
ロベール・カサドシュ / ジョージ・セル / コロンビア交響楽団
 
 第一楽章の管弦楽は中庸のテンポで弾力をもって進みます。きっちりとフレーズの角を鳴らしているのが印象的 で、やや乾いた音に聞こえます。そこにやわらかいタッチで静かに、ふわっとピアノが入ります。弾き方に癖はあり ませんが、やや拍を前に詰めて走るように流します。前述しましたが、これはこの時代特有の、20世紀前半から中 頃に活躍したピアニストに時折見られる特徴の一つで、途中からだんだん速くなるわけではないですが、吉田秀和氏 にならって「アッチェレランド」様、(1) としておきます。次のカーゾンにはあまり見られない特徴で、新即物主義に関連づけられることのあるバックハウス やギーゼキングに聞かれた手法でした。(2) ピアノに合わせているのか、オーケストラも間を置かずに詰める謹厳さを感じさせるところがあります。そしてピア ノには強くする際に前倒しに弾く傾向もあるようです。気ぜわしいか発揚を伝えるかは弾き手、聞き手の双方に 依ると思います。あるいは軽妙さの一端とも言えるでしょう。
 そして大きなポイントですが、カサドシュは力強く弾く人で はないと思います。常にふっと力を抜いて静かなピアノに戻ってきます。そこが魅力です。軽さがちょっと不安定に 聞こえるときもあったり、やや気短にパッと切ったりはあるものの、ほぼ崩さず、癖なく進めて行きます。
 途中からはやや速いテンポに感じられます。弱音で弾くところでは過度な抑揚は避け、音量も一定でそっ と進めます。中程でオクターブ以上にわたる二音間を装飾で埋めることが多い箇所では、楽譜に書かれたものだけ で装飾は入れません。この時代にはよくこうしてシンプルに弾いていました。

 第二楽章は音の間隔を空けてゆっくり弾くピアノで始められます。タッチは最初弱過ぎるわけではありませんが、 白鳥の歌という性質を十分に意識しているかのようで、録音のせいかオフな音に聞こえます。そしてそのピアノの弾 き方ですが、この楽章では大変弱い音を使うところも出てきます。意欲があって良いですが、抑制が効いた慎ましい 音楽と一般に評されるのに対して、それにしてはかなり思い切った表現のような気もします。湿り気はなく、 全体に弱めはしても大きな抑揚はつけません。
 それでもやはり、弱め方自体は弱くし過ぎかな、というのがこの楽章に対する 私の純粋な好みです。二、三の強い強調の音を除いてきらりと輝くことはなく、テンポも音量も摺り足で進むように 常にぐっと抑えて運びます。「慎ましい」というのは表現の振幅ではなく、こういう抑えた音のことかもしれませ ん。し かしそれこそが好きな方もおられるでしょう。思い切りの良さと静けさが両立していて、哲学と官能、皮肉とメロド ラマが矛盾なく同居する文化の人らしいのか、このフランスのピアニストは確かに単純な性質ではなさそうです。第 一楽章とは違い、連らなって上がり下がりするフレーズは間を空け、走らずに鳴らします。部分的に何回かはスタッ カートが出たりもしますが、それも華やかにはならず、常にモノトーンの静謐さが支配しています。 

 第三楽章は軽いタッチが曲調に合っています。一方で、セルだから言うのでもないですが、管弦楽は筋肉質でかっ ちりとしています。ピアノは快速で、前倒し気味の拍も出ます。しかし どこか寒色系のペールトーンといった趣きで、もの静かで傷つきやすい青年のようなイメージが湧きます。小声の独り言のようでもありますが、やはりブレンデ ルやペライアのような内向的情緒はなく、はかなくはあっても乾いています。洗練、とも言えなくないかもしれませ ん。独特の静けさが魅惑の世界です。  

 1962年 CBS の録音でレーベルはソニーからです。ピアノは艶と倍音が乗るものではありません。オフでかすれたようなテクスチャーを感じ、重なる音が少し濁るのが残念で すが、ステレオで聞けてオーケストラもモノラルっぽい箱鳴り感はなく、十分に楽しめます。最近新しくリマスタリ ングされてピアノの音も良くなったということなので、また少し聞こえ方が違ってくるかもしれません。オリジナル のカップリングは26番でした。

(1)「一枚の レコード」: もう半世紀前にもなる雑誌に連載された記事だそうで、バックハウスの技法について語られています。

(2) 繰り返しになりますが、アッチェレランドの典型的なものは、感情が乗ってきたのに合わせて途中からだんだん速くするものでしょう。しかしこういう高揚に 従った動きではなく、むしろ狭義のテンポ・ルバートが特定の音を強調しようとして間を空け、その分残りが速 くなる機械的法則があるのに似て、実際は感興が乗っているにせよ、もっと定型的な処理としてあるべき拍より も全体に前へと詰めて急ぐのです。これを厳密に言おうとすると難しくなります。一拍目が早まってそのまま二 拍目以降が続いても、一拍目の分だけ二拍目の位置も本来より前にずれますが、そういうことではなく、また二 拍目以降も順次前倒しになれば累進的にどんどん速くなりますが、その意味でもありません。最初に拍が早まっ た後でテンポ自体がかなり速い方へ切り替わって急いで弾くような感じ、と言えばより正確かもしれません。も しそこに情感的要素があるとするならば、早く解決しようとして気持ちに前へ前へとドライブがかかる感じで しょうか。こういう手法のモーツァルトは最近ではリチャード・グードに引き継がれているぐらいで、他にはあ まり知りません。この拍の前倒しには私自身の好みで個人的に不寛容なところがあると思いますので、辛口評価 に傾いていたらご容赦ください。



クリフォード・カーゾン
 ひとたびインターネットに広まったイメージはコピーされてずっと残ると言われますが、評論家の言葉も案外そう いうところがあって、どこに隠れているのか、昔誰かが特定の場で語ったことが人口に膾炙して何十年も繰り返さ れ、世間の常識になる場合もあります。そしてこういう前置きをするのはその形容が実像からずれているのに、とい う思いがあるからです。しかし演奏に実体性はなく、ただ個々の印象のみが存在するに過ぎません。繰り返される言 葉はコピーではなく、誰もが等しく持つ感想にしたがって再生産された のかもしれません。クリフォード・カーゾンについて何が言いたいのやら、という感じですが、70年代にそのレ コードが出た頃だったかどうか、モーツァルトの演奏について「淡々として、抑制された表現」というようなことを 書いていた記事を読んだ覚えがあります。ようなこと、では申し訳ないですが、その言葉に興味を覚えて聞いてみて 違和感を覚えました。そしてちょっと似た形容は、もっと前の、前出ロベール・カサドシュについても言われていま した。それでこの二人はどう違うのだろう、と思ったものです。

 カサドシュと同じようにカーゾンを論じる言葉を「淡々、抑制」以外で拾ってみると、清潔/清楚で、端正、気品 があり、高雅、知的/理知的で、これ見よがしでなく、自己主張しない、装飾がなく、透明な音、スタンダートと いったところでしょうか。イギリス人演奏家を褒めるときの言葉のようです。
 クリフォード・カーゾンはイギリスのピアニストです。フランス人のカサドシュとは文化圏も先生も違いますが、 生まれはロンドンで1907年、8歳違いで同じ時代の空気を吸った人とは言えます。リリー・クラウスの4つ年下 です。ベルリンとパリに赴き、シュナーベルとランドフスカに学びました。
 CD は27番については代表的なステレオ録音が二つあり、どちらも評価が高いものです。1964年のセル/ウィーン・フィルとのものと、1970年のブリテン /イギリス室内管とのものです(それ以外にもクーベリック/バイエルン放響とのライブ盤も最近出たようです)。 カサドシュと比較するなら録音年代の近い旧盤でしょうし、普通はその奏者の最も新しい盤を代表とするでしょう が、悩むところなので両方取り上げます。新盤の方はカーゾンという人の性質を最もよく表していると思います。そ して先ほどの「淡々と抑制された演奏」という論評に違和感を覚えたのも新盤の方だったと思います。論者は60年 代の録音のことを言っていたのかもしれません。



   curzonszellmozart27.jpg
     Mozart Piano Concerto no.27 K.595 
     Clifford Curzon   George Szell   Wiener Philharmoniker


モーツァルト / ピアノ協奏曲第27番 K.595
クリフォード・カーゾン / ジョージ・セル / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 大変個性のある演奏です。緩徐楽章で耽溺しているように聞こえる人としては最右翼という感じがして私がモー ツァルトにしてほしいこととは違いますが、好きな人にはたまらないだろうし、その気持ちも分かります。自分の中 の何かのダイヤルを少しだけ緩める方に回したら、このセルとの旧盤の方ならば大好きになるかもしれません。つま り個人的に言わせていただければ新旧二枚のカーゾンのスレレオ・セッションのうち、私ならば旧い方をとります。 独自の世界を現出させた名演でしょう。

 カサドシュとカーゾンが一見似てると思われるという話をしましたが、確かにレンジが音圧の小さい方に寄ってい る、つまり 速いところも小声で流し、緩徐楽章はゆっくり消え入りそうな弱音を聞かせるところは似ています。し かしカサドシュにはどこか飄々としたところが感じられるのに対して、カーゾンの方はもっとウェットな感触が あります。手法としては前述の通りですが、カサドシュはときに音を前へ詰めてアッチェレランド様の駆ける展開を 見せ、さっと思い切りの良いところもありますが、カーゾンにはそれがなく、間をしっかりとって丁寧に語ります。 なんだか前にリチャード・グードとハワード・シェリーの比較をしたこととダブッて既視感を味わってる気がしてき ました。

 第一楽章はオーケストラがやわらかい音で自在に伸び縮みし、途中の楽節で効果的に速める処理とかもあり、カサ ドシュのときの伴奏とは別物です。セルにはこういう柔軟な一面もありましたからウィーン・フィルのせいとばかり も言え ないでしょう。テンポは中庸です。ピアノは初めから力を抜いて弾いて行きます。次のブリテンとの新盤よりタッチ が安定して幾分はっきりもしている気がします。部分的に弱く遅くしたりがあり、弱音の軽やかさが目立つ演奏で、 そっとやさしく撫でるように弾きます。全体としても終始静かでやわらかいと言えます。しかしタッチはもやの中に 沈むのではなく、エッジもちゃんと聞こえて粒立ちが良く、交互に細かく浮いたり沈んたりするような独特の抑揚も 聞かれます。離れた二音間の装飾をどうするかという部分では、直前のフレーズを使って展開させます。

 第二楽章も最初からかなりゆったりで、かなり静かです。部分的にぐっと遅くする表現もあります。そして消え入 りそうな音が聞かれ、途中たどたどしいと言ってもいいほどゆっくりになる箇所もあり、去り行くものの美学という のか、演奏終了間際のオルゴールの味わいです。モーツァルトにピアニシモかと思いつつも正直ここまでできるかと いう感動もあり、静けさでカサドシュの上を行くことは間違いありません。大変きれいであり、これぞ白鳥の歌と感 じる方もおられるでしょう。
 表現としてはやや粘るアゴーギクもあり、ゆっくりのパートでわずかにスタッカートを 混ぜることもありますが、そこではむしろより間が空いた感じに聞こえます。弦のつなぎで一瞬ポルタメントみたい に滑る音も聞かれ、この時代のウィーン・フィルにはまだそうした特徴が生きていたのかと感心します。そして終始 ゆっくりで終わります。

 第三楽章は軽快なテンポで、軽やかながらタッチに差をつけて表情があります。スタッカートもまた軽やかで、力 を完全に抜いています。しかしカサドシュのようにドライにさっとやってしまう感はなく、より丁寧でどれも磨き抜 いた音を出そうという感じです。

 デッカの1964年の録音は古いわりに音が良く、やわらかくてもこもらずボンつかず、歪みによる濁りも感じら れず、弦が薄っぺらくなることもありません。新盤と比べても劣らないと思います。ピアノは特に艶が強いわけでは ありませんが、軽い音で適度にくっきりしており、絹の肌触りと言ってもいいかもしれません。



   curzonmozart27.jpg
     Mozart Piano Concerto no.27 K.595 
     Clifford Curzon  Edward Benjamin Britten   English Chamber Orchestra


モーツァルト / ピアノ協奏曲第27番 K.595
クリフォード・カーゾン / ベンジャミン・ブリテン / イギリス室内管弦楽団

 このカーゾンのブリテンとの新盤は個人的にはごめんなさいしたいところがあるのですが、それは全く個人的嗜好 の問題で、逆に言えば最もユニークな、独自の芸術を切り開いた最高の演奏である可能性があります。

 出だしのテンポはセルとの旧盤同様オーソドックスなものです。そしてカサドシュ盤のセルより柔らかく弾力のあ るオーケストラが心地良いです。ピアノはやはり力を抜いた音で、旧盤と比べて不安定とは言えないかもしれません が、ちょっと転ぶようなトリルが素早く感じられます。こもった音も聞かれるのは録音のせいもあるでしょうが、前 ほどタッチをくっきりさせる方向ではないからかもしれません。強いところにも潤いがあり、弱音に向かってすっと 抜く表現は印象的で、弱く飲み込まれるように抑揚をつけて進みます。今回は軽やかというよりもやわらかく、より ウェットです。繰り返しのフレーズで二度目をぐっと静かにしたりという工夫もあり、一音ずつ強さを変えるような デリケートな表情は音量をある程度一定にして進めるカサドシュとは違います。全体に弱音を駆使して、大きな音を 出すと何かが壊れてしまうかのようにひっそり小声でささやきます。ヘブラーの小声と比較するとやわらかいのは同 じでも、落ち着いているというよりは哀しみを表そうとしているような印象です。この抑えられた世界はプルースト がコルクの部屋に閉じこもって感覚を研ぎすまして書いたという話を思い出させます。
 中ほどの、離れた二音の間の装飾は独特で、旧盤と同じく直前のリズムを低音で繰り返して、その先でちょっと ためらって降りてからまた上がるような高音の飾りで埋めます。ブレンデルとは違う音形ですが、ちょっと似た波長 を感じます。 

 第二楽章はセルとの旧盤よりもさらに弱く弾きます。モーツァルトの死の直前の協奏曲ですが、あっけらかんと 眺めながら透明になって行くのではなく、
映画で最後の息を引き取る厳粛な場面のようです。これ に比べたらブレンデルな どは速くてさらっとしていることになるし、それよりゆったりなペライアですらもっとメリハリを つけているように聞こえます。マーラーが楽譜に書き込んだという「死ぬように」という言葉を連想します。旧盤は 楽しめましたが、これは正直、私には無理です。少なくとも「淡々とし た」という表現は選ばないでしょう。それも相対的な立ち位置の問題なので、好きな人には他にない超絶の名盤とい うことになると思います。具体的には、リタルタンドするフレーズの終わりで弱めます。そっとそっと抑えて、最弱 の音を出そうと緊張しているようです。そして弱音を駆使して弾かれていても、その中にとことん表情がついていま す。テンポは遅く、場所によって極端に遅いと言えるでしょう。オーケストラの音が美しい のが心に沁みます。目覚めた自我が展開させる近代の音楽で、少なくとも古典派の世界ではない気がします。

 第三楽章は力は抜けていますが適度に弾んで、スタッカートも交えて自在に弾いています。テンポも適度に快速で す。そして弱い音へと静めるところはやはり出ます。ここはやわらかいもやの中という感じではなく、適度にエッジ は感じられます。玉を転がすようなきれいな音です。リマスターで蘇ったところもあるでしょう。昔はこれほど良い 音じゃなかったかもしれません。弦もきれいです。  

 1970年のデッカです。音像はやや遠めで残響があり、管弦楽は中低音がよく響きます。しかしカブるわけでは ありません。中高域には適度な張り出しがあり、弦の艶が美しいです。ピアノの音は旧盤よりもオーケストラに対し てやや小さめのときがあり、弱音でこもる箇所も聞かれますが、全体には自然でくっきりとしており、艶があってき れいです。 



ワルター・ギーゼキング
 モーツァルトを弾いて昔から定評のあった人をハスキル、クラウス、ヘブラー、カサドシュ、カーゾンと見てきた わけですから、ギーゼキングについて触れないわけにも行かないのかもしれません。クララ・ハスキルと同じ年生ま れで、亡くなった時からして残っている録音はこの中で最も古く、古い人の常で後世の奏者は決して超えられないと いう声も出ます。一人ひとりがみな独自の周波数を持ってますから誰もが他を超えられなくて当たり前ですが、何よ りこの人については「新即物主義(ノイエ・ザッハリヒカイト/ニュー・オブジェクティヴィティ)」という言葉を 避けて通れないのかもしれません。

 新即物主義というのは主に美術方面で1920年代のドイツに起きた運動で、感情を反映させる(ドイツ)表現主 義に反発して出てきたとされます。音楽においては後期ロマン派のセンチメンタルな表現のアンチテーゼとして捉え られるようです。クレンペラーはこの運動に自ら賛同したようですが、具体的に誰のことなのかは見方が色々あると 思います。ベートーヴェンのシンフォニーのところで、感興にまかせてロマンティックにテンポを動かすフルトヴェ ングラーやその後のフリッチャイらに比べて、正確な運びをするトスカニーニから初期のカラヤンに至る流れもある というようなことを書きました。このトスカニーニがそうだとすると分かりやすいかもしれません。そしてバックハ ウスも入るかもしれませんが、ピアニストでよく言われるのがギーゼキングなのです。

 しかし「そのよう」な演奏が実際に存在するわけではなく、主義という引き出しにしまうと便利だからでしょう。 本当はそれぞれ別の個性を持った人たちが緩い連続体になっているだけであって、そのあるところに網を被せようと いうのです。演奏というものは引き出しに名前のラベルを貼り付けて安心してしまうものではなく、その人を聞くべ きものだと思います。でもその引き出し自体のコンセプトはピアノ演奏ではどういうことだったかというと、「新し い客観性」と呼ばれたのですから楽譜通りであって、思いを込めて長く延ばしたり大きな間をとったりせず、や たらとテンポ・ルバートをかけたりもせず、強弱においても指示記号通りの演奏なのだと思います。よく日本のピア ノ教育にはこの新即物主義の伝統があると言われますが、以前 FM でコンクールの中学か高校の部の選考を何気なくかけていたら、ちょっと意外性も感じさせる素晴らしい抑揚の人が断然目立っていたので気になって最後まで聞 いたことがあります。すると技術的にも差がなさそうな正確で面白みのない演奏(主観です)をした別の人が勝ちま した。バッケッティが替え玉受験したらどうなるでしょう。先生の力関係かもしれませんし、学習者は基礎だけやり なさいということかもしれませんが、すっかりがっかりして、落ちた人がやる気をなくさないといいな、これは暗記 教育文化と似てるかな、サイキックに捜査協力させないことや電車が定時運行するのと同じかな、という具合に一瞬 負のスパイラルに落ちかけました。実際は日本のピアノ教育に携わる人がみなこうではないわけで、昔習った先生は 練習曲が無味乾燥だと言うとバルトークの「子供のために」の楽譜を探してきてくれました。末端には光もありま す。  
 繰り言になりましたが、新即物主義と言われる演奏家にコンピューター打ち込みのような楽譜通りの演奏を している人などいませんし、ギーゼキングも正確なだけの演奏家などでは決してありません。ドビュッシーのページ では名前を挙げるだけにとどめましたが、1937年の彼の演奏を聞くと、当時の一発勝負の録音慣例か時々乱れは あるものの、揃って速い中にも揺れがあり、ぐっと感情がこもったとすら言いたくなるような繊細な表情も聞かれ、 生か新しい録音で聞いたらさぞかし素晴らしいだろうと感心させられました。しかし降りしきる針の雨をよけて耳を そばだてる SP 復刻には限界もあり、CD ですらレンジが足りないわけですから、この人がいくら技術が凄い、前人未到のフォルテを持っていたといったって分かりません。それを了承した上で、定評の あったモー ツァルトを少しだけ取り上げます。
 
 ワルター・ギーゼキングは1895年にリヨンで生まれたフランス育ちのドイツ人で、独学で学ぶタイプで高度の 暗記力を持っていたということです。楽器で師匠や流派というものを特に重視する人もいますが、芸術家はみな独立 した魂ですから、教えられることは一部なのだと思います。ドイツの伝統としては、バックハウスと並んで巨人と言 われます。幅広いレパートリーを持ちますが、特にモーツァルトとドビュッシーの権威として知られてきました。



   giesekingmozart27.jpg
     Mozart Piano Concerto no.27 K.595
     Walter Gieseking   Victor Desarzens   Lausanne Chamber orchestra

モーツァルト / ピアノ協奏曲第27番 K.595
ワルター・ギーゼキング / ヴィクトル・デザルツェンス / ローザンヌ室内管弦楽団

 1948年の録音です。この時代になってくるとさすがに比較も困難なところが出てくることがあります。アゴー ギク(テンポ)はわかりますが、ディナーミク(強弱)は限られたステップの聞き分けになり、倍音が聞こえないと タッチは想像に任せることになります。したがってここでの印象はテンポに依るところが大きいことを申し添えてお きます。伝説のピアニストということで大変高く評価される方もおられるようです。私は一度きりの来日のときに生 で聞いた、などという体験があるわけでもなく録音だけを頼りに「気楽なところも感じられる」とか書いているわけ で、いづれ、主観に過ぎないこととしてご容赦ください。

 第一楽章は録音のせいで残響成分が落ちていることもあるかもしれませんが、ピアノはポロポロと短く区切られた 音で、速めのテンポでどんどん弾いて行くという印象です。音符が混んでいるところは素早く軽やかに流す感じで す。それを聞いていると、感情に浸るということとはおよそ反対のように聞こえます。ロマンティックで重い情緒を カットしてしまったようなところは確かに新即物主義なのかもしれません。たまにスタッカートを交えたり、短いフ レーズの連続的な音符を不均等に弾くこと、例えば一音目を伸ばして残りを詰めるタータタッタというような面白い 処理も出ますが、それも定常的にルバートをかけているわけではなく、その部分での突発的な遊びのようです。ル バート派ではないので粘るようなテンポの揺らしはありません。そして静かなパートで一音弱めたりはあるものの、 強弱も大きくつけているようには聞こえません。
 アッチェレランド様に拍を詰めて走る傾向については、確かにそう 聞こえたように思う瞬間もあるものの、指が走ってしまった、ぐらいの感じで、これもその後が全体に前より速まって いるわけではなさそうです。走っているという点では前のめり傾向の聞かれるバックハウスの弾き方とも似た覚醒し た印象はありますが、それも新即物主義というレーベルの一部なのでしょうか。しかし楽譜に忠実に禁欲したという 感じは なく、気楽に色々やっているようなこだわりのなさというか、少なくとも慎重運転ではないところが乾いた軽さとな り、カサドシュと同じような思い切りの良さも感じます。フランス文化に接したことと関係があるのか、それともこ の人の性 格なのでしょうか。ドビュッシーの演奏については30年代と50年代の録音では若干の違いがあるようで、古い方 は速めながら比較的さらっと行く中に抑揚が現れるのに対し、新しい方は雑ではないけれどもより自由に動か して表現が大胆になってるような気もします。評価の高い彼のモーツァルトについてはどの録音を聞くと良いのか分 かりませんが、ここでのこの独特の流しはどちらかと言えば新しい方に近いでしょうか。時期によってなのか、たま たま曲によって表現が違うのかは古い録音の研究家かギーゼキングのファンに教えていただきたいところです。オー ケストラについては時代も時代ですし、残響が消えてしまってブリキを叩くようなフォルテでは仕方ありません。コ メントは控えておきます。楽章中ほどの離れた二音の間を埋める装飾はありません。  

 第二楽章はゆったりになり、前の楽章のように決して速くはありません。この部分としては中庸のテンポでしょ う。歌わせ方にはちょっとした癖を感じます。第二音節、もしくはフレーズの途中の音を強めたり、後半で段をつけ て弱めたりする場合があります。これも軽い遊びのうちでしょうか。この楽章も情緒に浸らない演奏と言えるでしょ う。耽溺しないという意味では、クリフォード・カーゾンと比べてスケールの反対の端に位置する演奏家だと思いま す。タッチははっきりしていて弱音づくしという感じではありません。そしてさらっとしていますが、一音ずつ区 切って弾くところもあります。それが第一楽章同様、ポロポロと乾いた印象につながるようです。

 第三楽章は、全体のテンポはとくにすごく速いわけではないですが、ピアノは速く弾いているように聞こえます。 二音連なりの音符を詰めて短く弾いたりの癖もあり、トリルも速いです。しかし駆け方は心地良く、思い切りよく叩 いて大胆な崩しが出るフレーズは一瞬ジャズピアニストかと思わせます。センスの良さを感じます。



   giesekingmozart20.jpg
     Mozart Piano Concerto no.20 K.466
     Walter Gieseking   Hans Rosbaud   Philharmonia Orchestra

モーツァルト / ピアノ協奏曲第20番 K.466
ワルター・ギーゼキング / ハンス・ロスバウト / フィルハーモニア管弦楽団

 27番の協奏曲はちょっとばかり古くて管弦楽は蓄音機のラッパから響いてくるようなところもありましたので、 もう少し録音状態の良い20番も取り上げることにしました。 
   
 ギーゼキングという人、遅らすにせよ早めるにせよ、独特の間合いがあるような気がします。時代の空気とばかり も言えないのでしょうが、今の人には聞かれません。コルトーの流れのルバート派ではないはずですが、フランソワ にも聞かれるような崩しのセンスがあり、どう分類すべきか分かりませんが私のボキャブラリーではやっぱりちょっ とフランスっぽい香りです。ここではそんな味わいあるテンポと強弱の揺れがあり、印象的に聞こえるデリケートな 弱めも聞かれます。しかし速いところは27番同様どんどん進めて行ってしまう感じもあります。前述した通りの バックハウスや最近のグードで聞かれるような、アッチェレランド様の前にのめって走るところがあると言えるか言 えないかは微妙です。やはりあるかな。少なくとも駆ける感じはあって、フレーズ頭で拍を前に倒して打つところも 現れ、間を空ける方ではありません。それが陰にこもらない軽やかさとなり、音の連なりをリズムで捉えて楽しんで いるような感覚になります。
 ベートーヴェンのカデンツァではひとまとまりに続く音を短く寄せて連ね、間を詰めて弾きます。一方でその連 なったフレーズ同士の間は隙間の空いた感じです。ユニゾンで爆発的に駆け上がるところも深刻な力を込めず、 ちょっと 遊んでいるように処理します。

 第二楽章はゆったりめのテンポで一音ずつ弾いて行きます。そして弱く流しておいて急に強く叩いたりする独特の 癖が出ます。タッチは強めでくっきりとしています。第一楽章とは一転して大変落ち着いた運びです。場所によって 個性的な揺らしが出るところもありますが、夢見るように浸ることはしません。27番と同じ印象で、ロマンティッ クな感じのしない人です。短調に変わるところも激情に捉えられたりせず、速くなりもせず、落ち着いて弾いて行き ま す。達観したような、ここにしかない味わいのある楽章です。   

 第三楽章では語尾をスタッカートにしたりして軽く跳ねる感じが軽やかです。やはりこの人にとっては音楽はどっ ぷりと情感に浸るものではなく、特に速いところではリズム運動の面白さに目が行っているかのような気配です。こ の語法に慣れてくると良さが分かってくるような音楽だと思います。独特に粋で、魅力的なモーツァルトです。

 1953年、モノラル。もう少しだけ録音が良いと何度も聞きたくなるかもしれません。



   haskilmozart27a.jpg
     Mozart Piano Concerto no.27 K.595
     Clara Haskil   Ferenc Fricsay   Bayerisches Staatsorchester

モーツァルト / ピアノ協奏曲第27番 K.595
クララ・ハスキル フェレンツ・フリッチャイ バイエルン国立管弦楽団

 20番の協奏曲をすでに取り上げているハスキルですが、一部で熱烈に愛好されるピアニストであり、白鳥の歌で ある27番についてもこの曲の演奏のベストだと言う人もあるようです。27番の第二楽章は世の中にこんな澄んだ 曲があるのかと思うほど俗界を離脱したラルゲットで、モーツァルトをおいて他に誰も作れないと思います。好きな 曲なので褒められるものは聞いてみたくなります。前後しますが、同じく神話のように扱われるギーゼキングを聞い たばかりですから、それとの比較にもなるかと思います。

 モノラルです。20番の録音の三年前、1957年のドイツ・グラモフォン盤です。

 第一楽章からですが、リマスターのせいもあるのか、中域の若干のエコー以外オーケストラの音は悪くないです。 ピアノの音も存外良いです。フリッチャイは彼のベートーヴェンを知っていると意外と自然な運びに聞こえますが、 協奏曲でもあることだし、大ミサ曲ハ短調は素晴らしかったし、モーツァルトはこうなのだと思います。場所によっ てはピアノの表現とそっくりにちょっと走るフレーズもあります。そのピアノは間を詰めてサラサラと小走りになる ところとゆっくりのフレーズが交互に出ますが、それはこの人らしいというか、この時代のピアニストの何人かにも 共通して見られるようなテンポの揺れです。もちろんこれもフリッチャイのベートーヴェンのような揺らしではあり ません。小節単位で帳尻の合った機械的なテンポ・ルバートと長いフレーズにまたがる情熱的なアッチェレランド/ リタルダンドの中間のようなもので、呼吸のようにこの人の演奏に染み込んでいます。急ぐところでは少々間のない あわだたしい感じはあるものの、そこがちょっと心もとなくはかなげな感じがして良いところだと思います。揺らし 自体は特に大きくはなく、全体にはさらっと流しています。タッチははっきりしていて一音ずつが独立して粒立って います。大変きれいです。カーゾンなどでは極めて弱く弾かれるようなところもことさら静かにやろうという意思は 感じさせず、そのまま流します。ふわっとやわらかい呼吸があるのですが、それを独特のはかなさが漂っているよう に感じ、何気なく進んで遅くされたりするところで気を惹かれるか、あるいはギーゼキングのようにポロポロと流れ て行ってちょっとだけ取りつく島がないと思うかは感じ方次第かもしれません。
 
 第二楽章はやや速めのテンポで軽く静かに弾き出されますが、弱々しい感じはしません。第一楽章のようには走る 部分がないですが、間を空けるというよりはやや詰め気味なところは感じられます。今度はカーゾンに止まりそうな ほど浸らないでほしいと言いたいのとは反対に、もう少しだけ前のめりにならずに弾いてほしいという贅沢な望みを 感じました。そうするとかなり理想的です。くっきりとしつつ流れて行く様が心地良いです。自己陶酔という感覚は なさそうで、ある種覚めているとも言えるかもしれません。この時代の弾き方としてはベストの一つでしょう。前年 のクレンペラーとのライヴ盤の方がいくらかリズムが安定していると言えるかもしれませんが、だいたい同じ調子で あって、前半はテンポが速い上に音はこのフリッチャイ盤の方がずっと良いので、やはりハスキルのこの曲はこの録 音というのは間違いないのだと思います。そして多くの人にはそれこそが魅力なのでしょうが、それでも私にとって は、拍 が不安定で音が本来の位置から微かにずれるように聞こえるからか、あるいは微妙なスタッカートや繊細な強弱によ るのか、そこはかとない哀しみが感られます。トランシルヴァニアの霧の中から現れた美しい人、という印象です。 全て主観ですが、62歳が弾いているというよりは傷つきやすい青年 期の音楽に感じるのです。モーツァルトも亡くなったときは若かったにせよ、この楽章には白鳥の歌らしい独特の透 明感があり、それは陽気というのとは違いますが哀しみではなく、聞いてもらいたがっているのとも違う気がしま す。 

 第三楽章です。ここも快活で適度にくっきりと弾かれ、曲の趣をよく出していると思います。やはり少し前倒しに 速まる拍があり、それがないと個人的には理想的です。オーケストラが合いの手でややもったり伴奏するところも聞 こえます。それでも全体にさらっとこだわりのないところは素晴らしいと思います。

 録音についてはすでに部分的にいくらか述べましたが、ピアノは硬質に輝くものではなく、尖らないけどこもら ず、輪郭がはっきりしつつ丸い艶が美しいです。音が重なるところで少々不透明になるのは致し方ないでしょう。管 弦楽も上記の通りで、ステレオ直前のセッションということで、モノラルとしては大変良い状態です。19番とカッ プリングです。



   krausmozartpianoconcertos.jpg
      Mozart Piano Concerto no.27 K.595
      Lili Kraus    Stephen Simon   The Vienna Festival Orchestra ♥♥

モーツァルト / ピアノ協奏曲第27番 K.595
リリー・クラウス / スティーヴン・サイモン / ウィーン音楽祭管弦楽団
♥♥
 評判の良かったハスキルの27番を取り上げたので、国際的な認知度はそれより下がるのかもしれませんが、リ リー・クラウスの27番も比較してみたいと思います。ヘブラーも加えた三人の中で協奏曲の録音の状態も比較的良 い
も のです。25番のカデンツァではラ・マルセイエーズ(フランス国歌)の冒頭フレーズをもじってみせるお茶目さんなクラウスのこと、聴衆の注意を集めるハスキルと は違って一人ではじけていますが、明るく自由に遊ぶ中に透明な輝きを放ちます。動的で立体感があり、揺 れの中に繊細な情感を表現する人です。モー ツァルトの屈託のなさを最も良く示し、深刻にならずに静けさを表現するそのキャラクターに おいてこの天才と共鳴できる無二のピアニストではないでしょうか。当時のフォルテピアノの性格からそう弾いている のかもしれませんが、ハスキル同様弱音を一定以下にしないので弱々しくならず、第二楽章では鮮やかな白鳥の歌を聞かせています。そして輪郭のはっきりした美しいピアノの音も堪 能できます。
 
 第一楽章ですが、管弦楽の編成は小さめのようです。曲調のせいか20番のときほど意識しませんでした。オーケ ストラの音はこの時期にしては響きがきれいです。寄せ集めのオーケストラとか若い指揮者とかいう指摘もあるよう ですが、もう少し間を空けてほしいということはあるものの、私は気になりません。
 テンポは オーソドックスなものです。ピアノは一つひとつの音がくっきりして粒が立つ感じです。音の強弱で輝きの違いが出 るところがあります。その強弱は細かくついていて、静けさの中からパッと燃え立つように鮮やかな強めがあったり して心を摑まれます。恣意的なテンポの揺らしは感じませんが、楽しんでいるようなスタッカートに切り替えてきた りして、時折きらっと輝くものがあります。元気さと軽い遊びの間でバランスが取れているという感じです。楽 章中ほどの二音間を埋める装飾は直前の音形を一音多く繰り返し、オクターブ上で跳ねるように展開してつなげます。

 いい演奏家は多いものの第二楽章の弾き方が好みに合う人は少なく、そんな中、クラウスはほとんど理想的で す。テンポは適度にゆったりで、こういうのをマルカートというかどうかは分かりませんが、くっきりとコントラストをつけて弾いて行きます。音の小さいとこ ろでもある程度の強さを保って鳴らすようにしており、ピアノの能力を使って消え入るようにやったりはしません。 ギーゼキングや新即物主義とは違った意味で非ロマン派的で、陰にこもりません。
 オーケストラに手渡す前にリタルダンドが聞かれます。フレーズの後半で速度を緩めるのは得意な語法のようで す。そして一音ごとに区切りがあるかのように鳴らして行きますから、流れる演奏ではないですが、強弱の表情が生 き生きしています。ちょっとフォルテピアノの叩き方のようでもあります。アゴーギクとしては拍を微妙に遅らすと きがあり、反対に早める処理は少ないです。
 途中オーケストラのフォルテで、あたかもレベル調整で小さくしているかのように聞こえる箇所
が いくつかあります。多くの指揮者が派手にやる合いの手の部分なので悪くないですが、何の加減かなと思います。
 クリスタルの輝きがあって、哀しくないモーツァルトです。 

 全く美しい第三楽章です。こうしてこの天才は軽やかに去って行ったのでしょう。表現としては小節の最後をス タッカートにして跳ねるように行ったりし ます。自在なディナーミクがありますが、連続して動かすというより、ステップがあるかのように強さのコントラストが鮮やかに浮き出るものです。連なる音は 玉のようで、静けさはありますが明るい雰囲気です。テンポはじっくりしている方なので、軽やかに流すのが好きな 人には遅く感じられるかもしれません。アッチェレランド様に走ることはなく、フレーズごとに一つのユニットとし て処理して行きます。トリルの前に微かに間を空けたりして粒を際立たせ、次のフレーズに行く前にも間を十分に空 けます。組になった音符を短い分散和音の一部のように続けて鳴らすピアニストもいますが、彼女は反対に分解して 聞かせます。終始落ち着いており、強弱の上ではフレーズの途中に山を作って盛り上げる傾向も聞かれます。

 1966年エピック原盤ソニーです。バラで出てない点がひっかかりますが、クラウスのファンはまとめ買いでも 困らないのでしょう。リマスターにも種類があるようで、最新のものはまたバランスが変わっている
と いうことです。上にジャケット写真を載せた組み物(87年のディジタル・リマスター以降最新のも のまでの間は同じかもしれません。2013 年のスティーヴン・サイモン追悼記念盤の20番〜27番セット)でもピアノの音は良く、新しい録音でないからと いって特に不満は感じません。オーケストラも最高とは言わないものの、ハスキルやヘブラーなど、60年代の他の モーツァルトと比べても弦に艶があり、気持ちの良いものです。

その後、2017年発売の最新のリマスター盤全 集を手に入れてみました。するとやはり音の印象が異なりました。リマスターの考え方には元のマスターテープに記録され た音をなるべく忠実に再現するものと、積極的に音のバランスを変えて元の録音の聞き難いところを直すものとがあ るようです。これはどちらが正しいという問題でもないのですが、録音を偉大な演奏家の遺産として捉えるファンの 中には 前者の考えを支持する方が多くいらっしゃるのではないかと思います。私は録音状況はいつも完璧ではないので、耳 の良い人が上手くやる必要がありますが、
イコライジングなどで整えるのはいいと思ってい ます。自分でも限られたソフトウェアでやってみることがあります。ハイ・レゾリューション・リマスタリングといっ たって、元の精度を考えてみてほしいです。テー プの経年劣化もあります。元来 LP 時代のカッティング・エンジニアからディジタル世代のマスタリング・エンジニアまで、そうやって音は最終的に調 整されてきたのですし、CD 初期にマスターから無調整で製品化された盤はデジタルくさい音として不評だったの です。今回の新リマスターを聞くと、手を加えることを最小限にとどめる原典主義の考えで行われたものではないかという 気がしました。ややオフに聞こえ、バランス上もピアノのキラキラした感じと弦の艶が若干抑えられているように感 じる曲があります。以前の方が調整されていてスムーズに聞こえていたのなら情報量が多かったことにはなりません が、新リマスターの方が周波数バランス的にやや古い録音に聞こえます。しかし、恐らくこれが元の音 だったのだと思います。「 CD2 と CD10 はディジタル音源(87年の CBS ソニーによるディジタル・マスタリングのことだと思われます)が残っているのみだったが、それ以外は2トラック、および3トラックのアナログ・テー プからブレット・ジンがアイアン・マウンテン・ディジタル・スタジオにて24bit/ 192kHzで転写し、ミックスとマスタリングはマーティン・キストナーとマティアス・アーブ、ハンスイェルク・ザイラーが担当した」と書かれています。 「い くつかのテープはブリリアントな音ではあるがテープ・ヒスがあり、その輝きを保ちながらノイ ズを減らすためにベストを尽くしたし(注:ノイズ成分を算定して引き算するため、楽音高域の該当成分も影響を受 けて減少します)、CD12(27番) はテープ材質に大変問題があることが分かったが、オリジナルの音をレストアできた」ともあります。そして一番の違いは、旧リマスター盤は相対的にピアノの 音が大きく、管弦楽の音圧レベルが何箇所にもわたって抑えてあります。それが前述した、レベル調整でオーケスト ラのフォルテが小さ く聞こえることの理由だったようです。新しい方が本来のバランスでしょう。しかし個人的な感想ですが、20番 (CD2)は良いとして、 27番については必ずしも好みではなく、自分なら前のリマスター盤をベースにもっとホールトーンとイコライジングを加えたくなります(今なら YouTube でリヴァーブをかけたと思われる音を全協奏曲 [三分割] で聞く ことができます。[kraus mozart piano concertos] きれいな響きを追求したアクティヴな補正の例ですが、大変上手にやってあると思います。深めに反響を付けているため、強アタック時に混じっているピアノの ディストーションも幾分マスクされています)。そしてそういうこと をしないのがこの新セット企画の価値なのでしょう。

 

自分でできる音質調整について
 最後に余談ですが、クラウスの27番のマスターテープが劣化していたという話も出たので、歪んでしまっている音の調整について少しだけ触れてみます。歪 みといっても、入力オーバーでクリップしたものと、アナログ磁気テープが経年劣化したもの、LP から取り込んだ音源が針のトレースで歪んでいるものなど色々あると思います。大入力でクリップしたものに関してはクリップ・リムーバーのようなソフトウェ アもあります。一瞬だけパチッと歪んだならデクリッカー(LP のパチパチというノイズをマニュアルで取り除くソフトウェア)などで対応できる場合もあるでしょう。ごく短い時間ならカットしてしまう手もあります。クロ ス・フェードという機能でカット断面の頭と尻の音圧を交差させて接続時のノイズを出さなくすることができ、その交差させる時間も選べます。

 これらの方法で取り切れないザラザラっと長く持続するような歪みの場合、あまりひどくない場合は5K から7K ヘルツ前後をイコライザーでそこそこ急峻に落とす設定をしておき、イコライザーのエンベロープ(一つの封筒/制限領域の中で様々な調整ができる)機能を 使ってイコライジングを始める瞬間と徐々にかかって行く度合い、弱めて行く時間とその度合いを任意のカーブで設定してかけて行きます。こうやって歪んで汚 くなっている前後を段々にハイカットすれば案外分からなくなるのです。自然に聞こえるようにするにはタイミングやパラメータを変えて何度かトライすること が必要かもしれません。しかしとくにピアノの音の場合、高周波の倍音は最初のアタックでは強いものの、ポーンと鳴っているときはサインカーブに近く、高周 波を落としても気づきにくいものです。このエンベロープ機能は VST のプラグイン機能として、ものによっては「VSTエンベロープ」となっているかもしれません。音圧の漸進的変化を行うのは波形編集ソフトウェアにネイティ ヴで備わっていることが多いゲイン・エンベロープですが、そのようにエフェクトをかけることをバウンスと言います。だめならやり直しも効きます。これらの エンベロープ機能は大変便利です。

 このフィルターによる除去でも対応できないほどバリバリっと長く大きく歪んでいる場合は厄介で、一音ごとになりますが、他の演奏者で比較的音質の似た音 源からそこの音だけを抜き出してきて、元の音に近くなるようにイコライジングとレベル調整をしておき、例のクロス・フェード機能を使って徐々に繋ぎながら 入れ替えてしまう手があります。本来の演奏者の音ではないわけですが、個人でやる分には著作権も関係ないし、ピアノの基音にはさほど違いが出ません。奏者 の違いというものは鳴らす間合いとタッチの強さで出るので、一音だけ音圧と音質を合わせて交換しても分かりません。元来レコード会社の卓でイコライザーを かけた段階で元の波形とは違ってしまっているのですから、聞いた感じが同じになれば十分です。しかしこんな作業も数箇所から十数箇所が精一杯で、それ以上 歪みまくっている音源は根気負けすることでしょう。

 以上のような編集作業と全体への周波数バランスのイコライジング、帯域とダンピングを選んだリヴァーブ(ホールトーンの残響音)の追加で、リリー・クラ ウスの劣化した27番は見違える音になり、新しい録音のようにも聞こえます。リマスタリングで劣化を復元できたとは書いてあっても、完全ではなかったので す。ミント・ステートの LP を探してきて「板起こし(面白い言葉です)」すればいいのでしょうが、そこまでの音源ではないのでしょう。つまらない自慢話のようですがレコード会社では できないことなので、いじるのが好きな方には楽しい挑戦となるかもしれません。箱なりのように特定周波数が強く響いて高い周波数をマスクしているような古 いオーケストラの録音や、弦の高周波の倍音が鳴るような場面で歪んでいる音源は元の音が失われてしまっているので直しようがありませんが、人間の耳にはそ の音が不正確ながら想像できる場合もありますから、AI を動員したソフトウェアで蘇った、などという時代も来るのかもしれません。しかしそうまでして復刻しなきゃならない歴史的名演のありがたみも、案外思い込 みなのかもしれません。



INDEX