ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
Beethoven: Piano Conerto No.5 in E-flat major op.73 "Emperor" 

beethovenpfconcertos

取り上げる CD 31枚: ギーゼキング/ホロヴィッツ/カーゾン/バックハウス/カサドシュ/ケンプ/ゼルキン(’62/’81)/グールド
/エッシェンバッハ/ギレリス/ルービンシュタイン/ブレンデル/ポリーニ(’78/’92)/ミケランジェリ/アラウ(’64/’84)/ペライア
/アシュケナージ/ツァハリアス/ツィメルマン(’89/’20)/シフ/インマゼール/グリモー/オコーナー/ルイス/バルナタン
/ベズイデンハウト/コルスティック


作曲年代
 
5曲あるベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも傑作とされているのが「皇帝」と呼ばれる第5番です。短調でメロディアスなところがある第3番も人気があるけど、知られている度合いから行けば圧倒的に5番の方でしょう。作曲されたのは1808年から09年にかけてで、ベートーヴェン三十八歳頃ということになります。「第5」や「田園」交響曲などと同じで、中期のいわゆる「傑作の森」(ロマン・ロラン)の時期であり、私生活では耳が聞こえなくなって来て書いたハイリゲンシュタットの遺書が1802年ということで、その困難な時期はすでに乗り越えています。懇意にしていた年下のエルデーディ伯爵夫人宅に住み、年金を世話してもらったりしていた頃です。ナポレオンのフランス軍がウィーンを占領した時期でもあり、
ベートーヴェンはウィーン脱出も考えていました。年金は夫人が彼を引き止める口実でした。


表題について
 
「皇帝」という表題は、「英雄」交響曲に関連して話が出て来るナポレオンのことではありません。ナポレオンはすでに四年前の1804年には皇帝に即位しており、ベートーヴェンはそれに怒ったとされています(「英雄」自体もナポレオンとは関係ないとする説もあります)。このタイトルは作曲家自身によって与えられたものではなく、後に他者がその壮麗な曲調から名付けたもので、英語圏で流通しました。とはいっても初演時は不評で、生前に演奏されることはもうありませんでした。その初演も第4番は自身でピアノを弾いたけれども、難聴が進んだのでこの曲は他者に任せました。演奏時間は40分ほどと長く、五つのピアノ協奏曲中最大となります。壮麗なのは主に第一楽章で、第三楽章とつながっている
第二楽章は静かであり、ベートーヴェンの緩徐楽章としても最良の一つと言える美しい旋律が聞けます。


主な録音
 これまでに多くの録音がされて来ました。色々なピアニストが挑戦しましたが、
区切って強く打鍵するようなダイナミックさや指が高速で回るパッセージなどが聞かれると人気は出やすいようです。微細な抑揚の感覚で勝負する人は案外違いが分かられない傾向にあるのでしょうか。中には連続的な抑揚変化ではなく、一音の美しさ、磨かれた音色を響かせるために音間と強さを選ぶような人もいます。ミケランジェリなどはそういう仕方で高い評価を得ているのかもしれません。以下に録音黎明期から最近のまでをまとめてみます。全てではないけれども手に入りそうなものはなるべく網羅したつもりです。収録された年代順です。古い録音はそれだけで価値を認められることもあり、演奏者が同時代の空気を知っているから良いのだと言われたりもしますが、ベートーヴェンの場合は時代的に当てはまらないでしょう。かといって古楽演奏の解釈がその当時を正確に反映しているかどうかも分かりません。ピリオド奏法かどうかは具体的に紹介する本文の方で触れます:

ウィルヘルム・バックハウス/ランドン・ロナルド/ロイヤル・アルバート・ホール管弦楽団/1927 APR (monaural)
ワルター・ギーゼキング/ブルーノ・ワルター/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1934 Columbia, Naxos (monaural)
ベンノ・モイセイヴィッチ/ジョージ・セル/ロンドン・フィルハーモニック/1938 Naxos (monaural)
ルドルフ・ゼルキン/ブルーノ・ワルター/ニューヨーク・フィルハーモニック/1941 Columbia
アルトゥール・シュナーベル/フレデリック・ストック/シカゴ交響楽団/1942 RCA (monaural)
ワルター・ギーゼキング/アルトゥール・ローター/ベルリン放送管弦楽団/1945 Music and Arts (stereo)
ルドルフ・ゼルキン/ユージン・オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団/1950 Diapason (monaural)
エドウィン・フィッシャー/ウィルヘルム・フルトヴェングラー/フィルハーモニア管弦楽団/1951 Electorola (monaural)
ワルター・ギーゼキング/ヘルベルト・フォン・カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団/1951 EMI
マイラ・ヘス/エドゥアルド・ファン・ベイヌム/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団/1952 Tahra (monaural)
ロベール・カサドシュ/マルコム・サージェント/BBC交響楽団/1952 ica (monaural)
ウラディミール・ホロヴィッツ/フリッツ・ライナー/RCAビクター交響楽団/1952 RCA (monaural)
ウィルヘルム・バックハウス/クレメンス・クラウス/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1953 Decca (monaural)
ウィルヘルム・ケンプ/パウル・ファン・ケンペン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/1953 DG (monaural)
ウィルヘルム・バックハウス/上田仁/東京交響楽団/1954 TBS Vintage Classics (monaural)
ワルター・ギーゼキング/クルト・ヴェス/NHK交響楽団/1953 Naxos
ウィルヘルム・バックハウス/ハンス・クナッパーツブッシュ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1954 Memories (monaural)
ソロモン・カットナー/ハーバート・メンゲス/フィルハーモニア管弦楽団/1955 EMI, Testament (monaural) ワルター・ギーゼキング/アルチェオ・ガリエラ/フィルハーモニア管弦楽団/1955 EMI (stereo)
ウィルヘルム・バックハウス/ゲオルク・ショルティ/ケルン放送交響楽団/1956 Medici Masters (monaural) ケーザ・アンダ/ハンス・ロスバウト/南西ドイツ放送交響楽団/1956 Hänssler (monaural)
アルトゥール・ルービンシュタイン/ヨーゼフ・クリップス/シンフォニー・オブ・ジ・エアー/1956 RCA
ワルター・ギーゼキング/グィド・カンテッリ/ニューヨーク・フィルハーモニック/1956 Stradivarius, Cetra, Paragon (monaural)
エミール・ギレリス/レオポルト・ルートヴィヒ/フィルハーモニア管弦楽団/1957 EMI (stereo)
クリフォード・カーゾン/ハンス・クナッパーツブッシュ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1957
Grand Slam (stereo)
クラウディオ・アラウ/オットー・クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団/1957 Testament (monaural)
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/ヴァーツラフ・スメターチェク/プラハ交響楽団/1957 Altus (monaural)
ルドルフ・ゼルキン/フランコ・カラッチオーロ/RAIナポリ・A・スカルラッティ管弦楽団/1958
Istituto Discografic (monaural)
クラウディオ・アラウ/アルチェロ・ガッリエラ/フィルハーモニア管弦楽団/1958 Artemisia
エミール・ギレリス/クルト・ザンデルリンク/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団/1958 EMI
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/マッシモ・フレッチャ/ローマRAI交響楽団/1959
Classic Archive (monaural)
ウィルヘルム・バックハウス/ハンス・シュミット・イッセルシュテット/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1959 Decca (stereo)
マウリツィオ・ポリーニ/マッシモ・プラデッラ/RAIローマ交響楽団/1959 Archpel, Memories (monaural) ミンドゥル・カッツ/ジョン・バルビローリ/ハレ管弦楽団/1959 Cembal D’amour (stereo)
アンドール・フォルデス/フェルディナント・ライトナー/バンベルク交響楽団/1960 DG (stereo)
クラウディオ・アラウ/ピエール・モントゥー/ボストン交響楽団/1960 West Hill Radio (monaural)
ロベール・カサドシュ/ハンス・ロスバウト/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団/1960 Philips, Newton Classics
ヴァン・クライバーン/フリッツ・ライナー/シカゴ交響楽団/1961 RCA
ウィルヘルム・ケンプ/フェルディナント・ライトナー/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/1961 DG
アルフレート・ブレンデル/ズービン・メータ/ウィーン交響楽団/1961 Vox
レオン・フライシャー/ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団/1961 Sony
ルドルフ・ゼルキン/レナード・バーンスタイン/ニューヨーク・フィルハーモニック/1962 Columbia
ウィルヘルム・バックハウス/ヨーゼフ・カイルベルト/南ドイツ放送交響楽団/1962 APR
アルトゥール・ルービンシュタイン/ユージン・オーマンディ/フィルハーモニア管弦楽団/1963 BBC Legends
アルトゥール・ルービンシュタイン/エーリッヒ・ラインスドルフ/ボストン交響楽団/1963 RCA
クラウディオ・アラウ/ベルナルト・ハイティンク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団/1964 Philips ニキータ・マガロフ/ジョージ・セル/シュターツカペレ・ドレスデン/1965 Andante
スティーヴン・コヴァセヴィッチ/コリン・デイヴィス/ロンドン交響楽団/1965 Decca
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/イントリッヒ・ローハン/読売日本I交響楽団/1965 Altus (monaural)
グレン・グールド/レオポルド・ストコフスキー/アメリカ交響楽団/1966 Columbia
エミール・ギレリス/ジャン・マルティノン/シカゴ交響楽団/1966 Everlast
ウィルヘルム・ケンプ/外山雄三/NHK交響楽団/1967 King International
ダニエル・バレンボイム/オットー・クレンペラー/ニュー・フィルハーモニア管弦楽団/1967 EMI
エミール・ギレリス/ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団/1968 EMI
スティーヴン・コワセヴィチ/コリン・デイヴィス/ロンドン交響楽団/1969 Philips
ジョン・オグドン/ヤッシャ・ホーレンシュタイン/BBCノーザン交響楽団/1969 BBC Legends (monaural) アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/セルジュ・チェリビダッケ/スウェーデン放送交響楽団/1969 Weitblick (monaural)
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/ジャン・マルティノン/フランス国立放送管弦楽団/1970 Music and Arts
ウラディーミル・アシュケナージ/ゲオルク・ショルティ/シカゴ交響楽団/1972 Decca
クリストフ・エッシェンバッハ/小澤征爾/ボストン交響楽団/1973 DG, Pentatone
エミール・ギレリス/ギュンター・ヴァント/ケルン放送交響楽団/1974 Profil
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/セルジュ・チェリビダッケ/フランス国立放送管弦楽団/1974 Altus (stereo)
アルトゥール・ルービンシュタイン/ダニエル・バレンボイム/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団/1975 Sony
アレクシス・ワイセンベルク/ヘルベルト・フォン・カラヤン/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/1977 Tokyo FM
アルフレート・ブレンデル/ベルナルト・ハイティンク/ロンドン・フィルハーモニック/1977 Philips
マウリツィオ・ポリーニ/カール・ベーム/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1978 DG
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ/カルロ・マリア・ジュリーニ/ウィーン交響楽団/1979 DG
ルドルフ・ゼルキン/小澤征爾/ボストン交響楽団/1981 Telarc
ユーリ・エゴロフ/ウォルフガング・サヴァリッシュ/フィルハーモニア管弦楽団/1982 EMI
アルフレート・ブレンデル/ジェームズ・レヴァイン/シカゴ交響楽団/1983 Philips
ウラディーミル・アシュケナージ/ズービン・メータ/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1983 Decca
クラウディオ・アラウ/コリン・デイヴィス/ドレンスデン・シュターツカペレ/1984 Philips
キャロル・ローゼンバーガー/ジェラード・シュワルツ/ロンドン交響楽団/1985 Delos
マレイ・ペライア/ベルナルト・ハイティンク/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団/1986 Columbia
ウラディーミル・アシュケナージ/クリーヴランド管弦楽団/1987 Decca
シュテファン・ヴラダー/バリー・ワーズワース/カペラ・イストロポリターナ/1988 Naxos
クリスティアン・ツァハリアス/ハンス・フォンク/シュターツカペレ・ドレスデン/1988 EMI
野島稔/山田一雄/札幌交響楽団/1989 King International
クリスティアン・ツィメルマン/レナード・バーンスタイン/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1989 DG メルヴィン・タン/ロジャー・ノリントン/ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ/1990 EMI
マウリツィオ・ポリーニ/クラウディオ・アバド/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/1992 DG
モンデカイ・シェホリ/ジェームズ・ボレ/ニューハンプシャー交響楽団/1992 Cembal D’amour
杉谷昭子/ジェラルド・オスカンプ/ベルリン交響楽団/1994 Brilliant
マイケル・ロール/ハワード・シェリー/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団/1995 RPO
ロバート・レヴィン/ジョン・エリオット・ガーディナー/オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティーク/1995 Archiv
アンドラーシュ・シフ/ベルナルト・ハイティンク/ドレスデン・シュターツカペレ/1996 Teldec
ヨス・ファン・インマゼール/ブルーノ・ヴァイル/ターフェルムジーク・バロック・オーケストラ/1997 Sony エフゲニー・キーシン/ジェームズ・レヴァイン/フィルハーモニア管弦楽団/1997 Sony
アルフレート・ブレンデル/サイモン・ラトル/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/1998 Philips
内田光子/クルト・ザンデルリンク/バイエルン放送交響楽団/1998 Decca
ピエール=ロラン・エマール/ニコラウス・アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団/2002 Teldec
中村紘子/ギュンター・ピヒラー/オーケストラ・アンサンブル金沢/2003 Avex Classics
仲道郁代/パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメン/2004 Ariola Japan
アルテュール・スホーンデルヴルト/アンサンブル・クリストフォリ/Alpha 2004
イェフィム・ブロンフマン/デヴィッド・ジンマン/チューリヒ・トーンハレ管弦楽団/2005 Arte Nova
ボリス・ベレゾフスキー/トマス・ダウスゴー/スウェーデン室内管弦楽団/2005 Simax
エレーヌ・グリモー/ウラディーミル・ユロフスキー/シュターツカペレ・ドレスデン/2006 DG
ミハイル・プレトニョフ/クリスティアン・ガンシュ/ロシア・ナショナル管弦楽団/2006 DG
ジャスミンカ・スタンチュール/グスタフ・クーン/ボルツァーノ・トレント・ハイドン管弦楽団/2007
Col Legno
ジョン・オコーナー/アンドレアス・デルフス/ロンドン交響楽団/2007 Telarc
マリオ・ガレアーニ/グルジェゴルス・ノヴァーク/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団/2007
Orchid Classics
ティル・フェルナー/ケント・ナガノ/モントリオール交響楽団/2008 ECM
イディル・ビレット/アントニ・ヴィト/ビルケント交響楽団/2008 Naxos
オッリ・ムストネン/タピオラ・シンフォニエッタ/2009 Ondine
ロナルド・ブラウティハム/アンドルー・パロット/ノールショピング交響楽団/2009 BIS
エフゲニー・スドビン/オスモ・ヴァンスカ/ミネソタ管弦楽団/2010 BIS
ポール・ルイス/イエジー・ピエロフラーヴェク/BBC交響楽団/2010 HMF
ルドルフ・ブッフビンダー/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団/2011 Sony
キム・ソヌク/チョン・ミュンフン/ソウル・フィルハーモニー管弦楽団/2013 DG
リ・ユンディ/ダニエル・ハーディング/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団/2014 DG
レイフ・オヴェ・アンスネス/マーラー・チェンバー・オーケストラ/2014 Sony
ネルソン・フレイレ/リッカルド・シャイー/ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団/2014 Decca
ハンネス・ミンナール/ヤン・ヴィレム・デ・フリエンド/ネザーランド交響楽団/2014 Challenge Classics シプリアン・カツァリス/ネヴィル・マリナー/アカデミー室内管弦楽団/2014 Piano21
辻井伸行/オルフェウス室内管弦楽団/2014 Avex Classics
ラルス・フォークト/ノーザン・シンフォニア/2016 Ondine
イノン・バルナタン/アラン・ギルバート/アカデミー室内管弦楽団/2017 Pentatone
アレッシオ・バックス/サイモン・オーヴァー/サウスバンク・シンフォニア/2017 Signum UK
クリスティアン・ベズイデンハウト/パブロ・エラス=カサド/フライブルク・バロック・オーケストラ/2017 HMF
ニコラ・アンゲリッシュ/ロランス・エキルベイ/インスラ・オーケストラ/2018 Erato
エリーザベト・ソンバール/ピエール・ヴァレー/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団/2019 Signum UK
ボリス・ギルトブルグ/ワシリー・ペトレンコ/ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団/2019 Naxos
ジョナサン・ビス/ダーフィト・アフカム/スウェーデン放送交響楽団/2020 Orchid Classics
クリスティアン・ツィメルマン/サイモン・ラトル/ロンドン交響楽団/2020 DG
ミヒャエル・コルスティック/
コンスタンティン・トリンクス/ウィーン放送交響楽団/2021cpo
イム・ユンチャン/ホン・ソグォン/光州交響楽団/2022 DG
リード・テツロフ/パヴェウ・カプワ/プラハ・フィルハーモニー管弦楽団/2023 Aparte



   giesekingemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Walter Gieseking (pf)
      Artur Rother   Grosses Funkorchester

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ワルター・ギーゼキング(ピアノ)
アルトゥール・ローター / ベルリン放送管弦楽団
 ギーゼキングは1895年フランス生まれのドイツ人ピアニストで、1956年には亡くなっています。55年にバスで事故に遭って奥さんを亡くし、自身も頭部に怪我を負っていました。ほぼモノラル時代の人だけど、モーツァルトとドビュッシーの演奏では定評があります。幼少期から特殊な能力を発揮して自分の意見を持ち、学校に行かずに蝶や蛾の採集を続けた結果、研究者としてのそのコレクションが博物館で見られるという一面もあります。ピアノはグロトリアンやベヒシュタインを用い、その時代から「新即物主義」の影響を指摘されることもある明晰な解釈、直感的で繊細なタッチに特徴があると言われます。

「皇帝」はすでに1934年にワルターと録音してましたが、ここで取り上げるのはベルリンで1945年1月23日に収録された(本当にそんなことがあるのでしょうか。前年の6月がノルマンディー上陸作戦、8月にはパリが陥落して数日前にソ連軍が領内に侵攻して来ており、同年5月2日にドイツは降伏します)、恐らく世界初ではないかとされているステレオ録音によるもの(ヒトラーの演説も記録された AEG 製磁気テープ式マグネトフォンによるもので、連合国側ではステレオは早くても55年ぐらいからでしょう)です。対空砲火の音がノイズとして混じっているという曰く付きのもので、第一楽章16分50秒の直前ぐらいからティンパニのような音が何度か聞こえます。高射砲部隊配属だったリヒター=ハーザーが頑張ってるのかもしれません。この後もギーゼキングは51年にカラヤンと、53年には来日公演で N響と、55年にはガリエラ、翌56年にはカンテッリの指揮で「皇帝」を入れており、ガリエラ盤はもう一つのステレオ録音なのでそちらを取り上げても良かったかもしれません(EMI)。音のコンディションもそっちの方がオーケストラのつぶれ具合ではやや良いと思います。ただしもうちょっとオフで響きが抑えられており、ピアノは案外45年盤の方がきれいです。解釈は似ていて第一楽章などほぼ同じように聞こえるけれども、第二楽章ではこの戦時中の録音の方が静けさと緊張感があり、反対に前に急ぐ感じが少なくて落ち着きも感じられます。したがってトータルではこちらかなと思った次第です。

  第一楽章出だしでは高速度で華々しく弾かれるのに驚きます。軽々としたタッチで他のドイツの大御所たちとはちょっと違うかもしれません。抑揚表現については余分なことはしません。ためる方向ではなく、さらさらと流れます。特定の拍で前倒しになる種類ではないながら多少前のめりなところもあるでしょうか。しかしゆっくりなパートで音間が機械のように全部均等というわけではなく、ちゃんと独特の間合いの表情(揺れ)は施しています。全体にはきはきとして明るく爽やかで、人々がベートーヴェンに求める輝かしさもあるでしょう。

  第二楽章は前後の延び縮みを加えて見事な抑揚で弾かれます。テンポはやや軽快な方です。少しためてから強くアクセントを施しながら拍を進める場面もありますが、重くは感じません。大変均整の取れた美しい表現だと思います。あまり意味はないと思いますが、情緒にのめり込み過ぎないという意味では確かに新即物主義的とも言えるかもしれません。第三楽章に入るとまた軽快に運んで行きます。

 前述したように1945年の驚きのステレオです。CD のレーベルはミュージック・アンド・アーツとなっています。高域の弦がフォルテでややつぶれる一方で、通常古い録音で感じられるような中域のこもり/箱鳴り感はありません。残響が多めで爽やかに響きます。



   horowitzemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Vladimir Horowitz (pf)
      Fritz Reiner   RCA Victor Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ウラディミール・ホロヴィッツ(ピアノ)
フリッツ・ライナー / RCAビクター交響楽団
 録音における超絶技巧の元祖的な存在で、ショパンで有名なホロヴィッツ (1903-1989) です。ウクライナのキーウ生まれのユダヤ系ピアニストであり、ドイツにも1925年から住んでいたものの、39年からはアメリカに移住し、後に市民となっているのでナチの迫害は受けませんでした。トスカニーニとの最初の共演が1933の「皇帝」で、その年にその娘ワンダと結婚していますから、この曲は特別な意味があるかもしれません。本人はゲイだとされました。ニューヨーク・スタインウェイを愛用しました。

 あらためてどんな演奏と言う必要もないのかもしれませんが、速いけど一音ずつがくっきりとしてバラバラと馳けて行く様はこの人らしいものです。左手もしっかりと輪郭が目立ち、総じて隈取りがはっきりしていて鮮やかです。強い音は極めて強く、連なる音が超高速になる瞬間もあり、静かなパートでは明快でありながらも多少遅らせるようにルバート気味にためを効かせるところも聞かれます。全体にピアノの音が大きいのではないでしょうか。これこそがと興奮する人と、聞き疲れする人の両方があり得ると思います。

  第二楽章は速くはなく、比較的真っ直ぐに進め、やはり一音ずつくっきりと音を目立たせつつという感じです。この演奏では特にそういう平坦な部分が目立つでしょうか。人によっては速いパッセージ以外は大技を際立たせるためのコントラストとして存在しているに過ぎないなどと悪口を言うこともあったようだけど、独特の洒脱で枯れたニュアンスを聞かせるショパンもあったりするので必ずしもそれは当たらないと思います。ここではスタッカートもくっきりがっちりと効かせ、管弦楽の伴奏に回った部分など真面目に一音一音鳴らしている感もあり、それが終わって第三楽章になるとまたあの強いタッチが戻って来たりするのでなるほどと思わなくもないですが。しかしこの最後の楽章は特段速い運びというわけではありません。オーケストラも曖昧さのないライナーの指揮でくっきりとしていて相性がいいです。

 1952年の RCA の乾いた音の録音です。煌びやかで、演奏に相応しいと思います。年代相応の歪みは仕方ないでしょう。モノラルです。



   curzonemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Clifford Curzon (pf)
      Hans Knappertsbusch   Vienna Philharmonic

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ハンス・クナッパーツブッシュ / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
 クリフォード・カーゾンは1907年生まれで82年没のイギリスのピアニスト。モーツァルトで評価が高いです。くっきりとした明瞭な響きのピアノで、形は崩さないけど非の打ちどころのないリズムと抑揚でさらっと弾いて行くという印象があります。同じくモーツァルトで評価されるフランスのカサドシュ(「皇帝」は三年後に録音、次の次の項で扱います)とどことなくというか、形を崩さずあっさりしてクリスプなところが似ているような気もします。19世紀生まれでワーグナーを得意とする指揮者のクナッパーツブッシュは一部の熱いファンから絶大な評価を受けています。

 華麗なピアノという最初の印象です。音のバランスも手伝ってか、オーケストラもかなり明るく溌剌とした感じです。第一楽章ですが、ピアノは結構テンポが良く、粗さはないけどやや落ち着きがないとも言えるぐらいに走り回る感じがします。抑揚は十分あるけど癖は全くない、ニュートラルな表現です。

 第二楽章はさらっとしたテンポで入り、ピアノが入る頃には普通の速度となり、これもディナーミク、アゴーギクともに適切な抑揚を加えながらも癖がなく、くっきりとした音色でクリアに弾いて行きます。こうした緩徐楽章でもトリルなどで輝きを感じます。音質のせいもあるでしょう。第三楽章も癖がなく、適度なテンポで元気良く進めます。

  今回聞いたのはサブスクライブの配信による CD クオリティのファイルを普段聞いているオーディオ機器で DA 変換したもので、サイトには History Records 2011年リマスターと書かれています。CD も色々と出ていて手に入るし、リマスターも何度もされて来ており、この後の2023年にも出ていますが、買ってはいません。少なくとも聞いたものについては、輝かしくも艶のあるピアノの音に調整されています。オーケストラはアタックで潰れるけれどもこれはオリジナルがそうなっているからでしょうから仕方ありません。高域が少し持ち上がって響く反響のついた音です。 



   backhausemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Wilhelm Backhaus (pf)

      Hans Schmidt-Isserstedt   Vienna Philharmonic

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ウィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

ハンス・シュミット・イッセルシュテット / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

 出身のライプツィヒの紋章に因んで「鍵盤の獅子王」とも呼ばれるドイツの大御所ピアニスト、バックハウス(1884-1969)です。評価の高いベートーヴェンのソナタなどでは、特に最後の作品など、少し前倒しに駈けるようなところが落ち着かずに個人的には好みではなかったのですが、この「皇帝」は見事と言ってよいでしょう。

 かなり音質がいいので驚きます。軽めのピアノの音は艶もあり、ピンと張って金属的にならない高い方の響き、特に和音になったところに特徴があります。この人が好んで弾いていたベーゼンドルファーでしょうか。弾き方もさほど前に転ぶように駈けて行く場面はなく、オーソドックスに運びます。イッセルシュテットのオーケストラも明るく輝かしく柔軟で、言うことはありません。速めとは言えないけどテンポは遅い方ではなく、溌剌として気持ちが良いです。バックハウスの個性が出ているのかどうかは分かりませんが、これなら大変満足です。

  第二楽章のテンポも遅からず速からず理想的であり、爽やかです。オーケストラの弱めのニュアンスも良いです。ピアノも素直に歌っており、さらっとはしているけど素っ気なさは全然なく、表情を付け過ぎないのも良いものだなと思えます。スタッカートの部分で少し速くてくっきり区切るのはバックハウスらしいかもしれません。余分な飾りを付けず、下手に情緒にのめり込まない覚醒した空気感は格調美と言えるでしょう。同じドイツの大御所ピアニストとしては常にケンプと比べられるわけで、慈愛に満ちた歌を聞かせるケンプの方が個人的には好みながらも、これも確かに悪くありません。第三楽章ももっと走るかと思いきやオーソドックスで安心して聞いていられます。拍に遅らせる側のためすら聞かれます。

 1959年というステレオ最初期のデッカの録音だけど、上記のようにコンディションは大変良いです。19世紀生まれの鍵盤の権威の演奏がこんな音で聞けるのはうれしい限りです。



   casadesusemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Robert Casadesus (pf)
      Hans Rosbaud   Royal Concertgebouw Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ロベール・カサドシュ(ピアノ)
ハンス・ロスバウト / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
 端正であっさりとしたところがどことなくカーゾンと似ている気がすると書いてしまったカサドシュですが、こちらはイギリスではなくフランス人ピアニスト。生まれは1899年のパリで、1972年に亡くなっているのでカーゾンよりもだいたい十年ぐらい前にずれた世代です。

 最初の楽章からです。さらさらと流れるところと歩調を緩めるところとがあるけれども、癖はあまり感じません。カーゾンより丁寧感があるでしょうか。走るところはカーゾンほどはあまり前面に出ない一方、瞬間的にためたり揺らしたりもせず、そこが端正な印象です。駈けるのではなく跳ねるように弾く場面もあり、どちらの手法も軽くは感じさせるので、そんなところから両者が被って感じられるのかもしれません。元々似てると思ったのはモーツァルトでだったわけですが。

 緩徐楽章である第二楽章はテンポはやや速めに感じるもので、ピアノに静けさがあり、あまりためずに歌って行きます。ここも走るわけではないけど少し前へと早く流れるフレーズはあり、軽く上品であっさりしています。第一楽章でもカーゾンと似た軽さと言ったけど、カーゾンの方は速いパートで、こちらのカサドシュの方はむしろこうしたゆったりしたフレーズで特にそんな印象が出るようです。第三楽章も端正です。

 1960年の録音で原盤はフィリップス、レーベルはニュートン・クラシックスとなっています。少しこもり気味の音ながら残響はあります。ピアノもカーゾンの方がはっきりしていました。



   kempffemperor   expo70
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Wilhelm Kempff (pf)
♥♥
      Ferdinand Leitner    Berlin philharmonic


ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ウィルヘルム・ケンプ(ピアノ)
♥♥
フェルディナント・ライトナー / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ドイツが誇る19世紀生まれのピアニストとしてバックハウスと並び立つ大家であるケンプ。この二人、人々の好みも二分される傾向があるようです。ドイツが誇ったということが窺える例として、古い話ですが、1970年の大阪万博のドイツ館でおみやげとして売られていたものの中に記念レコードがあり、そこにシュトックハウゼンなどと共にこのケンプの「皇帝」の第二〜三楽章が入っていたということがありました(写真上右)。個人的な話ながら、その演奏によって初めてこの曲に接したので、以後それが当たり前となってしまって音盤探しのハードルが上がったということもありました。また、ベートーヴェンの緩徐楽章の美しさを教えてもらったのもその LP でした。今聞いてみても全く色褪せません。ケンプの歌にはいつも凛とした何ともいえない深みがあります。さらっとしているのに瞑想的で、超然とした気高さを感じさせるのです。晩年のバッハも素晴らしいです。1895年生まれで1991年に亡くなりました。父親が教会オルガニストという家に生まれ、現在有名なコンクールなどなかった時代にデビューしたピアニストです。

 最初の楽章は堂々としています。ピアノは延び縮みはあって一様ではないですが、久しぶりにあらためて聞いてみると出だしの上昇から転じて下降するところでは素早くまくっていてちょっと意外でした。ケンプは技術を褒められる側の人ではないからで、何となくの印象としてはそこは表情を付けて焦らず降りてたかとと思い込んでいたからです(LP には第一楽章は入っておらず、CD でも第二楽章にばかり耳を傾けてたせいかすっかり忘れてました)。もちろんこの部分は超速で一気に行く人と余裕でためを入れる人とに分かれるところであり、どちらもありはありです。そしてケンプは馳けた後では緩めるわけで、さすがに楽譜通りに均一な表情で押し切ってしまうなどということはありません。歯切れ良いところはかなり力強く、それ以外ではやわらかな抑揚を施して詩情を感じさせる歌をうたいます。その歌い方のセンスがいいです。このピアニストの美点です。

 したがって第二楽章こそ白眉です。出だしの管弦楽はほどほど中庸のテンポで遅くはなく、ピアノは情緒豊かに、安っぽくならずに絶妙な陰影をつけて歌って行きます。さらっとしてるけど行間の味わいがあるの類です。理想的なアダージョじゃないでしょうか。色々「皇帝」を聞いても、魅力の点で同等な演奏には出会うにせよ、これ以上ということは結局ないかもしれないと考えてしまいます。第三楽章は急ぐことなく、やはり見事な抑揚を施しながら進めます。リズム感も良く、速いパッセージにも表情があります。

 ドイツ・グラモフォンのステレオ・アナログ録音です。1961年ということで、ちょっと古めなのでオーケストラの音の面では若干不利な部分もあるながら、新しい盤はドイツでリマスターもされています。       



   serkinemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Rudolf Serkin (pf)
      Leonard Bernstein   New York Philharmonic

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)

レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニック


   serkinozawaemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Rudolf Serkin (pf)
      Seiji Ozawa   Boston Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)
小澤征爾 / ボストン交響楽団

 ユダヤ系でアメリカで活躍したルドルフ・ゼルキンはピーター・ゼルキンの父親で、ホロヴィッツと同じ1903年生まれで91年に亡くなりました。同じユダヤ系の大御所という意味ではもう一人のルービンシュタインよりも、またドイツ系ではバックハウスやケンプよりも一つ後の世代のピアニストということになります。アメリカへは39年にナチから逃れて移住しました。現チェコ生まれでアメリカの前はウィーンで活躍していたので、ドイツ人ではなかったけれどもドイツものを得意としており、ベートーヴェンでは評価が高い人でした。力強くてちょっと剛毅なタッチで弾くという印象です。したがって「皇帝」も何度も録音しています。主なものは1941年のワルター/ニューヨーク・フィル、50年のオーマンディ/フィラデルフィア管、58年のカラッチオーロ/RAI ナポリ管、そしてステレオになっての62年のバーンスタイン/ニューヨーク・フィル、その後に81年の小澤/ボストン響という具合になっています。

 ステレオの二つを取り上げます。まず62年のバーンスタイン盤からです(写真上)。自分で最初に買った LP だったような記憶があり、懐かしいです。ピアノの音が金属的とまでは言わないけれども芯があってきらきらしており、輝かしい「皇帝」となっています。一音を区切って独立させたかのようにタッチもくっきりとしており、かといって直線的に押し切る超絶技巧的な弾き方ではなく、細かな強弱延び縮みのニュアンスもちゃんとあります。変わったことはしないけど過不足のない力強くて正統派ベートーヴェンという感じです。バーンスタインのオーケストラも大変勢いがあります。

  第二楽章も第一楽章同様に中庸のテンポ設定でオーソドックスであり、オーケストラの導入に関しては遅く静かという方向ではありません。でもピアノは案外静かに入り、ゆったり目でためが効いています。内気で湿り気がある繊細さとは違うけど大変表情豊かです。ふっと弱音に落とすところもあります。スタッカートの部分もしっかり施してはいるけれども走らずに、少し粘っています。途中、名人の目立つ演奏が聞かれるニューヨーク・フィルらしいというか、クラリネットなどの管が浮き出したりします。ミキシングのせいもあるでしょうか。ピアノは高揚するところでも速度は上げず、抑揚で表現します。テンポ自体は終始ゆったりと言ってよいでしょう。第三楽章に入ると一転して強いタッチになり、豪快な演奏に戻ります。オーケストラも力一杯です。切れのいいベートーヴェンを求めている方には持って来いの一枚でしょう。

 ステレオ初期ながら米コロンビアの録音は良く、弦の返しがしっかり聞こえるセッティングの、明るくて少し乾いた輝かしい音となっています。残響はほどよくある方です。

 81年の小澤/ボストン響によるテラーク盤の方(写真下)はというと、ピアノの音は少しおとなしめで若干奥へ引っ込んでいるけど自然になりました。しっとりした印象もあります。オーケストラも同様だけど、昔のフィリップスのようにやわらかい生的な音というほでではないというか、弦は案外前へ出ます。全体としては旧より明らかに音は良いです。演奏について見ます。第一楽章ではオーケストラ、ピアノ共旧バーンスタイン盤よりおとなしいので聞きやすいです。テンポ設定はほどよくおっとりしており、バーンスタインほど興奮波長ではありません。ピアノも剛毅なタッチという感じはほとんどせず、聞いていてなごめるのはこちらかもしれません。でもその分ボルテージは低めです。ゼルキンらしくないかも、とも感じました。

 第二楽章もピアノの設計は同じなのでしょうが、かなり落ち着いていて静かです。緊張感と張りがあったのは旧盤だと思います。訥々と一歩ずつ確かめるように進める場面もあります。繊細な歌の面でも旧の方であって、こちらは終始緩やかな空気感に覆われています。言い方を変えればしっとりしているとも言えるでしょう。ピアノの音は美しいです。第三楽章もゆったりめに入り、力強さでは旧の方が勝っていました。耳にはやさしいです。



   gouldemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Glenn Gould (pf)
      Leopold Stokowski   The American Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
グレン・グールド(ピアノ)
レオポルド・ストコフスキー / アメリカ交響楽団
 大人気の奇才、グールドです。「皇帝」は66年にストコフスキーとやりました。最初の駈け上がるところからまるで古楽みたいに真っ直ぐに弾かないですが、テンポはややゆったりというところ。この速度はオーケストラもピアノに合わせてるのかと思いきや、どうやらストコフスキーの考えらしいです。そして出だしではいかにもと思ったけれども、このペースにグールドの方が合わせてるのならその後のピアノの展開は奇をてらったものでもありません。くっきりと一つずつ明晰に弾いて行きます。決して走らない、テンポを動さかないというところがグールドの考えでしょうか。

 第二楽章もオーケストラの入りはゆったりめですが、ここは多くの演奏者がゆったりやるので遅過ぎるという感じでもありません。ピアノは案外静かな導入です。インテンポです。フレーズをくっきりと正確に弾いて行くところが、常に考えて他人と違うことをするグールドらしいと言えるでしょうか。強弱の表情は瑞々しいですが延び縮みは加えないところが個性的に感じられます。プレーンで四角い精巧な設計図とでも言いましょうか。トリルが遅かったりもします。遅い中に表情を込めます。別におかしなことまではしてないけど、やっぱりこの運びは独特です。通常速めるパッセージでも待っていましたとばかりにゆっくりと分解的に弾きます。第三楽章は少しは速くなるものの、やはりじっくり弾いている感があります。

 1966年のコロンビアの録音で、コンディションはいいです。ピアノも無機的に過ぎることはなく、きれいに響いています。



   eschenbachemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Christoph Eschenbach (pf)
      Seiji Ozawa Boston   Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クリストフ・エッシェンバッハ(ピアノ)
小澤征爾 / ボストン交響楽団
 クリストフ・エッシェンバッハは1940年、ナチ時代のドイツ生まれのピアニストです。両親は音楽家だったけど母親は彼の出産で、父親は45年に戦争で、育ててくれた祖母も難民キャンプで同じ頃に亡くなって孤児となり、養母に音楽教育を受けたという人です。クララ・ハスキル・コンペティションで優勝し、若いときにはその外見でも人気がありました。

 最初の楽章です。ピアノは出だしで技巧系のように指を回して走る華々しさがあり、それでいて遅く緩める箇所では大胆に緩め、静めるところもしっかりと静める感じに表現していて素っ気ないのとは違います。変わったものではないにせよ十分な表情がありつつ、飛ばすところもあって力強いのです。でも個人的にはあまり聞かなかったからか、長らく特徴をつかまえるのが難しいピアニストだと思って来ました。比べるなら同じドイツの上記ゼルキンほどばきぱきとはしていない分大胆に速いところがあるし、その上で同様にオーソドックスでバランスがいいと言えば良いでしょうか。オーケストラも同じ小澤だけどゼルキンのときより覇気があります。

 一方で第二楽章は静かでかなりゆったりです。アゴーギクの延び縮み面では素直に真っ直ぐ、でも部分的に待ってためる拍はあります。スタッカートの部分は随分ゆっくりと静か目にするのが目立ちます。そして情緒的に沈潜するような傾向が感じられます。乾いて覚めた自意識が混じる印象ではなく、また無機的でもないけど、ツィメルマンやミケランジェリなどに共通するようなたっぷりさがあるのです。それは才気溢れる変化に満ちた表情というよりは真面目な丁寧さが勝つものです。個人的にはもう少しさらっと洗練されている方が好みながら、このぐらいの方がいい人も多いでしょう。ブレンデルやペライアのように湿り気のある歌(「皇帝」では違ったけど)ではありませんが。第三楽章に入るとまた軽快に指を回して駈けます。粒の揃ったきれいな音でぽろぽろと流れて行きます。

 1973年のドイツ・グラモフォンの録音です。このレーベルですからやわらかいホールの響きが生っぽいという方向ではないながら、ピアノもきれいだし、良い録音です。くっきりとした輪郭で艶と弾力があり、金属的になり過ぎません。そして本家以外でさらにリマスターされた盤も新しく出ています(ペンタトーン)。



   gilelsemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Emil Gilels (pf)

      Günter Wand   Kölner Rundfunk-Sinfonie-Orchester

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
エミール・ギレリス(ピアノ)

ギュンター・ヴァント / ケルン放送交響楽団
 一時期のロシアン・スクールをリヒテルと二分し、ロシアのピアニズムの特徴を良い形で体現していたようなギレリス (1916-1985) はウクライナ生まれのユダヤ系です。鋼鉄とか鋼(はがね)のようなとか評される力強いタッチでも人気がありましたが、そういう一面とは別に磨かれた美しい音を評価する声もあります。ロシア東欧っぽいというのか、緩徐楽章でのたっぷりとした叙情も特徴と言えるかもしれません。そしてベートーヴェンは得意とするレパートリーでした。したがってかどうか、「皇帝」の録音も複数あり、この1974年のヴァントとの録音の前にも57年にレオポルト・ルートヴィヒ/フィルハーモニア管の EMI 盤(ステレオ)、58年のザンデルリンク/チェコ・フィルによる同じく EMI 盤、66年のマルティノン/シカゴ響盤、68年のセル/クリーヴランド管盤(これも EMI)などが代表的なところでしょう。

 そのうちの比較的新しいセル盤を取り上げても良いかとは思いました。そちらはピアノの音はきらきらではなく自然な艶は感じるものの若干薄め、第一楽章での表現はこのヴァント盤と設計は変わらず、速さで押し切らず、途中所々で余裕のあるゆったり表現を挟むのも同じだけど、ヴァント盤よりも鎮静方向というか、さらに落ち着きへ振っている印象もありました。指揮はセルながらオーケストラも速さはなく、ただしアタックは強めです。緩徐楽章ではかなりゆったりしたオーケストラの導入がそこまでせずともというぐらいで、その後のクレッシェンドを目立たせたいのか大変静かでもあります。全編遅い印象で、ヴァント盤よりも演奏時間も20秒以上長く、耽溺ではないにせよ多少間延びかもとも感じました。三楽章への入りもより普通であり、少し速めです。

 一方でヴァント/ケルン放響盤ですが、セル盤以上に厚みがあり、きらきらし過ぎない音でピアノが捉えられています。そのかいもあってこの人らしい美音が楽しめます。第一楽章は十分な速度だけれども速過ぎず、表情を見せる余裕があります。「鋼」というよりも美しさを感じさせる展開です。弱音にデリカシーがあり、大きな抑揚ではないながら弱めと速度の緩めに繊細さが窺えます。このとき五十八歳で、衰えも全く感じません。力で押し切る演奏ではなく、余分な興奮もこぼさず、完成度が高いです。

 第二楽章は出だしの静けさとゆったりさから過剰なロマンティシズムに傾くのかと思えばそうではなく、大変遅いながらもむしろ淡々としたところがあってべたつきません。その後も基本は遅いながらずっと遅いままでもありません。揺らしに技が効いているタイプではないけれども納得してしまうところがあります。途中からわずかに馳け気味に送るフレーズも出しながら、表情に変化を付けています。強弱のニュアンスは豊かです。全体に落ち着いていて静謐さが感じられる美しい演奏です。そして第三楽章への切り替えでは走らず、落ち着いてフォルテへ移行します。それによってむしろ器の大きな感じがするし、誠実さも感じます。

 1974年の録音なのでコンディションは良いです。レーベルはプロフィールです。上述のピアノの音に加え、オーケストラも含めて全体に落ち着きのある良好な録音です。



   rubinsteinemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Arthur Rubinstein (pf)
      Daniel Barenboim   London Philharmonic Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
アルトゥール・ルービンシュタイン(ピアノ)

ダニエル・バレンボイム / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
 
ホロヴィッツとともに19世紀生まれのユダヤ系としてのもう一人の大御所であり、同じくショパンで有名なルービンシュタインです。1887年のポーランド生まれ。後にナチの台頭とともに移住して後半生はアメリカで過ごし、82年に亡くなっています。「百万ドルトリオ」などと言われた若い時代にはけっこうまくった演奏も聞かれましたが、独特の重みと粘りのあるタッチに特徴があったと言って良いと思います。「皇帝」は何度か録音しています。1956年のヨーゼフ・クリップスとの RCA 盤、63年のオーマンディ/フィルハーモニア管盤、ラインスドルフ/ボストン響による同じ年の録音、そしてここで取り上げる75年のバレンボイムとのものなどが主なところだと思います。これについては八十五歳のときの演奏ということになり、独特の枯れた味があります。

 ピアノ絶妙な揺らしが心地良い出だしです。待つ拍に余裕を感じます。粘りがあるとも言えるけど、ショパンでときに聞かれる重いタッチが足枷になるという感じには、ベートーヴェンの場合はならないように思います。若いときとも弾き方が違っているにせよ、これをこの人の代表盤としても良いと思います。走ることなく、またアタックが強過ぎることもなく悠然としており、多少確かめるような足取りで進めます。静かなパートでは速度をぐっと落とし、急ぐこと、興奮に我を忘れることとは縁遠い大家の風格があります。

 第二楽章も最初の音から重みがあって良いです。ルバートによって表情を付け、ゆったりと弾いて行きます。全く慌てることなく、ときにそのまま止まって終わって行くのかというほど緩められた運びです。でもショパンの協奏曲の緩徐楽章のときほどの寂しい感じ、はかない波長にはならない状態で、ある種の達観と言えると思います。このピアニストの全盛期の録音ではないからそうも言えるわけだし、人によっては力が抜け過ぎている、あるいは遅過ぎると感じるかもしれないけれども、独特の味わいです。「皇帝」の良い演奏というよりは、この人の晩年の芸を聞くためのものでしょう。第三楽章は走らないけど適度にテンポは上げ、それでもやはり落ち着いた風格を感じさせる運びとなっています。

 1975年の録音です。このピアニストとしては大変良好な録音環境ということになります。RCA 原盤で、デッカの技術者であるケネス・ウィルキンソンが関わっているとのことです。弦が艶やかに前へ出るけど硬くならないオーケストラ、しっとりとした艶が乗って落ち着いたピアノの音が味わえます。



   brendelhaitincemperor
      Beethoven Piano Concerto
No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”   
      Alfred Brendel (pf)
♥♥
      Bernard Haitink    London Philharmonic Orchestra


ベートーヴェン / ピアノ協奏曲全集
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)
♥♥
ベルナルト・ハイティンク/ ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

 ブレンデルはベートーヴェンの協奏曲が好きなのか、レコード会社からの依頼が多いのか、何度も全集録音しています。1931年チェコ生まれのオーストリアのピアニストで、ベートーヴェンも評価が高くて人気があります。どの録音が良いかと言えば、最新のラトルとのセットもいいけど、個人的にはハインティンクと組んだフィリップスの最初の全集盤が気に入っており、長らく定番状態でした。今聞いても大変良い演奏だと思います。

 少しだけ各々の内訳を「皇帝」で触れてみますと、1961年のメータ/ウィーン響との VOX 盤は録音が古い分だけクリアさに欠けるところが残念で、残響も少なめでちょっと小編成に思えるようなオーケストラの聞こえ方です。ブレンデルの演奏は速い楽章でさらっと速めのテンポを取るせいか、他の録音よりややあっさりに聞こえます。一方ゆっくりのパートでは軽快なテンポこそとらないものの管弦楽が多少平坦に感じられ、ピアノもあえてスタッカート気味に表現する部分があったりして、意欲的というか若さを感じさせます。ピアノの音自体はオフで、中域で「コーン」という感じの響きです。配信では DENON レーベルで出ているのがこの時のものだと思われます。

 1983年のフィリップスのデジタル録音であるレヴァイン/シカゴ響との演奏はオーケストラの表情が大きめで、場所によっては勇壮な感じに聞こえます。メータ盤ほどではないものの、ライヴのためか音もさほど透明度が高い感じではありません。デジタル初期らしいというか、弦の高域がしゃりっとしてやや目立つ録音です。静かな楽章での表現は流麗滑らかではなく、ブロックごとに力が盛り上がるような印象を受けます。一方でピアノは出だしからちょっと大きめの表情が付き、管弦楽と表現が合っています。第二楽章での表情も心持ち他の録音より大きめに感じます。ピアノの音は丸い艶があり、ハイティンク盤よりおとなしい音です。最後に間髪を入れずに拍手と歓声が入ります。

 三度目になる98年録音のラトル/ウィーン・フィルとのフィリップス盤は、演奏だけからみるとハイティンクとのものと甲乙付け難く、こちらの方が好みの方もいらっしゃるでしょう。巧者ラトルにドライブされた伝統あるオーケストラは力があり、そうかと思うと途中でテンポを絶妙に緩めたりの延び縮みが聞かれます。ピアノは初めさらっと速めながら第二楽章は自然でためが効いており、陰影と立体感があります。オーケストラ共々表情豊かであり、年齢的なこともあるのか、ゆとりが感じられるのがこの演奏だと思います。ハイティンク盤と比べると表情の付け方が違うのでどちらがいいとも言えないけれども、アナログ旧盤の方がピアノには張りがあり、オーソドックスでひたむきな感じがします。そこが好みだし、またそちらを取る一番の理由は音の良さかもしれません。ラトルとの新盤も良い音だけど、比べると普通というのか、バランスと鮮度のより良いハイティンク盤を取りたくなります。常にデジタルの新録音の方がいいとは限りません。

 では、一番好みだったハイティンク/ロンドン・フィルとの1977年盤(上写真)についてです。
ブレンデルという人は、バッハでもモーツァルトでも静かな部分ではまるでロマン派のように、内向きで情緒たっぷりに弾くという印象があります。ピアニッシモに全霊を込めるといった風情で、基本的なメンタリティはペライアに負けず劣らずのしんみり系の人なのかと思うわけです。でも面白いのは、ベートーヴェンの場合では情に流されない理知的なアプローチが見られるということです。多面的な人です。恐らく作曲家ごとに変えているのでしょう。そういうところこそが知的なピアニストと言われる所以だし、ベートーヴェン弾きとして正統とされ、人気がある部分かもしれません。こうした個々の作曲家へのアプローチとしては、個人的にはバッハ/モーツァルトとベートーヴェンが逆のようにも感じるのだけれども、陰影のあるタッチとやわらかさは今回の協奏曲でも生きており、力で押し切らない、情によって混濁しない、それでいて力強さもある理想的なベートーヴェンという気がします。

 第一楽章からピアノは余裕のあるタッチと絶妙に伸縮する呼吸を伴って堂々としており、理想的です。ためが効いてメリハリがあると表現してもいいでしょう。
メータとの61年盤と比べるなら運びこそ変わりはありませんが、スタッカートを目立たせたりせず、抑揚はよりはっきりとしています。しかし技巧が前面に出るタイプとはそもそも雰囲気が違います。そういう意味では人を驚かせるようなパフォーマンスではないので、そうした種類のことを期待する人には刺さらないかもしれません。弱音には繊細な陰影があります。そしてピアノの音自体にも潤いと艶があってこれも見事。言うことがありません。オーケストラも深々としてやわらく、柔軟で生の迫力に近く感じられるバランスで収録されています。演奏も全体に勢いと立体感があり、ラトル盤よりオーソドックスだけど表情が生きています。アラウの旧盤、シフ盤と並んでハイティンクの演奏としても大変良いでしょう。この「皇帝」の録音は繊細な抑揚で勝負するピアニストとオーソドックスな解釈の指揮者という組み合わせだと言えるでしょう。それでいながらも、こうした元気の良い楽章での表現も大変満足が行きます。この方面の演奏としては他にケンプ、このブレンデルの弟子であるルイス、新しいところではバルナタンなどがありますが、それらと並んでこの曲のベスト・パフォーマンスの一つだと感じます。

 第二楽章は中庸ややゆったりのテンポで、ピアノもゆったりしています。最初のうちはあまり延び縮みはつけず、スローながら表現としてはあっさり目に推移しており、敢えて抑制して情緒に入り過ぎないようにしている印象を受けます。その意味ではケンプの方が表情はあったでしょう。ケンプはテンポはさらっとしていながら所々に強いタッチを与え、浮き上がるような呼吸を聞かせていました。つまりより浮き沈みがあったわけです。したがって同じく洗練を求めるにしても、流れるテンポの手法を取るケンプ、よりやわらかく、そして表情を抑え気味にすることでそれを達成するブレンデルという違いがあります。しかしブレンデルも途中からはコントラストを付けて速めるパッセージも聞かせます。一方ポール・ルイスとなると、テンポはケンプのようにやや軽快だけれども、表情はケンプとブレンデルの中間ぐらいというか、ブレンデルより細かな表情を付けているように感じるところもあり、またケンプのように湧き上がる感覚が強いというわけでもありません。でも結局どれも甲乙つけ難いアダージョです。 第三楽章は速過ぎず、弾みとアクセントを付けていて表情は豊かながら、案外あっさりした部分も聞かれます。弱音はこの人らしく効果的に使っています。やはり剛毅な方ではありません。

 そして一番の魅力はピアノの音です。この手のものの中で最もきれいな録音の一つではないでしょうか。1977年のフィリップスです。モーツァルトのコンチェルトも同様の傾向だったけど、この頃のフィリップスのアナログ録音は、とりわけブレンデルのものは大変美しい響きを持っています。客席で聞いた生っぽい自然なピアノの音というのとは違うにしても、演奏者になったかのようにくっきりしており、スタインウェイらしくエッジの立つところはちょっとメタリックさも感じさせ、艶とのバランスが絶妙です。フォルテピアノなんかとは対照的に、剛性のある金属のフレームが20トンの張力に揺らがずに弦を震わせている感じがします。後出ルイスの好録音よりデフォルメされているものの、ピアノの音の魅力を十二分に味わわせてくれます。




   pollinibohmemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Maurizio Pollini (pf)
      Karl Böhm   Vienna Philharmonic

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


   polliniabbadoemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Maurizio Pollini (pf)
      Claudio Abbado   Berlin Philharmonic

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)
クラウディオ・アバド / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 ホロヴィッツからすると新しい世代になる超絶技巧の貴公子、ポリーニです。1942年のミラノ生まれなのでもう貴公子という年齢でもないわけですが、十八歳のときにショパン・コンクールで世間をあっと言わせて登場して来ました。「皇帝」は1978年、三十六歳のときに八十四歳のベームと録音したものと、デジタルになった92年にアバドとやった、どちらも DG の録音が代表的です。他にもマッシモ・プラデッラ/RAI ローマ交響楽団による59年、十七歳のときのモノラル録音というものもあります。

 一応 DG の両方の盤を取り上げますが、正直なところどちらかがすごくどうだというような違いは個人的には感じられませんでした。まずベームとの三十六歳時の方からです(写真上)。出だしからさらさらと気持ち良く流れ、クリスプながら艶のある、磨かれたピアノの音が美しいです。速いところは何の淀みもなく楽々と行き、表情は薄味です。こういう速いパートはやはりクリスタルのようにきれいで、楽譜を理想的な形で音にしたようで魅力的です。

 第二楽章はゆったりと直線的に、音間も等間隔に近い感覚でピアノの音色のきれいさだけを感じさせるかのように流れて行きます。全く嫌味がなく、嫌う理由もないけれどもやはり薄味で、個性を感じさせるよりも純粋という印象です。透明感があるので「皇帝」はこれだけで良いという人がいても納得します。第三楽章に入ると待っていましたとばかりにまたクリスプで胸のすくような、完璧に揃った高速パッセージが聞けます。個人的にはこのピアニストの感性は特別な種類だと思っていて好みの人ではないけれども、ここまで完璧だと確かにこれでいい気がして来ます。高齢のベームが弛いなどという人もあるようながら、過不足なく柔軟性もあって大変良いと思います。

 1978年、ドイツ・グラモフォンのアナログ完成期の録音はこのレーベルらしいですが、大変良い音だと思います。

 次にアバドとの新盤(写真下)の方に移りますが、基本は同じでしょうか。違いを感じるほどこちらが繊細ではないかもしれません。多少表情が濃いというか、音間強弱がはっきりしてる方向だと言えるでしょうか。純粋なクリスタルというよりはもう少し何かが加わったような、何となくそんな気もしますが正直よく分かりません。したがって失礼ながらやり直す意味があったかどうかも何とも言えません。ストレートで薄味な表情であることに変わりはないです。ただしオーケストラはより元気があって表情もしっかりしているように思います。

 第二楽章も少しだけ表情が濃くなったかな、わずかに間合いに変化が増え、速いところと遅いところに若干差が出て来たかなという感じです。他の人と比べるならば表現の基本は同じと言いたくなります。演奏時間を見ると旧盤は8分01秒、新盤は7分46秒ということで、客観的には新しい方が速くなっています。でもオーケストラ部分での違いかもしれません。

 1992年、これも DG の録音で、デジタルになったからこちらの方が良いということは特にありません。比べればオーケストラは若干きつめかもしれません。DG らしい音だと思います。ピアノはより深みが増して低い方寄りのバランスになっているでしょうか。



   michelangeliemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Arturo Benedetti Michelangeli (pf)
      Carlo Maria Giulini   Wiener Symphoniker

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
カルロ・マリア・ジュリーニ / ウィーン交響楽団
 ツィメルマン同様に完璧主義者で有名だったミケランジェリ。弾き方に関しても上部雑音が全く出ない等々、伝説的な言われ方をするし、昔来日したときは日本の文壇の人がこぞって文学的表現で褒めたという逸話も伝わっています。コンサートのキャンセル魔であるなど奇行でも有名だったけれども、何か神話・伝説を作り出すようなオーラを持つ、才能ある大物であったことは間違いありません。録音嫌いだったということも後押しするでしょう。また、その凄さが分からないとピアノ関係者としては失格みたいな雰囲気も存在しているようです。口の悪いことで有名なチェリビダッケも褒めました。1920年生まれのイタリアのピアニストで、95年に亡くなっています。「皇帝」の録音は複数あります。ライヴばかりだけど、1957年のヴァーツラフ・スメターチェク/プラハ交響楽団(モノラル)、59年のマッシモ・フレッチャ/ローマ RAI 響とのもの、65年のイントリッヒ・ローハン/読売日本響(モノラル)、69年のチェリビダッケ/スウェーデン放響盤(モノラル)、70年のマルティノン/フランス国立放管(ステレオ)、74年のまたチェリビダッケ/フランス国立放管(ステレオ)などに加え、以前から定番だったこのジュリーニとの79年の DG 盤があります(他に映像もあります)。

 ライヴなので拍手があります。ジュリーニだから非常に遅い設定ということはないですが、オーケストラはやはり落ち着いた運びかもしれません。ピアノが出て来るとやたらと速いという印象になります。この出だしの弾き方は一部で人気のある様子のチェリビダッケとの69年、同じくチェリビダッケ/フランス国立放管との74年の録音でも同じです。バランス的にピアノは多少おとなしいところがあるにせよ、艶のある音を聞かせます。

 第二楽章に入ると、オーケストラはやはり遅過ぎたりはしない運びで、しかしピアノの方は今度は途中からかなり遅く進行するようになります。独特の、無機質なとも言いたくなるぐらい平板なところのある運びで、ためて遅らせる間を使って強いタッチで強調する手法は多く聞かれるものの、揺らし走りはありません。その分音色は大変きれいです。一音ずつが独立したような強くてピンとした音の響かせ方であり、磨き抜かれた音と言ってもいいでしょう。そしてスタッカートも出すけれども、細かな強弱変化や延び縮みの波はないのがこの人のゆっくりのパートでの特徴な気がするわけです。恐らく、流れの上での抑揚表現を通して感情を乗せるということには興味がないのだと思います。ひたすら美しい音、完璧なタッチを追求して組み立てており、音の間、テンポ、強弱はそのために用いられているという感じです(したがって弱音で表現されることが多い部分でも強めの音が目立ちます。フランス国立放管盤ではそれがより分かるでしょうか)。この人は歌ではなく、音を聞かせたいのではないでしょうか。第三楽章は飛ばすという感じではなく、かなり力強いタッチです。

 1979年ドイツ・グラモフォンのステレオ録音はピアノの音は少しこもり気味、オーケストラは強い音で一部わずかにつぶれ気味だけれどもライヴなので致し方ありません。他の録音も似たり寄ったりです。スタジオ・セッションとしては珍しくラヴェルの協奏曲などがそうだけど、「皇帝」もやってくれてたらよかったと思います。磨かれた音の完璧演奏を目指していたピアニストなのできれいな録音こそが相応しい気がするのに、そういうのがあると反対にコンサートの意味がなくなってしまうのでしょうか。チェリビダッケの録音嫌いは演奏の一回性とか録音技術の不完全性とかの問題だったようだけど、ミケランジェリのこだわりポイントはどこだったのでしょう。



   arraudavisemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Claudio Arrau (pf)
      Colin Davis   Staatskapelle Dresden

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クラウディオ・アラウ(ピアノ)
コリン・デイヴィス / ドレンスデン・シュターツカペレ


   arrauhaitinkemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Claudio Arrau (pf)
      Bernard Haitink   Amsterdam Concertgebouw Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クラウディオ・アラウ(ピアノ)
ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

 アラウもドイツものの権威と言えるピアニストです。1903年のチリ生まれでアメリカで活躍した人だけど、ドイツへ留学して以来ドイツ音楽を得意としていました。91年に亡くなっています。念を押すぐらいにしっかりとした口調の堂々とした演奏に特徴があると思います。得意とするということでベートーヴェンの「皇帝」も何度か録音しており、1957年のクレンペラー/フィルハーモニア管盤(モノラル)、翌58年のアルチェロ・ガッリエラ/フィルハーモニア管盤(ステレオ)、60年のモントゥー/ボストン響盤(モノラル)、64年のハイティンク/コンセルトヘボウ管によるフィリップス盤(ステレオ/写真下)、そしてすぐに以下で取り上げる84年のコリン・デイヴィス/ドレンスデン・シュターツカペレ盤(同じくフィリップス/写真上)などがあります。

 八十一歳のときの演奏です。代表盤でしょう。ピアノはわずかに揺れ、語尾の延ばしを加えた堂々としたテンポで始まり、オーソドックスで安心できます。一音を大事にした、ややゆったりした指の運びによって迷いのない感じがします。いわゆるベートーヴェンらしい、しっかりと構築された威風堂々の「皇帝」ではないでしょうか。どこにも急ぐようなところがありません。どの音も確実です。弱める音にも落ち着きが感じられます。普段から癖のない演奏をするイギリス人のデイヴィスもしっかりと合わせていて力強いです。

 第二楽章もゆったりと、確実に音符を音にして行きます。でも弱音はしっかり使い、ミケランジェリのように本来弱い音でもある程度強く叩くという意味での確実な音というのとは違います。表現としての音間はもちろん均等ではないけど、殊更前後への揺らしなどは使いません。前の楽章同様堂々として丁寧な、音のボリュームではなくて醸し出す雰囲気がしっかり強そうな緩徐楽章です。確実な感じがするので何人も異議をさし挟めないでしょう。第三楽章に入っても波長は同じで、ため、つまり間を儲ける音の遅らせは駆使しながら、悠然と確実に進めて行きます。

 1984年のフィリップスのデジタル録音です。バランスが良いです。このレーベルらしいホールトーンの生っぽさもあります。

 順序が逆になりますが、1964年アナログ録音の旧フィリップス盤、ハイティンク/コンセルトヘボウ管の方(写真下)も比較の意味で取り上げてみます。アラウ六十一歳のときの演奏です。

 音はこちらの方が、特にオーケストラのバランスに関してはより自然な気がします。60年のカサドシュ盤はそんなでもなかったけど、同じ60年代でもこちらに関してはもうすでにフィリップスの美点が出てると思います。ピアノの弾き方は比べればまだ若さが感じられ、表現の傾向としては同じでも、堂々とし過ぎないので個人的にはこの方が好みです。走るパッセージも出るし覇気もあり、動きに軽さが感じられるのです。ピアノの音は少し残響によってもやっとするところがないでもないですが、ダンパーペダルかホールトーンか、その両方でしょうか。ハイティンクのオーケストラの表現も自然で良いです。テンポも遅過ぎず、第一楽章で20分36秒です。新盤の方は20分55秒でした。

 第二楽章はより弱音が駆使されている感じで、ピアノは少し遠くてオフだけど、こちらの方が繊細さがあると思います。テンポがゆったりでしっかりした運びという印象はこのときからすでにあるものの、威厳のある先生のようなアラウの雰囲気がより出ているのは新盤の方だと言えるでしょう。個人的にはやはりこの楽章もこちらの方が好みでした。遊びはないけれども好感が持てる演奏です。ピアノの音が大変美しいです。



   perahiaemperor   beethovenlempereur
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Murray Perahia (pf)
      Bernard Haitink    Royal Concertgebouw Orchestra ♥♥


ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
マレイ・ペライア(ピアノ)
♥♥
ベルナルト・ハイティンク / ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
 ペライアはユダヤ系アメリカ人でも戦後の1947年のニューヨーク生まれ。ゼルキンとホルショフスキに学び、ホロヴィッツに影響を受けたと語ります。リズム強弱が流れるように自在で弱音が美しく、内省的で少し湿り気のある繊細な歌を聞かせるピアニストです。モーツァルトやベートーヴェンの協奏曲、バッハで高い評価を得ました。

 第一楽章からですが、しなやかで洗練されたペライアのピアノが大変魅力的です。この人らしく淀みなく滑らかで、音間の変化と強弱が繊細についており、こういう速い楽章でも羽のように軽くてデリケートなタッチで運びます。生き物のように呼吸していて、オーケストラの各楽器もその抑揚に応えるかのようです。一緒にやっていると同じ空気を吸うのでしょうか。力一杯のベートーヴェンとは異なる味わいがあります。絢爛豪華な「皇帝」に疲れ、息がつける美しさがほしいのならこのペライア盤はどうでしょう。写真右はロベール・ドワヌーが朽ちた車で遊ぶ子供たちを写したフランス盤のジャケットです。ペライアはユダヤ人ながら、流れる抑揚はちょっとフランス的かもしれません。

 静かな第二楽章の運びも魅力的です。バッハなどの短調の曲では憂いの貴公子と呼びたくなるような独特の湿り気があり、たゆたう旋律の中に物悲しさを投影するペライアですが、長調のせいかここでは悲哀を感じさせず、しなやかさのみが生きている印象です。この緩徐楽章こそこの人の持ち味が最も出るかと思ったわけだけど、むしろあまり細かな表情は加えず、ペライアにしては比較的真っ直ぐに歌って行きます。現象的に言うなら、テンポがゆったりめで音間が多少均等割りに寄っているからでしょうか。もっとため息をつくようにロマンティックな思いを込め、揺れる心を現すのを期待しているなら肩透かしかもしれません。さすがにベートーヴェンでは俯いたセンチメンタルには陥らないようにしているのでしょう。ピアノの音も落ち着いています。第三楽章に入ると素早く、細かな呼吸はあるけど結構勢い良く運びます。でもやはり力で押し切るようにならないのはこの人らしいかもしれません。今回は速いパートの方に細やかさが出ていると言えるでしょう。ハイティンクのオーケストラは力強さも十分味わえ、理想的です。

 1986年のコロンビアの録音です。DG のように硬めにならず、フィリップスよりは明るめに響くバランスで、良好な録音です。ピアノも金属的なところはないけれども自然な艶があるきれいな音です。ベートーヴェンの協奏曲は全集で出ています。



   ashkenazyemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Vladimir Ashkenazy (pf)
      The Cleveland Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ウラディーミル・アシュケナージ(ピアノ)

クリーヴランド管弦楽団
 1955年のショパン・コンクールで二位になり、それを不服としたミケランジェリが審査員を降板するというハプニングで有名になったソ連出身のピアニストであるアシュケナージ。生まれは1937年で、63年に亡命、現在スイス在住で世界的に活躍しているユダヤ系アイスランド人ということになります。折り紙つきの技巧で丁寧繊細な印象があり、基本的にはスタンダードでシックな美しさを感じさせるかと思えば、曲によっては模索したのか、思い切った表現に出る場合もまれにはある人です。ラフマニノフの2番の協奏曲の63年録音なんて、落ち着いた品があって見事としか言いようがありません。「皇帝」は代表的なものはメータ/ウィーン・フィルとの1983年のデッカ盤と、ここで取り上げる87年の同じくデッカながら、自身が指揮をするクリーヴランド管との新盤があります。

 その新盤である弾き振りの方(ジャケット写真)ですが、第一楽章からです。表現はやはりオーソドックスだと思います。欠点を見出すのは難しいです。ピアノの高音がそれまでの彼のデッカ録音でよく聞かれたようなバランスの、金属的で輝かしい、もしくは少し薄っぺらく聞こえるものから変化し、ピンと張りながらもメタリックではなくなっています。元来こういうきれいな音だと思いますが、ハイをはっきりさせ過ぎると薄くなってしまいがちなのでしょう。調律の好みとしてそうなりやすいセッティングだったのかもしれませんが。

 第二楽章は最初のオーケストラが結構あっさり目のテンポで始まるものの、途中からは中庸の速度となってよく歌うようになります。ピアノは軽くためを使いながら結構繊細に、弱音ベースに弾きます。表情は豊かだけど性質はあっさりで、素直な感性を感じさせるものであり、したがって変わった動きや強弱を付けることはないと言えるでしょう。一定間隔の拍で行くところに加えて遅らせる方向の間と強調も使いながら、自然に、心地良く歌って行きます。第三楽章は結構強く、一音ごとに強調を入れる瞬間もあるけれども、やはり変わったことをする印象ではありません。

 比較の意味で83年のメータとの録音についても述べますと、まずピアノの高音がより薄く聞こえます。この頃のデッカの他の録音もこのアシュケナージに限ってはこういうのが多いように思います。表現は同じくオーソドックスなもので、少しだけ速度が違う箇所もあるけれどもほぼ似た印象です。第二楽章は中庸の速度で素直に歌わせて入り、弱音の繊細さを感じさせるのは新盤と一緒です。表情の付け方も性質もほぼ同じでしょう。違うとすればもう少しさらっとしていて弱音寄りかどうかというぐらいの違いです。第三楽章は慌てず力強く、フォルテの音の倍音がこの人らしく明るく軽く聞こえます。薄いとも言いましたが、個人的には少し濁り気味な印象を持つので、ラフマニノフ(新録音)などでもいい演奏なのにそこがどうもな、という瞬間がありました。デッカでだけの問題のようです。

 話を87年の新盤に戻して、録音の性質についてはすでに触れました。良い音だと思います。演奏もこれを選んでおいて間違いのない「皇帝」であり、完成度の高いものだと思います。



   zachariasemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Christian Zacharias (pf)
      Hans Vonk   Staatskapelle Dresden

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クリスティアン・ツァハリアス(ピアノ)
ハンス・フォンク / シュターツカペレ・ドレスデン
 クリスティアン・ツァハリアスは大変好みのピアニストです。何かのコンクールで鳴り物入りで登場して来たというわけではないけど、大変自覚的で頭の良い、見事に変化のある表情で弾くし、しかもやり過ぎない洗練されたところがあります。リズム感というか、テンポ変化の間合いにおいても生来の歌の感覚を持っている人だと思います。速い技巧ではなく、表現の技巧に長けたピアニストとして他を圧倒するのではないでしょうか。1950年のインド生まれのドイツ人です。ペルルミュテールに師事しました。その師自体は粋に崩す派ではなかったものの、フランスで学んだ個性を感じさせるドイツ系と言ったらよいでしょうか。ショパンの1番のコンチェルトなど、大変美しい演奏を聞かせます。

 結構速い印象の第一楽章で、輝かしいです。「皇帝」に相応しいようにやっているのだと思います。ただ、このピアニストらしい個性はこの出だしではあまり感じません。間の取り方、歌わせ方に独特のセンスを持っている人だけに、期待のし過ぎでしょうか。上のアシュケナージと比べてもどちらが好きとかもないです。この楽章自体はよほど変わったことをしない限り大きな差は出ないのかもしれませんが。弱音で遅くするところで少し揺らしが聞けるとは言えるかもしれません。

 第二楽章のオーケストラはあっさり目の運びで入ります。少し速めということです。この時点で表情過多を避けているので、ショパンのときのようには歌わないのかなと思わせます。弱音で、少し前へ急ぐかのようにさらっと、多少の揺れを加えて流して行きます。テンポの延び縮みによって単調さは避けられている印象ながら、爽やかに軽やかに行っており、個人的にはもう少し濃厚に歌ってもと思わなくもありません。拍が前へ少しだけ倒れるからでしょうか。強弱変化は大変繊細です。古楽の人とは違う表現ながら、同じような精神によってロマンティックになり過ぎないように意図して設計しているのだと思います。第三楽章も軽やかに、強弱の変化をつけながらリズミカルに進めます。連続音に変化と繊細さがあり、流れが気持ち良いもので、男性的な力づくでは決してありません。ここは大変良いと思いました。

 1988年録音の EMI です。残響はほどほどあります。バランス的には輝かし過ぎもせず、ホールトーンを生かして生っぽくおとなしくするような方向でもない中庸です。ピアノは音場的にはさほど前へ出ることもなく、明快だけど硬過ぎるわけでもありません。少し倍音が薄目というか、明るめでしょうか。



   zimermanbernsteinemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Krystian Zimerman (pf)
      Leonard Bernstein   Vienna Philharmonic

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クリスティアン・ツィメルマン(ピアノ)

レナード・バーンスタイン / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


   zimermanrattleemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Krystian Zimerman (pf)
      Simon Rattle   London Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クリスティアン・ツィメルマン(ピアノ)
サイモン・ラトル / ロンドン交響楽団

 完全主義者で録音を連発しないことで知られるポーランドの技巧派ツィメルマン(ツィマーマン)。日本でも大変人気のあるこの人は1956年生まれで、75年のショパン・コンクールの覇者(十八歳時)です。磨かれた美しい音色はミケランジェリとも比較できるかもしれません。「皇帝」については2020年になって新しい録音を敢行しており(六十四歳時)、移籍後のラトル/ロンドン響とのものという注目の顔合わせながら、コロナ禍真っただ中の収録のため楽団員の距離を離して録音しており、演奏は良いとしても多少響きに不自然さが感じられるところがあります。したがってここでは三十三歳時の1989年盤の方を代表盤として挙げます。もちろん新録音の音場については聞いてそれほどおかしなものでもありませんので、気にならない方にとってはそちらの方が良いかもしれません。

 では89年盤
(写真上)についてです。上手いピアノと言えばツィマーマンということで、ここでも誰が聞いても上手いとしか言いようがありません。第一楽章は走りもせず遅くもなく、粒の揃ったきれいな音で一音ずつ明晰に、文句のつけられない運びです。ダイナミックであり、どのパッセージも透明度が高いです。付ける表情としてのディナーミク/アゴーギクもともに完璧で、セパレーションがいいというのか、てきぱきはきはきしています。それが「上手い」という印象につながっているのでしょう。実際にそのテクニックは折り紙付きです。特徴的なのは左右の手ともにはっきりと聞き取れることで、弱音に落とすところも滴る雫のように美しく響きます。それでいて技術をひけらかすような要素は感じられず、ときに控え目な印象すらあると言ってもいいかもしれません。似たところのあるミケランジェリよりもよりそうだと言えるでしょう。したがって何色という印象はありません。でもゆっくりのパートでのポリーニの薄味というのともまたちょっと違います。あるいは、後出のポール・ルイスも、ぱっと聞くとどこにどういう歌の特徴があるという風でもないのに鮮度の高い演奏を聞かせます。そことの違いとなると感覚的な問題で、ルイスがやわらかくセンシティブな印象なのに対し、ツィマーマンは冷たく透明度の高い音で切れが良く、ダイナミックだけど余分な力が入らないという感じでしょうか。

 第二楽章もくっきりとしたピアノの音で、ややゆったり、あまり速度面での崩しがない真っ当な進行です。つまり直線的で延び縮みしない感覚で、ポツポツと丁寧に音にして行きます。遅くてもロマンティックに傾くというわけではありません。同じ協奏曲の第3番の緩徐楽章はまるで後期ロマン派の曲ようで、個人的には遅過ぎてついて行けませんでした。
元来このピアニストはどの曲であってもアダージョなどでは、抑揚は大き過ぎず感傷的にもならないながらゆっくり歌う傾向があります。ロマン派のショパンなども大変遅いです。でもこの「皇帝」はそこまでではありません。そしてミケランジェリなどのイタリアの演奏家と同様、湿らないところも良いです。もともと情緒に浸っているようでいてそうではなく、覚醒的な意識を保って弾く人なのだと思います。自意識があるというのか、思い込みが強い分こだわりも強く、妥協をせずに音色を追求しているのでしょう。スタッカートの部分もかっちりと間を取って音を独立させています。そういうところも、同じく抑揚より音色を重視するミケランジェリ同様、独特の分解的な運びとなっています。第三楽章は適度な速度で力強く歯切れるように運びます。

 ドイツ・グラモフォン1989年の録音です。DG らしいかちっとした響きながらきれいな音です。

 2020年の新盤の方についても少し触れます(写真下)。中域の反響によって少しもやっとした音に聞こえます。古い録音をリマスターしたのかと思うぐらいで、オーケストラの音が重なるフォルテでは硬くはないけど塊感があります。DG 的と言えば言えます。ピアノの表現としては旧盤同様に完璧だけど、ピアニッシモで行くところの抑揚表現がやや大きめでしょうか。
 第二楽章に入ると、最初の方はさらっと流すようなテンポに感じます。ここも抑揚はよりついているようで、少し走り気味に前倒れするパッセージも聞かせて自由な感じです。強弱差も以前よりは大きくなっているでしょうか。しかし分解的な感じはやはりします。旧録音も第二楽章が個人的には好みではなかったけれど、こちらも違う弾き方ではありながらも自然には感じ難いところがありました。この方が好きな方もおられると思います。

 前述の通り、昔のマルチマイクの手法によってミキシングで後からコントロールしているかのようだけど、同時に古いライヴ録音のような箱鳴り感もある録音だと思います。面白い試みだとは思うけれども、パンデミックのときには別の会場を結んで合奏するという試みすら行われたようで、そういうのかと勘違いするところもありました。少し強調して言えばということですが。


   schiffbeethovenpfcon
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      András Schiff (pf) ♥♥
      Bernard Haitink   Staatskapelle Dresden

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
アンドラーシュ・シフ(ピアノ)
♥♥
ベルナルト・ハイティンク / ドレスデン・シュターツカペレ
 バッハの主な鍵盤曲のほとんどと、ベートーヴェンのソナタ、特に晩年の作品群においては他を引き離して魅力的だったシフ。知的なアプローチであるとされることがあるように、情緒に流されはしないけど天性のリズム感と歌をもって表現し、近頃は独自の見解も示して幾分古楽寄りな解釈も見せるようになりました。面白いのは有名コンペティションの覇者ではないことだけど、数々の賞も獲得し、押しも押されもせぬ大物となって「あのシフが」、などと引用されることもあります。1953年ブダペスト生まれのハンガリーのピアニストで、現在はイギリス人です。ただし「皇帝」は今は亡きハイティンク/ドレスデン・シュターツカペレとの1996年の録音です。2000年代に入って ECM に一連の名録音を残す前ということになります。協奏曲の全てと「熱情」ソナタの入った3枚組、4番と5番の一枚ものが出ています。

 オーケストラ、ピアノ共に出だしから見事です。生まれたての情感というか、明るい高揚感があってきっぱりとしており、ピアノは細やかで明瞭なタッチでクリスプネスを感じさせます。各フレーズが浮き出るように短い幅で山を作ることで表情にうねりを持たせ、瞬間的なためも利かせます。しかし恣意的な表現のないオーソドックスなものであり、堂々としています。録音もまた良く、爽やかに分解されたしなやかなオーケストラは幾分室内楽的な明澄さがあり、粒立ちの良い美音のピアノが楽しめます。「皇帝」の理想的な第一楽章です。あるいは一番かもしれません。

 第二楽章は中庸のテンポで始まり、静か過ぎないけど爽やかです。ピアノが入って来ると、少しあっさりとした運びではあります。細やかな表情はあるけど、静かで叙情的な、滑らかな美を現すというよりは、より覚醒して明澄な、意識の高い感じがします。個人的には甘美さや瞑想的な運びも期待するところながら、一般的な情緒表現よりもより短い幅の中で抑揚がついている感じです。古楽的というわけでもないけれども、また違った非ロマン的な美しさです。最初小さな音で流すようにして聞いたときにはあまり注意が行かず、魅力に気づかず素通りだったのですが、個性的な美があります。第三楽章は浮き沈みのあるアクセントでリズムを付けて弾くところが、これもまた個性的です。ハイティンクのオーケストラも意外にリズムが弾む感じでぴったり合っています。

 録音のコンディションが大変良いことはすでに触れましたが、テルデックの1996年録音です。    



   immerseelemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Jos van Immerseel (fp)
      Bruno Weil   Tafelmusik Baroque Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ヨス・ファン・インマゼール(フォルテピアノ)
ブルーノ・ヴァイル / ターフェルムジーク・バロック・オーケストラ
 バロック・ヴァイオリンの弦の響きが聞きたい、当時のフォルテピアノで聞きたいというのであれば、一つはインマゼールの盤かなと思います。例によって途中で止まりかけるような独特の古楽のアクセントは確かにあります。でもこの人の演奏は他のフォルテピアノの演奏家よりも癖は少ないかもしれません。素直で聞きやすい一面もあるのです。少なくともモーツァルトの協奏曲で多くのフォルテピアノ奏者が施すような延び縮みまでは感じません。フレーム張力の低い軽くてやわらかい音のフォルテピアノは好きな人とそうでもない人とがいるでしょうが、当時はこんな音だったのだなということが分かります。ベートーヴェンという人は新しいピアノが手に入るとすぐにその限界まで使って作曲を試みてましたので、現代のピアノがあったら夢中になったかもしれませんが。製作者はヨハン・ニーポームク・トレンドリン、19世紀初頭とあるけれども、まあ、後で触れるベズイデンハウトの使用楽器よりは時代が前っぽい軽さがあるでしょうか。

 気負わない節度のある運びが清新です。第二楽章も軽くて少し速めだけど慌ただしい感じはせず、さらっと爽やかに歌っています。バックを務めるのは最近になって素晴らしいベートーヴェンの交響曲全集を出してくれたブルーノ・ヴァイルとカナダのターフェルムジーク・バロック・オーケストラです。古楽のオーケストラで、軽くて弾みます。

 1997年の録音で、レーベルはソニーです。軽い響きでコンディションは良好です。



   grimaudemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Hélène Grimaud (pf)
      Vladimir Jurowski   Staatskapelle Dresden

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
エレーヌ・グリモー(ピアノ)
ウラディーミル・ユロフスキー / シュターツカペレ・ドレスデン
 狼研究家の美女にして著述家、フランス人ながらドイツものを得意とするグリモー。すっかり名の知れた存在となりました。ユダヤ系の人のようだけど、1969年生まれです。ピアノはジャック・ルヴィエに学びました。コンクールではなく録音で有名になったとも言えるのでしょうか。東京デビューも人気だったらしく、バレンボイムとアバドには目をかけられたということです。

 少し後ろへ退いて弾みをつけたようなアクセントを所々に加え、スケールの大きさを感じさせるピアノです。ドイツ的か男性的かは分かりませんが、滑らかフレンチ流というのとは違って「皇帝」に相応しいでしょう。でも緩めることも含めて自在で細かな表情はあります。素肌というよりは少しお化粧している感じではありますが。弱音はきれいです。そしてオーケストラもブラスが前へ出たりして元気が良い印象です。

 第二楽章は、テンポは出だしで遅過ぎず、自然なものです。しっかりと弱音で始めるピアノは緩める間合いの呼吸があります。基本は真っ直ぐながら瞬間的にルバートもかけ、表情があります。強くなる部分では確かめるように、でもコントラストを付けて強く打鍵し、隈取りがしっかりしていて手弱女ぶりではありません。恣意的とかアクが強いまでは行かないとしても、大変濃いです。ピアノ部分の平均ではテンポはゆったりめになっています。流れ波打つような、というのとは反対方向の抑揚です。第三楽章も力強く弾みを付けています。聞き応えがあると思います。

 ドイツ・グラモフォンの2006年の録音です。レーベルの特徴が現れた輝かしい好録音です。ピアノはそこまで金属的にはなっていないところもあります。



   oconoremperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      John O’Conor (pf)
      Andreas Delfs   London Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ジョン・オコーナー(ピアノ)
アンドレアス・デルフス / ロンドン交響楽団
 ピアノ・ソナタの「月光」のページでそれだけ取り上げたこともある、繊細な表現に長けたアイルランドのピアニストです。1947年のダブリン生まれです。ケンプにベートーヴェンを学んでいます。ソナタ全集は評価が高いです。

 速いところでも途中で速度を緩める余裕を見せ、反対に速めるところではさっと流しまとめるように速めます。力で押し切らないのはこの人らしいです。弱音に入るとさらにその特徴は現れ、非常にデリケートに潜ります。柔軟な表情があると言えるでしょう。全体にはどこも豪速という感じはしません。録音もシックな方で、あまり輝かしい音ではありません。

 第二楽章こそオコーナーの得意とするところだと思うけど、所々で歩みと強弱を緩める表情を施し、やはりデリカシーを感じさせます。ただ、協奏曲でもあり、「月光」の出だしで「弱音の階調が無限にあるような」と表現したほどではないかもしれません。それでもグリモーよりは女性的だと言っていいでしょうか。元来性差などないし、そういう表現は差別として「ポリコレ」的にご法度ですが。流れるようというよりは少し遅めなところもあります。第三楽章に入ると強調して打鍵する部分のアクセントが強く感じます。これは意外で、力強くまとめようという意志を感じます。技巧派という範疇のピアニストではないので、速度ではなくてアクセントで益荒男ぶりを発揮するのでしょう。ちょっと引っ掛かるように感じる人もいるかと思います。

 2007年録音のテラークです。バランスは少しオフな方に寄った落ち着いたものです。



    lewisbeethovencon.jpg
     
Beethoven Piano Concerto
No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Paul Lewis (pf)
♥♥
      Jiří Bělohlávek    BBC Symphony Orchestra


ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73

ポール・ルイス(ピアノ)
♥♥
イルジー・ビエロフラーヴェク/ BBC交響楽団

 これぞという決め手に欠けてあれこれと物色するのが楽しかったベートーヴェンのピアノ協奏曲の CD も、このルイスの全集が出て以来、どうもプロジェクト完結という感覚になってしまい、「皇帝」についてもほぼこれをかけてしまっている状況が続きました。今もその傾向があります。1972年生まれのイギリスのピアニスト、ルイスは十二歳になってから自分が好きでピアノを始めたという変わった経歴の人です。デリケートで繊細な抑揚をやり過ぎない範囲で付けるその弾き方はどこをとっても瑞々しいです。切れ味良くも力みはなく、スローな部分はやさしくもセンチメンタルに傾かない、実に鮮度の高い演奏です。自然であるがゆえに
ぱっと聞くと特徴がないようにも聞こえるのですが、今生まれたばかりのように初々しく、びっくりするほど美しいです。今までにない個性だと言えるでしょう。ピアノ・ソナタ全集も同じレーベルから出ており、そちらも完成度が高いので、こういう個性が好みなら最高の録音になると思います。

 指揮者のビエロフラーヴェクは1946年チェコ生まれの人で、チェリビダッケに学び、1990年にチェコ・ フィルの、そしてこの CD 録音のときには BBC 交響楽団の主席指揮者でした。ルイスのピアノにぴったりな、柔軟でよく歌う、はったりのないバックを務めています。協奏曲で自己主張をされてもどうかと思うので、こういう実力派の人で良かったと思います。全体を通してテンポも完璧です。

 第一楽章は流れるようで無理がなく、力強くも力まずに活きいきとした、曲の造りからまさにこうあるべきという運びです。ピアノの音も自然な潤いを感じます。粒が立つようにくっきり際立たせた美音というよりも、もっとナチュラルな美しさです。

  第二楽章は遅過ぎず、十分にしなやかな管弦楽で始まります。ピアノも力が抜けつつ適度なルバート、間を取った拍で素直に歌って行きます。初々しいです。ディナーミク/アゴーギク両面での表情が大きいわけではなく、音間均等に自然に行くところもありながら、繊細に抑揚が付いています。
嫌味のないこの表情の豊かさは、聞き逃しがちなものながら最高です。ケンプほどの歌というのとも違うけど、洗練されたセンスの良さでは一番かもしれません。第三楽章はデリケートで静かな導入に続き、丁度良い力強さの展開です。これだけあれば良いでしょう。

 2009/10年(全集)のハルモニア・ムンディ(HMF)の録音がまたこのピアニストの演奏にぴったりな優秀録音です。一皮むけたようなピアノの音はスタインウェイらしさが最大に出ていながら輝き過ぎず、色彩が変化します。オーケストラも分解が良いので強い音も団子になりません。残響は多少多めにある方だけど、自然なプレゼンスとホール感です。



   barnatanemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Inon Barnatan (pf) ♥♥
      Alan Gilbert   Academy of St Martin in the fields

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
イノン・バルナタン(ピアノ)
♥♥
アラン・ギルバート / アカデミー室内管弦楽団
 欠点のない優等生のように感じさせる若手のピアニストも各レーベル専属で何人も出て来る中、この人は天性の感覚を持っているのではと思いました。「皇帝」は古くはケンプ盤、ブレンデル盤やシフ盤も良かったけれども、2021年のショパン・コンペティションの覇者、ブルース・リウのライヴ(CD では出ていません)なんかを除けば、新しい方ではポール・ルイスと並んでこの人がベストかもとも思えました。イノン・バルナタンというイスラエルのピアニストです。
1979年のテルアビブ生まれで国籍はイスラエルとアメリカの両方。ニューヨーク在住です。歌心を持っていると感じるけれども、アラン・プラネス同様現代物も多く取り上げるようです。三十八歳時の演奏です。

 オーソドックスな入りです。ピアノは適度なやわらかさを感じさせて表情があり、まずは過不足のない正統派という印象です。そして最近のピアニストの中では柔軟で細やかな抑揚を付ける方であり、技術押しな感じがせず、自然な呼吸があって美しいです。あくはないにしても大変良いと思いました。揺らしの感覚と共に弱音の使い方も繊細で、弱めるのとそれ以外の音とのコントラストも自然で浮き上がるように付けています。

 第二楽章は遅過ぎはしないけれども速くもない自然な導入のオーケストラです。リタルダンドがしっかり効いており、ピアノは音の強さに表情があって、この楽章こそ大変素晴らしいです。流れるようでいながら細かな階調が感じられて何とも美しいのです。延び縮みの方も自然にあります。弱音がまたことさら繊細です。自分の中に歌を持っている点で一流だと思います。次に第三楽章に移るときもコントラストがあります。そしてそこでも弱音に緊張感があり、生の息吹を感じます。アレグロのリズム感も申し分ないです。

 ペンタトーンと専属契約しているのでしょうか。2017年の録音です。音も文句なしです。人数が多くないせいもあるでしょう、オーケストラは固まってやかましくならず、弦が繊細です。アカデミー室内管と言えば昔のマリナーとのフィリップス録音も生っぽくて良かったけど、それよりもハイが出ているバランスであり、ピアノも自然な艶があって大変きれいです。



   bezuidenhoutemperor
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Kristian Bezuidenhout (fp)
      Pablo Heras-Casado   Freiburger Barockorchester

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
クリスティアン・ベズイデンハウト(フォルテピアノ)

パブロ・エラス=カサド / フライブルク・バロック・オーケストラ
 インマゼールに続いて古楽系の演奏を取り上げます。クリスティアン・ベズイデンハウト(ベザイデンハウト/ベズイデンホウト)は1979年南アフリカ生まれのオーストラリアのピアニストです。マルコム・ビルソンにフォルテピアノを習いました。ブルージュ・フォルテピアノ・コンペティションで優勝した後は多くの有名古楽楽団でキーボード奏者を務めたという経歴です。ロンドン在住です。こうしたピアノフォルテによる古楽的なアプローチでの「皇帝」としては、他にも現在手に入るものとして1997年ソニーの前述インマゼール盤、2004年アルファのスホーンデルヴルト盤、09年 BIS のブラウティハム盤などがあります。この後でも18年エラートによるニコラ・アンゲリッシュ盤もあります。ブラウティハムについては、もっと前(’96-’97)のモーツァルトのピアノ・ソナタがフォルテピアノ演奏としては大変素直で情感があり、同曲集のベスト・パフォーマンスだと思って愛聴しています。この「皇帝」でも抑揚において最も古楽の癖が少ないのはブラウティハムかもしれないけれども、第二楽章でのピリオド奏法的なあり方、軽くあっさりの度合いがより顕著(速くて全体のタイムも短い)なことと、使用ピアノの音の好みでここでは HMF のベズイデンハウト盤の方を取り上げました。古典派以降でのピリオド奏法解釈(特にピアノ)については個人的にはあまり信仰心に厚くないところもあり、何より抑揚においてその奏法の理念解釈に寄る分だけ全体の表現の幅は差し引き狭まるわけで、それぞれ個性的なのでしょうけど結局皆同じように聞こえがちです。そしてそういうことを加味してもなお、このベズイデンハウト盤には個性的な魅力と感じられる爽やかさ、味わいとしてのアクセントがあると言えます。

 第一楽章からですが、オーケストラはアクセントを施した歯切れのよいもので、小気味よく爆ぜるティンパニも聞こえ、はきはきとしていてやはりピリオド奏法の楽団という感じです。ピアノが出て来ると、これもピンと張った糸のような独特のフォルテピアノの音ではあるものの、モーツァルトの協奏曲などでよく聞かれるような弱さはあまり感じません。きれいな音色です。弾き方としてはやはり弾むようにスタッカート気味に聞こえるところはあるし、延び縮みや間はしっかりとつける表現です。でも一時期のピリオド奏法の、躓いてから倒れないように走る落ち着きのない癖はほとんど感じませんでした。ネガティブな部分は何もありません。

 第二楽章も古楽らしくやや速めのテンポ設定ながら、他の古楽演奏よりはさらさらし過ぎません。爽やか路線の味として魅力的に感じさせる範囲です。弦の強弱はくっきりとしており、ピアノに関しても前のめりではないけれども少しあっさりと弾く感じはして、ピリオド奏法なのは間違いありません。軽く走り気味に指を回すところもあります。でも速度の伸縮においてねじれるような感じはなく、モダン・ピアノで弾いていたらそのピアニストの個性と言える範囲でしょう。古楽としては濃い目の歌があって美しいです。夢見るようではなく、目覚めていながらも少し儚い軽さを感じさせるような、独特の壊れもの的繊細さがあるとも言えるでしょう。第三楽章も、速さはあってもその中に一瞬立ち止まりかける古楽のアクセントを施し、心地良く進んで行きます。

 2017年録音のハルモニハ・ムンディ(HMF)です。艶と明るさがありながら自然なプレゼンスの優秀録音です。使用楽器ですが、1824年のコンラート・グラーフ(オーストリア系ドイツ人のピアノ製作家で、ベートーヴェンも使いました)のレプリカで、ロドニー・レジエによる1989年製とのことです。ベートーヴェンの晩年の時代の音ということになります。



   korstickpfcon
      Beethoven Piano Concerto No.5 in E-flat major op.73 “Emperor”
      Michael Korstick (pf)
      Constantin Trinks   ORF Vienna Radio Symphony Orchestra

ベートーヴェン / ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 op.73
ミヒャエル・コルスティック(ピアノ)

コンスタンティン・トリンクス / ウィーン放送交響楽団
 ブラームスの2番の協奏曲が大変素晴らしかったコルスティック。これはその二年前の録音です。ミヒャエル・コルスティックはドイツのピアニストで1955年生まれ。タチアナ・ニコラーエワに師事し、二十歳のときにベートーヴェンの後期ソナタを弾いてデビューしました。その後はジュリアードで学んでいますが、そのときもロシア出身の先生です。ベートーヴェンを得意としており(2012年にソナタ全集を完成)、評価も高いです。  

 大変速い出だしで壮麗な「皇帝」です。技巧派と呼ばれるピアニストたちのように勢いで攻めるベートーヴェンかと思いました。前へ前へと駆り立てます。必ずしもロシアン・スクールのマナーというわけでもないのでしょうが、ベートーヴェンはこういう風な解釈なのだと思います。そのピアノはしかし緩めるところでは間をとってコントラストを付け、ただ勢いで押し切るのとは違います。音色も芯のあるしっかりしたものです。オーケストラも活きのいい運びです。ピツィカートが目立つところもあり、全体にこの楽章はオーケストラ、ピアノ共に元気一杯、エネルギッシュです。でも押し付けられる圧迫感はなく、波長としては肯定的で楽しげです。多くの人が求める壮麗な「皇帝」としてはこういうのこそが相応しいでしょう。

 第二楽章は一転して落ち着いています。ピリオド奏法系のように速めにやるという決め事もないわけです。ピアノはアゴーギク、ディナーミク共に豊かな表情を見せます。このピアニストの特徴と言えます。弱音と強めとの対比を出し、一連のフレーズ後半でふわっと弱くして陰らせるデリケートな息遣いも見せます。ある程度覚醒した感覚はあり、もの思いにふけるとか夢見がちという方向ではないけれども、適切な気持ちの良い歌をうたって進んで行きます。粒立ちの良いピアノの音が弱音でもきりっとさせています。後半は一音ずつをくっきりさせながらの確実な進行です。第三楽章はまた勢いが良いです。個人的にはブラームの協奏曲ほどの驚きはなかったですが、レパートリーの中核を成す偉大なベートーヴェンともなれば、ロマン的に思い切って歌わせればやり過ぎになるし、華麗な楽章では真面目に力も入りがちになると思います。正攻法です。大変完成度が高く、ニュアンスの豊かさも感じさせる「皇帝」だと思います。

 ドイツのレーベル、cpo からのリリースで2021年の録音はコンディションも良く、輝かしい演奏を支えています。




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