パッヘルベルのカノン
バロックの名旋律2 バロックの名旋律として「アルビノーニのアダージョ」と並んで名高いのが「パッヘルベルのカノン」です。アルビノーニ作とされたその有名な作品とは違い、こちらはパッヘルベルという人が本当に作ったものです。でも、やっぱりすごく知られている作曲家というわけではありません。たくさん作って宗教曲も室内楽もあったし、オルガンの名手で鍵盤曲は聞かれるとも言われるけれど、よほど知ってる人以外、愛好家の間ではそれこそカノン一曲が有名なぐらいでしょう。これは「ワン・ヒット・ワンダー」と呼ばれる現象であり、ずばりそのもののタイトルのも含めてそうした曲ばかりを集めたたくさんのアルバムが出てますが、その一位は大抵パッヘルベルなのです。でも一発屋ではあっても、大きな一発屋です。それには「カノン・コード」と呼ばれる人類を支配して来た陰謀があるからです。 パッヘルベルのこと 大袈裟な話はともかくとして、ヨハン・パッヘルベルという人、生まれはニュルンベルクですからドイツの南の方の出身であり、ウィーンとドイツ国内のオルガン奏者の職を転々として過ごしました。1653年誕生で1706年に亡くなっていますので、バッハより三十二歳上、ちょうどバッハの親の世代であり、実際にその父親であるヨハン・アンブロ ジウス・バッハとは友達でした。バッハの一番上の兄であるヨハン・クリストフ・バッハの家庭教師だったこともあります。バッハ・ファミリーの親戚の家に住み込み、その後その家を買い取ったりもしています。ではバッハ本人と会っていたかというと、恐らく会ったのだろうけど正確なことは不明であり、教え子だったクリストフ・バッハの結婚式に彼も呼ばれているので、多分出席してるだろうからそこで会ってるはず、ということになるようです。式に招待された音楽家は楽曲を提供しており、そのときの曲がこのカノンではないのか、という説もあるそうです。バッハと同じで奥さんを亡くして二度結婚しており、五十二歳で亡くなりましたが、身辺の詳しいことはあまり知られていません。 カノンと隠された親鍵 パッヘルベルの技法上の特徴については詳しい資料を参照してください。この有名なカノンにはジーグという続きの曲があり、よく一緒に演奏されたり CD に入れられたりします。でもヒットして知られているのは専らカノンの方です。カノンというのは曲の形式の名前で、輪唱のように同じ形の声部をずらして重ねるのを基本として、変奏によって形を少し変えたりもします。フーガと近いところがあり、シャコンヌやパッサカリアとも一部で重なる部分があります。でも一般的なカノン形式の定義が何であれ、カノンと言えばこのパッヘルベルのカノンの形が有名であり、その後今日までの300年以上にわたって多くの楽曲で模倣されて来ました。特に身近なポップスの分野ではそれと知られずたくさんのヒット曲が生み出されています。作り手は意図的であった場合もあるでしょう。バーンスタインの話をテレビで取り上げたという「ヒット曲が欲しくばソドレミを使え」説もありますが、「受けを狙うならパッヘルベルで行け」という原則だってあるのです。それほど聞いていて心地良い展開なのでしょう。どうして心地良いのかは経験則であって理論化の根拠は見つけ難い問題ですが(すでに議論しました。「短調が悲しいのは生まれつき?」)、名付けて「カノン・コード」、「大逆循環」などと呼ばれます(何が正循環でどれが逆循環かという点はお隣の音大生や検索が頼りです)。そして実は、そう呼ばれるものは「パッヘルベルの」カノンの進行そのものの形、のことです。これ以外にも80年代頭に一世風靡したお洒落なサックス、グローバー・ワシントン・ジュニアの「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」進行(FM7・E7・Am7・C7)をはじめ、いくつか売れ線定番があるにはありますが、このカノン進行は基本中の基本です。 では実際にはそれはどうなっているかというと、この曲のベースラインというのか、通奏低音の部分の進行はハ長調に直すとド・ソ・ラ・ミ/ファ・ド・ファ・ソです。これをコード進行で表すと C・G・Am・Em/F・C・F・G となります(実際の調では D・A・Bm・F#m/G・D・G・A)。それにメロディーラインがミ・レ・ド・シ/ラ・ソ・ラ・シと乗って来て、以後変形が加わります。このパター ンで作られたポップスの有名曲、ものすごい数あるんです。少なくともベースラインがそのもの、あるいは厳密にはそうではなくても少し変化させたものまで含めると、次のようなヒット曲があります。 パッヘルベル進行の曲たち 有名なものではビートルズの「レット・イット・ビー」’70 なんかがこの音型に近く(独立してレット・イット・ビー進行とも呼ばれ、カノンの前半分だけにしてその最後のコードを次から一つ前へずらしたもの:C・G・Am・F)、懐かしいところではビージーズの「スピックス・アンド・スペックス」’66、ミシェル・ポルナレフの「シェリーに口づけ」’69、ジョン・デンバーの「カントリー・ロード」’73 などもそうです。80年代以降になると U2の「ウィズ・オア・ウィザウト・ユー」’87、バナナラマの「第一級恋愛罪」’87、マイケル・ジャクソンの「マン・イン・ザ・ミラー」’88、グリーン・デイの「バスケット・ケース」’94 などがあります。もっと最近のだとヴァイタミン C の「グラデュエーション」’00 がまんまそうだし、アヴリル・ラヴィーンの「スケーター・ボーイ」’02 やブリトニー・スピアーズの「エヴリタイム」’04、ケシャの「キス・N・テル」’10 とか、マルーン5の「メモリーズ」’19 なんかもパッヘルベルの進行です。日本でも80年代にヒットしてクリスマス・ソングの代名詞ともなった山下達郎の「クリスマス・イヴ」’83 などがあり、ほんとに枚挙にいとまがないのです。 CD 選びについて でもパッヘルベルのカノンについては、そのものを有名にした「審判」だとか「ヴェニスの愛」だとかの映画があるわけではありません。アルビノーニのアダージョを広めたシモーネの演奏があったように、フランスの指揮者、ジャン=フランソワ・パイヤールの演奏と録音によって人気に火がつきました。それについては次で見て行きます。そしてこれもアルビノーニのときの怪しい理由とは事情が異なるものの、楽譜が残っているその作曲家の有名な曲が他にあまりないという共通点によって、CD 作りでは同じように頭を悩ます問題があると言えます。残りのトラックでパッヘルベルのあまり知られていない楽曲を組み合わせるのか、それともやっぱりアルビノー ニのアダージョなどのバロック名旋律集で行くのか、という二択になってしまいがちなのです。それと、この曲については古楽の徒も演奏してくれますが、最初に人々が馴染んだパイヤールのしっとり解釈とは違い、やはり速いテンポで跳ねるように行くのが多いようです。 Pachelbel’s Canon Jean-François Paillard Paillard Chamber Orchestra ♥♥ パッヘルベルのカノン ジャン・フランソワ・パイヤール / パイヤール室内管弦楽団 ♥♥ まずパイヤールからです。なぜなら、この演奏録音によってパッヘルベルのカノン自体が有名になったからです。といっても、パイヤールはこれで人気が出たのでこの曲を何度か録音しており、今手に入るのは三つほどあります。その中の最初の録音は1968年にエラートに行ったものであり、これがサンフランシスコでのヒットに始まって70年代に全米に広がり、84年に再販された際にはその年のビルボードのクラシック部門で一位を取るまでになりました。そしてそのときの録音が、結局一番良く出来てたんじゃないかと思います。多くの方がパイヤールはやっぱりこれでなきゃ、とあちこちに書いているぐらいです。何が違うかというと、後で触れますが、主にテンポが後の録音になるほど速くなり、二度目はテンポ以外の表現はほぼ最初のと同じ傾向、三度目は起伏が大きくなり、後半に向けてより元気になったという印象です。 ではその68年の演奏ですが、元々の楽譜にパイヤールが書き加えた部分もあって、以後はそれも含めて演奏される場合もあります。なので「パイヤール版」のマナーになっているものだと言えます。テンポについても、ちょっとややこしい表現ですが、「このバロック時代の楽曲として行われていただろうとその後の古楽研究で解釈された(と思われている)慣例的な速度」よりは大分ゆっくりです。トータル・タイムは表記によって7分12秒から15秒ぐらい。それもあって古楽器ブーム真っ只中にあっては、後の彼自身の新録音の方でもその慣例に倣ってスピード・アップすることになったのかもしれませんが、この最初のゆったりの感覚が実は、曲自体がヒットした秘訣の一つだったのだと思われます。 静けさとやさしさに癒される前半、そのままだんだんに高揚感が高まる後半という構成になっています。通奏低音のリズムの部分に加えられたピツィカートが目立つのも特徴です。落ち着いていて、最初は弦も抑えて入ります。なんとも言えない風情があっていいです。だんだんにクレッシェンドして行きますが、それは粘りがあって全体に息の長いものです。そして中間部の通奏低音のみのパートが静かに長く感じられ、そこからラストへの盛り上がりも比較的落ち着いて大きく膨らませて行きます。後半少し入ってから最後にかけては音がずっと鳴ってるボリューム感はあるので、人によっては多少息苦しく感じる場合もあるかもしれませんが、大声ではなく、こみ上げて来るものがあるぞという感じです。多少ロマンティックでしょうか。 そこから数えて二度目の録音もやはりエラートで、1983年です。タイムは1分ほど短くなって6分17秒。感覚的にも速くなっています。中間部はチェンバロのリズムが目立っていて静かです が、そこからはわりと平坦にクレッシェンドして行く印象で、やはりうるさくはないけど多少押す感じはあります。ゆったりしてる癒し系という意味では68年盤ですが、このさらっとした展開も悪くはありません。オリジナルのジャケット・デザインは二人の漕ぎ手がボートを立ち漕ぎしているもので、これはアルビノーニのアダージョのところで触れたのと同じ盤です。そちらのアダージョはなかなか静かでいい演奏だと思いますから、カップリングによってその盤を選んで もいいと思います。他には「主よ人の望みの喜びよ」や、カンタータ140番のコラールなどが入っています。 三度目の録音は1989年で、タイムは6分02秒。RCA のレーベルになっていて、持っているのは BMG ビクターの国内盤です。この CD もアルビノーニのアダージョのページで触れたのと同じものです。ひょっとすると日本だけの発売なのかもしれません。テンポは最も速く、クレッシェンドの表現も大きいです。かなり元気な印象があります。速いという点では同じでも、古楽の軽さとは違ったダイナミックな感じです。こちらの組み合わせもそのアダージョに加えて「G 線上のアリア」もあるし、「ヴェニスの愛」も聞けるし、「人の望みの喜びよ」も入っていて、バロックの名旋律をより多く収録しています。 さて、話を戻して68年盤ですが、カップリングはパッヘルベルの他の作品と、ドイツのバロック時代の作曲家、ヨハン・フリードリヒ・ファッシュ(1688-1758)の曲となってるのがオ リジナルです(写真左)。したがって最初にヒットを飛ばしたときの構成はバロック名曲集ではなく、世間で定番にならなかったこのパッペルベルの組曲などだったことが却って新鮮です。でも穏やかで聞きやすい曲ばかりなので、カノンしか知らない方は是非確かめていただきたいと思います。その組み合わせでは廉価版のエイペックス・シリーズからも同じものが出ています(写真右)。 他に色々組み替え盤も出ており、エラート・ベスト100の国内盤もこの録音ですが、そちらは貴族の女性二人が楽器を持った人たちに囲まれてる絵のジャケットで、この68年のカノンを入れた 「バロック名曲集」の構成になっています。選曲のセンスはどうだか分かりませんが、アルビノーニのアダージョ、G 線上のアリア、「ヴェニスの愛」、140番のコラールに加えて、バッハの名旋律であるチェンバロ協奏曲第5番のラルゴまで網羅されているのが嬉しいし、ラモーの めんどりや「水上の音楽」のアラ・ホーンパイプ、元気の良いトランペット・ヴォランタリーなども聞けます。 音質ですが、60年代終わりということで他のデジタル録音盤より劣るかと思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。エラートの大変良かった時代の録音であり、潤いのある見事なバランスです。 Pachelbel’s Canon Neville Marriner Academy of St. Martin in the Fields ♥♥ パッヘルベルのカノン ネヴィル・マリナー / アカデミー室内管弦楽団 ♥♥ マリナーのカノンについては、アルビノーニのアダージョのページですでに触れてしまいました。したがって同じ内容のことを記します。最初の通奏低音の部分からすでに低いストリングスが本来より三度下でメロディー・ラインをかぶせて来るように工夫されており、いきなり始まったかのような感じがします。しかしオルガンと弦だけの静かでやわらかい 導入で、最初は有名なパイヤールの68年の録音と同じぐらいに感じる、ややゆったりめなテンポ設定です。そして途中から少しスピードアップするせいかどうか、繰り返しの回数までは数えてないけれどトータルで5分丁度であり、タイムとしてはパイヤールより短いです。そして例のピツィカートは使っておらず、より滑らかな感触があります。音符の扱いは古楽ではないので中ほどで盛り上げず、スラーでつなぎます。全体が持続するレガートでだんだん盛り上がるのはパイヤールと同様です。途中でスピードアップすると言いましたが、曲の中央より前でクレッシェンドもして大きく盛り上がり、中程で一度弱まるところではしっかりと弱め、その後は強めたり弱めたりの繰り返しで変化を付けるので、大声の一辺倒になりません。また、最後にかかると速度を大きく緩め、バウムガルトナーほど大がかかりには聞こえないものの、表情をよく設計していると感心します。この曲は大抵おしまいに向かってだんだんうるさくなって来て息がつけなくなるもので、テウチ盤や多くの古楽器楽団の演奏ではそれが速めのテンポによって乗り切れているわけであり、そうせずとも最後まで心地良いこのマリナー盤、パイヤールと並んでこの曲の名演奏ではないかと思います。同様に「G 線上のアリア」も表情がしっかりしています。 録音は1973年の EMI で、大変良いバランスです。ここに掲げたのはバロック・マスターピーシズとなっている再編盤です。カップリングはグルック(有名な「オルフェオとエウリディーチェ」〜「精霊の踊り」)は分ければ古典派時代だと思いますが、それ以外はアルビノーニのアダージョや「G 線上のアリア」(組曲全体)、バッハの名旋律であるマリナー編の「羊は安らかに草を食み」(狩のカンタータ BWV208〜)、「水上の音楽」、ブランデンブルク協奏曲の一部などと、バロックの曲で構成されています。同じ内容でジャケットが別の絵に差し替えられたものもあり、また、これと同じタイトルで別の構成のアルバムもあります。 Pachelbel’s Canon Karol Teutsch Wroclaw Chamber Orchestra Leopoldium ♥ パッヘルベルのカノン カロル・テウチ / ヴロツワフ・(NFM) レオポルディウム室内管弦楽団 ♥ アルビノーニのアダージョでも取り上げた、ポーランドの指揮者、テウチは1921年生まれで92年に亡くなった人で、このヴロツワフ室内管弦楽団は彼が1978年に設立した楽団です。オリジナルが89年、再販盤が96年に出た CD にはそのアダージョが入っていますが、こちらの07年発売のナイーヴ盤には入っていません。フェイクということでわざわざ落としたんだろうと思います。 その演奏ですが、タイムは4分ちょっとでモダン楽器の演奏としては軽快であり、古楽器楽団のピノック盤やシアトル・バロックなどより短いです。軽くやや弾むようなリズムの弦楽で入り、音符の連なりの処理としてはピリオド奏法とは違ってレガートを取り、速めのテンポだけど静謐な感じがあります。途中からはかなり速いなと感じるものの、角がなく、滑らかで静か系なのが個性的なのです。後半もほぼ同じテンポではあるものの、また少し速まってるかのように感じます。さらっとして耳にやさしい、癖のなさが癖になるような演奏です。ふわっと弱める処理なども繊細で、羽のように軽くて気持ちが軽くなります。 カップリングはヘンデルの名旋律サラバンドの編曲されたもの、コレッリのクリスマス協奏曲の一部、「G 線上のアリア」などのバロックの名曲が揃っており、録音もデジタル時代の89年発売と新しいだけあって大変良いコンディションです。バランスも生っぽくやわらかいです。 モダン楽器によるその他の演奏 上記以外のものだと、古くはクルト・レーデル/ミュンヘン・プロ・アルテ室内管弦楽団 ♥ が1964年の録音で出しており、アルビノーニのアダージョなどが入ったバロック名曲集となっています。タイムは5分20秒ほどで、パイヤールやバウムガルトナーなどと比べると明らかに少し速い感じがします。 最初はオルガンと弦楽合奏で結構編成が大きく感じる、しっかりとした通奏低音の前奏によって始まり、そこから弦による少し抑えた静けさに変わってメロディー・パートとなり、パイヤールのようなピツィカートが背後で小さく聞こえます。全体としては滑らかに少し速めに進行して行くもので、結構中音の反響があります。パイヤールほどのレガートではありませんが、少し山を描くようにやわらかく盛り上がる呼吸があります。 バウムガルトナー/ルツェルン音楽祭管弦楽団は1967年の録音で、タイムは6分20秒ほどながら、テンポはパイヤールの68年盤と同じか、後ろではより遅く感じます。一拍に一つずつ鳴らす間のあるチェンバロの静かな音で入り、メロディー部分の楽器も最初はソロが受け継がれていくような室内楽的な雰囲気です。音が持続する印象のしっかりとつながったレガートによる表現で、歌の抑揚に丸みがあります。一定に滑らかに流れるパイヤールに対して一つひとつのフレーズに山も感じます。そして後半に向けて速くなるのではなく、どんどん遅くなります。滑らかだけど引きずるような粘りを感じさせるもので、最後はかなりゆっくりで壮大という印象になり、重みがあります。 カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団はアルビノーニのアダージョとカップリングになっており、1969年と83年録音のドイツ・グラモフォンの二種類がありますが、そのアダージョはどちら も大変遅くて壮大なロマンチシズムに満ちていたのに、こちらのカノンはタイムも旧盤が4分10秒ほど、新の方で5分ちょっとという幾分スピーディーな展開となっています。面白いことにこっちは颯爽とした顔のカラヤンなのです。ただしフレージングは古楽器楽団とは違って滑らかなものです。モダン楽器のこの頃の演奏マナーですが、その中でもカラヤンは特にシュガーバターテイストでしょうか。旧の方がよりさらっと速く、新録音はレーデルと同じぐらいか多少速いぐらいの感覚で旧ほどではないものの、アルビノーニと比べればこれもかなり速めに流しています。拍一つのチェンバロに低音弦という導入の通奏低音で始まり、69年盤と比べれば後半で多少機械的でしょうか。胃もたれするようなところはありません。表現方法はどちらも同じであるものの、速いながらに繊細で滑らかに感じるのは69年盤の方でしょう。 古楽器による演奏 ここからはピリオド楽器による演奏です。アルビノーニのアダージョと違って、パッヘルベルのカノンは一曲だけのヒットでは同じでも、ちゃんと本人が作曲していてフェイクとはみなされないので、ピリオド楽器とその演奏様式でもたくさん聞くことができます。それは60年代に始まって70年代から流行したムーブメントですが、数々の抑揚における特徴に加えて、その演奏はモダン楽器の時代より全体にテンポが速くなっています。以下にちょっとタイム順に並べてみましょう。 モダン楽器演奏 パイヤール ’68 7’12” バウムガルトナー 6’21” レーデル 5’21” カラヤン 5’07” マリナー 5’00” ピリオド楽器演奏 ピノック 4’32” シアトル・バロック 4’24” テウチ(モダン楽器演奏) 4’12” ホグウッド 3’44” パロット 3’41” ロンドン・バロック 3’39” マンゼ 3’34” リ・インコーニティ 3’34” モダン楽器の最も長いものとピリオド楽器の一番短いものとでは2倍の開きがあります。例外的なテウチ盤を外したそれぞれの平均だと、モダン楽器演奏が5分48秒、ピリオド楽器演奏が3分53秒(ジーグがあるものはその部分を除いてあります)なので、古楽器の演奏は1.5倍速くなり、33パーセント短くなっています。 どうして速くなっているのかという理由ですが、前述の通り、一般に信じられていることは「バロック時代にはそういう速いテンポが一般的だったと学術的に解釈されているから」、です。でもこれはそう簡単には行かない問題です。そもそも曲に対して作曲家が客観的な速度を指定できるようになったのは1816年のメトロノームの発明以降で、ほぼベートーヴェンあたりからです。それ以前はというと、テンポのあり方は文献に頼らざるを得ないわけで、色々あるのでしょうけれど有名なものとしては三つ、クヴァンツという人と、バッハの次男であるカール・フィリップ・エマヌエル(C・P・E)・バッハ、モーツァルトのお父さんであるレオポルド・モーツァルトが書いたものから想像するということになります。その中でもヨハン・ヨアヒム・クヴァンツ(1697-1773)の演奏法に関する著作(On Playing the Flute 1752)は速度について詳しいのです。バッハより少し年下でほぼ同世代のドイツのフルーティストであり、フリードリヒ大王(2世)にフルートの教師として仕えた人です(C・P・E バッハもチェンバロで仕えました)。因みに、フリードリヒ大王というのはプロイセン(=プロシア/旧ドイツ)の王様で、オーストリアの有名なハプスブルク家と張り合った有能な軍人であると同時に、上下に分け隔てがないという啓蒙君主としての民主的な一面もあって大変人気があり、芸術に造詣の深かった人です。フルート協奏曲を121曲も作ったそうで、ドイツのジャガイモ料理とビールを名物にしたオリジネーターでもあるそうです。バッハの「音楽の捧げ物」は彼の示したテーマによって作曲されています。 さて、曲のテンポ設定はアレグロとか アダージョとかいった速度記号の解釈から始まりますが、当時はその表記は厳密な指標ではなく、感覚的な慣例とも言えるものでした。彼以前の時代にもジョゼッフォ・ツァルリーノとかエティエンヌ・ルリエとかの音楽学者の解釈は存在しており、脈拍に関連づけられたタクトで了解されるものがあったようですが、それに関してクヴァンツはいくらか客観的な基準を設けようとしています。健康な人の心臓の鼓動が良いということで、一分間に80回を基準としてテンポ記号ごとに小節や拍を割り当てるようにしたのです。しかしそうした彼の解釈とそれより少し前とは速度が違うし(一般にもっと遅かった)、クヴァンツが主張している理屈は彼の周囲だけであって他の地域では常識ではありませんでした。その上パッヘルベルのカノンの楽譜は、後に手を入れた音楽学者ザイフェルトの編曲譜(1929/Sostenute. ♩=56 となっています)などを除けば筆写譜一点が残されているのみで、そこには速度記号すらありません。ということは結局のところ、この曲のテンポに関する正解はないということです。そうなると、それなのに古楽オーケストラの演奏がそれまでの伝統的なモダン楽器のオーケストラより3割も速くなっているのはどうしてかという、最初の疑問にまた立ち返ってしまいます。ザイフェルトへの単なる反発でしょうか。 レコード会社(ドイツ・グラモフォンと英デッカ)が行った調査によると、バロック時代の曲(バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲)の演奏慣例は、50年前と今の録音とでは3割ほど今の方が速くなっているという話です。これはさっきの計算結果と一致します。そしてどうもその原因については、世の中の傾向ということで一括りに理解されているようです。結局はその時代の好みというか、時間感覚なのだろうという話です。 Pachelbel’s Canon Trevor Pinnock The English Concert ♥♥ パッヘルベルのカノン トレヴァー・ピノック / イングリッシュ・コンサート ♥♥ さて、そうした速いテンポの古楽器演奏ですが、その中では穏やかな、比較的ゆったりしたものと言えば、やっぱりピノックの盤ということになるでしょう。イギリスの古楽のパイオニアにしてホグウッドなどともよく比較される人ですが、ホグウッドが古典派以降の演奏においてはゆったりでも、バロック時代の曲では案外軽快だったりするのに対して、多少の違いではありますがピノックは常にどこかおっとりとしたところがあります。そのせいでコレッリやヘンデルの協奏曲をはじめとした多くの有名曲で支持を得てきました。このパッヘルベルでもそれは例外ではありません。さっき計算したピリオド楽団の暫定的な平均値より40秒ほどに過ぎませんが、やはり少しスローです。そしてただ遅いというだけでなく、歌わせ方も優雅で落ち着きがあります。ピリオド奏法の山を作るボウイングはしっかりと聞かれ、バロック・ヴァイオリン独特の倍音の繊細な音は味わえながらも、この曲特有の癒し感のようなものも感じることができます。 チェンバロのシンプルなリズムに縁取られた低音弦のみで始まり、古楽独特のやわらかくうねるような表情のヴァイオリンでメロディーが乗って来ます。多少粘りがある歌い回しに感じます。このヴァイオリンはサイモン・スタンデイジとエリザベス・ウィルコックの掛け合いです。チェンバロはピノック自身です。モダン楽器の平均的な演奏よりは多少速いですが、慣れればこれが標準となるかもしれません。前述のようにテンポにおける正解はないわけで、自分も含めて多くの方がパイヤールなどのモダンの演奏でこの曲を知ったがために、特に中間部以降でのリズムを軽く切るようなさっぱりした運びには多少の違和感を覚える場合もあるかもしれませんが、これはこれで大変美しいです。 録音はアルヒーフで1983年です。繊細な艶と潤いがあって見事な録音です。カップリングはヴィヴァルディのシンフォニア(RV 149)、第二楽章が単独でも有名なアルビノーニのオーボエ協奏曲 op.9 の2番(オーボエはデイヴィッド・ライヘンバーグ)、パーセルのシャコンヌ、ヘンデルのシンフォニア「女王シバの入城」、珍しいところでイギリスの合奏協奏曲で有名な作曲家、エイヴィソンの第9番、それにハイドンのピアノ協奏曲というもので、きれいなメロディーラインを持つものと楽しく軽快な曲調のものを組み合わせた独自のアルバムです。 Pachelbel’s Canon The Pachelbel Canon and Other Baroque Favorites Ingrid Matthews Seattle Baroque Orchestra ♥♥ パッヘルベルのカノン イングリッド・マシューズ / シアトル・バロック管弦楽団 ♥♥ 上記ピノック盤から始めましたが、ピリオド楽器によるパッヘルベルのカノンの演奏でもう一つ甲乙つけがたく魅力的だったのはシアトル・バロックです。こちらは選曲もまた魅力的です。この管弦楽団は1994年にヴァイオリニストのイングリッド・マシューズとチェンバリストのバイロン・シェンクマンによって設立されました。ここで指揮をしているイングリッド・マシューズはターフェルムジーク・バロック管などで活躍して来た人です。このページでは触れるのが遅れましたが、バッハのシャコンヌ (米セントー・レコーズ1997年録音)ではピリオド奏法らしい間を置いたフレーズの処理は踏まえた上で、大変瑞々しい演奏を聞かせていました。落ち着いて味わい進めるような感情のレベルを維持する一方、大声の叫びにまでは行かないけれども真っ直ぐな情熱に満ちており、繊細な感性を感じさせる歩の緩め方や弱音の扱いがコントラストを成します。大人の周波数という感じで魅力的だったのです。このアルバムでも波長としてはその線を維持しているようで、アンサンブル全体で落ち着いた歌を聞かせています。 カノンは最初リュート(テオルボ/ルーカス・ハリス)の一音ずつで静かに始められ、和音が加わってアルペジオの装飾となり、そこにチェンバロ(バイロン・シェンクマン)が参加して来るというセンスの良さです。次のメロディーで弦がデュオになるのを先取りしているのでしょう。そのイングリッド・マシューズのヴァイオリンは軽さと柔軟さがあり、構成上やはり途中で明るい波長の快活な感じにはなりますが、最後に向かって表現が大きくなり過ぎることもなく上品に終わります。聞いていて大変気持ちの良い演奏です。 カップリングされている曲たちは英語のタイトル通りですが、またこの盤の大きな魅力でもあります。以下に簡単に記してみます: パッヘルベル/カノンとジーグ コレッリ/三声の室内ソナタ第12番 op.2〜シャコンヌ ビーバー/パルティータ第3番 A・スカルラッティ/トッカータ パーセル/グラウンド上の三声部とパヴァン ストラデッラ/クリスマス・カンタータ〜シンフォニア二曲 リュリ/「恋こそ名医」〜シャコンヌ エリザベト・ジャケ・ド・ラ・ゲール/トリオ・ソナタ ゲオルク・ムッファト/パッサカリア ヨハン・ローゼンミュラー/五声のソナタ第11番 ストラデッラ/ヴィオール・ソナタ ご覧の通りでベタな有名曲ばかりではなく、技ありの選曲という感じです。実際はそうではないのだけれども感覚的にはどこかルネサンス期のイギリスの雰囲気があるような曲が集まってる感じもします。つまり短調の憂いを含んだ優雅で静かな曲調のものや、軽い舞曲風のものばかりでセンス良く構成されているのです。一方でムファットのパッサカリアはクープランのその同じクラヴサン曲のほの暗い情熱を思わせるし、パーセルのパヴァンには秘めた想いを感じます。また、中ほど過ぎにあるそのパーセルの前半部分、「グラウンド上の三声部」にはパッヘルベルのカノンと似た通奏低音進行があり、組み合わせとしてまさにぴったりです。パッヘルベルのカノンが入ったこういう音楽の CD アルバムは通しでかけておくと統一された雰囲気が感じられないものが多い中で、これは美的にも満足が行きます。大したものです。 2004年ロフト・レコーズです。録音は上記のピノック盤より倍音がほぐれて輪郭がきつくならず、やわらかさと空間を感じさせるもので、大変気持ちの良い音です。会場にはほどよい残響があります。ただ、この盤は現在は廃盤となっているようで、2011年にも再販されましたが今のところ中古が手に入るだけです。それも値段がこなれていないし、あとは eBay で時々出るぐらいでしょうか。あまりお薦めできるアイテムではないかもしれません。CD クォリティの FLAC でのダウンロードはできるし、ストリーミングならいくらでも聞けるのですが。 Pachelbel’s Canon Christopher Hogwood The Academy of Ancient Music ♥ パッヘルベルのカノン クリストファー・ホグウッド / エンシェント室内管弦楽団 ♥ ピノックとよく比べられたホグウッドですが、古楽器オーケストラの中でこのカノンに関しては特にテンポがゆったりということはなく、他の平均的な古楽演奏者たちと同じような速度で運んでいます。カップリングのパッヘルベル以外の曲では案外遅めの設定が多いので、曲に対する考えなのだと思います。録音は1992年なので、ちょうどこういうマナーの演奏が出揃って来た時期です。ただ、他の演奏者と多少違った個性があるとすると、このホグウッドの演奏は、まずオルガンと低音弦による通奏低音によるひなびた音でのんびりと入るところと、テンポはピリオド奏法の標準ながら、どういうのかちょっとふわっとした軽さ、やわらかさが感じられるところです。羽のような感触で気持ち良いのです。カロル・テウチの演奏についてもそんなことを言いましたが、あちらはモダン楽器でした。ハイドンの「朝」、「昼」、「晩」なんかこのホグウッドが愛聴盤であり、この曲もやはり似た波長でいいなあと思いました。古楽で当たりがやさしいのをお探しならこれかもしれません。タイムは3分+4分の3ほどです。途中多少快活にはなりますが、まくることはありません。最後の方も始まり同様静かでゆったりしています。ジーグも軽快でいいです。 レーベルは元はオワゾリールでしたが、最近はデッカで出てます。ピノックより多少輪郭がやわらかく聞こえる室内楽的な印象の音で、同様に大変きれいな録音です。カップリングはヴィヴァルディ、グルック、ヘンデルと色々で、静か系と元気の良いのとを織り交ぜるのはピノック盤と発想が似ています。 Pachelbel’s Canon Pachelbel Un orge d’avril Gli Incogniti ♥ Amandine Beyer (vn) Hans Jörg Hämmel (hc) パッヘルベルのカノン 四月の嵐 リ・インコーニティ ♥ アマンディーヌ・ベイエ(ヴァイオリン) ハンス・イェルク・マンメル(テノー ル) パッヘルベル尽くしはいかがでしょう。一発屋の汚名返上とばかりにその楽曲が集結しています。パイヤールの60年代の録音と並んで意欲的な取り組みで、ハルモニア・ムンディが2015年録音で出して来た新しいものです。アマンディーヌ・ベイエは1974年にエクサン・プロヴァンスで生まれたフランス人ヴァイオリニストで、2006年にリ・インコーニティ(パリ)を立ち上げました。楽団がイタリア名なのは、17世紀ヴェネチアの知識人のグループ、Accademia degli incogniti(未知のアカデミーの意)に因んで名付けたからです。「四月の嵐」や「音楽の楽しみ」といったこの作曲家の室内楽曲が並び、それらは穏やかで楽しい雰囲気の曲が多いです。テノールのアリアも聞け、それがまたきれいです。♡を付しましたが、ここはアルバム・トータルで付けました。 カノンは楽器編成で特別面白いようなことはないですが、快活なテンポで楽しげであり、パイヤールのゆったり癒し系というので知った方には速過ぎるかもしれないものの、こういう曲として聞けるならいい演奏だと思います。結局慣れの問題でしょう。自分も正直なところ、このテンポで流された上でピリオド奏法の呼吸があったりすると、他の古楽器オーケストラの演奏と区別をつけ難いところがあります。そうなると80年代の頭ぐらいから出だして90年代前半には色々出揃った古楽器によるカノンの演奏、語法としてはあまり変わっていない感じもします。近頃はあまりイントネーションの癖がなく、テンポもゆったりしたものも他の曲では出て来ているわけですが、パッヘルベルのカノンについてはこれがある程度完成されたスタイルなのかもしれません。 録音は新しいだけに、もちろん自然で素晴らしいバランスです。 ピリオド楽器によるその他の演奏 他にも名の知られたグループによる演奏はいくつか出ています。アンドリュー・パロット/タヴァナー・プレイヤーズは1987年録音の EMI (3’41”)で、シアトル・バロックのところで述べた、まるでパッヘルベルに聞こえるようによく似た通奏低音進行のパーセルの曲、「グラウンド上の三声部とパヴァン」が入っています。アンドリュー・マンゼ盤は93年のハルモニア・ムンディ(3’34”)ですが、そういえばこれにもパーセルの同じ曲が入ってます。カノン進行で有名なのでしょう。そして同じくヴァイオリンでマンゼが加わっているロンドン・バロック盤は94年の録音(3’39”)で、これもやはりレーベルはハルモニア・ムンディです。チェンバロに装飾のある入りで、多少弦が強めで真っ直ぐかもしれません。上でも触れた話ですが、こうしたほぼ同タイムのピリオド奏法の演奏は、じっくり聞けばもちろんそれぞれの個性があるわけですが、弾むように少し切れるリズムで音符の中程を持ち上げるボウイングによる完成された語法が採用されていて、楽器の構成に大きな違いがない場合、言い難いけれどもなんだかよく似た印象になってしまうことがあります。個々の楽器をやってる人にとってはもっと違う着目点があるのでしょうから、ぜひ個々に確かめていただきたいと思います。 |