ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界から」  
 
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取り上げる CD 10枚:フリッチャイ/ワルター/セル/アンチェル/ノイマン/クーベリック/ケルテス /ドホナーニ/カラヤン/アーノンクール

 新世界というのはもちろんア メリカのことですが、ドヴォルザークの時代のアメリカは、文化的には後進国意識があったかもしれませんが経済的には大国でした。19世紀にチェコからアメリカへ渡ると音学家は何倍も稼げる状況にあったようで、ドヴォルザークはニューヨークに呼ばれてプラハ時代の25倍年俸を得たということが作曲家解説などで話題にされます。よほどうれしかったのか、この曲以外にも「アメリカ」という弦楽四重奏曲を作曲しています(本当はホームシックの最中に同郷の移民街でもてなされて気を良くしたとも言われます)。そのアメリカの出だしを聞くと、どうも土埃舞う中白いアーチ型のをつけた馬車(カヴァード・ワゴン)が行く映像が浮かんでしまうのですが、西部劇の刷り込みでしょうか。しかし「新世界」のとあるCDジャケットは馬車ではなく、弁慶号というか、バック・トゥ・ザ・フューチャーのドクのタイムマシンというか、古い蒸気機関車の絵になっています(上の写真はそのCDではありませんが)。それにはわけがあって、実はドヴォルザークはトレイン・スポッターの元祖、近頃わが国でも市民権を得ている鉄道ファンの大先輩だったのです。 そういうのを何鉄というのでしょう、「見鉄」とは言わないようですが、彼は毎日グランド・セントラル駅へ見学に行っており、仕事で行けない日は代理人を派遣して、「今日はの機関車が来てたの?」と聞いてたそうで す。当時のニューヨークは鉄道王ヴァンダービルトがハドソン川の橋を封鎖して路線を手に入れた後、ニューヨーク・セントラル鉄道の最盛期を迎えており、 4−4−0型など多くの機関車が出入りしていました。ドヴォルザークも急行車両の勇ましい姿に釘付けになっていたようです。そんなところからか、この交響 曲の第四楽章の冒頭はとまっている機関車が走り出すときの音だと言う説もあります。一度そう言われてしまうと、向かい合った二人の横顔だと気づいた途端に 花瓶には見えなくなるルビンの壷のように、どうしてもシュッシュッ、 ポッポと聞こえて困ります。

「新世界交響曲」の第二楽章は郷愁を誘う旋律からか、その後いくつかの詞がつけられて愛唱歌となっています。ホームシックだったドヴォルザーク自身がそういうイメージをしたのかどうかはともかく、その多くは帰郷に関するもので、まず弟子の ウィリアム・ A・フィッシャーが1922年に "Goin' Home" という歌詞をつけ、日本でも野上彰が「家路」を、堀内敬三が「遠き山に日は落ちて」を作詩しました。下校時刻にこのメロディを流した学校もあったでしょう。
 では、この有名な「家路」の 第二楽章に絞ってCD演奏をいくつかあげてみます。それぞれどんな家路につくのでしょうか。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Ferenc Fricsay   Berlin Philharmonic Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
フェレンツ・フリッチャイ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ハンガリー出身でドイツで活躍し、四十代で亡くなってしまった指揮者です。若死にだからかどうかは分かりませ んが伝説の指揮者のように言われて大変人気があります。他のところでは「フルトヴェングラーが好きな人が好むような」と言ってしまいましたが、それが本当 かどうかはともかく、この新世界については「ドイツ・ロマン派」という言葉が相応しいでしょう。ドイツの作曲家でもないのにそういう表現も変ながら、あの 上機嫌で人懐っこいドヴォルザークを期待していると驚くことになると思います。デモーニッシュなのです。ニーチェが言い出したというあの二区分、アポロン 的かディオニソス的かと言えば、文句なく後者でしょう。とにかくこのフリッチャイ盤だけ明らかに他と比べてひとり目立っています。
 
 第二楽章で比較するという趣旨です。若いときはワグネリアンだったドヴォルザークということを思い出させるような、ワーグナーの楽劇が始まりそうな序 奏、その重々しいブラスからして途中で驚くようなクレッシェンドをし、すでに迫力があります。テンポはとにかく遅く、何か悲劇的なことが起きた後に慰めて いるような印象です。そして途中でベートーヴェンを聞いているような錯覚を起こします。弦だけを静かに長く引っ張るところがあるのですが、第九の歓喜の前 の荘重なところのようで、そこから粘るように大きくクレッシェンドして家路のメロディーが現れてくると、この旋律に何か「闇を超えて光へ」みたいな意味が 持たされているのではと思ってしまいます。短調へと入って行くところも弦のトレモロが慟哭するように震えます。
 鳥のさえずりがオーボエからフルートに受け渡されて夜が明けるようにクレッシェンドすると、今度はブラスの爆発となります。これでライブではないので す。そしてまた家路のメロディーが戻ってくると今度は止まりそうなほど間が空けられ、感情を込めて大きく波打ちます。さらにブラスがまたクレッシェンドし て、荘重に曲が終えられるときの最後の二つの音のなんと長いことでしょう。

 こんな振幅の大きな演奏は聞いたことがありません。ボヘミア的感傷とは違いますが、バッカスの酒に思い切り酔いたい人 向けです。他の楽章でも遅いところは大変遅く、クレッシェンドして猛然と走ったり、途中から突然遅くなったりするローラー・コースター・ライドが楽しめま す。第一楽章からして凄まじい熱気ですし、現代でこういう演奏をする人はいないでしょう。蒸気機関車の大好きだったのはドヴォルザークですが、機関車がば く進するようです。

 1959年の録音はステレオ最初期ですが、ブルーレイでも出ているほどで、名演であるモーツァルトの大ミサ同様に音はかなり良いと思います。同演奏者の 「運命」よりも良いのではないでしょうか。金管がややきついですが、これを好む方には問題ないことと思います。ワルターのリマスター盤よりもバランスが良 いぐらいです。  


 
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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Bruno Walter   Columbia Symphony Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
ブルーノ・ワルター / コロンビア交響楽団
 二次大戦でナチから逃れてアメリカへ亡命してきたユダヤ人の指揮者、ブルーノ・ワルターが彼専用に組織さ れた西海岸のオーケストラで晩年に精力的に録音した中の一つです。ワルターといえば知性と霊性を感じさせる歌で知られており、緊密な構築性を感じさせる作 品よりも美しい旋律を持った親しみやすい曲に適した指揮者だと思われているふしがあります。しかし彼の統一された音楽観は昔からのロマン派の流儀というよ りも、むしろ独自に磨き上げた美学から出ているのであって、そうしたステレオタイプにはまるとも思えません。ただ、ドヴォルザークの作品、とくにこの新世 界交響曲については、彼のロマンティックな部分が良い方向に発揮されているのではないかと思います。歌うワルターの面目躍如です。

 ここでは第二楽章を問題にしているわけですが、他の楽章でも、例えば第一楽章でもゆったりとして走らず、間もしっかりと取っています。第三楽章も表情豊 かでやかましくなりません。これは終楽章まで同じ傾向で、多彩な抑揚をもって最後まで走ることなく表現されます。

 問題の第二楽章の出だしは、次で紹介するジョージ・セルがはじめのうちちょっとポーカーフェースなところがあるのに比べると、最初から大変静かに抑え、そしてもう少し感情を乗せているようなところがあります。テンポはすごく遅いというわけではないですが、速くはありません。さすがに出だしはちょっとだけあっさりはしていますが、途中からフレーズが延びるよ うに揺らいできます。ブラスの元気な部分を経て、それがまた弦に受け渡されてからはかなりゆっくりになり、たっぷりした表情で歌うようになります。短調の 部分も走らず、コントラバスのピツィカートが表情豊かで、弦がさざ波のように歌うところに真新しさを感じます。そしてさらに遅くなり、止まりそうに減速す るところも出てきます。
 ちょっと物語的に行きます: さあ、家路につきましょう。州道2号線を降りて夕焼けの中を進むと椰子の葉が風になびき、街路灯の支柱にネイバーフッド・ウォッチのサインが現れます。芝生の広いチューダー様式の家を抜け、外郭塔のある邸宅を過ぎて、縦に吊られた信号機が逆光の中で今グリーンに変わりました。カーメリタ通りの並木道から北ベッドフォード通りへと曲がると、608番地のわが家はもうすぐそこ。暖かくおだやかな LA の大気が体を包み、オレンジの夕空が目に染みます。

 ワルターの新世界は民 族主義的ではありません。スラブ的というよりは洗練され、ボヘミア的感傷もありません。そういう意味では最新のアーノンクールの方がむしろボヘミア的なの かもしれません。もちろんフリッチャイのようにドイツ的というわけでもないでしょう。しかし最初に述べた通り、他のどの演奏と比べても最もよく歌っている ものの一つではないかと思います。 センチメンタルに酔うというのは違うけれども、温かいホスピタリティを求めるならまずワルターかもしれません。現代的でインターナショナルな素っ気なさはないのに、ワルターという人は決して古び ない人です。
 
  録音は 1959年です。ステレオ最初期ですが、音はしっかりしています。この時期の他の録音よりも一歩進んでいるようです。リマスターのせいもあり、低音がよく響きます。初期のマックルーア盤でないとという声もあるようですが、 新しい盤は弦も美しいです。その問題は「デジタル・リマスターと高品質プラスチックのCD」にまとめました。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
   George Szell    The Cleveland Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
ジョージ・セル / クリーヴランド管弦楽団
 新世界だからアメリカのオーケストラ、というわけではありません。本場もの信仰というものはあるので、そこにこだわるならチェコかアメリカでしょうが、そんなことに関係なく、この演奏は魅力的です。
 セルという人、出身はハンガリーです。ハンガリーとチェコが近いかどうか(その昔、ハプスブルク時代には一つの国でした)ということよりも、この人で有 名なのはリハーサルの厳しさです。怒って指揮棒を折ったトスカ ニーニより意地悪だったとか、軍隊教練のようだったとか真っ先に言われます。しかし動画で見ると気さくでおどけた身振りをし、ウィットに富んだ解説をして いる感じの良い人が映っています。あれはいったい誰なんでしょう。少しでも気に入らないと団員を即刻首にしたという悪役「ドクター・サイクロプス」でしょ うか。
 その場にいなかっ た私には分かりませんが、演奏を聞いた限りでは、確かにたっぷり歌わせる方向ではな点でトスカニーニと似たところあるかもしれません。アンサンブルが揃い、節度があり、 筋肉質な感じがするのは厳しい練習の成果でしょうか。クリーヴランド・オーケストラは彼によって鍛えられたと言われます。ロイヤル・ コンセルトヘボウ管弦楽団との録音も残るベートーヴェンの「運命」は均整美を感じさせる名 演です。しかしこの新世界にはとても美しい歌があります。抑制が効いていながらしなやかなのです。それをセルの一般的なイメージに合わせて隙のなさと表現 しても良いでしょうが、なぜかむしろ、私には清々しいながらも温かみのある音に聞こえてきます。たとえて言うならば、早起きをして朝の空気のなかでスト レッチをしているうちに、身体がほぐれて心地よくなってくるような感じです。

「家路」の楽章は、最初のうちは大きな表情はなく、テンポもゆっくりはしていません。セルという人のイメージ通り、きりっと引き締まった無駄のない感じで あり、節度の美を感じさせます。それが後半になってくると予想しなかったほど遅くなり、心のこもった歌を聞かせます。暴力的な人をパートナーに持つ人は、 何度別れてもまた同じタイプの人を相手に選んでしまうことがあるようです。厳しくコントロールされることを無意識に欲し、選択責任を回避し、そしてやさし くない人の中にやさしさを感じてしまうのでしょう。セルのやさしさにはちょっとそんな禁断の香りがあるでしょうか。しかし正体の分からない人ほど理解して みたくなるものです。先入観からこの指揮者には近づかずにいた時期もありましたが、食わず嫌いは良くありません。

 時代は少し古く、1960年の録音です。セルは70年には癌で亡くなっていますので、彼の演奏としては円熟期のものだといえるでしょう。さっきの勢いに 乗って、蛇足ながらこれを「家路」にこじつけてみます。懐かしのジェット・ストリーム調に行きましょう: クリーヴランドの朝7時。秋の気配が近づいたエ リー湖のほとりで一人、遊歩道を散歩をする人影が見えます。ヨットハーバーのマストの向こうで、湖面に反射する光が細かく揺れ動いているのが見えます。 帰ったら家族と朝食をとり、いつもの賑やかな日常が始まるのでしょう。でもまだ今は静かな空気を味わう時間です。湖岸に建つインディアン・テントのような デービス・ベッセ発電所の巨大な建物も、そこからは遥かにかすんで光のもやのなかに時折見え隠れするだけで、目をこらすほどに次第に空との区別がつかなくなって行きます...



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Karel Ancerl    Czech Philharmonic Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
カレル・アンチェル / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
 では今度こそ、チェコの音楽はチェコの楽団で。そして「チェコ・フィルの新世界ならノイマンじゃないよ、アンチェルだよ」と言う人もいます。大体いつも古い方がいいという人とは意見が合わないのですが、そうした声が多い気がするので気にはなっていたのです。逆に時代とともに何でも進歩しているとするのもまたバイアスですから、ここはやはり、と手に入れてみました。

 悲劇の人、と言われます。カレル・アンチェルというチェコの指揮者は、本人と家族全員がアウシュビッツに送られたのです。収容所の中には楽団があったと いう話を昔本で読んだことがあります(「アウシュビッツの音楽隊」)。壮絶な内容でした。しかし最初に送られたテレジン強制収容所でアンチェルが同じこと をさせられていたとは知りませんでした。こうした楽団は囚人たちを騙し、アウシュビッツではガス室に送り込まれる彼らが疑いを持たずに進めるように演奏さ せられていたのです。彼の家族は全員アウシュビッツで殺されました。両親も奥さんも息子も。彼だけが生き残り、後にチェコ・フィルの指揮者になりました。
 人は人生で経験することをある程度計画してやって来るという考えがあります。どうなんでしょう。それとも全ての出来事が偶然でしょうか。これらは証明不 可能なことですが、もし彼がその体験を耐え抜くことを選んだ魂だとするなら、言葉はありません。
 最初ワルターに見出された彼はプラハ放送交響楽団の指揮者になりますが(戦前)、その壮絶な体験を経た後、別のプラハの楽団を経てチェコ・フィルの常任 指揮者の地位に就きます。しかし1968年になってプラハの春が起き、アメリカ演奏旅行中だった彼は亡命します。

 音楽家ですから、その人の経歴で音楽を評価してはいけないでしょう。したがってどんな苦難を乗り越えて来た 人でも、いい演奏かどうかは別問題です。しかし人間である以上、その経験が芸風に現れることは十分にあり得ると思います。アンチェルはどうなのでしょう。 デリケートな問題ですから、それぞれが自分の耳で聞き、感じてみるよりないと思います。私の印象では、アンチェルという人は決して過剰な表現に傾かない人 ではないかという感じです。最初に気づくのは静けさと落ち着きです。物理的に音が静かという意味ではありません。あまり揺 れることがありません。洗練というかどうかは分かりませんが、踏みとどまる見識のようなものを感じます。高いところで高度にバランスした音を求めているの でしょうか。チェコの楽団ですが、彼の指揮の下、ボヘミアの感傷とか泣きといったこととは一切無縁に感じます。

 第一楽章から静かで、ブラスの入りもやわらかく落ち着いています。ティンパニはくっきりと分離して整然と聞こえます。余分な抑揚がなく、それでも丁寧な 感じがします。熱くはなりません。木管も軽やかで、一音ずつくっきりしています。決して走らず、響きが団子にならず、テンポは中庸やや遅めであっさりとし ています。よく言われるような意味で神がかりな演奏だとは思いません。

 いえいえ、第二楽章で比較するのでした。ブラスが強弱を抑えて伸ばすように吹いているところに注意が行きます。よく区切って 間をとっており、その節度ある歌は切れ目なくスラーでつながっています。最初の金管同様、弦もフレーズを平らに伸ばす扱いが特徴的で、決して力みません。 わざわざ感動的にやろうという意図は持っていないのだと思います。ジョー ジ・セルの鍛えられた音に似ていなくもありませんが、ああいう息を詰めた緊張感とは少し違う種類のような気がしま す。感傷的ではありません。後半は何人かの演奏者が大変テンポを落としますが、アンチェルは間を多く取るようにはさせているものの、極端に遅くすることは しないようです。わざとらしさがなく、大人の魅力のある格調高い演奏です。

  ついでに残りの楽章にも少し触れます。第三楽章も走らず、正確なリズムが際立ちます。印象的なのは、フォルテで通常力の入るところでも決し て強過ぎず、軽やかさがあることです。ブラスもつんざくようにやかましくはやらせず、やわらかく抜いて、ティンパニもリズミカルに軽く一音ずつを分離させ て小気味良く響かせます。感情の盛り上がるフォルテで濁ることを避けているのでしょうか。どこも澄んでいて、音が目に見えるように隅々まで楽器のハーモ ニーを 味わうことができます。
 第四楽章も一音一音がよく聞こえ、やはり走ることなく均整が取れています。むしろ感情が高まるところで遅く なる傾向すらあります。荘厳さのあるラストは長く弱めるように終わります。

 アンチェルの新世界は一般受けはしないかもしれませんが、様式美を感じさせる完成度の高さという意味で頂 点だと言えるかもしれません。神格化するつもりはありませんが、私には「哲人の目」を持った演奏という気がします。嵐のような人生を経たからだという先入観からかどうかは分かりませんが。

 1961年の録音は大変優れているとは言えません。恐らく同時期のワルターの方がバランスは整っているでしょう。 しかしステレオで、決して悪い録音ではありません。音楽が聞きたい人にとって足を引っ張るようなところは全くないと言ってよいでしょう。高域のバランス 上、やや細い響きがあります。これはノイマンの国内版同様、リマスター作業のせいかもしれません。だとすれば残念なことです。ハイを上げ過ぎている感じの弦はイコライザーで落としたくなります。楽器のせいではありません。弦がすべてガット弦に統一されているという噂も あるようですが、私が聞いたところではよく分かりませんでした。少なくとも古楽器の楽団のような意味でシャープな音ではありません。 反響は多いです。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Vaclav Neumann    Czech Philharmonic Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
ヴァーツラフ・ノイマン / チェコ・ フィルハーモニー管弦楽団
 チェコの音楽はチェコの楽団で、の第二弾です。その天下分け目の戦いで本丸に鎮座するのはやはりノイマンでしょうか。ターリヒ、クーベリック、アンチェ ルと続いたその次に常任となりました。この指揮者とオー ケストラは「新世界」を何度録音していますが、ここで取り上げるのは最初の全集に入っている72年録音のものです。良かったのはこれでした。FM番組で、「ではドヴォルザークの・・・」と始 まれば次はノイマンという言葉が予想できてしまうという定番です。なんでも自国ものに固執するのど うかと思いますが、名演は名演です。チェコ人は愛国心が強く、北欧の田舎の人とならんで男でもよく泣くそうです。韓国ドラマの男優もよく涙を流しますか ら、男は我慢か筋トレかという日米文化の方が少数派なのかもしれません。ミラン・クンデラの「冗談」のラストを読んでみても、確かにチェコ人の泣き系キャラは理解できる気がします。

 ノイマンの新世界、出だしからゆっくりとよく歌います。また例の続きです: 真っ赤な夕日がボヘミアの遠き山に落ちるとき、家々の煙突からはかすかに紫の煙が立ちのぼり、薪の匂いに混じって夕食の温かいスープの香りが流れてきます。干し草を積んだ荷車。オレンジの窓に動く人影。ぶちの犬が尻尾を振って、農家の庭から母屋へと走り込んで行きました。抗うのはやめましょう。一緒に泣いていいです。

 録音についてひとこと。チェコ・スプラフォンのアナログ録音は技師耳がいいのか、大変バランスが良いです。日本盤は意欲的にリマスターをかけたものを出してきていて、そちらは8番とも カップリングになっていてありがたいのですが、音に関して言えばオリジナルの廉価版の方が良いと思います。ステレオ装置にもよるでしょうが、20ビット・マスタリング盤はブラスの分解能は高いですが高域がうすくて潤いがありませ ん。デジタル・リマスターと高品質プラスチックのCD」も参照してください。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Rafael Kubelik    Berliner Philharmoniker

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
ラファエル・クーベリック / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 今度は同じチェコ出身の指揮者で、しかも同じ72年の録音ですが、このクーベリックという人はチェコから西側へ亡命して世界中を飛び回った国際派です。オケストラもインターナ ショナルの代名詞であるベルリン・フィル。ノイマンと並んで長らく名盤と言われてきました。どう違うでしょうか。

 ここでは第二楽章を問題にしているわけですが、出だしは案外さらっとしています。テンポは中庸で自然な歌い方です。しかしよく聞いていると、途中から音 の間を丁寧につなげて演奏していることに気づきます。音量の変化という点ではあまり大きな抑揚はないのですが、流動性があります。クーベリックを知ってい る人はこの辺ですでに彼らしさを感じるかもしれません。しかし楽章の中ほどからさらにクーベリック節が明らかになってきます。テンポが徐々に緩んでき て、大変よく歌うようになるのです。ではノイマンの歌とどう違うのか。抑揚がたっぷりしているところは同じですが、 泣いている感じがしません。それでいて間の取り方が長く心に染み入 ります。このように家路も中ほどからスローダウンする歌わせ方はアーノンクール盤などでも見られますが、クーベリックは新奇なことをするでもなく、また崩れるほど叙情的でもありません。これをインターナショナルなベルリン・フィル の特徴であり、民族色豊かなチェコ・フィルや古楽指揮者の個性的解釈と の違いだと言えば辻褄は合いますが、言葉遊びに過ぎない気します。クーベリックはクーベリックらしいと言っておけばいいのでしょう

 このクーベリックのCDに もリマスター盤が出ています。国内のものはジュエル・ケースもなぜか厚みが増していてSHM−CDと前面に刻印され、背表紙一目見てそれと分かるのですが、場所取りです。盤の材質はエラーの少ない高品質ポリカーボネイトのようです。しかし通常盤の方が音は潤いがあります。もちろんオーディオというものはバランスが一番ですから SHM−CD盤の方がきれいに聞こえる再生装置もあるかもしれません。この問題については「デジタル・リマスターと高品質プラスチックのCD」という項目で別に書いておきました。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Istvan Kertesz    Vienna Philharmonic Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
イシュトヴァン・ケルテス / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 大変人気のある演奏です。ジョン・バルビローリのブラームスやシャルル・ミュンシュの幻想交響曲のように、わが国での定番のようです。ではどこにその秘密があるのでしょうか。このケルテスというハンガリー生まれの指揮者は残念なことに四十代で事故死しています。イスラエルへ演奏旅行へ行った際、泳いでいて高波にさらわれてしまったのです。 なんだか不思議な死に方で想像をたくましくしてしまいますが、去り行く者を惜しんだり、ハンデを負った者に共感するのは思いやりの心でしょう。しかしそれと演奏評価を一緒にするのはおもてなしの問題ではないわけで、正直なところ、この家路のメロディに限っては、ケルテスの演奏に格別大衆受けするようなところは感じられませんでした。全体にはオーソドックスで良い演奏だと思います。
 セールスポイントになる部分の一つは、デッカの録音したウィーン・フィルの音でしょう。ウィーン・フィルといえば、ドイツ・グラモフォンやフィリップスを含む多くのレーベル本 拠地のムジークフェライン・ザールで録音しています。それに対し、英デッカだけは音のためかソフィエンザールとい う、元来はスチーム風呂だった建物で収録をしました。これが評価の高いデッカのハイファイ・サウンド盤の一角を築いているのです。このソフィエンザールは 火事で燃えて今は廃墟になっていますが、当時はウィーン・フィルの音を明晰に録ることに貢献していました。この録音でもやわらかな弦の上にイングリッ シュ・ホルンが重なるだけで独特の音を響かせています。
 録音の良さ以外でこの演奏の美点をつけ加えるならば、それは第二楽章以外での迫力です。 ティンパニや金管が力を持って鳴らされるところが人気の秘密なのかもしれません。名門オーケストラの興奮を良い音で。61年の録音です。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Christoph von Dohnanyi    The Cleveland Orchestra
 
ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
クリストフ・フォン・ドホナーニ / クリーヴランド管弦楽団
 もう一度、クリーヴランド管弦楽団です。ジョージ・セルが鍛えて世界一のアンサンブルにしてからロリン・マゼールが洗練させ、その後を継いだドホナー ニ、そんな言い方がされるようです。昔のことですが、来日したときにコンサートの情報を見てこの指揮者の名を知らなかった覚えがあります。すでに有名にはなっていたはずなのでそ れは無知としても、現在わが国でドホナーニは指揮者として知れ渡っている状況なのでしょうか。詳しい経歴は知りませんが、ドイツ人で、彼の父親と叔父がと もにナチへのレジスタンス運動で処刑されているそうです。そういう血筋に生まれてきたことがご本人の性質に関係があるかどうかは分かりません。演奏に影響 するとも言えないでしょう。しかしこのドホナーニのドヴォルザーク、なんだか一本芯が通っています。

 84年、デッカのデジタル録音です。音そのものもきれいでバランスがとれています。テンポはあまり遅くはないし耽溺系でもありませんが、この演奏の美しさのひとつに、弱音の消え入る静けさが挙げられます。同じくドヴォルザークの第8番の演奏は同曲のベストと言えるほど素晴らしいですが、そこでは粘りながらやわらかく歌う独特の節回しがありました。第9番の演奏そ れに近いですが、柔軟な抑揚というだけでなく、完璧な響きを追求しているように感じます。鍛えあげられたアンサンブルでないとこういう音は恐らく出ないの ではないのでしょう。緊張するほどの引き締めから生まれたコントロールの上に、リラックスした柔らかく自由な歌が乗ります。ジョージ・セルの清々しい叙情 とはまた少し趣の異なる美しさです。



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     Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
     Herbert von Karajan    Wiener Philharmoniker (original/OIBP)

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
ヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
   ザビーネ・マイヤー事件があった後の、85年のカラヤンの「家路」です。カラヤンというと、平和なボヘミアの田舎の風景はちょっと浮かばないでしょうか。 調子に乗ってまた続けてみましょう:  マンハッタンからワシ ントン・ブリッジを渡り、ニュージャージー・ターンパイクの12車線の高速道路をフリー・コールの番号が書かれたミニヴァンと並走しながら迎える夕暮れ。 中古で手に入れた車のフロントガラスにはステッカーの痕が残り、その汚れの向こうで冬の太陽が黒い雲の間に沈もうとしています。 路肩には再生タイヤの皮が転がり、FMのチューニングは外れかかっていて、ノイズに混じった人の声が途切れとぎれに聞こえてきます...
 そんな殺伐とした感じかというと、しかしこれがそうではありません。80年代のカラヤンのスタジオ録音は輝きの鈍いものが多いように感じていたのに、 ウィーン・フィルとのこの緩徐楽章は大変良いのです。滑らかにハイスピードで駆け抜けて行く昔のカラヤンとは違い、ゆったりしています。ロマン派の作品で は今までにも粘りのある表現あり、独特のレガートと相まってカラヤンの人工美の一面ではありました。し かし新世界のこのきれいさはどうでしょうか。はじめはそれほど情緒的な運びには聞こえません。コントラバスのピツィカートがずいぶん響く録音だな、という 感覚で聞いています。しかし他の演奏者でも後半でテンポを緩めるものはあると書きましたが、徐々に歌が大きくなるにつれて気持ちが入り込んで行きます。今 までにがっかりしたことのある心は 「ここで休らいでいいの、カラヤン?」と聞いてみたくなります。

 別項の「カラヤンのラストコンサート」で書きましたが、 晩年のカラヤンに光が差すことがあったのを、もう知ってしまいました。それでも「ドヴォルザークの新世界はカラヤンが定番」という声にはまだちょっと抵抗がありますが、追い詰められた帝王の、難しい時期のこの録音をあえて取り上げました。ライブではないものの、ウィーン・フィルとのこの有名曲の演奏も素晴らしいと思います。

 写真は右側にOIBPのリマスター盤のカバーを載せましたが、音はやはり少し高域強調があるようで、手に入るなら左のオリジナル盤の方が良いでしょう。写真のカラヤン・ゴールド・シリーズはいつもの丸い紺色のOIBPマークが入らず、オリジナルのカバーを斜めにずらす手法もとっていないので分かりにくいですが、下の方にリマスターであることが一列で書いてありました。通販では分かりにくいと思います。OIBPについては「デジタル・リマスターと高品質プラスチックのCD」のページで扱っています。



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       Dvořák   Symphony No.9 op.95 "From the New World"
       Nikolaus Harnoncourt   Royal Concertgebouw Orchestra

ドヴォルザーク / 交響曲第9番 op.95「新世界から」
ニコラウス・アーノンクール / ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 古楽演奏の大家であるアーノンクールも新世界を録音しています。ただし古楽器の演奏によるものでは なく、オランダの伝統的な(モダン)オーケストラであるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮しています。若い ときは大変革新的な楽曲解釈で、近年は大変あたたかい演奏をするようになってきましたが(追記:この記事の後、2016年三月五日にアーノンクール氏は亡くなっています。86歳でした。事実上の最後の録音となった感動的なミサ・ソレムニスについてはこちらに書きました)、ここでもこの曲の一、二を争う魅力的なパフォーマンスを披露しています。意外なことに、この指揮者の他のロマンティックなシンフォニーはシューベルトにしてもシューマンにしても尖ったところがあるのに、このドヴォルザークだけはそれらとは違ってびっくりするぐらい叙情的に歌う演奏です。
  どんなものでもピリオド奏法で行う人ですから、この新世界も例外ではないはずですが、2000年のこの録音はヨーロッパ室内管とのベートーヴェンのシリーズなどよりもさらに呼吸が自然というのか、彼の演奏の中ではアクセントや弓遣いの指示がよりモダン演奏に近い感じがします。確かにノン・ビブラートから来る弦の直線的な響きは聞かれますし、普通なら一音で聞こえる音譜がくっきり二音に分かれて鳴らされる箇所もあったりして、相変わらず知的な読みも行き届いている感じですが、何気なく聞くとピリオド奏法ということも意識させないほど、アーノンクールとしては非常にナチュラルです。

 家路のメロディーは最初、わりとさらっと示されます。しかし後半に入るとクーベリックやカラヤンもそうしたがテンポがぐっと遅くなり、たっぷりした表情をつけます。モーツァルトのレクイエムでは終わりの音などもう少し延ばしてほしいと感じるほどの覚 醒感があったし、彼には浸るという言葉は似合わない気もしていたのですが、ここでは一種酔っているかのごとく、聞いている側も感情のひだのなかに入り込ん でしまいます。途中で休止符によって一度音が止まる箇所がありますが、ここの間の長さは驚きです。ステレオ装置が壊れたかと思いました。

 音のきれいさは特筆に値します。ドホナーニもきれいな響きでしたが、アーノンクール盤はビブラートの抑制によるのか、独特の透明感があります。元の演奏 が良い音だからでしょうが、録音も十分にそれを伝えています。本場チェコの演奏でもアンサンブルの揃ったアメリカのオーケストラの演奏でもないのですが、 ドヴォルザークの新世界をかけようかと思うとき、これに手が伸びます。本命馬を追い抜くかもしれない、新世界のダークホースです。


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