ショルという天才
ヴィヴァルディ & ペルゴレージ / スターバト・マーテル
ヘンデル / オンブラ・マイ・フ 他
 
   androgyne

   カウンター・テナーというものが少し前、日本でも流行りました。アニメ関連でゲイの歌い手さんが脚光を浴びたわけですがこの歌唱法と性的マイノリティの両方が市民権を得る良い機会だったのだと思います。でもこのパートを歌う人がいつもそういう指向の人というわけではありません。

 カウンター・テナーは女性のアルトの声域を、男性が頭蓋骨に音を響かせるようなファルセット(裏声)で歌うもので、教会で女性が歌えないために中世に発 達したものですが、その後主にイギリスで細々と伝統をつないできました。ボーイ・ソプラノ(アルト)の大人版というのでしょうか。同じ目的で男性の大事な 部分を取り除いて変声を免れた歌手が歌うのがカストラートです。16〜18世紀に主にイタリアで盛んに行われていたものですが、そのものズバリのタイトル で映画にもなりました。中国の役人である宦官(かんがん)と同じように思えるものの、中国の方が宮廷の女性に手を出させないために切り取っていたのが形式 化したのに対して、あの映画では主人公のカストラートが男性として恋もし、機能もしていたように描かれていました。カストラートはバロック期を過ぎてから 衰え、その後アルフレッド・デラーが戦後になってカウンター・テナーというものを再度世に知らしめ、今のように多くの歌手が活躍するようになりました。

 そしてその数多くのカウンター・テナーの中で、知ってる限りでは一人だけ飛び抜けているのがドイツ人のアンドレアス・ショルです。もちろんショル以外に も魅力的な人はいます。最近ではフランスの歌手、フィリップ・ジャルスキーが特定のグループの人々の間で熱烈な人気を呼び、一般にも波及してレーベルが彼 一人で持つという事態にすらなっているようです。ショルの中性的な声に対してより女性的な声質であり、安定した音程は優劣がつけがたいところがあります。 また、バッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータのシリーズに出ているイギリス人のロビン・ブレイズは透明な声で大変上手であり、ブレイズという天才、と いう項目も作らなくてはいけないかと思うほどです。それからジェラール・レーヌというフランスの素晴らしいカウンター・テナーも、以前はロッカーだったと いう過激さで人気がありましたし、サラ・ブライトマンのデュエットの相手で教会に立って歌ったアルゼンチンのフェルナンド・リマなども妙なセクシーさがあ りました。何でしょうか、男性が女性としての一面を表すときのこの恰好良さは。反対に、本当は女なのに男のふりをしているという設定も恋愛ドラマの中では 異様な熱を帯びたりします。

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 両性具有(アンドロジニー)というのは心理学では特別の意味を持っています。中世の錬金術の絵を見たことがあるかもしれません。トランプやタロット・カードの絵柄にあるような人物が描かれ、背 景にラテン語がいっぱい書いてあるようなやつです。あるいはフリーメーソンの絵みたい、と言った方が分かりやすいでしょうか。その絵には炉やらフラスコや らの道具も描かれています。錬金術というのはそれらを使って、ただの金属を元素である金に変える手順であり、中世では実際に試みられていたのです。しかし 心理学で言う錬金術は、実は物理的な金(Au) を生み出す話ではなくて、人間を黄金のように完成させるプロセスだという考えもあります。その最終段階では必ず男女が手をつないでいるか抱き合っている、 あるいは身体の左右半分ずつが男女になっている絵で象徴されるプロセスを経ます。それが両性具有で、人が精神的に高い境地へ統合されて行くときに現れるシンボルと見られています。そういう意味では、カウンター・テナーも完成された美を表現していることになるのかもしれません。

 アンドレアス・ショルという人は、声の質も大変美しく、技巧も完璧です。一切苦しそうなところがなく楽々と歌います。彼が出るまではあの人もいい、この人も巧いと感心していたものが、ちょっと次元の違う完成度です。実際は無理なのが分かっていても、バッハのカンタータなど、ソプラノを若いときのカークビーで、アルトを彼が担当した目ぼしい曲の演奏があったらいいのに、などと夢想したりします。ソプラノはキャサリン・フーグやキャロリン・サンプソンもいいですが。カークビーとショルは一緒に学んだこともあるようです。



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       Vivaldi   Stabat Mater
       Andreas Scholl (Ct)   Ensemble 415   Chiara Banchini


ヴィヴァルディ / スターバト・マーテル
アンドレアス・ショル(カウンター・テナー)/ キアラ・バンキーニ / アンサンブル415    
 どのCDもいい のでしょうが、聴いたものの中ではまずヴィヴァルディのスターバト・マーテルが圧倒的でした。スターバト・マーテル(哀しみの聖母)というのは13世紀に ヤーコブポーネ・ダ・トーディが詩を作り、カトリックの聖歌となったもので、聖母マリアがわが子キリストが磔刑に処されたとき、その死を嘆いた歌です。そ れ以降多くの有名作曲家が作曲していますが、ヴィヴァルディのものは彼の名曲の中でも一、二を争う美しい曲です。



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       Pergolesi Starbat Mater
       Andereas Scholl (Ct)   Barbara Bonney (s)   Christophe Rouset    Les Talens Lyriques


ペルゴレージ / スターバト・マーテル
アンドレアス・ショル(カウンター・テナー)/ バーバラ・ボニー(ソプラノ)
クリストフ・ルセ / ラ・タラン・リリク
 スターバト・マーテルと言えばペルゴレージのものも名曲です。1710年生まれでヴィヴァルディより時代は下り、モーツァルトら古典派にもつながり始める時期のイタリアの作曲家ですが、聖母の悲しみという曲想からか、透明な美しさがヴィヴァルディのものにも重なって聞こえます。この二つはスターバト・マーテルの二大名曲と言っていいのではないでしょうか。ペルゴレージは結核によって26歳で亡くなっており、この曲は彼の白鳥の歌でもあります。
 そしてショルですが、ペルゴレージも歌っています。ただ、この曲はソプラノと一緒に歌うもので、彼だけが活躍するわけではありません。そのソプラノはアメリカのバーバラ・ボニー。オペラの経歴を持つリリック・ソプラノであり、デビューから瞬く間に有名になったそうで、大変上手な歌手です。したがってややオペラを思わせるダイナミックなところがありますが、ショルの力強い部分ともマッチして不思議と調和がれています。8曲目の「私の心を燃え立たせてください」でのフレーズ後半で声を細かく大胆に震わせるところ、次の二重唱など、お互いに歩み寄って一体となり、見事です。 ショルが完璧なのは言うまでもありません。



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       Pergolesi Starbat Mater
       Emma Kirkby (s)   James Bowman (Ct)   Christopher Hogwood   The Academy of Ancient Music


ペルゴレージ / スターバト・マーテル     
エマ・カークビー (ソプラノ)/ ジェームズ・ボウマン(カウンター・テナー)
クリストファー・ホグウッド / エンシャント室内管弦楽団
 ただ、ソプラノ が活躍するとなるとカークビーの盤も外せません。この真っすぐに清らかに歌う古楽唱法のソプラノ、バーバラ・ボニーとは当然ながら大変違うアプローチで す。カウンター・テナーのジェームズ・ボウマンも悪くありません。正直、この盤は個人的には最も好きなものです。ショルのページでこんなことを言うのもな んだかですが。



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       G.F. Haendel   Ombra mai fu
       Andreas Scholl (Ct)   Akademie fur Alte Musik Berlin


ヘンデル「オンブラ・マイ・フ」
アンドレアス・ショル(カウンター・テナー)/ ベルリン古楽アカデミー      
 ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」(懐かしき木陰よ) も出ています。もはや何の説明も要らない、クラシック界最高のメロディーです。「ヘンデルのラルゴ」という言い方の方が有名でしょうか。ビブラートをかけ て音程を揺するオペラ歌手に歌われるよりも、この方が清楚で何としっくりくることでしょう。この曲のベストだと思います。有名曲の寄せ集めもいいですが、ここではヘンデルの曲ばかり集めてあり、アルバムとしての統一性もあります。



    scholldowland
       English Folksongs & Lute Songs
       Andreas Scholl (Ct)   Andreas Martin (lute)


ダウランド他 イギリスのフォークソングとリュート歌曲
アンドレアス・ショル(カウンター・テナー)/ アンドレアス・マルティン(リュート)
 リュートの伴奏に乗せて歌われる17世紀イギリス・ルネサンス期の歌曲 集ですが、中心はジョン・ダウランド(1563-1626)で、この当時一世風靡した Flow, My Tears 「流れよ、わが涙」が目玉です。ここではそれ以外に十曲と、同時代のトマス・カンピオン(キャンピオン)が三曲、無名の作者によるものが二曲、フォーク・ ソングが五曲入っています。「憂いに満ちた」と評される、ちょっと物悲しくも優雅で人懐っこいメロディのイギリスの音楽が堪能できます。ショルの歌唱はこ こでも澄んでいて圧倒的に上手です。1996年ハルモニア・ムンディ・フランスです。

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 この人の代表作という意味でなら、ここでは取り上げませんでしたが、ショルはバッハの大作でも素晴らしい歌唱を見せています。ベルギーの指揮者フィリップ・ヘレヴェッヘとコレギウム・ヴォカーレ・ゲントの演奏するCDで独唱者として採用されており、それらはマタイ受難曲ヨハネ受難曲ミサ曲ロ短調の 項で扱っています。マタイではレチタティーヴォとして三曲、アリアとして四曲、ヨハネでは二つのアリア、ロ短調ミサではグロリアの中のアリアと最後から二 番目のアニュス・デイです。どれもみな圧倒的で、競合する他の盤のカウンター・テナーたちに申し訳ないほどの美しさです。マタイ受難曲での有名な39曲目 のアリア「憐れみたまえ、わが神よ」はバッハの中でも名旋律として通っていますから、色々好みもあることと思います。しかしショルに悪い点を探し出すのは 難しいのではないでしょうか。ミサ曲ロ短調でのアニュス・デイには静かな音でゆっくり延ばす部分があり、多くの歌い手が苦しげで不安定な音を聞かせます が、ショルは余裕で抑揚すらつけます。ヨハネ受難曲の30曲目のアリア 「すべては果たされた」も全く同様です。この曲はマタイのアリアに劣らず切々と訴えてくる名旋律でもありますので、マタイ受難曲しか聞いていない方には是非楽しんでいただきたいと思います。
 カンタータでも一枚出ています。「カンタータ・フォー・アルト」というタイトルで、アルトというのはここではショルのことです。彼のためのアルバムと言っても良いほどです。
 


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       Patrick Husson   Sopraniste

パトリック・ユッソン / ソプラニスタ   
 ついでといってはなんですが、カウンター・テノールがアルトの声域を歌うとすれば、その一つ上 のソプラノの領域を歌う男性歌手というのもあります。ソプラニスタ(英:ソプラニスト)といいます。さすがにこれになると声を出せる人も少ないのか、有名 な人としては、本業が庭師である(!)フランスのパトリック・ユッソンという人がいますが、CDも他にはそれほどたくさんは出ていないようです。そのユッ ソンの一枚、本当に男ですか、という声ですが、ルネサンス期からバロックにかけて活躍したイタリアの作曲家でカストラートだったという噂もある、アレグリの「ミゼレーレ」という有名な曲が入っています。楽譜が門外不出となっていた曲 をモーツァルトが一回聞いて諳んじた話が有名でしょうか。様々にアレンジされて各方面で歌われている名曲であり、ボーイソプラノもよく取り上げますが、 ユッソンの歌は全く見事です。そしてこのアルバムはほとんどが古い時代の音楽なのですが、最後に現代の作曲家であるトーマス・ブロッホの「クリスト・ホー ル」:マルク・シャガールへのオマージュという不思議な音の曲が入っています。グラス・ハーモニカの幻想的な伴奏の上でユッソンのどこにも属さない声が漂 うというもので、不協和音ではなくハーモニーが美しいながら、高く澄んだ孤高の、ちょっと未体験な世界です。



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