誰も寝てはならぬ 〜 オペラ・アリア集
クラシックのレパートリーにある歌ものたち 3

nessundorma

 今回はプッチーニの有名なオペラ、「トゥーランドット」から「誰も寝てはならぬ」を解説します。しかしその前にオペラ一般のことや有名なアリアについてもざっと触れますので、プッチーニについてや曲そのものの内容、出ているCD などにご興味のある方は該当の見出しまでスクロールしてください。各部分が少し長いです。



 音楽家がフリーランスで食べて行けるようになった主にモーツァルトの時代以降、ロマン派が終わる頃ぐらいまでの話だけど、「作曲家としての成功はオペラでの成功あってこそ」などと長らく言われて来ました。オペラは今でいうところの配信まで含めた一大映画産業みたいなものであり、当時は唯一の娯楽であって貴族から大衆までが熱狂したこともあり、興行収入が莫大だったからです。したがって作曲家はこぞってオペラに挑戦し、上手く行った者と行かなかった者の明暗が分かれます。中には大衆芸能に反発してオペラは書かないと宣言した作曲家もいるはいますが。また、「オペラの振れる指揮者こそが本物」というような言い回しも時折聞かれます。これは現代の話でもあり、極東から世界の檜舞台へ出て行った人などに特に言われるのでしょうか。但し書きとして、「ヨーロッパの伝統では」とか、「音楽界の頂点を極めるなら」といった文言が添えられたりします。そんな具合に、クラシック音楽の分野においてオペラの占める役割は大きいわけです。でもこれまでこのページではガーシュウィンの「ポーギーとベス」ぐらいで、劇は見るものであって音だけ聞くものじゃないから、と言って取り上げずに来たのでした。DVD ならともかく、CD の聞き比べ企画としてはまずいだろうという一応建て前なのですが、世の中には特化したオペラ・ファンの方がいらっしゃいますから、詳しくない者は手を出すべきじゃないだろうというのが本当のところです。新たに聞き比べる努力をするのは見当違いでしょう。でも、魅惑のオペラ・アリア集といった CD ならその限りではありません。「クラシックのレパートリーにある歌ものたち」第三弾です。ただし今回はクラシック以外の曲ではなく、そのものになります。  


美しいオペラ・アリア
 では、自然に口ずさみたくなるメロディーが聞けるきれいなオペラ・アリアには何があるでしょうか。オペラを何曲も作っている代表的な作曲家というだけでもたくさんいます。ただ、モーツァルトは話の象徴的な意味は深いかもしれないけど、パ、パ、パとつぶやいてみたり、鳥かごを背負ってピロピロピッと笛を吹いたり、あるいは復讐の炎を燃やしながらも「アハハハハハハハハー」とコロラトゥーラが囀ったりして、歌はどこかユーモラスな雰囲気があって作曲家のいたずらっぽい目が浮かんで来ます。ワーグナーの楽劇は序曲や間奏曲、合唱などに有名なフレーズはあっても、目立ったアリア的なものは少ない感じです。そんな具合に歌以外の部分なら、例えばマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲だとか、他の作曲家にも名旋律はあるにはあります。それなら美しいメロディーの宝庫、ドビュッシーはどうかというと、オペラとなるとちょっと気難しいようです。

 もっと戻ってヘンデルはどうでしょう。それこそ格別きれいなメロディーを作る人です。「リナルド」から「私を泣かせてください」と「セルセ」から「オンブラ・マイ・フ」はとびきりで、これについてはヘンデルのページでも取り上げました。ドイツ人でイギリスで活躍しましたが、これらのオペラはイタリア語です。
 あと、ボロディンの「イーゴリ公」から「韃靼(だったん)人の踊り」も有名できれいな曲です。ただ、ロシア語の合唱であって独唱ではありませんが。ドヴォルザークの「ルサルカ」から「月に寄せる歌」も美しいメロディーです。これはチェコ語のオペラです。そしてガーシュウィンの「ポーギーとベス」から「アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー」と「サマータイム」は、ジャズが多いけど独立しても歌われる名曲でしょう。


オペラを作った作曲家
 ついでの雑学ですが、ここでオペラを作曲した代表的な作曲家を国別生年順に挙げてみましょう(抜けてる人もいると思います):

ドイツ・オーストリアなど(ドイツ語圏)
 モーツァルト 1756、ベートーヴェン 1770、ウェーバー 1786、オッフェンバック 1819、スッペ 1819
 ヨハン・シュトラウス2世 1825、フンパーディング 1854、リヒャルト・シュトラウス 1864
 レハール 1870、ベルク1885

フランス
 グノー 1818、サン=サーンス 1835、ドリーブ 1836、ビゼー 1838、マスネ 1842、ラヴェル 1875
 プーランク 1899

ロシア

 グリンカ 1804、ボロディン 1833、ムソルグスキー 1839、チャイコフスキー 1840

英米(英語圏)
 ガーシュウィン 1898、ブリテン 1913

その他
 ドヴォルザーク 1841(チェコ語)、バルトーク 1881(ハンガリー語)

 この中でオペラの名旋律集に真っ先に出て来そうな人にビゼーがいますが、「カルメン」の曲はじゃんじゃん威勢が良かったり、闘牛士が勇ましかったりします。グリンカも「ルスランとリュドミラ」は有名で、序曲などは元気であり、オペラというとこういう劇的な曲が多いようです。


イタリア・オペラこそ
 さて、何かおかしいです。そう、オペラと言ったらイタリア、イタリア・オペラが抜けています。ではどうしてイタリアだと言われるのかというと、十九世紀のきら星のようなオペラ作家たちの成果のみならず、歴史上最初のように言われるのも(演奏はあまりされませんが)イタリアのヤコポ・ペーリ(1561-1633)という人の作品だったりするからです。続くモンテヴェルディもこの分野で実質上最初に名前が挙がる作曲家です。歌う劇のようなものはすでにギリシャ時代からあったのかもしれないけど、「セイキロスの墓碑銘」みたいに壺や石に刻まれた楽譜の断片が残ってればトピックになるぐらいで、記録としては存在していないわけであり、だからこそイタリアが最初になるのです。wiki によるとそもそもオペラという語自体が、作品番号の意味で使うオーパスと同じ語源のイタリア語だそうです。ワインのオーパス・ワンはカリフォルニア製だけど、イタリアにもオペラというワインはあるし、イタリア中のワイナリーが自分たちのベストを紹介する「オペラワイン」というイベントもあるようです。やはり芳醇なるオペラはイタリアでしょう。では、今度はそのイタリアのオペラ作家を生年順に挙げてみます:

イタリア
 モンテヴェルディ1567、ヴィヴァルディ 1678、ヘンデル 1685(イタリア語)、ペルゴレージ  1710
 ロッシーニ 1792、ドニゼッティ 1797、ベッリーニ 1801、ヴェルディ 1813、ポンキエッリ 1834
 カタラーニ 1854、レオンカヴァッロ 1857、プッチーニ 1858、マスカーニ 1890

 カタログ知識みたいだけど、やっぱりイタリアは数でも断トツです。この中で上記と同じようなオペラ本丸の元気印と言えば、イタリア・オペラ隆盛期の始まりであるロッシーニの「ウィリアム・テル」、「どろぼうかささぎ」などの各序曲や、歌では「セヴィリアの理髪師」の「おいらは町のなんでも屋」なんかがあります。レオンカヴァッロの「道化師」から「衣装をつけろ」など、歌いながら「アーッハッハッハッハァ」と大きな声で笑ったりもします。劇ですからそういうのは多いですが、ベスト集などに入ったりもするわけで、それらをオペラ全体から抜き出して集めて聞きたい方もいらっしゃるでしょう。「劇だよ、楽しいよ」という雰囲気満点であり、気分が上がります。

 反対にしっとりきれい系のものとなると、ドニゼッティの「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」など、この愛のためなら死んでもいいといった調子で切々と歌います。カタラーニの「ワリー」から「さようなら、ふるさとの家よ」もロマンティックな歌で、マリア・カラスのみならずミュージカルの女王サラ・ブライトマンも広めたりして、名旋律に数えられています。これなど、オペラ全体としてはむしろあまり上演されないかもしれません。


大物はヴェルディとプッチーニ
 最後に大物が残りました。たくさんオペラを作っていて、ハイライト集にそのアリアなどが最も多く登場するのは、ジョゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)とジャコモ・プッチーニ(1858-1924)でしょう。イタリア・オペラを完成させた二人です。これは、どっちでしょう。好みは分かれるかもしれません。 時代的にはヴェルディが先で、その集大成ともされる「オテロ」が1887年、プッチーニの出世作である「マノン・レスコー」が1893年ということからすると、ほぼ入れ替わるようにして人気を取りました。


堂々としたヴェルディ
 一般に言われる性質は、ヴェルディはドラマティックだということです。英語で「ドラマティック」と評するとあまりいい意味にならない場合が多いけど、イタリア語の歌手の区分には「ドラマティコ」というのがあって褒め言葉かもしれません。ここでは単に中立な日本語の「劇的」というぐらいの意味です。劇的で元気、例えば、闘牛士も出て来るビゼーの「カルメン」前奏曲と並び立つ「アイーダ」凱旋行進曲が物語るように、大層勇ましかったりもするわけです。宗教曲であるレクイエム(死者のためのミサ曲)ですら、その「怒りの日」など、雷に打たれたみたいなティンパニで大迫力です。人によってはこの作曲家を「男性的」と評することもあります。素直に力強いという意味でしょう。「椿姫」〜「乾杯の歌」、「そは彼の人か ー  花より花へ」、「リゴレット」〜「女心の歌」などの名曲選に出て来る曲を聞いている限り、威勢がいいかチアフルな印象であり、確かにその通りでしょう。「手回しオルガン用にしかならないメロディー」と悪口を言った人もいたようですが。ただ、それらのように有名な旋律とは行かないとしても、きれいなアリアならもっと他を探した方がいいような気はします。


格下に見られたプッチーニ
 これに対してプッチーニの方は、まずもってその叙情的な歌の美しさで知られています。でもそのきれいさがあだになったのかどうか、以前は軽んじられていた時期もありました。本国イタリアのみならず、フランスでも、どこでもそういう傾向は見られたとのこと。オーケストラの技法は高く評価されており、同時代の他のオペラ作家にない実験的な精神も見られたところから、洗練されてないだとか、難しいなどといった批判があった一方で、旋律を浮き立たせるユニゾンやオクターヴの歌唱が見られる徹頭徹尾メロディックな手法によって、感傷的でロマンティックな迎合だとして俗物扱いする人も多かったようです。シェーンベルクなどの現代音楽が始まっていたのに、時代遅れだとする考えもあってのことかもしれません。最近でもクラシック・ファンのみならず、オペラ・ファンの間にあっても、モーツァルトやワーグナー、ヴェルディは評価するけどプッチーニは格下に見るという意見もあるようです。指揮者ではカラヤンは評価した一方で、ヴェルディは取り上げてもプッチーニはほとんどやらないという人もいました。きれいだと馬鹿にしたくなるのはいつの時代も変わらないのでしょう。でも二十一世紀に入ってからは、オペラの分野ではヴェルディ、モーツァルトに次いで多く上演されています。同時代のレオンカヴァッロやマスカーニなどは、プッチーニと比べれば一発屋みたいに見られてしまいます。

 そんな具合にメロディアスだということで、聞いて楽しむオペラ・アリア集に相応しいのは、ここではヴェルディじゃなくてプッチーニの方だということにしておきます。これはもちろん、単なる好み以上のものではありません。

   puccini
     Giacomo Puccini

プッチーニの代表的な作品

 作品の主なものを作曲順に挙げると、「マノン・レスコー 1893」、「ラ・ボエーム 1896」、「トスカ 1900」、「蝶々夫人 1904」、「ジャンニ・スキッキ 1918」、「トゥーランドット 1926」などとなります。オペラ以外も全く書いていないわけではありませんが、ほとんど話題になりません。


プッチーニの代表的なアリア
 ベスト集などに選び出される、あるいはオペラ名曲集のようなものに出て来るプッチーニのアリアの主なものを挙げると、ソプラノが歌う曲では「ラ・ボエーム」〜「私の名はミミ」と「私が街を歩けば」、「トスカ」〜 「歌に生き恋に生き」、「蝶々夫人」〜「ある晴れた日に」、「ジャンニ・スキッキ」〜「私のお父さん」などでしょうか。
 テノールでは「ラ・ボエーム」〜「冷たい手」、「トスカ」〜「妙なる調和」と「星はきらめき」、「蝶々夫人」〜「さようなら、過ぎ去った日々よ」、「トゥーランドット」〜「誰も寝てはならぬ」といったところでしょう。


一つ選ぶなら「誰も寝てはならぬ」?
 代表的なアリアから一つを選ぶなら、「私のお父さん」とか「ある晴れた日に」などのソプラノが歌うものが来るのかもしれませんが、やっぱり色々な企画で人気ナンバーワンに数えられる、テノールの「誰も寝てはならぬ」ではないでしょうか。ランキングに意味はないにしても、この曲は数あるオペラのアリアの中でもひときわ個性があり、魅力的なものであることは間違いありません。プッチーニ最後のオペラ「トゥーランドット」のラスト第3幕で歌われるアリアです。原語で「ネッスン・ドルマ」とも言います。わずか三分そこそこの曲が「トゥーランドット」全体を要約するかのような、あるいはファン以外の人にとってはプッチーニを象徴、もしくはオペラ全体を代表するような曲となっているのです。
 日本では、初めてオリンピックでフィギュア・スケートに金をもたらした荒川静香さんの演技が思い浮かぶでしょうか。飛び跳ねる大技で点数が稼がれる競技にあって、軟体動物のように反り返るイナバウアーの静かな美しさには圧倒されました。すぐに引退したことであの瞬間は上書き保存されることなく結晶化しました。そのときの曲こそが「誰も寝てはならぬ」でした。


どんな曲?
 この曲で際立っているのは、なんと言っても恋愛感情の圧倒的な昂りです。その情熱を歌ったものでこれほど見事な歌は他に思いつきません。世の歌というもの、確かにほとんどは恋についてであるにせよ、恋心のテーマにも色々グラデーションはあることでしょう。淡い希望や逡巡、駆け引きと裏切り、肉欲の饗宴、穏やかな幸せ、拒絶された嘆き。歴代の作曲家で言うなら、モーツァルトは振り切れた愉悦でしょうか。ベートーヴェンは穏やかに美化された憧れ、ショパンの儚い切なさ、ブラームスには内に秘めた思いが息苦しくクレッシェンドして不完全燃焼する瞬間が聞かれ、ドヴォルザークは夢見るような淡い郷愁、グリーグはおとぎ話の純情が思い浮かびます。でも昂った恋愛感情を聞かせる歌に関しては、もっと最近のポピュラー音楽の範疇というか、カンツォーネやミュージカルに寄った歌手の方が上手かもしれません。イタリアの盲目のテノール、アンドレア・ボチェッリ、その彼と共演している上記、サラ・ブライトマンなどには独特のレパートリーがあります。甘いロマンスの香りを漂わせ、ときに切なく訴える濃厚な歌はラブソング界で絶大な人気を誇ります。

 でもこの「ネッスン・ドルマ」で歌われる恋の性質は、それらよりさらにボルテージが高いです。恋愛の最もピュアなエッセンスというのか、「恋の病」と言い換えても良いものなのです。手に入るか入らないかぎりぎりのところで相手を理想化してめらめら燃え上がるような種類であり、その高揚感は火事場の馬鹿力。敢えて言うならベルリオーズの女優ハリエットへの妄想に近いかもしれません。成就してしばらく経ったら、別の形に軟化しないかぎり燃え尽き、手のつけられない大喧嘩に発展するかもしれません。そのままだと心臓が持たないアドレナリン状態です。

 曲は最初、抑えて甘く訴えて来ます。夜を表すとされますが、ミュートのかかったストリングスによる管弦楽の和音に夢見心地になります。なんと美しい音楽でしょう。そして徐々に高まって行き、最後にニトロ燃料に点火したように燃えて、この愛が手に入ったら命を投げ出してもいいという、憧れと切望のクライマックスを力一杯歌い上げます。それによって種が保たれて来た本能の力を前にして、押さえられるものはもう何もありません。このテーマの曲には上ですでに触れたドニゼッティの「人知れぬ涙」などもありますが、それとは問題にならない迫真の出来であり、触れたら感電します。 


プッチーニのロマンス
 こういう熱病のような見事な歌を作れるプッチーニって、どんな恋愛経験をした人なのでしょうか。ゴシップは気乗りしないけれども、ここで少し彼の私生活に触れましょう。トスカーナ地方、ルッカの町の由緒ある宗教音楽家の家に生まれた作曲家です。
 よく比べられるヴェルディが、二度目の相手こそ情事華やかなりしプリマ・ドンナだったにせよ、彼女も含めて先に亡くした二人の奥さんとはそれぞれ最後まで夫婦仲が続いたのに対し、しかしプッチーニの方はどうやら恋多き情熱の人だったようです。奥さんのエルヴィーラは元々人妻だった教え子で、学友でもあった旦那さんが彼のところへ歌とピアノを習いに来させていた人でした。この旦那である学友は浮気者で有名であり、その後自分の浮気相手の夫に殺されてしまうような人なので、浮気肯定のドラマ風に言えばプッチーニとエルヴィーラは善玉主人公側の設定と受けとめることも出来ます。まあ、形としては友達の奥さんを取ったわけですが。エルヴィーラには男女一人ずつの子供がいましたが、二人は燃え上がって駆け落ちし、さらにプッチーニが自分の子供アントニオをもうけてから、旦那さんの死後に結婚しています。イタリアはカトリックの国なので、当時法的には離婚は出来ませんでした。

 ではしばらくは内縁だったその奥さん以外との女性関係はどうだったでしょうか。詳しいことは wiki などを当たっていただければ具体名などが出て来ますが、数多くの歌手たち、ハンガリーの作曲家のシスター、ドイツの貴族の女性など、噂に事欠きません。莫大なお金を稼ぐ成功者であったプッチーニ。どうやって計算したのか分からないけれども、一説によると亡くなったときまでに現在の貨幣価値で200億円ほどの資産を得ていたともされます。お金目当てでシュガー・ダディを求める女性はいつの世にもいます。パパ活と一緒です。加えて名声もあります。女性には困らなかったでしょう。プッチーニ自身は「野鳥とオペラ台本といい女の有能なハンターだ」という内容のことを冗談ぽく言い、そうしたちょっとした恋愛ごっこのことを「ぼくの小さな庭」と呼んでいたそうです。しかし本格的にのめり込んだこともあったようで、「コリンナ」と愛称で呼んだトリノの若い女性には夢中になり、奥さんも真剣に彼とは別れようかと思ったほどだったようです。

 ところがこのコリンナに関しては結構厄介な事態に至りました。周囲からの圧力で探偵を雇わざるを得なくなり、その結果彼女が他の男とも関係を持っており、しかもお金をもらっていたのではないかという疑いが浮上したのです。プッチーニは激怒してきっぱり別れようとしたものの、反対にコリンナの側から法的に訴え、自分との関係を公にするぞと脅されてしまい、スイスに逃げようかどうかと怖がったという話もあります。このコリンナは十代のときに父親から性暴力を受け、その父は有罪になったという家庭の子であり、そういう行動については同情の余地ではないけれども、一定の理解は出来ます。これらの出来事は妻エルヴィーラの手紙から窺えるもののようで、それをリサーチしたのは2008年のイタリア映画「プッチーニの愛人」の製作者たちです。真偽は分かりませんが、興味があるなら彼らの言い分を読んでみてください。いずれにしてもこのラブストーリー・オペラの天才、何事においても夢中になるところはあったみたいで、貧乏生活が終わってお金が入るようになってからは、我慢していたことをやり尽くすかの勢いでハンティング(動物の方です)三昧だったりもしています。

 また、プッチーニは大の乗り物好きでもあり、自転車競技やスピード・ボート、自動車などにも興味がありました。車については市販のガソリン車が登場したばかりの頃です。1901年に発売されたばかりのド・ディオン・ブートン 5CV(スマートや三菱 i など、現代の車のサスペンション構造にその名を残しています)というモデルを当時の国王より早く手に入れ、同じ年に二台目のクレメント・バイヤードも購入して乗り回していました。この二つはフランス製だけど、フィアットやロールスロイスなど、生涯では15台ぐらい買ったようで、その凝りようとスピード狂ぶりはカラヤンやミケランジェリ、レオンハルトなどと似ています。しかし二台目の緑色のクレメントで事故が起きます。1903年、ルッカ郊外を走っているときです。そのときは運転手がいたようだけど、舗装されていない田舎道で突如横滑りし、深い溝にはまって車が横転してしまったのです。その際他の乗員(まだ籍は入ってなかった奥さんと、自分の子供アントニオも一緒でした)は投げ出されたものの、彼だけは道を外れて数メートル転落した車の下敷きになり、胸を圧迫されて右脚を骨折してしまいました。もう少しで死ぬような危うい出来事でした。治ってからもしばらくは歩行が不自由だったので、メイドを雇わなくてはならないほどでした。

 そしてそこから問題が生じてしまいます。四十九歳のとき、「ドーリア・マンフレーディ事件」というものに発展してしまうのです。それは五年ほど前からそのメイドとして雇っていた、ドーリア・マンフレーディという若い女性とプッチーニが深い仲になっていると妻のエルヴィーラが疑ったことで起きました。彼女は騒いで激しく攻撃したため、ドーリアは教会から見放され、耐えかねて塩化水銀三錠を飲んで自殺を図ってしまいました。ぞっとしますが、三日苦しんで亡くなったということです。ドーリアは当時二十三歳でした。しかし地裁で司法解剖の命令が下り、その結果処女だったことが分かり、エルヴィーラは訴えられて有罪になります。このごたごたに嫌気がさしたプッチーニは奥さんと数ヶ月仲違いしましたが、財政的に破綻してしまった彼女は夫に助けを求め、プッチーニは12000リラというかなりの額の賠償金(今の日本円に換算すると700万ぐらいでしょうか)を払うことになりました。しかしこの事件の背後にはもっと複雑な裏の話もあるようです。それこそが上記の映画で扱われている内容です。

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 Torre del Lago (Villa Puccini)

 監督とその奥さんの調べによると、2007年になってから、マンフレーディ家の子孫である美容師のナディア・マンフレーディが地下室に保管する文書が見つかり、プッチーニは実はドーリアではなく、その従姉妹のジュリア・マンフレーディと愛情関係にあったことがそこに示唆されているということです。話はこうです。まずプッチーニは「トッレ・デル・ラーゴ(湖の城)」と呼んでいたマッサチウッコリ湖畔の家を持っており、そこに住んで仕事をしていました。駆け落ちをしたのも、メイドを雇ったのもその家でです。因みに位置関係を言えば、トスカーナ州の州都フィレンツェからだと西へリグリア海の方まで行き、斜塔で有名なピサを少し北に上がったところに湖があります。海からは3キロほど内陸です。生誕地のルッカはその東になります。この湖畔の家のちょうど反対の岸にマッサチウッコリの町があり、そこに建つ地元の農夫やハンターたちの宿、「シャレー・エミリオ」で働いていた活発な女性がジュリア・マンフレーディでした。ご近所だったので当然の成り行きだったのかどうか。プッチーニはジュリアとドーリアのどちらと先に知り合ったのでしょう。

 ここからは映画の筋書きそのものですが、その地下室のスーツケースの中にあったプッチーニのメモによると、彼はミラノからの帰りにそのメモを送り、ドーリアに湖畔の家を前もって開けておいてくれるように頼みました。ドーリアは家に向かいますが、そこでプッチーニの妻の連れ子で当時二十八歳になっていたフォスカと、オペラ「西部の娘」の台本作家とが深い仲になっている現場を目撃してしまいます。フォスカは既婚でした。彼女はドーリアに見られたために事を公にされるのではないかと恐れ、先手を打ってドーリアの信頼を落とそうと考えたようです。プッチーニとドーリアが男女の関係を持っていると吹聴し、それを信じた妻のエルヴィーラがドーリアを解雇します。ドーリアはプッチーニに助けを求め、彼は何とかしてみると約束するものの、エルヴィーラはプッチーニが誰か他の女と夜一緒にいるところをすでに偵察して知っていたために、それをドーリアだと信じ込んでおり、周知の出来事となっている例の、公衆の面前でのドーリアへの口汚ない糾弾に及んだのです。その後フォスカの夫が情事に気づいて脅したために、フォスカは浮気の事実を母であるエルヴィーラにも打ち明けますが、時すでに遅しでした。ドーリアはプッチーニを敬愛しており、彼と自分の従姉妹を裏切ってまで真実は言えず、板挟みになって死んでしまったということです。これらの話には事実として証明された部分もあるにせよ、推定や思考も含まれているでしょう。他人の情報の受け売りですから、この問題に関心があるなら真に受けずに検証してほしいと思います。

 一方で当のジュリア・マンフレーディとプッチーニの関係は彼が死ぬまで続き、誰が父かは明かされてないけどジュリアは男の子を産み、その子は毎月1000リラ(1923年なのでエルヴィーラの裁判のときより貨幣価値は下がり、一般消費材購買力で今の7、8万円ぐらいでしょうか)の送金を約束する契約とともにピサへ里子に出されます。そしてプッチーニの死の月からその送金は止まったという話があるそうです。その子は自分の父が誰か知らずに一生を過ごしたようだけど、さらにその子供がナディアなので、彼女は自分の父(つまりジュリアの子供)の父はプッチーニで、自分はプッチーニの孫に当たると主張し、DNA 鑑定を求めるアクションに出ました。対して財産を相続するプッチーニの嫡出子の系統の子供はそれに反対し、法廷闘争にまで発展したようです。しかし身辺を洗った学者や映画製作者たちの意見では、ジュリアの側の子孫も皆、その垂れた瞼がプッチーニそっくりだと考えているのだとか。

 偉大な作曲家ともなると大変な騒ぎになるようです。アイデンティティーとはそういうものですが、自らは関係なくてもこの手の話には皆関心があるようで、こうしたプッチーニの華やかなゴシップを聞き及んで、作曲家を貶め、糾弾する波長で語る人もいます。人が死んだことは許されない残念な結果でしたが、プッチーニ自身も可愛がっていたドーリアのことでは随分苦しんだようです。奥さんが財政破綻してしまったのは、娘フォスカの夫が浮気を知ってフォスカを養わなくなったことから母に頼った事情もありますが、そのエルヴィーラの賠償金を、夫なら当然とはいえプッチーニは払っています。自分がさんざん遊んだ後だったにしても籍も入れ、コリンナに裏切られたときは弱り切って相談もしていたようです。有名作曲家だからといって別に擁護する意図はないけれども、案外憎めない人柄でもあったみたいです。ですから彼の恋愛遍歴については特段責める気持ちにはなりません。人間出来るとなると一度はやってみるもので、あれだけのお金と名声を得て清廉潔白を貫いたら、むしろ大したものだと言ったら女性軽視に当たるでしょうか。俯瞰して見るなら、自分ではコントロール出来ないマグマのような情熱に突き動かされたのであって、次々と随分情熱的に頑張りましたね、ぐらいでいい気もします。恋においては、過ちを犯したとまでは言えないにしても、常に正しい行動をとって来たと胸を張れる人はどれほどいるのでしょう。汝ら罪なき者のみ石もて打て、でしょう。だからこそプッチーニは、あんな官能的な「ネッスン・ドルマ」を作れたのです。神様の視点から見ない限り分からないけど、色々やらかしたことを形にしてみる。案外それが今生での彼の大事な仕事だったのかもしれません。


オペラ「トゥーランドット」の成り立ち
 トゥーランドットは遺言のようなプッチーニの最後のオペラであり、1920年頃に着手され、24年の本人の死によって未完に終わったものをフランコ・アルファーノという作曲家によって補筆され、26年に完成を見ました。まるでモーツァルトのレクイエムのようです。プッチーニの死因は喉頭がん(一日に70本ほども吸うヘビー・スモーカーでした)の手術の後の心臓発作でした。どのみち長くはなかったにせよ、医療的に失敗だったのでしょう。
 ヴェネチアの劇作家、カルロ・ゴッツィ(1720-1806)の原作を、台本作家であるジュゼッペ・アダーミとレナート・シモーニが台本化したものです。初演は作品完成と同年にミラノ・スカラ座で、あのトスカニーニの指揮によって行われましたが、補筆部分は指揮者の意向によって当日は演奏されませんでした。「ここまでがプッチーニの書いた部分です」と聴衆に向かって語り、そのまま終えてしまったのです。終演後には大きな歓声が上がって長い拍手が続いたものの、作品のその後の人気やプッチーニの他のオペラに比べれば、最初から類を見ない大成功というほどではなかったようです。

 元々この話は、アラビアンナイト、千夜一夜物語などの中(近)東の物語に原型が見られるもので、王女が謎かけをし、答えられなかった求婚の王子は殺されるというパターンのものです。逆に王子の側が謎をかけ、王女が解いたら王子が死ぬ物語もあるし、シェヘラザード(千夜一夜物語の大枠)そのもののように、男女が逆転して王女ではなく残酷な王様が登場するバリエーションもありますが、それがヨーロッパに伝えられ、グリム童話などにも使われている有名なテーマとなっています。そしてトゥーランドットの話自体もプッチーニの頃にはすでに知られており、彼の「トゥーランドット」ほど有名にはならなかったものの、同じテーマのオペラはいくつも存在していました。


どこの国の話?
 タイトルである「トゥーランドット」は物語の中で中心となる王女の名前であるわけですが、その意味は 「トゥーランの娘」で、英語だとドーター・オブ・ターク、「トルコの娘」みたいにもなります。でも実際は今のトルコの国であるタークではなく、トゥーラン=チュルク系民族のことです。「チュルク」は当時のヨーロッパでは中央アジア全体を表す言葉であると同時に、「トゥーラン」の方はその地域で一般的な人名でもありました。そしてチュルク(テュルク)というのは六世紀頃の中央アジアの遊牧民族、「突厥(とっけつ)」のことでもあります。しかし物語の中でのトゥーランドット姫は中国王朝の王女です。それが中央アジア由来の名前を持っていることになるわけです。あるいは本当は中国が舞台ではないのではないか、ひょっとして漢民族は「元」となったチンギス・ハーンのモンゴル帝国に征服されたこともあるぐらいだから、王女には異邦人の血が混ざっていたのだろうか、そんな疑問が湧いて来ます。加えて、このオペラで登場する主人公のカラフ王子の出身国はタタール(韃靼)だと言われます。そちらはボロディンの「韃靼人の踊り」で有名ながら、タタールはチュルク(突厥)を含んだもっと広い範囲全体を言う場合と、チュルク(突厥)自体のことを言う場合があります。狭義の突厥だとすれば、今のモンゴルを中心にして東西にもう少し大きな範囲です。カラフ王子は中国から見て、どこかモンゴルの方の国の王子という感じです。

 ではどうして中国の王女がトゥーランの娘なのかというと、それはトゥーランドットが元の物語でササン朝ペルシャの美しい王女だったからであり、それをルイ14世時代の1710年頃、フランスの学者であるフランソワ・ペティ・ド・ラ・クロワが「千一日物語」として出版したとき、中国の物語に置き換えたからです。それを元に1762年にイタリアのカルロ・ゴッツィが原作を書き、プッチーニの台本作家二人がオペラにしたのです。ここらの起源の学問的検証については、「七王妃物語」や「千一夜物語」との関連なども含め、色々な見方があるので深く立ち入りません。 

   turandot  
     Turandot  (
Alto Records 2013)

「トゥーランドット」のあらすじ
 物語は北京の紫禁城前の雑踏から始まります。紫禁城(しきんじょう/天安門のある城という方が分かりやすいでしょうか)は中国の明と清の王宮でしたから、そのどちらかの時代かとも思われますが(実際それらの衣装で演じられたりする)、このオペラでは架空の中国の王朝ということになっています。劇作家と同時代のゴッホが浮世絵に傾倒したように、当時の東洋趣味というのでしょうか。プッチーニの方も、「蝶々夫人」でも明治の長崎を舞台にしていましたから、想像力をかきたてる異国情緒を好んでいたのでしょう。

 さて、その王宮前の雑踏でのこと、時刻は夕方、銅鑼が鳴って城壁に役人が現れ、中国の王女トゥーランドットが自ら名乗り出た異国の王子に三つの謎を出し、それが解けた王子は王女と結婚できるという皇帝のお触れを出します。 解けなかったら斬首刑です。それを聞いた群衆が興奮し、その中の一人であった盲目の老人がその群衆に押しつぶされそうになります。「助けて」という女の声を聞いて若い男が走り出て助け起こしますが、それが主人公のカラフ王子でした。そして偶然にも、助けられた方の老人はその王子の父であるティムール王であり、救助を叫んだ女は王の奴隷として付き従っていたリューでした。こうして父子と使用人の三人は久しぶりに再会することになります。ではなぜ王ともあろう者が紫禁城近くの雑踏でうろうろしていたかという理由ですが、この王と女奴隷とは国を捨てて逃げて来ていたからです。オペラの元になった原作では、ティムール王とカラフ王子の国は隣の大国に貢ぎ物を要求されて断り、兵を送られて乗っ取られてしまったことになっています。逃げるときにはカラフ王子も途中まで一緒だったのですが、その後別行動になってました。

 ティムール王という名前が出て来ました。この「ティムール」という同じ名の王様は歴史上に実在しました。十四世紀後半にチンギス・ハーンの後に興ったモンゴル系イスラム教国であるティムール朝の建国者です。彼は明への遠征の途中で死にましたので、このティムールを念頭に置けば、物語は明王朝時代、ティムール朝の首都はサマルカンド(現ウズベキスタン)だったので、主人公たちはその辺りからやって来たことになります。でも名前の一致だけで物語の設定ではありません。

 その後謎解きに敗れたペルシャの王子(元の物語の起源の国です)が月の出とともに処刑されることになり、 それを見に出て来たトゥーランドット姫を主人公のカラフ王子が目にしてしまいます。そして初めはそのプリンセスの残酷さを嫌っていたにもかかわらず、突然その美しさに心を奪われて、自分も謎解きに参加するために名乗り出ようと言い出します。このあたり、一目見ただけで命を賭ける唐突さには驚きます。父ティムールは息子をその場から帰らせようとし(ペルシャの王子が断末魔で王女の名を叫ぶ声が聞こえて来ます)、そこに現れた中国の不思議な三人の役人、ピン、ポン、パン(ママと遊ぶテレビ体操の歌みたいですが、高い声の宦官をイメージしていたようです)も思いとどまらせようとするし、過去に死んだ二十人の王子たちの亡霊と、今殺されたペルシャの王子の生首が現れるに及んでリューも泣いて止めます(彼女は密かにカラフ王子に想いを寄せていたことを後で告白します)。しかし聞く耳持たずでカラフ王子は銅鑼を三回鳴らし、挑戦してしまいます。

 次に謎かけの場面となり、群衆を前にして、王女の謎の答えが書かれた三つの巻物を持った賢者たちが登場し、その後から中国の皇帝とその娘であるトゥーランドット王女自身も現れます。まずは皇帝がカラフ王子に無謀な挑戦を諦めるように諭しますが、やはり王子は折れません。そしてトゥーランドットはなぜ自分がこのような残酷な謎解きを始めるに至ったかの物語を語ります。それは過去にその王家の王女が異国の王子に騙され、陵辱されて死んでしまったことに対する復讐なのだという話でした。

 ついに出題が始まります。三つの問いの内容はそれぞれ、「夜毎に人々の心に生まれて闇夜に飛び、世界がそれを求めるが夜明けとともに消えるものは?」と、「炎のように熱く燃え上がって夕日のように赤く、凍ることもある火でないものは?」、そして「氷のように冷たく、それでいて周囲を焦がし、あなたを奴隷にしたり王にしたりするものは?」というものでした。カラフ王子はそれぞれに対して「希望」、「血」、「トゥーランドット」と答えて行き、賢者たちが巻物を開いて答えを確認すると、その都度正解となって行きます。そして全問を見事に解いてトゥーランドット王女と結婚するかに見えるのですが、そこで王女は嫌だと言い出します。私を無理やり抱くのか、と。それに対して今度はカラフ王子が今までとは逆に、王子の方から謎を出し、それに対して夜明けまでに王女が答えられれば自分は死に、結婚を強要することはしないと提案します。その謎とは、自分の名前は何かというものでした。

 王女は承諾し、北京の町にお触れを出します。それは、「今夜は王子の名前が分かるまで誰も眠ってはならない、解き明かせなかったら全員を死刑に処する」というものでした。カラフ王子は一人で宮殿から庭へと出て来ます。王女のお告げが聞こえました。そして複雑な音のオーケストラによって北京の住人の不安を表す間奏に続き、次に歌われるのがこのカラフ王子のアリア「誰も寝てはならぬ」なのです。夜の帳が下りた中、寝室の眠れぬ王女を思って密かに、夜明けに自分が勝つ、と希望を込めて宣言します。

 ピン、ポン、パンの大臣たちは謎を解けなければ自分たちも死ななければならないので、カラフ王子にハニートラップを仕掛けたり、宝物をあげようと言ったりして名前を聞き出そうとするも失敗に終わります。しかし王宮の兵士たちはカラフの父ティムールと奴隷女のリューを捕まえてしまいます。縄を掛けて引き立てて来られた二人は王女の前に立ち、尋問されます。王子の名は何か、と。リューは年老いた王をかばい、自分だけがその名前を知っていると主張します。すると王女はリューに何のためにそこまでするのかと問います。リューは「愛のためだ」と答えます。昔見た
カラフの一瞬の微笑みが忘れられず、以来想い続けて来たのだということです。愛を知らない王女は怒り、拷問が命じられますが、カラフを愛するリューは口を閉ざし、隙を見て衛兵から剣を奪って自らの胸を刺して死んでしまいます。

 ここまで書いて、プッチーニは亡くなってしまいました。この奴隷の自殺とプッチーニ自身のメイド、ドーリア・ マンフレーディの自殺を重ね合わせる見方はよくあります。本当にそういう感情が込められているとも考えられます。そしてこのように作品が途中で終わってしまったのは残念な話かもしれませんが、もしそうやってリューの自害までしか劇が存在しなくても、それは案外意味のあるストーリーになるのかもしれません。前後の見境なく燃え上がった衝動的な恋のために以前から愛する者が命を失う結果になるという寓話。それはエゴ・インフレーションである恋愛の本質を射抜いた作品だとも言えるでしょう。マダム・バタフライを現代に再現したようなある映画(M. Butterfly 1993)では、西洋人の男性が深く愛した恋人である蝶々夫人のプリマドンナが、実はレイディ・ボーイだったというのもありました。最後はやはり主人公の自害の場面でした(多様性承認という点では現代的ではないでしょう)。トスカニーニの初演の判断も、案外亡くなった作曲家を弔うだけのものでもなかったのかもしれません。プッチーニ自身も、実はここから先の展開には頭を悩ませていました。元来この冷酷な王女に恋するという突拍子もない話については仕事を受けた当初から納得が行かなかったふしもあるようで、もう一人のヒロインとして優しい奴隷のリューを生み出してプロットを複層構造にしたのは、作曲家本人の意向でもあったようです。そしてやはり、冷酷な人間が急に愛を受容するという、この後に続くヒロインの豹変に向けては筆が進まなくなり、そうこうしているうちに亡くなったのです。

 そしてここから後の部分はアルファーノによる補筆です。
 カラフは王女の残酷さを非難し、一方で死んでしまったリューに群衆は同情して、運ばれる亡骸に付き従います。カラフと驚いた王女はその場に立ち尽くします。そこで王子はトゥーランドット王女を抱きしめて熱い口づけをします。するとそれ以降王女は心変わりしたかのようになり、「王子を恐れていたが、前から愛おしくもあった」と告白します。それは口づけの魔法か、リューの献身を見ての後悔なのか分かりませんが、唐突ではあります。王子の方も急に変わって純真になった王女の美しさに感動します。そして王子は王女に自分の名をカラフだと告げ、命を彼女に委ねます。あたりは白み始めていますが、まだ夜明け前です。
 ついに夜が明け、運命のときがやって来ます。すると王女トゥーランドットは皇帝の前に進み出て、挑戦者の王子の名前を知っている、と告げます。その名前は「愛」である、と。カラフ王子は駈け上がり、観衆の歓呼の中で二人は熱く抱き合います。


象徴的な意味?

 トゥーランドットとそのアリア「誰も寝てはならぬ」は荒唐無稽でしょうか。冷酷無比な王女に一目惚れをして命を差し出す男の不自然さ。王女という地位への妄想障害的執着でないなら、その男の中には撃鉄が起こされ、引き金が引かれるばかりになっていた古傷、手強い女を屈服させることが至上命令となるような愛の欠乏があったのでしょうか。また、二十人もの求婚者を殺して来た王女が奴隷女一人の自殺を見て後悔するとしたら、「奴隷」か「女」か「愛を知る者」かの概念に、彼女の錠前にしか合わない鍵があるのでしょうか。あるいは出し抜けのキスによって氷の心に恋が芽生えるとしたら、醜く化かした意地悪な魔女の魔法がかかっていたのかもしれません。しかしそんな風に追求すべきではないでしょう。これは物語です。

 カラフ王子のような伸るか反るかの恋を実際に体験する人は一部なのかもしれないけれど、この物語、愛にまつわる心理の特徴を、象徴的・元型的には見事に捉えていると思います。愛と言ってもアガペ(無私の愛)ではなく、エロス(得失の愛)の方です。ちょっとキリスト教的な物言いでしょうか。つまり個人的なセクシュアリティの愛です。生死を賭すことを要求する王女と、それに答えて課題を乗り越えようとする王子。繁殖という観点から求愛行動を見るなら、命をかけるのは日常のことです。下位のレベルでは、雄が安全と生活保障を差し出し、雌が性と等価交換するという言い方も出来ます。長らく雄は、正に命懸けで肉体の強さや狩の能力を維持して来ました。現代の人類ともなると、それがお金など、とりあえず別のものに変わって来るとも言えます。ともあれ、スクリーニングに勝った者だけが生殖行動を許されるのです。そして雄が雌の気を引くのが命がけのあの手この手なら、カマキリのように後尾の後で雌に殺されて栄養になる生き物もいます。雌の方にしたって、鮭のように産卵すると死んでしまう種も多いでしょう。人間を含めて子育てのために生き残る生物もいますが、新しい生命に引き継がれると親は死ぬというのが原初の形なのかもしれません。そしてそこから先にこそ人間には人間の種としての、精神のあり方に関わる進化の青写真があるはずですが、残念ながら百年後の今ですら未だ国を挙げての殺し合いに明け暮れているのが現状であり、この話でもそこまで扱われません。王女が手に入ったら、そのときこそ本当の幸せを得られるだろう。これは我々が陥りやすい誤った思考法です。ひとたび手に入れたなら、また新しい目標をセットするでしょう。人類のほとんどは目の前の課題ではなく、いつまでも先送りをして、明け方にはきっと勝つだろうという夢を見ています。

 また、「誰も寝てはならぬ」の曲の構造は循環的であると同時に、最後にクレッシェンドして終わるのは性的には幾分男性原理に近いのでしょうか。同じように最後に変調して崩れ落ちるように終わるラヴェルのボレロやクープランのパッサカリアも、その意味では男性側なのかもしれません。夜の庭の場面でのオーケストラの甘美な黄昏感は、ただ夜の空気感を表すというだけでなく、賭けが上手く行ったメイティング後の死をも暗示するのかもしれません。 歌の途中の女性合唱もウィー・マスト・ダイ(E noi dovrem morir!)と囁きます。それは本来、王子の名が解き明かされなかった場合に北京の全員が処刑されることを表しているのですが。

forbiddencity

「誰も寝てはならぬ」の歌詞
 このアリアの歌詞を以下に記します。最初に「ネッスン・ドルマ」と二回言うところで二度目をオクターブ下ろす処理からして、これはカラフ王子が王女のお触れを聞いた後、一人静かに反芻している状況であることが分かります。何度も強調してしまいますが、物語としては確かに現実味がないにしても、クラシックの分野で恋の高揚感をここまで見事に歌ったものは他にちょっと思い当たりません:

誰も寝てはならぬ(Nessun dorma / The Prince)

 誰も眠ってはならない!
 誰も眠ってはならない(と言うのか)、
 それならあなたもだ、ああ、プリンセス、
 冷え切った部屋から、
 愛と希望に震える
 星を見ているあなた、

 だが私の秘密はこの心の中に隠されているのだ、
 私の名前は誰も知らないだろう、

 違う、違う、あなたの唇に
 私がそれを告げるのだ
 夜明けの光が輝くときに!
 そして私の口づけが沈黙を溶かし
 あなたは私のものになる!

(女声合唱:誰も彼の名前を知らないだろう、
 そして私たちはきっと、ああ、死ぬ、死ぬ!)

 夜よ、消え去れ!
 星よ、沈め! 星よ、沈め!
 夜明けに、私は勝つ!
 私は勝つ!
 私は勝つ!



今までに出ている録音
 このアリアとして聞くことの出来る歌唱は、オペラ全体でないならそれこそいっぱいあります。CD として売れてるものとしては三大テノール以降が主かと思いますが、その前からも歴史的録音に数えられるような名唱はあり、それらを一堂に集めた企画の一枚も存在しています。イタリアのボンジョヴァンニ・レーベルから出されている24人のテノールによる「誰も寝てはならない」です(Il mito dell'Opera 24 Nessun Dorma da Turandot di G. Puccini / Bongiovanni)。この中で日本でも有名なテノールとしては、ベニャミーノ・ジーリ、マリオ・デル・モナコ、フランコ・コレッリ、カルロ・ベルゴンツィあたりでしょうか。以下に収録されている全テナーをトラック順に記します: 

 ダニエレ・バリオーニ/カルロ・ベルゴンツィ/ユッシ・ビョルリング/ジャンフランコ・チェッケレ
 フランコ・ コレッリ/アントニオ・コルティス/マリオ・デル・モナコ/マリオ・フィリッペスキ
 ジュゼッペ・ジャコミーニ /ベニャミーノ・ジーリ/アレッサンドロ・グランダ/ヤン・キエプラ
 フラヴィアーノ・ラボー/ジャコモ・ラウリ・ヴォルピ/ヒポリート・ラザロ/アロルド・リンディ
 ジョヴァンニ・マリティネッリ/フランチェスコ・メルリ/アウレリアーノ・ペルティレ
 ヘルゲ・ロスヴェンゲ/アントニオ・サルヴァレッザ/ジョルジュ・ ティル
 アレッサンドロ・ヴァレンテ/アレッサンドロ・ジリアーニ

 録音は1926年から82年にまで至っていますが、SP時代、モノラル時代が多いです。

 さて、古い人はともかく、このアリアを現代において大変有名にしたのは三大テノールの一人、パヴァロッティです。CD はメータ指揮のトゥーランドット全曲の録音とそのハイライト盤(1972 Decca)以外にもシャイー盤(1977 Gala)、アリア集としてはコンサート・ライヴ盤(1985 Sony)と、何度も組み替えて出されている内外のベスト盤が多数あります。この人のネッスン・ドルマ、最初はイギリスのラジオで放送されたのでしょうか、媒体として出て売れ、その後あの伝説になったワールド・カップ前夜の三大テノール競演の舞台で歌ったことで、曲も歌手も広く一般に知れ渡ることとなりました。その後こうした開会式的なものでは必ずといってよいほど歌われる演目となり、トリノ・オリンピックでもまたパヴァロッティが歌いました。スポーツ・イベントの開幕にこれほど相応しい曲もないでしょう。何しろ劇的に高まった最後のところで「夜が明けて、私は勝利者となるだろう! (I will win! I shall be the victor!)」と命を賭けて高らかに宣誓するのですから。イナバウアーの荒川静香さんもこれで勝ちました。

 そのルチアーノ・パヴァロッティの「誰も寝てはならぬ」のメータ盤での感想を記します。まず、最初から声質に注意が行きました。明るい倍音に寄っていて前へ出て来る華やかさのある声で、それを朗々と響かせます。また、揺れのある情緒も特徴的で、どの音節にも泣けるような感情を込める感じです。「メロ」をつけてもいいぐらいにドラマティックでダイナミック。ライヴなどの映像を見ると、最後の場面で表情にまで大きな感情の震えが出ています。大御所で人気が出た演奏だけに、最大限歌っている感じがするところが見事です。

 またこの曲、スポーツの祭典のみならず、2010年には上海万博の開会式でも上述のロマンスの王子、盲目のカンツォーネ歌手であるアンドレア・ボチェッリが歌いました。パヴァロッティ亡き後の話です。そしてこの人もパヴァロッティに見出された人だったわけで、パヴァロッティ氏は色々と親切な働き者の役回りをこなしたわけです。こちらのボチェッリ盤も複数あり、メータ指揮でのトゥーランドット全曲盤(2015 Decca)や、そこからのアリア・ベスト集が多種、フェドセーエフの指揮でモスクワ放送交響楽団をバックに歌うベスト盤(1995 Sugar)などが出ています。加えて開会式ではありませんが、タイム・トゥ・セイ・グッドバイで彼とデュエットしたミュージカルの女王、サラ・ブライトマンの方も女性ながらこの曲を歌い、CD を出しています('Eden’ 1998 Angel)。この二人の売り上げ枚数ときたら、ちょっと桁が違います。

 聞いた印象ですが、メータ指揮のアンドレア・ボチェッリの方は、甘さが人気のポピュラー音楽の人だという認識を持っていると意外でした。圧倒的物量で来る感じではないけれども、これはオペラだけに全く本格的に歌っています。個々の音節をたっぷりと延ばしてややゆったりめに運び、余裕を感じさせるやわらかな音色で力を込めており、ラストも息が長い感じです。声の艶が色っぽいという感じで、これを聞きたい方も多いでしょう。

 サラ・ブライトマンの方はソプラノ独特でビブラートがよく響きます。囁くような弱音を駆使してやわらかく歌い、声量ではなく声の美しさと色気に重点があるようなところはミュージカル歌手という感じです。最高音で強く上がるところでも、やわらかく震える女っぽさを出そうとしているかのようです。大変きれいなネッスン・ドルマです。

 三大テノールの残り、スペイン人のプラシド・ドミンゴはネロ・サンティ指揮によるベルリン・ドイツ・オペラ管とのオペラ・アリア集(1968 Teldec)、カラヤンの指揮するトゥーランドット全曲盤(1981 DG)、同じく全曲でレヴァインとの盤(1987 DG)、またそれらの抜粋盤やアリア・ベスト盤が出ています。
 ネロ・サンティ盤で聞くドミンゴは厚みがあってよく響く低めの声で、やわらかさと強さが共存しています。 音を跳ね上げるところなどでやや泣きのような響きも聞かれます。抑揚は大きく回るように、やわらかく粘らせて歌う感じで、うねる大きな波があります。そしてラストは重戦車的で、最高音で爆発させます。

 もう一人、同じくスペインのホセ・カレーラスの方はアラン・ロンバールとのトゥーランドット全曲盤(1977 EMI)、マゼール指揮の同じく全曲盤(1983 Hungaroton, CBS/Sony)、それぞれの録音日時などの詳しい情報がないフィリップスからのベスト盤(1991 Philips)、マゼールの全曲盤からとった同じような構成のソニー盤のアリア・コンピレーション(2008 Sony)などがあります。マゼール盤の方を聞きました:
「ドルマ」の r の巻き舌がしっかりと聞こえます。あまり形は崩さず、遅過ぎはしないけれども落ち着いた雰囲気があり、要所では音節を延ばしてテンポを緩めます。輝きや艶が出過ぎず、パヴァロッティなどに比べればややくすんでいるかもしれないけど飾らない上品な声と表現です。そして最後の最後でぐっと来ます。

 RCA からはこれらの三大テノールを網羅し、他の分野の歌手も交えた Puccini’s Greatest Hit the Nessun Dorma(2007 RCA)というアルバムも出ています。これと上記のボンジョヴァンニ盤とがあれば、あらゆる時代の「誰も寝てはならぬ」が聞けることになります。こんなハイパーな曲を続けてかけるのもどうかとは思いますが。

 これ以外でナポリ民謡のところでも触れたジュゼッペ・ディ・ステファノは歌ってないのかというと、Giuseppe di Stefano Grandi Voci というオペラ・アリア集があります(1958 Decca)。もう一人のフェルッチョ・タリアヴィーニの方は役柄ではなかったようです。厳密な区分ではなくて両方歌う人もいますが、カラフ王子役はリリコ・スピントであり、対するタリアヴィーニはリリコ・レッジェーロの声でした。
 ステファノの歌唱ですが、激情的な歌い方の人という印象があったけれども、まず結構明るめの声だというのが分かります。出だしは案外力を入れず、静けさもあってゆったりしています。囁くように力を抜いてやわらかく歌う箇所も聞かれます。しかし所々のフレーズでピンポイントに力を込める感じはあります。全体にはわざとゆっくりに歩調を落としているかのようなテンポ運びであり、区切りもしっかりしています。ラストへ向けてはこの人らしく、遅いままですが、劇的に力を込めます。



   curapuccini
     Nessun Dorma - Turandot (Act V)   Puccini Arias
     José Cura (t) ♥♥
     Plácido Domingo   Philharmonia Orchestra


誰も寝てはならぬ〜トゥーランドット(第三幕)/ プッチーニ・アリア集
ホセ・クーラ(テノール)♥♥
プラシド・ドミンゴ / フィルハーモニア管弦楽団

 では、「誰も寝てはならぬ」の歌唱で個人的に良かったと思う一枚を挙げてみます。ホセ・クーラです。 この歌の最近の人気のきっかけになったパヴァロッティや三大テノールももちろん素晴らしいと思いますし、スーパースターのボチェッリなど、上で触れたテノールはどれもいいでしょうが、それらとはちょっと違うかもしれません。クーラは異端の人です。

 まずなんというか、オペラにはオペラで要求される歌い方というものが存在するのでしょう。他のページでも書いたけど、男声なら何か圧倒するような力が期待されます。でないと話に感動できません。以前よくおしゃべりをした知り合いにジャズとオーディオとオペラが大好きで、有名な公演が来ると休みをとって聞きに行く人がいるのですが、彼の言葉を思い出します。「一番前の席でさぁ、唾がパァーっとかかるぐらいの派手な歌い方がいいね」というのです。オペラ・ファンってそういうものなんだなと感心しました。その知人が好むテノールは、どうやらホセ・クーラとは反対であるらしく、クーラは嫌いだとおっしゃってました。このテノール、どうも嫌う方が一定数いらっしゃるようです。どうしてでしょうか。昔別の友人にこの歌手を褒めたら、ああ、あの有閑マダムがきゃあきゃあ言うやつね、という反応を返されて驚きました。失礼ながらそういう記事とかがあったのかもしれないけど、男性として魅力的な姿だからでしょうか。最近ではヨナス・カウフマンがその地位を引き継いでいるようです。また、wiki でも日本語版でだけ、クーラは1999年に声を壊して表現力が失われた、という評価が書き込まれています。それも誰か有名な評論家の発言なら要出典でしょう。本人は否定しているはずです。でもオペラの国イタリア本国でも悪口は囁かれたようで、そちらは恐らく、伝統のベルカントと違う歌い方だからということのようです。

 1962年生まれのアルゼンチン出身です。独自に模索した発声法で、本人は師を見つけるのに苦労した、と語っています。でも公式通りがいいということではなく、歌手は皆体が違うので自分に合った方法を見つけて行くべきだと考えているようで、そのあたりの議論を読むと大変頭の良い、物事を哲学的に考える人のように感じられます。その彼の思索は歌唱技術以外にも及び、容姿の人気を利用すること、派手な歌い方、レパートリー構築の妥協など、あらゆる面で安易な商業主義が嫌いなようで、文化全体にわたっての硬派な論法を展開しています。こちらとしては声楽の技術的なことは分かりませんが、その歌唱を聞けば大変魅力的なところがあります。

 それではどう歌っているかということですが、最初から無闇に揺らしたりしません。全開にすることは抑えて、さらっと自然に歌って行きます。テンポも遅くありません。知的というのかどうか知らないけど、そういう設計がすごくいいです。そしてその歌い方はたくさん出ているライヴ(ひっぱりだこのようで、イベントのたびに何度も歌っています)でのビデオで見ても毎回共通しているようです。2011年など比較的最近のでは、余裕が出て来てるのと同時に多少表現が大きくなっている箇所もあるでしょうか。女性コーラスが入る部分の後(この録音では管弦楽に置き換えられています)、そこからのしっかりとコントラストを付けてのクライマックスは見事で、リリコ・スピントの役に相応しい力強さに圧倒されます。

 声質についてはバリトンにも近いドラマティコ寄りの強靭な声と言われますが、確かに明るく艶やかな倍音が乗るとか、反対にやわらかい響きが特徴だとかではなくて深みがあり、張り上げない場合でも平板にはならない弾力が感じられます。そして強い音では締まって圧倒するような力強さを見せます。声楽の知識はないのでこれは唱法の説明ではなく、イメージで言っていますが、スピーカーに喩えればまるでホーン型のような感じ。ホーンというのはすぼまった喉元の音圧が高いのです。その圧によって保護される形で負担が減り、振動板が破壊され難いという特徴もあります。そして強い指向性で音が増幅されて飛んで来ます。スピーカーと人間とでは構造が違うけれども、この人の声も聞いた感じではそれと同じような印象です。がっしりとした体躯、分厚い胸郭からの肺活量によって大きなフイゴのように空気が圧縮され、まるで狭まった喉でより圧が高まって真っ直ぐ前へ突き刺さって来るかのように音に勢いがあります。同じくスピント〜ドラマティコの区分で「黄金のトランペット(ホーンです!)」と呼ばれたマリオ・デル・モナコと比べられることがあるようですが、二人は似た種類の声の出し方なのでしょうか。よく分かりません。これとは反対に、大きな樽の中で響かせるような声もよく聞かれます。実際はどうやってるのか知らないけれども、顎を上に開いて口をすぼめ、喉の奥から出して来るような音です。一般にベルカントと言えば体全体の空洞に響かせることで楽に声を出す方法だなどと説明されるようです。横隔膜の動きや支え、母音やパッサージョ、体の広がり感などの説明は大変難しいです。でも、瓶の口を横から吹くとボーっという音が出る、ヘルムホルツの共鳴器のような声を出す歌手もいるわけです。クーラの筋肉質というのとは違い、その場合太った丸い体型を想像します。主に高い音を出すときの話として出て来るジラーレの、顎/喉頭を下げて口を閉じ気味にし、あくびのように口の奥を広くするという技術と関係があるのでしょうか。実際の音圧はどちらのタイプが強いのか、生で同条件で比べるのは難しいし、厳密には測定器で測らなければいけないだろうけれども、そういう音の人はより大きく聞かせるためなのかどうか、反動をつけたような派手な抑揚によってドラマティックさを演出しているように思えるときもあります。それとも単に表現法の違いでしょうか。それをしないホセ・クーラに関しては、「あんな歌い方ではいずれ喉が壊れる」とベルカントの人が揶揄する一幕もあったようです。共鳴音のような歌手がベルカントの正統だと言ってるわけではないけど、いったいどういうことなのか、うまく説明できる人がいたら聞いてみたいものです。

 というわけで、情緒振幅の点でやり過ぎない品の良さがあって最後が圧倒的なので、色々聞いても結局ホセ・クーラのネッスン・ドルマが一番好きです。比べようのない強さがありつつ派手じゃない。クーラ自身は、カラフと自分とは性格的に正反対だと思うと言っています。しかし本人同様に彼のカラフはクールで知的な方になるでしょう。劇のカラフではなく、むしろそれを作ったプッチーニの洗練と情熱の方に同調したのかもしれません。全く個人的にですが、正直他のはあまり聞きたいと思いません。

 ここでちょっと余分な話かもしれませんが、ホセ・クーラのこのオペラとカラフ王子についてのユニークな解釈に触れてみます。どうやら彼の理解では、カラフはトゥーランドット王女を愛しておらず、王女と結婚して中国の王朝を乗っ取るという、権力への欲望から行動していると考えているようです。唐突に求婚を申し出たことの不自然さも、それなら納得できるわけです。そしてその動機は自らの王国が奪われたことへの復讐です。ひょっとしたらトゥーランドット王女の中国がカラフの国を奪った大元の国という解釈にまで発展するのかもしれません(オペラの脚本が参考にした物語では、中国は後にカラフ王子に協力し、以前彼の王国を奪った隣国を滅ぼしています)。そうでなくとも、カラフはチンギス・ハーンのような略奪者で、父やリューを犠牲にすることを顧みない自己中心的で冷酷な男だと言います。また、この物語は相容れない男女の世界の衝突を表しており、権力への欲求と相まってフロイト的だとも感じているようです。
 しかし王女に向かっては確かに「愛している」と一言も発しないにせよ、オペラの歌の中には恋心を表明する部分はあります。また、カラフ王子が求婚を引きとめようとする者たちに向かって、「私は自分の王国を失ってしまって自暴自棄なんだ、死んでもいいんだ、死なせてくれ」と歌う場面もあります。そして何より、前述の通りプッチーニの「誰も寝てはならぬ」ほど恋の高揚を上手く表現している音楽はなく、それは権力欲説では説明できません。それに対してクーラは、カラフ王子は性的には絶世の美女である王女に魅せられてはいるけれども、それは女性の征服を意味しているのだ、と理解しているようです。トゥーランドット王女の方も、過去に異国の男に略奪され、汚された(レイプされた)祖先の王女の歴史から、男性一般を恐れているとします。そして最後に王子と王女が抱き合う場面こそフロイト的性愛と女性の側の屈服を表しているとのことです。その見解に沿うようにプッチーニの絶筆(リューの死)の部分までで終える「トゥーランドット」オペラの演出と上演も、劇場の意向ではあったけれども、2016年に Opera Royal de Wallonie にて彼は行っています。クーラ自身はよくインタビューに答える人で、ウェブ上でもこうしたことについて色々と語った記事が載っているのです。

 大変面白いけれども、果たしてどうなんでしょうか。この劇の設定の滑稽さ、不自然な展開からそう解釈したというのなら、恋愛ドラマというものがそもそも、二人の愛情の成立にはだかる障害がなければ成り立たないので、そのためのあざとい設定に明け暮れるものであるようにも思えます。それに元々寄せ集めのごった煮的な台本から仕方のないことなのでしょう。権力志向について言うなら、フロイトよりもアドラー心理学の方が適任かもしれません。でも、リビドーとして性的動因のみを強調するフロイト自身、元々愛情面に関しては歪んだ心理を持っていたとも言われており、その面では確かにフロイト的な感じもします。母からの愛の欠乏が原因で、自分を拒否しようとする女性を見ると次々と誘惑して征服しなければ気が済まないドンファン的なコンプレックスを持ったカラフ王子、という観点なら、後に「好色ナルシスト」という下位区分を生んだフロイトの「自己愛的性格」という理論に含まれています。そういう人格の持ち主は征服欲を意識してそうするのではなく、一生懸命なときの本人は燃えるような恋だと思っているでしょう。 

 1997年のエラートです。録音のコンディションは大変良いです。プッチーニのアリアを集めたもので、他の曲が好きかどうかはともかく、まとまりが良い企画です。指揮はプラシド・ドミンゴが買って出ています。歌う者の呼吸が分かっていて申し分ないだろうし、クーラを応援してあげてもいるのでしょう。そしてこれはトゥーランドットのオペラ全曲ではないので、途中の女性コーラスが管弦楽に変更されていると同時に、最後は実際の舞台とは違い、アリア集でよくやられるようにメジャー・コードによる解決の協和音で終わるようアレンジされています。

 これ以外では、プッチーニばかりではなく、広く色々なオペラの有名なアリアを集めてコンピレーションした盤も出たことがあります(「アーティスト・ポートレート/ホセ・クーラ」)。最近の人気ということではないのですでに廃盤かもしれませんが、中古は出回っています。一方でプッチーニのアリア集の方は扱わないショップも多いものの、新品を売るところもあるようです。むしろサブスクライブのサイトで探すときに難しい部分があるでしょうか。

 クーラのカラフ役へのデビューは、毎年ヴェローナの古代ローマ闘技場跡で行われる野外コンサート(Festival Arena di Verona)であり、2003年のことでした。アラン・ロンバールが指揮した2時間16分ほどの DVD が Premiere Opera レーベルから出たことがあります。でも現在入手は難しく、それ以外の映像やオペラ全体の CD は販売されていないのではないかと思います。



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