ショパン・ピアニストたち
         19世紀の大家から現代まで、ショパン弾き16人を聞いてみる
         幻想即興曲

dollhouse

   取り上げるピアニスト 16 人:
 師と先人たち(19世紀生まれのピアニスト)
     レシェティツキ/パハマン/パデレフスキ/ロン/コルトー/ジル/バックハウス/コチャルスキ
 20世紀生まれのピアニスト
         ソロモン/ホロヴィッツリヒテル/ミケランジェリ/カツァリス/シフ/ポゴレリチ/タロー

幻想即興曲はこちら
ピアノ協奏曲第1番による聞き比べはこちら

 

師と先人たち(19世紀生まれのピアニスト)


 前のページではショパンの代表的な楽曲、ピアノ協奏曲第1番によってピアニストたちを比較してみました。でもその曲は弾かない、あるいは録音がないという人もいます。ホロヴィッツなどのショパン弾きの大御所が抜けてしまって全体像が見渡せないのです。そこで今回は、番外編としてそれらのピアニストたちの演奏を少しだけ覗いてみることにしました。

 
また、ピアニストの間では「系譜」という言葉もよく聞かれます。「ファミリー・ツリー」ですから家系図みたいに遡って行く師匠の系列のことです。それ専用の検索サイトもあります。そして個々のピアニストについて「誰々門下だからこんな弾き方」という具合に論評されたりもします。特に日本ではそうした縦の系列による演奏評が多いでしょうか。そういうことがどこまで言えるのかは分かりませんが、少なくとも音楽としての表現においては、ただ聞いているだけだと師匠と弟子とがまるで似ていない場合の方が多いような印象も受けます。職人の世界の話として、フランスの美容師は先生の流儀通りに技術を受け継ぐことが普通だそうです。日本のピアニストは職人の要素が濃いのかもしれません。あるいはお師匠さんを絶対視する文化が強いので、芸術全般においても系譜に特にこだわるのかもしれません。

 ショパンはショパン自身の弾き方が最高だった、とは限らないけれども、作曲家である前にピアニストとして有名だったので聞ければ最高です。でもそれは無理な相談。ならばその直系でなるべくショパンに近い時代のショパン弾きならどうでしょう。現代のピアニストから見て偉大な師とされるそうした人々の歴史的録音が聞ける場合はあります。したがって今回は協奏曲の1番の録音がない人以外にも、ショパンの孫弟子に当たる人たちや、同時代の教育者や有名ピアニストも取り上げます(協奏曲の録音は必然的に少ないです)。どれも多くが19世紀生まれの人で媒体は SP が多いです。したがってタッチや音色の判断は難しいです。また、この時代は指の引っ掛けで隣りの音を鳴らしたりすることは普通に聞かれます。録音というものが一般的でなく、繰り返し同じ演奏を聞くに堪えるものという意識がなかった時代だからかもしれないし、オリンピック陸上のタイムが五十年前より速くなってるのと同じような演奏者の進化の問題かもしれません。

 かろうじて録音が残ってるショパンの孫弟子(1849年に亡くなってるショパンの直弟子が第一世代、孫弟子はその弟子である第二世代です)としては、パハマン、コルトー、ジル、コチャルスキといった人たちがいます。リストやツェルニーの弟子たちも重要です。まずはそれらの人たちからです。聞いて感じたままを書き、ジャケットは掲げず、今回のこの項目では♡マークも付しません。



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テオドール・レシェティツキ
(Teodor Leschetizky 1830-1915)
 ポーランド生まれでウィーンで活躍した人です。その門下から多くの名ピアニストが出たということで、「系譜」ということを語るときには避けて通れないピアニストです。門下生の方がすごいのか、本人が偉大なのかは分かりませんが、この道の権威と見る人がいます。こういう歴史を探って行くのは学問として大事なことであって、そうした企画の CD も出ており、学芸員的な興味からも楽しめます。

 カール・ツェルニーの弟子ということで、ベートーヴェンの孫弟子です。リストもツェルニーの弟子だけど、横並びなのでリストの系譜ということではありません。特にショパン弾きというわけではなく、ベートーヴェン弾きという言い方の方が一般的だと思います。ツェルニーという名前を聞くと面白くない記憶につながる人もいるかとは思います。そういう先入観で言うのではいけないけれども、録音を聞くとポロン、ポロンとオルゴールのように ゆっくり平坦に響いていて、旋律部分は強いタッチで一定していつつ時々弱くなるという塩梅であり、特に速度変化が顕著というわけでもありません。いざ伝家の宝刀として出して来られてもポイントがよく分からないというのが正直なところでした。たどたどしく聞こえる箇所もあり、モーツァルトなんかは眠くなってしまいました。でもそれはレシェティツキのせいではないでしょう。1915年に亡くなってる人なので当時のピアノロールに録音されており、ほとんどが1900年代の頭なのです。恐らく Ampico(次のパハマンの項で触れます)とかではないでしょう。それをまた再生して SP 録音したものを聞いているわけです。ロール紙自体は燃えちゃってもうないのでしょうか。むしろ音になってるのが驚きなのであり、それを評価しろというのはこの人に失礼です。テンポについては分かるので、「崩れは少なく明澄でルバートはかけない」と言ってもいいかもしれないけど、ここではこれ以上触らないでおくべきでしょう。

 有名な弟子にはパデレフスキやシュナーベル、ホルショフスキなどがいます。その他にもすごい数のお弟子さんたちがいて、ピアノ文化への貢献度の大きさが分かります。ファミリー・ツリーの頂点であり、クリスマスツリーならてっぺんには大きな星が輝きます。



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ヴラディーミル・ド・パハマン
(Vladimir de Pachmann 1848-1933)
 ウクライナ生まれのユダヤ系のピアニストで、ショパンの弾き方はこんな風でした、とリストに言われたという人です。カール・タウジヒを経てリストの孫弟子に当たりますが(本人は直接リストからも教わったと言っています)、ショパン弾きとして有名です。19世紀の演奏の一つのあり方を知ることができます。

 SP の他にピアノロールでの演奏が聞けます。このページの最初の記事でピアノロールの音は眠たくてニュアンスが伝わらないなどと言っておいて掌を返すようですが、今回この人の企画ものを聞いたら鮮やかでびっくりしました。針音の中でポンコラポンコラ言ってるだけの SP に比べたら強弱もずっと分かります。ただ、それらは本当にパハマンのものだったのかは微妙です。というのも、録音の大半を占める昔ながらのピアノロールは強弱を表すことができないものであり、Duo-Art 等のリプロデューシング・ピアノロールというタイプになって可能になったものの、それも録音時には強弱を記録せず、技術者がメモを取っておいて、後でそのメモに従って標準設定の強さから強めたり弱めたりしていたからです。したがって大雑把なクレッシェンドやデクレッシェンドはピアニストのやったような形にはできるにせよ、当人のものではないし、微妙なタッチに至っては全く再現できていない。パハマンがもし繊細な弱音を持っていたとしても分かりようがないのです。しかしリプロデューシング・ピアノロールでも唯一後期の Ampico 等の一部のメーカーのものだけは録音時に強弱も記録できるようになっていたようです。このパハマンのシリーズの多くはシドニー音楽院で学んだデニス・コンドン(1933-2012)という教育者がコレクションしたロールによるものです。現在それらはスタンフォード大学にあり、そこの図書館のサイトによる と、コンドンは十五歳のときに父親が買って来た Ampico の音を聞いて興味を持ち、その後の六十有余年で7500を超えるロールを蒐集しました。ロールだけではなく、機械の方も Duo-Art や Ampico を含めて色々集め、グランドピアノのものもアップライトのものもあったようです。
したがって現在 CD で聞ける、驚くようなリアルな強弱を持ったピアノロールの多くは Ampico などの高性能のピアノロールによるものかと思います。ただし、それでも録音したピアノと再生時のピアノが違えば同じ演奏とは思えないぐらい変わってしまうことがあるわけで、ノイズに埋もれた SP より聞き取りやすいにせよ、どこまでがこの人の音だと信じていいのかは疑問が残るわけです。

 一方でピアノロールではなく、デジタル・リマスターされた比較的コンディションの良い録音もあります。それらはこの人の晩年のもので、今度は本人の方の技術の衰えがあるのだそうです。したがって何で判断するのかは厄介な問題です。しかしそれらのどれを聞いても、ショパンが基本のリズム進行は一定にして崩さなかったという話は疑問に思えます。テンポの動きはどれでも分かるからで、もしその通りだとしたらこの人がショパンと同じには弾いてないということでしょう。リストがちょっとお世辞を言ったのかもしれません。加えて彼の葬送行進曲は評論家がべた誉めしたようだけど、感じ方は人様々でしょう。

 録音を聞いた印象では、どこか断定して引きつけるような語り口の人です。リサイタルでは講釈や批判を述べたり(独特の声です)、演奏中にも独り言を洩らしていたと伝えられており、「ショパンはこんなもんだ」という説明をしていたそうです。講釈はサロンの風習であったにせよ、演奏の性質もその話に合って聞こえるのはこうした事実を知っているところから来るバイアスでしょうか。左手にせよ右手にせよ、メトロノーム的なリズム進行を徹底的に無視するように自在に走っては戻る揺らしがあります。この時代に時々あった千鳥足的な揺らしだけど、
体が傾いて倒れそうになると足が数歩駈けてバランスを取る歩き方みたいに、ためておいては残りをちゃちゃっとやっつけます。テンポを動かすそのやり方は全く意のままという感じで、曲の方に言うことをきかせているようです。サロン的とはこういうことなのでしょうか。投げたり転がしたり撫でたりして、音と自在に遊ぶ様が粋です。大儀そうにすら聞こえるこの弾き飛ばしの感覚は、後年の録音では指がついて行かないのをなかったことにしていたせいもあるのかもしれないし、サンソン・フランソワにも幾分似たところがあります。ただ、背後でのリズム 進行を一定に想定しつつ、その中だけで遊ぶように動かすジャズのイディオムではなく、立ち止まるように全体を遅くしたりすることもあります。
 それともう一つ、この人の特徴だと思える音の出し方があります。急に湧き上がった感情をぶつけて来るような強い音です。それはちょっと驚かせる一撃であり、一連のフレーズの最後の音でやる場合が多いです。それがまた何かを断定しているようにも聞こえます。SP では確認しづらいけれども、ロールの間違いというわけでもないのでしょう。以下にメモを記します。  

 ワルツ第7番 op.64-2:軽やかに撫でるように、跳ねるリズムで進め、なし崩し的にやわらかく速くするところもあります。ショパンは誰でもが
多少はそうするれども、自由自在に立ち止まったり、瞬間的に駆けたりします。そのやり方が堂に入ったものであり、以後のショパン解釈にも影響を与えているようです。小節の頭を揃えずに前のフレーズから続けて早めになったりして、拍の区切りを度外視した動きも見られます。強弱の波も自由自在です。劇的に速度を緩めるラストは印象的で、この曲についてはロールでも SP でも共通しています。

 ワルツ第6番(子犬のワルツ)op.64-1:全く同じで、軽やかに大変速く、フレーズを続けてリズムの区切りを無視した自在な揺らしと駈け出しがあります。SP ではグリッサンンドのような超速も聞けます。



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イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Paderewski 1860-1941)
 ポーランド貴族の出身で国際的なピアニストとして名を馳せ、同時に政治家だったという人です。なんと第一次大戦後初代の首相でした。ショパンを弾く人にとっては楽譜の校訂者として有名でしょうか。幼くして母を亡くし、両親に育てられず、奥さんと子供にも先立たれるという経験をしています。悲しみを乗り越えた人の音だと言われれば、なるほどと思うところもあります。レシェティツキの弟子であり、恐らく最も有名な一人でしょう。フランス、イギリス、アメリカで熱狂的な支持を得たということです。録音はこの人の性質が分からなくなるほどには悪くないものもあり、もっと良ければ現代の録音と同じぐらい聞きたくなったかもしれません。心に響くものがあるからで、ドビュッシーなども絶品です。ショパンの協奏曲第1番があればそのページで♡♡にしていたかもしれないなどと想像する独特の魅力を持った人です。

 前へと走りません。ゆったりめな進行が多く、常にどこか力が抜けていてコロコロと転がすような軽さがあります。特に弱音のパートの表現が美しいです。他の19世紀のピアニストも時々「繊細な弱音」などと言われ、そう信じて聞くとそうも思えないことがあったりしますが、この人はまさにそう。適切に歌わせ、やり過ぎない伸び縮みがあり、初期は結構テンポの落差があるものの、ルバートたっぷりという感じではありません。崩す場合は軽い縒れがお洒落であり、瞑想的な静けさがあります。一瞬力を抜いて遅らせる音節がいくらか意外なところが特徴でしょうか。

 そんな風だからこの人のショパン、マガロフをはじめとしてピアノのプロからはあまり評価されないようです。でも心穏やかな感じがいいと思います。洗練されていると言ってもいいけど現代人のようなニュートラルな運びともちょっと違います。例えば葬送行進曲には特徴が表れていて、面白いことに軽くてエレガント。やや速めな一定のテンポで進め、荘厳ではありません。深刻ぶらずにポエジーがあるのです。この曲としてはユニークなんじゃないでしょうか。滋味豊かな味わいがあって、評価の高いパハマンの葬送よりも個人的にはこちらの方が好みです。

 でも当時の聴衆に熱狂的に受けた理由はよく分かりません。大衆はもっと挑発的なもの、技巧的で派手なものを好むんじゃないでしょうか。静かな曲でのパデレフスキはちょっと悟ったような枯れた味わいがあります。だからこの人が本当に政治家なんですか、と思ってしまいます。愛国者でしたが、好戦的な人間には感じられません。インタビューに答える形式で企画された自伝があり、その受け答えを読むと敵を憎むというよりも、周囲の人々の幸せが守られることを望んでいただけではないかと思えて来ます。敵国にあっても人々に向けては心を込めて弾ける人だったようです。ロシアとドイツは彼を快く迎え入れなかったけれども、相手国でのチャリティー・コンサートも催しました。しかしその一方で首相就任前に武装蜂起を呼びかけたこともあり、また最後までナチのドイツとソ連に抵抗した不屈の闘士でした。この国のような状況下では、平和への願いと戦いを生む帰属意識との境界が引けない人間の危うさも致し方ないのかとも思えて来ます。長い歴史を通じて人類は殺し合いをやめるための殺し合いをして来ました。周囲から常に攻められたポーランドという国は、一時期は他民族国家で宗教的にも寛容という先駆的な民主制度を持つことが出来ましたが、19世紀を前にしてロシア、プロシア(後のドイツ)、オーストリアに再度分割され、その後はナポレオンのフランスを経てまた三国に支配された上、国が二手に分かれて同国人同士が殺し合っていたというのがパデレフスキが活躍しだした頃の状況でした。ピアノ表現から想像できる彼のような性質の人でも結局巻き込まれて行ったわけです。

 また、この世界では稀に見る遅咲きのピアニストでもありました。小さい頃から興味があったけど誰も才能を認 めず、レシェティツキに師事したときも最初は評価されずで、すんなりとは行かなかったようです。大人になってから本格的に志しました。こういう例は現代ではポール・ルイスぐらいで、まずありません。実際の演奏ではルイスとは違ってポロンポロンとゆっくり弾くところから、ただ遅いだけの人だと思われてしまうことでしょう。技術の点においてはただのディレッタントだと考えられているふしがあります。

 そして本格的に録音で聞けるのは指が衰た頃のもので、その点でも何ら見るべきものがないというのがピアニストたちの見解のようです。そういう見方だと晩年のケンプも評価出来ないことになるでしょう。でも初期のアコースティック録音でも晩年の電気録音でも基本的な周波数は変わらない気がします。昔の方が走るところがあり、そこから緩める手法が目立ったりもするけど、ちょっと哀感の感じられるところはどちらも同じです。逆に言えば技巧をひけらかすような弾き方は出来なかったとも言えるでしょうか。そうなると熱狂的にこのピアニストを愛した一般の聴衆は彼が超絶技巧でないことが見破れなかっただけなのでしょうか。ブロンドの長髪でハンサムであり、知的な会話ができたためにリストのように女性に人気だったと言われるけれども、引退後も政治関係者からの人望は厚い一方でカルトのカリスマのようではないし、最初は長い間誰もその真価を理解出来なかったのです。コンサートを埋め尽くした大群衆の中にも、人気を支える数ではなかったにせよその情感溢れる音が分かる人はいたのだろうと思います。 



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マルグリット・ロン
(Marguerite Long 1874-1966)
 フランスの女性ピアニストです。フランスのピアニズムの伝統を継いでいるので、ショパンの孫弟子ではありません。また特にショパン弾きだと言えるかどうか、ショパンも大切なレパートリーながら、教育者として名高い人です。でも19世紀生まれで20世紀前半に活躍した先生としては外せません。ロン=ティボー国際コンクールを作りました。門下にはサンソン・フランソワやフィリップ・アントルモンなどがいます。フランソワは彼女の言うことを聞かなかったことで有名で、アントルモンの方は生で聞いたらすごく強いタッチでびっくりしました。それは言うことを聞いていることになるのかどうか。調律師が途中で頻繁に調整していました。

 協奏曲第2番 op.21:フォルテは結構劇的に強く叩きます。そうしておいてやや思わせぶりに小声に沈んだりします。ショパンの大家の何人かのように盛大にルバートをかける風ではありません。形はしっかりしており、アルゲリッチのように突然速くなったりはしないにしてもちょっと気性の激しい人なのかなと思わせるところがあります。熱情的です。一方で結構厳格でもあり、教え口調かのように感じさせるところがまたアルゲリッチに似てなくもありません。「ほら、こうでしょ」という自信に溢れています。     

 第二楽章は重々しく間を空けながらゆったり弾きます。不安定さはないけれども部分的に拍の頭でためを大きく取って揺らします。所々で走ることもあります。伸び縮みはしっかりとつける様式ながら、コルトーほど滑らかな波のようなルバートではなく、興奮と鎮静を繰り返して行きます。荘重なクレッシェンドもあります。静かなところは弱くやわらかく、そこから強くして行くところでくっきりとコントラストをつけます。結構大仰に感じると言えば否定的だけど、深刻さというのか、大事なことをしているのだという構えを感じます。傷つきやすい若者というよりも権威あるショパンという印象で、堂々としたものです。 



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アルフレッド・コルトー(Alfred Cortot 1877-1962)
 フランスのピアニストです。母方はスイス、遠い祖先はカタロニアだということです。ルバート奏法の話では真っ先に出てくる人で、19世紀後半生まれの一つの典型的なスタイルだと思われています。ショパンの弟子であるエミール・デコムが師です。つまりショパンの孫弟子と言うことができます。カザルス・トリオの一員ですから、有名なベートーヴェンの「大公」などの演奏を聞かれた方もいらっしゃるかもしれません。この人の弟子には、違う流儀ながらディヌ・リパッティ、クララ・ハスキルなどがいます。ショパンの協奏曲については2番の録音はあるけれども1番はありません。

 やさしさと真面目さが感じられる人です。この時代のスタイルとしてパハマンと同じように伸縮しますが、それはあのやわらかいスプリングの玩具スリンキー(レインボースプリング
)が伸び縮みするみたいで優雅であり、軽さもあります。いかにもフランス人好みと言ってよいでしょう。拍単位で引っ掛けるように間をためるのではなく、歌の終わりのフレーズでしっかりと間を置きます。遅くするところではずいぶん遅くなるけれども、波のようにだんだん滑らかに遅くなり、弱いところは十分に弱くして繊細です。一方、柔ではなく剛の部分では情熱的になり、それは曲によっては荒波のようであり、走るパートでは大変速く、でも軽い感じでスピードに乗ります。 我の強さは感じさせないけれども振り幅は大きい人です。また、この時代は皆がそうでしたが、晩年はキーの外しがよく指摘されます。

 バラード第1番 op.23:録音の加減でしょうか、最初から結構強く叩いているように聞こえます。くっきりとした音で、次で比べるジルなどより強く感じます。また鮮やかに伸縮させ、フレーズの間で休ませつつ進めます。揺らし方が優雅です。なし崩し的に駈ける様も聞かれます。でも投げ付けるようにではなく、もっと真面目です。決意に基づいているかのようであり、ほとばしる情熱を感じさせます。全体としては波のようにつながった伸び縮みが特徴です。

 協奏曲2番 op.21:第一楽章など、かなり速く弾くところも出るものの軽やかであり、メロディアスな部分では 落ち着いた間のある演奏です。
粋な揺れを加えて歌い、同じく同曲の録音が残っているコチャルスキーのように一音強く叩いたりということはなく、同じ箇所ではむしろ繊細に鳴らします。盛り上がるとくっきりと明晰になり、そこからすっと弱めるところがきれいです。その場合テンポも落とします。第二楽章はコチャルスキーの明晰さと比べると夢見るようなやわらかい運びで、弱音では飲み込まれるように小さくなります。均整の取れたやさしいラルゲットです。



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ヴィクトール・ジル(Victor Gille 1884-1964)
 この人もフランス人です。ショパンの孫弟子というわけではなさそうであり、ショパンを聞いたことがあるピアニストたちに囲まれて育った(本人弁)ショパン弾きです。お金を稼ぐ必要のない境遇の人だったらしく、シャンゼリゼの自宅で信奉者にリサイタルを開いていたそうです。有名レーベルに録音を残すことはありませんでした(したがって音源は限られています)。系譜としてはコルトーの師でもあるルイ・ディエメの弟子ということです。誰よりも自由奔放にテンポと強弱を動かしてショパンを弾きました。それこそ信奉者は熱烈に愛したタイプだと思います。多少性格の似たところのあるパハマンと比べるとよりかっちりとしていて鮮烈さを感じ、撫でるような性質、大儀そうに時間の中に染み込むようなフレーズは少なく感じます。コルトーも加えて、同じ伸び縮みのルバートといっても三者三様です。

 バラード第1番 op.23:弾き出しは弱くやわらかく、小声で控えめです。テンポもゆったり真っ直ぐで、所々にアクセントの強音を入れます。そして小声のまま軽やかに走る部分が交じるようになり、その速度のエネルギーをベースにフレーズの終わりを遅くする伸び縮みを加えたかと思うと、フォルテで持ち上げるところでは劇的に強い 揺れを加えて叩きます。それは相当強いもので、コントラストこそがこの人の持ち味かと言えるほど特徴的です。そして軽やかに飛ばすところもあれば突然速くなる場合もあり、パハマンと同じような断定的な波長を感じさせながら乱れ打ちのように激情をあらわしたりします。自由奔放、カリズマティックな催眠術師です。どうやらショパン弾きにはこの種の自我を感じさせるピアニストが何人かいるようです。でもショパン本人ってこういう性質を持ってたのでしょうか。ちょっと疑問に思わないでもありません。リストがそうだったようですが、ショパンを材料にして自らを表すという誘惑は大変強いもののようです。このジル、ショパンの演奏法を研究するときには避けて通れない人のようながら、好き嫌いは出るでしょう。新鮮な可能性があるという人もいます。



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ウィルヘルム・バックハウス(Wilhelm Backhaus 1884-1969)
 ライプツィヒの人、バックハウスならベートーヴェン、と言われることでしょう。リストの弟子であるオイゲン・ダルベールに師事し、リストはツェルニーの、ツェルニーはベートーヴェンの弟子だったため、ベートーヴェンとリストの直系の弟子筋とされるからです。しかしこの人のショパンについて時々語られることがあるのは、例のパハマンの葬送行進曲を激賞した評論家の方が高く評価していたからなのかもしれません。協奏曲の録音は出ていません。

 ベートーヴェンのソナタの録音については定評があります。しかしこのページではそれが好みではないように書いてしまいました。 覚醒感があるものの、やや落ち着きがなく聞こえる前のめりの古楽奏法のような運び(吉田秀和がアッチェレランドと呼んだもの)があるからでした。ショパンはまたちょっと違った趣で、前へと走る感じは中心にならず、むしろ遅らせる部分に耳が行きます。少し駈けるところがあってもショパンでは目立たないだけかとも思ったけれども、そういうことでもないようです。ショパンの時代の伝統的解釈であるルバートのような動きがドイツ人のバックハウスにとっても常識となっていたのかもしれません。いずれにしてもアゴーギク(テンポの変化)に特徴のある弾き方だと思います。色々なピアニストが録音しているバラードの1番もあるし、別れの曲も聞けるので、少しだけ比べてみました。

 まず最初に、バックハウスと聞くと苦手意識が出るのが何でだか少し分かりました。それはピアノの音です。割れ鐘というと太いだみ声のことのようです。それなら古くは半鐘、あるいは今の消防車の鐘ぐらいの大きさというか、それがちょっとだけ歪んで聞こえるのです。録音の問題だろうと思います。続けてかけているとどうも耳が痛くなります。一時期デッカの録音でアシュケナージが強く叩くときに、もう少し高い周波数で似たようなバランスがあってそれも苦手だったけど、レーベルは同じです。エンジニアについては調べてないのですが、特定の録音だけでなく、案外この人のには全般にこういうのが多い気がします。マスターテープも古くなってるから仕方ないのでしょう。でもそれとは正反対にピアノの音がきれいだと言う方もいらっしゃいます。バックハウスはベーゼンドルファーを好んで使うらしいけど、ベーゼンドルファーの音自体は好きです。いったいどういうことなんだろう、といつもそこで終わっています。

 演奏に関しては、テンポは動かしているのにリラックスした自由さは感じません。もっと何か厳格な印象です。自らに課しているのか、規範のようなものが存在する感じなのです。あるところから思い切っては出られないような感覚に囚われます。出られないのは能力の問題だから、出ないように決めてると言った方がいいでしょうか。抽象的過ぎるけれども何故そう感じるかは分かりません。

 動きをもう少し具体的に観察してみると、ルバートといってもコルトーのように大きくスプリングが伸び縮みするようなものではなく、所々で拍を一瞬遅らせる形です。これはよくあることで、それだと例えば若いときのルービンシュタインの説明にも似てしまいます。でもああいう風に足取りが重く、満遍なく引っかかって引きずる感じのリズムともまた違います。部分的に遅れ、反対に時々駆けるように速めて戻しています。これだと今度は一般的なルバートの説明になってしまうでしょうか。正確に表現するのは難しいです。大雑把に言えば、コルトー流の連続的な伸び縮みのルバートと、リズム単位の癖の中間ぐらいとでも言いましょうか。ゆったり歌うようなパッセージに来るとよりその特徴が出ます。そしてそんな崩しがあっても粋でエレガントな種類ではなく、落ち着きがないほどに走るところがあっても軽やかさとも違います。これはタッチの強さに関係のある現象かもしれません。速いところはかなり飛ばし、強いところは乱打するように強く叩きます。結果として深刻さを感じさせるほどにドラマティックな演奏です。良い悪いではなく、こういう生真面目な部分のある運びこそが好みだという人もいると思います。そこがベートーヴェンで人気の出るところでしょうか。

 一方で、案外癖なくスムーズに運ぶフレーズも多いのです。バラードの1番では出だしでは動きが顕著でも全体にはストレートだと言えます。
 葬送行進曲では遅めでやや表情を付け、強く叩く音を混ぜて真面目にごつんと来ます。心が揺れている葬送です。 
 別れの曲も遅くて重いリズムです。少しだけ間を空けておいて強く叩くからでしょう。テンポの変動はあるけれども軽くはなりません。ドイツの音という感じで、やはりベートーヴェンを弾いているようです。



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ラオウル・フォン・コチャルスキ(Raoul von Koczalski 1885-1948)
 コチャルスキはショパンと同じポーランドの人です。ショパンの弟子で、その校訂譜で有名なカロル(カール)・ミクリの弟子なので、ショパンの孫弟子になります。ミクリの弟子には他にもローゼンタールがいます。コチャルスキは自由に弾き崩す当時のピアニストたちと比べてより楽譜に忠実だと言われます。そしてむしろこの人で有名なのは、リストが認めたという「ショパンと一緒で旋律は動かすけれども伴奏は一定」にして進める演奏スタイルかもしれません。リストって一足早い無調の曲を作るような天才だけど、色々言います。

「メロディと違ってリズムは一定」。以後あちこちで木霊のようにそう言われているわけだけど、よく分かりませんでした。そうした特徴が表れているものとして前奏曲や練習曲があるというので聞いてみると、確かに若干はそう聞こえるような箇所もあります。ショパンは伴奏が止んでメロディだけを展開させる部分もあるので、そういう箇所に来ると直前のリズムよりもゆっくりになってるとも言えます。でもだいたいは両手が同期しています。つまりリズム・セクションも伸び縮みはしていて、メロディ・パートがそれより大きくルバートする感じには聞こえませんでした。両方が全くつられないということは現実問題難しいわけで、右と左が独立しているというのはレトリックなんじゃないでしょうか。ジャズのピアニストでブラッド・メルドーという人がいて、右手と左手が別のメロディを弾くと言われています。確かに巧妙に違う動きをさせているのですが、それとて二つの回路で処理しているわけではないようで、お互いに微妙に引っ張り合いっこをします。二つの違うものを一つに合体させたパターンとして一つの脳で処理しているからセパレーションが悪いのでしょう。そして面白いのは、その考えつつ躊躇い行くようなメロディの叩き方と揺れ方が、コチャルスキーの前奏曲第4番なんかでも現れ、まるでメルドーの Song-Song や Exit Music の弾き方みたいに聞こえる点です。
彼もやはり何か新奇な表現を模索してたんでしょうか。それと、メルドーってちょっとショパンみたいだなって初めて思いました。

 左右独立懸架の話はさておき、コチャルスキは確かにルバートはするもののバランスを壊すほどの下品なやり方は好まないようです。これがショパンらしい性質だと言うならちょっと納得してしまいます。この時代としてはテンポを崩さないきれいな弾き方で、楽譜通りというのとは違うけれども、より今の人の感覚に近いとも言えるのではないでしょうか。洗練されていて明澄です。そしてこの澄んでいるという点については、古い録音からそれを聞き取るのは専門家だなあと感心するのですが、ペダルの使い方が少ないからだそうです。確かに音が重ならないので踏んでないのでしょう。くっきりとしたリズムがある一方で揺れるルバートが優雅であり、力一杯叩いたり押して来る感じがせず、やわらい弱音と繊細な歌があって詩情溢れた運びです。録音が良ければ時々聞きたくなるピアニストかもしれません。

 ではコルトーと何が違うのでしょう。大分違います。コルトーの方がルバートは大きく、スプリングのようです。浮いたり沈んだりの強弱で沸き立つようにやるのは同じだけど、コチャルスキは叩きつけるのではないけど所々でアクセントを入れる傾向がより強く、輪郭がくっきりとしていながら大袈裟なところはありません。コルトーの方が滑らかにつながっていて、流線型で軽い質感ながら大きく振れます。速めで弱音に潜っているところが多く、走る感じもあります。ワルツの第2番などで比べると顕著だけど、駈けたり止まったりの揺れの癖が強いのです。コルトーって繊細なわりに意外と豪快なところがあります。コチャルスキはもう少しかちっとまとまっています。

 ワルツ第6番(子犬のワルツ) op.64-1:軽く自在に動かして快速で行きます。この曲では全体に軽快で、強いアクセントはありません。こんな弾き方もあります。

 協奏曲2番 op.21:速いところでは真っ直ぐ揺らさずに行き、ゆっくりのメロディーでは多少緩急が付きます。第二楽章はコルトーより明晰に感じます。このへんの表現は現代の人と変わらないと言っていいでしょう。
ルバートをかけて伸び縮みさせるというほどではなく、所々で間は置きながらきれいに施した抑揚に感心します。途中から盛り上がって来る部分でかなり強く叩く音もあるけど、全体には繊細さと明澄さがバランスしています。よく聞くと強弱が絶妙に付いていて、いい音で聞きたかったなあと思いました。


 19世紀生まれのピアニストを何人か概観して来たわけですが、「五大ピアニスト」と言われる区分に入る有名人として、他にも
フェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni 1866-1924)やレオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky 1870-1938)という名前も挙がります。しかしその二人については思うように録音が聞けず、割愛することにしました。



20世紀生まれのピアニスト


   solomon

ソロモン・カトナー(Solomon Cutner 1902-1988)
 ソロモンはイギリスのピアニストで、玄人筋では高い評価を得ている人です。本国でもカトナーではなく、ファースト・ネームのソロモンで呼ばれます。ホロヴィッツとほぼ同じ頃の生まれで1988年まで存命でしたが、脳梗塞で50年代に引退したので、一部シューマンやグリークの協奏曲などの良い録音(ステレオ初期の優秀録音と変わらないレベル)もあるものの、モノラル時代の演奏家ではあります。ホロヴィッツとは反対に吉田秀和が褒めた人(ベートーヴェンについて)でもあり、
欧州ではすでに評価が高かったけれども、今なお日本で語られるのは彼の功績かもしれません。クララ・シューマンの孫弟子に当たるのでショパン直系というわけではありません。イギリス紳士らしく控えめな味わいのあるピアニストで、その意味でもホロヴィッツとは反対と言えるでしょう。集めて来て CD 一杯分ぐらいショパンの録音が残っており、ショパン弾きとは言えないけどその方面で評価する人もいます。

 静けさのある人というのが第一印象です。一方でダイナミックレンジは大きく、弱い音と強い音とのコントラストがあって驚く場面もあります。でも全体としてははめを外さず派手さがなく、コルトーのようなルバート奏法でも全くなくて、揺れは微かにあるけれども少なめです。リズム自体も細かく動かしたりはせず、かっちりと弾きます。ゆっくりのところはかなりゆっくりで間も空ける場合があります。一方、幻想曲 op.49 など、速いところは流れるように行きます。この時代の一般的なショパン解釈とは違うと思いますが、古さを感じさせない均整美があり、わずかに付いた表情が繊細です。消え入るようなデリケートな弱音がまた大変きれいだけど、単調に感じる人もいるのかもしれません。  

 そうした静けさと穏やかさ、繊細な味わいこそが持ち味というところから、ブラームスの間奏曲などは大変良いです。ショパンの録音については協奏曲はなく、「軍隊」 などの針音のするもの(SP 復刻)から案外コンディションの良いものまで色々です。30年代から終戦直後ぐらいまでに渡るからです。残念な話だけどまとまった数のショパンがないのでどうこう言うようなものでもなく、タッチの正確さなど、その完璧な技を参考にしようというピアニスト向けの音源と言ってよいのかもしれません。でもそれだけではもったいない名演もあります。ノクターンの1番、2番(op.9-1,9-2)、特に有名な2番はこんなにやわらかいささやきが聞けるかという、この曲のベストの一つです。別れの曲(練習曲 op.10-3)も同様であり、ゆったり真っ直ぐで、テンポからすれば思い入れたっぷりな運びだけど耽溺せず、滅多に聞けない大人の味わいです。練習曲 op.25-1 もいいし、バラードの4番(op.52)も味わいがあります。この辺は録音時期も色々で1932年から56年までにまたがるものの、モノラルながら一番古いものでもリマスタリングされており、
時代を考えれば決して悪くありません。ソロだから救いようがあるのでしょう。幻想曲 op.49 も古いのと後年の録音二つがあって比べられたりします。



   horowitz

ウラディミール・ホロヴィッツ
(Vladimir Horowitz 1903-1989)
 世紀のヴィルトゥオーソ、ホロヴィッツ。いまさら評するのも気が引けます。ラフマニノフには後継者だと思われ、七人に教えた、いや認めたのは三人だけだなどと言われる中、若いピアニストたちはこぞって弟子筋だと言いたくて微かな縁も強調します。鑑賞専門のクラシック・ファンも神格化します。実際日本では「20世紀最大のピアニスト」と評されており(本国でも "one of the greatest pianists of all time")、「大草原から解き放たれた竜巻 tornado unleashed from the steppes」とも言われて泣く子も黙る、ばりばり弾く超絶技巧の大家です。だから吉田秀和は来日時にあんな酷評をしたのでしょう。速弾きのピアニストは前の世代にもいたけど、台の下からスポットライトを当ててショーケースの中に置いてみせたぐらい技巧が光って見えます。そういう意味ではポリーニやアルゲリッチの先輩です。ウクライナ生まれのユダヤ系アメリカ人で、何かとルービンシュタインと比べられるショパン弾きだけど、系統立った録音はしておらず、オーケストラは邪魔だと言って協奏曲の録音も残していません。

 でもホロヴィッツの最盛期は、良い状態で録音が聞ける時代より前だったのではないかという説もあります。
それは私生活の観点から言われることで、彼の長い活動中断の前、結婚前の時期です。本当かどうかは分かりません。でも19世紀の偉人より騒がれるのは録音があるからなのに、本当なら残念ではあります。そしてその有名な技巧以外の部分での味わい、情緒表現に関しては賛否両論あり、案外それこそがホロヴィッツをどう見るかという核心かもしれません。静かな部分は大技を見せるためのコントラストとして存在しているだけか、たっぷりとした歌が出たらそれは指の調子が悪いときのボロ隠しなのかという、いわゆるホロヴィッツ問題です。個人的には味わい深い部分はあると思います。

 それとはまた別のボロヴィッツの魅力についてですが、ファンの賛辞のうちでスピードと強打に関することを除く代表的なものとしては、「独特なホロヴィッツの音は CD では捉えられないもの」であって、「最弱音がホールの一番後ろでも美しく聞こえることにこそホロヴィッツの特徴がある」というような、生の音色に関することがあります。それは独特のタッチから生み出されるということになっています。日本に限らず有名なピアニストの多くがホロヴィッツの音色(ティンバー/トーン・カラー)の特別なことは証言していますが、ピアノの物理的な音の違いはハンマーが弦に当たる瞬間の速度で決まるのだから、同じ楽器、同じ強さで音色が違うことはペダル操作を除けばありません。
一般に「広がりのある音」や「上から降って来る音」を出すピアニスト、などと音色を形容する場合もあるけれども、感覚的な話です。ピアニッシモでホールの後ろまでディテールが聞こえていたなら、ある程度の強さで弱く弾いているように聞かせていたということになります。ホロヴィッツは他の人より大きな音が出せたそうですから、そのダイナミックレンジを生かしてジャズ・プレイヤーのように弱音もやや大きい方へとシフトしていてもバランスは取れます。一方で全体の音色自体がくっきりしているというのは倍音構成の問題であり、同じピアノなら強さに依存する一方で、楽器自体の性質もあります。ホロヴィッツは特別にチューニングした自前のニューヨーク・スタインウェイをどこにでも運んでたといいます。ニューヨーク・スタインウェイは一般にはハンブルク・スタインウェイよりもメタリックな音を得意とするとされて来たし、そもそもスタインウェイ自体がライヴできらきらした音色を出すポテンシャルを持った楽器です。調律師の調整によっても音色は変わります。そして以上のような音の違いは、生と同じにはならないけれども CD 録音でも確認出来ます。

「タッチによって音色が変わるかどうか」という、昔からの論争に突っ込んでしまいましたので、もう少し補足します。確かに姿勢や弾き方で音色が影響されるのは間違いないことです。実際このページでもアリシア・デ・ラローチャの粒立ちの良いこの音はどう弾いているんだろう、などとも書きました。同じピアノで弾いても
演奏者ごとにその人でなければ出せないような音が出ていると感じる場合もあると思います。こうした「タッチで音色が変わる」肯定派の論拠となるものとして、鍵盤に指が当たる音や、その鍵盤が底に衝突する打鍵ノイズ、いわゆる上部雑音や下部雑音が加わることで音色が変化するというものがあります。後者は打鍵の強さに比例しますので除くとして、さっきのホロヴィッツの弱音が遠くまで届く話としては、ホールの後ろで指の衝突が聞こえるとも思えません。そもそもホロヴィッツは指を伸ばして弾き、手は鍵盤の蓋の高さを滅多に超えなかったそうです。これはよく言われるミケランジェリとも同じで、猫足みたいに弾いていたということでしょう。日本では掌の中に卵を抱えるように指を丸めて弾けと言われ、それは指を鍵盤から持ち上げて叩くのとセットになって雑音源となるけれども、映像で有名ピアニストの手の動きを見るとそうはなってないように、余分な雑音をできるだけ出さない方が国際標準です。叩く手の音を問題にするのも見当違いでしょう。
 アクションが木製だから、強く叩くと振動がシャンク(ハンマーの軸棒)に伝わってハンマー角度が変わるという説もあるけど、それが奏者による音色変化の中心的な理屈だとするのも苦しいと思います。

 あるいは音色の違いはキーの押し方(叩くか、途中から力を入れるかなど)によるハンマーの加速度の違いだという人もいるようだけど、もし途中の加速度カーブが違っていても当たる瞬間の速度が同じ場合、音は同じです。倍音構造が変わらない限り音色は変わらないのであって、倍音の違いは強さ=ハンマー速度の違いだからです。もし実験するなら人に叩かせるのではなく機械でやるか、あるいは人が叩いても正確にハンマー速度が計れる測定環境にしておいて、同じ速度が出せるまで熟練するしかありません。

 結局のところ、タッチによる音色変化というものは、一音の他の音との強さの相対的な関係であり、また特定の音符にどの強さを当てるかという楽譜との関係なのです。問題は同じ「ぐらい」の音量でもわずかな強さの違いで異なる倍音波形になり、それをどうコントロールするかで音色の差が出て来てしまうことでしょう。昔から指先の角度は音の固さとやわらかさ、手の甲は厚み、手首は呼吸と滑らかさに関係し、肘は音の伸びと安定、上腕部は力強さを生み出すなどと言われて来たけれども、それらは皆、ある強さの音をコントロールして正確に出すための姿勢であり、手の形なのです。それが音色に直結します。

 ホロヴィッツの話に戻ります。いわゆるホロヴィッツらしい部分、歯切れ良さ、輝かしさ、強くエッジが立って一音ずつ輪郭の区切られた金属的な音でばらばらと猛スピードで駈ける部分は胸がすくようです。騒がれただけのことはあるでしょう。ただ、個人的にはあまり聞きたいものではなく、特に彼のスタインウェイの音、少なくともその録音の音は好みではありません。強音がギーンと硬くて耳に痛いからです。でも「ホロヴィッツ問題」とか適当なことは言ったけど、速弾きでない静かなところでのこの人の抑揚表現には味わいがあります。大技の前の無表情とは違うでしょう。「別れの曲」でこそ、歌の部分はさらっと流して途中の盛り上げでスタッカートも力強くバンバン行かれてしまいますが(後年の録音ではそれによって説得力があるようにも聞こえます)、例えば有名なバラードの1番(op.23)も静かな部分はしっとりしているし、同じく4番(op.52)、それにノクターンの多く、具体的には5番(op.15-2)や15番(op.55-1)、19番 (op.72-1)、ワルツの3番(op.34-2) や7番(op.64-2)、9番(op.69-1)、舟歌(op.60)、マズルカの13番 (op.17-4)や41番(op.63-3)といった、彼が特に好んで弾いた曲では、力を抜いて遅らせるルバートによるわずかなためが聞かれ、テンポを動かしつつ軽やかに弾きます。そして気まぐれに強弱が変動し、ペーソスを感じさせる詩的なものとなっています。所々に強靭な音でアクセントを入れたりはあるものの、全盛期のルービンシュタインの訥々としたリズムの粘りとは根本 的に違う運びです。それはどこか変わった質なのだけど、何でしょう。まるで空想世界の音のようです。その空想の中に美と憧れを求めるような周波数が含まれるのは、今より相手を得ることが困難な時代にゲイだったことと関係があるのでしょうか。

 そうした部分での感覚的な印象を述べてみます: 現実を超越して湿り気をどこかに置いて来ており、素っ気なくはないけど耽溺せず、枯れたようにも聞こえる意識の巡らされた情緒を感じます。空気に染み通って行くような抑えた静けさがあり、超絶技巧家だけど情感の分からない人ではなさそうです。衰えたと言われることもある晩年の演奏の方にむしろその美を強く感じるので、それが好きとなると2、30年代が全盛期だとする前述の技術的評価とは反対になるでしょう。でもそうした部分の良さについても古くからのホロヴィッツ・ファンにとっては当たり前のことなんだろうと思います。来日のときに「ひび割れた骨董(前述の吉田秀和)」と言われたのは、どうやらそのときだけ薬物のオーバードースになってたからのようです。

 ホロヴィッツの CD は色々な形で再販を繰り返していますが、今は RCA とコロンビアのショパン・コレクション7CD が1枚ほどの値段で買えます。


  
   richter

スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter 1915-1997)
 スケールの大きな演奏をするピアニストです。ギレリスより一歳年上で、同じようにウクライナ生まれでダイナミックな技巧に定評があり、お互いをライバル視していました。でもギレリスとは違ってユダヤ人ではなく、ドイツ系です。そしてギレリスと同様にこの時代のロシアのピアニズムを代表する人と言っていいでしょう。豪快なだけでなく、バッハの演奏では静謐な平均律クラヴィーア曲集が人気でした。そうした静かな曲ではやわらかいロマンティシズムに覆われ、かと思えばロマン派の作品においては、アルゲリッチほどではないにせよ、それが腫れ物に触るような静けさに聞こえるほどフォルテで髪を振り乱す激発があります。洗練を重んじる内輪のサロンでの洒脱な演奏というイメージが存在するならば、そのスケールの反対側に位置するとも言えるでしょう。そういうのこそがロシア流の壮大な演奏だけど、ギレリスよりもそんな熱烈さは強い印象です。しかし逆に大変敏感で繊細なので激するのかもしれません。レパートリーは偏っていたけれども範囲は広く、特にショパンのピアニストではないながらもそれも一つとして弾きました。したがってここで取り上げるべきかどうかは微妙なところではあります。でも協奏曲のページでギレリスを出したので、公平を期して触れることにしました。

 他の多くのピアニストと比較できる曲としてはバラードの1番があります。聞くとちょっと深刻な感じがする重いロマンティシズムに沈む演奏で、ミケランジェリやツィマーマンの計算された迫力とは違います。アレクサンドル・タローの真裏に位置するような弾き方でしょうか。暗い中でため息をついているのか、あるいは憧れを持って息を潜めているのかという感じながら、音運びの面ではソフトだとも言えます。本来は強力なのに力を抜いてや さしくしてるような印象も与え、感情が盛り上がるとその力強さが現れます。つまり、可燃性の猛然たる走りが出る場面があって、ロマンティックな靄の中から驚くような激しさが立ち現れるのです。
 
 協奏曲の2番はスヴェトラーノフ/ソヴィエト国立交響楽団との1966年の録音で、弦はきつくてピアノは奥に引っ込むところがあり、音はあまり良いとは言えないです。やはり全体にゆっくり気味で表現が大きい傾向で、スローな部分では重みがあって悠然としています。
 第二楽章もゆったりで大きな振りだけど、トレモロは細かく、所々に強打が入ります。揺らしはほとんどありません。その確固とした運びに接して偉大さを感じたり、人によっては多少間の延びた感覚を覚える場合もあるでしょう。一方で装飾の部分で瞬間的に速く駈けたり、突如爆発したりもあります。ギレリスよりスケールが大きくてどしっとしていながら、余裕のあるリラックスしたものとは違うようです。深刻とまでは言わないけれども遊び がなく、大変真面目で叙情的です。寂しくて苦労の多い体験を経て来たのかもしれません。ジョルジュ・シフラのように苦難の後に楽しい方に行く人もいるけど、隠された怒りを持つようになる人もいます。傷ついたことのない人はいません。でも何かそんなことを考えさせる熱い人です。

「別れの曲」は重みのある足取りで、上昇して行ってコーンと一音強打をくれるところがあったりするし、感情の激し方はかなりのものです。やはり大変強いフォルテの部分と急速に駈けるパッセージが出ます。したがって淡い憧れが思い出の中に盛り上がる曲というよりは、もっとシリアスなドラマになっています。ベートーヴェンを弾いているようにスケールの大きい練習曲と言えるでしょう。



   michelangeli

アルトゥール・ベネディッティ・ミケランジェリ(Arturo Benedetti Michelangeli 1920-1995)
 イタリアの巨匠、ミケランジェリには残念ながら協奏曲はありません。色々と神話になりやすい人で、どんなのがあるかといっても多過ぎて取り上げ切れません。コンサートの直前キャンセル魔として有名であり、愛車は フェラーリ250や330GT という車。代表的な話は、協奏曲の第一楽章の録音を終えたところで黙ってそのスポーツカーに飛び乗り、録音スタジオからアルプス超えて猛スピードで帰っちゃったというのと、ピアノの教えを乞うたら永遠にピンポンの相手をさせられた、というものでしょうか。演奏について言われるのは大変な技巧家だったことと完全主義です。どこかで聞いたことのあるセリフだけど、思い出すとあのツィマーマンとそっくりです。しかも緩徐楽章での歌わせ方は二人とも大変遅くてたっぷりしており、それでいてちょっと自意識の張った 無機質な音を響かせるところも同じです。一般にはこの二人、ピアニストとしては全く別の種類だと思われてるでしょうし、技巧のあり方についても専門家は違いを指摘するかもしれません。でもこの人のバラードの1番と ツィマーマンのとを比べると面白いです。ツィマーマンの方が録音の加減で若干磨かれたような艶が乗り、ミケランジェリの方がやわらかさをベースに芯のある音を出すかもしれないけど、ぱっと聞かされて区別できる自信はありません。運び方もミケランジェリの方が速くなるところで若干隠れた癇の強さがあるかな、ツィマーマンの方がもう少し丁寧で明晰かな、というぐらいでしょう。私生活においては二人共、思い通りにならないことを世の矛盾として妥協する性格ではないようです。ミケランジェリはその場で怒って撥ねつけるのに対して、ツィマーマンは慎重に計画し、出るべきところへ出て要求が通るまで譲歩しないそうです。直情径行のイタリア人と寒さと圧政に苦しんだポーランド人のストレス処理の違いでしょうか。

 ミケランジェリを聞いて感じることをもう少し書きますと、歌の部分ではゆっくりだけど余分な抑揚を感じさせず、音の余韻を楽しむように間を空けて弾きます。その間を空けた中に音がポツン、ポツンと平静を保ったまま完璧に配置されてるような感じです。もちろん抑揚はあるのだけれど、多少無機質というかポーカーフェースというか、どこか醒めたところがあるのです。聞き手の心情的な期待や、一般的にその曲に求められる完成図を理解してサービスしてる醒め方というよりも、自分の中での完成度を追求する結果情に流されないのかなという気もします。一方で速いパートでの技巧は見事であり、興奮せず静けさを保ったまま速めたり、反対に感情を表す場面では一転して華麗になるけれども、やはり熱い感じには聞こえません。    


   katsaris

シプリアン・カツァリス(Cyprien Katsaris 1951-)
 ギリシャ系フランス人のカツァリスも、ショパンやチャイコフスキーのコンクールでこそ優勝してないものの、ポリーニやツィマーマンと並び称される超絶技巧家です。ではその二人とはどう違うのでしょうか。詩人だということにもなっています。

 まず、ポリーニのように感情世界の感受性が異なる天才ではないと思います。学習によって情緒の形を彫刻しているとまでは感じません。
 ではツィマーマンと比べるならどうかというと、これもまたちょっと違い、両者とも感情を受け止める能力はありながら、その感情に対して自分のものとしてコミットしているわけではないところは似ています。でもカツァリスは聴衆の需要を理解して醒めている職人ではないと思います。弾いてること自体が純粋に楽しいのでしょう。

 個々の音を出す喜びに浸るという点では上原彩子にも似たところがある気がしますが、性質は異なります。カツァリスの方は丁寧に一つひとつの音を磨く喜びというより、音の連なりを実験するような喜びです。音の織物に関わり、それを紡ぎ出すことに限りない好奇心と幸せを感じており、感情を運ぶ器としての音楽には興味がなさそうです。でも情感を感じられない人ではないので、心の動きに沿った音の強弱やテンポは心得ています。それでも喜びはあくまでも音のパターンの方だと言えばいいでしょうか。その追求が楽しくて完璧な音の美しさを作り出している。失礼な言い方だけど子供がおもちゃを与えられたみたいに無邪気です。ショパンの協奏曲の CD には管弦楽版以外に室内楽版、2台のピアノ版、独奏版の4種類が収められているけれども、それはレコード会社の企画にせよ、そんな話に乗る点にも彼のそうした嗜好が反映されているでしょう。音には徹底的に敏感で、これで人々を幸せに出来るならこんな天職は他にないだろうという感じです。だから形としてはときに表情の濃さもあり、憂いも表し、遅くして揺れ動く心も見せます。そしてそこから鮮やかな超速まで一気に駆け上がり、何の乱れもない完璧な技巧で圧倒します。
 
 以上は主観的な感想です。事実として主張するつもりはないけど、バラードでミケランジェリとツィマーマンを混同するような事態は起こり得ず、カツァリスはカツァリスです。一番違うのは、静かな楽章でその二人のように遅くたっぷりと間を取り、同時に覚醒しているという感じにはならない点でしょうか。

 協奏曲は2番のみしか録音していません(カツァリス自前のレーベルであるピアノ21からで、エドヴァルド・チヴジェリ/クイーンズランド交響楽団 2010)。大きく揺らしたりせず、きれいに弾いて行きます。癖の強いものではありません。一定のテンポで余裕をもって完璧に弾く感じです。前へ前へと駆り立てられることはなく、余裕があって力は抜けています。そして指の回る速いパッセージが見事に挿入され、それが軽々としており、全てにそつがありません。大変美しくて曲のあるべき姿を整然と見せており、楽譜を音にした理想形だと思います。拍手が入っているので、そこでライヴだったと驚くほど録音は良いです。

 ハヴィエル・ペリアネスのグリーグの「叙情小曲集」(選)が好きだけど、このカツァリスの同曲集も秀逸でよく聞きました。ベヒシュタイン使いでもあったと思います。どの盤が何のピアノかは分かりませんが、どれも音色が美しいです。



   schiff

アンドラーシュ・シフ(András Schiff 1953-)
 名手シフはバッハやベートーヴェンでは他で得がたい魅力があります。ハンガリーのピアニストで、ロマン派のショパンも一応レパートリーです。でもほとんど出してないですから本来ここで取り上げるべき人ではないでしょう。個人的に好みなのと、このピアニストの洗練された揺れと自発的な動きはショパンにも合いそうに感じるので2番の協奏曲のみ少しだけ言及します。

 なんと二十九歳のとき(1983)の録音です。シフは最近になってますます味わいが濃くなってるように感じるのでちょっと残念です。今のショパンも聞かせてほしいと思います。ロマンティック過ぎるのでしょうか。バッハなどの得意種目はキャリアの初期と後年の録音で同じ曲を比較出来ます。情感が深まったときの微かで複雑な揺れは若いときの方が少なく、それでいてロマンティックに歌う傾向があります。やはり若者に特有の感覚は存在するわけです。その意味ではこのショパンの2番も夢見るようにロマンティックで劇的なところがあり、後のベートーヴェン後期のソナタなどを堪能していた耳からは意外な感じがします。ショパンはこの協奏曲の CD 以外にはプレイエルを使った前奏曲の DVD があるぐらいで、やはり今のところはショパン弾きだとは言えません。



   pogorelich

イーヴォ・ポゴレリッチ(Ivo Pogorelich 1958-)
 旧ユーゴスラヴィア生まれのクロアチアのピアニストです。色々と物議をかもす人のようで、グールドやグルダじゃないけど伝統に逆らうと言われ、ショパン・コンクールでは予選落ちして審査員だったアルゲリッチが怒って帰っちゃうという有名な事件も起きました。二十歳上のピアノの先生と結婚したという話については個人の自由でしょう。協奏曲は二十五歳のときに2番のみ録音しています(クラウディオ・アバド/シカゴ交響楽団 1983 ドイツ・グラモフォン)。

 個性的で変わったことをするのは大変良いと思います。このページでもバッケッティなどは面白いと言って取り上げました。ただ、
このポゴレリッチについては詳しくはファンの方にお任せしようかと思います。第二楽章ではたっぷりと遅く入り、間が大きいです。これはもうグールド級の遅さと言ってもよいぐらいです。揺らしという感覚ではなく、ひたすらゆっくりで、強めるところでは拍の頭に強いアクセントをがつんがつんと入れて行く箇所も出て来ます。コントラストが強くて面白い弾き方だと思います。洗練されているなどという評価は最初から望んでないのだと思うし、じっくり聞いていると呼吸が合って来ます。独特の美学が分からなくもありません。



幻想即興曲

   tharaudchopin.jpg
    ’Journal Intime’
     Fantasie-Impromptu
     Alexandre Tharaud (pf) ♥♥

「私的な日記/ショパン作品集」
幻想即興曲(即興曲第4番嬰ハ短調 遺作 op.66)
アレクサンドル・タロー(ピア ノ)♥♥
 幻想即興曲もショパンの有名な一曲です。「別れの曲」のように親しみやすいゆっくりしたメロディーの作品ではなく、出だしから不安を抱えて駈け急ぐような展開にもかかわらず、いかにも超絶技巧という曲にも聞こえません。 前に「高速クルーズ系」などと言いましたが、速いスピードで走る乗り物の窓から飛び去る景色を見てるようなドライブ感があって、なかなか出会えないかっこ良さがあります。全然違う曲だけど、似たものとして思い浮かぶのはジャズのオスカー・ピーターソンが Walking the Line というアルバムで弾いている The Windmills of Your Mind という曲です(邦題は「風のささやき」で、ジャズ・ピアノのページ「クラシック音楽ファン向きのジャズ? ビル・エヴァンスとその他の人たち」で取り上げました)。多分、短調で素早く駈けるのに、上下する飾りを伴いながらメロディー・ラインが際立った流れを持ってるからだと思います。

 この曲が作曲されたのは1834年、ショパンが二十四歳のときであり、決して晩年ではないのですが、「遺作」という名前がついているのは死後に発表されたからです。「即興」Impromptu とあるものの、楽譜に書かれているので即興ではありません。タイトルは本人が付けたものではなく、恐らくいつかの時点での即興演奏を元にして後から作った作品なのだと思います。でもショパンは気に入ってなかったようであり、生前楽譜を処分してくれと頼んでいたという話があります。自筆譜は長らく存在していませんでしたが、なんとあのルービンシュタイン(アルトゥール)が1962年に発見したということです。

 演奏は何が良いでしょうか。個人的で余分な話ながら、子供の頃に外の施設で聞いて虜になり、その後買ってもらえたレコードがルービンシュタインのものでした。でも子供にはその名演の価値は分かりませんでした。曲の構成が異なっていたし、ペダルを使わないで音がポロポロになってたことと、中間部の静かなところでの拍を遅らせる表現に違和感があったのだと思います。折角選んでくれたのに猫に小判でした。以来、熱心なショパン・ファ ンでもなかったのでずっとこの曲の名演は探さずにいて、どれを聞いても特に印象に残らず、また気にもせずで来たところ、何十年も経って出会ってしまったのがこのタローの演奏です。フランス語で Tharaud がタローになるわけだけど、アレクサンドル・タローは1968年パリ生まれです。お母さんはバレエ・ダンサー、お父さんは歌手といういかにもな人です。国際コンクールで1番を取ったとかではないけど、ハルモニア・ムンディも目をつけるピアニストです(この盤はヴァージン)。

 叩き付けるように劇的に急いだりはしません。滑らかで流れるような抑揚に余裕の歌が聞かれ、かすかな崩れと意外性にセンスの良さを感じさせる種類の演奏です。肩の力が抜けており、この人はバラードの1番のラストでもドラマティック過ぎません。何ともフランス的なショパンであって、味わい深さではフランソワとも並ぶけれどもまた別の性質です。あのちょっと斜に構えてランボーの詩みたいにおとなしく言うことを聞かない粋さではなく、もっと素直であり、静かに内面を見つめて揺れ動くのです。半分フランス人だった傷つきやすい神童ショパンにはこういうのがいいと思います。


 体系立ててショパンを録音しているのではなく、気に入った波長の曲を集めているところがまた良いです。タイトルは Journal Intime で、フランス語で「日記」のこと。これを英語にするとパーソナル・ダイアリー、とパーソナルが付き、それを訳して「私的な日記」という邦題になっています。バッハのゴールドベルク変奏曲ラヴェルも良かったので聞いてほしいですが、あまり注目されていないながら現代のショパン弾きとしても最高の一人かと思います。このアルバムには幻想即興曲以外にマズルカ5曲、ノクターン2曲、バラード2曲に、幻想曲とラルゴ、エコセーズ、コントルダンスが入っています。

 レーベルはバージンで2009年の録音です。ピアノの音がまたいいのです。輝き過ぎず、艶の成分で潰れて変化に乏しくなったりせず、やわらかい音からパールやシルクのような粒のきれいさ、芯の通った鋭角な倍音まで捉えていて、生のピアノの雰囲気をよく出しています。ピアノの録音として最上級だと思います。



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