バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079
取り上げる CD 18枚: リヒター/グラーフ/アーノンクール/パイヤール/レオンハルト/マリナー/ゲーベル/有田/クイケン/アストン・マグナ /サヴァール/リフシッツ/コープマン/カメラータ・キケルニー/リチェルカーレ・コンソート/イル・ガルデリーノ/鈴木/カレファックス CD 評はこちら(曲の解説を飛ばします) 今日では学者の研究によって「ロ短調ミサ曲」がバッハの最後の作品ではないかと言われるようですが、少し前までは「音楽の捧げ物」と「フーガの技法」が 並んでその地位を得ていました。晩年、という意味では今でも正しいのだと思います。そこで、音楽の捧げ物のお話をする前に、それと関連性があると言われる フーガの技法についても少し触れてみます。といっても、曲の内容的なことではありません。 フーガの技法と似たところ まず、その二つはどうして関連性があると言われるのでしょうか。それはどちらも「カノンやフーガという循 環する形式を使っていて、その性質を追求するような姿勢が見られ、一つのテーマから展開して対位法的作品を作り上げているから」ということになります。何 やら難しいですが、難しいか簡単かというのは理解の問題ですから、それは理解が問われる性質を持った作品だ、ということです。それを裏付けるかのように、 考える要素を前面に出すことで成立する無調音楽の始祖、シェーンベルクやウェーベルンが興味を持ち、言及したり編曲したりしています。特に「フーガの技 法」の方など、未完成で突如途切れるオルガン演奏をかけたりすると、「これって現代音楽ですか?」と聞かれるかもしれません。ベートーヴェンの「大フー ガ」も他の楽章と違って独特のとっつき難さがありますから、この形式自体にもそうした性質が多少ともあるとは言えるでしょう。そしてバッハの場合、その フーガが可能性の限界を試されつつどこまでも展開されて行く。もし、きれいな音楽を楽しみたいという単純な感性的満足を求めて心構えなくこの曲に接する と、雲の中に消えて行く滑走路を走る気分になるかもしれません。離陸しても、水平儀とコンパス(構造的な理解)なしに視界の効かない中を飛ぶようなもので す。だからというのかどうかは分かりませんが、「クラシック音楽の最高傑作に数えられている」と言う人もいます。ニ短調の半音階の雲が見渡す限り続き、内 側で何かが飽和して、止まった夢の中を滑っているように感じるかもしれません。確かにすごい作品なのは間違いないでしょう。 案外聞きやすい それでは、その姉妹作とも目される「音楽の捧げ物」も難解なのか、というとそんなことは全くありません。 普段クラシック音楽などにはさほど関心がなく、猫の寝顔が付いた「睡眠」という CD を枕元に置いているわが家人にあるとき、「音楽の捧げ物ない? あったらちょうだい」と藪から棒に言われて一枚あげたことがありました。恩義ある尊属なので断れません。カルチャーセンターのお友達を呼んで来て、鳴り止 まぬやまび このように自慢話を競うのが好きだった人で、フーガの理論を知ってたわけじゃないと思います。あるいは、新聞か何かで入れ知恵があったのかもしれないけ ど、曲は以前から本人も知ってましたから、曲調が好きだったとは言えるのでしょう。想像するに、しんみりとしたところと、晩年の境地もかくやという独白の ような波長が、哀感を求めてやまない我らが魂のふるさとに触れたという事態に違いありません。いささか諧謔を弄したようで、後で言い直しましょう。 といった例を持ち出さずとも、「音楽の捧げ物」は誰にでも楽しめる作品です。一瞬わずかに光が差すように 長調に傾く瞬間がある以外、ほとんど全編短調で、少しもの寂しい感じがします。通常は編成も大きくなく、こぢんまりとしています。この頃のバッハの心情、 どんなものだったのでしょう。白鳥の歌として比較しても、モーツァルトの一つ抜けた軽さ、ベートーヴェンの作品135の簡潔な明るさとは少し違っているよ うで す。作曲されたのは1747年5月7日から二ヶ月の間で、亡くなる三年ほど前の作品です。バッハは49年の1月に娘が結婚するときには調子を崩しており、 5月に脳卒中で倒れ、50年の三月に目の手術に失敗した後起きられなくなって、その年の7月28日に六十五歳で亡くなっていますから、作曲できた時期とし てはもうほんとに最後の方になります。集中して短い期間に仕上げられたという意味でも、真の絶筆としてもよいでしょう。 晩年のバッハ この頃の作曲のあり方として、最後の十年、バッハはそれまでよりペースを落とし、平均律クラヴィア曲集第 2巻やゴールドベルク変奏曲、「高き天よりわれは来たれり」によるカノン風変奏曲、そして「フーガの技法」とこの「音楽の捧げ物」、ロ短調ミサ曲に絞って 仕事をしていました。外へ向かうエネルギーは落ち、より内省的になっていたと見ることもできます。糖尿病に起因する白内障と考えられていますが、六十歳頃 の1745年前後から視力が衰えて来ており、無理はできない上に苦労もあったことだろうと思います。その中でもこの「音楽の捧げ物」は成立事情が特別で、 ほとんど当時の王様から仰せつかったような仕事でした。実際は命令ではなく、自らが宿題にしたのですが、この辺の話はニュアンスに幅があります。 出会い 発端は1747年5月7日です。この日曜日の夕方に、バッハは長男のヴィルヘルム・フリーデマンと一緒に 王様の宮殿に呼ばれました。当時の王様というのは歴史上有名なフリードリヒ大王(フリードリヒ2世/第三代のプロシア王。神聖ローマ皇帝とは別の人)で、 これは次男のカール・フィリップ・エマヌエルがその宮廷でチェンバロの楽団員として仕えていた縁でした。大王は自らもフルートを吹き、作曲もするという音 楽愛好家だったのです。上の絵は「音楽の捧げもの」や大王の音楽趣味に関連して必ず出て来るものですが、アドルフ・メンツェルという後世の画家が想像で描 いた、「サンスーシ宮殿でのフルート協奏曲」というタイトルのもので、中央左で立ってフルートを吹いているのがフリードリヒ大王、その右で座ってチェンバ ロに向かっているのがカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ、右端には王のフルートの先生で演奏法の著作も残したヨハン・ヨハヒム・クヴァンツの姿も見 えます。バッハは当時はもう大変名が知れていたわけで、王としては会見を前々から熱望しており、その息子である CPE をしつこくつついていました。王三十五歳、バッハ六十二歳の出会いでした。そしてこのフリードリヒ大王の宮殿としては、門に付いた金の太陽がブランデンブルク協奏曲のジャケットにも使われる、その絵の 中のサンスーシ宮殿が有名ながら、面会の場所はそこではなく、今はないポツダム城でした。 フリードリヒ大王について そこでまず、よく名前を耳にするフリードリヒ大王がどんな性格の人物かということが気になります。彼を呼 び習わす言葉があります。「啓蒙専制君主(enlightened absolutist)」。何となく矛盾してるように感じるとすれば、フランス革命に影響を与えた啓蒙思想を民主主義のように考えてたところへ、「専制」 という言葉が挟まるからでしょう。その辺の問題はここでの話題ではないけれども、このフリードリヒ大王自身も毀誉褒貶の激しかった人物で、まずは文武で割 かれる二面性があります。恐らくは正反対の性質を持った両親の影響だと言えるのでしょう。軍人王とも呼ばれた父は彼を虐待するほど厳しく、一方母はヘンデ ルが 「水上の音楽」を捧げたイギリス王ジョージ1世(「王は君臨すれども統治せず」)の娘で、反対に芸術を愛する文化人でした。因みにこの分裂した生育環境 は、後に彼を熱愛することになるヒトラーともよく似ており、本人が生まれる前の子供が複数早死にしてるところまでそっくりです。 ゲイ・パーソンだった、とも言われます。こういうことはわざわざ取り上げる方が問題なのか考えてしまうけ れども、近頃はほぼそう信じられているようで、良いも悪いもありません。結婚は形だけで愛がなく、王は奥さんを立場上丁重に扱い、放ったらかされた奥さん の側でも王を尊敬し続けた、とされます。他の女性との間にも子供はありませんでした。若いときに一つ年上の雑用係の少年に愛着を見せたことが記録されてお り、その後暴虐な父から逃れるイギリスへの逃亡計画を練り、近衛騎兵でいくつか年上だった恋人のハンス・ヘルマン・フォン・カッテという少年と決行しま す。しかし当時王であった父親に捕まり、見せしめでハンスは彼の目の前で「ディキャピテイション」という専門語のある刑に処されます。ビヘッディングと言 えばより直接的でしょうか。斬首、ばっさり切り落とされるところを時計仕掛けのオレンジみたいに見せられたのです。見る前に気絶したそうです。 軍人として 文武の二面性の前にちょっと話が逸れました。そしてフリードリヒ大王本人に表れた、父親譲りの武人的な性 格の方ですが、これは大変有能な戦略家だったということです。敵陣の一点を集中して崩す戦術、物資供給や連絡経路を一つにまとめて防備し、分離した相手側 の戦力統一を妨げる内側からの作戦、資源に乏しい自国を有利に展開させる周辺国との連携、素早く短い攻撃などです。これを自身の従軍経験と専門的な研究に よって確立しました。そうして元々は味方だったオーストリアのハプスブルク家に対していわば真珠湾のように布告なしに侵攻し、敵からすれば無慈悲な戦いを 仕掛けたのです。また、ポーランドをロシアから分割して手に入れ、彼の国が後に二手に分かれて自国民同士で血を流し合う歴史の端緒を開きました。ホーエン ツォレルン家最長在位にして、プロシアの軍事化を推し進めて強大な国家にできた最後の王という位置付けです。 文人として 一方で母譲りの文化的な側面としては、横笛型のフルートを自ら演奏し、121曲のソナタ、4曲の協奏曲な どを作曲しました。そのギャラント様式とも言われる大王のフルート曲、聞いてみると、前置きと飾りの多いヴィヴァルディかテレマンか、あるいはもう少し後 の様式寄りでちょっとハイドン風かといった、憂いのない(サンスーシな!)印象です。当時主流だったマキャベリの君主論に反対する立場に立った、哲学の著 作もあります。大のフランス党だったので、書物は校正者を付けて全てフランス語で著しました。建築にも興味があって多くの建物を建て、美術家のパトロンに もなりました。国内政治に関しても手腕を発揮し、貴族以外でも裁判官や上級官僚になれるようにする司法改革を行い、報道の自由を与え、また、移民政策を押 し進めて様々な国籍・宗教の人々を迎え入れ、沼地などを開墾してジャガイモ栽培を奨励しました。それは痩せた土地で飢えないようにする食料政策であり、カ ブも奨励したけど、かかしのカブ王子の方は忘れられがちで、専ら「ポテト・キング」と言われることとなります。したがってドイツではどこへ行っても出てく る様々なジャガイモ料理は、大王の功績だと言えるのです。 嫌われるところ、愛されるところ 人物評価において肯定的に見られるのは、主に後者の文人としての側面のようですが、軍人としても、軍内部 での上下の分け隔てのない態度で人気があったという、天下を取る前の秀吉みたいな話は聞かれます。反対に騙し討ちのような戦術や侵略的な姿勢は批判の対象 であり、プロシア側から捉えたときのみ偉大な功績ということになるでしょう。文化面でも、どこかの大統領のように、たびたび女性蔑視発言が聞かれたことは 否定的に見られます。 好印象なのは、動物好きで獣医学校を創設したりしたこと。綱吉みたいだけど、貴族であるにもかかわらず、 貴族の遊びである残酷な狩りを批判したという話があります。特に犬と馬を愛し、馬には拍車を使いたがらなかったそうです。植物も愛好して保護しようとしま した。そういう点からかどうか、晩年は国民から「老フリッツ」と呼ばれて親しまれていました。このように歴史上の実在人物は、その光と影を分かちがたいも ののようです。 曲の始まり さて、話を戻して1747年5月7日です。この日、馬車で100キロ以上の道のりを経てポツダムの王宮に 着いたバッハですが、王は待ち構えており、一行が控えの間に到着したというメモを係の者が持って来ると飛んで行って大歓迎し、自らエスコートしました。王 宮では夕方になると毎日のように私的なコンサートを催していましたから、周囲に関係者は何人もいました。そしてそこで彼はバッハに宝物自慢をします。数年 前に発明されたばかりのフォルテピアノです。王様だから最新の実験的な楽器を何台か持ってるわけで(別々の部屋に7台あったようで、王の所有は全部で15 台ともされます)、バッハに触らせて反応を見たかったのでしょう。オルガンでその名を聞いたことがあるかもしれませんが、ジルバーマン製です。 蝶のように次々と楽器を渡り歩くたびにバッハは演奏を披露することになるのですが、そこで王はピアノを弾き、複雑なあるテーマを示して、それを即興で フーガにしてみ るように頼みました。それがこの曲が世に出ることになった有名なきっかけです。バッハは即興の名人で聞こえてましたから、大王としては興味津々で前々から その企画を考えてたのかもしれません。与えられた課題をバッハは王の目の前で3声のフーガとしてフォルテピアノで見事にやって見せます。このとき、特に形 式を指定されていたという言及はないようです。王はそれに喜んで満足の意を表明し、その場に居合わせた楽団員などは驚きと喝采をもって迎えました。一方で バッハの方もその王様のテーマを大変美しいと褒め、書き留めて適切なフーガにした後、銅板(版)に彫らせてもらうことに決めました。 翌日の月曜、バッハは王の希望もあって教会でオルガンを弾きましたが、夕方になって王からさらに6声の フーガが聞きたいと言われます。このときも特に、最初に王が示したテーマでやるようにという指示があったとは書かれていません。バッハは自分で選んだテー マを自由にアレンジして6声のフーガを上手にこなしました。そしてこれも好評でした。この件については、王が自分のテーマにこだわり、難しいのでバッハが 辞退したという解釈もありますが、この二日間の演奏に関して、バッハが何か失敗したとか、王の申し出を断ったというような記述は第一次的な資料の中には見 当たりません。しかしバッハはその場で、より完全な曲とするため、王のテーマによる6声のフーガを「作曲して後で送らせていただきます」と申し出たようで す。自分で宿題にしようと決めてそう言ったのだと、その後の献呈文でも述べています。文面の性質上、へりくだってそのときの演奏が「準備不足だった」とも 述べてはいますが。そもそもが、その場で与えられたテーマによる3パートの即興だけで、十分すごくないでしょうか。ジャズのやり手のインプロヴィゼーショ ン以上かもしれません。ジャズだって慣れ親しんだ言い回し(リック)をいくつか前もって作っておき、適当につなげる人もいるぐらいです。そして当日期待に 応えられなかったからか、サービスや自己満足としてだったのかの解釈はさておき、そのようにして後日作って送ったのが「音楽の捧げ物」というわけです。 王はやってない? フリードリヒ大王がバッハに最初に示したテーマですが、これは短調で上がって行った後、半音 階で降りて来 るもので、何人かの学者たちはそれを大王作だとは考えたがらず、フルートの先生だったクヴァンツに作らせたのだろう、とか、バッハの息子のカール・フィ リップ・エマヌエルに頼んだのだろう、などと言います。それを思いつけるほどの作曲能力はなかったというわけです。また、ある研究者はヘンデルのイ短調の フーガ(HWV609/初出版は1735年)に似てると主張しました。ヘンデルのその曲は聞けば大変複雑であり、明るく分かりやすい作曲家のイメージとは そぐわない、ヘンデルってやっぱりす ごい才能隠してたんだな、という感じの作品です。確かに似ていて、大王のテーマからいくつか音を外して展開させたか、とも聞こえます。オルガンかチェンバ ロで弾かれるものです。結果的にバッハの息子がそのヘンデルのを参考にしたとか、バッハ本人が作曲時にたたき台にしたとか、想像たくましくされることとな ります。 辛口の見方 実は息子説を唱えたのはシェーンベルクです。彼はちょっと意地悪な見方をしていて、フリードリヒ大王が バッハを辱めるための罠として、わざわざ対位法展開が難しい半音階の下降旋律を、自分の使用人であるカール・フィリップ・エマヌエルに前もって用意させた に違いない、というのです。十二音技法の有名な作曲家だけに、この意見は明らかに影響力がありました。恥をかかせようと思った、という発想がスパイス効い てますね。 こういうネガティブな見方は、上で見たフリードリヒ大王の二つに割れる人物評価のうち、悪い方に基づいた ものなのでしょう。わざわざ彼への二つの評価軸に触れたのは、この出会いのあり方を解釈する際の二つの態度に呼応するからなのです。大王については、19 世紀にはその功績を褒める論調ばかりでした。ナポレオンも尊敬して戦術を学び、墓参りをしたり、飾り戸棚に小さな像を置いたりしてました。その後ヒトラー もゲルマンの英雄として崇拝したけれども、ヒトラーはアントン・グラフによる有名なフリードリヒの肖像画を所有し、ずっと身近に飾っていたぐらいで、最後 の12日間を描いた映画でもその絵が出て来ます。王が人間不信に陥っていた晩年の姿であり、ちょっと疑いを向けるような、どこか悲しい目をしたものです。 そしてこのホロコーストの総統の道連れとなり、戦後の大王の評価は逆転、悪漢になり下がったのです。二十一世紀になってまた、少し形勢が変わり始めたとい うことですが。 FrederickU, "The Old Fritz", Anton Graff 1781 それとは別に、フリードリヒとバッハの音楽の好みの違い、依って立つ思想や信仰の違いから二人の出会いを争いごとのように見る見方もあります。具体的に 名前を挙げるつもりもないし、私たちに共通した心の性向だろうけれども、幾多の論者がそうした不和説をとります。その際、それぞれの言動や手紙などを綿密 に調べ上げて仮説を立てる人もいます。 あるいはもっと大きく、二つの時代様式の衝突だとする見方もあります。確かにバッハは、フリードリヒ大王 が作る音楽がどういうものかは知っていながら、その上で敢えて媚びることなく自身の、全く波長の異なる旧式の音楽で応えたことになるのかもしれません。し かし、王の得意なフルートの活躍するトリオ・ソナタにおいては一部、相手側の多感様式(ギャラント様式と近い関係にある)を取り入れてみせているという意 見もあります。仮に様式上は対立だと見るにしても、だからといってお互いに反目し合っていたとまで言えるんでしょうか。似た者同士がぶつかる ケースだってあります。 いずれにしても、そんな具合に否定的な見方を取ろうという論者は、大王に招かれたバッハの側も人格者とは 見ないようで、6声の即興を挑まれ、そのテーマでは果たせなかったバッハはそれを悔しく思い、後で楽譜にして提出した「音楽の捧げ物」では、大王が得意と するフルートのパートをわざと難しくして反撃した、あるいは解けない謎(後で触れます)を仕掛けた、と考えたりもするようです。ひょっとすると、初めに結 論ありき、の論議なのでしょうか。晩年のバッハの性格について具体的には知りませんが、考古学で新奇なアイディアを唱える者が後を絶たないのは、それで定 説が覆って自分の側に来れば名誉だからでしょう。歴史は何度でも再創造できます。今後もシェーンベルクに倣って、まだまだ色々な説が発掘されて来るだろう と思います。 穏やかな見方 では、それとは真逆の、それまでの伝統的な論調はどこから来たのでしょう。大王は有名なカントル(ライプ ツィヒのトーマス教会の音楽監督)であるバッハを尊敬しており、会ってみたい、できればその能力を確かめてみたい、と好奇心満々に見ていたに違いないと捉 えられて来ました。バッハの方も人気のある母国の王にうやうやしく敬意を払って近づいたはずだ、と考えられていたわけです。こうした見方を喚起して来た大 元の情報源は、次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハとバッハの弟子で養子でもあったヨハン・フリードリヒ・アグリコーラによる「故人略 伝」(Bach’s Nekrolog [obituary], Carl Philipp Emanuel Bach and Johann Friedrich Agricola, 1754)や、同時代の音楽学者でバッハの最初の伝記作家ともなったヨハン・ニコラウス・フォルケルの伝記(Johann Sebastian Bach: His Life, Art, and Work, Johann Nikolaus Forkel, 1802)、バッハが大王に送った楽譜に添えられた献呈文(Dedication of the Musical Offering, J.S.Bach July 7, 1747)、それに5月11日付の当時のシュピナーシェ新聞の記事(Spenersche Zeitung, May 11, 1747)などです。相互に多少矛盾する点がありますが、上の描写ではそれらいくつかを合成しました。フォルケルの方は当日同行してその場にいたフリーデ マン・バッハから直接聞いており、少し盛ってるかもしれないと言われるものの、その後の多くの仮説の根拠となっています(彼の説によると、まずバッハの方 が王に即興のテーマを求め、王はそれが見事に果たされるのを見て、恐らくはそういうことがどこまで出来るものか見たかったので、6声で聞いてみたいという 望みを表明したのだろうということです。それは同じ日 [7日] の出来事とされており、バッハは王のテーマの全ての部分が6声に適するわけではなかったので、自分のテーマで演奏したのだと言っています。これが後の6声 即興の失敗説へと膨らんで行きました)。 二人の出会いの様子を伝えるこれら最初の資料はどれも、バッハと王の関係を好意的で穏やかな空気が流れて いたものとして描いています。でもこうしたイノセントな見方、政府の公式見解を信じる人、みたいに少し足りない感じがするのでしょうか。 「フレデリック・ザ・グレイト」と呼ばれる大王ことフリードリヒ2世は、バッハが訪れたそのとき、オースト リア継承戦争の一部である第一次、及び第二次シレジア(シュレージエン:チェコとポーランドの間にある土地)戦争に勝利し、石炭や鉄といった鉱物資源が豊 富なその地の領有を世界に認めさせた頃であり、まさに名声の絶頂。泥沼化した七年戦争が始まる前の平和な日々を送っていました。頑固な人間嫌いと評される までにはまだまだ時間的猶予があります。体調は常に万全ではなかったようだけど、六日前には有名な王宮、念願のサンスーシの完成をお祝いする饗宴を催した ばかりでした。 バッハとフリードリヒ大王、この二日間の心中を推察させるような直接の記録は残っておらず、本人たちが語 ることは永遠にありません。二人の出会いと「音楽の捧げ物」の背景にあった心理をどう読み解くか、結局それは論者の心の鏡なのだろうと思います。 楽曲構造と演奏評について 曲の構造についてですが、それは音楽学者が好んでテーマとする面白いもので、本来ならこの曲の説明として そこを真っ先にやるべきなのだと思います。ただ、そうする前には、リチェルカーレやカノンとは何ぞやとか、6パートの音楽がどういう風にして一人でも演奏 可能になるのかということなども、一般向けには説明があった方がいいかもしれません。 〜6声を二本の手でどうやって弾く? そもそも二本しか手がないのに多声部(多旋律/複数パート)の曲を一人でピアノで弾けるわけについては、これは電話回線などで、多くの人の会話を一本のワイヤー で一度に運ぶための方法である「時分割多重化」(TDM)というデジタル技術にちょっと似ています。会話者 A さん、B さん、C さんなど、重ねたい人数だけの会話を短く切って順番に並べて送り、人数分が終わったらまた A さん、B さん、C さん... と頭に戻って次の短く区切られた部分を送ります。受け手側ではそれを A さんの分だけ、B さんの分だけまとめて会話の相手に配るのです。他の会話者が間に割り込んだ分だけ情報が短く歯抜けになりますが、聞いている人の感覚はその間を自分で補完 しますからつながって聞こえます。これは有名な「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」などとも同じで、一人なのにまるで二人で弾いてるみた いに聞こえた経験のある人なら分かるかもしれません。あれも各声部の旋律を時間的にばらばらに分割した上で、交互に混ぜ込みながら順番に弾く、という方法 で実現しているのです。もちろん鍵盤楽器の場合、指は十本あるので、同時に和音として別の声部を鳴らしている部分も多いわけですが、こういう複雑な手順、 デジタル技術なら高精度の水晶発振器がロックをかけてきれいに振り分けてくれるかもしれないけど、音楽で5声、6声となって来ると頭がパンクするような恐 ろしく高度な技です。自分で考えたテーマでやるにせよ、即興ということにでもなれば、瞬間的に各パートを作曲して、同時にばらばらにして混ぜています。どんな天才か分かろうというものです。 〜リチェルカーレの仕掛け 「リチェルカーレ」というのは、バッハがフリードリヒ大王に献呈したこの「音楽の捧げもの」に付けたサブタ イトルであると同時に、王のテーマに応えて作ったその中の二つの楽曲の名前でもあります。バッハはそういう名前の曲をこの二曲しか作っていませんが、サブ タイトルの方は「王の命による主題と、それをカノンの技法によって解決したその他の楽曲」というものであり、ラテン語で Regis Iussu Cantio Et Reliqua Canonica Arte Resoluta と記されました。その頭文字を取ると RICERCAR、リチェルカーレになるという、凝った仕掛けです。この語は、元々は対位法で書かれた多声部の模倣的な楽曲に対する古い呼び名であり、6声のリチェルカーレは初期のモテットの様式で作られているし、カノンなども含め て、バッハはフーガの前身のような、あるいはそれと同類のような意味で使っているようです。イタリア語の「探求」のニュアンスも込められているのかもしれ ません。 〜パズルの種類(平行・蟹・反行・無限・謎・曲順・楽器) 「カノン」というのは輪唱のような構造を持っていて、(似た形式のフーガとは違って)主旋律と厳格に同じ形 をとる声部が繰り返され、積み重なって行く楽曲です。しかし同じ形といっても、そのまま元の姿で行くもの(「平行カノン」)だけでなく、加える方を後ろか ら楽譜を逆読みにする 「逆行(蟹形)カノン」や、上下がひっくり返された形で重ねる「反行カノン」、終わりなくどんどん追いかける「無限カノン」など、種類があります。そして それに加えて「謎カノン」という形もここでは出て来ます。何かというと、例えば四人用なのに二人分しか楽譜がない、といったものです。じゃあどうするか。 ヒントが記号で書かれてる場合もあるものの、楽譜がないパートは、開始点や音の高さ、和音構成など、奏者が謎を解くように考えて演奏するのです。これは議 論を呼びます。また、曲同士の順番が決まっておらず(出版されている特定の楽譜に従えば固定されたものとなります)、指定されていない担当楽器を何にする かというパズルもあり、この「音楽の捧げ物」全体が謎解きの判じもののような性質を持っているのです。演奏者によっては同じ曲とは思えない仕上がりになっ ていることもあり、具体的に個々の楽章というか、曲ごとに、そのあり方と根拠を見て行く必要があるでしょう。 しかしそれらの話は分かりやすく説明してくれるサイトもあり、ブックレットも含めて多くの解説でまず語ら れることです。それに基本的に、いい加減なようだけど聞くとき自分はあまり気にしてないのですね。したがってこのページでは能力も超えるし、思い切って割 愛します。残った部分だけ、つまりハード面には触れずに、聞いた印象のみを記すことにしようと思うのです。それは評としては屋台骨のない家のスケッチ、乗 り心地で評価するス ポーツカーのようなものであり、あるいはまた飛行機の喩えに戻るならば、エンジン推力や旋回性能、スピードブレーキの効きといったものを測定装置なしに感 覚で試験するような事態でしょう。前回のオルガン曲に引き続き、またまた言い訳になってしまいました。 〜曲目 以下に各曲のタイトルのみ記します。曲順はベーレンライター社の新バッハ全集によるもので、他にも色々な順序で演奏されることがあります: 3声のリチェルカーレ(Ricercare a 3) 王の主題による無限カノン(Cannons diversi super Thema Regium) 2声の蟹形カノン(Canon a 2 [crab canon]) 2つのヴァイオリンによる2声の同度のカノン(Canon a 2 Violin[:/i] in Unisono) 2声の反行カノン(Canon a 2 per motum contrairum) 2声の反行の拡大によるカノン(Canon a 2 per augmentationem, contrario motu) 2声の螺旋カノン(Canon a 2 [circularis] per tonos) 5度のカノン風フーガ(Fuga canonica in Epidiapante) 6声のリチェルカーレ(Ricercare a 6) 2声の「求めよ、さらば与えられん」による謎カノン(Canon a 2 “Quaerendo invenietis”) 4声の謎カノン(Canon a 4 “Quaerendo invenietis”) フルート、ヴァイオリン、通奏低音のためのトリオ・ソナタ(A Sonata sopr’il Soggetto Reale) ラルゴ(Largo) アレグロ(Allegro) アンダンテ(Andante) アレグロ(Allegro) 無限カノン(Canon perpetuus) 〜螺旋カノンに隠された真理? 中ほどの「螺旋カノン」というのは無限カノンの一種で、DNA の螺旋のように、繰り返すごとに知らないうちに一度ずつ音程が上がって行くものです。王の栄光が増しますように、という意味をバッハは込めていますが、ダ グラス・ホフスタッターの「ゲーデル、エッシャー、バッハ」という、ピューリッツァー賞を取って一時期大変話題になった本では、自己言及のパラドックスか ら説き起こした上で、数学の論理、記号化の過程、 あるいは認識そのものが、生物組織に共通する隠れた構造から機能が立ち現れる時特有の動きを持っているとし、それをバッハのこの螺旋カノンに見立てて取り 上げたようです。そうなって来ると、人工知能が言葉の領域を超えた生体発現の力を纏うことは決してないことを、当の数学や論理学の言葉で表すとどうなるの か、天才バッハは音楽の形を借りて予言していた、のでしょうか。仮にそれが無意識の作業だったにしても、そんな情報がコード化されているのかもしれませ ん! ただしその本によると、螺旋上昇しても1オクターブ上には出ずに元に戻って来るらしいのですが。 まあ、冗談はさておいて、理解というものは専門知識がないと難しい場合もあります。頭から金たわし状の吹き出しが出ていても、とりあえず分かったと言っ ておくのも一つの誘惑たり得る、かもしれません。しかしバッハの専門性の場合、6つのパートを分解して織り込んでいる6声のリチェルカーレなど、作品とし て高度に知的な活動の産物であるにもかかわらず、聞いているだけでも独特の情緒があります。同じ主題を繰り返すのはフリードリヒの注文のせいに違いないと しても、それが却って、何ともひたむきな感じに響いて来るのです。大王にしてみれば自分の好みの様式ではなかったのでしょうが、作曲する人間としては、そ の価値はより分かったに違いありません。 「音楽の捧げもの」、バッハ晩年の到達点であり、少し重くはあるけれど枯れた諦観のようなものを感じさせ、知らずしらずのうちに惹き込まれる大変魅力的な 曲です。極めて個人的な意見だし色々な見方があった方が面白いですが、聞いた限りにおいてはこの作品、他人を貶める意図を隠しているようには全く感じま せん。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Karl Richter (hc/cond.) ♥ Aurèle Nicolet (fl) Otto Büchner (vn) Kurt Guntner (vn) Siegfried Meinecke (vc) Fritz Kiskalt (vc) Hedwig Bilgram (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 カール・リヒター(チェンバロ/指揮)♥ オーレル・ニコレ(フルート)/ オットー・ビュヒナー(ヴァイオリン) クルト・グントナー(ヴァイオリン)/ ジークフリート・マイネッケ(チェロ) フリッツ・キスカルト(チェロ)/ ヘドヴィッヒ・ビルグラム(チェンバロ) 録音年代順に行きますが、まず長らく定番と言われて来たリヒター盤からです。古くからのファンは大抵これを最初に買っていたりするんじゃないでしょう か。リヒターについては多くの方が神様扱いするところに反発しているわけでは決してないけれども、今まであまり♡を付けて来なかったように思います。でも これはよ く聞いて来ました。良い演奏だと思います。上で家人に CD をあげたと申したのはこの盤で、あげちゃうようなものという意味ではなく、反対にこんな名盤、手元に置いとかなくていいのかな、とちょっと悩んだのを覚え ています。 リヒターのチェンバロは飾らず、重々しくもなく、もちろん後のピリオド奏法ブーム以降の「ため」が聞かれるような種類でもなく、真っ直ぐありのままとい う感じで好感が持てます。テンポは特に遅い方ではありません。 そしてこの盤ではフルートにニコレが加わっているのがまた大変魅力的です。オーレル・ニコレは2016年に亡くなってしまいましたが、スイスの名フ ルーティストで、フルート・ソナタなんか、未だに彼のが一番かと思ったりもする大のお気に入りです。同時代のランパルなどとは違って飾らず、明るくもな いですが、澄んだ音でどこか凛としたところのある、潤いと落ち着きに満ちた演奏に特徴がありました。この時代だからビブラートはかけますが、その塩梅もや り 過ぎなくて良かったです。この「音楽の捧げ物」では、フルートが活躍するのはソナタであって曲集全体ではないものの、特にラルゴやアンダンテでゆったりめ のテンポ設定になっており、名演奏を堪能できます。 ♡♡にしなかったのはちょっとしたことで、主に弦のパートがドイツ風に力強く、ぐいっと押すような追い込んだエネルギー感を聞かせるところが、全く個人 的にですが、好みの方向とは少し違ったというだけです。もう少し隙間のある演奏の方が好きです。下で述べますが、録音の特性も関係があるでしょう。続くと 息が詰まるとは言いませんが、どこか真剣勝負という感じもあって、あるいはこれこそがバッハと感じる方も多いかもしれません。そういうところではテンポも 決して遅くはありません。 1963年アルヒーフの録音は今でも十分に現役です。多少当時のドイツ・グラモフォン(アルヒーフはその一部門ですが)にありがちだった、高い方の倍音 が抑えられ気味で、中域に幾分艶が乗って張ったところのあるバランスですが、きつくはなく、チェンバロの音もやかましくならずに落ち着いて聞けます。上の ジャケットの写真は CD ではなく、オリジナルの LP のものです。 The Claves Bach Soloists Peter-Lukas Graf (fl) ♥ Hansheinz Schneeberger (vn) Ilse Mathieu (vn) Walter Kagi (va) Rolf Looser (vc) Christine Daxelhofer (hc) Jörg Ewald Dähler (hc) ペーター=ルーカス・グラーフ(フルート)♥ ハンスハインツ・シュネーベルガー(ヴァイオリン) イルゼ・マティウ(ヴァイオリン)/ ワルター・ケーギ(ヴィオラ) ロルフ・ローザー(チェロ)/ クリスティーネ・ダクセルホーファー(チェンバロ) イェルク・エーヴァルト・デーラー(チェンバロ) 次はニコレと同じ時代に活躍したもう一人のスイスのフルートの名手による演奏です。ペーター=ルーカス・グラーフはニコレより三つ下の 1929年生まれで、ご存命ですが、さすがにもう新しい録音が出て来るような人でもないでしょう。スイスのクラーヴェスという、さほど大きくはないレーベ ルから出ていたにもかかわらず、日本ではドイツ・グラモフォンと同じ発売元ということもあり、一時期多くの演奏が聞けました。中でも最初の録音の方のモー ツァルト のフルート四重奏曲は K.285 のアダージョが何とも清らかで、色々な流儀の演奏が出た中でも今もこれかなと思ってるぐらいです。ニコレよりもっとビブラートが少なく聞こえ、すっきりと 情緒過多にならない透明な運びだったからです。 リヒター盤に多少あったのとは違い、押し上げるような力を感じさせる演奏ではありません。ドイツではなくスイス流儀だと言うと単純過ぎだけど、ちょっと そんなことも思いました。力が抜けて透明で、数曲速めのテンポ設定の曲はあるものの、残りはゆったりな展開であり、この時代ですから拍を大きくずらすよう な古楽奏法的な息遣いはありません。素直で真っ直ぐです。 ゆったりなチェンバロの入りは装飾がなく、癖のない展開で、今の演奏を聴き慣れた人は逆に驚くでしょうか。二曲目のカノンに入るとテンポが上がり、弦楽 による、これも癖のないさらっとした展開となります。しかしフーガの前の曲(5度のカノン)になると今度はぐっとテンポを落とします。フーガはチェンバロ にフルートが 絡む展開です。6声のリチェルカーレはチェンバロのみによるものですが、大変ゆったりした速度でじっくり進めて行き、聞き方によっては平坦に感じられるか もしれま せん。続くカノンの弦のパートも同様で、フラットで大変遅く感じます。 トリオ・ソナタでは期待していたフルートがまとめて聞けます。グラーフらしい、飾らない真っ直ぐさながらデリケートな抑揚のついたもので、透明感があ り、 力が抜けています。パイヤール盤のラリューも良いですが、モダン・フルートでの吹き方としてはこの曲で最も納得できるもので、静かで清潔感もあります。途 中でスピードアップする一方、遅いところではかなり遅い展開です。♡はこのフルートに付けました。一つ減らしたのは、6声のリチェルカーレのチェンバロや 4声のカノンの弦楽に代表されるような フラットでスローな展開があまり自分の好みではなかったからです。落ち着いてじっくり聞きたい人向きでしょう。 1968年のクラーヴェス(オリックス・レコーディングから出ている盤もあります)のコンディションは大変良いです。60年代ということで心配するよう な 要素は何もなく、残響がありながら透明で、線が細くもなり過ぎず、瑞々しいのです。何より楽器一つひとつの音がきれいに聞こえる録音です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Nikolaus Harnoncourt (vc/gamb) Leopold Stastny (fl-traverso) Alice Harnoncourt (vn) Walter Pfeiffer (vn) Kurt Theiner (va) Herbert Tachezi (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ニコラウス・アーノンクール(チェロ/ヴィオラ・ダ・ガンバ) レオポルト・シュタストニー(フラウト・トラヴェルソ) アリス・アーノンクール(ヴァイオリン)/ ワルター・プファイファー(ヴァイオリン) クルト・タイナー(ヴィオラ)/ ヘルベルト・タヘッツィ(チェンバロ) アーノンクールは古楽ムーブメントの旗手です。指揮者として大変好きで、亡くなってしまってヤンソンスと並んで残念だったけれど、モーツァルトとバロッ ク時代のものに関してはあまり取り上げて来なかったかもしれません。ピリオド奏法として編み出した、フレージングの独特の堅い癖が自分にはあまり馴染まな かったからです。しかし学術的で戦闘モードの展開には彼独自の深い解釈があったのでしょう。この「音楽の捧げ物」では鋭すぎるということはありません。 最初はあまり癖がないかと思えるチェンバロで始まります。特にピリオド奏法のアクセントを強くは感じさせないもので、ややスタッカート寄りでフレーズを 区切って間を空けるところがあるので、くっきりはしてるかなという印象です。しかしだんだんその特徴は認識されて来ます。チェンバロに限らないけれども、 かちっとしていて、一つずつフレーズを確かめるように進めて行く、やや重くて生真面目ともとれるところがあるように感じ出すのです。小節の区切りで 次の拍を遅らせる間もしっかりとあります。しかし全体としては統一感があり、最初から本質的にはそうした波長だったのでしょう。それに対してフルートは比 較的素直な拍 節でしょうか。テンポは平均すればややゆったりめから、普通というところです。一方で遅いところでは大変スローになるので、結構伸び縮みするとも言えま す。丁 寧で格調高い演奏であり、リヒターとは違った意味でこれこそがバッハ、と感じられる方もいらっしゃるでしょう。 実はこの盤の前に1955年のフィリップス録音の、最初の盤が存在します。そちらの方が区切られ感は少ないリズムで、次の音へとテヌート寄りの受け渡し をする チェンバロであり、しっかりスローダウンするところがあって重くはあるものの、古楽拍節のアクセントは少なく感じられます。フルートも弦楽も同様で、ゆっ た り滑らかに、スラーがかかっているかのようです。テンポは総じてゆっくりであり、つまるところ、ピリオド奏法前のマナーなのです。アーノンクールは二十六 歳。奥さんのアリスと一緒に列車の窓から青年の顔で覗いている写真があった頃で、これから冒険の旅に乗り出して行くところなのでしょう。顔ぶれはルドル フ・バウムガルトナーがヴァイオリンとして加わり、フルートがルートヴィヒ・フォン・プフェルツマン、チェンバロがイゾルデ・アールグリムとなっていて、 その他の顔ぶれは同じです。最近リマスターされた形でも出て来ています。音も残響は少なめながら大変見通しが良く、コンディションはなかなか良好です。で もモノ ラルではありますから、あるいはこの人たちに興味のある人向け、でしょうか。 写真を載せた新盤の方は、1970年録音のテレフンケン原盤テルデック(ダス・アルテ・ヴェルク)です。派手さはないけれども旧盤とは違ってデッドな方 ではなく、ステレオです。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Jean-François Paillard L’Orchestre de Chambre Jean-François Paillard ♥♥ Maxine Larrieu (fl) Gérard Jarry (vn) Brigitte Angelis (vn) Alain Mehye (va) Raymond Glatard (va) Alain Courmont (vc) Paul Gabard (vc) Laure Morabito (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ジャン=フランソワ・パイヤール / パイヤール室内管弦楽団 ♥♥ マクサンス・ラリュー(フルート)/ ジェラール・ジャリ(ヴァイオリン) ブリジット・アンジェラス(ヴァイオリン)/ アラン・メイエ(ヴィオラ) レイモン・グラタール(ヴィオラ)/ アラン・クールモン(チェロ) ポール・ガバール(チェロ)/ ロール・モラビト(チェンバロ) モダン楽器の室内オーケストラで、70年代から80年代にかけて活躍して洗練された音を聞かせていた演奏はと言えば、このフランスのパイヤールとイギリ スのマリナーが双璧という感じでしょうか。バッハのブランデンブルク協奏曲やヘンデルの「水上の音楽」など、ポピュラーな曲で常に甲乙つけがたい演奏を聞 かせ、ここでも取り上げて来ました。同じ洗練されているといっても、マリナーが幾分軽快なテンポをとって抑えた上品な抑揚を付けていたのに対し、アンセル メと同様に数学を学んだというパイヤールの方はむしろもう少しゆったりで、正確というよりも曲線的な歌をうたうという印象です。ジャン=フランソワ・パイヤールは1928年生まれで、2013年に故人となって います。 そしてこのパイヤールの「音楽の捧げ物」、リヒターとはまた違った方向で日本では一つの定番となっていた盤です。「日本では」というのは、出しているの がデンオン(現デノン)だからで、お国ものとでもいうか、必然的に音楽雑誌等で高く評価されたりしていたのです。そういうものに疎い自分でも、何回目かの リバイバルでゴールド・メダルみたいな扱いだった記憶もかすかにあります。しかもこれ、1972年に鳴り物入りで始まった PCM 録音(パルス・コード・モジュレーション、いわゆるデジタル録音を最初はそんな風に呼んでました)としての、その二年後からの欧州での企画第1号でもあり ました。 それじゃあ今となっては大して興味を引かない演奏か、というとそれが全くその反対で、ある意味現在でも最も魅力的な一枚と言っていいんじゃないかと思い ます。ただリラックスして聞きたいということだと、案外これをかけたくなります。 室内オーケストラということは、人数が通常の演奏より多めになります(上のクレジットより実際は多いです)。人数が多いということは、一人ひとりの癖が 相殺し合ってスムーズだということです。滑らかにつないで、ひたすら美しくレガートで奏でる「音楽の捧げ物」です。流麗なラリューのフルートが聞け、打ち 寄せる波のようです。優雅で角の取れた運びは、どこかの商業施設でかかっていても不思議ではありません。それは安っぽいという意味ではなくて、ピリオド楽 器による考証的な匂いがないということです。古楽の弓遣いやアクセントはなく、ビブラートは使います。この時代に終わってしまったスタイルの最後の輝きと いうか、これほど耳に心地の良い演奏は滅多にないでしょう。しかしそれもフランスの人間として、ただオランダやオーストリー、イギリスなど、外の世界で起 きていたムーブメントの無粋なアクセントには与しないというだけであって、グループの発足時の目的からするなら、彼らなりの流儀で古楽を発掘して世に出す 使命は担っていたと言う方が公平かもしれません。部屋にごみ箱を置かない文化としては、楽曲はまず美しくなければいけないのでしょう。 テンポ設定においては比較的軽快な曲と、大変ゆったり歌う曲とがあります。まずフルートによる王のテーマでリチェルカーレを始めますが、続く王のテーマ によるカノンの後にはまた王のために作られた聞きやすいトリオ・ソナタを持って来て、それからやっと学究的姿勢と謎に満ちたカノン群を取り上げ、最後は6 声のリチェルカーレで締めるという構成です。 PCM 初ヨーロッパものと言いました。その企画も最初は少しオン・マイクの輪郭強調の傾向があったと思います。それがこの欧州収録では現地での音決めとなり、名 人ミシェル・ガルサンがプロデュースすることとなりました。もう完全にエラートの音です。その後もこのシリーズ、技術者を世界で活躍する人に任せる傾向が 定着し、音場型の欧州スタンダードの録音が定番化して行ったようです。このパイヤール盤については、リマスターもされているのだろうけどデジタルの癖など 感じられない、潤いがあって見事に美しい音です。1974年の DENON です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Barthold Kuijken (fl-traverso) Sigisward Kuijken (vn) Wieland Kuijken (vc) Robert Kohnen (hc) Gustav Leonhardt (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 バルトルト・クイケン(フルート・トラヴェルソ) ジキスワルト・クイケン(ヴァイオリン)/ ヴィーラント・クイケン(チェロ) ロベール・コーネン(チェンバロ)/ グスタフ・レオンハルト(チェンバロ) クイケン兄弟たちの盤は後で取り上げますが、これはそれにレオンハルトが加わっていて、「レオンハルト盤」のように思われているものです。こういう古楽 のマナーの演奏としてはアーノンクール盤と並んで比較的早い時期の録音で、上でリヒターとパイヤールの盤が日本で定番化したと申しましたが、これもリヒ ターとレオンハルトの盤が、日本では一つの権威のように扱われて来た、と言えるでしょう。レオンハルトという人も、常に高く評価する一定のファンが存在す る分野の一人です。1928年生まれで2012年に亡くなったオランダの古楽鍵盤奏者です。 メンバーのほとんどが同じということで、表現はクイケン盤に近いところもありますが、全体により古楽のアクセントが顕著です。しかしそれならばエキセン トリックかというと、そういうわけでもなく、今聞けば自然に聞こえる範囲のものです。楽器編成はレオンハルトの分だけ、クイケン盤と比べてチェンバロが一 台増えています。そのレオンハルトのチェンバロは、フレーズの区切りで一瞬立ち止まるというか、多少途切らすように間を空ける節のあるもので、後のクイケ ン盤で主役に浮上するロベール・コーネンの運びよりも初期のピリオド奏法の癖がはっきりしています。この人は時期によって多少スタイルが異なるところがあ るような 気がしますが、ここでのこの呼吸は他の楽器にも波及していますから、そういう指示の下に行われているのだろうと想像します。チェンバロの音としては、二つ の謎カノンあたりでは多少遅くて角があるような印象だったり、後半で音が重なり、個人的にはやや聞き疲れする感じもしましたが、これは解釈で色々あるパー トでもあり、即興的に展開する他の部分なども含めて、レオンハルトの見識が生きているところなのだろうと思いま す。トータルではかっちりとして力の 入った、大変真面目なパフォーマンスのように感じました。こうした演奏マナーを広めて行く使命感もあったのかもしれません。 1974年録音のセオン原盤で、レーベルは現在ソニー・クラシカルとなっています。チェンバロは前述の通りで多少が しっとした音の重なりが聞こえますが、フラウト・トラヴェルソや弦は、くすみが味わいとなるようなシックな音を聞かせます。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Neville Marriner The Academy of St. Martin-in-the-Fields ♥ William Bennett (fl) Iona Brown (vn) Stephen Shingles (va) Denis Vigay (vc) Nicholas Kraemer (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ネヴィル・マリナー / アカデミー室内管弦楽団 ♥ ウィリアム・ベネット(フルート)/ アイオナ・ブラウン(ヴァイオリン) スティーヴン・シングルス(ヴィオラ)/ デニス・ヴィゲイ(チェロ) ニコラス・クレーマー(チェンバロ) パイヤールと同じく、モダン楽器による室内オーケストラの演奏です。1924年生まれで2016年に亡くなりましたが、洗練が持ち味のマリナーによるこ の盤、まずリコー ダーのよう な音のオルガンで始まります。こうやるとずいぶん静けさが強調されるものだなあと思いました。チェンバロだと普通そうならないのは、録音が近いからかもし れません。かと思えば次からはそのチェンバロも登場し、楽器のバリエーションが楽しめます。表現の方は、パイヤール盤のように流麗に磨かれたものという印 象はいくらか少なく、古楽のアクセントがなくてゆったり丁寧に感じる面は共通するものの、より癖のない端正で真面目な運びです。ピリオド奏法によらない 「音楽の捧げ物」の、完璧で模範的な演奏だと言えるでしょう。派手な特徴がない分、 じっくりと曲そのものを味わえます。 1979年のフィリップス録音ですが、このレーベルにしては残響はあまりない方です。ゴージャスな響きにはならない一方で、一つひとつの楽器がよく見通 せ て良いと思います。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Musik Antiqua Köln Reinhard Goebel (vn/cond.) ♥ Wilbert Hazelzet (fl-traverso) Hajo Bäß (vn) Charles Medlam (gamb) Henk Bouman (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ムジカ・アンティクァ・ケルン / ラインハルト・ゲーベル (ヴァイオリン/指揮)♥ ウィルベルト・ハーツェルツェット(フラウト・トラヴェルソ) ハーヨ・ベス(ヴァイオリン)/ チャールズ・メドラム(ヴィオラ・ダ・ガンバ) ヘンク・ボウマン(チェンバロ) ゲーベルとムジカ・アンティクァ・ケルンも古楽ムーブメントの比較的初めの頃に活躍した団体で、メジャーのドイツ・グラモフォンからリリースされ、この 時代のピリオド楽器による演奏群の一角を成していました。独特の先鋭的なアクセンントが目立っていた頃にあっても、特に個性的ではっきりとした拍節の特徴 を打ち出し、退屈させない面白い演奏も聞かれました。ただ、ここではあまり取り上げて来なかったと思います。ノリントン卿ほどじゃないにしても、自分の守 備範囲の上を行くところがあったからです。 しかしこの「音楽の捧げ物」は印象が違いました。確かにチェンバロに多少立ち止まるようなフレーズの節が聞かれたり、テンポ感のある弦楽合奏とフ ルートのパートに引き続いて大変スローなガンバの歌(2声の反行の拡大によるカノン)があったりするものの、思ったほど癖を感じさせず、バッハの晩年の作 品に臨む姿勢として真正の、質の高い取り組みを感じさせます。トリル飾りなどが出ても当時あり得た奏法の解釈として自然だし、フラウト・トラヴェルソの音 もきれいであり、弦のボウイングと一致して中ほどを盛り上げる古楽奏法の呼吸が心地良く感じます。多少驚いたのはその2声の反行カノンの遅さと、トリオ・ ソナ タのラルゴで表情豊かに音を区切ったり延ばしたりしているところぐらいであり、その他の遅いパートでの表情は想定内でした。大王のテーマによる同 じような曲調が続くこの作品にあっては、このようにメリハリを付けた方が変化に富んでいて飽きさせないとも言えます。この楽団の人気はそういうところに あったかと、あらためて納得した次第です。こちらが慣れたこともあるでしょう。最後に持って来た6声のリチェルカーレも、伸び縮みするアゴーギ クの表現と大きめの間の区切りは聞かれますが、大変味わいがあります。 1979年のドイツ・グラモフォンです。同じような狙いを持った5年前のレオンハルト盤と比べても、艶がありつつよく響き、バランスの良さを感じさ せる優秀な録音だと思います。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Masahiro Arita (fl-traverso) Ryo Terakado (vn) Natsumi Wakamatsu (vn/va) Tetsuya Nakano (gamb) Chiyoko Arita (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 有田正広(フラウト・トラヴェルソ) 寺神戸亮(ヴァイオリン)/ 若松夏実(ヴァイオリン/ヴィオラ) 中野哲也(ヴィオラ・ダ・ガンバ)/ 有田千代子(チェンバロ) フルートの有田正広は、ウンジャンの時代の東京クァルテットや鈴木雅明/BCJ のバッハのカンタータと並んで、ものによってはその曲のベストかと思える演奏を聞かせており、ここでも取り上げて来ました。優等生的なお行儀の良い運びで はなく、自在で生きいきとした内側からの歌を感じさせます。バッハのフルート・ソナタなど、ニコレやアンタイも良かったけれど、モダン・フルートでやった後発の盤など、魅力の点でそれらを上回ってたかもしれません。そういう意味で大変期待した「音楽の捧げ物」です。そのソナタのときと同じく、奥さんがチェンバロで加わっているものです。世界的に有名になった古楽の名手、寺神戸亮のバロック・ヴァイオリンも聞けます。 この曲集、フリードリヒ大王が得意だったフルートのパートは、それと指定されているのはトリオ・ソナタであって、全体ではありません。したがって有田氏 一人のパフォーマンスで評価するのは違うでしょう。ただ、フルートはやはり魅力的な音を聞かせています。もちろんここではモダン・フルートではなく、フラ ウト・トラヴェルソであり、バロック・ヴァイオリンをはじめ弦もピリオド楽器であり、全体としても古楽のマナーによる演奏だと言って良いと思います。た だ、アーノンクールやオランダ勢とは違い、その癖はさほど強くはありません。テンポもモダン楽器演奏時代に近いぐらいゆったりに感じるところがあり、大変丁寧で一つひとつ正確に音にして行くような雰囲気を感じました。フルート・ソナタより人数が多くなった分、一人の個性が支配的になることもないのでしょ う。模範的で優秀な演奏だと思います。 1993年のデンオン(DENON)です。鮮度の高い、少しシャープな録音です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Sigiswald Kuijken (vn) ♥♥ Barthold Kuijken (fl-traverso) Wieland Kuijken (gamb) Robert Kohnen (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ジキスワルト・クイケン(ヴァイオリン)♥♥ バルトルド・クイケン(フラウト・トラヴェルソ) ヴィーラント・クイケン(ヴィオラ・ダ・ガンバ) ロベール・コーネン(チェンバロ) レオンハルト盤からレオンハルトが抜けた、室内楽としては最小限の四人構成で演奏された「音楽の捧げ物」です。この点に関しては、バッハがトリオ・ソナ タで指定した楽器で行っているもので、必然的な解釈だと主張しているようです。ブックレットにはバルトルド・クイケンの詳しい楽曲解説が載っており、 その方面に興味のある方には面白い読み物でしょう。こうした点からも分かるように、この演奏は、まず第一義的に学問的解釈において高く評価されているものです。 そしてそれだけではなく、これはもう、そんな堅い話を除いてもこの曲のベストと呼んでしまいたいほど魅力的な一枚です。定番のリヒター盤も良いですが、 こちらはもっと 力が抜け、落ち着きと空間を感じさせる開けたマナーです。奇をてらうところがなく、テンポは平均すれば比較的穏やかな中庸ですが、三曲目のカノンで思い切って速くするなど、メリハリも付けています。 この人たちの顔ぶれですから、当然古楽器奏法のマナーです。しかし決してそれが強くも不自然でもなく、しっかりと消化されて、あるべきものがあるべきと ころに収まっているという印象です。 ジキスワルト・クイケンのヴァイオリンは、一人で演奏する場合は尖ったアクセントを出すこともありましたが、アンサンブルでは常に穏やかな雰囲気があっ て大変良いです。無理のない抑揚が絶妙です。映像でその演奏している表情を見ると、昔のコレギウム・アウレウム合奏団のような楽しい感覚ではな いのかもしれないけれど、大変真面目ながらもリラックスして、場の雰囲気をリードしているようです。 チェンバロはロベール・コーネンで、1932年のベルギー生まれ。ブリュッセルの音楽院でオルガンは学んだけれども、チェンバロは独学という人です。 2019年に亡くなっています。ヴィーラント・クイケンとはキャリアの最初からの付き合いで、順次他のクイケン兄弟たちとも活動するようになって行ったよ うです。ここでは出だしの五つ目の音符などに代表されるような、フレーズの変わり目でほんの少しだけ間を空けて遅らせる拍の取り方が見られます。それに よっ てリズムが平坦にならない一方で、全体にピリオド奏法のアクセントは強くありません。 フルートのバルトルド・クイケンもレオンハルト盤のときと同様、また大変魅力的です。ピリオド楽器ということで力強いものではないけれども、ふわっと やわらかく漂うようでリラックスでき、往時を再現した強弱の息遣いもしっかり付けながら嫌味がなく、作曲家の晩年のもの哀しさを表現しています。もちろんガンバのヴィーラントも同じ波長で、全員が溶けて一つの音の織物を展開して行くのです。落ち着きがあり、全体に静けさを感じさせる名演だと言えるで しょう。バッハ のこの作品の性質にぴったりであり、心情までが伝わるようです。 1994年録音のドイツ・ハルモニア・ムンディです。録音もベストです。自然なバランスで耳に痛い倍音も中域の張りもなく、楽器の音は繊細に、十分に 捉えています。チェンバロも潤いがあってきつくなりません。 この四年後の2000年に同じメンバーで演奏したライヴ映像が DVD 化されており、目で確かめることもできます。演奏は基本は同じようであるものの、そちらは特定帯域での反響がいくらか強く、高域成分が前へ出ていて、チェ ンバロの アクセントもわずかに大きめな瞬間があるせいか、CD の方が若干聞きやすい印象を持ちました。しかしこれは気分が乗ったときにじっくり比べないと何とも言えません。テンポ自体がゆっくりなのかと思って調べて みる と、そういうことはなく、むしろ CD の方がタイムが長く、多少遅い曲が多いようです。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Music from Aston Magna ♥♥ Daniel Stepner (vn/cond.) Linda Quan (vn/va) Laura Jappesen (gamb) Christopher Krueger (fl) John Gibbons (fortepiano) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ミュージック・フロム・アストン・マグナ ♥♥ ダニエル・ステップナー(ヴァイオリン/指揮) リンダ・クアン(ヴァイオリン/ヴィオラ)/ ローラ・ジャプセン(ヴィオラ・ダ・ガンバ) クリストファー・クルーガー(フルート)/ ジョン・ギボンズ(フォルテピアノ) 一つしかない「一番」を何度も連発すると「狼が来た」みたいになってしまいます。すでにパイヤール盤でもクイケン盤でもそう言って来た気がしますが、で もこの団体の「音楽の捧げ物」も同曲の一番だ、と言いたくなるのです。演奏しているのはアメリカ、マサチューセッツ州で行われる古楽の音楽祭、アストン・マグナの名を冠した団体、ミュージック・フロム・アストン・マグナということで、リーダーは1946年生まれのアメリカのヴァイオリニスト、ダニエル・ス テップナー。音楽祭とそれを主催する財団の中で音楽監督の立場にあり、ブランダイス大学で結成されたリディアン弦楽四重奏団のメンバーでした。そしてここ でのヴァイオリン以外の人たちも、皆アメリカで活躍する演奏者です。それぞれについて詳しいことも知らないし予備知識もないのですが、ピリオド奏法の呼吸が自然で潤いがあり、適度にメリハリもあって美しい演奏をしています。古楽器の音も良く、大変洗練された一枚だと言えるでしょう。 編成の特徴としては、チェンバロの代わりにフォルテピアノでやっていることがあります。それがまた大変魅力的です。この楽器の起用は他の盤でも一部聞か れますが、ここでは全面的にそうしています。王宮でフリードリヒ大王がテーマを示したのも、バッハが即興演奏をしてみせたのもフォルテピアノだからでしょ う。ただ、この曲自体は必ずしもそれ用ではなく、楽譜に強弱記号が付されていないので鍵盤パートはチェンバロだろうとは言われています。でもそれはいいで はないですか。バッハは最先端の楽器を見せられて弾いたわけですから、その場で上手に強弱を付けられたかどうか分かりません。いやいやクラヴィコードがあ りましたから、案外上手くやってのけたでしょうか。いずれにしても、このフォルテピアノの音は魅力的です。チェンバロだと録音バランスがまずければがしゃ がしゃしてやかましくなりますが、こうするとなんとも艶やかで上品な音色になります。六曲目の「2声の反行の拡大によるカノン」は大変ゆったり進む中で、 伴奏の低い音のピアノが、まるでリュートを指の腹でつま弾いているように聞こえて面白いです。硬い爪で弦を引っ掻くチェンバロよりもフォルテ・ピアノの方がリュートに近く聞こえる場面というのも、時々あるようです。 弾き方には変な癖はなく、今の古楽器奏者はほとんどがこういう風になって来ているのかもしれないけれども、大きく拍を遅らせて節を作るようなことはしま せん。むしろ反対に多少小走りにするところも含め、揺れはあります。しかしそれも自然な範囲です。ピリオド奏法についてはあちこちに書いていますが、音量 とテンポの揺れを全体に行き渡らせる一定の法則ですから、同じように音量とテンポによって表れる情感の表現が、雑音の中から楽音を聞き分けるように分かり 難くなります。音の波は合成されたものなので、理論上はどんな揺れの法則があってもその上にさらに情感の揺らぎを加えられるはずですが、楽器の音量にもリ ズム進行の枠にも限界はあるため、加え代は減るし、何より奏者がそこに注意を取られることなくピリオド奏法を呼吸のように無意識化できない限りは、情感の 方はおろそかになります。したがって時代の流れでだんだん控えめになって来るのは必然だと思うし、望ましいことなのです。 テンポは中庸からやや軽快寄りです。タッチによって強弱は付けられるので、弦のピリオド奏法と似た形でフレーズの中程を少し強めるような呼吸がありま す。これもいいです。全体にも情感に従ったディナーミクが聞かれます。この曲集のクライマックスでもある6声のリチェルカーレですが、ひたひたとこみ上げ て来るものがあり、ジョン・ギボンズの当盤の演奏に最も感動しました。最近この録音ばかり聞きたくなるのは、その点が第一なのかもしれません。 二曲目の「王の主題による無限カノン」ではフルートと弦楽が活躍しますが、テンポはぐっと遅く設定されています。かと思えば三曲目では思い切って速め、 そのように全体のテンポに交互にメリハリがついていて、聞き飽きることがありません。そしてやはり弦楽でもフルートでも、ピリオド奏法のたどたどしい癖は 感じません。しなうような呼吸がむしろモダンより魅力的でしょう。自然でゆったりなパートでは落ち着きが感じられます。ため息のように遅い「2声の反行の 拡大によるカノン」などもありますが、それもわざとらしくはなく、きれいに聞こえます。全体にバランスが取れていて、大変レベルの高い演奏だと思います。 1995年録音でレーベルはセント(ァ)ー(/ケンタウロス)・レコーズ。ただ、再販はされていないのか買いやすくはないようで、中古が新品定価ぐらい だったりします。これは各国とも状況は同じようです。レーベルの直販サイトはダウンロードのみです。ストリーミングはあります。 カップリングとして後ろに長調のやさしいフルート・ソナタ(BWV 1035)が来ていたりして、続けてかけておくのも心地良いです。このクリストファー・クルーガーというフルート、情報が少ないですが、モダンのようにべ たっとレガートで行ったりしないのは当然として、素朴で軽く、清潔な感じがしてこれも大変良いです。最後は「音楽の捧げ物」と同時期に作曲され、1974 年にフランスの音楽学者によって発見された「ゴールドベルク変奏曲に基づく14の(様々な)カノン」(BWV 1087)です。弦楽とフルートで演奏しています。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Le Concert des Nations Jordi Savall (gamb/cond.) Andreas Doerffel (gamb) Marc Hantaï (fl-traverso) Pierre Hantaï (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 ル・コンセール・デ・ナシオン / ジョルディ・サヴァール(ヴィオラ・ダ・ガンバ/指揮) アンドレアス・デルフェル(ヴィオラ・ダ・ガンバ) マルク・アンタイ(フラウト・トラヴェルソ)/ ピエール・アンタイ(チェンバロ) カタルーニャのヴィオール奏者で指揮者のサヴァールが、自身が設立したラテン系の奏者によるスペインの古楽オーケストラ、ル・コンセール・デ・ナシオン を指 揮しています。 最初にフルート一本でフリードリヒ大王のテーマが演奏されます。まるで大王自身が吹いて示してるみたいですが、王はフォルテピアノで弾いてみせたのでし た。でも面白いです。そこから先は普通にチェンバロによる演奏となります。弾いているのはハンガリー系フランス人のピエール・アンタイで、フルートのマル ク・アンタイとは兄弟です。テンポはややゆったりです。フレーズを一つずつ、少し区切るように間を取る古楽器奏法の呼吸があり、多少重めに粘 る印象です。 三トラック目になるとサヴァールのヴィオラ・ダ・ガンバが聞かれますが、ゆっくりと、大きく膨らませながら装飾も使い、間もたっぷりと取って少しケレン 味のある歌を聞かせます。泣きの呼吸というのか、ボウイングのアクセントはもちろん、全体にわたって古楽の山なりのものです。先のチェンバロもそうした運 びに合わせたものになっているのでしょうか。波長としてはその他の弦楽部も同じです。 遅いかと思えば、二つのヴァイオリンによる2声のカノンなど、メリハリを付けて速くやる曲もあり、この辺は上記のアストン・マグナ盤とも共通します。 トリオ・ソナタに入るとマルク・アンタイのフルート(フラウト・トラヴェルソ)が活躍しますが、この人の演奏は大変好きで、バッハのフルート・ソナタの ページでは♡♡を付けました。ここでも素直さを感じさせる運びでふっくらと良い音を聞かせています。ただ、最初の曲などはテンポが遅い設定になってること も あって、少し印象が違います。他の奏者たちの大きな呼吸が聞こえて来て、それに合わせてるわけでもないので静かに浮いている感覚があります。 でもトータルでは統一されたこの楽団の波長と調和しているとは言えるでしょう。全体の中での存在感としては、やはり音の小さな楽器ということもあり、録音 でバランスを変えてない結果、メロディアスな部分で前に出て来る感じにはなりません。力を込める速い楽章ではその限りではないものの、速過ぎると今度は音 の重なり感が出やすい気もします。全体として言えることは、粘りのある歌とコントラストが付いた表情が魅力の、個性的な「音楽の捧げ物」だということで す。 アリア・ヴォックス1999〜2000年の録音です。響き過ぎずデッドになり過ぎずの良好なバランスです。やや中音寄りでしょうか。チェンバロなどは特 に透明感の高い部類ではないですが、単独の高音はピンとしてきれいに響きます。 Konstantin Lifschitz (pf) コンスタンチン・リフシッツ(ピアノ) こちらはピアノで演奏した「音楽の捧げ物」です。モダン・ピアノ一台です。こうして聞くと、短調なのでフランス組曲のようでもあり、繰り返しが変奏曲形 式に聞こえて「ゴールドベルク変奏曲だったっけ」、と途中で思ったりもします。あるいは声部の重なりが、クープランのクラヴサン曲の飾りのようにも聞こえ ま す。この曲の性質の中でも、特に静かな美しさを際立たせる楽器だと言えるでしょう。しかし多声部を一人で片付けるのにはかなりの腕が要るはずです。 弾いているコンスタンチン・リフシッツは1976年生まれのユダヤ系ロシア人ピアニストです。ロシアン・スクールの特徴が出ているかどうかについては、 よく分かりませんでした。よくその流派を代表すると言われるギレリスとリヒテルが同じ性質だとも思えませんが、両者に共通するかもしれない剛毅なフォルテ と 思い入れたっぷりの緩徐楽章という意味でも、そうは聞こえません。リヒテルのバッハとも違います。ロマン派を聞いていないので何とも言えませんが、その弾 き方は誇張のない素直さを感じさせる性格で、静けさと鮮やかさもあってなかなか魅力的です。音楽は常に何か面白い仕掛 けがなければいけないものでもなく、真っ直ぐ弾いていることでこちらが曲のあり方に集中することもできます。また、一般的に聞かれるのと半音違う音が混 じったりして不思議なトーンに感じる箇所がありますが、楽譜のせいなのか何なのか、解説する力がありません。面白いことに、ちょっとモダンな曲のように感 じました。 2005年オルフェオの録音です。輝き過ぎずオフになり過ぎずの良好な音色にとれています。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Ton Koopman (hc) Wilbert Hazelset (fl-traverso) Catharine Manson (vn) David Rabinovich (vn) Jane Rogers (va) Jonathan Manson (vc) Christine Sticher (violone) Tini Mathot (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 トン・コープマン(チェンバロ/指揮) ウィルベルト・ハーゼルゼット(フラウト・トラヴェルソ) キャサリン・マンソン(ヴァイオリン)/ ダヴィド・ラヴィノヴィチ(ヴァイオリン) ジェーン・ロジャーズ(ヴィオラ)/ ジョナサン・マンソン(チェロ) クリスティーネ・シュティヒャー(ヴィオローネ)/ ティニー・マトー(チェンバロ) オランダの古楽のバッハの名手、コープマンですが、この「音楽の捧げ物」は2000年代に入って出た盤です。 最初ゆったり入るかに見えて、やはりチェンバロは装飾が頑張っています。また、オルガンでもこの人によく聞かれる手法ですが、ピリオド奏法として間を空 けて遅らせる方へ節を作るのではなく、指が走るように少し前倒しになる拍が出ます。独特の間合いであり、(鍵盤楽器自演での)コープマン節言っても良いか もしれません。この辺を粋に感じて、これでなければ、という方もいらっしゃるでしょう。サヴァールの粘りとは多少違った意味で大変特徴を持った「音楽の捧 げ物」です。 二曲目は引きずるようなガンバで始まり、全体が弦のみによる構成です。ピリオド奏法独特の息遣いで統一されており、すすり泣くようなゆったりとした運び です。三曲目はチェンバロと弦とで、少し勢いが良いです。この演奏もやはり、スピーディなところと思い切ってゆったり歌わせるところとでコントラストを付 けており、飽きることがありません。 フルートについては、これもフレーズの区切りで短く切る手法です。滑らかさよりはフレーズごとに弾ませるところに特徴があるでしょうか。この楽団のフ ルー ティストです。 最後はまた、凝った装飾を施されたコープマンのチェンバロによる6声のリチェルカーレで締め括られます。よく弾む、フレーズの角の立った活気のある弾き 方です。かなり飾りが多いので、フランスのクラヴサンもののようにも聞こえます。他の人では成し得ない技でしょう。案外バッハ自身もこのように華やかな 装飾音を混ぜて弾いていたのかもしれません。 2008年のチャレンジ・クラシックスです。チェンバロの音はかなりくっきりと捉えられて前に出て来るものです。ソロのパートでは音量も上がり、近くで 聞く感じになります。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Camerata Kilkenny Wilbert Hazelzet (fl) Maya Homburger (vn) Maja Gaynor (vn/va) Sarah McMahon (vc) Malcolm Proud (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 カメラータ・キルケニー ウィルベルト・ハーツェルツェト(フルート)/ マヤ・ホンバーガー(ヴァイオリン) マヤ・ゲイナー(ヴァイオリン/ヴィオラ)/ サラ・マクマホン(チェロ) マルコム・プラウド(チェンバロ) キルケニーはアイルランドの町で、アストン・マグナに似ているけれども、カメラータ・キケルニーはそこの芸術フェスティヴァルに集まった世界各地のゲス ト・アーティストたちに よって構成されています。1999年の結成です。このメンバー以外にも各地の有名な古楽オーケストラに在籍する人が複数いるようです。表記では特に明記さ れていませんが、全員ピリオド楽器です。 真円のリズムではなく、各フレーズ中程でためるようにする古楽の呼吸と、装飾部で少し歩を緩めるかという以外、ほとんど素直なチェンバロで始まります。 大きな節目や駆け出しなどがなく、こういう運びは好みです。ただ、6声のリチェルカーレだけは一歩一歩着実に進める感じが強めで、少し遅く感じました。分 解することで構成の見事さを提示しようという意図なのでしょうか、力が入っています。アイルランド生まれでレオンハルトに学んだマルコム・プラウドという 鍵盤奏者です。そしてこのチェンバロを除いた楽団の表現としては、ほぼ上記のコープマン盤の雰囲気に似ている感じもします。 フルートはコープマン盤でも吹いていたアムステルダム・バロックのウィルベルト・ハーツェルツェトで、同じ表現です。ピリオド奏法特有の区切り感が少し大きいものです。 弦楽もそれに準じた統一感のある息遣いで、全体に自然な範囲の中で動きのあるアクセントを感じるという程度であり、聞きやすいです。各曲のテンポ設定 も、こ れもやはりしっかりとメリハリを付ける方向で変化を出しています。 2010年録音のマヤ・レコーディングスというスイスのレーベルです。バランスが取れていて、チェンバロも適度に明晰な方向、弦やフルートは自然な音場 感です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Ricercar Consort ♥♥ Philippe Pierlot (bass-gamp) Marc Hantaï (fl) François Fernandez (vn) Maude Gratton (hc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 リチェルカーレ・コンソート ♥♥ フィリップ・ピエルロ(ヴィオラ・ダ・ガンバ) マルク・アンタイ(フルート) フランソワ・フェルナンデス(ヴァイオリン) モード・グラットン(チェンバロ) グループの名前の「リチェルカーレ」、これは上で触れた通りで、バッハが王様に贈呈した楽譜に書かれたサブタイトルの頭文字です。元々の意味の古い楽曲 の形式名とも二股かけてるのだろうけど、バッハの方も楽団にとっては重要な意味を持っているに違いありません。ベルギーのヴィオラ・ダ・ガンバ奏者フィ リッ プ・ピエルロとフランスのヴァイオリニスト、フランソワ・フェルナンデスらによって1980年に結成されたベルギーのアンサンブルです。クープランの「コレッリ賛、リュリ賛」の演奏が素晴らしかったので、すでに取り上げていました。ここではフルートにマルク・アンタイが加わり、チェンバロは 1983年生まれの女性鍵盤奏者、モード・グラットンに変わっています。二人ともフランス人ということで、ベルギーもフランス文化圏ですから、今のフランス流の古楽を代表する演奏と言って良いでしょう。ここではクイケン盤と同じく最小の四人でやっています。 この楽団の魅力は、平均すればテンポはゆったりめでリラックスでき、古楽のフレージングはどこも似てはいるので微妙な問題だけれども、やはりフラン ス流というのか、多少ふわりと丸くたわませて、押すようなアクセントの緊張や詰まり感がないところです。余裕を感じると言った方が肯定的でしょうか。逆に 言えば、好みでない人にとっては環境音楽のようにのんびり、あるいはもったりに聞こえるのだろうか、とも想像します。そしてそういう優雅さ、しなやかさは こ のバッハでも維持されているので、聞き込む ほどに良さが分かって来るような 種類、かもしれません。ただ少し、フランス ものをやるときよりは力が入ってかっちりとはしてるでしょうか。いやいや、それは先入観かもしれま せん。全体にゆったりといっても、トリオ・ソナタなどで顕著ですが、颯爽とした速い曲の表現も混ぜていて、立体感があります。 リチェルカーレで大任を果たすチェンバロですが、このとき28歳、古楽器の演奏マナーを定着させて来た古い世代ではありません。音符の間の空間を確保す るように、十分にゆったりと運んでいて良いです。業界で定番となった、フレーズの切れ目で待って引っ掛けるようなアクセントがもうほんの 少しだけ少ない方が個人的には好みかなという気はするけれど、どうだろう、これはこれで十分に魅力的です。フランス人らしいキュートな見かけから甘い点を 付けているわけで はありません。6声の方のほぐして行くような運びは、テンポの上では上記のカメラータ・キケルニーのマルコム・プラウドとも共通しますが、遅いという主観 的な感覚ではいくらか少なく感じます。どうしてでしょう。基本の拍で同時に叩かず、粋に少しばらすからでしょうか。 マルク・アンタイのフルートは好みだとサヴァール盤のところでも述べましたが、あちらよりもこの団体で吹く方がこの人には無理がないのかな、と少し思 います。彼の美点が発揮され、自由な感じがします。このアンタイという人も、古楽のアクセントとしてはふわりとしたやわらかさと癖のない素直な拍節を持っ て います。トリオ・ソナタはこの演奏の白眉でしょう。そして、また一番などと言うのもどうかとは思いますが、古楽フルートでのトリオ・ソナタの演奏でも、こ れが一 番かもしれません。 リーダーのフィリップ・ピエルロのヴィオールは自然体で、これもサヴァールよりも癖のないおとなしい運びながら十分に持ち上げるようにしならせるボウイ ングであり、所々で次の音に入る前にすっと切る軽さも備えていて、さらっと装飾も加えます。やはり好みです。その波長で他の弦楽器も渾然一体となっていて 魅力的で す。 曲順はトリオ・ソナタを前の方に持って来て、6声のリチェルカーレは終わりから二番目、最後に二つの謎カノンを配するというものです。 録音は自然でとても良いです。チェンバロだからフォルテピアノのようなおとなしい響きにはならないものの、この楽器としてはノイジーでない、角張り過 ぎない高音の粒立ちで、多少リュートのように響く部分もあります。弦とフルートも文句なく見事です。くっきりと近くに聞こえて細かい音が拾われつつ、やわ らか く、残響はほどほどしっかりあります。フランスのレーベル、ミラーレの2011年の録音です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Il Gardelino ♥ Jan De Winne (fl) Sophie Gent (vn) Tuomo Suni (vn) Vittorio Ghielmi (gamb) Rodney Prada (gamb) Lorenzo Ghielmi (hc/fortepiano) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 イル・ガルデリーノ ♥ ヤン・ド・ヴィンヌ(フルート)/ ソフィー・ジェント(ヴァイオリン) トゥオモ・スニ(ヴァイオリン)/ ヴィットリオ・ギエルミ(ヴィオラ・ダ・ガンバ) ロドネイ・プラダ(ヴィオラ・ダ・ガンバ)/ ロレンツォ・ギエルミ(チェンバロ/フォルテピアノ) ヴィヴァルディの楽曲「ごしきひわ」を意味するイル・ガルデ リーノはベルギーのオーボエ奏者、マルセル・ポンセールとフルーティストのヤン・ド・ヴィ エンヌが1988年に設立したフレミッシュ(ベルギー、フランス、オランダの一部にまたがるフランドル地方)の古楽器楽団です。オーボエの入らないこの曲 でのリーダーはヤン・ド・ヴィンヌでしょうか。イタリアの鍵盤奏者、ロレンツォ・ギエルミも加わっています。ラ・ディヴィナ・アルモニアという自身の楽団 を持っていて指揮もしている人で、彼のヘンデルのオルガン協奏曲は素晴らしく、前に取り上げていました。 無伴奏のフルートで王のテーマだけが最初に示される始まり方はサヴァール盤と同じ趣向です。王を意識してというよりも、バンドリーダーがフルートだから かもしれません。そして3声のリチェルカーレはフォルテピアノです。こちらはバッハが王宮に招かれたときを再現しているのでしょうか。ここでのフォルテピ アノは恐ろしく音が良く、モーツァルトなどでよく耳にするくすんだ音色ではありません。高い方の弦がチェンバロ寄りというのか、クラヴィコードに似ていま す。クラヴィコードはものによってはリュートそっくりに引っ掛かるような音を出す場合もありますが、ここではチェンバロの高音みたいなのです。しかもフォ ルテピアノですからしっかり強弱が付いており、昨今のピリオド奏法による盛り上がったアクセントが小気味良いです。弾き方はやや節が出っ張ったようなリズ ムではあり、スパイスでスタッカートも混ぜます。加えて音をスラーでは繋げないでパラパラと独立させる傾向も聞かれるものの、走ったり戻ったりはなく、比 較的素直な運びです。滑らかながらわずかに前にのめるところのあったアストン・マグナのジョン・ギボンズともまたちょっと違うわけです。テンポは多少ゆっ たりに聞こえる中庸です。 そして面白いのはフォルテ・ピアノは最初だけで、後はチェンバロになることです。楽譜はチェンバロを想定しているからか、変化を付けて両方聞かせられる からでしょう。したがって6声のリチェルカーレではチェンバロが味わえます。そちらはリチェルカーレ・コンソートのモード・グラットンやカメラータ・キケ ルニーのマルコム・プラウドのように遅めのテンポではなく、かといって速くもない中庸で進めて行きます。リズムに揺れはなく、真面目で端正な運びです。ヘ ンデルのときより謹厳な印象なのはバッハだからでしょうか。 実質上のリーダーだと思われるフルートのヤン・ド・ヴィンヌですが、古楽のフラウト・トラヴェルソの吹き方としては案外切れぎれにせず、音と音をつなげ て行くところに特徴があります。極端に遅らせる節も出さず、ロングトーンの中程を持ち上げる呼吸はあるものの、それもあまり強い方ではありません。この素 直な吹き方には好感が持てます。音色も良く、古楽器なので派手ではなく素朴ながら、低い音が独特の太さで響く心地良いものです。トリオ・ソナタでは力を抜 い て弱音に落とす繊細な表現が静かなパートで聞かれ、美しいです。全体には落ち着きをもって歌うフルートだと言えるでしょう。速いパートもさらりとして節く れ立ちま せん。特徴としてはフレーズ最後の音を弱めて終わる処理が割と多めでしょうか。そしてこのフルートの響きを聞いていると、残響があまり大きくないことが分 かります。 弦のパートも、古楽奏法の呼吸でキューンと持ち上がるのが気持ち良いですが、テンポは概ね中庸、もしくはやや軽快という曲が多く、これはフルートが活躍 すると ころも同じです。あまり速度でメリハリを付ける考えはないようで、はっきりと遅い方に寄っていると言えるのはソナタの三曲目ぐらいでしょうか。速めの曲 ではピリオド奏法的にぎゅっと摑むようなリズムの揺らぎがはっきりしており、そこら辺は少しだけ自分の好みの路線とは異なりました。ただ、「慌ただ しい」という言葉だって「元気がある」と言い換えれば肯定的になるもので、その差は微妙です。 レーベルはオランダのパッサカーユで、録音は2012〜13年です。前述の通り残響はあまり長い方ではないですが、その分各楽器の輪郭が分かります。か といってハイが強調された硬調なものではなく、弦の中域に張りはあるものの自然で心地良いバランスの録音です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Bach Collegium Japan Masaaki Suzuki (hc) Kiyomi Suga (fl) Ryo Terakado (vn) Yukie Yamaguchi (vn/va) Emmanuel Balssa (vc) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 バッハ・コレギウム・ジャパン / 鈴木雅明(チェンバロ) 菅きよみ(フルート)/ 寺神戸亮(ヴァイオリン) 山口幸恵(ヴァイオリン/ヴィオラ)/ エマニュエル・バルサ(チェロ) カンタータ全集で見事な演奏を聞かせている鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)も、2016年になってやっと「音楽の捧げ物」を出しまし た。バッ ハのほぼ最後の作品であり、解釈が難しいところがあるから後になったのでしょうか。期待して聞きました。編成はクイケン兄弟たちの解釈とは違い、 violin の後の「:」を「 i 」と解釈したのかどうか(violini だと複数という意味になります)、通常よくやられるようにヴァイオリンが一人多い五人体制です。 なんと3声のリチェルカーレを最初に持って来ず、同じように開始される2声の逆行カノンから始めています。こういう話には触れないと言いましたので、解 釈に関することなどこれ以上は書きませんが、リチェルカーレと同じようにチェンバロが王のテーマを示すところで、半音ずつ下降する音をゆっくりとやってい ま す。そしてその最後の部分にも装飾を入れません。聞きながらリチェルカーレだと信じていたので、半音下降の部分が対位法展開に向かないと言わ れてるのを意識してプレーンにやってるのかなあ、などとちょっと考えたものの、全然関係ありませんでした。しかしそれ以外の箇所で、飾りには大分工夫が凝 らされています。それも最初は楽譜から外れるのか、とびっくりしたわけだけど、いずれにせよ個性的なチェンバロの解釈ではあるでしょう。深い意図があって 色々と試みているに違いなく、その点も余計なことは言えません。また、解説が存在していてもここで取り上げるものでもないで しょう。 「螺旋カノン」で中ほどになってフルートが加わって来るのには驚きました。また、「ゲーデル、エッシャー、バッハ」のアイディアとは違って、高いところま でしっかり昇って終わるように聞こえる処理です。「無限カノン」は演奏をどこまでも続けられるものですが、フェードアウトで終わることでそれを示している ようで す。どれも他の演奏者とは曲順がかなり違っています。 構成ではなく演奏表現の方に移りますが、順序が逆転して二曲目に「同度のカノン」が合奏で来るところで、この楽団としては大変元気の良い、はずみのつい た動きに驚きました。弱め方もぐっと大胆です。なんとこんな風にも演奏できるのか、こういう一面もあって、この曲はこの路線で行くわけか、と思いました が、それは案外そうでもないようで、その後は BCJ の一つの性質だと思っていた展開に戻るように感じました。つまり大変きれいで、プレイヤーの平均した腰の位置とでもいうか、フルートも弦も多少弱い方へ 寄った、スタティックな美しさです。初期のピリオド奏法の癖はなく、平坦と言うと言葉が悪いですが、比較的おっとりとした抑揚で大変真面目に、折り目正し く運んで行くパーフェクトな演奏かと思います。そういう点では有田正広の盤で聞かれたバックのアンサンブルのあり方とも多少共通しているでしょうか。 2016年の BIS の録音で、最近のこのレーベルらしく SACD ハイブリッドとなっています。チェンバロも各楽器の倍音もよく拾い、適度にシャープさも感じられる優秀録音です。 Bach Musical Offering (Musikalisches Opfer) BWV 1079 Calefax (Reed Quintet) ♥♥ Oliver Boekhoorn (ob/e-hr) Ivor Berix (cl) Raaf Hekkema (sop/alto-sax) Jelte Althis (bass-cl/basset-hr) Alban Wesley (fg) バッハ / 音楽の捧げ物 BWV 1079 カレファックス(・リード五重奏団)♥♥ オリヴァー・ボエクホールン(オーボエ/イングリッシュ・ホルン) イヴァー・ベリックス(クラリネット)/ラーフ・ヘッケマ(ソプラノ/アルト・サキソフォン) イェルテ・アルトゥイS(バス・クラリネット/バセット・ホルン) アルバン・ウェスリー(バスーン) これは管楽アンサンブルによる変わり種の演奏です。カレファックス・リード五重奏団はオランダの団体で、自身のウェブサイトにあるように「ポップのメン タリティーを持ったクラシックの アンサンブル」というコンセプトのようです。アムステルダムの中等学校のオーケストラ団員たちによって1985年に結成されました。暗譜で立ったまま演奏 することが多いそうで、ルネサンスからジャズまで何でもこなします。日本でのファンは吹奏楽に興味のある人たちなのか、全然違うのか全く分からないものの、こういう楽団が「音楽の捧げ物」を取り上げるのは面白いです。 編成があまりにも違い過ぎるし、吹奏楽団員だったわけでもないのでこの分野の演奏そのもののあり方を描写するのは難しいですが、モーツァルトのディヴェ ルティメントか何かを聞いているかのような響きで、屋外の式典でもあり得そうな感じです。そうなると、葬儀か軍の戦没者追悼セレモニーみたいなものになっ てしま うでしょうか。バッハのカンタータにホーンによるそうした式典用(118番)があったのを思い出します。あるいは FM の音楽番組のオープニング・テーマに使ってもいいかもしれません。ゆっくりの楽章では今の環境音楽のようでもあり、あるいは速いところでは一瞬ディキシー ランド・ジャズみたいだったりもします。リード楽器だから当然ながら、オルガンの響きにも部分的に似ている気もします。 楽器編成に合った曲をチョイスしているからかどうか、トリオ・ソナタのラルゴから始めるという変わった曲順で、次に3声のリチェルカーレが来て、最後が 6声のリチェルカーレで終わります。案外静けさを感じさせる、独特の魅力のある演奏です。オーボエ系の音やクラリネットが響くというのもこの曲では珍し く、サックスがあったり不思議な取り合わせだけど、上手く調和していて新鮮な感覚を味わえます。 また、このアルバムではバッハが晩年に取り組んだ数少ない作品の一つである「高き天よりわれは来たれり」のコラールに基づくカノン風変奏曲(BWV 1087)も聞くことができます。これだけでも価値があります。簡潔で朗らかな印象もあり、「音楽の捧げ物」とは違って、モーツァルトのように突き 抜けて駈ける晩年の静かな境地だと言えるでしょう。何となく心に沁みるものがあります。最後は口笛で、お茶目に音程をわざと外してます。バッハ大先生の音 楽も、味わってこそ、というところでしょうか。 2020年の録音で、オランダのペンタトーン・レーベルです。音質も評し難いですが、静けさとまろやかさが聞かれるものです。透明感があり、レベルの高 い録音でしょう。思い切って♡♡にしたのは演奏がいいからもありますが、「高き天よりわれは来たれり」が入っているからと、大変面白い企画だからです。 INDEX |